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綾部、月見町ぞめき その一

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              昭和29年発行「綾部産業と観光」より:綾部市図書館所蔵

京都府で遊廓の歴史を持たない花街として峰山、亀岡、宇治を見てきました。その花街史を調べて行く過程で当然その土地の市史、町史を紐解くわけですが、上記の三箇所とも花街の記述が全くありません。今回の綾部も以前より調べましたものの、綾部にあった月見町の芸者町に触れている文章に出会うことはありませんでした。

花街・遊廓関連のブログ諸氏も、花街のみの峰山、亀岡、宇治、綾部の芸者町に触れているものは殆どないのが実情です。

現在の綾部、月見町の佇まいは、多くの建物が失われたものの、花街の風情をよく残しており、数年前、京都の祇園、宮川町、先斗町、上七軒、島原の花街や花街跡のように、道路を石畳にしました。

そのお披露目のセレモニーで市長が“百年の歴史をもつ月見町”と紹介されたとの事・・・百年の花街の歴史をもつなら、明治の後期、セレモニーから百年なら明治末〜大正元年ごろが月見町花街の開設になります。

大正四年出版の『京都府市下』の「貸座敷及芸娼妓現在遊廓並其消費金額調」に綾部の欄があり、芸妓数16で貸座敷数、娼数、遊廓数、消費金額に数字は入っておりませんでした。

1960(昭和35)年『あやべ商工名鑑』綾部商工会議所発行によりますと当時の月見町に

貸席お茶屋旅館  ?あら木 社長  荒木さと
貸席 お茶屋   松葉   代表者 西村千代
 〃        出雲    〃  山口紀代子
 〃        三田屋   〃  高沢日吉郎
 〃        逢初    〃  大槻のゑ
 〃        大光楼   〃  大江佐太
 〃        三松    〃  山中一男
 〃        三芳    〃  柴田みさお
 
さらに飲食関係として月見町に料理屋として吟月が載ります。お茶屋の仕出しをされていたものと思います。

昭和三十年の『全国花街連盟活動記録』の全国の花街所在地は不完全な調査ですが、京都の花街所在地として、祇園、東新地、宮川町、先斗町、上七軒、島原、中書島、福知山、宮津、舞鶴、峰山、亀岡、綾部と綾部が花街所在地と認知されています。

さて1975(昭和五十年)版の『綾部商工年鑑』に、お茶屋の三芳、あら木、松葉、逢初、いづも、三田屋が健在、料理屋の吟月の名が消え、飲食に山里、料理・寿司に現在も営業中の船半さんがあります。

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           花街跡にお似合いのイベントです。要項はこちら http://www.ayabeyeg.net/


by gionchoubu | 2016-01-31 11:19 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

白拍子 前編

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白拍子の舞妓(ブギ)は本来名門の出で、王候貴人に招かれ歌舞を為したものです。現在京都五花街の芸妓が時代祭りに輪番にて静御前を勤めており、その当時の白拍子の風を伝えております。

芸妓を遡れば白拍子に行き着くといいます。白拍子に関しては遊里史、遊廓史、花街史に必ずといって程その記述をみます。しかしその説明にも分かりにくいいのも事実で、私自身も正直よく彼女達の実態を理解できていません。

色々書かれているなかでも、『猥褻風俗辞典』で宮武外骨がよく白拍子をまとめてくれています。曰く、

「平安朝時代の永久(1113~18)年間に起こりし舞妓の名称にて、その舞妓は売淫を兼業とせし者なり。この白拍子といえるは、釈信西(藤原通憲)の創意作曲にて、これを舞妓磯の禅師に教えて舞わしめ、磯の禅師、これを島の千歳、和歌の前に伝えしなり。祇王、祇女、仏、静、千寿、亀菊などはみな亜流にてその名高く聞こゆ。白拍子の称は、立烏帽子に白の水干(すいかん)を着せしゆえの名なりとする説と、ほかに合わせるものなくて舞う素(しら)拍子の義ならんとの説あり。」

この磯の禅師の下りは、吉田兼好が『徒然草』の第二百二十五段に「多の久資が申しけるは、通憲入道、舞の手の中に興あることどもを擇(えら)びて、磯の禅師といひける女に教へて舞わせけり。白き水干に鞘巻をさゝせ、烏帽子を引き入れたりければ男舞とぞいひける。これ白拍子の根源なり。」あります。

もう一つ武田完二著『趣味史談遊女の時代色』にはこれより先、和歌ノ前(若御前)が琴と歌舞の名人で、鳥羽院のお召しを受けて、男装で舞ったのが白拍子の起源としています。ほぼ同時代ですので、どちらが先かは詮索しなくても良い様な気がします。

『日本遊里史』で上村行彰は、鳥羽帝の時代公家の男が眉を剃り、お歯黒をして、白粉を塗り、紅までつける風が流行り、武士までこれを真似るという風俗まで現れたことを述べています。白拍子は言うなればこれと逆、一種の倒錯の世界が上流階級におこった事を仄めかしています。

日本遊里史の五年後に出版された『趣味史談遊女の時代色』には明らかに上村行彰の上記の観察を少し言葉を変えて引用した部分があり、さらにそこから白拍子が職業遊女になった過程をとても分かり易い言葉で提示してくれています。

“男舞の舞姫は、初期の和歌の前を初めとして名門の子女であった。彼女等は、芸の志妙を誇って高貴の人々にお目にかけたが、エロを売らうなどゝ卑賤なことは考えなかった。しかし男舞の流行は、自然男共をエロティックに興奮させて、「何とかならぬものか」と思はせた。要求ある処、新たな途が開ける。男舞が次第に職業化するに従って、つい誘惑に打勝てない女も続出したらうし、それを目当てに代償を得んとするあさましいのも殖えた。かうして、男舞の舞姫は、漸次に所謂「遊女」と化して行った。”


by gionchoubu | 2016-01-29 12:40 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

京都府の花街・・・大正二年

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   木津町に芸妓が入ったのは本町辺りと思われます。(画像は江戸時代より続く料亭、川喜さん)

大正四年の『京都府誌下』に当時の京都府の総ての地域の貸座敷、芸妓数、娼妓数、さらに大正二年の遊客数、消費金額を網羅した表があります。下はそれより遊客数と消費金額を除いたものを載せています。

数字は左より貸座敷数、芸妓数そして娼妓数です。

上七軒   36  64      2       
五番町  128  49    469
祇園甲部 451 617    103
祇園乙部 197  91    244
宮川町  327 269    297
島 原  105  43    288
先斗町  178 221     30
七条新地 232  24   1101 
中書島   77  45    282
墨 染    5   1     18
恵比寿町  11   2     45
橋 本   20  43     42
木 津    −   8      − 
亀 岡    −  20      −
園 部    −  13      −
猪 崎   54  49    122
朝 代   46  56     68
綾 部    −  16      −
竜 宮   31  33    187
加津良   27  21     70
新 浜   41  35     56
峰 山    −  35      −
網 野    −   5      − 

墨染遊廓が大正二年の時点で存続していたこと、さらに一人の芸妓がいたことがわかります。逆に宇治の花街がこの時点でまだ立ち上がっていない事もわかります。

上の表で貸座敷が0(遊廓の歴史を待たない箇所)の内、亀岡、峰山にあった花街は以前とりあげました。また綾部の月見町の花街は現在調査中です。

以前述べた園部にはこの表によれば13人の芸妓が鑑札を受けていますが、旅館綿儀のお抱え芸妓で、お茶屋や検番の存在は確認できておらず、園部に花街があったとは考えにくいと思います。

また木津、網野にも芸妓を認めますが、やはり旅館や料亭に芸妓が入ったと思われ、この二箇所にも花街があったとは考えていません。

実は以前、大阪の古本市で八木(亀岡と園部の間の町)の芸妓写真集をガラスケース越しに見たことがあります。結構なお値段だったので手をだしませんでしたが、今考えると無理しても買っておけばよかったと後悔しております。

いずれにせよ、大正二年の時点で京都府に花街、及び芸妓がいた町は23あったことになります。

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『雲萍雑誌』に「宇治、木幡、淀、竹田あたりは、昔遊女多くありたるところなり。古き洛陽の地図に、小椋姫町といふところありて遊女町なり。そのかみは多く水辺に居たること、古書に見えたり。あさ妻舟の図などもおもひあはすべし。」画像は木津川

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文政時代奉納された絵馬に川喜さんが描かれています。


by gionchoubu | 2016-01-26 12:12 | 京都の花街・遊廓 | Comments(3)

傀儡女(くぐつめ)

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                       大江匡房(百人一首)

もともと、中国では中華思想により、人間と呼べるのは漢民族のみで、傀儡子記の文中にある北狄の俗と表現されているように、漢民族以外は獣扁がついていたりして人と見なせられていませんでした。

我々日本人も漢民族から頂いたのは倭・・・人偏がついているだけ、すこしはましな扱いとも受け取れますものの、漢民族にとっては、所詮人見たいな人でした。

傀儡(クグツ)は、本文に見える沙石、即ち幻術を使い、魚竜曼蜒、即ち魚を竜や獣にさせる不気味な能力に長けた人形使いでした。

傀儡には両方とも人偏がついており、両方人形の意味をもちます。しかし鬼という字を組みあわせているのは、当時彼ら、彼女らがどのように思われていたか如実に物語っているようです。

滝川政次郎は『遊女の歴史』や『遊行女婦・遊女・傀儡女』で傀儡は朝鮮から渡来した白丁族で、朝鮮で戸籍を持つのを拒んだ為母国を追われ、日本に移り住んでも、納税の義務を負わされる戸籍を持つことから逃れつづけた流浪の民、律令制の罪人という強い言葉で断じています。

前回の「彼等は一畝の田も耕さず、一枝の桑も採らない者で、県官の支配を受けないから、土民ではなく流浪の民だ。上に王公のあるを知らず、少しも地方の役人を怖れない。課役もないので、一生を安楽に暮らしてゐる。」がその部分で、匡房も多少突き放した表現なのは彼が政治を司る立場だったのと無関係ではないでしょう。

もう一つ藤原茂明の傀儡子の詩を掲げます。(趣味史談遊女の時代色収録)

名を傀儡と称す何方に有らん、逆旅身を寄するに思ひ遑(イトマ)あらず。
郊外居を移して空処なく。羇中色を衒い専ら房を慕う。
春雨まさに艶を貪らんとし、蘭薫秋風と粧を比べんと欲す。
緑野、草深うして邑里をなし、鏡山一月冷うして家郷を卜(ボク)す。
倡歌数曲、生計を充し、微嬖一宵、客膓を蕩かす。
其れ奈んぞ穹盧年暮るゝの後、容華変じ去って心傷ましむ。

遊女が舟で人が集まる川岸に群れたのに対し、傀儡女が選んだのは陸の街道の宿駅で旅人を捕らえました。今ではあまり聞くことがない、青墓、野上、墨俣、赤坂、鏡山、草津、今で言う愛知、岐阜、滋賀の傀儡女が当時の歌に織り込まれています。

さて、京都とクグツの関係は直接見えてこないのですが『嬉遊笑覧』にこの一節があります。

くゞつは夫ありて、おほやけならぬもの也。都にてもそのかみ『建武元年二条河原落書』に「たそかれ時になりぬれば、うかれてありく色このみ、いくそばくぞや数しらず。内裏おがみと名付けたる、人の妻鞆のうかれめは、よそのみる目も心地あし」とあるは、是又傀儡の類、今いふ地ごくなどにあたれり。

地ごくは江戸にあった最下等の遊里のことです。建仁元年は1201年鎌倉時代初期になります。


by gionchoubu | 2016-01-23 11:41 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

傀儡子記、大江匡房

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傀儡子記(かいらいしき)

傀儡子は、定まれる居なく、当(マモ)る家なし。穹盧氈帳、水草を逐ひてもて移徙す。頗る北狄の俗(ナライ)に類(ニ)たり。男は皆弓馬を使へ、狩猟をもて事と為す。或は双剣を跳らせて七丸を弄び、或は木人を舞はせて梗を闘はす。生ける人の態を能くすること、殆に魚竜曼蜒の戯に近し。沙石(幻術)を変じて金銭となし、草木を化して鳥獣と為し、能く人の目を□す。女は愁眉・啼粧・折腰歩・齲歯咲を成し、朱を施し粉を傳け、倡歌淫楽して、もて妖媚を求む。父母夫聟は誡□せず。亟行人旅客に逢ふといへども、一宵の佳会を嫌はず。徴嬖の余に、自ら千金の?の服・錦の衣、金の釵(カンザシ)・鈿の匣の具を献ずれば、これを異(ウヤマ)ひ有(ヲサ)めざるはなし。一畝の田も耕さず、一枝の桑も採まず。故に県官に属かず、皆土民に非ずして、自ら浪人に限(ヒト)し。上は王公を知らず。傍牧宰を怕れず。課役なきをもて、一生の楽と為せり。夜は百神を祭りて、鼓舞喧嘩して、もて福の助を祈れり。

東国は美濃・参川(三河)・遠江等の党を、豪貴と為す。山陽は播州、山陰は馬州等の党、これに次ぐ。西海の党は下と為せり。その名のある儡(クグツ)は、小三、日百、三千載・万歳。小君・孫君等なり。韓娥の塵を動かして、余音は梁を繞る。聞く物は纓を霑して、自ら休むこと能はず。今様・古川様・足柄・片下・催馬楽・黒鳥子・田歌・神歌・棹歌。辻歌・満固・風俗・咒師・別法等の類は、勝げて計ふべからず。即ちこれ天下の一物なり。誰か哀憐せざらむや。

以上『日本思想大系8、古代政治思想』岩波書店で、<大曽根章介 校注>を元に漢文の原文を現代訳にしたものにアレンジを加えたものです。これでも難しいので、今回は『趣味史談 遊女の時代色』武田完二著で意訳してもらうと、

くゞつには定まった家がない。テント住居をしながら水草を逐って流れ歩いて行く。その様子は頗る北狄(蒙古人)の風俗に似ている。男は皆弓馬を習ひ、狩猟を事とする。或は双剣を跳ね上げ、匕(アイクチ)を弄び、また木人(人形)を舞はし、梗(これも人形)を闘はせて、まるで生きた人間のやふにあつかふ。或は沙石を変じて金銭となし、草木を化して鳥獣となし、人目をおどろかす。女は様々のメーキャップよろしくあって、みだらな歌を歌ひ、淫楽の友として媚びを売る。親も亭主もそれを一向苦にしない。行人旅客と逢って一夜の佳会をなすことも敢て辞さない。客は可愛さの余り、千金でも与える。そこで錦?の衣装から、金のかんざし装身具の類まで、何でもかでも持たぬものはない。彼等は一畝の田も耕さず、一枝の桑も採らない者で、県官の支配を受けないから、土民ではなく流浪の民だ。上に王公のあるを知らず、少しも地方の役人を怖れない。課役もないので、一生を安楽に暮らしてゐる。夜は百神を祭り、太鼓をたゝき踊り騒いで神の助けを祈る。東国の美濃、三河、遠江などのやからが最も豪気なもので、山陽の播磨、山陰の但馬などのやからがその次、西海(九州)のやからは最下等とされてゐる。名高いくゞつ(あそびめ)には、小三、百三、千歳、萬歳、小君、孫君などがある。何れも歌舞に妙を得て音声いとも美しく、聞く者感に堪えざるものがある。今様、古川様、足柄、竹下、催馬楽、里鳥子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、満週、風俗、咒師、別法士の類、何でもやる。これも天下の一物だ。誰か哀れをもやうさぬものがあろう。

大江匡房の遊女記が河川に屯した遊女群を描いているのに対し、同じ筆者が同時期に記したとされるこの『傀儡子記』は平安期より、陸を拠点とした、売笑を生業の一つとした人形使いの集団を述べています。

遊女記で匡房は遊女を随分好意的に見つめているのに対し、傀儡子記では客観的に、この得体の知れぬ一族を眺めているようです。傀儡子(くぐつ)と京都の関わり次回紹介させていただきます。


by gionchoubu | 2016-01-18 12:54 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

遊女記、大江匡房

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『遊女記』

山城国与渡津(ヨドノツ)より、巨川(宇治川)に浮びて西に行くこと一日、これを河陽(カヤ)と謂ふ。山陽、西海・南海の三道を往返する者は、この路に遵らざるはなし。江河南し北し、邑々処々に流れを分ちて、河内国に向ふ。これを江口と謂ふ。蓋し典薬寮の味原の牧、掃部寮の大庭の庄なり。

摂津国に至りて、神崎、蟹島等の地あり。門を比べ戸を連ねて、人家絶ゆることなし、倡女群を成して、扁舟に棹さして旅舶に着き、もて枕席を薦む。声は渓雲を遏(トド)め、韻は水風に飃へり。経廻の人、家を忘れずといふことなし。洲蘆浪花、釣翁商客、舳蘆相連なりて、殆(ホトホト)に水なきがごとし、蓋し天下第一の楽しき地なり。

江口は観音が祖を為せり。中君・□□・小馬・白女・主殿あり。蟹島は宮城を宗と為せり。如意・香炉・孔雀・立牧あり。神崎は河菰姫を長者と為せり。孤蘇・宮子・力命・小児の属あり。皆これ倶戸羅(クシラ)の再誕にして、衣通姫(ソトホリヒメ)の後身なり。上は卿相より、下は黎庶に及るまで、牀?(ユカムシロ)に接(ミチビ)き慈愛を施さずといふことなし。また妻妾と為して、身を歿(ぼつ)するまで寵せらる。賢人君子といへども、この行を免れず。南は住吉、西は広田、これをもて徴嬖(ちょうへい)を祈る処と為す。殊に事(ツカマツル)百大夫(遊女の守り神)は道祖神の一名なり。人別にこれを?(エ)れば、数は百千に及べり。能く人心を蕩す。また古風ならくのみ。

長保年中(999~1003)、東三条院は住吉の社・天王寺に参詣したまひき。この時に禅定大相国は小観音を寵せられき。長元年中(1028~36)、上東門また御行ましましき。この時に宇治大相国は中君を賞(モテアソ)ばれき。延久年中(1069~73)、後三条院は同じくこの寺社に幸したまひき、狛犬・犢(共に遊女の名前)等の類、舟を並べて来れり。人神仙を謂へり。近代の勝事なり。

相伝えて曰く、雲客風人、遊女を賞ばむとして、京洛より河陽に向ふの時は、江口の人を愛す。刺史より以下、西国より河に入る輩は、神崎の人を愛すといへり。皆始めに身ゆるえをもて事とするが故になり。得るところの物は、団手(花代)と謂ふ。均分の時に及びては、廉恥の心去りて、忿?の色興り、大小の諍論は、闘乱に異らず。或は麁絹尺寸を切り、或は粳米斗升を分つ。蓋しまた陳平が肉を分つの(公平に分配する)法あり。その豪家の侍女の上り下す船に宿る者、湍繕と謂ひ、また出遊(素人の遊女)と称ふ。小分の贈を得て、一日の資と為せり。ここに?俵・?絹の名あり。舳に登指を取りて、皆九分の物出すは習俗の法なり。
江翰林(ガウノカンリン)が序に見えたりといへども、今またその余を記せるのみなり。

以上は大江匡房(1041~1111)が晩年に出筆にかかったとされる『遊女記』の全文の現代訳で、原文の漢文共にネットで拝見することができます。私が載せたのは『日本思想大系8、古代政治思想』岩波書店で、<大曽根章介 校注>を元にアレンジを加えたものです。

大江匡房(おおえまさふさ)は平安時代の公家であり、政治家であり、学者、歌人と多才多能、百人一首にもその名を留め、正二位権中納言まで昇りました。京都では五条西洞院南あたり(毘沙門町全域を中心とした一帯)、藤原師実が売却した千種殿に1077年から住んでいました。(京都市の地名)

この『遊女記』は平安時代、川尻の江口、神崎、蟹島の舟着場で繁栄した遊女群について述べたもので、この三箇所は現在の大阪の東淀川区の南江口、神崎橋を挟んで大阪側の加島、尼崎側の神崎町に当ります。

遊女記は現代訳でも難しいので、『日本遊里史』の上村行彰に意訳してもらうと、

「山城国與渡津から大川に浮び、西に一日行程の所を河陽といって、山陽、南海、西海の三道を往き返りするものは此の路を通らないものはない。此の両岸には所々に村落がある。川が岐れて河内の国に向ふ所を江口といって、典薬寮や掃部寮の大庭荘があるところである。而して摂津国に入れば神崎や蟹島といふ所があって人家櫛の歯のやうに比び、娼婦群集し小舟に棹して碇舶の舟を訪ひ、頻りに一夜の情を進むるの声、雲を起し風を呼ぶので、此の地を経廻る人は皆故郷の家を忘れて終ふほどである。そしてそれを附けこんで浪を切って行商の舟が往来する間を、蘆を分けて釣舟が横ぎるといふやうに、川の上は舟で埋まって水も見えない程である、誠に天下第一の楽地といってよからう云々」

江口・神崎・蟹島についてはいずれ先の課題として、今回長々川尻の遊所について書いたのは、『雲萍雑誌』(柳沢淇園著として天保十四年刊とされるも書かれた年代、著者ともに不明)の三の巻に

「宇治、木幡、淀、竹田あたりは、昔遊女多くありたるところなり。古き洛陽の地図に、小椋姫町といふところありて遊女町なり。そのかみは多く水辺に居たること、古書に見えたり。あさ妻舟の図などもおもひあはすべし。」

与渡津は賀茂・桂・宇治三川の合流点でありますので、江口、神崎、蟹島の遊女群が期を見て、雲萍雑誌にはありませんが橋本そして宇治、木幡、淀、竹田辺りに勢力を伸ばした物と私は考えます。

そしてさらに桂まで到達した遊女が九条の里を形成に与したと考えるなら、京都の水辺の遊女の源流も又、江口、神崎、蟹島に求め得ることになりませんでしょうか?




by gionchoubu | 2016-01-14 12:55 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

温泉芸者一代記

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1979年、井田真木子著『温泉芸者一代記』は、深川に生まれ、十七歳で湯河原温泉に八百円で売られ、客をとらされながら、三味線一筋の名妓となった、当時八十二歳のおかめさんの生涯録です。

小学校の時、家庭の事情があり、子供心に「だから、自分の口を食わせられるだけの仕事をぜひ持ちたいと思いました。あたくしね、髪結さんか、お産婆さんになるつもりでしたの。当時は、そのくらいしか女のできる仕事てものがなかったんでございます。」

義父は最初、彼女を磯子の花柳界に売る手筈でいたそうです。

ところが当時芸妓の鑑札申請には、未成年者が勝手に売らされぬ様、法廷代理人(実親など)の連署など細かい規定があり、これを満たせぬ彼女は遊芸の鑑札(寄席芸人、太鼓持ち、新内流し、小唄師匠等)で湯河原の芸妓になりました。

著者の井田真紀子さんは、人材が集まりにくい地方の温泉場などで、こういった名目で多くの年季奉公の未成年者を集める例はままあったのではないか、と書いておられます。

おかめさんが売られた赤ペン(ペン店は湯河原の芸妓置屋を兼ねた特殊飲食店)
には酌婦と芸妓がそれぞれ七、八人住み込んでいた。客を常時とるのは酌婦だが、おかめさんの様に年季で売られた芸妓も年季中は随時客をとらされました。

全国の温泉街に於いて、道後や別府などの公許の遊廓が併設されていたのは例外中の例外で、多くの温泉地では、客をとらされるのは酌婦という名目の私娼、もしくは温泉芸者だったのです。

その中で、「湯河原のペン街に、若いけれども芸熱心なおかめという芸者がいる」と評判になり、のちに東京にも稽古に出かけ、日本橋や新富町の一流の芸者衆
に混じっておかめは自分の三味線芸を高めて行きました。

「いい芸者てのは、まず容姿端麗でございましょ。その次に頭のよさ。座敷で話をさせても面白い。機転が利く。そういった頭のよさ。座敷で話をさせても面白い。機転が利く。そういった頭のよさ。そして、最後に芸でございますね。これが三拍子揃えば、立派な芸者です。どこい出しても恥ずかしくない。

でもさ、なかなか、そうは揃わない。だから、あたくしなんざ、こうやって芸だけを頼りに、山猿で、へへ、、一生おわりますのよ

だけどさ、芸てのはこんなふうに奥が深いから。いくらやっても、これで終わりってことになんないから、あたくし、山猿芸者でございますけど、あといくらかでも生きて、いくらかでも生きてるうちに、三味線をもっと弾きたい。そういう気になるんです。

ね、あんた。だから、あたくしは死ねないんですよ。三味線があるから、あたしは、死ねないんですよ」

難しい言葉はひとつも出てきませんが、男の人が頭で考えた芸者論と違い、人の心にぐいぐい食い込んできます。



by gionchoubu | 2016-01-12 12:44 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

伏見稲荷の遊廓

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喜多村?庭著『嬉遊笑覧』巻之九には、まず語られる事のない伏見稲荷門前の遊里を記しています。以下全文です。

藤森稲荷の茶屋は、『好色旅日記』、「藤の森過ぎて稲荷明神、此のあたりの茶屋、簾の隙よりまねくをみれば、皆廿に過たる女ども也云々。出さまに百文下んせといふ。何してやるといへば、此棚のかり賃に亭主にやります」(この亭主といへるは、家主をいふなり)。

『丹前能』(元禄十四年)、稲荷の条、「近年御造宮より此かた、鳥居の前には軒を並べ簾をかけ、うつくしき女、男をみれば鼠なき、あやしや狐のわざかととへば、いやいやあれは此処の茶立女、のぞめば奥にともなひ花代が月、酒を望めば外に分入事也とかたる。月・分とは、いかなることぞ。旦那衆はいかいぐわちかな。月は壱匁、分は五分といふふるい詞を御存ないか」(「月はひとつ、かげは二つ」といふことをとれり。分とは其半分也。又分里などといふ時は、唯色里の事也。分のつとめといふは、遊女年限の後勝に勤る也)。

『稲荷の色茶屋、』に、「稲荷の色茶屋、八坂よりもはるかにわるし」と有。是又元禄の末の草子也。

鼠鳴きとは上記の様に遊女が男を誘い入れる時にする場合と、中野栄三著『廓の生活』で吉原の妓楼では毎日娼婦が営業を始める際、店の責任者などが先頭に立ち色んな所作をして商売繁盛を願う一連の儀式をしました。その動作の中に「拝が終ると男衆は表入口に行って手のひらで柱と羽目板を叩き、鼠鳴きをしてから下足箱の傍らにある下足札の紐を右手に持ち、それを高くあげ鼠鳴きして、下足札で廊下を強く数回打つ、(以下略)」なども廓の鼠鳴の一例です。

伏見稲荷大社は深草にあり、藤森(深草のすぐ南)の神社といえば藤森神社が思い浮かぶのですが、実は伏見稲荷神社は割りと新しい呼び名で、江戸時代は藤森稲荷と呼ばれていました。

伏見稲荷の遊里は上記の記述以外見たことがありませんので、江戸の中期には無くなってしまったものと考えられます。

1971年発行、日本歴史地名大系27『京都市の地名』の稲荷御前町の欄に“稲荷社正面の参道南角に玉屋という料理茶屋が現在も営業を続けているが、このような料理茶屋がこの町にはいくつかあったようで「新市域各町誌」によれば、玉屋の南に万屋・菊屋という家が二軒並び、その南に東へ通じる辻子があったらしく、玉屋と道路を隔てた西側に、大坂屋利兵衛というものの家があり、その南に摂取院へ通じる路地があった”としています。1

*元禄の『女大名丹前能』藤森稲荷の条に「あれはここの茶立女、望めば奥に伴い、花代が一分」が宮武外骨の『猥褻風俗辞典』に載っていました。2016.2月1日付記

by gionchoubu | 2016-01-09 11:09 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

温泉芸者


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『温泉こんやく芸者』昭和45年8月公開 東映京都作品、監督、中島貞夫

絶倫か、名器か!? これはスゴイ!イカせたモン勝ち セックス三番勝負!!

「舞台は、北陸の片山津温泉、こんにゃく屋の徳助に育てられた養女・珠枝は、 
勤めていたコンドーム工場が倒産したことをきっかけに、カバンひとつで家をでた。退職金代わりに貰ったコンドームを売って、一時しのぎの金を作ろうと温泉街を訪れた珠枝。だが、そこで天職に出会う。男好きのする顔に目をつけた置屋のお女将が、珠枝をインスタント芸者に仕立て上げたのだ。最初の客にミミズ千匹を指摘された彼女は、あれよあれよと話題の芸者に。関東一と関西一の芸者スカウトマンが争奪戦を繰り広げる中、珠枝の前に積まれた札束はナント五百万!珠枝はこれまでくれた養父への恩を返すべく、五百万を賭けてセックス三番勝負に挑むことを決意する。先に二度燃え尽きたほうが負けのこの勝負、迎える相手は抜かずに六発撃てる通称ヌカ六と呼ばれるゼツリン男!果たして勝負の行方は!?

瑞々しさも武器のひとつ、新人、女屋実和子がミミズ千匹といわれるほどの名器を持つ芸者に扮して鮮烈デビューを飾るほか、ヌードに自身のある女優陣が組んずほぐれつのお色気合戦を披露。才人・中島貞夫監督が、温泉芸者のお色気サービスの実態を艶笑喜劇タッチで描いた温泉芸者シリーズ第三弾」

こんにゃく屋の徳助が殿山泰司、主演の女優、珠枝が女屋美和子、これを支える女優陣に松井康子、榊原浩子、TVプレイガールでお馴染みの片山由美子、男優陣に上田吉二郎、常田富士男、小池朝雄、そしてヌカ六に小松朝雄、なぜか“いとしのマックス”荒木一郎、チョイ役で作家の田中小実昌・・・中島貞夫監督の元、全編テンポのよい展開はまさにスタッフ、役者の職人芸と云わせる出来栄えです。

「ヌードに自身のある女優陣が組んずほぐれずのお色気合戦」からはほど遠いソフトピンク映画といった内容で、あくまで物語重視、ピンク映画を期待すると少し裏切られた気持がするでしょう。

芸妓400人、置屋30余り、花街片山津温泉の絶頂期に撮られたもので、なにより温泉街を我が物顔で闊歩する、又お座敷で乱痴気騒ぎの温泉芸者のバイタリティーは当時の温泉地そのままといっていいでしょう。

映画の芸妓は女優さんですが、座敷の後ろで囃すのは片山津の本物の地方さんのはずです。

『温泉おさな芸者』『温泉スッポン芸者』『温泉みみず芸者』等々この時期沢山の温泉芸者映画が世に出ましたので近々紹介させていただきます。


by gionchoubu | 2016-01-07 11:02 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

加賀女 その二、片山津温泉

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                     片山津温泉の芸(舞)妓達

松川二郎著『全国花街めぐり』を読むと、加賀の山中温泉の妓はシシの異名があり、その由来が、その昔戦国時代の落武者の妻女や娘達が生活の資を得る為に、頭に風呂敷を冠って春を売った、その格好が越後獅子に似ていたのでシシと呼ばれたという言い伝えを紹介しています。

前回申し上げた様に、もし加賀女が武家の妻女が由来とすれば、これも富樫一族の悲哀とリンクできる事になります。

北陸の温泉郷を見て行くと、加賀の山中温泉ではこういった女に「太鼓の堂」粟津温泉では「小鳥」片山津温泉では「鴨」という異名があり、『全国花街めぐり』には載っていませんが、すぐ近く福井県の芦原温泉で私が芸者衆に聞いた時、芦原温泉では最近まで芸妓は「般若」のよび名が有ったと教えてくれました。

ちなみに『全国遊廓案内』で粟津温泉の女がシシとありますが、是は間違いで粟津は小鳥、山中がシシが正しい呼び名です。

松川二郎は昭和二年に誠文堂より『名勝温泉案内』を出しており、ここで

√薬師山から湯座屋を見れば、シシが髪結て身をやつす。   山中節

√鉄砲かたねて来た片山津、鴨もうたずに空もどり。    片山津節

√鳥は鳥でも粟津の鳥は、男よろこぶ機嫌取り。     粟津温泉節

各温泉の名物節を画きとめております。この片山津節の意味は、せっかく片山津まで来たのに、鴨も撃たずに(芸者と一夜を過ごさず)帰るなんて、なんと勿体無い事をするお方・・・といった意味になります。

片山津節には

√獅子は怖ろし、小鳥は小さし、鴨の程よい片山津
        鴨は浮寝の柴山潟に鴨と浮寝をしてみたい

他の北陸温泉郷の獅子、小鳥より鴨芸妓がいいよ、と自慢しています。

また、山中節にも

√山代茸狩り、粟津は小鳥、鮎は山中でよく釣れる、鴨をうつなら片山津と唄われていますので、よほど片山津の鴨芸妓は有名だったようです。

昭和四年頃には60人ぐらいだった芸妓も、昭和四十年代には400人近く膨れ上がり、置屋も30以上あったとの事、そして大正9年に建てられた検番より各旅館に芸妓を派遣していました。

酒の相手は勿論、散歩にも付き合ってくれるし、女房気取りで靴下のほころびまで縫ってくれ、始終お傍に付きっきりだった芸妓さんはもう片山津の昔話になってしまいました。

しかし私が片山津を訪れた際、ご当地グルメ“片山津の鴨バーガー”として片山津の鴨を胃の腑に納める事ができました。

*私が片山津を訪れていた時の様子です。IIGAINE 片山津温泉さんのブログ
http://blog.livedoor.jp/katayamazu/archives/51594551.html


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       片山津温泉の旧検番が花館として見学できます。最初の画像も入口に掲げられていました。
芸妓さんの名が入った提灯です。

by gionchoubu | 2016-01-03 11:45 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)