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祇園の太鼓持ち その二

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                  繁太夫が旧交を温めたお茶屋、富美代さん

武芸者、役者、忍者、江戸時代以前~者というのは男の生業を表し、女性がこれに当たる場合女武芸者、女役者、女忍者とわざわざ女をつける・・・とどこかで読んだことがあります。

『守貞謾稿』にも太鼓持の見出しがあります。“幇間・牽頭の字を中つ。けだし京坂の俗言には「たひこもち」、また芸者、また「やっこ」とも云ふなり。江戸にて芸者と云ふは、大略女芸者のことなり。幇間は必ず男芸者あるひは太夫とも云ふなり。京坂にて芸者とのみ云はば幇間なり。女芸妓は芸子と云ふなり。また京坂には野幇間(のだいこ)と称することこれなし。しかれども、その業をなす者は往々これあり。有実無名なり。”

江戸深川仲町在住の富本繁太夫が『筆満可勢』(ふでまかせ)で天保六(1835)年から天保七年にかけての約二年滞在、「是非なくここへ太鼓持に出勤」「芸者 甚吉弟子 富本繁太夫」として都での幇間暮らしをこと細やかに日記に綴っております。

天保六年正月二日、彼は祇園で芸妓のように差紙を各楽屋に廻って店出ししました。差紙とは芸名、所属の見世などを記した紙で、お披露目の為配布するものです。どうもこの店出しの際、繁太夫の師匠である甚吉と紅八という男が口論となり、せっかくの目出度い席が台無しになった様で波乱のデビューになりました。

この時期、大鶴屋以外に鳥羽屋、花扇屋という見世があった事が分かります。

繁太夫は「江戸豊後節」を看板にしましたが「最初の内は評判よしと思ひしに大きな違い、此いやみなるを笑ふて楽しむなり~略~皆々笑ふ事を手柄と致す。誠にくやしく腹は立ども是太鼓持の苦界なり。花芸者なれば笑るるをよしとなせども、特芸の豊後節にて笑るる事残念至極なり。」とその胸中を吐露しています。

幇間の仕事は、色んな行事にも携ったようで、たとえば正月七日「此の日太鼓持思ひ思ひに俄を致し出る~略~此夜甚吉、天平、鶴助、与三八、染八、友吉、我右七人連にて、嘘と誠の二タ瀬川といへる流行歌を謡うて」茶屋を巡りお花を頂いて廻りました。俄という寸劇も幇間の得意とする芸で、至るところで掛けていました。

その他にも、地築に際し、櫓の上で音頭をとってキヤリを唄って囃したり、時にはお大尽と呼ばれる金持ちの道楽に芸妓とともに散財に付き合ったりしています。この年八月二十八日に

「此日岸本や亭主利八同道して白水といへる茶屋江五条松様と言客人にて行く。芸子大勢、太鼓持三軒見世不残出て居る。此節券流行也。此客人太鼓持隙成時分といへば、出て来りて金を五十両七十両位持切来り。居続して三軒見せの者不残呼集る。座敷繁多の頃は不来。江戸にも余り多からぬ客人也。○○岸本や、五条松様。」の下りがあります。

この少し前、八月一日「此日風邪にて臥居たるに縄手富美代より返有る。押して行し所、江戸登の客人なり。見し所高村甚座衛門なり。誠に久々、互ひに落涙し暫く挨拶なし。」といった事もありました。

繁太夫は天保六年と天保七年の祇園ねりもの(祇園祭りの夜催された遊女、芸妓による仮装行列)の番付を載せています。文政年間より後囃子をこの祇園の幇達が担当するようになり、この歴史的ページェントの最後列で幇間達もその一翼を飾ったのです。

太鼓持ち、男芸者など、今でも決していい意味で用いられる事のない幇間達にとって練物に参加できるなど、一生一度の晴れ舞台だったに違いありません。

当時、このねり物の番付けは出演者の絵入りで合羽摺りでパンプレットの様に流通しました。練り子は勿論、前囃子の芸妓達も絵で紹介されています。ただし表舞台とは程遠い幇間たちは名前だけが載りその姿が入る事はありませんでした。

私の知るかぎり、一人だけ顔だけひょこっと描かれた幇間がいましたが、之を描いた長秀の遊び心に過ぎませんでした。。


by gionchoubu | 2015-12-30 11:22 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

祇園の太鼓持ち その一

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                       祇園、一力前

元文二年(1737)に書かれた博望子の『洛陽勝覧』を読むと、まだ都も江戸も遊女の世界、芸者や芸妓が現れる少し以前、すでに幇間が祇園町を闊歩していた事を裏付けています。

此辺に太鼓持とてお客を慰め者あり。

名寄

桝之屋四郎八 人形出遣ひ思ひ付、人形さわき上品のそこなり。

すぬ庄兵衛 上芸万能茶も少し立候、お好みなれは国太夫ふしも?よく候

臍本茶平 そろま物真似かほおかしき男にて候。

昆布吉 三味線引、旦那をそゝり上る事希妙也。其後物まね、酒によへは役者物まねもうつり申す候

役者物真似の部

大津屋平五郎 同平助 同鳥羽七

同右吉 同十九 同右七

同四ノ二 同藤七 同久米七

享和二年(1802)滝沢馬琴が『羇旅漫録』で京都、大阪の幇間を評しております。この頃はもう祇園でめきめき芸妓が台頭し遊女が従、芸妓が主になってきたはずです。

「京も大坂も幇間は、一席するに耐えざるものなり。幇間は羽織を着ず。島の内の幇間に、音八といふものあり。これは狂分発句など少しできるなり。又新町に亦助といふ幇間あり。画をよくす。その他は無芸大食、甚だいやなるものなり

京の牽頭は,四条河原などに、網をはりゐて客を引くなり。かくせざればたへて客なしという。牽頭の出る見せは牽頭ばかりなり。祇園はべしても牽頭もちおこなはれず。また男げいしゃといふものなし。皆悉く幇間なり」

文化十一年〜文政九年(1814〜1826)中島棕隠著『鴨東四時雑詞』という漢詩文集にたいこもちの漢詩があります。これを斎田作楽編著『鴨東四時雑詞注解』で説明されているのを私の方で少しだけ手を加えさせていただくと。

色里の繁昌は教坊(唐土の歌舞教習の役所)を連想する。太鼓持ちは腰巾着、うまい座敷を探す。よしなくも付け込み、馬鹿騒ぎ甚だしい。まず駆けつけ三杯して痛飲する。

花街の幇間は皆芸達者で口上手だ。つねに芸妓衆に付き従い歓食を佐く。昔から二軒の店あり。太鼓持の名を掲げて客は之を召す。娼妓と異なることなし。
但し、女の色香に如かざるを以ての故に、連日うれざれる物も亦少なからず。みだりに諸楼に詣り、客の左右に尽くし、打座して以てすすむ。其の日を虚うせざるなり。

棕隠も太鼓持ちに余りいい感情は以ていなかった様です。


by gionchoubu | 2015-12-28 13:25 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

九条の里と桂女

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                        時代祭りの桂女

江馬務の『桂女の新研究』によると、桂村の古い飴屋、遠山氏の家に伝わる文書、さらに同村の小寺文書、原田文書、中村文書とも桂女が神攻皇后に従いお産に奉仕したと書いており、さらにその先祖を桂姫(遠山氏伝説)や勝浦姫(小寺文書)に求めるが定かでないと書いています。

応神天皇がわが国に帰化し弓月君の子孫である秦氏が桂の里にも密接な関係を持ち、桂の里は倭、支、韓人の混合地であったのだろうとしています。

その後延暦の平安遷都以来、新都の産所となり、都の婦人がお産をする所になりました。昔はお産を自家ではなく、産屋を立てるか郊外にでてする風習があり都では桂がその地に選ばれ、桂女がお産のお手伝いをしました。

そして室町時代に桂女は都へ鮎と飴を売りにまわるようになりました。現在の時代祭りの風俗がこれです。桂女は桂包という白布をの形で頭に巻いていますが、これも諸説あるものの、お産の奉仕の時髪をまとめる役目を負ったと言う合理的な説明があります。

滝川政治郎は『遊行女婦・遊女・傀儡女』で桂女は加茂川に移り住んだ傀儡子の一派で、江口・神崎に住み着いた遊行女婦と源流は同じとしています。そして遊女クグツを擁する傀儡子族は朝鮮から渡来た白丁族としていますので、帰化人に桂女の先祖を置くのは江馬務と同じです。

宮武外骨が『猥褻風俗辞典』で桂女を「山城国の里より出ずる遊女なり。畠山記にいわく、この間公方の御慰に参り、舞歌などしける桂の遊女の装束を着せまいらせ、若君を桂に作り、かの遊女の中に入れ、敵陣の前を通りける。敵の方にも桂遊女を見知りたる人多ければ、左右なくこれを通しける。」御陣女郎の名も持つ桂女の別の面もうかがわせます。

この『畠山記』の下りは江馬務も紹介しており、遊女化した桂女がすでに室町時代に居たことは明白だとしています。

そして今回の本題に入ります。

京の廓の最初は足利義満の時代応永四年(1392)金閣の出来た頃に東洞院七条下ルに傾城町が公許されて「九条の里」と呼んだという言い伝えがあります。

田中緑江さんもどうして七条にあって九条の里と呼ばれたかの理由を探しあぐねておられました。

武田完二著『趣味史談遊女の時代色』に桂の里があったのは九条の西、大井川のほとりであったと書いているように遊女桂女の本拠地は九条の延長上にあったと考えられます。

私は、九条の里は桂の里だった可能性、そしてもし七条東洞院が九条の里ならば、ここの遊女が九条の桂の里の桂女で形成されていた為こう呼ばれた可能性を考えています。


by gionchoubu | 2015-12-25 10:25 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

壬生遊廓

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               直進の道が仏光寺通りで右が南側、左の道が千本通り

壬生遊廓に関しては『京都府下遊廓由緒』の記述と、それをもとに少し説明と地元の人の聞き取りを試みた緑江さんの『亡くなった京の廓』があるぐらいで、新撰組の屯所の周辺にあったにもかかわらず、すこし離れた島原での新撰組の逸話は出てくるものの、壬生遊廓の話は見かけません。

滝沢馬琴は1802年の羇旅漫録において都の遊所の一つとして壬生を挙げています。

ところが、天保前の『諸国遊所競』は版元が大阪なので、京都市内の遊所は名の通った所はもちろん下級遊所の代名詞である白梅図子(番付ではしらみの辻)、さらには今出川、三かん寺、三王うら、御霊うら、六はら野などのマイナー極まり無い遊所が顔を出すのに壬生遊廓は載っていません。

さて、『京都府下遊廓由緒』によれば、壬生遊廓の起源は北条高時が執権の時代、正和元壬子三月(1312)寺の家来で大念仏を開莚の時、境内に茶店を作り茶汲女を置いたのが始めとされます。

その後、有名な壬生狂言の折には繁昌しましたが、宝永年中(1704~1710)女性の境内宿泊を禁じ、以来茶屋は日没で店じまいになりました。それ以後は門外で営業を続けました。

この少し後、元文二年(1737)『洛陽勝覧』で博望子は壬生寺境内の茶屋に触れています。壬生寺の紹介は「宗旨真言律、本尊地蔵菩薩、作定朝、霊験、世に知れたる所なり」と手短に済ませ、興味は専ら境内の茶屋の様で、

「此内に茶屋あり。つり物、出会物宿也。又は呼者も有なり。料理は精進なり。酒代・飯代は折によるべし。

丸尼 一匁五分、但座敷代七分、お酒あかり候得は、座敷代なし。
呼者 一匁八分 二匁
同  二匁八分より銀壱両

是は町方のおこし元衆也。前方よりお約速之日限無相違参申候。茶屋女房と能々御工面。右は日の内斗也といふて初夜切也。

阿野田 若狭 八文字 鳥羽 丸

同寺門の茶屋大黒屋一軒あり。

是も右同断、料理魚類遣ひ申候。夜はいつ迄なりとも。大秘事也」

壬生遊廓を語る場合、この資料は吟味されるべきだと思います。出会物宿は後年、関西では盆屋といわれた男女密会の安宿で、壬生が盆屋の発祥の地だという説もあります。東海道中膝毛に「それより、壬生寺に参って、ここによしずをたてた、怪しげな安宿に引こまれて、その夜の宿とさだめ一泊した。あくる日、嶋原を見物し、朱雀野より、丹波街道をよこぎり、淀の大橋をに着いた。これより、下り船に乗って、大阪へと行くことになった。」とあります。

『京都府遊廓由緒』は維新後の様子を「明治三庚午三月壬生村水茶屋共遊女屋ニ粉敷致渡世一旦差止候処同四年七条新地出稼之筋ヲ以遊女屋渡世差許候事以下略ス」で短くまとめています。

壬生遊廓の娼家があったのは壬生寺の裏、千本通りに面した東側と、仏光寺通りの南側で『京都遊廓由緒』の付録地図に十四軒の遊女屋が主人の名とともに描かれています。

緑江さんによると、壬生遊廓は毎月二十一日の弘法さんと二十三・四日の愛宕詣で、そして四月、五月の壬生狂言の二十日間に賑ったそうです。しかし明治十二、三年には全部無くなり今は全くその面影はありません。

遊廓は神社仏閣の賑わいで発生することが多いとされるのですが、殆どが神社で、お寺の賑わい目当てで発生した遊所は少数だったと思います。


by gionchoubu | 2015-12-23 11:27 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

夏目漱石と遊廓 その二

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                       松山検番

『吾輩は猫である』で、東風君が同志で催す朗読会の協力を“吾輩”の飼い主である苦沙味先生に持ちかける場面に見番の下りがあります。

「それぢゃ一人で朗読するのですか、又は役割を極めてやるんですか」

「役を極めて懸合(かけあい)でやって見ました。其主意は可成(なるべく)作中の人物に同情を持って其性格を発揮するのを弟一として、夫に手真似や身振りを添へます。白(せりふ)は可成其時代の人を写し出すのが主でお嬢さんでも丁稚でも、其人物が出てきた様にやるんです」

「ぢゃ、まあ芝居見た様なものぢゃありませんか」

「えゝ衣装と書割がない位なものですな」

「失礼ながらうまく行きますか」

「まあ第一会としては成功した方だと思います」

「それで此前やったと仰しゃる心中物といふと」

「其船頭が御客を乗せて芳(吉)原へ行く所なんで」

「大変な幕をやりましたな」

教師丈に一寸首を傾ける。鼻から吹き出した日の出の烟りが耳を掠めて顔の横手へ廻る。

「なあに、そんなに大変な事もないんです、登場の人物を御客と、船頭と、花魁と仲居と遣手と見番丈ですから」

東風子は平気なものである。主人は花魁という名をきいて一寸苦い顔をしたが、仲居、遣手、見番という述語に付て明瞭の智識がなかったと見えて先ず質問を呈出した。

「仲居といふのは娼家の下婢にあたるものですかな」

「まだよく研究はして見ませんが仲居は茶屋の下女で、遣手といふのが女郎屋の助役見た様なものだろうと思います」

東風子は先っき、其人物が出て来る様に仮色(こわいろ)を使ふと云った癖に遣手や仲居の性格をよく解して居らんらしい。

「成程仲居は茶屋に隷属するもので、遣手は娼家に起臥する者ですね。次に見番と言ふのは人間ですか又は一定の場所指すのですか、もし人間とすれば男ですか女ですか」

「見番は何でも男の人間だと思ひます」

「何を司って居るんですかな」

「さあそこ迄はまだ調べが届いて居りません。其内調べてみませう」

これで懸合をやった日にや頓珍漢なものが出来るだろう・・・というのが吾輩である猫の感想でした。

けっきょく、この朗読会は東風君の身振りが余りに大げさで、傍聴していた女学生が一度にわっと笑い出し、朗読会は頓挫、それ以上続ける事が出来ませんでした。

第一会としては成功だと称する朗読会がこれでは、失敗はどんなものだろうと想像すると笑わずには居れない・・・が吾輩の感想でありました。

見番は花街用語で芸妓さんを司る組合事務所で、東風子が思っているような人の職業ではありません。

現在、見番という言葉は馴染みない言葉で、花街に興味や関係のある人以外はまず知らない単語です。

当然漱石は意味を知って使っているのですが、中学校の教師の苦沙味や詩人の東風君が知らないという設定で物語が成立しているのを考えると、明治の後半でも見番は一般の人の口に上ることは、あまり無かったようです。



by gionchoubu | 2015-12-21 11:46 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(4)

夏目漱石と遊廓 その一


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                        道後温泉

坊ちゃんが数学の教師として松山に赴任して早々、松山市から汽車で十分ばかりの温泉のある町にいき、その温泉に入った帰り、温泉地の遊廓の入り口にあって、大変うまいという評判の団子屋で一服しました。一夜明け学校に赴き、一時間目の教室にいくと、

「団子二皿七銭」と書いてある。

二時間目の教室いくと、やはり教室に

「遊廓の団子旨い旨い」と書いてある。

この温泉が道後温泉なのは皆が知る処で、この遊廓とは嘗ての松ヶ枝遊廓です。『全国遊廓案内』によれば、遊廓が許可されたのが明冶十一年で、昭和の始めごろ、朝日楼、新開進楼、夢の家等二十九軒貸座敷があり、内四軒が居稼ぎで、残りの二十五軒が送り込みとあります。居稼ぎとは芸娼妓が、抱え主の家で客を取って稼ぐことで、送り込みとは娼妓が置屋から揚屋に派遣されることです。

娼妓の過半数は二枚鑑札で、酒席へは旅館からも呼ぶことが出来ました。二枚鑑札とは一人の女が芸妓と娼妓の仕事両方の鑑札(免許)を持っている事です。

又、坊ちゃんが赤シャツを称して「彼奴(あやつ)の親父は湯島のかげまかも知れない」会津生まれの山嵐が「湯島のかげまた何だ」と尋ねると江戸っ子の坊ちゃんは「何でも男らしくないもんだろう」と答えています。

湯島天神の遊廓は、加藤藤吉の『日本花街史』によれば、江戸時代は富くじの興行場として、又東叡山の僧侶達の隠れ遊びの男色の町で、陰間茶屋が軒を並べていました。坊ちゃんの言ったように、たしかに男らしくなかった様です。明治時代には花街となり、俗に梅鉢芸妓が席に呼ばれました。

うらなり君の送別会の時には坊ちゃんも参加しました。小説では松山第一等の花晨亭という料理屋の五十畳の広間が会場だったとの事でした。そして宴たけなわ、

「おれの前に来た一人の芸者が、あんた、なんぞ、うたいなはれ、と三味線を抱えたから、おれは歌わない、貴様唄って見ろといったら、金や太鼓でねえ、迷子の迷子の三太郎と、どんどこ、どんのちゃんちきりん。叩いて廻って遭われるものならば、わたしなんぞも、金や太鼓でどんどこ、どんのちゃんちきりんと叩いて廻って逢いたい人がある」という下りがあります。

これは岩波書店の『漱石全集第十三巻』の断片、明治三十八・九年に同じ文句があり、そのすぐ前にも漱石は「畳たゝいてねー、くどい様だが、ようきかしゃんせ、悋気で云うのぢゃなけれども、一人でさしたる傘ならば片袖濡れよう筈がない。」という粋な唄が書き留めております。しかしながらこっちの方は何処にも使われなかったようです。

松川二郎は『全国花街めぐり』で松山の花街の欄を設けています。代表的な料亭に梅廼舎、明治楼、亀の井の三軒を挙げ、梅廼舎がもっとも規模が大きく設備も整い、市内一の料亭と書いていますが、この坊ちゃんが芸妓に唄わせた花晨亭のモデルが梅廼舎です。

坊ちゃんの記述を見ると、漱石も松山赴任時代、なにかの折実際この松山一の料亭の席に附いたこともあったと思います。

窮屈そうに座っている夏目金之助の所在無げな姿が目に浮かぶようです。

坊ちゃんと違いその席で決して松山芸妓を貴様呼ばわりしなかったのを、私は断言できます。
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                   以上、松ヶ枝遊廓跡辺りの風景

by gionchoubu | 2015-12-19 11:46 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

全国遊廓案内の信頼性

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                                飛田遊郭、鯛よし百番

今回は『全国遊廓案内』と『公娼と私娼』を比べてみます。
府県、遊廓、貸座敷数、娼妓数で( )内の方が『公娼と私娼』の数字です。

東京   新吉原   295(295)  3560(2557)  
     千住     53(50)    330(316)
     洲崎    268(286) 約2500(2329)
     品川     43(43)    400(422)
     新宿     53(53)   約560(559)
     板橋     12(12)     98(92)
     八王子    14(14)   約100(103)
     府中      5 (5)     25(30)
     調布      3 (3)     21(18)  
     父島      1 (1)      3(2)

東京、新吉原の娼妓数以外ほぼ近似値、貸座敷数は同じの所が多いのが分かります。

京都   上七軒     -(40)      -(0)
     北新地     -(151)     -(681)
     祇園甲部  230(449)    30(39)
     祇園乙部    -(227)     -(236)
     宮川町   151(418)   330(341)
     島原    148(146)   434(483)
     先斗町     -(194)     -(15)
     七条新地    -(237)     -(1340)
     中書島    84(104)  約400(366)
     北恵比須   20(17)    約70(72)
     橋本     75(79)    470(493)
     朝代      -(55)      -(75)
     加津良     -(20)      -(18)
     猪崎     78(78)    160(157)
     龍宮     29(31)     80(103)
     新浜     59(59)     84(76)

-は収録されなかった遊廓、京都随一の七条新地が収録されないのは『全国遊廓案内』に於ける大きな謎です。祇園甲部や宮川町の貸座敷数の数が離れているのは芸妓のみの貸座敷が外れているのだと思います。

大阪   新町    183(212)   550(568)
     堀江    155(156)    43(33)
     松島    260(257) 約3700(3657)
     五花街   499(499)   831(807)
     飛田    202(215)  2700(2646)
     龍神     数十(107)  約100(5)
     榮橋     60(60)   約540(581)
     乳守     40(39)    400(3)
     貝塚     43(43)    270(269)
     枚方     35(35)    110(108)

竜神、栄橋、乳守は共に堺の遊廓です。昭和八年発行の『郷土研究上方』で山本梅史が「堺の遊廓」の一文を寄せ、

龍神、貸座敷100、芸妓400、娼妓20.
榮橋、貸座敷60、娼妓600、
乳守、貸座敷40、芸妓100、娼妓5の数字を揚げており、

『日本遊里史』でも

龍神、貸座敷106、娼妓18
榮橋、貸座敷64、娼妓647
乳守、貸座敷36、娼妓6

つまり『公娼と私娼』『郷土芸能上方』『日本遊里史』が同じ傾向を示しております。堺の遊廓は『全国遊廓案内』の記述が間違いと断定できそうです。

さて、先にすすむと、

神奈川  真金町    59(70)   約500(526)
     永楽町     -(記述なし)    -(記述なし)
     青木町    23(17)    170(105)
     川崎町    19(19)   約190(189)
     保土ヶ谷町   7(7)      50(49)  
     横須賀    26(28)  150以上(187)
     浦賀町     2(2)     7,8(11)
     三崎町     5(5)      44(48)
     戸塚町     -(4)       -(19)
     藤沢町    10(10)     50(53)
     平塚町    12(12)    120(128)
     大磯町     3(3)       8(6)
     小田原町    6(7)      50(53)
     吉野町     3(3)      13(16)

兵庫   福原町    93(93)   1320(1329)
     新川     22(22)   約200(294)
     浦町(西宮) 38(38)   約350(334)
     新地(明石) 14(14)    130(127)
     梅ケ枝    11(10)     96(90)
     飾磨     10(10)    約60(63)
     高砂      5(5)      64(55)
      室津      3(3)      30(32)
     漁師町(洲本)19(20)   約100(81)
     池上(篠山)  2(12)    110(68)

篠山の貸座敷の2は明らかにおかしい数字です。娼妓が110いるので筆者が校正でも見落としたのでしょう。

長崎   寄合町・丸山町 22(18)   約200(203)
     出雲町      9(10)     85(68)
     戸町      16(12)    180(136)
     稲佐      14(14)    115(131)
     福田       -(8)       -(27)
     勝富(佐世保) 16(16)   約150(114)
     花園(佐世保) 47(46)    340(363) 
     田子の浦(早岐町)4(4)      30(37)
     瀬戸村(板の浦) -(2)       -(4)
    *瀬戸村(樫の浦) -(14)      -(45)
     釜の裏      -(10)      -(39)  
     蠣の浦      -(18)      -(104)
     面高村      -(2)       -(7)
     椛島村      -(3)       -(2)
     湊町(島原)  11(10)   約100(23)
     都ノ口村     -(2)       -(2)
     宇田助      -(7)       -(10)
     大島村(平戸?) -(3)       -(5)
     水主町      -(3)       -(14)
     立亀       -(4)       -(32)
     雞知村      -(4)       -(8)
     船越       -(1)       -(2)
     田の平(大村)  9(7)     約70(63)

長崎に目だって略された遊廓が多いのは一目瞭然です。島原の娼妓数が大きく離れている以外はほぼ納得のいく数字です。

新潟   下町      94(75)   約500(465)
     新発田町    19(19)    118(122)
     中条町     12(13)     51(55)
     坂の下(津川)  5(5)      35(21)
     八幡町(五泉町)14(14)     27(26)
     曙町       -(4)       -(12)
     橋向(新津)   6(12)     60(26)
     五の町(三条町)44(44)    約60(57)
     文冶町      -(33)      -(132)
     畑中(小千谷)  7(7)      22(16)
     間(出雲崎)  10(8)     約80(10)
     山の上(寺泊)  5(5)      10(9)
     海岸通(柏崎) 20(20)    約60(52)
     塩屋新田     -(7)       -(33)
     五分一(高田) 19(19)   約130(141)
     浜町       -(6)       -(14)
     二見村      3(3)      約6(7)
     水金町      -(8)       -(14)
     両津(夷町)   7(7)      40位(25)
     両津(湊町) 記述無(6)      記述無(41)
  

埼玉   本庄町    記述無(7)      記述無(39)
     深谷町    約10(3)      酌婦70(9)

千葉   登戸(千葉市)約10(11)      80位(75)
     船橋町     19(19)      112(93)
     平潟(松戸)  13(12)      115(93)
     佐倉弥勒町    1(1)        約8(4)
     松岸(銚子町)  2(1)       40位(37)
     木更津町     4(4)       記述無(24)


全体的に『全国遊廓案内』の数字と( )内の内務省調査の数字は大変似かよっており、調査年数に二、三年の誤差があると考えると『全国遊廓案内』は信頼に足る手引書でありました。

新吉原の娼妓数などいくつか( )内と大きく離れた数字は有るのは、逆にそれが公的な数字に頼って居ない証拠となります。時代そして当時の情報源を考えると、民間の人間がよくまあここまで調べ上げた・・・と私などは心から『全国遊廓案内』の著者に対し驚嘆の念を禁じ得ません。

そして新聞記者か雑誌のライターの経験を持つ人なのか、言葉を選びながら的確な文字運びは相当文章を書き慣れた人物のはずです。時々テンポ良く挟まれる「台の物は別だ」などの言葉が心地よく響き、著者に語りかけられているような錯覚すら持ち得ます。

かなりの頻度で用いられるその土地の民謡も、現在の紹介本で言えば、写真かイラスト替わりの役割、読者を一服させ、望郷の念、ちょっと遠くを見るような気持にさせてくれるのです。

又、娼妓本位、芸妓本位、特別祝儀などの言葉の使い方にも長けた人物像がほのかに浮かび上がってきます。

さらに、遊廓でもなく娼妓も一人も居ない北陸の粟津温泉にスペースを割き、珍しく語り口調が変わり、著者のこの温泉に対する思い入れを思わず吐露・・・私にとって興味が尽きないのがこの佐藤丘巣の『全国遊廓案内』なのです。


by gionchoubu | 2015-12-17 15:39 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

日本遊里史巻末付録「日本全国遊廓一覧」

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                   浜松、鴨江の二葉遊廓跡地


東京  新吉原   228(295)  2362(2557)  
     千住     15(50)    124(316)
     洲崎    183(286)  1937(2329)
     品川     53(43)    478(422)
     新宿     56(53)    570(559)
     板橋     13(12)    157(92)
     八王子    14(14)     86(103)
     府中      5 (5)     32(30)
     調布      5 (3)     32(18)  
     父島      − (1)      − (2)

京都  上七軒    33(40)      2(0)
     北新地   112(151)   470(681)
     祇園甲部  408(449)    86(39)
     祇園乙部  215(227)   262(236)
     宮川町   359(418)   314(341)
     島原     93(146)   237(483)
     先斗町   169(194)    33(15)
     七条新地  208(237)   988(1340)
     中書島    67(104)   234(366)
     北恵比須   13(17)     51(72)
     橋本     27(79)     60(493)
     朝代     41(55)     53(75)
     加津良    25(20)     78(18)
     猪崎     54(78)    127(157)
     龍宮     34(31)    205(103)
     新浜     41(59)     42(76)

大阪  新町    247(212)   622(568)
     堀江    175(156)    81(33)
     松島    275(257)  3725(3657)
     五花街   541(499)  1094(807)
     飛田    121(215)  1065(2646)
     龍神    106(107)    18(5)
     榮橋     64(60)    647(581)
     乳守     36(39)      6(3)
     塚     40(43)     96(269)
     枚方     35(35)     48(108)

神奈川 真金町    42(70)    754(526)
     永楽町    36(記述なし)  747(記述なし)
     青木町    20(17)    202(105)
     川崎町    14(19)    212(189)
     保土ヶ谷町   3(7)      24(49)  
     横須賀    18(28)    343(187)
     浦賀町     4(2)      32(11)
     三崎町     5(5)      58(48)
     戸塚町     5(4)      31(19)
     藤沢町    11(10)     61(53)
     平塚町    10(12)     51(128)
     大磯町     5(3)      30(6)
     小田原町    7(7)      74(53)
     吉野町     3(3)      19(16)

兵庫  福原町    96(93)   1057(1329)
     新川     22(22)    249(294)
     浦町(西宮) 38(38)    339(334)
     新地(明石) 14(14)    130(127)
     梅ケ枝    10(10)     99(90)
     飾磨     10(10)     62(63)
     高砂      5(5)      36(55)
     漁師町(洲本)18(20)     46(81)
     池上(篠山)  9(12)     29(68)
     室津       2(3)      17(32)

長崎  丸山町      4(18)     62(203)
    *寄合町     22        370
     出雲町     14(10)    213(68)
     戸町      22(12)    291(136)
     稲佐      17(14)    180(131)
     福田       8(8)      26(27)
     勝富(佐世保) 22(16)     64(114)
     花園(佐世保) 60(46)    5?0(363) 
     田子の浦     4(4)      39(37)
     瀬戸村(板の浦)19(2)      29(4)
    *瀬戸村(樫の浦)  (14)       (45)
     釜の裏      8(10)     18(39)  
     蠣の浦      8(18)     43(104)
     面高村      6(2)      27(7)
     椛島村      3(3)       9(2)
     湊町(島原)  13(10)     53(23)
     都ノ口村     5(2)      15(2)
     宇田助      7(7)      20(10)
     大島村(平戸?) 7(3)       8(5)
     水主町      1(3)      11(14)
     立亀       8(4)      75(32)
     ?知村      5(4)      18(8)
     船越       2(1)       5(2)
     田の平(大村)  8(7)     101(63)

*公娼と私娼では寄合町と丸山町を分けず一遊廓としています
*日本遊里史では板の浦と樫の浦を分けず一遊廓としています

新潟  下町      91(75)     436(465)
     新発田町    19(19)      94(122)
     中条町     11(13)      29(55)
     坂の下      5(5)       15(21)
     八幡町(五泉町)14(14)      32(26)
     曙町      14(4)        28(12)
     橋向      12(12)       25(26)
     五の町     50(44)       83(57)
     文冶町     54(33)      191(132)
     畑中       5(7)        31(16)
     間       11(8)         9(10)
     山の上(寺泊)  7(5)        16(9)
     海岸通(柏崎) 20(20)       69(52)
     塩屋新田    16(7)        54(33)
     五分一(高田) 23(19)      122(141)
     浜町      14(6)        35(14)
     二見村      7(3)        22(7)
     水金町      8(8)        24(14)
     両津   28(7)+(6)   138(25)+(41)

*公娼と私娼では両津を二つに分けています
  

埼玉  本庄町      9(7)        51(39)
     深谷町     12(3)        58(9)

千葉  登戸(千葉市)  9(11)       94(75)
     船橋町      6(19)       50(93)
     平潟(松戸)   8(12)       27(93)
     佐倉弥勒町    5(1)        28(4)
     松岸       1(1)        30(37)
     木更津町     3(4)        30(24)

昭和四年九月十五日に発行された上村行彰著『日本遊里史』の巻末付録「日本全国遊廓一覧」は明田鉄男著『日本花街史』を含め、色んなところで、収録、引用され、私も以前当ブログで一つの考察をさせていただいています。

表は、府県名、遊廓所在地、俗称、娼妓数、健康診断所、病院名、公市別、病床数、健康診断及び治療に関する諸費(県単位)で構成されています。医療関係に重心があるのは、著者が序で触れて居る様に「私は十数年間職を大阪府に奉じ、殊に公娼の衛生に関する方面に直接の関係があった」からに他なりません。

この備考欄に「貸座敷数や娼妓数は年々移動があるから何年のを掲げても直ちに変動する、これで茲には私が数年前調査したものを掲げて単に其の見当を知るに便ならしむるのである、」「健康診断及び治療に関する諸費は昭和二年度のものである。」
     
そもそも著者はどうやって各遊廓の貸座敷、娼妓数の数を把握できたのでしょう。上の数字は表に最初に書かれた東京から千葉までを写したもので(遊廓所在地か俗称は私が分かり易い様に選んでいます)( )内の数字は昭和五年の内務省警保局編『公娼と私娼』によるもので、数字としては絶対的な信頼がもてます。娼妓の鑑札(免許)を出すのは警察で、昭和二十二年まで警察、地方行政、選挙その他内務行政を管轄した中央官庁こそが当時の内務省でした。

日本遊里史の数字と内務省の数字は数年の誤差があるとしても、全く違う数字が存在する遊廓があります
     
千住  15(50)    124(316)
島原  93(146)   237(483)   
飛田 121(215)  1065(2646)
塚  40(43)     96(269)等は差が多すぎますし、

橋本  27(79)     60(493)は説明がつきません。
 
昭和十二年にこの橋本地域貸座敷組合事務所が発行した橋本遊廓沿革誌によれば、昭和四年時の橋本の貸座敷が74、娼妓373(+芸妓33)を目にすると『日本遊里史』の旗色は良くありません。

推測ばかりで申し訳ありませんが、これは上村行彰が遊廓の指定病院から得た数字を審査せず鵜呑みで揚げた数字のような気がします。全国遊廓の俗称は書き込みが有る県と宮城、福島、山形のように全く書いてない県があり、又健康診断及び治療に関する諸費が県単位計算されているところを見ると、提出された調査は県単位で得たものと思われ、提出した県の担当者の性格や責任感により不備がでたものと思われます。それにしてもお膝元の大阪での数字の差はどう考えたら良いのか分かりません。

いずれにせよ、『日本遊里史』に得た数字の年代が書かれて無い以上、『公娼と私娼』の数字を基準とするのは当然の事と思われ、少なくとも私は今後その方針でいきます。








by gionchoubu | 2015-12-15 11:54 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

公娼と私娼 その四

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静岡県、掛川十九首遊廓の妓楼跡にあった水の字がのる瓦、火災よけのお呪いなのでしょう。他に愛知県の花街跡、岐阜県の街道沿いの遊廓跡に類似の瓦がありますので、東海地方の遊廓の特色かもしれません。

左の数(イ)は昭和五年の該当府県出身の娼妓数(公娼と私娼)、中の数字(ロ)昭和五年各道府県の人口(千の単位を四捨五入)、右の数字は(ハ)は(イ)を万を外した(ロ)で割った数字で数字が大きければ、人口に対してその府県出身の娼妓が多い事になり、数字が小さければその逆ということになります。

北海道 1891     281万   6.7
青森  1193      88万  13.6
岩手   397      98万   4.1
宮城   953     114万   8.4
秋田  1664      99万  16.8
山形  2349     108万  21.8
福島  1289     150万   8.6
茨城   822     149万   5.5
栃木   791     114万   6.9
群馬   847     119万   7.1
埼玉   689     146万   4.7
千葉   639     147万   4.3
東京  2026     540万   3.8
神奈川  631     162万   3.9
新潟  1966     193万  10.2
富山   233      78万   3.0
石川   262      76万   3.4
福井   179      62万   2.9
   225      63万   3.6
長野   297     171万   1.7
岐阜   397     118万   3.4
静岡   524     180万   2.9
愛知   981     257万   3.8
三重  1458     116万  12.6
滋賀   215      69万   3.1
京都   552     155万   3.6
大阪  1833     354万   5.8
兵庫  1144     265万   4.3 
奈良   436      60万   7.3
和歌山  699      83万   8.4
鳥取   464      49万   9.5
島根   398      74万   5.4
岡山   588     128万   4.6
廣島  1127     169万   6.7
山口   671     114万   5.9
徳島   832      72万  11.6
香川   607      73万   8.3
愛媛  1733     114万  15.2
高知  1298      72万  18.0
福岡  3172     253万  12.5
佐賀  1216      69万  17.6
長崎  3403     123万  27.6
熊本  2967     135万  22.0
大分   921      95万   9.7
宮崎  1161      76万  15.3
鹿児島 1388     156万   8.9
沖縄   812      58万  14.0

人口比娼妓がすくなかったのは本州の中央に集中しています
  
1、 長野  1.7              
2、 福井  2.9             
3、 静岡   2.9
4、 富山  3.0             
5、 滋賀  3.1             
6、 岐阜  3.4             
7、 石川  3.4
8、 京都   3.6             
9、 山  3.6             
10、 東京  3.8                        
           
人口比娼妓が少なかったのは東北と南の県です

1、 長崎  27.6
2、 熊本  22・0
3、 山形  21.8
4、 高知  18.0 
5、 佐賀  17.6
6、 秋田  16.8
7、 宮崎  15.3
8、 愛媛  15.2
9、 沖縄  14.0
10、青森  13.6


人口比に於ける娼妓の比率は圧倒的に九州と東北が多く単純に計算すると長野県に対し長崎県の女性は娼妓になる確率が16倍となり、さらに外地の娼妓の出身県を入れればこの数字はもっともっと開いたはずです。

娼妓の絶対数でも1、長崎 2、福岡 3、熊本 は変わりません。東北にも娼妓が多かったイメージが強く、それはそれで合っていますが、数字で表すと、九州の方がかなり上まっていたことが分かります。



by gionchoubu | 2015-12-12 11:09 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

全国遊廓案内の謎

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全国遊廓案内による各遊廓の紹介文は、初めてその地に訪れた遊客がその遊廓で泊まる場合、あらかじめ知っておきたい情報が満載となっております。即ち、

1, その遊廓の場所及び遊廓に至る交通手段、さらに下車後からの距離
2, その遊廓の簡単な歴史
3, 陰店か写真式かの記述
4, 娼妓は居稼ぎか送り込みかの情報
5, 廻し制度の有無
6, 料金とシステム
7, 台の物(客席に出す酒、肴、茶菓子)が上記の料金に含まれるか否か
8, 貸座敷の数と名称及び娼妓の数
9, 娼妓の主な出身地
10, 付近の観光地
11, その他、宴席で歌われる民謡など

といったところですが、本書でこの総てを網羅している遊廓は稀で、大概上の項目の幾つかは欠如しています。この中で優先順序をつけると1,6,8が最優先、場所、規模、料金が一番重要となります。この場所、規模、料金が最優先なのは昭和三十年の『全国女性街ガイド』でも同じで、当然といえば当然といえます。

さて、本書の著者が情報収集の手段として、仮に土地の新聞記者諸氏を利用したとしたなら、一体誰に聞き取りをしたのでしょうか?上記の項目を鑑みれば、考えられるのは(イ)記者自身を含めたその遊廓をよく利用する者、(ロ)その遊廓の貸座敷の主人、(ハ)娼妓の情報を把握できる立場にいた人、即ちその地の遊廓事務所に携わっていた人、位に絞られると思います。

私が注目したのは9の娼妓の出身地です。これは全国遊廓案内の多くの遊廓に記述にあり、それを、ほぼ同年代に調査し、このブログ(公娼と私娼その二)でも載せた内務省調査の『公娼私娼』の娼妓の出身府県の調査と突合せ、矛盾があれば、これは(イ)遊客が持った印象と言えるでしょう。

単数、複数にせよ(ロ)特定貸座敷が情報提供者でも、中規模以上の遊廓では全体を把握するのは無理で、矢張りその聞き取りをした遊廓主人の印象という事になると思います。

もし、整合性があれば、これを知りえる遊廓事務所に聞き取りをしたと考えました。

結果は、『公娼と私娼』に載るその府県の総ての娼妓の出身県、出身地と全国遊廓案内に載った娼妓の出身府県間のほぼ総てに整合性があり矛盾を見つけることは出来ませんでした。つまり全国遊廓案内の取材先は遊廓事務所だったと思います。(*同書で出身地方が記載された200ヶ所以上の遊廓のうち、滋賀県彦根遊廓、宮城県宮丸遊廓を含め二、三首を傾げる所も存在しますが、12/12加筆)

今回の考察はカストリ出版の主催者、渡辺豪さんが前回紹介した『全国遊廓の謎』を寄せて頂いたのがきっかけでした。

現在、私自身の各地の遊廓跡めぐりは中断しておりますが、再開の折には是非コンパクトで大変軽い軽いカストリ出版さんの『全国遊廓案内』を携えていくつもりです。遊廓跡巡りには外せない一冊です。

さて、いよいよ謎が深まる本書の発行者佐藤丘巣氏、公許とは云え、外地を含めた全国の遊廓案内書を出版するには今の私たちでは想像できない壁があったでしょう。もしこの佐藤丘巣がペンネームであり、洒落気のある人なら、佐藤窮す、ペンネームに自分の心境を閉じ込めたのかもしれません。






by gionchoubu | 2015-12-09 13:56 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)