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五番町ぞめき 六

f0347663_11142938.jpg
赤の斜線が昭和三十二年の住宅地図による遊廓区域、オレンジは京都明細図(昭和二年~昭和二十五年)では遊廓区域、昭和三十二年の住宅地図では廓内かどうか私には判断できない区画)

昭和三十二年の住宅地図で当時の西陣新地(五番町)廓内を見てみます。千本通、中立売通りにも一軒の妓楼はなく、表通りからは遊廓が分からない仕組みになっています。

まず中立売通りから六軒町通りを南に下ります。とびた食堂さんの筋です、とびたさんが開業されたのは昭和三十三、四年ぐらいでこの地図には載ません。その敷地に菓子えんたつが載ります。

東側をみていくと、菓子えんたつの南が中立売診療所で最初の貸席がまつい、そして彌生、第一金清館、末広、守菊と続き仁和寺街道に面する角がかどやです。この間十二軒の内九軒が貸席であとは料理屋など、素人さんのお宅はありません。

西側は第二金清席、バーまつ子、そして仁和寺街道までが報土寺で、報土寺の北にむつみ、大文字があり、報土寺の西に八軒の貸席が並びます。

六軒町を仁和寺街道から下ると東側は酒場の密集地で、すすみ、末広、千鳥、入船などが顔をならべます。さらに南も貸席が続き、現在の千本日活の裏に西陣貸席組合があります。その南も貸席でミス大阪という貸席もあったりします。

六軒町仁和寺街道を下った西側はまず菊清というお料理屋でその隣が富士屋というすし屋、そして貸席みやこ、いろは、ふじ、つるや、菓子屋、網船案内八丁亭、貸席石梅などが続き、最後が貸席いぶきです。

また六軒町仁和寺街道の南西も一力、枡や、清南など十五軒ほどの貸席とお好み焼き、はり、料理屋、バー、酒場、西陣飲料企業組合などの一画で、西陣新地唯一でしょう、素人さんのお宅が数軒混じっているようです。

今度は仁和寺街道を東に行きますと北側には先ほどの貸席かどやの並びは美人座、サロン白鳥、料理屋、酒場で貸席万年が境界線で東隣は国生寺敷地の幼稚園です。南側は北側の万年の先も貸席が続き、天楽荘、白玉、新京楽、大一と並び。最後が西留です。

そして千本日活周辺です。現在の千本日活は旧西陣貸席業組合(先ほどの六軒町とは別の建物)の跡地です。そのから千本通りに向かって北は角三福のみ、南は大和家、白牡丹など四軒の貸席が並びます。

千本日活と並んだ北にも数軒、南にも数軒の貸席が並び、一番南の境界にあったのが貸席いずみでした。

廓内は80%ほどが貸席で15%ほどが料理屋、酒場、バー、サロン其の他は八百屋、菓子屋、氷屋、素人宅などで、風呂屋はモリタケ湯のみでした。

*昭和三十四年、西陣新地は組合長、辻本良蔵の元再編成され、御茶屋二十七軒、芸妓四十人を置き、六月二十七日おさらえ会をおこないました。(2116,3月7日付記、1960年京都名鑑より)


平成26年現在、当時の貸席を偲べるのが、私の見立てでは僅か四軒のみです。


by gionchoubu | 2015-11-29 11:17 | 五番町 | Comments(6)

先斗町ぞめき その十五

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瑞泉寺に建つ先斗町の紋章千鳥の由来を記した千鳥碑、前住職がもともと先斗町の公園に有ったものを先斗町の依頼でここに移されました。

2015年9月、北斗書房より自費出版された杉本重雄氏の『先斗町地名考 ポントの謎を解く』は二年前同氏より自費出版された『ポントを解く京都「先斗町」地名考』を改討・改題したものです。

裏表紙には“ポントはポルトガル語で先・先端の意味?「先斗町」は先端・洲崎の町?命名したのはポルトガル人?いつ頃からポントと呼ばれた?ポントを何故「先斗」と書く?「首斗」や「尻無」という字を何故ポントと読む?ポントの本当の意味と語源は?江戸時代の文献資料に基づく考証とポルトガル語解釈の再検討により、ポントという外来語と「先斗町」の地名の謎に迫る。”と有ります。

過去、この先斗町の名前の由来に多くの人が挑戦をされ、広辞苑の産みの親である新村出、早稲田大学の初代図書館館長も努めた市島謙吉、詩人、聖書学者の湯浅吉郎、そして風俗研究家で発禁処分王の宮武外骨も、この件に関し独自の説を唱えました。

先斗町廓事務所所蔵の原本が底本の『京都先斗町遊廓記録』(明治四十二年写、倉田保之編)に「先斗町の字義は川端堤の上に家居し、裏は河原なればさきばかりの町といへるより渾名せしとの説あり。又た船頭町の転訛という説もあり。案ずるに先はものゝ第一としてはじめに同じ斗は二十八宿の一にして、西方に位すものなれば、字通りに読むも万更拠処なきにしも非らざるなり。然るに先斗町と書いてぽんと町と読ましむるに就ては誰しも苦しむ処なるも必竟づる一口村とかいていもあらひ村などゝ読める類ひ多ければセとホとを戯れて呼びかへたるものなるべし。又学説として梵語より出てたるものともいへり」

と、セントと書いてどうしてポントと読むか、それは一口と書いていもあらいと読むが如し・・・と噺家さんの謎掛けの問答のような説をもち出さざるを得ない程、過去多くの文人学者を悩ませてきました。

多くの説は、ポントの発音を人名を含むポルトガル語のPONNTOやPONNTAにもとめておりますが、杉本氏は『スペイン語大辞典』の著書もあり、語学の観点からもこの考察に深い洞察を入れれるのが大変な説得力を持つのです。

又、かつて先斗町が出て来る古地図、古典作品、過去の先斗町の町名由来のすべて(と言っていいでしょう)検証を加え、過去誰もが唱えなかった説に辿りついたのです。

この場所で、その呼称由来を紹介するのも憚れますので、是非興味のある方は京都の中央の名がつく幾つかの市立図書館にて手にとって確かめてください。(書店、通販、出版社、ご本人にも確認しましたが自費出版ゆえ全く流通しておりません。又、最近の出版ゆえ本書が寄贈された図書館の開架で今閲覧できるかは確認が必要です。)

私にとって唯一つ残念なのは、私自身が定年を迎え、日々の激務から開放された暁には、是非この先斗町名前の由来に挑戦しようと思っていたのですけども、この書を読んで圧倒されすっかりその気を無くしてしまいました。

この書が通った後にはぺんぺん草も生えていないというのが実感です。


by gionchoubu | 2015-11-27 11:37 | 先斗町 | Comments(0)

張店、陰店、写真式・・・全国遊廓案内より その6

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熊本、二本木遊廓、遊女は赤襟を返しています。

滋賀県の部

彦根町遊廓・・・85、福岡、佐賀、埼玉県の女が多い

京都府の部

京都祇園遊廓・・・30、近県、及九州地方の女が多い
京都宮川町遊廓・・・330、九州地方の女が多い
八幡町遊廓(橋本)・・・75、中国、四国、九州方面が多い
中舞鶴町遊廓・・・23、多くは近県の女

大阪府の部

大阪堀江遊廓・・・43、大阪府の女が最も多い
大阪市飛田遊廓・・・2700、九州四国方面の女が多い

奈良県の部

奈良市木辻遊廓・・・318、大阪府の女が最も多く、次は奈良、京都の順である
郡山町洞泉寺遊廓・・・150、奈良、京都、大阪地方の女が多い

和歌山県の部

大島村遊廓・・・34、三重県、和歌山県の女が多い

兵庫県の部

西ノ宮遊郭・・・350、長崎、熊本地方の女が多い
神戸市福原遊廓・・・1320、長崎県人最も多い
神戸兵庫市新川遊廓・・・約200、熊本、長崎、福岡県の女が多い
高砂町遊廓・・・64、福岡県の女が最も多く、次は熊本、徳島と云う順
室津遊廓・・・30、九州の女が多い

近畿地方も陰見世が優位、娼妓は地元意外、九州地方が多い印象です。

中国地方

岡山県の部

岡山市東遊廓・・・約400、九州地方の女が重
岡山市西遊廓・・・350~360、九州地方の女が多い
津山市材木町遊廓・・・約90、重に近県の女
下津井町遊廓・・・12,3、四国、九州地方の女
倉敷市遊廓・・・103、九州人が最も多く、次は香川県の女
玉島町遊廓・・・50、熊本、鹿児島、香川県等の女が多い

広島県の部

福知山新町遊廓・・・160、中国、四国、九州辺の女が多い
府中町老松遊廓・・・96、熊本県、福島県の女が大多数を占めている
鞆町遊廓・・・約40、四国及九州地方の女が多い
尾ノ道市遊廓・・・220、四国九州地方の女が多い
糸崎町松浜遊廓・・・記述なし、重に同県下の者と、岡山、山口地方の女が多い
海町遊廓・・・約20、九州及四国の女が多い
竹原町遊廓・・・125、殆ど福岡県の女が大多数
呉市吉浦遊廓・・・110、九分通り迄は九州の女
音戸町遊廓・・・85、福岡県、熊本県の女が多い
厳島町遊廓・・・14、宮城県、鹿児島県の女が多い

山口県の部

柳井町遊廓・・・約80、九州地方の女が多い
徳山市遊廓・・・約100、九州地方の女が多い
山口市後町遊廓・・・80、重に県下の者多い
宇部市遊廓・・・130、山口県の女が多い
舟木町遊廓・・・約100、山口県、熊本県の女が多い
清水小月町遊廓・・・約30、山口県、福岡県、熊本県の女が多い
特牛町遊廓・・・約30、福岡、熊本、長崎地方の女が多い
新地遊廓・・・約300、山口県、福岡、熊本県の女が多い

鳥取県の部

鳥取市衆楽円遊廓・・・85、島根県、鳥取県の女が多い

島根県の部

松江遊廓・・・65、島根県下の女が多い

中国地方は唯一写真式が陰店を陵駕している地方で、娼妓は九州から来た女が多いいのが分かります。

四国地方

香川県の部

高松市八重垣遊廓・・・180、大阪府及中国地方の女が多い
坂出町遊廓・・・約50、四国地方の女が多い
丸亀市福原遊廓・・・120、愛媛県、福岡県の女が多い
多度津市遊廓・・・120~130、愛媛、福岡の女が多い
琴平町遊廓・・・四国及九州地方の者が多い

徳島県の部

撫養町遊廓・・・約100、主に四国及九州地方の女である

愛媛県の部

北条町遊廓・・・約20、九州地方の女が多い

高知県の部

宿毛町遊廓・・・約10、九州地方の女が多い

四国も九州地方の女が沢山いました。陰店がやや写真式を上まっています。

九州地方

福岡県の部

八幡市白川遊廓・・・270、主に九州地方の女で、殊に島原方面の女が多い

福岡市新柳町遊廓・・・520、佐賀、長崎、熊本県人が多い
久留米市桜町遊廓・・・150、多くは福岡県と大分県の女
大牟田市遊廓・・・180、熊本県、福岡県の女が多い

熊本県の部

三角町遊廓・・・40、殆ど熊本県の女計り

鹿児島県の部

鹿児島県常盤遊廓・・・353、本県の女

佐賀県の部

佐賀遊廓・・・138、主に九州地方の女
東川副村諸富遊廓・・・130、主に九州地方の女が多い

長崎県の部

早岐町遊廓・・・約30、重に近県人
大村町遊廓・・・約70、殆ど本県下の女

大分県の部

別府市遊廓・・・470位、殆ど各地人の寄り集まり
大分港遊廓・・・190、全部近県の者計り

宮崎県の部

宮崎県・・・25、主に大分県及本県下の女
細島遊廓・・・約40、鹿児島県人の娼妓が多く
油津町遊廓・・・38、宮崎県及び鹿児島県の女が多い
都の城市宮丸遊廓・・・90、宮崎県の女が最も多く、次は広島県

沖縄県の部

那覇市遊廓・・・約120、琉球の女及九州地方の女が多い

九州はほぼ九州地方の女で占められていました。面白いのは大分を除いて圧倒的に陰店が多いことです。三角は張店まで出していました。これは写真式を推奨する中央政府の意向など何するものぞ、という九州人堅気だったかもしれません。

最後に外地をみていきますと、

樺太地方

豊原町豊原遊廓・・・118、朝鮮婦人もいるが八割迄は内地の女
真岡町遊廓・・・58、多くは北海道及東北地方の女

台湾地方

彰化街遊廓・・・40位、内地人及少数の朝鮮人
花蓮港遊廓・・・約80、朝鮮人と内地人とほぼ同数
台南市新町遊廓・・・110、鹿児島県の女最も多く、次は長崎県、熊本県の女
高雄市栄町遊廓・・・150、二三十名の鮮人の他は全部内地の女
馬公街遊廓・・・約150、中には朝鮮人も居れば、本島人も居るが、内地人が一番多い

朝鮮地方

釜山牧島遊廓・・・130、福岡県、長崎県の女が多い
釜山緑島遊廓・・・約120、九州方面の人が多く
鎮海面遊廓・・・70、鮮人が二十人いて、他は長崎県、熊本県の女
馬山壽町遊廓・・・約50、全部朝鮮の女計りである
馬山府萬町遊廓・・・約40~50、朝鮮人の女が多いが、日本人の娼妓もいる
吉野町遊廓・・・70、鮮人娼妓が二十人居る。内地の女は主に長崎県、大分県
晋州面大河洞遊廓・・・重に朝鮮人多く内地人は比較的少ない
大田面遊廓・・・52、中には鮮人の女が二十人、内地の女九州人が三十二人程
金州相生町遊廓・・・50位、内地人が半分朝鮮人半数位
仁川府敷島町遊廓・・・200位、内地人の娼妓多く、朝鮮の女も相当居る
木浦遊廓・・・78、内地の女は四十四、朝鮮の女は三十四人居る
京城府弥生遊廓、150、鮮人女二人、あとは全部内地の女、中でも長崎の女が最も多い
京城府新地遊廓・・・900、長崎、熊本、福岡地方が多く
兼二浦面遊廓、鮮人娼妓は140人居て、朝鮮の女も4,50居る
平攘府賑町遊廓・・・内地人150、朝鮮人130、内地人は主に長崎人が多い
元山陽地洞遊廓・・・約80、朝鮮人半分内地人半分
成興花咲町遊廓・・・120、内地人と朝鮮人と半々位
羅南面美吉町美輪之里遊廓、約120、朝鮮人の娼妓約六十人居り、朝鮮人の娼妓が約六十人
清津星ケ丘遊廓・・・140、鮮人三十人、内地人は主に長崎県人百十人
会寧面北新地・・・約80、内四十人が内地人で、他の四十人は朝鮮人

関東州地方

大連市逢坂町遊廓・・・約500、内朝鮮人が百五十人居る。他は全部内地人で九州、中国地方の女が多い
旅順支那町・・・110、女は長崎、広島、福岡、愛媛の順

外地で多いのは九州、特に長崎県の名が多く挙ります。そして朝鮮は勿論、台湾、樺太、関東州(満州)とも、娼妓になった内地人以外は朝鮮の女性が多かった事も分かります。この辺りの事情は機会があれば踏み込んで見たいと思います。

又、見世の形式は、樺太の二遊廓が張店、台湾は主に写真式、朝鮮は陰店だったり写真式だったり、吉野町遊廓は張店でした。関東州も陰店一つに対して写真式が二ヶ所でした。

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さて、『全国遊廓案内』の著者はどうやって日本全国、外地までの最新の遊廓の情報を得ることが出来たのでしょうか。私が調べた限り、発行者の佐藤丘巣や編者、発行所の日本遊覧社の実態は不明で何の情報も得ることは出来ません。

此れだけの情報を集めるには、電話、もしくはアンケート形式の郵送によるものが思いつくのですが、記述は均等からほど遠く、北海道など、娼妓数と妓楼数のみを一行、二行で片付けるひと塊の地方がいくつか存在するのは不自然です。そもそも無名の人物や実態のはっきりしない出版社からの依頼を、遊廓側が答えるはずもないと考えます。

逆に中国地方や朝鮮など、娼妓の出身地や細かい情報が細かく書かれた地域もあり、地方による情報の温度差みたいなものが強く感じられます。

又、粟津温泉の項に「所でプロには又プロ相応の遊び方がある。表向きでは出来ないが、事実上茲の旅館の女中は殆ど湯女の一種で、こっそり女中頭に申し込めば、美しい当番の女中を廻して寄越す。当番の女中は前に云った芸妓と同じく、すっかり女房気取りで身の回り一切の世話から、酒、談話、唄の相手迄をも勤めると云う、誠に変った仕組みで、同じ女中仲間でも、客の着いた女中は、女房気取りで他の女中に用を命ずる事が出来る。」といった様な、実際遊んだ人からでないと中々書けない情報も随所に見られます。

『全国遊廓案内』の一年前、誠文堂から出版された『全国花街めぐり』という本があります。著者の松川二郎は地方の民謡を書き、名物を書き、全国の温泉を書き、美人行脚を公にした人で、旅のプロを自認した人です。

彼が『全国花街めぐり』を書くにあたり、最新の材料の供給は全国の新聞社の情報網を使いました。松川自身、過去読売新聞社に勤めていたので、その経歴を最大限に生かしたことになります。

ですから『全国遊廓案内』もこの方法なら、土地の新聞社記者諸君から、比較的簡単に情報を得られたはずです。これなら、新聞社に知己のない地方の情報は得にくかったという側面も浮かびあがります。

しかし全国の新聞社諸氏を動かせる人物がそうそういたとも思えません。私は『全国遊廓案内』にアドバイザーとしてか、なんらかの形で松川二郎がかかわった可能性があると思います。

一笑、失笑、苦笑、蔑笑、無視は当然のことと思いますが、まあ、思うことは自由だと
お許しください。

『全国花街めぐり』後編予告で松川は「しかし後編の一大特色・・・興味の中心は、何といっても、朝鮮、台湾以下植民地の新花街を収めんとするところであろう。日本の遠征美人に交って活躍しつゝある朝鮮美人、支那美人、露西亜美人、台湾美人などの華やかさと、内地とは全く異なった花街風景及びその情緒である」と書いています。

そして『全国花街めぐり』の続編はついに日の目を見る事はありませんでした。






by gionchoubu | 2015-11-24 11:52 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(2)

張店、陰店、写真式・・・全国遊廓案内より その6

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 近畿地方

三重県の部

長島村・・・103、愛知県及三重県の女が多い
四日市高砂遊廓・・・約40、殆ど娼妓は県下の者が多い
石薬師町遊廓・・・20、殆ど本県下の女計り
亀山町・・・35、殆ど三重県下の女が七八割を占めている
一身田町遊廓・・・50、殆ど三重県の女
津市藤枝遊廓・・・70、多くは三重県人
伊賀上野遊廓・・・約20、三重県人が大多数
久居町北新地遊廓・・・31、殆ど本県下の女計りである
松阪町遊廓・・・75、三重県人が最も多い
田丸町遊廓・・・20、殆ど本県下の女計り
神社町・・・30、殆ど三重県の女
名張町遊廓、20、三重県及近県の女
鳥羽町遊廓、約100、三重県の女が多い
的矢遊廓、21、何れも三重県の女計り

娼妓の出身県が書いてないので上記で省いておりますが、三重県といえば伊勢参りの精進落しの遊所として、非公許ながら江戸の吉原、京都の島原、大阪の新町と並び称された古市遊廓がありました。

野村可通著『伊勢古市考』にはこの古市の失われた世界の独特な習慣を、現在に蘇らせてくれるのです。張見世、写真式、廻し、と見て行きます。

「表玄関は六尺程の庭と格子戸である。大格子の奥が所謂張見世で、庭をはさんで三尺程の小格子がある。これを小見世と称す。」

「張り見世とは一種の顔見世である。張り見世はどの妓楼でも、もっとも重要なポイントで、それだけにその妓楼の特色を生かして粋を凝らしていた。その大方は御殿式に作られたものが多く、金襖の背景、一段高い雛段の左右に欄間が、また左側に鏡が仕切られている向きもある。この雛段へ女郎連が、長襦袢の上へ“仕掛け”と称するうちかけを羽織って、順序よく一列横隊に並ぶのであるが、その順序にも自ら順序があるのである。即ち最右翼に座る者を“お職”と称し、前月最も水揚げの多かった者を据える慣わしである。この社会ではこれを“お職を張る”といって誇りとされ、毎月何らかの形で褒章を与えていた妓楼もあった。ひな段へ一列にきれいに並んだ前には、定紋を金で浮かした朱塗りの煙草盆が一つづつ置かれ、列の長煙管で煙草を吹かす風情は、たしかに一幅の絵であった。」

そして本書には写真式についても、実に詳しく教えてくれます。

「昭和初期、世はなべて不景気のどん底、この時にあたりその筋の厳命により、見世物的要素を多分にもつ張り見世は罷りならぬということで、おそまきながら写真展示に踏み切ったのである。ただでさえ不景気に悩む各妓楼にとり、これはたしかに大恐慌で、果してこれで客が満足するだろうか、客足がさらに落ちるのではないだろうか等、数々の不安のうちに各楼は、仕方なく一斉に店舗の改造を始めたのである。」

「名物張り見世は廃止され、角型、丸型、楕円型等、妓労によって夫々の額縁に上半身大写しの写真を入れ、例によって右より序列順に、或は互い違いに、或は一列に展示し、その下に源氏名を明示する。客はその写真によってのみ、敵娼を指名するしかなく、声を聞くことも、実物を見ることも出来ない。全く頼りない話ではあるが、妙なもので、それに馴れると、客も妓も妓労もあまり気にならなくなったから不思議である。」

「客のご指名があると、外ひきさんは元気よく“○○さんご新規”と声をかける。女郎部屋は大体写真展示の裏側にあるが、声がかかると、待ってましたと女郎部屋から飛んで出て、長襦袢一枚の姿で、客につづいて階段を上がってゆく。」

そして、春のかきいれどきなどに用いられた廻しに関する記述もあります。

「そんな時、写真による指名を待つ事なく、まずとにかく二階へ引き上げて後、敵娼を選ばせるという方法もよくとられる。またそういう忙しい時ほどよくトラブルが起る。トラブルの種は大方“廻し”による不満であるが、そのトラブルをいかに円満に処理し、有利に解決するかは主人の力量である。妓楼の主人たる者、常は長袖で、遊んでいるように見えても、いざという時、それだけの才覚と度胸がなければ、またにらみが効かなければいけない。“廻し”は古市の一つの特色であるが、旅の相手なれば、それも仕方のないことであろう。」

大正時代に禁止された張店世が昭和になって少しの間まで古市においては、見逃されていた事になります。これは中央から離れていたことと、江戸時代からの長い伝統習慣だった事が影響したのかもしれません。
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                  古市で焼夷弾の被害を免れた現麻吉旅館さん

by gionchoubu | 2015-11-21 12:22 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

張店、陰店、写真式・・・全国遊廓案内より その5

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                     石川県、鶴来遊廓

岐阜県の部


岐阜市金津遊廓・・・480、愛知県、岐阜県の女が多い

山梨県の部

上野原町遊廓・・・20、附近の女が多い

長野県の部

松本市遊廓・・・120、多くは新潟県の女
岩村田町遊廓・・・5、60、新潟県の女が多い
湯田中遊廓・・・100、新潟県、本県下の女が多い

新潟県の部

高田栄町遊廓・・・130、殆ど本県下の女計りである
直江津遊廓・・・120、近県人が多い
柏崎遊廓・・・60、同県の女が多い
寺泊遊廓・・・10、全部新潟県の女計りである
小千谷町町遊廓・・・22、全部新潟県の女
長岡遊廓・・・120、県下の女が多い
三条町遊廓・・・60、北蒲原生れが多い
新発田遊廓・・・118、県下の女が多い
五泉町馬場遊廓・・・27人、県下の女が多い

富山県の部

滑川町常磐遊廓・・・15、大抵富山県、石川県の女が多い
東岩瀬村遊廓・・・約10、何れも皆近県の女計り
富山市東遊廓・・・450、富山県、石川県地方の女が多い
氷見町遊廓・・・30、石川県及富山県の女が多い
福光町遊廓・・・約20、石川県、富山県の女が多い
石動町遊廓・・・約20、何れも付近県の女
井波町遊廓・・・約24,5、石川県、富山県の女が多い


娼妓の出身県、蔭店、写真式に関して石川県の項に記述自体が見られないのは、色里に関してのこの県のシステムの特殊性と関連がありそうです。鶴来遊廓の項で、「当遊廓も芸妓の為に圧倒されて、娼妓の姿は殆ど見なく成って、今では純然たる芸妓遊廓と成って終って、娼妓は一人もいない。けれども内容は娼妓と同一のものである事は前にもいった通りである。」と述べています。

井上雪『廓のおんな』では金沢の東の廓での芸妓が二枚鑑札(芸妓と娼妓の二つの鑑札)を持たざるを得なかった理由として、体を張ることによって、早く前借金を返すという目的を挙げています。加賀百万石金沢といえば随分昔から花街文化が栄えたと考えそうですが、金沢遊廓の象徴である東茶屋街は文政三年(1820)に加賀藩12台藩主が金沢に散在した妓楼を集めて板塀で囲ったのが始めと、以外に歴史は浅いのです。

同県、加賀温泉郷の所謂温泉芸妓を辿ると、戦国時代の落ち武者の妻や娘が湯治客に春を売ったのが始まりとされています。そして全国遊廓案内でも松川二郎の全国花街めぐりでも、酒の相手から、唄のはやし、散歩のお供にも女房気取りでついてくる芸妓達に、強い興味を好感をもって語っています。

あるいは石川の花街・遊廓文化は粟津温泉や山中温泉などの湯女の古き良き伝統が底にあるのかもしれません。

福井県の部

三国遊廓・・・60、石川県、福井県、香川県等の女が多い
福井市遊廓・・・約200人、石川県、福井県の女が多い
鯖江町遊廓・・・45人、石川県及大阪府の女が多い
武生町遊廓・・・95人、高知県、大阪府の女が大半を占めて居る
敦賀遊廓・・・富山石川方面の女が多い

以上、記述の無い石川県以外の中部地方も陰店が主流です。新潟県十四番町遊廓の張店の記述は「多くは陰店制であるが本町通り十四番と常盤町通り方面には張店もあって、昔からの遊廓気分がある。」とされていました。




by gionchoubu | 2015-11-19 13:28 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

張店、陰店、写真式・・・全国遊廓案内より その4

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                        稲本別館

中部地方

静岡県の部

沼津市緑新地遊廓・・・約六十、秋田県山形県の女が最も多く
清水市遊廓・・・約四十、静岡県、愛知県、等の女が多い
静岡市安倍川遊廓・・・190、尾張、美濃、伊勢地方の女が多く
掛川町遊廓・・・25、静岡県の女が最も多い
森町遊廓・・・15、重に東北地方の女が多い
中泉遊廓・・・35、秋田、群馬、埼玉県地方の女が多い
見付町遊廓・・・25、三重県岐阜県地方の女が多い
掛塚町遊廓・・・10、愛知、静岡県、秋田県等の女が多い
二俣町遊廓・・・25、静岡県の女が最も多い

愛知県の部

豊橋市吾妻遊廓・・・495、群馬、埼玉、東京、愛知等の女が多い
岡崎市遊廓250、愛知、群馬、埼玉県の女が多い
名古屋市旭廓1650、愛知県の女が最も多く、三重県の女は此れに次ぐ
名古屋市外稲永遊廓・・・約400、愛知県、三重県の女が多い

旭廓は大須観音の裏手にあったものが明治八年に名古屋駅の裏、西部中村に移ってきたもので、中村遊廓と一般的に呼ばれました。昭和八年『郷土風景諸国花街号』によれば、娼妓は主に関東者が約六割、関西者の二割他は全国から集まった、と同年代の全国遊廓案内と全く違うのが悩ましい所です。

本家長壽楼、四海波楼、稲本楼といった大店を凌ぎ、静岡の蓬莱楼、岐阜の浅野屋と並び称された中村遊廓の稲本別館は、娼妓は全部東京の一流芸妓落ちばかり、娼妓ながら日頃は茶花、その他芸事に余念がなかったということです。

昭和二年九月九日の都新聞の記事を紹介します。

「中村遊郭ではさる八日組合事務所に役員会を開き九日総会を開催の上左記五項について協議の上県保安課へ認可を申請した。
一、 張店の復活
一、 貸座敷と芸妓置屋兼業
一、 花代一銭値上げ
一、 娼妓前借金の利子廃止
一、 年妓制度の設置
右の張店は娼妓に客の選択権を与へるといふ意味で復活しガラスの中で張店をなすものであり、また貸座敷に芸妓置屋の兼営は従来郭内では禁止されてゐた貸座敷でも芸妓を抱へ得るやうに旧遊郭時代の如き制度に復活させるものである。
年妓制度はこれまですべて花分けであったものを年期でも抱へられるやうにしたもので楼主側には非常な利益をもたらす。なお花代値上げは従来の一本十二銭五厘を十三銭五厘となし、そのうち二銭五厘を席料、五銭を前借金の返済、五銭を娼妓、一銭を楼主の収入となし、その代りに娼妓の前借金に対する利子を撤廃するといふのである。右の諸項はかねて伝へられた如く県との間に諒解あり、交換条件として遊郭側は取締辰蔵以下こぞって政友会に入党するはずである。」

張店は当然客が娼妓を選ぶ為のもので、娼妓が客を選ぶ為という詭弁は通るはずもなかったようです。『全国遊廓案内』には写真制(式)になっています。






by gionchoubu | 2015-11-17 12:33 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

張店、陰店、写真式・・・全国遊廓案内より その3

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『全国遊廓案内』で紹介された遊廓から、樺太~関東の間で娼妓の出身県か出身地方について記述がある所を抜き出してみました。

関東地方、数字は娼妓数

東京府


東京吉原遊廓・・・3560、約半分は東京地方の女、他の過半数は東北地方の女
東京洲崎遊廓・・・2500、八割迄は東北の女
新宿遊廓・・・560、福島県、宮城県の女が多い
品川町宿場・・・400、福島県、三重県の女が多い
板橋町宿場・・・98、山形県の女が最も多く
調布町宿場・・・21、栃木、茨城、及東京附近の女が多い
府中町宿場・・・25、土地の者で無く、ずうずう弁の東北女
八王子町田遊廓・・・約100、東北人も相当居る様であるが、戸籍面では東京人が大部分
父島大村役場・・・3、本島人計りである     

栃木県の部

真岡町遊廓・・・16、何れも近県の女
茂木町遊廓・・・4、熊本県と茨城県の女
御厨町福井遊廓・・・36、県下の女及東北地方の女が多い
宇都宮遊廓・・・120~130、栃木、福島、埼玉県等の女が多い
喜連川町遊廓・・・19、大てい近県の女
矢坂町遊廓・・・13、本県下の女が多い
黒磯町遊廓・・・10人位、重に東北人が多く

千葉県の部

船橋町新地廓・・・112、山形県の女が最も多く、次は東京府の女
松戸町遊廓・・・115、秋田県、山形県の女が多い

茨城県の部

新郷村中田遊廓・・・35、東北地方及近県の女

神奈川県の部

横浜真金町遊廓・・・約500、福島、山形、千葉、茨城地方の女が多い
横浜保土ヶ谷遊廓・・・50、東京地方及関東地方が多い
藤沢町遊廓・・・50、重に東北地方の女
大磯町遊廓・・・8、東京府と茨城の女
吉野町吉野遊廓・・・13、神奈川県、東京府等の女が多い

奥羽地方を見てみます

福島県の部

郡山町遊廓・・・60~70、女は福島県の女が大多数
福島市一本杉遊廓・・・約70人、何れも県下の女が多い
瀬上町遊廓・・・45、県下の女が最も多い
藤田町遊廓・・・2、3人、全部福島県の女
原ノ町遊廓・・・16,7人福島県、茨城県の女が多い
坂下町遊廓・・・5、新潟県と福島県の女

宮城県の部

大河原遊廓・・・5、殆ど宮城県の女
仙台市小田原遊廓・・・310、近県の者計り
石巻遊廓・・・35、何れも近県の女計り

岩手県の部

水沢遊廓・・・15,6、秋田県、岩手県の女
岩谷堂町遊廓・・・15、殆ど岩手県の女計りだ
黒尻町遊廓・・・20、青森県人が多い
福岡遊廓・・・約10、近県の女である
軽米町遊廓・・・6、全部青森県の女
山田町・・・6、岩手県と宮城県の女
釜石遊廓・・・20、青森県人が多い

青森県の部

三本木遊廓・・・17、多くは近県人
野辺地遊廓・・・30、青森県及秋田方面の女が多い
田辺町遊廓・・・15、近県人多く
七戸遊廓・・・15、重に近県人
青森市旭町遊廓・・・104、青森、秋田県地方の女が多い
弘前市寿町(或は北横町)遊廓、120、近県人が多い
黒岩町遊廓・・・約15、青森県及秋田県人が多い
鯵ケ澤町遊廓・・・35、青森県、秋田県の女が多い

山形県の部

米沢市福田遊廓・・・約35・・・殆ど同県下の女と少数の福島県の女
高畠町・・・8、全部本県下の女
赤湯遊廓・・・13、主に同県人の女が多い
長井町遊廓・・・20、殆ど本県下の女
左澤遊廓・・・14,5、全部本県の女
荒砥町遊廓・・・6、皆本県下の女
山形市遊廓・・・191、一部秋田県人の他は全部山形県の女性
寒河江町・・・6、全部山形県の女
酒田町遊廓・・・約100、秋田県及山形県の女が多い
湯田川温泉遊廓・・・35、全部本県下の女計り
尾花澤遊廓・・・約5,6、重に本県人多い

秋田県の部

湯沢町遊廓・・・14,5、重に同県人
横手町遊廓・・・30、県下の女が多い
大曲町遊廓・・・35、秋田、青森県の女が大多数
秋田市常盤遊廓・・・60人、何れも秋田県の女計りである
能代遊廓・・・80、同県人及近県人が多い
大館町遊廓・・・40、近県人多く

続いて北海道地方です。

函館市大森町遊廓・・・約570、北海道及奥羽地方の女が多い
江差町遊廓・・・12、秋田県、青森県の女が多い
余市町遊廓・・・20、主に北海道及奥羽婦人が多い
岩内町薄田遊廓・・・13、北海道及東北地方の女が多い
小樽南仲枡遊廓・・・約50人、重に青森県、山形県、秋田県地方の女が多い
小樽市梅ケ枝町(北)遊廓・・・約70、奥羽人多く
岩見沢遊廓・・・25、北海道の女が多い
滝川遊廓・・・40、東北地方の女が多い
深川町花園遊廓・・・35人、新潟、山形、青森県の女が多い
留萌町遊廓・・・25,6、重に北海道生まれの女が多い
旭川市中島遊廓・・・約二百人、北海道及東北地方の女が多い
旭川市曙遊廓・・・70、北海道の女が比較的多い
室蘭市遊廓・・・95、北海道の女が多い
苫小牧遊廓・・・30、北海道地方の女が重である
帯広町遊廓・・・40、青森及北海道の女
広尾遊廓・・・12、全部本道の女計りである。
厚峯(岸)遊廓・・・28、青森県及北海道の女が多い
標津港遊廓・・・3、北海道の女
枝幸村遊廓・・・9、皆北海道の女計だ
船泊港遊廓・・・11、全部北海道の女

樺太地方

豊原町豊原遊廓・・・118、中には朝鮮婦人も居るが八割迄は内地の女
真岡町遊廓・・・58、多くは北海道及東北地方の女

以上関東地方の娼妓の出身地を見ると、小規模のところはそうでもありませんが、規模が大きくなるほど東北人が占める割合が多いのがわかります。『全国遊廓案内』がどの程度の信頼性を持つか別にして、ざっと関東地方の七割は東北地方の女で占められていたことになります。奥羽地方はほぼ東北人、樺太も東北人が多かったことが分かります

東北地方に娼妓が多かったのは貧しさ故・・・というのはすぐ頭に浮かぶのですが、吉田秀弘著『日本売春史・考』が此の辺りの事情を丁寧に説明してくれます。

大正二年、東北、北海道は大凶作になり、青森は七割、北海道は九割の減収と言われ、東北では身売りする家が増加しました。

昭和六年には東北地方は冷害に見舞われ、農家は娘を売るしか手立てがない程に追い込まれ、冷害につよい青森のりんご農家はこれを免れたものの、山形県最上郡では467人いた娘のうち110人が売られました。

昭和九年にも東北一帯が冷害凶作に襲われ、娘達は再び売られる運命となり、当時の山形警察調査によると、この年山形県内の娘の身売りは3298人で、そのうち芸妓249人、娼婦(妓)1420人、酌婦1629人であったといいます。

『全国遊廓案内』は娼妓、つまり公娼が中心ですが、私娼の出身県も東北地方の女性が多く存在しました。奉公を目的に上京した娘が言葉巧みに騙されたり、女工募集の名で東京に送り込まれ私娼窟に連れて行かれる例はいくらでもあったと言います。

ただし上の出身地を見る限り、公娼に東京や横浜など都会の女がすくないのも特徴に挙げられます。娼妓になると親などに渡った前借金を楼主に返しつづけるのですが、それまで当然遊廓に縛られ続け、言葉では言い尽くせない程の苦労が続くわけです。

昭和二年、警視庁調査によれば、東京の娼妓数5734人に対し私娼は36452と六倍以上、手軽に稼げ、手軽に辞めれるカフェーの女給や酌婦などは都会の女も多かったというのが私の印象です。

さて、店のほうは奥羽、北海道とも蔭店が主流で写真式は少数派です。




by gionchoubu | 2015-11-15 11:05 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

張店、陰店、写真式・・・全国遊廓案内より その2

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                  静岡県、金谷町遊廓跡、2011年訪

前回の分類は現在の日本国内の遊廓で、同書に含まれる当時日本の領域であった、樺太地方、台湾、朝鮮、関東州地方(満州)は省きました。

又、同書の「遊廓語のしをり」で、張店とは娼妓は表店に並んで店を張って居る事、蔭店は表に店を張って居ずに、くヾりを入って、表から見えない処に店を張って居る事、写真式の説明はありませんが、遊客は文字通り写真で娼妓を選ぶ事、という事を確認させて頂きます。

先ず、これを見て驚くのは関東地方に於いて、二箇所もご法度の張店の遊廓が存在した事です。まずは久下田遊廓、ここには娼妓は八人しかおらず、妓楼も橋本楼と小倉楼の二軒のみ、この規模でどうやって店を張ったのか、そもそも張る必要があったのがという疑問が湧きます。

平塚遊廓の方は本文に、「目下は何処も彼処も写真式か蔭店式になって終ったのに、而も茲は大東京の玄関に近い所でもあるにも拘らず、依然として古風な吸付煙草で張店を行って居る。目の覚めるやうな御揃ひの打掛をひっかけて、ずらりと打ち並んで居る様は可也奇観であって、微か乍らも大江戸時代の華かさを忍ばされるものがある。」と実際著者が目の当たりにした様な書き方をしています。実際そうだったことだと思われます。

『艶本紀行東海道五十三次』で林美一は、『旅枕五十三次』からの一文を紹介し、平塚遊廓では外廻しの風習があったことを紹介しています。曰く「普通、廻しをとるといえば、同じ一軒の家の中で、女郎が一度にかけもちで何人もの客をとっておいて、うまく処理することをいうのだが、これは外へ出て廻しをとるから、外廻しといったのである。」

廻しとは女郎が同一の遊女屋で複数の遊客をとり、部屋を渡り歩くことですが、同時に複数以上の客を複数以上の妓楼でとる「外廻し」は他所で聞いたことがありません。江戸期に外廻し、昭和に張店を持った平塚遊廓の特殊性はもっと踏み込んで考えて見る必要があると思います。

ご存知のように平塚は、旧東海道五十三次の一宿で、江戸時代留女という名の宿場女郎が平塚本宿で客を引いていましたが、明治なって街道筋の遊廓は禁止され、平塚新宿の旧営林署辺に遊廓は移されました。ところが明治三十六年ごろ本宿の北にはいった豊田道に再び大門を構えました。

張店で客の目をひいた遊廓はこの豊田道の遊所で、昭和の始めに福岡、新笹、旭、相模、東、平田、京友、武蔵、金鱗、第二松栄、蛭子、第一松栄の十二軒がありました。

戦争で第一松栄楼残して全部消失、その後『全国女性街ガイド』によれば、赤線として金亀楼など四軒ほどが営業していたようです。平塚は大空襲を受け全市殆ど焼けました。ところが戦災を免れた第一松栄楼も昭和三十五年に壊されてしまいました。大きな妓楼だったらしく、今思えば残念な事ですが、どうにもなりません。

張店は大正時代に政府により廃止を命ぜられたのにも拘らず、そこそこの規模をもった平塚で堂々と張り店がまかり通った理由が分かりません。

さて、全国遊廓案内によれば、昭和の関東地方の他の遊廓は陰店が主流だった事が分かります。ところが東京は中心に行けば、ほぼ写真式だったことも浮き彫りになりました。


by gionchoubu | 2015-11-12 12:08 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(2)

張店、陰店、写真式・・・全国遊廓案内より

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                   静岡、中泉遊廓跡、2011訪

昭和五年発行『全国遊廓案内』で国内の遊廓を張店(張見世)、蔭店(蔭見世)、写真式、その他、に分類しました。分析は次回で行いたいと思います。

関東地方

張店・・・栃木の久下田町遊廓(娼妓八人)、平塚遊廓、

陰店・・・板橋町宿場、調布町宿場、父島大村宿場、川口町遊廓、深谷乙種料理店一画(娼妓でなく酌婦)、本庄町、小山町遊廓、合戦場町遊廓、金崎遊廓、真岡町遊郭、茂木町遊廓、堀米町遊廓、御厨町遊廓、足尾町遊郭、石橋町遊廓、鹿沼町遊廓、今市遊廓、烏山町遊廓、氏家町遊廓、喜連川町遊廓、矢板町遊廓、太田原遊廓、黒羽村遊廓、黒磯町遊廓、船橋町新地廓、木更津新地遊廓、佐倉町遊廓、磯浜町遊廓、鳥手町遊廓、筑波町筑波遊廓、潮来遊廓、新郷村中田遊廓、古河町遊廓、川崎遊廓(震災前は張見世)、横浜真金町遊廓、浦和遊廓、藤沢町遊廓、大磯町遊廓、吉野町吉野遊廓、

陰店と写真式を併用・・・八王子町田町遊廓、千葉市遊廓、横浜遊廓、横浜青木町遊廓、横須賀市遊廓、小田原初音遊廓、

写真式・・・東京吉原遊廓、新宿遊廓、品川町宿場、千住町遊廓、府中町宿場、宇都宮遊廓、松戸町遊廓、横浜保土ヶ谷遊廓、三崎町北条遊廓

記述の無い所・・・東京洲崎遊廓(写真式と思われます)、浦和町中野原新開地(娼妓でなく酌婦)、富田町遊廓、銚子町松岸遊廓、平潟町遊廓、

奥羽地方

張店・・・0

陰店・・・白河町遊廓、二本松大原遊廓、松川町遊廓、瀬上町遊廓、藤田町藤ケ枝遊郭、保原町遊廓、須賀川町遊郭、梁川町遊廓、湯本町遊廓、原ノ町遊廓、喜多方町遊郭、中村町遊廓、坂下町遊廓、庭板遊廓、桑折町遊廓、白石遊廓、大河原遊廓、角田遊廓、仙台市小田原遊廓、塩釜町、石ノ巻遊廓、古川町、山の目遊廓、水沢遊廓、岩谷堂町遊廓、日詰町遊廓、一戸町北館遊廓、軽米町遊廓、山田町遊廓、釜石遊廓、三本木遊廓、五戸町遊廓、野辺地遊廓、大湊町遊廓、三戸遊廓、鯵ケ澤町遊廓、高畠町、酒田町遊廓、湯温海村温海遊廓、松嶺町新町遊廓、横手町遊廓、大曲町遊廓、秋田市常盤遊廓、本庄町古雪遊廓

写真式・・・小野新町遊廓、飯坂若葉遊廓、米沢市福田遊廓、小松町遊廓、宮内遊廓、長井町遊廓、荒砥町遊廓、上山町遊廓、山形市遊廓、寒河江町、谷地町遊廓、盾岡町、新庄遊廓、湯田川温泉遊廓(陰見世でない)

陰店と写真式を併用・・・福島市一本杉遊廓、平五色遊廓(殆ど陰見世)、八戸遊廓(重に陰見世)、野辺地遊廓、青森市旭町遊廓、弘前市壽町遊廓、左澤遊廓、鶴岡遊廓、能代遊廓、

陰店でも写真式でもない所・・・黒澤尻町遊廓(楼名を染抜いた暖簾があるのみ)、湯の浜遊廓(客は勝手に部屋をのぞいて歩く)角館町遊廓、土崎遊廓、鶴岡遊廓

記述が無い所
・・・矢吹町遊廓、三春町遊廓、郡山町遊廓、本宮町遊廓、川俣町遊廓、若松市遊廓、若柳遊廓、荒浜遊廓、登米遊廓、花の巻遊廓(芸妓兼酌婦)、遠野町遊廓、久慈町遊廓、福岡遊廓、鍛ケ崎町遊廓、大槌遊廓、七戸町遊廓、黒石町遊廓、深浦遊廓、赤湯遊廓、大山遊廓、加茂町遊廓、尾花澤遊廓、湯澤町遊廓、大館町遊廓

北海道

張店・・・0

陰店・・・壽都町遊郭、浜益村茂生遊廓、釧路市米町遊廓、船泊港遊廓

写真式・・・函館市大森町遊廓、江差町遊廓、森町遊廓、岩内町遊廓、岩内町薄田遊廓小樽南仲枡遊廓、小樽市梅ケ枝町遊廓、札幌白石遊廓、江別町遊廓、深川町花園遊廓、旭川市中島遊廓、旭川市曙遊廓、室蘭市遊廓、帯広町遊廓、広尾遊廓、標津港遊廓、根室遊廓、枝幸村遊廓、

陰店と写真式を併用
・・・瀧川町遊廓、留萌町遊廓(陰見世が多い)、苫小牧遊廓、浦河町遊廓(多くは陰店)、厚峯(岸?)町遊廓

記述が無い所・・・余市町遊廓、岩見沢町遊廓、哥志内遊廓、鴛泊村遊廓、香深村遊廓、虻田郡田村遊廓、増毛町遊廓、羽幌村遊廓、幌泉村遊廓、稚内遊廓、瀬棚町遊廓、静岡村遊廓、古手町遊廓、石狩町遊廓

中部地方

張店・・・0

陰店・・・御殿場、清水市遊廓、大宮町遊廓、藤枝町新地、島田町遊廓、金谷町遊廓、堀の内遊廓、掛川町遊廓、袋井町、森町遊廓、見附町遊廓、掛塚町遊廓、上野原町遊廓、甲府市穴切遊廓、塩尻遊廓、長野市遊廓、岩村田町遊廓、湯他中遊廓、長久保遊廓、高田栄町遊廓、直江津遊廓、泊崎遊廓、出雲崎町遊廓、寺泊町遊廓、長岡遊廓、新潟市十四番町遊廓(一部張店)、新発田遊廓、中条町、五泉町馬場遊廓、佐渡両津町夷町遊廓、両津町湊遊廓、二見村遊廓、泊町神田新地、魚津町新地廓、東岩瀬村遊廓、富山市東遊廓、高岡羽衣遊廓、新湊町遊廓、伏木町遊廓、氷見町遊廓、出町遊廓、福光町遊廓、石動町遊廓、井波町遊廓、勝山町湊遊廓、鯖江町遊廓、小浜遊廓、

写真式・・・三島中島遊廓、静岡市安倍川遊廓、相良、中泉遊廓、浜松市二葉遊廓、二俣町遊廓、岡崎市遊廓、名古屋市旭郭、名古屋市外稲永遊廓、大垣市旭遊廓、多治見町西ケ原遊廓、大名田町花岡遊廓、丸岡町富田遊廓、福井市遊廓、武生遊廓、敦賀遊廓、

陰店と写真式を併用・・・沼津市緑新地遊廓、豊橋市吾妻遊廓、岐阜市金津遊廓、上諏訪町衣之渡遊廓、松本市遊廓、上田町常盤城遊廓、大野町遊廓、

陰店でも写真式でもない所・・・小千谷町遊廓(楼名を染抜いた暖簾があるのみ)、滑川町常盤遊廓(登楼してから娼妓の相方を選定)

記述が無い所・・・吉原町遊廓、板城町遊廓、三条町遊廓、津川町遊廓、新津町遊廓、入尾町遊廓、道下村遊廓、金沢東廓、西廓、北廓、主計町、鶴来遊廓、小木町遊廓、小松町、大聖寺町遊廓、美川町遊廓、上金石町遊廓、松任町遊廓、七尾町遊廓、輪島町遊廓、飯田町遊廓、宇出津町遊廓、三国遊廓、

近畿地方

張店・・・0

陰店・・・菰野町遊廓、石薬師町遊廓、亀山町、津市藤枝遊廓、伊賀上野遊廓、神戸町遊廓、久居町北新地遊廓、尾鷲遊廓、田丸町遊廓、神社町、名張町遊廓、的矢遊廓、浜島町遊廓、彦根町、八幡町、八日市町延命遊廓、草津町遊廓、大津市上柴地遊廓、大津市下柴地遊廓、大津市甚七町遊廓、長浜町遊廓、宮川町遊廓、八幡町遊廓、福知山遊廓、宮津遊廓、中舞鶴町遊廓、枚方町遊廓、貝塚遊廓、室津遊廓、

写真式・・・長島村、松阪町遊廓、新古町三遊廓、伏見撞木町遊廓(写真式が普通)、新舞鶴町龍宮遊廓、大阪市新町遊廓乙部(甲部は記述なし)、大阪市飛田遊廓、大阪市松島遊廓、堺市遊廓、奈良市木辻遊廓、郡山町洞泉寺遊廓、大島村遊廓、明石市東本町遊廓、高砂町遊廓、姫路市梅カ枝遊廓、飾磨町遊廓

陰店と写真式を併用・・・桑名町遊廓、四日市高砂遊廓、一身田町遊廓、京都島原遊廓(大概蔭店)、伏見中書島遊廓(写真式で蔭店は殆ど張っていない)

記述が無い所・・・引本町遊廓、古市、鳥羽町遊廓、荒坂村遊廓、神口町遊廓、二木島遊廓、水口町遊廓、日野町遊廓、真町遊廓、京都祇園遊廓、大阪南五花街遊廓(蔭店も張って無い)大阪堀江遊廓(店は五花街と同様何も出て居ない)、郡山東岡遊廓、新宮町浮島遊廓、西ノ宮遊廓、

中国地方

張店・・・0

蔭店・・・日比町日比港遊廓(大概蔭店)、下津井町遊廓、府中市老松遊廓、鞆町遊郭、糸崎町松浜遊廓、忠海町遊廓、小野田町遊廓、鳥取市衆楽園遊廓、米子市灘町遊廓、松江遊廓、浜田市下山遊廓(大概蔭店)

写真式・・・津山市材木町遊廓、倉敷市遊廓、玉島町遊廓、笠岡伏越遊廓、福山市新町遊廓、尾ノ道市遊廓、三庄町浪花遊廓、呉市吉浦遊廓、音戸町遊郭、広島市西遊廓、厳島町遊廓、柳井町遊廓、徳山市遊廓、防府町三田尻遊廓、小郡町遊廓、宇部市遊廓、舟木町遊廓、清水小月町遊廓、特牛町遊廓、萩町遊廓、仙崎市遊廓

蔭店と写真式を併用・・・岡山市東遊廓(店は写真式で蔭店を張って居る家もある)、岡山市西遊郭(店は写真式で蔭店を張って居る家もある)、呉市朝日町遊廓、広島市東遊廓、山口市後町遊廓、新地遊廓、

記述が無い所・・・豊前町遊廓、裏町遊廓、

四国地方

張店・・・0

蔭店・・・高松市八重垣遊廓、坂出町遊廓、琴平町遊廓、徳島市秋田町遊廓、撫養町遊廓、三浜町稲荷新地、北条町遊廓、

写真式・・・丸亀市福原遊廓、丸亀市平山町新堀遊廓、善通寺遊廓、高知市石井町玉水新地遊廓

蔭店と写真式を併用・・・多度津、

蔭店でも写真式でもない所・・・道後湯之町松ケ枝遊廓(貸座敷の方から屋形へ口をかけて娼妓を呼ぶ)

九州地方

張店・・・三角町遊廓、

蔭店・・・門司市馬場遊廓、小倉市旭町遊廓、八幡市白川遊廓、若松市連歌町遊廓、福岡市新柳町遊廓、久留米市桜町遊廓、若津町弥生町遊廓、大牟田市遊廓、鹿児島県常盤遊廓、佐賀遊廓、東川副村諸富遊廓、住ノ江遊廓、唐津町蕩島遊廓、武雄町温泉遊廓、伊万里町遊廓、佐世保市勝富遊廓、佐世保花園遊廓、早岐遊廓、大村町遊廓、島原町遊廓、長崎市出雲町遊廓、延岡町岡富遊廓、細島遊廓、宮崎市吾妻遊廓、油津町遊廓、都の城市宮丸遊廓

写真式・・・別府市遊廓、大分港遊廓、

蔭店と写真式を併用・・・熊本市二本木遊廓、八代町遊廓、長崎市丸山遊廓、長崎市戸町鶴海遊廓、長崎市稲佐遊廓(二軒は写真制、十二軒は蔭店制)、佐賀関町遊廓、

記述が無い所・・・直方町遊廓、中深遊廓、佐志村遊廓、呼子遊廓、下ノ江港遊廓、那覇市遊廓


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by gionchoubu | 2015-11-10 12:12 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

元和五ヶ条

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兎にも角にも、日本の風俗史において一番多様性を極めたのは、大正末~昭和一桁ぐらいまでの十年間ではないのでしょうか?

京都、大阪をみても。遊びを提供した場所として、貸座敷、席貸、盆屋、ダンスホール、カフェー、バー、キャバレー、そして遊びを供給した芸妓、大正芸妓、ダンス芸妓、ヤトナ、女給、ホステス、ダンサー、私娼・・・

この間出版されたものとして、

昭和四年、日本遊里史、上村行彰著
       全国花街めぐり、松川二郎著
昭和五年、全国遊廓案内、日本遊覧社編、
       芸妓通、花園花子著
       上方色町通、食満南北著
       芸妓読本、阪口祐三郎著
昭和六年、日本歓楽郷案内、酒井潔著
昭和八年、郷土風景、諸国花街号、郷土風景社
       郷土研究上方、上方遊廓号、創元社

現在でも遊廓史、花街史に於いて大いに引用されるこれらの作品群が僅か五年の間に堰を切ったように世に飛び込んできた背景には何があったのでしょうか?

大まかな時代背景としては、大正十二年関東大震災、昭和三年、普通第一回衆議院選挙があり、そして日中戦争前夜、軍需産業による経済立ち直りの期待感はあれど日本の中は不況と先の見えない不安が渦巻いていました。

昭和初期の全国貸座敷免許地は539箇所に貸座席が11389軒、娼妓が50056人、芸妓が80086人に対し私娼は10万を超えていたといいます。娼妓をとりまく環境としては公娼廃止運動が盛んに行われましたが、公娼の地位は昔と変わらず、遊廓の特殊な伝統に縛られ、自由廃業は公娼制度の中で育まれた遊廓道徳では背徳行為で、事実上大変難しいものでした。

芸妓側では、ダンス芸妓などの洋装の芸妓が現れ、新しい時代に対応しようという流れと、今までの伝統を守るという路線があり、大阪南地で絶大な影響力で君臨した大和家の阪口祐三郎による芸妓読本は、「花街は滅びる、芸妓はなくなる」と盛んに世間で言われることに対する危機感から生まれた新時代に対応する為の芸妓への指南書でした。

この遊廓、花街の停滞状況を尻目に、自由気ままに夜の街に氾濫したのが、カフェーの女給や酌婦でした。上記の私娼10万の多くは女給や酌婦という隠れ蓑を着ていました。

応永四年(1392)頃、京都の東洞院七条あたりに傾城町ができて、昭和三十三年に売春防止法が施行されるまで、日本の遊里史は公許の遊廓と、時代により名前を変え続けた私娼との陣取り合戦でした。官はつねに上がりを納める遊廓側につきました。けれども私娼側は勝利を得ることは無かったとしても、敗れ去ることもありませんでした。

1617年、元和五ヶ条が幕府より申し使わされました。

一、傾城町の外、遊女屋商売致すべからず。並に傾城町囲の外へ何処より雇来り候共先々へ傾城を遣し候事向後一切停止たるべき事
一、 傾城買遊び候者、一昼一夜より長逗留致すまじき事
一、 傾城の衣類、総縫金銀の摺箔等一切着せ申間敷事、但何地にても紺屋染を用ひ可申事
一、 傾城町家作普請等美麗に致すべからず、町役は江戸御待格式の通り急度相勤可申事
一、 武士町人体の者に限らず出所慥かならず不審成者徘徊致候はヾ住所吟味致し愈々以て不審なる者に相見え候はヾ奉行所訴 出べく候事
  
右の通屹度可相守もの也 元和三年巳年三月 奉行

此の条文は、政体が変われども、昭和三十三年まで言葉を変え生き続けました。






by gionchoubu | 2015-11-07 10:53 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(2)