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東山ダンスホール


以前多津美旅館に宿泊させて頂いた時、女将さんに許可を得て撮影しました。最初のアーチはダンスルームの入り口と別のブログに書かれていました、こういう芸当が出来たのも、創業者がもと大工さんだったからだと思います。

警察は初めこれらの業種に対し法的な規制よりも自粛の行政指導を行っていましたが、営業はエスカレートするばかり、国民精神運動機運の高まる社会風潮と相反する風俗営業には法律による規制が加えられるという方針転換がなされました。

これに該当する業種として

一、 料理店、飲食店、カフェー、バー、喫茶店
二、 芸妓、女給、ダンサー
三、 貸座席、娼妓、酌婦、密売淫、性具、婦人児童売買
四、 遊技場、ダンスホール
五、 映画、演劇、興行

酌婦は雇仲居を含むと思われますが、二のカテゴリーでなく、三に入れられたのはよほど当局の心証を害していたのでしょう。

京都のダンスに対する規制は大阪に並んで厳しく、これはダンス場に別室を設けて売春を行う業態が現れ、風紀上の大問題となったためです。この頃のダンスを取り巻く環境は茨の道で、昭和二年四月二十五日中央からの通達に基づき一斉取締りが行われ、昭和八年三月二十二日布令第三十四号を持って、全文七章五十二ヶ条からなる「ダンス取締規則」が制定され、営業時間は午後六時から十一時まで、未成年者は入場禁止、ダンサーやダンス教授は警察の許可制となりました。

この規則は風俗規制による健全な娯楽場を目的としたもので、その目的に於いて京都市内に三箇所以内の許可が定められ、認められたのが、「京都ダンスホール」「桂会館」そして昭和八年七月十日、日ノ岡夷谷町に誕生した「東山ダンスホール」でした。

ちなみに、昭和七年六月二十七日、お隣の滋賀県で突然常設ダンスホール公認が発表され、京都での許可にも大きな期待が寄せられました。それは上記三箇所の認可に対して四十六件の出願が有ったことでも分かります。


しかし、結局この東山ダンスホールも警察側にとって「健全な娯楽場」と映らなかったらしく、昭和十三年六月十日、警保局長から府庁県長宛に「舞踏場及教授ノ取締ニ関スル件」が通牒され、要約すると

舞踏は我国国情に反し、青年婦女への悪影響は計り知れないものになった。しかしせっかく認可したものを一斉に廃止するのも実情に合わない。それゆえ取り締まりを強化して風紀の振粛に努めたい、といった趣旨で、今後ダンスホールなどの新設、譲渡、拡張、増築は一切認めない、舞踏手、舞踏教師、楽士等の増加も認めない。ダンサーが客と同伴して風俗を乱す様な事があれば、即営業停止である・・・といったような趣旨でした。さらに戦時体制が日に日に厳しくなる中、昭和十五年十一月一日をもって、全面禁止となりダンスホールの灯は完全に消されたのです。

この先に述べた芸妓ダンスは、これとは別にダンサーのいない特殊ダンホール(というよりダンスルーム)として認可されていたもので、お茶屋にダンスホール(ルーム)を設けて芸妓がお客と同伴して踊ることが出来ました。

昭和八年二月、貸座敷(この場合お茶屋)席貸(宿屋として許可を受けて風俗警察の対象としている京都独特な業態、一般には待合と呼ばれた業種)料理屋等の営業場所内に設けられたダンスルームの総数は京都市内で九十二ヶ所、郡部では橋本遊廓にも三軒が記録されています。

これを業態別に見ると貸座敷に設けられたものが七十八で圧倒的多数で、次いで席貸九、料理店六、飲食店二となっていました。

このうち現在、嶋原のきんせ旅館さんと橋本の多津美旅館さんにその名残を偲べるのは全くの僥倖というしかありません。

京都府警察史第一巻
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by gionchoubu | 2015-10-30 17:38 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

芸妓ダンス

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            昭和七年、宮川町舞踊会試演、興国行進曲、宮川町ダンス芸妓総出演

京都でダンスが始めて現れたのは大正十年、三条新京極の十字屋楽器店の三階にダンスホールがオープンしてからで、革命から本国を逃れてきた元ロシア帝国付のダンサー、ラスコスカヤが教師として迎えられました。

大正十二年には新京極のカフェー・ローヤルに京都ダンシングクラブが生まれ社交ダンスの中心になりました。

花街においては宮川町の立花屋(新宮川町松原下)が芸妓にダンスを習わせ京都の遊廓ダンスの先駆となりました。さらにカフェー・西洋料理が階上にホールを設けて客にダンス場を提供する業態も続出しました。大正十五年の『宮川町貸座敷及芸娼妓名簿』に立花ダンスの屋号で載り、千代子、ラン子、ルリ子のダンス芸妓の名が登録されています。

昭和五年には、立花屋に星子(セイコ)、ケイ子、葉子、エス子、大君に千津子、ハト子、ヒトミなどのダンス芸妓がおり、たとえばヒトミの経歴は大連生まれ、両親の元で姫路女学校に入学しましが中途退学、一時マキノ映画の女優となったり、カフェーでの経歴もあったりとされ、嘘か誠かパーレス舞踏部出身の免状をもっていたと噂されました。

京都の遊廓でダンスに取り分け熱心だったのは宮川町と先斗町で、一時宮川町ではダンス芸妓で五十人ほどもいたようです。当事多くの門下を抱えた木村駒子がダンス教授として歌舞練場の舞台を一月近く占有して猛練習を積んだという記録もありました。

先斗町の場合、出雲房治郎が洋式の現在の歌舞練場を立ち上げた後、次の寺井徹郎取締がダンス芸妓育成に熱心で、他廓に先立ち特殊ダンスホールの公認を得、芸妓レビュー団から少女レビュー団まで誕生させました。しかし彼女達も長じるにつれ、置屋の女将の意向もあり、いつのまにかレビュー団を脱し普通の芸妓に転向しまったそうです。

しかし漸く、昭和九年には少女レビュー団員の十七歳の富貴谷常子が前年の十二月二十九日本名で芸妓の鑑札を受け、先斗町の始めての徹底純真ダンス芸妓として元日に店出しをしました。

祇園乙部(現祇園東)でも原和美子と中野時子を迎え、ダンスの教化に努めました。乙部に於いては芸妓のみならず、娼妓にもダンス希望者が多く、三日に一日は娼妓が歌舞練場で稽古を受けました。その練習風景の写真をみたことがあるのですが、多くの芸妓着物に島田で、男女役のペアー組み、
社交ダンスのように向かい合うという妙なものでした。

以前お伝えしたように、上七軒までダンスを取り入れましたが、私が調べた限り、祇園甲部が正式にダンスを奨励した事実は見つかっておりません。

ところが、坂口安吾が『酒のあとさき』で昭和十一年の冬に祇園の舞妓四、五人を連れ深夜の東山ダンスホールに行った話の回顧があります。それによると、安吾が座敷で当時いた三十六人の祇園の舞妓のうち二十何人かにお花をつけて祇園でお大尽遊びをした時は、面白くも何ともなかったが、ダンスホールでドテラの着流し安吾がだらりの帯姿の舞妓と踊ったとき、舞妓の存在感が圧倒的で、これが伝統の持つ貫禄かと、その美しさに感動した、といういかにも安吾らしい見方を披露しています。

これによれば祇園甲部の舞妓の中にもダンスの嗜みはあった事になります。まさか動きにくい“おこぼ”は履いてないでしょうけど、どんなステップでだらり帯姿で踊ったものか大変興味が湧きます。

参照:技芸倶楽部、京都府警察史第一巻

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               ダンサーとしては少しオーバーウエートのお嬢さんたち


by gionchoubu | 2015-10-27 12:02 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

ダンスホール

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                        生駒新地

近ごろダンス規制の問題が報道され、それまで長きにわたり日本のダンス界を取り締まった、余に時代錯誤としか言いようの無いその実体に違和感を覚えられた方も多いいのではないでしょうか?

この法律が出来たのは戦後間もない昭和二十三年で、所謂ダンスホールの環境そのものが、売春や麻薬などの温床となった状況を踏まえて、警察が目の敵にして規制してきた名残がごく最近まで続いたものです。

この辺りの風景は、愚連隊、米兵織り交ぜてエネルギッシュと退廃の狭間を漂う戦後日本のお落とし胤としてのダンスホールの一シーンとして黒澤明監督が『天国と地獄』で見事に演出しております。

さらに関西、特に大阪に目を向けると、このダンスホール規制の根はさらに深く、大正天皇が崩御されたとき、全国で喪に服すべき所、大阪のダンス業者の一部はこれを完全に無視して派手な営業を続けた為に警察側が激怒、以後大阪では洋式のダンスホールそのものの建設が許可されないという異常事態にまで発展したのです。

昭和五年奈良県生駒新地にダンスホールが建設されたのも、大阪の客を取り込む目的があったためで、近鉄で大阪から生駒まで乗り込み、大正七年に開通したケーブルで花街生駒新地に達すればそこはまさに別天地の快楽地でした。

牧山という人が総合病院の向かい側に洋式のスマートな生駒舞踏場を建設し、もう一軒のダンスホールと併せ百人のダンサーを抱えたといいます。

当時のダンスホールは午後五時から十一時までの営業で、ダンサーは早出、遅出の二組に別れ、夜九時をもって入れ替わりました。ダンスはチケット制で、税込み十枚一円八十銭、客の大部分は大阪の会社の重役連中で、年齢は三十歳から四十歳の中年紳士が中心だったといいます。

ダンサーは十七歳から三十歳までで、半数以上が十代後半の女子で和服に袴履きという割合質素な服装で通勤し、ホールでは大部分が洋装でした。ダンサーの平均収入は平均で月収百五十円ぐらいでこれは普通の会社員の月収の三倍から四倍に相当する額です。

東京では、赤坂のフロリダ、人形町のユニオンなどのダンサーは、売れっ妓になると月収は四、五百円になったといいますが、生駒のトップクラスのダンサーでもその額に達するものがいたそうです。

ところが昭和七年の満州事変、昭和十二年の支那事変と戦局が拡大すると斜陽に向かい、太平洋戦争が始まるとダンサーは二十五名に減少、まもなくダンスホールも閉鎖されました。

参照:『生駒市誌』


by gionchoubu | 2015-10-23 11:58 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(4)

なんでカフェーが忘らりょか


 
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                        パウリスタ

 最近めっきりお見かけしなくなったお店に純喫茶があります。そもそも何故純の一文字が付けられた言うと、不純な喫茶が存在したからに外ならず、この不純な喫茶こそカフェーと呼ばれた業種だったのです。

 いや、カフェーとてもともとは純粋にコーヒーを喫する店で、東京ではプランタン、大阪では川口、木津川橋のカフェ・キサラギが最初と言われています。

 このカフェーが道頓堀に進出したのは、中座と浪花座の間にあったパウリスタで、大正二年に開店すると、二、三年で在阪芸術家たちのたまり場となりました。

一、赤い灯青い灯灯 道頓堀の
   川面に集る 恋の灯に
    何でカフェーが 忘らりょか

二、酔うてくだ巻きゃ あばずれ女
   すまし顔すりゃ カフェーの女王
    何で道頓堀が 忘らりょか

三、好きなあの人 もう来る時分
   ナフキンたゝもよ 唄いませうよ
    あゝなつかしい 道頓堀よ

 その後昭和四年頃流行した道頓堀行進曲の作詞者である日比繁次郎も常連の一人でした。

 パウリスタの少し後にパノンとナンバがほぼ同時に開店すると、ともに若い美術家、文士、その関係者が昼夜頻繁に訪れ、ナンバではコーヒーを運ぶ十六、七歳の町娘を雇い、これが女給と呼ばれた最初の女性になりました。

 カフェーながら酒を呼び物にしたのがキャバレー・ゾ・パノンで旗の酒場の名も持ち、一つのワイングラスに比重の異なる赤、緑、白、黄、茶の五つの酒をいれた五色の酒が売り物で、ここに集ったのが竹久夢二、吉井勇、有島生馬、沢田正二郎らの文学派が中心で、ここにも“女ボーイ”と呼ばれた上品で行儀の良い女給がいました。

 このパノンは浪花食堂、灘万、テルハのバーと短い期間で名前が変わるのですが、ユニオンに名前が変わった頃からカフェーの形態はおかしくなり始め、昭和四年道頓堀の浜側にユニオン、赤玉、アシベ、大笑亭、フランスバー、カフェーシップ、ハレム喫茶ら十軒が建ち、南側にも赤玉支店、丸玉など五軒が客寄せにしのぎを削ったので競争は激化、女給のサービスも過激なものになっていったのです。

 「女給は90センチ以上客に寄ってはいけない」 という変な通達が警察からだされたのもこの頃ですが、電飾は衰えを知らず、昭和八〜十年頃にピークを迎えたといいます。

 もう一つ、道頓堀のカフェーは日本のジャズの魁となり、ジャズバンドによる「私の青空」 「モンパリ」 「ティナティナ」 などが連日演奏され多くのダンサーも現れました。

 このカフェーが南地花街に与えた影響は計りしれず、一現茶屋は客をカフェーに奪われ、一流の本茶屋さえ料金の見直し、客の待遇その他の見直しを余儀なくされたのです。

  宗右衛門町の芸妓は芸者衆カフェー入店厳禁のお達しが花街より通達され、お茶屋の肩を持つ商工会議所からもカフェー討伐論が出されました。

 昭和十五、六年ごろまで南地で覇を競ったのは赤玉グループ(道頓堀に二軒、戎橋に一軒、宗右衛門に一軒)対丸玉で、女給さんも社交係とかパートナーと名を変え、カフェーの中にはキャバレーと名乗る所も出てきました。

 しかし戦争が始まるとカフェーで働いていた女達のあるものは制服に着替え、国防婦人会に入って遺族の慰問に廻りましたが、殆どの者は灯火管制のひかれた闇の街の中に消えてしまった
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大正十年の広告、地獄の如く熱き・・・あまり飲みたくありません。

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  パノン

by gionchoubu | 2015-10-21 12:54 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

上方名物やとな

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かつての大阪、新世界の南陽新地はやとなの街でした。最盛期にはやとなの舞妓、やとなの幇間までおりました。

昭和六年刊、酒井潔著『日本歓楽郷案内』の大阪歓楽郷案内の第六章『上方名物やとな』は当時の擬似芸妓としてのヤトナの等身大の姿を映し出しています。

「上方特有の職業婦人にやとなというものがいる。芸妓の役目と娼妓の役目と兼ねているが、私娼ではない。ちゃんと公認された存在である。やとな倶楽部とか、組合というものがあって、客の求めさえあれば飲食店だろうと、ソバ屋だろうと、出先の上下はかれこれ言わぬ。

歌沢や常磐津など注文したって、それは注文するほうが野暮であるが、俗歌や端歌の一つ二つくらいは、ポツンポツンと三味の音にあわして歌ってもくれよう。その代り花代もずっと安い。

仲居上がりもいれば、お茶引芸妓のなり下がりもいる。大きな宴会などがあって、芸妓が出揃って間に合わぬ時は、やとなでも呼んで散在しようということはあり勝なことだ。」

やとなが誕生したのは奈良か、京都か、大阪か分かりませんが、とにかく関西地方で爆発的に繁栄しました。四国、中国、東海地方まで広がります。北陸でヤトナの話は聞きませんので、芦原、片山津、山中などの温泉芸者が盾となってやとなの進出を食い止めたものと思います。現在関西でヤトナの話は聞きませんが、四国などでは、まだヤトナさんが生き残っているとい話は仄聞します。

「二流三流の料理屋でも結構だから、女中に命じさえすればすぐに呼んでくれるはず。別にうるさい規則があるわけでもなく、やかましい習慣もないからやとな買いは簡便である。」

と、同書は教えてくれます。うるさい規則とは本芸妓を呼ぶ場合に比べて、という事です。

「芸もたいしてできないし、さればといって娼妓までなり下がるのも気がひけるし、売笑婦になって秘密稼ぎはなおいやだという、あらゆる意味においての日和見的な傾向をもつのがたとなの特徴であろう。けれども芸妓や娼妓よりずっとお金がたまる商売だそうだから、われと思わん方々はこぞって結婚の予約申込をすべきである。いいチャンスといい対手さえあれば、いつでも足を洗おうとしているお姐さんたちが多いのだから、思ったよりも案外はかばかしく相談がまとまるかも知れぬ。」

さて、いくら安いといったって、当時の男共はなぜ調子はずれの三味線を弾くヤトナを揚げて夜な夜な騒いでいたのでしょうか?

ちゃんと答えも『日本歓楽郷案内』に出ております。

「ええ、彼女と雲隠れする方法?」そんな野暮なご質問は・・・女中にさえ頼めば、一にも金、二にも金の色町のならい、そこはそれーねえ。それとも、お土産いただくのが恐いような方は、最初から素性のしれない女など御対手にしてはいけない。週一回ずつ検査をやる娼妓からさえ、われわれはしばしば結構なおみやげを頂戴することがあるのだから。

このやとな、すでに大正時代に東京進出を果たしたことは果たしたのですが、東京には定着はしませんでした。苦労を厭うヤトナのやわな足では天下の険である箱根の峠を越えることが出来なかったのか、あるいは伊東や熱海の芸者衆が身をもってやとなの攻勢を阻んだのか、今の私に答えを見出すことは出来ません。


by gionchoubu | 2015-10-18 11:32 | 雇仲居 | Comments(2)

宮川町、駒屋、とし輝さん

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当ブログのアクセスレポートの記事別レポートで、最近とし輝さんが上位にきますので、私が撮影したとし輝さんの画像を年代順に掲げます。 まずは2008年6月23日、曲は“夏は蛍”
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                      2009年6月17日
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                     2009年10月7日
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                     2009年10月13日
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                      2010年5月18日
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                      2010年6月3日
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                      2012年9月27日
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              2013年4月21日 左より とし智、とし暉、とし夏菜

by gionchoubu | 2015-10-16 15:11 | 舞妓・芸妓 | Comments(0)

二条新地 川東・思い出ばなし

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                     二条新地 与路洲屋 君勇

前、嘗ての二条新地の芸娼妓扱店で、慶応三年の『四方のはな』から千印を掲げた千歳屋、扇印の扇屋、ふ印の福島屋、又、田中緑江の『亡くなった京の廓』では明冶四年頃に芳鶴屋があったことが分かります。

さらに今回紹介するこの二条新地で生まれた佐々木米一郎氏が平成六年出版した『川東・思い出ばなし』を読めば、前記以外にも与路洲地屋、たちばな屋などが明冶時代にも軒を並べて居た事が分かりました。

同書に収録された昭和42年の京都新聞「まちの履歴書」では中川町にあり、遊郭の面影を残した佐々木氏自身のお宅の写真も載っております。家の表には新撰組がなぐり込みかけた刀キズが幾つも付けられている、とありますが、現在そのその場所には新しい家が建つばかりでした。

さらに、この本が出版された当時にはまだ、旧二条新地に「新先斗町東側中程と大文字町東側とに間口の広い家で二階の欄干がそのまま残されていて、他にも五、六軒その名残を見受けることができます。」と佐々木氏は述べられています。

現在、それから三十年弱、この内一軒の二階が当時のまま残されておられるのは、実際私自身当家のご主人に確認させていただいている次第ですが、こちらが二条新地最後の名残かもしれません。(ひょっとしたら他にも、もう一軒程有るかもしれません・・・)

かつて二条新地は京都の四大遊廓のひとつとして、往時には茶屋二百五十、芸娼妓五百の規模を誇りました。ところが何故か二条新地について調べようにも、田中緑江さんがまとまった項を『亡くなった京の廓』で紹介した以外、殆ど新事実はでておりません。この『川東・思い出ばなし』は久々に二条新地について、しかも地元から発信された貴重な本で、京都府立総合史料館の書架で簡単に拝見できます。

中でも、検番と思われる様式の建物が大正初期に夷川川端を東に入った北側にあった事、遊女逃亡防止の米屋ゴウシ、ノゾキ、イキな階段、島原の角屋や輪違屋の二階表の茶屋格子と同じ構えの家があった事、明冶初年まで新地に満願稲荷があったものの場所が分からない事、大正末期の話ですが、祇園育ちで花見小路のお茶屋の、その頃八十歳位の老女将の言葉「私のおちょぼ(舞妓さんになる前)時代でしたが、祇園から二条新地の灘波町辺りから新地を通り抜けて、三本木のお茶屋さんへよく行ったものですが、賑やかな通りでしたえ」、という証言があった事、西昌寺には、苦界に働き身寄りのない人々の無縁の位牌が残っている事・・・

しかし一番の驚きだったのは「西寺町正念寺の観音堂には天智天皇の親額と正観世音の御本尊が祀られていますが、親子深縁の仏様として珍しい仏様です。苦界に身を沈め働く人たちの心の絆を深めたのでしょうか。二条新地の芸娼妓たちの信仰が篤かったとみえ、芸者大塚糸勇や与路洲屋君勇とかの芸名の入った押絵の額や六人衆芸者の花見踊の板絵の他、ちとせや糸吉など、明冶九年奉納の文字も判然としていて、その信仰ぶりが推察されます。」の一文が載ることでした。
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                    二条新地 大塚糸勇(明治9年)
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                     二条新地 ちとせや糸吉

by gionchoubu | 2015-10-13 17:17 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

ヤトナの終宴

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昭和三十三年売防法施行後、京都市のポン引きが目を付けたのは赤線周辺に存在した経営不振の小さい旅館で、中には赤線からの転業者もおりましたが、素人が手を染め、ポン引きに電話で連絡して女を世話する、さらにはバーの女給が、何度も男を変えて泊りに来ても、実情承知の上同伴で泊める、女を別のところに下宿させ、泊り客に宿の女中が斡旋するといったように自らが管理売春に手を染めるというところまで現れました。

とにかく松原署管轄だけみても、四百軒の旅館の内半分がこの道に関与したといいますから驚きです。

こういった傾向に歯止めがかかったのは、ひとつには昭和三十九年東京オリンピック開催が背景に見え、警察も国の威信をかけ、風俗取締りに全力を掛けた結果ではないかと推察されます。ちなみに、都をどりの開催される祇園甲部歌舞練場の隣のヤサカ会館で、冬期には週末開催のみになるも、春、夏、秋には毎晩京舞を含む古典芸能を鑑賞できるギオンコーナも、外国人向け開演として東京オリンピックと同時に始まり現在に至ります。

この東京オリンピック開催に前後して全国でホテルオープンラッシュがあり、立食パーティの機会も生まれ、夫婦でパーティに出席する習慣がない日本独自に生み出されたのがバンケットコンパニオンだったのです。

京都バンケットサービス業協会が平成二年に関係者に配ったKBSA通信NO2「5年のあゆみ」を読みますと、京都のコンパニオン創生期の状況は「考えてみますと、私はコンパニオン歴に付きましては20年以上という長丁場となりましたが、当時は他に類をみない新職種の為、お客にいかに理解を得、受け入れて頂くか、悩み、かつ苦悩したものでした。」という生の証言があります。

この京都バンケットサービス業協会が結成されたのは昭和60年2月13日、すし松別館で、初代会長には京都企画の代表取締役であった秋山末吉氏が選ばれ、その設立趣旨には

「人材派遣事業立法化の進む中、バンケット・コンパニオン派遣業界も全国的には、大手業者の集いとして日本バンケット・プロデュース協会が設立され、現在野放しになっているこの業界に自主的に規制を設け、社会的にも認知される業種として発展させていこうと活躍されておられます。
 京都の業界も個人営業等を加え、役50社位の業者が乱立致しております。なかには社会的にもひんしゅくを買い、又、労働者保護の立場からも問題になる営業をされている業者の方々もおられる様に推察される現況であります。
 そこで、我々も業界発展の為、又、京都の観光事業の一端を担うものとして、よりグレードの高いサービスをモットーに、バンケット・コンパニオンの教育等、労働者保護の立場をふまえつつ、清潔・明朗なる業者の集りの場を持つ為、協会設立の運びとなりました。」

この社会的にひんしゅくを買うものの中には、ピンクコンパニオンの存在もあったでしょう。京都市の場合、旅館は大阪万博前から修学旅行旅館と高級旅館に二分され、温泉地と違い、ピンクコンパニオンの育つ土壌も、需要も殆どありませんでした。

ただし皆無というわけではなく、二十年ほど前、伏見にピンクコンパニオン派遣業者があったのを私は知っております。こちらを呼ぶのは、たとえば、他府県の男性中心の公的な職場で(ご安心ください。私の知る限りでは警察、消防関係ではありません。)地元ではなにかと人の目につくので、日帰りで京都で羽目を外す・・・といった催しだったりしたものです。(現在でも、風の噂によれば、手配可能のようです。)

コンパニオン業界においても、コンパニオン引き抜き合い、不良コンパニオン、フリーコンパニオンといった問題も抱えていました。派遣先の旅館側で問題とされたのは、スナック嬢であるコンパニオンが旅館に入り、宴会のあと自店に強引に勧誘し、あとで旅館にクレームがつくといった事があります。

しかしコンパニオン業界の一連の努力により、バンケットコンパニオンは世間に認知され、オフィスレディや女子大生のアルバイトのコンパニオン達が時にほんの少しの割増料金で着物を着て宴会場に入るようになると、もはや組織力まで失った京都のヤトナが復活する道は完全に絶たれたのです。

参照:遊女と街娼、錦織剛男




by gionchoubu | 2015-10-11 10:37 | 雇仲居 | Comments(0)

コンパニオン

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昭和五十六年の京都市の職業別電話帳で、芸ぎ紹介欄を見るとコンパニオンセンター、みやびバンケットの二業者がここに電話番号を載せています。これは、まだコンパニオンの見出しがない為、やむなく実質雇仲居置屋の欄である芸ぎ紹介に顔を出したものでしょう。昭和五十八年には新たに芸ぎ紹介欄にワールドユニバースが加わりますが。名前から判断すると、こちらもコンパニオン派遣会社と思われます。

みやびバンケットは現在みやびプロデュースの名の元、コンパニオン派遣事業を中心に活躍されております。京都府旅館ホテル生活衛生同業組合参加の共栄会の会員として、同組合の忘年会、新年会のお手伝いもされています。

さて、昭和五十九年の職業別電話帳に初めて「コンパニオン紹介所」の欄が設けられ、アーバンプロモーション、京都企画、シェル・バンケット、ソシアル、たんぽぽ、ティープラント企画そしてみやびバンケットサービスの各社が登録しました。

ところが僅か六年で、コンパニオンの需要が爆発的に増えたと考えられるのは、平成二年の職業別電話帳をみると、「コンパニオン」欄に四十社以上の業者がひしめきあっており、今度は逆に、玉川クラブ、花の会、三吉クラブなど実質やとな派遣業者が芸妓置屋欄とコンパニオン欄と同時に登録しているのが分かります。

この頃のコンパニオン業務は欄外の広告をみると、パーティ・宴会コンパニオン以外、観光ガイド、プライベート秘書、展示会、イベント、タレントマネージメント、クラブ・ラウンジのトータルプラン、コンサート・ディナーショーキャンペーンガールと業務内容は芸能プロダクションやスナック、ラウンジ、クラブレディーの手配まで幅広い需要に答えようとしているのが見て取れます。

これはまだ業界にも、世間にも、コンパニオンのカテゴリーが確立していない過度期といってよく、この業種振り分けは何度かシャッフルされ、とりあえず今の状態に落ち着いていると見てよいでしょう。

平成九年のコンパニオン欄は二十七社と平成二年から大幅に減っており、かつてコンパニオン欄に登録していた業者の幾つかは、大きく成長した芸能プロダクションなどに業務の移行がおこなわれたと推察されます。

この業者が世間に認知されていく段階、「バンケット・コンパニオンのことなら・・・信頼ある実績、ご満足いただけるサービス、安心してご利用いただける、裏面の協会加盟会社へ、ぜひご用命ください」のモートーの元、ホテル、旅館の派遣を中心に昭和六十年に設立されたのが『京都バンケットサービス業協会』でした。

KBSA(京都・バンケット・サービス・アソシエーションでありましょう)通信NO.2の加盟会員は平成二年、

アイプロジェクト、ASUKA、アルファー企画、加茂企画、京都企画
京都中央企画、総合企画くすの木、クリエイトイフ、グループしずか、サンコー企画、サンフラワー、千日企画、ソシアル、ニューバンケット、みやびプロデュースの各社で、事務局はみやびプロデュースにおかれました。

この千日企画が昭和九年の職業別の電話帳に「コンパニオン派遣」に載らず「芸能プロダクション」に欄を移しておりました。


by gionchoubu | 2015-10-08 11:43 | 雇仲居 | Comments(0)

ヤトナは何処に?

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昭和八年の職業別電話名簿に安井神社境内に東山花壇とやとな安井倶楽部本店が載ります

芸妓は花街という籠の中に、地盤区域を定められ、重税を課せられ、その行動範囲から、服装、髪型、生活様式にいたるまで、あらゆる所でがんじがらめの枠にはめられ、さらに芸の裏づけがなければ明日がないという厳しい条件がつきまといます。

そこで行くと、その前身が酌人という冠婚葬祭や宴会の雑役をこなしてきた雇仲居は、全く違う職分だったわけです。問題は雇仲居の一部が芸妓の職分を侵し、擬似芸妓として、宴会に侍り、さらに、この擬似芸妓分野が本職となってしまった事にあります。

結局、戦後にいたって雇仲居とは、三味線を携えて座敷に呼ばれて、簡易芸妓としてお客を遊ばす、もしくは芸の素養もなく、ただ酌婦として呼ばれ、お客の求めに応じ金銭でもって夜のお供をする・・・という二つの流れが出来たと思います。

本来雇仲居の本分は酌婦でなく酌人にあるわけで、擬似芸妓も擬似地方も、ましてや、宴席は隠れ蓑で夜のお供が主になる雇仲居が主流になるとは、大正四年、京都で最初の雇仲居倶楽部である「やとな倶楽部」を立ち上げた主幹、鷲尾彦次郎の本意では無かったはずです。

その会則によれば、当倶楽部の会員は諸礼式、謡曲、茶道、音曲等の教育が行き届き、品行方正、どんな厳格なご家庭に呼ばれても大丈夫・・・しかるに戦後、厳格な家庭の一軒でもヤトナを家に招きいれた奥さんはいらっしゃったでしょうか?

現在京都で五花街は健在、舞妓は京都の代表としてお座敷は勿論、行政に、コマーシャルに、映画に、テレビのバラエティーに、引っ張りだこ、外国人の人気も大変なもの、つらい修養は報われました。

一方、花街最大の敵言われ、安くて便利、電話一本でどこにでも現れたヤトナは何処にいってしまったのでしょうか?

やとなの首を締めたのは本分を忘れたヤトナ自身であったのだと思います。 

昭和に入って、遊廓、花街業者がヤトナの次に怖れたのは、モダンなカフェーの女給達でした。カフェーの設備は近代的、当時洋画で見られる銀幕世界の中で、タンゴやチャールストンを一緒に踊ってくれる洋装のカフェーの女給のほうが、花街にとって次元の違う脅威でした。

結局ヤトナを呼んだ男達は誰よりも移り気で無節操、カフェーの女給、キャバレー嬢、ピンクコンパニオンなど、その時代の魅力で飾られた女性達にその趣向をなんの躊躇いも無く変えてしまったのです。

やとなの本分である行儀作法で冠婚葬祭を取り仕切る酌人としての立ち位置を振り返ったとしても、省みる事のなかった元の職場は他の業種に完全に奪われた後、ヤトナの帰る所はどこにもありませんでした。


by gionchoubu | 2015-10-05 15:46 | 雇仲居 | Comments(0)