花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

プロフィールを見る
画像一覧
通知を受け取る

カテゴリ

全体
上七軒
遊郭・花街あれこれ
先斗町
宮川町
ねりもの Gion Nerimono
舞妓・芸妓
祇園東
五番町
雇仲居
遊廓、花街の類形
京都の花街・遊廓
亡くなった滋賀の遊郭
五条楽園
私娼
島原遊郭
祇園
パンパン、赤線
島原、輪違屋太夫 賛姿語録
*リンク
未分類

以前の記事

2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月

お気に入りブログ

最新のコメント

> 今紫 改 文車さん ..
by gionchoubu at 11:47
花街ぞめき様 お久し振..
by 今紫 改 文車 at 17:02
> narahimuro..
by gionchoubu at 11:05
花街ぞめき、いつも興味深..
by narahimuro at 21:28
> きようすけさん ..
by gionchoubu at 11:54
島原どう筋の大店K旅館は..
by きようすけ at 14:55
> きようすけさん ..
by gionchoubu at 11:31
記事の定義によるとかつて..
by きようすけ at 09:04
記事の定義によるとかつて..
by きようすけ at 09:04
> tourisugar..
by gionchoubu at 18:06

メモ帳

最新のトラックバック

美は幸福を約束するものに..
from dezire_photo &..

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

米子灘町遊郭 一
at 2018-10-16 11:09
とし夏菜、ふく美、とし桃、美..
at 2018-10-13 14:52
宮川町、とし純、とし夏菜、と..
at 2018-10-12 11:16
ふく恵、小凜、君友、富美珠、..
at 2018-10-11 15:59
とし輝、とし結、とし愛、とし..
at 2018-10-10 11:23

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
近畿

画像一覧

<   2015年 07月 ( 12 )   > この月の画像一覧

祇園の娼妓 娼妓の試験

f0347663_15183775.jpg
                        祇園白川

明冶二十六年の『花柳』に一人の祇園甲部の娼妓さんの話が載っていました。

森若菊・・・祇園新地娼妓中にて、流行妓の一人と呼ばるヽ森若菊(二十六)と云ふは、旧会津藩士森某の娘にして、本名さくと云ひ、父は常に京都の同藩屋敷に詰め居りしが、さくは維新後の生まれにて、父母既に没し、幼年にて他人の手に育てられ、年頃となりて遂に先斗町に身を沈め、後に祇園新地に転じ、又大阪南地に転じ、再び祇園新地に戻りて、今は切通し祇園町東側酒屋の家にあり。

容貌可なりにて、行儀正しく、流石士族の娘と云はるヽ品行あり。

左ればこそ、先年縄手の浅愛の客にて仙台の某豪家の息子、若菊を招きてより、此女の尋常ならぬ風こそ大に気に適ひ、五百円を投じ、落籍して国へ連れ帰らんとしたるも、女は、其意こそ有難けれども、京都には父母の墓あり、兄弟とてなき此身の遠国に在りしては、香花の墓前に絶る事もあらば、不幸を重ねる道理なれば、折角の思召なれども、遠国へ落籍さるヽ事は叶わじ、との事に他人の之れを聞きて、長く行き居るに及ばぬ。

一時其地へ行て、宣い加減にして元の京都へ帰り来らば然るべしと、悪き知恵をつける者さへありしも、女は断じて曰く、大金を投げ、此身の苦界を落籍させうとの志に対し、何ぞ左る薄情な事の出来るものか、と堅く採て動かず。

客其内情に感じ、落籍を止めて別るヽに及び、若干の金を贈り、大いに其心を慰めたりと、嗚呼、若菊の如き志を以て客に接する時は、必ずや之れに報ゆるの幸福こそ来るなり。

勤めの上の手練手管は商業的の駆引なり其一身を修むるに至りては誠心を以て之れに対するは是ぞ誠の人なり。

其営業は賤むべきも、其志こそ実に泥中の蓮とも云ふべし。

我が花柳は此若菊の如き人を称せずして、可ならんや、可ならんや、

「京によきもの三つ、女子、加茂川の水、寺社。あしきもの三つ、人気の吝嗇、料理、船便。たしなきもの五つ、魚類、物もらひ、よきせんじ茶、よきたばこ、実のある妓女。」と100年前、こう馬琴は京を評しました。
彼女こそ、京の実のある妓女と言えるでしょう。

さて、この頃祇園甲部では、隔月二十六日に新規に開業する芸・娼妓の試験がありました。

試験場は祇園新地甲部女紅場で、芸妓に対しては受験科目を四つ本人より選ばせ、教師が一つずつ試験しました。

娼妓に関しては、まさか試験場に床を引いて試験官が娼妓候補者と実地試験をするわけにもいかず、言葉使いや、立ち居振る舞いを試験しました。

明冶二十五年十二月、二十六年一月の受験者は、芸妓十九人に対して娼妓九人でした。芸妓候補者の中に美形で名高い、二十六年のねりものにも名を連ねた小島ふくの名があります。(当ブログ、祇園ねりもの二十七で官女に扮した彼女の画像をご覧いただけます。)



by gionchoubu | 2015-07-30 15:21 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

祇園の娼妓 四方の花

f0347663_12270895.jpg
                       祇園の夜桜

慶応三年(1867)『四方の花』の祇園新地名寄を見ると、幕末の祇園の芸、娼妓の比率が分かります。
      
井 筒  芸、舞、義太夫芸妓等 55人、 中  1人
嶋村屋          〃  60人、 中 15人、若  2人
若松屋          〃  55人、 中 13人、若  5人
京 屋          〃  43人、 中 13人、若  5人      
鶴 屋          〃  56人、 中  7人
万 屋          〃  82人、 中 10人 振  7人 
玉 屋          〃  51人、 中  1人
井上屋          〃  86人、 中 14人 若  7人
三浦屋          〃  73人、 中  5人 若  4人
いづつ屋         〃  42人  中  1人
近江屋          〃  60人  中  1人
三桝屋          〃  77人  中  2人 振  1人
ときわ屋         〃  16人  中 26人 若 15人
鶴井筒          〃  19人
柳 屋          〃  11人  本  1人 中 25人 
                       若 10人
東いつゝ         〃  13人  中 16人 振  7人
八尾屋          〃  21人  中 14人 若 11人
一 力                   遊  3人
尾上屋                   本  2人 中 20人
                       若 12人

この名簿は『新撰京都叢書第九巻』に収録されたもので、本は本詰、中は中詰、若は若詰、振は振袖、遊は遊女です。一力のみ遊女なのは、いわゆる祇園が扱い見世制を脱し、新しい時代に備えた、いわゆる純然たる御茶屋に転進する過度期で、他の貸し座敷に中詰などを派遣するための見世でなく、嗜みとして遊女を置いたのだと私は考えてみたりしています。

一力はもと萬春楼から始まりましたが、その萬から万になり、歌舞伎の上演(忠臣蔵)であだ討は幕府のご法度時代、実名はまずいので、大石内蔵助は大星由良之助、お茶屋の方も万の字を解体して一力として上演された経緯があります。

ところが、こっちのほうがシャレていると皆一力と呼ぶので、俗称が本名になったものです。今でも一力を万亭と呼ぶ人がいる所以でもあります。

そして、幕末の一力に存在した三人の遊女の名がが、いち、りき、まん・・・こちらも随分とシャレがきついですね。

さて、四方の花に戻ると、遊女276人に対し芸能部門の妓820人と、祇園の75%が芸、舞妓などによって占められております。もともと遊女の世界、祇園に芸妓が生まれてから100年、祇園の中で遊女は完全に少数派になりました。

補足ながら、四方の花の嶋村屋の芸子の名簿に、勤皇芸妓として幕末物語に欠かせない君尾の名が見えます。又、京都の人なら誰でも知っている洋食の菊水の前身は柳家だったと聞きます。



by gionchoubu | 2015-07-28 12:28 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

祇園の娼妓 幇間(たいこもち)

f0347663_11342455.jpg
天保十三年(1842)、いわゆる天保の改革のあおりを受け、京の遊所の殆どが営業停止を命じられ、祇園とて例外でなく、業者は島原遊廓に転業するか、もしくは廃業を命じられたのです。

安政四年(1857)忽然とこの令が解け、祇園も目出度く営業再開、安政六年に常磐町などの外六町も祇園の一部として免許が下りました。このとき、いままで触れられることはまずなかったのですが、祇園で男芸者、つまり幇間も営業をゆるされたのです。

大津屋とか鳥羽屋などの幇間達は、すでに文政時代、“祇園ねりもの”で紹介したように存在はしており、祇園の一画に見世を構え、ねりもの行列にも加わり鉦なんぞ叩いておりましたが、その時分は非合法で渡世していた事になります。

幇間といえば、江戸の吉原、大阪の南地などで名を馳せ、特に東京の幇間は名人もおり、一大勢力を築いておりました。ただし祇園の幇間にまつわる話は、その存在を示す書物すら殆ど無いのが実情なので、これがどうだ、といった存在では無かったのでしょう。

その稀有の書付の一つが、享和二年(1802)、滝沢馬琴は『羇旅漫緑』で、その部分を抜粋しますと・・・

〔百十七の下〕幇間、京もならべ評す。京も大坂も幇間は、一席するに耐えざるものなり。幇間は羽織を着ず。島の内の幇間に、音八といふものあり。これは狂分発句など少しできるなり。又新町に亦助といふ幇間あり。画をよくす。その他は無芸大食、甚だいやなるものなり。

京の牽頭は、四条河原などに、網をはりゐて客を引くなり。かくせざればたへて客なしという。牽頭の出る見せは牽頭ばかりなり。祇園はべして牽頭もちおこなはれず。また男げいしゃといふものなし。皆悉く幇間なり。

馬琴によれば殆どの幇間は無芸大食,無用の長物という事になります。

同じく『羇旅漫緑』で妓の衣服は、紫の絽の袷帷子、桃色の裾裏、裾模様。或は上布の帷子襦袢を着ず、縞縮緬等である。裏襟を半分程前へ引き返して置く、とありこれは例の遊女の赤襟返しの事でありましょうか?

妓楼の夜具に関して、客の浴衣は妓楼で貸す、妓は文庫に江戸染の浴衣などをもって来てそれに着替える。布団は祇園街も大坂も郡内縞の薄い布団。祇園新地はふと織の布団等など。

ここでは割愛していますが、馬琴による芸妓の風俗なども、微に入り細に入り、一流の戯作者は京女郎の当時の風俗をも見事に蘇らせてくれるのです。

そして京師の評をこの様に述べました。

「夫皇城の豊饒なる三条橋上より、頭をめぐらして四方をのぞき見れば、緑山高く聳て尖がらず。加茂川長く流れて水きよらかなり。人物亦柔和にして、路をゆくもの論争せず。家にあるもの人を罵らず。上国の風俗事々物々自然に備わる。予、江戸に生れて三十六年、今年はじめて京師に遊で、暫時俗腸を洗いぬ。京によきもの三つ、女子、加茂川の水、寺社。あしきもの三つ、人気の吝嗇、料理、船便。たしなきもの五つ、魚類、物もらひ、よきせんじ茶、よきたばこ、実のある妓女。」

これまたお見事!!


by gionchoubu | 2015-07-26 11:42 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

祇園の娼妓 涼色(すずみいろ)

f0347663_15002478.jpg
さらに『守貞謾稿』より、本詰、中詰、若詰について詳しく教えてもらいましょう。祇園の遊女も、この風俗に属しておりました。

本詰(ほんずめ)、京阪の遊女の場合、官許、非官許とも、お歯黒をして眉毛を剃り、髪は両輪髷などに結び、衣服も特に華やかというわけでなく、普通の婦人と変わらぬ身なりをしています。本詰は三十才を過ぎており、江戸でいう年増。

若詰(わかずめ)、お歯黒はするが、眉は剃らない。島田に結って振袖は着ない。年は二十才から三十才。江戸では、とくに呼び名はないが、この装束を半元服と呼ぶ。

振袖、お歯黒をする場合と、白歯のままの場合があり。年少で大体振袖を着ているが、詰袖の場合もある。芸妓の見習の振袖が所謂舞妓です。

文化・文政(1806~1829)に祇園は絶頂期の一つを迎えます。その入り口といえる文化二年、並木舎五瓶『誹諧通言』の人倫という項を見ると、廓関連語が、芸妓部門である花街祇園と遊女部門といえる遊廓祇園を分ける事なく説明しており、この両面が自然に同居している様子が汲み取れます。

さらに、遊廓、花街の関連用語が交錯していたり、廓に携る人がこの両者に携って祇園を支えあっている様子は、この同質で異質なる両者の説明が一筋縄で行かないことを物語っております。

遊女部門に比重を置いて、いくつか抜粋しておきますと。

素人(はくじん)、いにしへにはしろうとと呼ぶ、派手花やかに、水際のたつ遊女、太夫にもおとらぬ美婦あり。

十一六(といちろく)、是は素人の価の事なれど、今では少し心安くなりて。

鱗(うろこ)、斯いふも、新地女郎素人と分かる詞なり。

健児(ころめ)、女郎屋、茶屋に遣う小女なり。

自舞(じまひ)、女郎屋、芸子、奉公人でなく、親の内より出るをいふ。

親出奉公人、素人より直に女郎に成るをいふ。

肝入(きもいり)、遊女奉公人を取扱ふものなり。色里の入口に有り。

色客、女郎の惚れた客なり。

涼色(すずみいろ)六月、涼の頃、女郎芸子、色男を拵へ、派手に河原へ連れ歩くなり。

廻し男(まわし男)、女郎芸妓の送り迎をする男なり。色事商内の事を捌く。

このブログのぞめく、もそうですが、今は使られない昔の言葉に素敵なものがあります。

当時の六月は今の夏の盛り頃、「ちょっと河原に涼色」なんか艶っぽくていいじゃないですか!
by gionchoubu | 2015-07-24 15:16 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

祇園の娼妓 

f0347663_12135281.jpg
吉川観方の版画、「白川の雪」ここに描かれているのは、延焼を想定して戦争中疎開を余儀なくされた左側のお茶屋群。現在は石畳で、白川南通りとして旧祇園一の観光通り。突き当たりが巽橋、左のお茶屋には“かにかくに”のお茶屋、大友の姿もあります。

『守貞謾稿』に、「昔は芸者なし。宝暦中、吉原扇屋の歌扇という女郎に始まる。当事、このかせんただ一人なり。それより、やうやくこれに倣いて明和頃より諸楼にもこれを置く」

また京阪の芸子についても「げいこ、弾妓なり。すなわち江戸に云ふ芸者なり。昔は芸子これなく、遊女三絃を弾く。その後、未熟の遊女は弾くことを得ざる者あり。あるいは尊大を究めて自らこれを弾かず。『人目千軒』に曰く、太夫、天神自ら三弦をひかざる故に幇間(たいこ)女郎を呼ぶなり。また芸子と云う者ほかにあり。昔はなかりしに、宝暦元年に始まる。 ~略~ 享保年中より芸子と云う者出て来たり、云々。しからば大坂は、享保、京は宝暦に始まるか。」

つまり、記録によればこの世に芸妓や芸者といった芸で身を立てる職業が遊廓の中から現れたのは大阪が最初で享保年間(1716~1734)という事になります。
そして、その後、江戸と京都に芸者、芸妓がほぼ同時に現れ、全国に広がりました。

『近世風俗考』に載る大坂芸者の櫛(享保頃)の絵、が享保の大坂芸妓の出現を裏づけ、又、宝暦元年(1751)京都では島原に芸者の記録が残ります。一方京都の町触に、はじめて「芸者」が出てくるのは寛政十年(1798)まで待たなければなりませんでした。

ですから、祇園の花街の歴史を紐解けば、遊女のみ、もしくは遊女と芸妓の共存のそれであり、芸妓一筋の歴史は、ごく最近の事となるのです。

祇園の歴史というと、どうしても芸。舞妓中心になるのは致し方ない処としても、世に名高き京女郎の歴史を無視しては成立しないのです。

寛政十三年の祇園遊女細見として『祇園細見・めい娼都栄』叶屋喜太郎版元、いわば遊廓祇園のガイドブックで、19軒の見世と239人の遊女が載ります。

まず、遊女が所属する見世ですが、一力、井筒、扇九、三枡屋、井上屋、京井筒、うぢ屋、桜屋、松本屋、新や、など19軒、この遊女細見を見れば、芸妓細見である芸妓名鑑(げいしゃめいかん)と色里価付の一夜千金も同時に流通していた事が分かります。芸妓名鑑の存在により、寛政の終わりに遊女中心なれど、祇園で芸妓が一大勢力になった裏づけになり、私が祇園ねりものに出演していた遊女が芸妓にとって代わられたと考える所以にもなります。

祇園細見・めい娼妓栄の各遊女には、△(白じん)、山印が二つ重なった五ツ(午后八時)、山印一つの、四ツ(午后十時)、年齢を現す、本(本詰)、中(中詰)、振(若詰)の印が必ず附いており、さらに特定の遊女に●「フンスンいふて出す事うけ合う」と○「大至極上上吉の上へきなり」半分白、半分黒「スウスウいふて持チあげる也」の印が付けられており、客が好みの遊女を選び易くしております。うじ屋の小春などは●三つも付けられています。

白じんは素人(はくじん)の字をあてることもあり、完全な遊女より、女中さんに近い女で、京阪独特の呼び名です。

本詰は年増の女郎、中詰は若き女郎、若詰は振袖でデビューしたての妓です。

このころの見世は置屋と検番機能を持った様な組織で、芸妓、遊女を両方抱える見世とどちらか一方に特化した見世の三種あったようです。


by gionchoubu | 2015-07-22 12:16 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

二条新地 後編

f0347663_12054692.jpg
幕末には、この二条新地、祇園と肩を並べた程繁昌しました。ところが勤皇芸妓などを輩出した祇園と違い、これといった芸妓の話しは残りません。代わりに目明し文吉というあくどい男の話が伝えられております。

文吉はこの辺りに住み、妾に茶屋をやらせていました。方々から相当恨まれておりまして、この茶屋の妓のお店だしの時、人切以蔵をはじめ土佐藩の人に襲われ、刀が穢れると、縄で絞殺され、三条河原にさらされております。私も、霊山歴史館で、下半身をむき出しにした文吉の惨めな絵姿を見たことがあります。

維新前の頃には、三本木と同じく、勤皇、佐幕との激しい立ち回りがあり、二条新地で夷川通りに面した家々の、紅殻塗りの柱の所々に、鋭く切り込んだ傷がその後もずっと残っていたそうです。近藤勇は三本木、祇園、島原を渡り遊びましたが、この二条新地にも「大垣屋」の妓の元に通ったという話を残しました。

慶応三年の『四方の花』に二条新地、千歳屋にりう、八重葉など三十七人の芸妓、遊女之部に小仲、小ひな等十六人の遊女、扇屋にも二十三人の芸妓と十五人の遊女の名が記されておりました。


田中緑江さんは、『亡くなった京の廓』で、明冶四年、八坂新地(祇園)から鞍替して、明冶開化のモダン芸者として散髪し、洋服を着たり、高袴姿でお座敷にでていた芸妓を七人紹介しており、上記の千歳屋、扇屋以外に、福島屋、芳鶴屋という芸妓扱見世があった事が分かります。これは物珍しさで賑った様子が当時の横浜毎日新聞に掲載された記録があるそうです。

明冶五年には、杉本町に十二軒、灘波町に八軒、中川町に十九軒、大文字町に四十三軒、新先斗町に四十軒、新生洲町に二十八軒もの茶屋がありました。(この数字は『京都府遊廓由緒』の地図から軒数を割り出したものです。)

明冶十一年の『都の花競』に芸妓の部に新先斗町の芸妓として小栄二十四才、亀鶴二十一才、義太夫芸妓、小吉十六才、大文字町に芸妓、八重勇二十七才、友路十八才、愛松十七才、義太夫芸妓として力葉十六才、元吉十九才、愛吉二十七才、末吉十八才と芸名の無い二十四才、そして舞妓の力葉十六才です。

娼妓は新先斗町に十人、中川町に一人、大文字町に一人登録があり、年は十九才から二十六才まででした。

踏水会水練学校の南側(二条新地の北端)には女紅場兼組合事務所がありましたが、明冶二十年現在の京都大学教育学部の前身である第三高等学校(洋学校)が大阪から移転する事になり、吉田に本建築のできるまで、この女紅場を接収、二条新地は敢え無く府令により消滅しました。

結局、二条新地の業者の一部は八坂神社の南、下河原の清井町に鞍替えしましたが、清井町の住民から反対運動が興り難航した様です。

『京の花街』で渡会恵介さんが、この移転先の清井町を、祇園甲部、祇園乙部(今の祇園東)に対し、祇園丙部として営業し、明冶二十一年に祇園新地(甲部)に吸収された、と書いておられます。(ただし恵介さんの本以外に祇園丙部の記録は見ませんので、正式な呼び名とは思われません。)

どうでもいい話・・・世に序列を表す言葉で、甲、乙、丙、丁があります。このブログのIDであるgionchoubuは架空の祇園丁部から付けました。戦前の兵役では甲、乙が合格、丙は不合格、丁はさらにその下という事になります。



by gionchoubu | 2015-07-19 12:09 | 京都の花街・遊廓 | Comments(2)

二条新地 夜鷹と総嫁

f0347663_14522138.jpg
                           二階に昔の面影を残すお宅があります。
宝暦十一年に、島原が京の遊廓の根本として各遊所は島原の支配下に置かれます。第一の配下は祇園、二条新地、上七軒、七条新地、三本木、下河原で、さらにこの六つの遊所の下位に属する遊所もあり、二条新地は幕末になって先斗町や清水、白梅図子を従えました。

享和二年(1802)滝沢馬琴は『羇旅漫緑』で、「京にて見世付ある妓楼は、縄手、二条新地、北野、内野、御所うら等なり、これらはいづれも見世をはる。いづれも賤妓にして、見せはうちつけ格子、畳わづかに三、四畳を敷べし。二条新地尤多し。御所裏はむかし御所の下主女、夜行して色をうりよし。今はかヽることはなしという。五条坂等も見せ付あり。」

見世は張見世のことで、以前説明させて頂きました。馬琴はその後「総嫁は二条より七条までのかはらへいづる。河原にむしろかこひしてこヽにて夜合す。」

総嫁とは江戸で言う夜鷹のことで、大阪と京都では総嫁と呼ばれていました。早歌が転じたものと言われています。『守貞謾稿』にも「京は鴨川橋辺の河原に小屋を造りて莚を敷き、戸口に立ちて客を待つ。」『嬉遊笑覧』にも『甘露寺職人尽』という書物に「宵の間はえりあまさるゝ立君の五条わたりの月ひとりみる。」と書いています。

江戸の夜鷹の本場は吉田町や四谷鮫ヶ橋で、花散る里は吉田町鮫ヶ橋・・・一見風流に感じますが、夜鷹は梅毒の巣窟で、花散るは鼻が梅毒でもげてしまうことを詠んだものです。最盛期にはこの夜鷹が江戸に四千人と書いてあるものがありますが、ちょっと信じ難い数字です。

『好色節用集』によれば大阪では、「かの葛城の神ならで、暮を待て出かける惣嫁といえる女あり。浜納屋の間、野はずれ、河原などを揚屋として客を受け、帯解くとそのまま~略~いやな虫を下さるるはうるさし。紺の布子にねずみ帯、顔白々と塗ぬりて~略~独住の後家、夫持ちたる女房などいろいろあり。成人の子、二、三人もある嬶が、暮前から大振袖着て、出かける有様、雨風をいとわず、これをせずとも、口は養われそうなものと思えども~」京都もさして変わらなかったものと思います。

昔の芝居にこの夜鷹や総嫁が現れる場合、多くは黒木綿、白手巾をかむり、その端を口に咥え、帯びは背に結び、商売に必要なござを持って現れます。

それにしても、二条から七条まで・・・河原も土手も・・・鴨の辺りはカモだらけ・・・といった所でしょうか。

さて、本題に戻ると、二条新地は、祇園新地、七条新地、上七軒とあわせ、京都の四大花街の一角を占め、幕末まで繁昌しましたが、著名な芸妓などは見当たりません。文化・文政時代、灘波町に『鴨東四時雑詞』の著作を持ち、今でも五花街歌い継がれる『京の四季』の作詞者といわれる中島棕隠が銅駄余霞楼という料理屋を営んでいました。どうだよかろうというシャレです。京都の方ならご存知でしょうが、二条から北に銅駝学区があります。


by gionchoubu | 2015-07-17 14:53 | 京都の花街・遊廓 | Comments(2)

二条新地 前編

f0347663_14325496.jpg
 三重県松坂は本居宣長の故郷で、本居宣長からくり人形があります。(電話ボックスだと思いました。)

前回、鴨川の東遊所ラインで、南から宮川町、東石垣(とうせき)祇園と書きましたが、実は二条まで上がると、もう一つ遊廓がありました。二条新地です。町名で言えば、新生洲町、新先斗町、大文字町、灘波町、杉本町の六町で、この辺りの区画は、川端沿いを除き、江戸時代も今も殆ど同じだと思います。

この色里の歴史は古く、享保十九年(1734)、時の所司代に願い出て、許可を得ると、上七軒吉祥寺から、遊女屋が引っ越してきて畑に新地を開きました。

田中緑江さんが、何故上七軒から来て新先斗町と付けた理由を探しあぐねておられましたが、『日本花街史』で明田鉄男氏が、これとは別に宝永五年の大火の被災者らが幕府に替地を命ぜられ、元地にちなんで、新丸太町、新麩屋町、新富小路と新をつけたので、新先斗町も新生洲町もこの流れで、二条新地ができる前年に既に町名は存在していました。

『坊目誌』によると新先斗町と大文字町などは北野吉祥寺から移住、新生洲町のみすこし遅れて宝暦十三年(1763)樵町四条下がる天王町からの移住でした。

この宝暦十三年で二条新地が完成したのですが、それ以前は、頂妙寺新地の方が一般的な呼び方であったようです。頂妙寺はいくつもの塔頭をもった日蓮宗一致派の本山で、人は自然と、すぐ南に大きな敷地を持つ頂妙寺が自然にでて来たものと思います。

本居宣長の『在京日記』に頂妙寺新地が三回出てきますので、総て紹介します。(参照されたい方がいらっしゃれば、『京都見聞録』では略されているようで、是非、本居宣長の全集からご覧下さい。)

宝暦六年七月七日

「去ぬる六月の廿日ころかや、或屋敷の中間やうの者とかや、頂妙寺の新地わたりの妓に、年比あひかたらひけるか明ける、うらみありて、夜るゆきてきりころし侍る、とりさへける其家のあるしもころされぬ、又ちかきわたりより立ちよりける者も手おひぬ、さりけれと、其場にて悲田寺の者なと来りてとりける、すくに禁獄せられしとかや、此ころされし女は、其わたりにていたふ全盛の妓なりしとかや、其比よほと評判ありしか、今ふと思い出てかき侍る」

宝暦六年八月九日
「芝居南かわいとはやるとかや、夏の此よりいまに夏祭灘波鑑をし侍るか、いとよく出来るよし、ことしは此芝居には、はかばかしき役者もなきに、かくつづきてあたり侍るは、いかなることにや、はかりかたきもの也、北かわには、かの去ぬるころ、頂妙寺新地にて遊女をころせしことをつくりてし侍るか、はやりはべらす・・・」つまり、北側の芝居で、この新地の遊女殺しを脚色して上演したが、南側に押されて、流行らなかった、という事でしょう。

宝暦七年七月

「廿八日の夜、寅の時はかり、川東新地頂妙寺のわたり、じゃうねんじとかやふ寺やけ侍りぬ」

じょうねんじは、正往寺町の黒谷浄土宗常念寺のことと思われます。宝永五年(1708)の大火で御所の東の寺町通りから、他の寺とともにこの地に移ってきましたが、又火災に遭ってしまった様です。



by gionchoubu | 2015-07-14 14:36 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

五条楽園ぞめき その十六

f0347663_16325818.jpg
もう一つ明冶二十七年発行『花柳』十号より、七条新地の娼妓さんの紹介です。

評者「少々お年は召てござり升れど、山岸三子さんをお目にかけ升。」

ヒイキ「年の行ってあるのも又た宜かろ、早くやるべし。」

評者「此のお妓は三条通白川橋西入西村音吉様の同居山岸音吉さんの長女さんで、本名やすと申し升て、今年三十一才でござり升。」

サシデ口「何んと宜い年だなァ。」

評者「只今は七条新地の星野弥次兵衛さん方の寄寓でありますが、中々篤実なお方で、手元の不如意の所から昨年の七月に開業されました。」

サシデ口「随分色が黒い方ぢゃないか。」

ヒイキ「左して美人とは云れねど、客に充分の満足を与るは此妓に限る。」

評者「三味線も一寸持ます故、引手夥多のお客の数、当事の流行妓でござり升。」

ここで、花柳の広告に、ちょっと面白いのがあったので、紹介させて頂きます。
山岸三子さんも読んでいたかもしれません。

娼妓に必要なる床屋なかせ剃刀いらず
有名なる赤白拍子の保証附、京都名産理化学応用有効確実

京都岩上蛸薬師南入都屋こと、北村保壽堂の製造に係る京都名産の化粧妙剤二十種の中の専売“都の雫”は、世界に見たり、聞いた事のなき理化学応用新発明の、毛を薄くする水にて、此を用うれば、御婦人の生際を美しく、生ぶ毛の茫々を去り、男子の釣髭の濃き胸毛のむくつけなるを綺麗に去り、之を用うるも、痛み又は班痕杯の憂ひなく、其上色白く肌を細くする絶世の奇品にして、娼妓達の焼灰を摺込み毛を脱く如き、又は線香の火にて、毛を焼取如き、暑い痛い、憂ひ、の聊さかもなき、妙品にて論より証拠一度足の毛にても、御試みの上、其の効に感心して驚りし給へ、価は試みが十五銭と五十銭一円どす。

北村保壽堂が扱う商品は他に、人造粉麝香の都麝香、粉白粉の都の花、水白粉の都千鳥、練白粉の“都の粧”、白粉布巾の“都の錦”、ふけとり粉の“都の緑”、口の臭さを去る“都の桜”等々多数ありました。

むだ毛の処理に関しては、娼妓さんにとって切実な問題だった事が分かります。当時は焼き灰を擦りこみ毛を抜く、線香の火で焼く、暑い、痛い、憂い、という処方が普通だったのでしょう。都の雫、効能が但し書き通りなら、今でもベストセラーになるでしょう。

さて、七条新地を鴨川に沿って北へ行けば、六条新地、五条橋下、さらに西石垣(さいせき)先斗町、木屋町筋、三本木と、花街、遊廓、準花街といった街が切れ目無く連なっています。

かつて、今の河原町通り、つまり遊所ラインのすぐ西に御土居が聳えており、東の御土居の大きな目的は暴れ川、鴨川の氾濫を食い止めるという役目でした。

鴨川沿いの御土居は江戸時代の中頃までに、ほぼ取り除かれましたのですが、鴨川、御土居間がこういった遊所に育ったのは色んな思惑や条件が重なったからでしょう。

そして、大阪と京都を水路で結ぶ高瀬川が鴨川、御土居の間にあり物流の拠点となっておりましたので、一般住宅より、遊所が発達したのだと思います。河川の氾濫も、被害を受けるのは、まず遊所から、という事になります。

先斗町から三本木までは東山を眺める風光明媚の地で、花街には好都合、五条橋下~七条新地は片側が鴨川なら、遊女の逃亡阻止の効果も有ったでしょう。

ちなみに、鴨川の東側も、宮川町、東石垣(とうせき)、縄手(祇園)とこれまた見事な遊所ラインが出来ていました。







by gionchoubu | 2015-07-11 16:36 | 五条楽園 | Comments(2)

五条楽園ぞめき その十五

f0347663_12585304.jpg
明冶二十六、七年の七条新地の様子を、雑誌『花柳』よりちょっと覗いてみましょう。

先ずは安全剃刀とあだ名を付けられた吉備君葉という娼妓に関して・・・

「君葉は明冶六年十月生る。実名をそのと称し、鳥取県鳥取市瓦新地吉備宗七の次女なり。明冶二十二年三月を以て開業す。開業当時は七条新地秋篠某方に稼ぎ居れり。客に接する中々面白く、殊に僧侶、書生の受能く、毎夜此等の客の招かざる事なき位。容貌はさして美人とは云れねど、愛嬌の能為め君葉、君葉と喧し。左れば安全剃刀と云も僧侶の好む点に於ては皆一つ。」

鳥取瓦町といえば、衆楽園遊廓と呼ばれた大きな花街があった所です。どういう事情で彼女が七条新地に来たのかは知る由がありません。

安全剃刀は僧侶が髪を剃るのに愛用するので、お坊さん御用達の娼妓さん、即ち安全剃刀なのでしょう。

顧客が僧侶と学生さん、困ったものです。・・・五番町も宮川町、下河原もお坊さんが多かったらしく、又祇園乙部(現在の祇園東)では、つい最近まで、三高のマントを羽織った学生と娼妓の幽霊がでる、と噂されていました。まさにお坊さんと学生の街です。

同じ君葉でも青木君葉は芸妓で、つけられたあだ名は千本座。

「君葉は七条新地部内に住む青木宗吉の姉にて、母親は存命なるも、父は疾に死分れり。本名八重、本年三十歳なり。以前は伏見中書島に稼ぎ居りしも、去る明冶二十三年の七月より、此土地に開業したり。歌は兎も角として、三味中々達者なり。容貌も可なりにて、座敷面白く、随分流行し居れり。今女を千本座に比す謂なきにあらず。古き情歌にも、其吉野にきの多い事を歌へり。名詮自称亦無理なし。」

千本座は千本通りにあった人気のあった芝居小屋です。最後のきに○印がついているので、千本→木→気をしゃれたものらしいのですが、筆者の意図はいま一つ掴みきれません。

一方、有本駒路という娼妓には、新京極に有った幾代席のあだ名が付けられました。

「駒路は本名こまと云ひ、明冶六年十月生まれ。実家は紀州和歌山に在りて、暫時大坂灘波新地に娼妓たりしも、後ち七条新地の木村源太郎方の娼妓となれり。容貌可なりにて中背。性着実能く、客の意を汲取り能く満足さす故に、老若に拘はらず幾代席と同様、人気あり。左りとて腮(あご)の短き面は見ざれども鼻の下の長き客人多く見受けり。」

最後は建仁寺内の楠という判じ物みたいなあだ名をつけられた七条新地の芸妓

「いまは七条新地の長女にて、明冶元年六月三日に生る女は四、五年前に暫時此土地にて玉子と称し芸妓に出て居りしが、後ち伏見中書島に転じ、昨年十二月一日より再び此地より自前にて稼ぐ事となりたり。肉は少く太く、容貌は十人並にて至て上品に構へ居れるが、此妓の癖として酒を呑めば場所を嫌はず寝入って仕舞と云う一癖あり。芸は舞二調共に能く、土地に似ざる芸妓なりと、是をして建仁寺内藪中の楠といふべし。」

四人の寸評を読めば、なんとなく日清戦争開戦前の七条新地の様子が分かります。京都の他廓の芸娼妓も紹介されていますが、ほぼ出身は関西、西日本です。

しかし七条新地の娼妓さん。甘い言葉に釣られると、京都を離れてからトンでもない目に会うかもしれませんよ。同誌にはこんな記事も載って居ました。特に梅毒検査の日には隙を見せてはいけません。

「近頃京都の娼妓を扇動して、東京、名古屋を始め其他の地方へ仕代を勧むる悪漢あり。検黴日には、検楳所の近傍に徘徊して、娼妓の善悪を見て、而して改めて、其の娼妓を茶屋より招き、頻りと勧むるなりと、既に此罠にかヽりし者数名ありとか、注意すべし、娼妓諸君よ、小方業の人々よ。」

くわばら、くわばら・・・




by gionchoubu | 2015-07-08 13:01 | 五条楽園 | Comments(0)