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雇仲居倶楽部 お茶屋と置屋

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      五条楽園

今一度昭和三十八年の職業別電話帳の芸妓紹介(置屋、小方を含む)欄で五条楽園の雇仲居倶楽部を探してみると。(個人名を除く)あさひ倶楽部、おとめ、川崎クラブ、神戸屋、次郎長、大喜倶楽部、第一倶楽部、高瀬クラブ、ニコニコクラブ、ミヤコクラブ、丸八クラブ、

同年のお茶屋(待合、貸席を含む)の欄には、ヤトナが送り込まれたと思われる五条楽園のお茶屋が、五花街や島原のお茶屋と肩を並べていますので、個人名を除いて書き出してみると・・・いわみ、一力、扇屋、かま田、川竹、喜久粋、きしや、京矢、銀柳、孔雀、好成楼、三友、三友楼本家、新田中、新ふよう、末広、友喜、第一千代鈴、宝船、谷梅、千代幸、つるや、つるや支店、築家、登美家、友恵、浪花、羽衣、花びし、花柳、東三友、東大和、ひょうたん、ひらいわ、光、芙蓉、富美の家、平安クラブ、桝谷、みかさ、三日月楼、明月、ももよ、八千代、大和、大和家、米栄、若ゆり・・・

ただし、こちらの一力さんは祇園の一力さんとは全く関係はありません。全国に一力の名をもつ店は、飲食店を中心に大変多く、京都でも現在先斗町に一力の看板を上げるラーメン屋さんがあります。以前この風潮を元祖祇園一力のご主人に尋ねた人がおりまして、「このご時勢、お茶屋経営だけでは中々大変なので、全国に支店を出して・・・」のような、粋なお答えされたという話を聞いております。大御茶屋のご主人の余裕と洒落は長年かけて培われたものなのでしょう。

送り込むクラブより、送り込まれる御茶屋のほうが多いのはこの世界の常、また置屋であるクラブは基本質素な店構えで、一方お茶屋は、色んな意匠でお客をひきつける必要があります。

二十年後、昭和五十八年版の芸妓紹介欄を見てみると、今度はコンパニオンセンター、みやびバンケット、ワールドユニバースなど所謂コンパニオン派遣会社が芸妓紹介に乗り出してきました。といっても派遣要員は雇仲居と見るべきで、洋装のコンパニオンも派遣するが、要望があれば、着物を着たコンパニオンとしてヤトナも派遣するといった処でしょう。

平成二年になりますと、芸妓置屋欄からコンパ二オン派遣会社欄から消え、コンパニオン派遣会社は総てコンパニオン派遣会社の欄に入り、玉川クラブは芸妓置屋欄にもコンパニオンの欄の二つに顔をだしています。欄外の枠で芸妓置では舞妓の後姿と簪の絵に筆書体で芸妓置屋玉川クラブ、コンパニオンの枠ではパーティ&宴会コンパニオンのご用命は・・・TaMaGaWa Club、そしてキュートな洋装の女性が描かれています。

さて、現在、嵐山の旅館などで舞妓を手配すると祇園東などから、亀岡の湯の花温泉の旅館で同じく舞妓を呼ぶと、たとえば宮川町からタクシーでお座敷に来てくれますが、花街のシステムとして、往復の時間も花代に計算されますので、祇園で呼べは100分いてくれる処、実質嵐山では一席が30分を切ったりしますし、亀岡では二席の料金が必要となります。当然往復のタクシー代も馬鹿になりません。

京都商工人名録、昭和九年版に株式会社嵐山倶楽部が太秦西蜂岡町に、昭和三十八年の職業別電話帳には嵐山京福電停前に、新研芸妓置屋、嵐山クラブが登録されており、これは当然、嵐山の旅館の需要を見込んだものでしょう。ただし昭和四十八年版では姿を消していました。


by gionchoubu | 2015-09-30 12:30 | 雇仲居 | Comments(0)

五条楽園芸妓組合

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前々回書いたように、昭和三十八年の京都の職業別電話帳は芸妓紹介所として雇仲居、新研芸妓の紹介所と一現(見)さんお断りのお茶屋を二つの職種と分けて掲載されておりますが、後者に以前当ブログでも紹介した宇治、橋本、中書島の花街が載りますので順番に見て行きます。

まず宇治には宇水園、ふくや、山水、洛巽亭と個人名の五軒が名をつらねます。宇治は花街のみの歴史で、娼妓はおりませんでしたので、宇治の旅館に入る芸妓置屋と見てよいでしょう。

一方は橋本には、中之町に京山、昌英?、西幸福、初菊、前田楼そして小金川にも第五一橋が登録されています。橋本の芸妓は戦前に消滅しており、売春防止法の時代は娼妓ばかりでいたので、このお茶屋はいわゆるヤトナ系専門置屋だったと思います。橋本は売春防止法以後、温泉旅館街を目指しましたので、旅館に擬似芸妓の需要は大いにあったでしょう。

中書島には愛乃家、第三末高、近江家、とんだや、叶良家、中時、日乃出、山種、ふじや本店、美芳と八軒の個人名の登録があり、これらは芸妓のいる本茶屋と芸妓置屋、新研芸妓の席貸、置屋と私は見ています。

上記の置屋、お茶屋などは昭和四十八年版でも六割ほど残りますが、昭和五十八年版で認められるのは中書島の美芳と宇治に突然現れた銀杏庵のみです。逆に言えばこの頃まで花街の伝統が中書島と宇治には残っていたことになります。

さて、京都市の中央に戻り、職業別により昭和四十八年の芸ぎ紹介を参考にして、個人名や判断の難しいお店を除いた昭和後期の雇仲居倶楽部や組合を見ると・・・

あこや倶楽部 東大路松原上東
御池倶楽部 高台寺門前下河原、下河原八坂鳥井前下
京都新研芸妓東山組合、京都雇仲居従業員組合、下河原月見町
祇園クラブ 下河原八坂鳥居前下
寿栄吉倶楽部 東大路松原上
辰巳倶楽部 東大路松原上東
玉川クラブ 下河原八坂鳥井前下
正城倶楽部 下河原八坂鳥居前下
弥坂クラブ 東大路松原上
森田屋 清水4
あこやは嘗ての阿古屋新地、辰巳も昔あった辰巳新地由来でしょう。

あさひ倶楽部 西木屋町五条下
五条楽園芸妓組合、五条楽園芸妓置屋組合、西木屋町五条下
高瀬クラブ 木屋町五条下
次郎長 三ノ宮上ノ口上
大喜倶楽部 上ノ口二ノ宮西
第一倶楽部 加茂川上ノ口上
おとめ 加茂川六軒上
福の家倶楽部 加茂川六軒西、加茂川六軒下
丸八クラブ木屋町六軒東
ミヤコクラブ 東木屋町六軒下

上木屋町芸妓置屋組合 二条木屋町東生洲町
西京倶楽部 木屋町三条上
翁クラブ 木屋町御池上
忠兵衛 三京河原町上東
二条星ノ家 木屋町二条
二条クラブ 二条木屋町東

上より下河原〜松原東大路郡、五条楽園郡、上木屋町郡と三つのグループに別れ、かつて雇仲居倶楽部の密集地であった高瀬川沿い仏光寺〜松原間の倶楽部が下木屋町の検番もろとも消滅しているのが見て取れました。




by gionchoubu | 2015-09-28 12:18 | 雇仲居 | Comments(0)

廓育ち

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          この先すぐ右手に京都新研芸妓東山協会がありました。現在は全く無関係のお店です。

“関西独特の「やとな」は奈良が本場、それがいつの間にか京で完成されてしまった。本人達は「新研芸妓」と称し、宿では「やとなはん」といい、お客は「やとパン」と呼ぶ。宴会ではお酌はもちろん歌も三味もやり、散歩にもつき合い、温泉同伴も遠出なしでやる。宿での話し相手から夜のお勤めまで、ひとりで芸者、女中、恋人、女郎を勤めてくれるという仕組みだから調法である。東山の安井、下河原一帯と上下木屋町に散在して宿に呼べる。”昭和三十年、『旅行の手帳NO.20』に収録された『よるの女性街・全国案内版』の東山・木屋町の項で執筆者の渡辺寛は述べています。

この便利な「やとなはん」いくらで呼べたのでしょうか、昭和三十九年発行、錦織剛男著『遊女と街娼』によると、当時五条楽園は新研芸妓とヤトナで八十一名、売春防止法後五年程経っていますが、五番町にもまだ新研芸妓十一名、祇園乙部に本芸妓七十三に対し新研十九名、中書島に本芸妓十八名に新研二十名いた事になります。

同書によると、昭和三十七年四月調べで、祇園甲部の一時間の花代は640円、新研は50分400円とあまり代わらないように思えますが、実際甲部の芸、舞妓を呼べば、花街独自の仕組みをを経るので、とてもこれでは済まず、一方新研は本芸妓の半分~三分の一ぐらいの料金で呼べたのでないでしょうか?

さらに、新研、雇仲居その他観光芸妓なるものが裏稼ぎをすると、

セット制 表面は料理屋、裏で売春
ドリンク制 飲屋で世話され旅館にいく
シモタヤ売春 旅館と連絡してやる、といった具合になりました。

昭和三十九年公開、東映映画、『廓育ち』は売春防止法施直前の島原の様子を捉えたものです、その中で宮口精二の科白「まぁ、赤線の業者諸君も、(売春)防止法の適応を受けることになったが、しかしなぁ、心配はご無用ちゅうもんや、新しい検番を作っておやま(娼妓)は皆新研芸者になってもろて、のう、芸者が客と惚れあって寝たちゅうことになれば、防止法の適用は受けへん、名案やろが。」

ところが、昭和三十八年の職業別電話帳で新研芸妓を掲げるのは、組合、置屋を含めて五箇所ありましたが、昭和四十八年の職業別電話帳(欄外の別枠宣伝)では、御池倶楽部と玉川倶楽部そして本欄の京都新研芸妓東山協会の三箇所、昭和五十九年では、京都新研芸妓東山協会のみ、玉川クラブも芸妓置屋として載せています。そして京都新研東山協会も昭和六十二年を境に電話帳から消えております。実は住宅地図の方はその何年が前から姿を消しているのですが、所属の新研芸妓の保険、税金等の残務処理の関係もあったでしょうし、電話だけ残していたのかもしれません。とにもかくにも、新研の名は昭和と共に滅んだと見てよさそうです。

余談ですが、やとパン、あんまパン(パンマ)などの風俗語はパンパンからきており、コールガールのニュアンスが大変強く、最近女性アナウンサーを~パンと呼ぶ風潮に、私などは大変違和感をもってしまいます。


by gionchoubu | 2015-09-26 15:47 | 雇仲居 | Comments(0)

新研芸妓


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 下木屋町の雇仲居の検番があったあたり。(京都明細図によれば西木屋町仏光寺を下がる四軒目の東側)

渡会恵介は『京の花街』で、「上木屋町と下木屋町に加えて東山に検番があって、<新研芸妓>という。下木屋町が、東山に合併して二つのグループとなり、芸妓置屋組合もある。新研とは“新しいセンスと美しさにあふれた”という意味で、芸妓を呼ぶときは、それぞれ置屋のグループへ直接電話すればよい。ほとんどが宴会花だから、料亭での宴会へ出張するのが専門、いわば純粋のホステスといえる。」と書いています。

この下木屋町の検番は、昭和八年の松園蔵版の『京都職業別電話名簿』にも『京都商工人名録昭和9年版』にも載りませんが昭和九年の『京阪神職業別電話名簿』に雇仲居置屋業組合事務所として確認でき、場所は西木屋町、仏光寺下、これこそが上記の下木屋町の検番だと思います。この時点では上木屋町の検番は何処にも見えません。

戦争を経て、昭和二十四年、京都の他の花街の芸妓と共に、東山区下河原月見町のヤトナ従業員組合が労務者供給事業と認定され、認定されたヤトナが325名いました。このとき認定された芸妓は816名ですので、本家芸妓に対する擬似芸妓ヤトナの比率は相当高かったといえます。渡会の言う東山に合併したヤトナグループがこのヤトナ従業員組合です。

さらに非売品でありますが、加藤政洋研究室が発行した『加藤藤吉写真集〜京都編〜』に、藤吉により新研見番京東山と書き込みがあった昭和三十五年撮影と推察されるシンプルな洋風二階建て建物の写真が載っています。

同写真集によると昭和三十一年の住宅地図に「京都新芸妓共同組合」として載り、昭和三十四年版では「京都新芸妓東山歌舞会」と名前が変更されているとの事、早速京都府立資料館で確認させていただきました。(ちなみに昭和三十年以前の住宅地図はありませんでした。)

さらに調べてみると、面白いことに、昭和三十八年の職業別電話帳では同じ電話番号で月見町に「京都新研芸妓東山組合」と「京都雇仲居従業員」の二つが登録されています。

つまり、新研芸妓であろうが、雇仲居であろうが母体は同じで、業者側が新研という名を編み出し新基軸を打ち出したものの、お客にとってはどっちでもよい話で、きっと「若い妓」「座持ちのいい妓」「若い妓はだめ」ぐらいの要望がおおく、あまり、歌舞会だから言って、「三味線や踊りのうまい妓」、雇仲居の名があっても「お祝い事を上手に仕切れる妓」などの声は少なかったと思います。

この電話帳ではやとなは「芸妓紹介(置屋、小方)を含む」の分類でヤトナ倶楽部と銘打っているのはニコニコやとな倶楽部ぐらいで、嵐山クラブ、新研芸妓置屋、乙女新研芸妓などと新研の名のる所が幾つか以外は〜倶楽部、あるいは個人名です。

二条木屋町東には京都新研芸妓組合中京支部が登録されおり、渡会のいう上木屋町検番はこれであると思います。

五条楽園の管轄としては、上記のニコニコやとな倶楽部、あさひ倶楽部、高瀬倶楽部あと個人名が一軒で、殆どは、西木屋町町五条下ル平居町五条楽園芸妓組合が窓口になっていたと思われます。

この「芸妓紹介(置屋・小方)を含む」と「お茶屋(待合・貸席)を含む」と、昭和三十八年の職業別電話帳には二つの項が並んで見る事が出来、基本前者がヤトナ系、後者が一現(見)さんお断りのお茶屋さんですが、前者に現在宮川町のお茶屋がのったり、後者にも京都新研芸妓東山協組(注、すこし登録名が違います)や五条楽園のお茶屋が載ったりしますのでこれをお茶屋探しに利用した人はかなり混乱したと思います。

尤も、一現(見)さんお断りのお茶屋に、紹介もなく、電話帳だけをみて芸妓を要望する兵(つわもの)もいらっしゃらなかったでしょうけど。


by gionchoubu | 2015-09-24 11:30 | 雇仲居 | Comments(1)

雇仲居倶楽部


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木屋町四条下がる

昭和十年頃には市内に雇仲居の置屋は五十軒ほどあり、同営業組合は便宜上これらを五条、松原、中立売、西陣の四区間に分けました。

京都市雇仲居置屋営業組合は、所属雇仲居の品性技芸の向上をはかるため事務所内に矯風会を設け、会長、副会長、教師、助教を置き、会員を梅組、竹組、随時課の三種に分け、雇仲居希望者は検定試験に合格すればまず梅組に編入され、礼儀作法を中心に教えられ、終了者は竹組に進級して活花、抹茶の教授が始まりました。

随意課は婚礼に関する課なので、竹組の希望者や会長の推薦者に限り入会を許されました。婚礼式は小笠原流と藤原流の二様でありました。

この矯風会編纂、“礼式栞”の組合議長の序文は「社会の存立は共存共栄を持って基とし、共存共栄の経となり緯となるもの即ち礼節である。祝賀慶弔の行事は言はずもがな、親族知友の校驩内至朝暮の挨拶、起居辞の令、凡そ人々の相接する必ず礼儀あり、作法がなければならぬ。雇仲居置屋業は諸般宴会斡旋の需めに応じ、社交場裡必須の機関たる任を完ふするを本領となすものなるが故に其所属雇仲居は品性の高尚と諸礼儀式の熟達を期すべき』

この雇仲居は大正十年には京都市に218人、昭和三年に710人、この昭和十年にも500を超える人数がおりました。冠婚葬祭や宴会の雑役を職分と考える雇仲居もおおたでしょうが、擬似芸妓として、営業時間が十二時と決められているにも拘らず、二時、三時まで鳴り物入りで騒ぎ、世の顰蹙をかうヤトナも多数おりました。

昭和八年の松園蔵版の『京都職業別電話名簿』を見ると、京都市内に雇仲居倶楽部は四十数軒あり、職種は雇仲居置屋、雇女業、雇女置屋商、やとな倶楽部、雇仲居置屋業、やとな置屋業、雇仲居業、ヤトナ置屋業、ヤトナ倶楽部、ヤトナ業、ヤトナ置屋とばらばらで、自分たちの業種の統一もなされていないのが分かります、これは各倶楽部から申請されたものをそのまま載せたのでしょう。

加茂川倶楽部、アサヒ倶楽部、乙女倶楽部、ヤトナみや古、ヨシヨシ倶楽部、コトブキ倶楽部など高瀬川沿いの仏光寺〜松原あたりに10軒ほど、御池倶楽部、河原町倶楽部、ヤトナ元祖忠兵衛、奴倶楽部など河原町三条あたりに8軒ほど、本場といわれた東大路松原〜安井金比羅間は以外にすくなく東山花壇、あこややとな倶楽部、サイセキ倶楽部、常盤倶楽部、松原倶楽部、やとな安井倶楽部の5軒、その他離れた所に、千本下立売の乾やとな倶楽部、千本出水の千本ヤトナ倶楽部、大宮、寺の内の個人名の雇仲居置屋業、紫野北舟岡町の船岡倶楽部といった具合です。面白いことに『京都商工人名録昭和9年版』には祇園町南側で一力さんが合名会社萬亭で雇仲居倶楽部に登録されています。

この雇仲居倶楽部の密集地である高瀬川沿い仏光寺〜松原は席貸兼旅館も多く、当時この業種が上記の電話帳にて京都に68軒ありましたが、この区域だけで
栄屋(画像)、藤田楼、中の家、など15軒を数えました。

京都市で一番この席貸兼旅館が多かったのは同じ高瀬川沿いでもずっと北の二条〜三条間で、富の家、月下亭、玉川楼、木乃輝、あずま屋など十八軒ありました。

松川二郎は『全国花街めぐり』で「是等の家々は表に旅館と書いてあっても、旅館にあらず、料亭にもあらず将た貸席でもないところの席貸という独特のお茶屋であることは巳に大坂の部で述べた。芸妓置屋とは直接の取引がなく、凡て貸席から送り込む形式になってゐるが、木屋町の如きは地続きで極く近い関係もあろうが、貸席と席貸の連絡がよく取れてゐて、殆ど普通の貸席と異なるところは無いやうである。」

貸席と席貸に貸座席、お茶屋、待合とこの世界はややこしいことこの上ありません。

雇仲居と席貸の関係は加藤政洋著『京の花街ものがたり』に詳しいので興味のある方は是非購読をお勧めします。
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              木屋町四条下ルにあった加茂川倶楽部・・・同じあたりに・・・偶然でしょうか?
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                       木屋町四条条下がる
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                       木屋町押小路

by gionchoubu | 2015-09-21 12:57 | 雇仲居 | Comments(0)

花街の定義

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               祇園を歩く舞妓さん達

『広辞苑第五版』によれば

【花街】(かがい)遊郭。花柳街。いろまち。
【遊郭・遊廓】多数の遊女屋が集まっている一定の地域。いろざと。いろまち。くるわ。遊里。明治以後、貸座敷営業が許可された地域。
【花柳界】芸娼妓の社会。花柳の巷
【花柳】?遊里。いろざと。また、芸妓や遊女

貸座敷は芸者の入るお茶屋も含まれるので、花街も遊郭にも花柳界でも、芸妓も娼妓もいる地域になっています。

中野栄三著『廓の生活』では花街の項を設け“さて廓は元来地形的な称であるが、さらに「遊廓」としては指定された官許の遊女町ということになり、その他の岡場所は盛り場の意味で、任意的私娼の集団地域であるから、これらは一般称の「遊里」と称し、異名には「かくれ里」とか「隠し町」「わけ里」などの呼称もある。また市中の芸者屋町は本来は遊芸をもっぱらとする所なのだが、歴史的にはやはり売色の遊び場だったから、これは「花街」と区別して称する方が便宜と考えられる。よって本稿ではだいたいそうした意味で述べることとした。”としております。

『日本花街史』で明田鉄男は花街の定義を「遊女屋、芸者屋などが機能的に統制のとれた集合地」としており、「一定の役員によって指導された相互的組織を持ち、官憲や競争相手には結束して対処する生活共同体の根拠地」と補助的な説明を加えています。

私は現在の花街の定義として「複数以上の芸妓置屋、お茶屋、この両者をとりもつ検番(もしくは検番機能を備えた事務所)をもった地域」として提唱したいと考えます。

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ここで花街という言葉の歴史を追って見ます。私が知る限り世の中にこの言葉が出たのは天明四年(1784)の『浪花花街今々八卦』でその中の浪花花街之異名には公許の遊廓である新町から曽根崎、島之内、堀江などのお馴染みの名前以外、尼寺前、髭剃、羅生門、こっぽり等の低級遊里も数えられていますので、明らかに花街=遊郭で使われています。(これ以前にも花街という言葉が使われているかと思いますので、ご存知の方は是非教えてください。)

その後、花街が使われるのは文政年間(1818~1829)で『花街漫録』や『花街風流解』などで後者は(さとふりげ)と読ませます。また、江戸時代の終わりに書かれた『守貞謾稿』では「遊女町、島原、新町、吉原の如き官許にて廓をなすものを花街の字のありて」との記述があります。

明冶四年三月、大阪府が発した遊所に関する命令に「花街を設け妓娼を集め、人をして遊蕩淫情に赴き、家を破り身を害い、後来無量の患苦を受けしむる事、文明の世に当って禁ずるべき論を待たず、況や花街よりして梅毒を伝染せし命を落とし・・・」という一文があり、ここでも花街=遊郭です。

昭和四年刊、東京を中心に活躍した松川二郎著『全国花街めぐり』は日本全国の芸者町についての記述なので、この頃には花街=芸者町の意味合いが強くなってきたようです。これは東京においては早くから遊郭と花街の分化がすすみ、芸妓は少数いましたが、吉原、品川、千住、洲崎、新宿、板橋は基本娼妓の遊郭で、向島、湯島天神、芝明神、新橋、浅草、芳町、赤坂、柳橋、他多くの芸者のみの純花街と分けて呼ぶ必要があったからでしょう。あるいは花柳界という言葉も関西に比べ多く用いられてきたのも又、此の背景があったからだと思います。

一方関西においては、昭和になっても、明冶の終わり意識的に娼妓を置かなかった大阪の北の新地を除いて、芸所の堀江、南地、京都の祇園や先斗町、上七軒も娼妓を置いていましたので、花街は一般的でなく専ら遊廓という言葉が使われていました。

花街という言葉が全国的に使用されてきたのは、昭和三十三年の売春防止法が実施されてからで、とかくマイナスイメージの多い遊郭という言葉からの脱却を、特に花街内部から発信してきた為だと思います。

そろそろ各種の辞典、辞書も現在の実情に合わせた、現代語としての花街を載せるべきだと強く思います。


by gionchoubu | 2015-09-18 12:09 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(8)

畠山辻子の遊女屋

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                     洛中洛外図 町田本

色里について書かれた、研究書、地誌、随筆、洒落本を含め、文献では見たことは無いのですが、明らかに昔の京都に存在した遊里に畠山辻子があります。その存在は二つの洛中洛外図に描かれていますので明白です。

まずは、いくつもある洛中洛外図な中で最古と言われる、1525~1537の時代考証がされている町田本には、遊女屋とおもえる軒先で客をひく三人の遊女と三人の客が見え、袖を引かれている一人は僧侶です。

時代で言えば、秀吉に許可をもらった二条柳町の傾城町より五十年前になります。ちなみに文献に現れる京都最古の傾城町は応永四年(1392)に免許がおりた、東洞院七条下ルの九条の里といわれているのですが、どうして七条にあったのに九条なのかも含め何も分かっていません。

田中緑江さんが『京都遊廓見聞録』の「京の廓」で、「傾城補任状」に大永八年、都のどこかに傾城町ができたがどこかわかりません、と書かれております。大永七年は1527年、畠山辻子の遊女屋と綺麗に符号しますので、私は畠山辻子がこの傾城補任状の遊里で、九条の里と二条柳町の間を埋めた都の色里と考えております。

どうして町田本の遊女屋が畠山辻子と言えるかは、永禄四年(1561)から六年の景観内容を現した上杉本に、同じ位置に遊里が描かれ「はたけ山のつじ上ら」(畠山の辻女郎)としっかりと書かれているからです。

上杉本には三軒の女郎屋に七人の女郎が認められ、一人は手鏡で自分を映しています。

畠山町は、御所の近く、上京区室町新町間今出川上ルで、かつて町東側に官領畠山氏の邸宅がありました。近所の方にお聞きしましたが、畠山町のどの筋が畠山辻子か分かりませんでした。

この後の洛中洛外図には六条三筋時代の傾城町がよく描かれ、中でも舟木本の迫力は見るものを圧倒し、上の町で道行く侍の手を取り妓楼に引き込もうとしている遊女、中の町で踊り狂う遊女の集団、下の町でも人目を気にせず往来で遊女を抱きしめる侍が二曲に渡り描かれています。

大阪城天守閣所蔵の洛中洛外図(いわゆる萬野B本に右隻を加えたもの)に描かれた六条三筋の遊里には、傾城屋の軒先で三味線を膝の上に載せ演奏する女、定番の扇子で顔を隠してうろつく侍、輪違紋の暖簾を掲げた妓楼など、文献では計り知れない臨場感で、当時の様子をみせてくれるのです。

洛中洛外図に於ける色里は、祇園祭、母衣武者、河原や北野の歌舞伎とあわせ、京の町を俯瞰するに無くてはならないものでした。
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                 上杉本、手鏡の女はページの中央で欠けてしまいました。
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                   町田本の下京に描かれた謎の遊女屋
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                       畠山町                        

by gionchoubu | 2015-09-13 12:19 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

廓言葉の研究 その三

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                  飛田。よし百番さんの広間の大夫図

藤本箕山の『色道大鏡』は、日本の遊廓史に置ける旧約聖書のような存在だと思います。十八巻からなる完本の巻頭、名目抄は遊廓詞(さとことば)辞典であり、江戸時代中期以前、遊廓を中心に使われた言葉が並びます。この中には遊廓独自の言葉もあれば、当時一般にも使用されるが、遊廓に於いて独自の意味を持つものもありました。

その殆どが、現在全く使われていません。しかしながら、今も現代生活に深くしみこんでいる言葉もありますので、そのいくつかを紹介させていただきます。
(一部編集しております。)

【粋】(すい)当道の巧者をいふ。抜粋を上略したる詞なり。

【阿房】(あほう)戯(うつけ)たる人をさしていう。 阿呆とは、人のまもりめなり。うつけたる人は、何にても独りおこなう事なりがたきによりて、もりをつけねばならぬといふ心にて、鈍なる者を阿呆といき来れり。

【とろき人】戯たる者のいひかへなり。うつけ、たはけといひたるより、詞少ししゃれたり。

【突出】(つきだし)<禿の時代を経ず>其儘傾城に仕立出すを、突き出しといへり。・・・つまり最初に女郎として客をとること。

【肝煎】(きもいり)傾城屋の女子を抱るに、此肝煎といふ者、方々に子共を見立置て、告しらせ、口入する者をいふ。

【和気しり】粋といふまでの詞なり。当道の味を、よくわきまへたるといふ心なり。

【紋日】物日<毎月傾城の売日>の事なり。家々の紋のやうに定りたる事なるに依て、紋日といふ。

【つくす】うつけをつくすといふ上略の詞なり。

【もったい】潜上をさきだて、景気を繕うかたちなり。もったいらしきなどいふ詞なり。

【茶】茶を挽くともいふ。傾城の売れずして、宿にゐるをいふ也。平生さして用にたヽず隙なる者や、盲目などに、茶をひかする物が故に、しかいふ。

【鈍くさし】同じく鈍なると斗といへば詞(ことば)ふりたるゆへに、あたらしくいひそへたる也。くさしはあほうくさしといふにひとし。


藤本箕山が三十三年をかけて完成させた色道大鏡が世に出たのが延宝九年(1661)ですから、まだ花魁という言葉自体が存在しない時代です。生まれが京都の人だったからでしょうか、紋日、あほう、どんくさい、は今でも京都でよく使いますし、とろいは名古屋でよく耳にします。

つきだし、が遊里からでた言葉だと殆どの方はご存知無いと思います。私もこれを知ったのは、結構最近の事でした。

ただし、これを知ってから、居酒屋などで突き出しを出されると、「私なんかが最初の男でよろしいのでしょうか?」と、心の中で問いかけてから箸を付けるようになりました。


by gionchoubu | 2015-09-11 12:42 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

中書島遊廓の歴史 その七

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中書島の遊女屋の長男として生まれた西口克己は、三高から東大文学部を卒業後共産党員になり、自身が遊女屋の稼ぎで高等教育を受けてきたというジレンマを抱えつつ、売春防止法が公布された昭和三十一年に小説「廓」を発表しました。その私小説で、女達をしぼりあげ、鬼と憎まれながらも廓一の顔役にのし上がった父の所業を暴露、これがベストセラーになり、中書島としては、決して有難くない脚光を浴びることになりました。

西口は小説の中で、「世間の奴らが生命より大切にしているあの垢だらけの金を、いっそ地獄のドン底で大の字になってもうけるこっちゃ」と父に語らせています。

西口はこの廓を、宇治の火薬庫跡にできた京大の宇治分校、近くにある学芸大学、いずれ設置される龍谷大学の学生相手の下宿街として再出発しようと考え、自らの特飲店“末広”を下宿屋に商売替、翌月に売春防止法完全施行を控えた昭和三十三年三月、中書島に五十八軒あった業者の内、彼に賛同した二十四軒が下宿屋転業にふみ切り、内十八軒は学生専門の下宿屋となったのです。

府学連もこれを後押し、「明るい住みよい学生街」中書島を学生に呼びかけ、女子学生八名を含む百三十六名が遊廓跡に間借りを決めたのです。

町の浄化運動として、婦人団体の支援もあり、組合事業として学生食堂や、喫茶店に乗り出す経営者も現れ、この旧赤線は学生街として花々しいスタート切りました。

しかしこれに反対する業者や関連者も多く、ここに拠点を移した府学連の幹部、婦人会、共産党と激しく対立、町はあっちにもこっちにも町の浄化を訴えたポスターが貼られ、学生と業者、ときには婦人団体も交え、毎日のように論戦が繰り広げられたのです。

これには、他所の赤線業者もその消息に目を見張り、中書島遊廓は再び日本中の注目を浴びたのです。

しかしながら、ことの顛末は実にあっけない幕切れを見ました。

この年の七月、八月、学生達が夏期休暇で中書島を離れた隙に、開店休業だった業者が娼妓ならぬ芸妓中心のお茶屋として続々店を開き、旅館、料理屋から転業するものも現れ、町は再び紅燈を取り戻したのです。

旅館、お茶屋三十軒対学生下宿十九軒、さらにその学生寮のうち二軒が、一階を改造してバーをはじめ、学生の大切な試験中でも夜遅くまでじゃんじゃんレコードをかけたものですから、学生はこれはたまらぬと下宿から逃げ出し、学連の委員長も寮からの撤退を余儀なくされたのです。

かくして日本最初の廓転向としての学生街へのモデルケースは失敗に終わりました。

*昭和三十五年の『京都名鑑』に、お茶屋組合長藤原旦次郎、三十四年から芸妓と新研が一本になり、1月の宝恵籠、7月花火と協賛の弁天祭に気勢をあげた。芸妓三十六と、また、昭和三十八年版に、お茶屋二十六、芸妓三十三とあります。(2016、3月7日付記)

さて、各地の遊廓の転業をみていくと、やはりスナック街、風俗街として変貌を遂げることも多いいのですが、その小さい部屋が並ぶ特性をそのままに、旅館、料亭、下宿屋に転業した例も多くあります。稀に小さな個室が並ぶ病院、老人ホームとして再出発したところもあります。

あなたの町でも、もし住宅街の中に突如「何故こんなところにスナックが・・・」と不思議に思ったり、不自然に広い道があったり、二階に重厚な格子のある八百屋さんをみつけたり、玄関に、何かの意匠のような彫り物を持った喫茶店を認めたなら、ひょっとしたら遊廓の名残かもしれません。

参照:『遊女と街娼―京都を中心とした売春史』錦織剛男


by gionchoubu | 2015-09-08 13:12 | 京都の花街・遊廓 | Comments(2)

五条楽園ぞめき その十七

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昭和三十一年五月十二日に所謂、売防法が可決されました。

社会民生委員会では、十月十一日午後、灘井五郎委員長ほか九名が、府下最大の廓といわれいた七条新地を視察、業者や従業員とヒザを交えて懇談。

水府委員「売春防止法によって二年後にはどうしても廃業しなければならないが、どんな転業を考えていますか。」

A子「第一に家族の生活が保証されるような仕事があれば転業しますが、そんなものはいまの仕事以外に絶対にありません。ですから廃業したら青線に流れこむか街頭に立つかするより方法がないと思っています。わたしは月一万五千円を家に仕送りしていますが、それだけの仕事がどこにありますか。いまの仕事で手取り月三万円ありますから。」

笹谷委員「むかしはあがりの大半を親方にとられ、晩めしなど客にたかるより仕方ないことがありましたか。」

B子「いまはそんなことはありません。業者との分配は五分五分で、食事もよいものです。」

五十川議員「女中組合に仕事がつらいと訴えてくることがありますか。」

C子「投書制度がありそんなことがあれば業者と話合いますが、ほとんど例がありません」

笹谷委員「いまの制度はあった方がよいと思いますか。」

D子「よいと思います。第一に青線区域なら衛生、風紀上の取締りにこまるし、赤線なら大丈夫です。それにこの制度のある方が都合のよい人もあるんじゃないですか。」

笹屋委員「だまされてこの道に入る人はありますか。」

B子「ほとんどが友達を頼ってくる人で、だまされて来る人はありません。」

五十川議員「とにかく、いまの制度はあったほうがいいということですネ。」

C子「そうです。もしなくなればわたしなどは完全に青線にはいります。女中や仲居ではとてもやっていけません。大学生の卒業生も就職難の時代ではありませんか。」

灘井委員「婦人相談所ができたことは知っていますか。」

A子「知っています。しかし相談に行っても恐らくハラがたつだけで、はなしにならないでしょう。」

このあと委員は七条新地の業者側の意見を聞きました。

「売春防止法が出来た以上は法を守らないといけないと思う。しかし売防法審議会が政府に答申したところでは、売春のおそれのある場所に転業することを禁じている。わたしたちが転業するとしても、料理屋とか旅館、カフェーといった水商売しかできないのでこの答申は絶対にこまる。それに水商売に転業するとしても家屋の改造などにカネがかかるし、自力で更正できるものはほとんどあるまい。政府は一片の法律でかたづけるのでなく、救済方法も考えてもらいたい。とにかく、いまのままでは法律の骨抜きなどを政治的にやるよりしかたがない。人身売買とか女のかせいだものを摂取することはたしかにいけないが、これさえやらならなければ自分がこの道で生活することは少しもかまわないと思う」と述べました。

浮沈はあったにせよ、昭和三十三年四月一日を期して、全国の赤線の灯が消えました。明冶政府が公娼廃止を天下に布告してから八十五年目のことでした。

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昭和三十九年ごろ、五条楽園の名前を改めた七条新地は、お茶屋では法にふれることは絶対やらせないから、芸妓などはお客と他の地域の旅館に連れ出すという方法をとっている。ここは新研芸妓とヤトナで八十一名

参照:『遊女と街娼―京都を中心とした売春史』錦織剛男




by gionchoubu | 2015-09-05 13:59 | 五条楽園 | Comments(0)