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祇園ねりもの 四十二

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月刊京都の七月号に“芸妓たちの祇園まつり”として祇園ねりものを紹介して頂きました『帰ってきた祇園祭り、再び』がテーマなのに、ちっとも帰ってくる気配がない祇園ねりものを取り上げて頂いたのは、多少面映い気持もするのですが、世界に類を見ない、優美で壮麗な行事を皆さんに知っていただく機会を得たのは、大変ありがたく感じます。http://k9ph2.biz/detail/1281681162.html

文中でも触れられていますが、私は昭和十一年の祇園乙部の練物の番付を描いたのは吉川観方だと考えています。その根拠を今回と次回で示して見たいと思います。

昭和十一年の練物は、明冶二十六年に祇園甲部で催された練物から四十年以上経っており、さらに乙部としては初めての練物、本来、この年も甲部が催す事になっていたのが、諸事情で辞退、甲部から依頼され、「では私の方でやりましょ」と引き受けた村上取締でありましたが、乙部の役員一同を含め、練物のことは芸妓連の仮装行列ぐらいの知識しかなかったそうです。

乙部が幸運だったのは、目と鼻の先に吉川観方が住んでいて、やり方、ねり子の衣装の考案、構成、衣装の注文まで、すべてを観方が引き受けた事にあります。

ここで吉川観方の略歴を書きますと、

明冶二十七年誕生  明治三十四年、8歳、四条派の西掘刀水に日本画を習う
明治四十二年、16歳、浮世絵を始める
大正  五年、23歳、京都ではじめて木版役者絵を刊行
    七年、25歳、松竹合名社に入社、舞台衣装顧問になる
   十二年、30歳、故実研究会を創立『観方創作版画集』を刊行
   十四年、32歳、故実研究会の活動を中心に風俗研究にいそしむ
   十五年、33歳、衣笠貞之助監督『大阪夏の陣』で衣装担当

昭和十一年、ねりもの直前に配られた『祇園会ねり物復興記念帳』の中で「祇園会ねり物に就いて」は観方自身が書いており、その言葉を借りると、「さて今度のねり子の扮装種目、及び服具についてゞあるが、その服装は公、武、町家、演劇、遊里等にその材を借り、我国歴代の或は優美、或は壮麗なる風俗を、有識故実の上よりの考証を基として、それぞれ新に意匠を加へたものであって、前述の諸古記録に見えたる祇園会ねりものゝ精神に力めて倣はんとし、全般としては、必しも最後のねりものとも見るべき明冶復興の際のそれに依ってはいないことをお断りしておく」と、風俗研究家として第一人者としての、漲る自身と自負を感じさせる文を書いております。

確かに、この吉川観方が指揮を執らなかったら、昭和十一年はなんとか催す事は出来たでしょうが、昭和三十五年まで、その後四回はとても無理だったと私は考えています。

 
by gionchoubu | 2015-06-30 13:04 | ねりもの Gion Nerimono | Comments(0)

花柳病

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 かつての飛田遊廓の大楼で現在料理屋の飛田百番さん。左が応接間、階段の欄干に三条大橋の文字

遊廓に於いて、最も厄介なものの一つは梅毒でした。江戸時代、予防法として胡椒七粒、山椒七粒、赤小豆七粒、これを紅絹(もみ)の袋に入れて湯巻の紐に結びつけ置くとか、黄蓮、甘草、丁字、山椒、熊笹、灯心、梅干、膠、松の実に、体の不潔の毛三筋を加えて黒焼きにした薬を飲むとか、これはもう呪いの類で、いわばお手上げ同然でした。

陸軍軍医総監、松本良順は幕末に『養生法』を表し、その中で「下賤のもの百人の内九十五人は楳毒にかゝらざるのもなし、此其原花街売色に制なき故なり、西洋諸国楳毒を恐れて、花街を破却することあり、其時却て楳毒の病人増せり、依て其後花街をまし、毎年厳重に守衛を設け、法を立て楳毒病院を立て毎一週医官をして総売女を密に改め少も毒に感ずる婦人は直に病院に入て治療を加へ治し後出して元に帰らしむ」

遊廓を廃すると帰って梅毒が民間に広がるので、遊廓を増やして病院を作り、これに罹ったものを治療したほうが効果的と説いたのです。

さらに、オランダの医師ボードインも大阪浪華假病院の教師時代、大阪府当局に対して頻りに、芸娼妓の検黴を建言しました。

これをいち早く実行に移すべく奔走したのが、医者でもあった明石博高で、槙村参事(後の京都府知事)の許可を得て、祇園一力茶屋の杉浦治郎右衛門らに懇々と説き、明冶三年七月、東京、大阪に先立ち日本で一番先の娼妓黴毒治療所を祇園神幸道南側に設立しました。

明冶七年に府立療病院の所轄になり、二年後の明冶九年、この療病院の医師が内務省に送った答申が

一、 黴毒病院を設け娼妓を検査し其毒あるものをして入院せしめ治療を施すべし。

一、 検査は一週間に必ず一回之を受けしむべし。


一、 娼妓ある地へは医員出張し或は便宜に由て二三ヶ所合併して検査し病あるものは黴毒院に送り治療を受けしむべし。

一、 多病ある時は他医に治療を託するも勝手たるべし。

一、 黴毒院に関する職員は凡そ三名を要す。

そして同年九月に、いまの歌舞練場前西側に建てられたのが府立療病院出張假駆黴院でした。これが後の京都八坂病院の前身になります。上記の答申が雛形になり、以後日本の遊廓には必ず、健康診断を受ける場所(遊廓事務所が多かったようです。)と、指定病院がありました。

最後に娼妓と、花柳病に関する話を二つ紹介します。

福知山の猪崎新地の話を詰め込んだ『猪崎ものがたり』よりFさんの話。

娼妓さんにとって、この検黴の結果失業にもつながるので、死活問題でした。抱え主の楼主も非常な損失になるので、明日が検査という時は、具体的にどうやったか分かりませんが、一生懸命検黴に引っかからない様、女将が娼妓に処置をしたそうです。

医者の方も、はっきりと病気であれば入院させますが、可愛そうだという同情心が湧き、グレーゾーンは検査を通すこともあったそうです。娼妓の中で、全く心配のない者は二、三割とある医者が洩らしたそうです。

水上勉の『五番町遊廓附近』より、作者本人の思い出。

昭和十三年頃、のち『五番町夕霧楼』を世に送り出した作者が立命館の夜学に通っていた時、五番町遊廓に福知山の寒村出身の千鶴子という馴染みの娼妓さんがいました。(つまり学生でも馴染みが持てるほど遊廓は身近なものだったと言えます。)

水上の連れが千鶴子のいる楼にあがったあと、千鶴子が、暫らく自分を訪ねてこない水上の消息を尋ねたたとき、その連れが冗談で「あいつは淋病で寝てるよ」と言ったのです。

翌日、下宿のおばさんに起こされて二階から見ると、千鶴子が電柱の陰で、日傘で顔を隠して佇んでいました。

「すんません。うちがうつしたのよ。きっと。うちは病気やないけど、まわしのお客さんがそうやったんにちがいないんです。これを大急ぎで煎じて呑んでください。」と口早にいうと、新聞紙の包を置いて、走って帰っていきました。

千鶴子は、馴染の苦学生に病気を移したと衝撃を受け、眠るに眠れず、朝一番、朝一番薬局に行き、ペニシリンもない時代、正体不明の漢方薬を届けたのでした。

当時、借金のある娼妓が、早朝に、楼主に無断で、馴染み客のところに、たとえ病気見舞いにしろ駆けつけることなど、決して許されることではありませんでした。

このエピソードは、夕霧楼の作者の心にいつもあり、千鶴子の純情に涙することもあったと述懐されています。

ひょっとしたら、千鶴子がいなければ、あの夕霧楼の夕子も生まれてこなかったかもしれません。

参照:『明冶文化と明石博高翁』田中緑江編集

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                そして中庭の巨石



by gionchoubu | 2015-06-28 12:31 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

猪崎新地ぞめき 福知山音頭

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  平成20年、宮川町の京おどり第五景名花のうたげで福知山音頭が踊られました。右から二番目にとし花さん。

福知山といえば福知山音頭が大変有名で、大槻正治郎著『ドッコイセ物語』によると、福知山音頭の歌詞「福知山での大金持ちは、木屋か塩屋かよろず屋か」でも歌われている塩屋の当主で、能や狂言の名手でもあった塩屋三右衛門が福知山音頭の振りのいわばルーツとなり、その指導を受けた四派が誕生しました。

米伝流・・・創始者、下柳町の大槻伝助
佐山流・・・ 〃 、下紺屋町の佐山治郎兵衛
塩喜流・・・ 〃 、下柳町足立喜兵衛
岡や流・・・ 〃 、一井平と妻のかつ

米伝流は野趣で男らしい踊りで人気が有り、米伝流と塩喜流は米伝より少ししなやかで、穏やかな動き、そして舞や踊りの要素がある、しとやかな振りが最後の岡や流で、岡やかつさんが、猪崎新地の芸妓の師匠として指導にあたっていました。

峰山、宮津新浜、舞鶴朝代などの近くの花街がいわばメジャーの若柳や花柳流であったのに対し、福知山の花街が地元で育まれた流派であったのは猪崎の特殊性といえるでしょう。米伝流や塩喜流も花街が猪崎移転前の下柳町から派生したのを考え合わせると、福知山音頭の隆盛には福知山の花柳界が密接に関係していたと考えられます。結局一般の踊りも自然に岡や流になり、次に人気のあった米伝流で踊る人も殆ど見られなくなったといいます。

新地の最盛期には、盆の八月十四日の夕刻、猪崎から、結い立ての髪も美しく、揃いの浴衣、揃いの帯、色の裾除け、麻裏の草履ばきの二百人の芸、娼妓
の一団が、赤いタスキを掛けた舞妓を先頭に、鼓や十人以上の三味線、同じく赤いタスキを掛けた近所の女の子達をしたがえ、踊りを揃えて音無瀬橋から広小路の踊り場まで入場する姿はそれはそれは評判になり、多くの見物人を呼びました。

その後、新地へ美妓連が戻ると、各貸席前のいたるところで、娼妓も芸妓もお客さんにお花をつけてもらい踊り、朝の四時まで踊る妓もあったそうです。

さて、終戦後、猪崎新地も進駐軍のアメリカ兵をとりこんだり、そこそこ賑っていましたが、昭和三十三年の売防法施行後遊廓としての生涯を終えました。廃止間もない頃は、酒に酔った客が、何とか裏口営業でもないかと、うろつきに来ることもありましたが、娼妓はもうどこにも居ませんでした。

芸妓の方も検番が無くなったので、町芸者の形で残りはしましたが、昭和の終わりには殆ど居なくなりました。

再び福知山音頭より

√福知千軒流りょがこけよが、一町残れよ土手の町、ドッコイセードッコイセー、トコドッコイセドッコイドッコイセー、トコドッコイドッコイドッコイセー、この一町は最初に福知山に花街が誕生した、あの下柳の町を粋人が歌詞に加えたと言われています。

粋人の願い虚しく下柳も殆どが土手に戻り、猪崎新地もごく普通の静かな町の安らかな時の流れに身を任せるようになりました、ごくたまにうろつきに来るものが有ったとすれば、昔の遊廓を何故か放っとけない、私のような者だけになりました。

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by gionchoubu | 2015-06-25 14:40 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

猪崎新地ぞめき 芸妓と娼妓

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再び『猪崎ものがたり』より。

福知山は今でも洪水に悩まされているのは報道で見かける通り、私は今年六年ぶりに訪れましたが、猪崎新地は由良川沿いに有るのにかかわらず、殆ど代わっていない印象でした。

さて、Sさんが聞いた話によると、雨が三日も降り続き由良川の水が増水し、猪崎新地の入り口あたりも水が道路に上がってくると、遊廓に来るお客さんもありません。あえてそういう時を選んで、洪水の中、着物をからげて、ざぶざぶ水を渡って遊びに来る者があったそうです。

なぜかというと、洪水でお客は来ないので、遊客は娼妓を選びほうだい、あわよくば花代も値切れる、きっと自宅は洪水の心配がなく、帰りは山路を通って帰るに違いない。その人の名前はいえません、と前置きした上Sさんは「上手な遊び方かも知れませんが、まことに浅ましい遊びと私は考えますねえ。」と語りました。

つづいてVさんの話。芸妓や娼妓を呼ぶのに花代は一本一時間、ただし準備、後始末、交通時間も含めるので一本の正味四十分くらい。花代は検番で決められており、値切れないことになっていました。

ところが、Vさんはある裏技で花代をやすくしてもらいました。それは有名なお稲荷さんのお札を持っていくというものです。こういった商売は大抵お稲荷さんを祀り、その信仰は非常に熱心なもの、貸席の人も、実際にお稲荷さんの札をだされると、値引きの方便と分かりつつも、神棚に上げ、いくらか引いたそうです。

著書の塩見利男さんも「なんとみみっちい遊び方もあるものだと思いました。」と本文で呆れておられます。

体を売ってしまう芸妓、しかも相手を選ばず誰とでも転んでしまう芸妓を不見転と書いてみずてんと呼んでいました。相手を見る事なくところかまわず転ぶ芸者は東でも、西でも不見転芸者と蔑称しました。

ここまで極端でなくても、普段芸しか売らないはずの芸妓が、時と場合によってはそうとばかり言ってはおれない状況もあったようで・・・

Nさんが先輩二人と三人で猪崎新地の、とある市内の有力者の二号さんが経営していた貸席へタクシーで乗りつけました。その二号さんは花柳界出身の美しい人で、なかなかのやり手との評判でした。

娼妓三人を呼ぶところが二人しか手配できず、後輩のNさんは待つのを覚悟しましたが、先輩達は「おかみ何とかせよ」と言い残し部屋に消えました。

女将さんはNさんの為に手配したのが、なんと娼妓さんならず若い芸妓さんだったのです。その芸妓さんは、女将の命令なら拒めなかったのでは、とNさんは述懐しています。

終戦後、ある料亭でその芸妓さんが仲居として働いているのを聞き及び、客として会いにいきました。Nさんが階段の途中で「今幸せですか?」と声をかけると、それには答えず「子供が三人います。」との返事でした。

Nさんは、以前の事を大変気の毒なことをしたと思っており、現在で一万円ほど手渡して「子供におやつでも買ってあげて」と渡し、その後も時々飲みに行きました。

元芸者の仲居さんはお酒がとても好きなので、Nさんはいつも、心置きなく飲ませてあげました。酔うとNさんの膝にももたれ掛って眠りました。主人は何か事情があって家には居られないので仲居勤めで生計を立てているとの事。「夫がなければ貴方と」とじっとNさんを見上げる事があったそうです。

子供の頃からきびしい芸の練習にあけくれ、座敷では実業家、旦那、若旦那、地元の有力者、色んな人に出会うも、あくまで座敷と言う限られた空間の中でのみ、本当の男性を見る目が育たず、花街という鳥籠を離れると、だめな男の食い物になっていた元芸妓さんも多かったようです。

『京の花街』で渡会恵介さんも、生活力の逞しいのは娼妓さんで、娼妓あがりで、ちゃんと小料理屋を経営している妓もいたりする、これはどんな商売をしても、前職に比べ恥ずかしいという気持が芽生えないからであろう、と言っておられます。

一方芸妓はプライドが邪魔をする。「何でも知っているようで、何も知らないのが芸妓さん」耳学問があっても、経験がないのが芸妓さん、とも祇園東の項で述べられています。

女性の生き方とは、なんとなく辻褄が合ってくるものなのか、それとも合ってこないものなのか、花街、遊廓という所は色んな事を考えさせてくれるのです。



by gionchoubu | 2015-06-23 12:08 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

猪崎新地ぞめき ある遊客からの聞き取り

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             猪崎新地の多いいお宅で見られる大黒様、千客万来を願ったものか、             

今回は『猪崎ものがたり』からのエピソードの一つ紹介させて頂きます。

Pさんの話・・・たまたま料理屋で、同級生だったBさんと出会い、旧交を温めていたところ、PさんはBさんから、猪崎遊廓行きを誘われたのです。ところが、どういう訳か、タクシーである貸席へ上がると、Bさんが黙りこんでしましました。

Pさん「おい、どうしたんだ。」

Bさん「実は俺、遊廓は初めてなんだ。」

Pさん「えッ、はじめて、そんなら帰ろうか。わしははじめての人を遊廓へ連れて行く、そんなことはいやだ、あいつに初めて遊里に連れて行かれたなんていわれるだろうから、そんなことは絶対いやだ。」

Bさん「まあ待ってくれ、実は俺最近結婚するんだが、どうするのかさっぱりわからない。いろいろ考えたが遊廓で娼妓に教えてもらうしか方法がない。ところがだれも連れて行ってくれない。君なら俺のほうからさそったら行くかもしれない。そしたら君が連れて行ってくれると、つまり君をだましてこゝへ連れてきたのは俺のほうなんだ。どうか帰るなんかいわないで何とか世話をしてくれ。」

Pさん「そうか、そんなら仕方がない。こゝへ娼妓を一人よんで、どんなふうにするのか講習会を開こうか。わしが実際指導に当たって君がみている。そうしよう。」

Bさん「いや、それは困るし、そんな事はいやだ。俺自身で実際にためしてみたい。それだけはゆるしてくれ。」

結局Pさんは女将に頼んで、Bさんにこの特殊事情に一番向いているCさんという娼妓さんをよんでもらい、滞りなく実地指導が終えることが出来た模様。

あとでBさんに聞いたところでは、非常に親切に、ていねいに教えてもらい、帰るときに「もう決してこんな所へは来ない様にしなさい。そして奥さんをしっかり守りなさい。」とCさんに言われたとのことでした。

Cさんは、当時花代売り上げナンバーワンの売れっ妓で、その後いい人に籍を抜いてもらい、本妻か二号さんかわかりませんが、立派な店をまかされ、幸福な人生を歩んでおり、Pさんと挨拶を交わすこともあったそうです。

さて、Bさんも目出度く結婚、その後組合活動とかで活躍されていたのですが、残念ながら長生きは出来ず他界されたとの事。

ここで一つ疑問が・・・果たして生前のBさんが、Cさんの忠告に従い、奥さん一筋で二度と猪先に足を向けることが無かったか、あるいは奥さんには組合活動と称し、音無瀬橋を渡った事があったのか、無かったのか・・・今となっては確かめようがありません。

遊廓には救いようの無い話が多いのは事実ですが、こういった話もあったのですね。


by gionchoubu | 2015-06-21 11:51 | 京都の花街・遊廓 | Comments(2)

猪崎新地ぞめき 猪崎ものがたり

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『猪崎ものがたり』は著者の塩見利夫が、当時の福知山文化資料館長であった芦田重治の強い勧めで、平成五年に出版したものです。ところが、残念な事に、ご本人はこれを手にすることなく、八十四歳でお亡くなりになりました。

原稿は早くに出来上がっていたのですが、地元の遊廓に関するあれこれを、遊客からの聞き取りを中心に纏めたという特殊な事情は、今から二十年前と言う時代をかんが見ると、決して平坦な道のりではなかったと推察されます。

全国的に見ても、ごくごく一般の人から聞き取りをして、遊廓の生々しいお話を纏めた本は皆無とはいいませんが、大変貴重なもので、著作者の努力と勇気は、いつか報いられるべきものだと思います。

この取材中心に収録された、遊客の目を通してみた話は、猪崎新地の話というより、日本全国の遊廓の普遍的な事柄が色々浮かび上がってきて興味が尽きません。

本書は (一)猪崎(二)文献に現れた猪崎(三)芸娼妓の出身地(四)芸妓の前借と契約年限と登録年(五)聞き歩き猪崎新地からなります。

(三)芸娼妓の出身地の項に、一般的に芸妓の候補者は、生家が元々貧しいゆえ、小さい頃に娘を花柳界に見売りし、仕込みから舞妓になり、芸を見につけ身を立てるものが多い。一方娼妓は、生活は苦しくない環境で育ってきたが、一家が倒産したり、どうにも生活が立ち行かなくなり、娘が犠牲になったパターンも多かった、とあります。

ですから、娼妓の中には、相当豊かな暮らしをし、家柄もかなりな家でありながら、この世界に身を投じるものもおり、男性経験が無いまま娼妓にならざるを得ないケースの場合は、置屋は以後恐怖心を与えないような指導的な客に初回をたのんだり、営業許可と関係の深い警官に与えたりする事もあったようです。

以上の理由から、芸妓は福知山出身で、福知山で舞妓から芸妓になっても差し支えないが、娼妓は出身地よりなるべく遠い地を選ぶ傾向がありました。

ここに載る芸娼妓の出身地は昭和七年から昭和四十四年(昭和三十三年以降は娼妓が廃止されているので芸妓のみという事になります)の百四十四名のうち、

京都市が一番多く三十二人、続いて兵庫県十八、大阪市十六、鳥取県十一、神戸市七人、福知山市七人、舞鶴市七人と続きます。その他の出身は北海道から長崎県まで、地元から離れれば離れるほど、娼妓率が高かったのかもしれません。

又、(四)芸妓の前借と契約年限と登録年ですが、契約年数は五年が最も多く、昭和八年から十六年まで、四百円から千六百円と、金額に大きな開きが有る事が分かります。

福知山は芸妓も娼妓も送り込みで、お茶屋や待合と呼ばれる家を呼子(呼妓)屋と呼んでいたのは、大阪の影響を強く示唆しており、福知山で明冶の始めに最初に芸妓を置いたのが大阪の人だったのが関係していたのかもしれません。

全国遊廓案内の茶屋揚屋という言い回しは『猪崎ものがたり』全編で出会うことはありませんでした。

正式名は “聞き歩き 福知山・いざき新地 猪崎ものがたり”で福知山市立図書館に所蔵されています。この本を読むためだけに福知山を訪れた価値はありました


by gionchoubu | 2015-06-19 12:53 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

猪崎新地ぞめき 陰見世

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                    吉原の張見世、女性や子供まで・・・見せ物の語源かも

『遊郭をみる』下川耿史、林宏樹著は大変な労作で、私も愛読、参考にさせて頂いている素晴らしい一冊ですが、猪崎新地の項で一つだけ私の見解と違う所がありますので、引用させて頂き、思うところを書かせて頂きます。

それは「猪崎新地の最大の特徴は、各地で店先で客と対話して誘う張り見世が禁止され、娼妓の写真を飾った写真見世に替わった時も張り見世を続けたことであった」という箇所です。

これは塩見利夫『猪崎ものがたり』の「福地山の猪崎は面白い所だ、他の新地と呼ばれる所では、妓の写真がかかげてあってそれによって指名するのに、猪崎では、直接に面と向かって話をし、冗談をいいあって相手をきめる。そこに何ともいえぬムードがあり、廓の中をひやかして廻るのが面白いと、神戸や姫路の方からでも、車で出かけて来る人があったと聞いている』から張見世と判断されたと思います。

私は猪崎が張見世でなく、陰見世だったと思います。張見世は以前紹介させて頂きましたが、妓楼に面した、一段高いころに構えた格子の中に遊女が幾人も姿をさらし、往来から遊客が妓を選べる形式で、大正五年、警視庁は非人道的とし、これを禁止しました。

まず、状況から考えてみますと、昭和の始め、日本全国五百三十四あった遊郭のうち、福知山のみが国禁をものともせず、張り見世を取り入れることなど絶対出来なかったと思います。遊郭は市や、町が区域を指定し、県が免許を与えて警察の管轄に置いたもので、当時の福知山の警察がこれを見逃すことは有りえないと思います。又、猪崎が張見世だったら、いくつも猪崎新地を紹介した本で触れられていると考えるのが自然です。


(↑昭和五年発刊全国遊廓案内を見ると栃木の久下田町遊廓(娼妓八人)、平塚遊廓、熊本の三角遊廓が張店の記述がありますが、私の意見は替わりません。ちなみに同書では福知山遊廓は陰店となっています。2015/11/11加筆)


猪崎は陰見世だったはずです。大阪も兵庫も基本は娼妓を写真を見て選ぶ写真式でしたので、娼妓と対面して指名できる陰見世はめずらしく、遠方から訪れる価値が有ったのでしょう。『全国遊廓案内』にも、「店は陰見世式で写真は出て居ない」と紹介しています。

『廓の生活』中野栄三著を開いてみると、福島の飯坂遊廓では夕方になると、表通りの格子窓をあけたり、仙台の遊廓も表の障子を外して妓を見れる様にしたそうです。まあ名づけるなら積極的な陰見世と言えるでしょう。

岡山遊廓乙部の娼家では、のれんを一つくぐると、傍らの一室に妓が群れており、熊本の二本木遊廓でも、玄関をあがった次の広間が妓の溜り場で、遊客が選び易くしており、表に見世こそ張っていないものの、一旦建物入れば、娼妓と対面できるわけで、これらを総称して陰見世といっていました。

さて今一度『猪崎ものがたり』に戻ると、Dさんの話に「猪崎の遊女をぶらぶらと歩き廻り、各遊女屋へ入り込んで、庭先で娼妓と二言三言話して相手にしては、また次の家に行く」という記述がありますので、岡山遊廓乙部や二本木の様な消極的な陰店だったのだと想像できます。

さて、猪崎は娼妓が居稼ぎでなく、置屋から揚屋に送る形式だったので、客は置屋を見て廻った後に、気に入った妓を指名して呼びにやったと思います。

ただしこの辺は、私も断言できる程の自身がありません。


by gionchoubu | 2015-06-15 13:26 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

猪崎新地ぞめき 好景気と不景気

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昭和五年刊、日本遊覧社による『全国遊廓案内』によれば、当時茶屋揚屋(福知山では貸座敷をこう呼んでいた様です)が七十八軒、娼妓が百六十人、芸妓も百人数え、堂々たる芸・娼妓本位の花街といってよいでしょう。

見世は陰店式で写真式ではありませんでした。(これに関して次回詳しく述べます)関西なので廻しはとらず、娼妓も居稼ぎでなく、置屋から揚屋に送られてきました。一時間の揚げ代が一円二十五銭は、新舞鶴龍宮の一円には及ばないものの、かなりのお安め、これはやはり龍宮の海軍、福知山の陸軍の違いはあるものの、兵隊さん相手というのが背景にあるのでしょう。

ただし一泊すると五、六円、これは関西中都市遊廓の平均といったところ、主なる妓楼として、玉水、大友、辻絹、春家、昭和、松尾、丸八、荻野が上げられています。

ただし昭和四年刊『日本遊里史』では貸座敷五十四、娼妓百二十七と随分差があります。又、娼妓さんがお世話になる指定病院は福知山付属病院とあります。

昭和十二年発行の『京都府案内誌』によれば、好景気に八十を超えた業者が不景気でだんだん減り、当時六十二軒、娼妓百五十名、芸妓六十名、昭和十一年の入客延人数三万九千四百十二人、花代総額十一万八千円程でした。当時の取締奥田久作は福知山市会議員でもありました。

『猪崎の伝説と民話より』から遊廓としての猪崎をみると、妓楼の廊下で親父と息子が鉢合わせしたり、同じ女に兄と弟が競り合ったりと、市に一箇所の遊廓ならではの悲喜劇があったようです。休日には歩兵と工兵が繰り込むので歩工兵の喧嘩を週番で巡察していた士官が仲裁したりと、これまた軍都ならではの光景が見られたそうです。

又、御霊祭などの紋日には登楼客が多く、一時間の花を十五分に短縮して客を交代するので、売れっ妓になると最後には腰が立たなくなり、二階から背負っておろしてやるという酷い話も残されています。

福林政雄著『ふるさとシリーズより』に「大正昭和の世の中で 軍隊生活知らないか 知らなきゃ私が教えましょう」で始まる作者不明の「満期要務令」に、こつこつ貯めた金で猪崎に繰り出す兵隊さんと、それを迎える娼妓さんの一場面が捉えられています。

「明日は衛兵寝ずの番 こうしてもうけた十八銭 アンパン代にも足りやせん 明日は日曜のことなれば 白い襟布があるじゃなし なかでよいのを首に巻き 中隊舎前に整列し いちいち班長さんに届出て 衛門さして駈りゆく 兵営街道かけくだり 花の新町はや過ぎて 桑の木畑も通り抜け 猪崎新地に入るならば 十八島田が出て招く 懐かしかった兵隊さん お上がりなされと手をとりて 十三階段をトントンと 上る二階の四畳半 六枚屏風引廻し・・・(六行略)・・・互いに身の上話し合う 私はこの屋に捧げの身 あなたは国家に捧げの身 共に満期を待つばかり 遊びつかれて諸共に 腕の時計をチョット見れば も早時間に五分前 自動車に乗るには金は無し 日頃鍛えしかけ足で 営門さして急がれる」

遊廓に行くのにも少しでも身だしなみに気をつけたい兵隊さんの男心が窺えます。著者は、六行略は、性描写があまりに露骨で略されたのだろうと推測されていますが本当の理由は謎です。

『天田郡志資料(上巻)』に昭和十二年の福知山連隊凱旋祝賀大園遊会が盛大に開催され、知事、師団長、連隊長の迎辞や謝辞がありましたが、兵隊さんの心を癒したのは、その後余興で行なわれた福知山女子青年団員の「郷土福知山踊り」と、猪崎新地芸妓の手踊り民謡であったはずです。

この年七月、日中戦争に突入、やがて太平洋戦争へ突入、芸妓・娼妓は勤労奉仕、工場動員と、猪崎の灯もまさに風前の灯でした。



by gionchoubu | 2015-06-13 11:04 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

猪崎新地ぞめき 遊郭移転

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                  大正初め頃の?崎花街の芸妓と舞妓

明冶二十九年八月三十日の暴風雨で、土手にあった下柳町の遊廓の建物が『歩兵第二十連隊ト福知山案内』では数戸、『京都府案内誌 丹波之部』では全戸が流失しました。この時音名瀬橋も流失しましたので柳町の遊廓が壊滅的状態だったのは確かなところです。

明冶三十二年一月二十日、これが契機となり福知山町字下柳の遊廓は対岸の猪崎に移転しました。『庵我村誌』によれば、この間明冶二十九年には歩兵二十連隊を福知山町字岡に設置の内報を得ており、実際三十一年には大阪から連隊は移転しております。

遊廓が移転した理由は、当時の代議士奥繁三郎、府会議長山口俊一の二人が、町中に遊廓があるのは風紀上よろしくないという論調を展開し、これに呼応したのが旧藩士の家柄でありながら妻に田中楼を下柳町に開業させ、自らは金貸業で莫大な資産を得た田中蔵平で、猪崎に数万円の工費を投じ、多くの貸座敷を建て、さらに薄資の営業者に貸与して猪崎新地の基礎を築き、自ら明冶三十七年まで取締を勤めました。

下柳の指定地は限りがあり、これを拡張して遊廓地域を広げる事は、先住の人が住むので事実上無理で、福知山に連隊移転の内定を得た有力者が、水害で下柳が消失したのを幸い、猪崎に新天地を求めて首尾よく遊廓拡張と繁栄を勝ち取ったわけで、この田中蔵平は大正三年発行の『現代天田郡人物史』に、福知山遊廓の功労者として略歴が載ります。

明冶三十四年の『福知山案内』に青楼八十三戸、芸妓四十二名、娼妓八十五名、娼妓検黴所五兼事務所検番、九戸の飲食店と三十五の貸座敷が挙げられています。

『庵我村誌』には明冶三十二年の貸座敷三十五戸、後で述べる大正四年発行の『歩兵第二十連隊ト福知山案内』には貸座敷四十八戸が記されていますので、『福知山案内』の青楼八十三戸は著者の青楼(本来青楼=貸座敷)の認識に誤りがあったと推測されます。この八十三は当時の猪崎の全戸数だったと私は考えます。

その三十五戸は、宝来楼、瓢亭、吾妻楼、愛国楼、青柳楼、山秀楼、福井楼、松原楼、小前楼、魚寅、沈清楼、藤田家、大梅楼、松本楼、新橋楼、中村楼、末広楼、橋本楼、魚瀧、丸山楼、田中楼、百山楼、山村楼、平岡楼、開化楼、吉田亭、松葉楼、常盤楼、双葉楼、若戒楼、明冶亭、音無瀬楼、開勢楼、可笑楼、片山楼でした。

この後、猪崎は陸軍型遊廓として発展を遂げ、戦後軍が自衛隊となっても、その需要は絶えず、売防法後も芸者町として残りました。

大正の初めには、貸座敷が音名瀬、松葉、明冶、山村、お多福、丸八、をし鳥、新橋、萬栄、山段、春の家、玉水、酒井、吉田亭、塩見、梅の家、荻野、壽、玄開、水月、吉野亭、宝来、日進、中村、自由、近波、山田、末廣、藤田家、松尾、良久亭、大路、亀の家、京八重、丸一、臺一、綾部、植村、栄盛、杉の家、福崎、見晴、魚虎、盛月、青柳、鶴の家、武蔵、辻絹の四十八戸、娼妓百二十名、芸妓五十五名を数えました。僅か十年で業者が大分代わったのが見て取れます。

柳町時代には、遊廓事務所内に検番、芸娼妓の職業訓練学校といえる女紅場を併設していましたが、移転と同時に事務所と検番を分離し、女紅場は事務所楼上を仮用し歌舞の奨励に努めたとあります。

その時代の取締は岸市蔵は新橋楼の主人で、明冶三十七年取締となり、以後再選を重ね、大正二年には遊廓事務所に購買組合を設置したり、城山に公園を設けて芸娼妓の娯楽場にしたり、猪崎遊廓の向上発展に努めました。



by gionchoubu | 2015-06-11 12:47 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

猪崎新地ぞめき 柳町時代

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福知山の遊廓で一番古い時代の記述は『京都府案内誌丹波之部』の猪崎貸座敷組合の項で「当組合の沿革については古文書なきため不詳であるが口碑によれば明冶五、六年頃、大阪より来た商人が芸妓を置いて待合茶屋を始め、其後町の発展に共ふて同業者増加し、明冶二十年頃、其筋の取締上由良川堤防に集団を命ぜられ、次第に増加し営業者数二十五軒に増加せしが隅々明治二十九年の大洪水の際全部流失し、明冶三十一年現在の地に移転す」とあります。

現在の地が福知山猪崎新地(いざきしんち)になります。

実際に由良川の堤防に遊廓が開かれたのは明冶二十年ごろではなく、明治十二年が有力だと思われますが、ここで注意したいのは、福知山は京都府にもかかわらず、大阪の商人が明冶五、六年ごろ基礎を置いたという下りです。

明冶五年は所謂マリヤルーズ号事件の余波で芸娼妓開放令が通達され、大阪の遊廓も制度の改革や編成を余儀なくされ、この荒波に嫌気のさした商人(遊廓業者)が新天地に活路を見出したと考えることもできます。

よく、福知山のような城下町には江戸期から遊廓、花街なるものが存在したように思われる向きもあるのですが、江戸期に遊廓を設けた城下は少数派です。そして、こういった商売はかなりのノウハウを必要としますので、大阪の業者がこれをもたらしたと見るのが自然であろうと思います。

福知山遊廓が出来たのは、『庵我村誌』によると、「明冶十二年、天田郡役所を福知山町に開庁。遊廓を上、下柳町堤防上に置く」というのが信憑性が高いと思います。

また、『歩兵第二十連隊ト福知山案内』に「同廓は明冶十年時の知事槙村正直氏の許可を得て福知山柳町の堤防に設置したるものにて、当時は山秀、瓢亭、大梅、柳花、天橋、吉田、武蔵、音名瀬其他合計二十二戸にて娼妓二十名芸妓三十名許りなりしも相当繁昌を極め音名瀬楼抱へ薄雲の如きは非常なる全盛なりしと云う」という極めて詳細な記述があります。

すると、遊廓の申請が明冶十年で、実際の営業が十二年といった所と推察されます。

この上、下柳町の堤防とは、音無瀬橋から治水記念館あたりまでの堤防、現在画像で示した道路になっている辺りで間違いないと思います。この福知山治水記念館は明冶十三年に建てられた元呉服屋さんで、福知山で最も古い町家の一つで、堤防上の遊廓とほぼ同時期に建てられた事になり、当時は二階からはさぞかし絃歌さざめく、といった趣が有った事でしょう。

なお、その後柳町の時代を経て猪崎遊廓に移った家に、上記の音名瀬楼以外に、明冶二十二年足立卯策が創業した明冶亭や明冶二十年開業の山村楼がありました。山村楼の創業者は大阪橋奉行黒井伊助の孫で、美濃大垣の藩士金森国三郎に嫁せしも故ありて師匠山村の家名を継ぎ山村たき子と称し福知山で貸座敷を開業したとの事です。

そして、この遊廓のあった土手を下ったところが、花火大会で痛ましい事故現場でした。



by gionchoubu | 2015-06-08 12:12 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)