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五条楽園ぞめき その十二

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一般的に出雲の阿国が慶長八年(1603)、男装で茶屋の女と戯れる「かぶき踊り」を披露したのは四条河原とされていますが、『東海道名所記』には五条橋の袂とあります。

それ以前より、交通の要所であった五条は、見世物や芝居の興行地で賑っていました。どうしても我々は現在の感覚で考えるので、なかなか受け止めにくいのですが、阿国が慶長九年、次に選んだのは、北野天満宮の門前町で、今の常識では中心街から遠く離れている場所ながら、ここも当時は遊興の地で大変賑い、勧進の名目で色んな芸能の催しがありました。

四条河原が栄えるのは、時の京都所司代板倉勝重が、ここに特権として芝居株を渡してからです。芝居株や茶屋株を当局が許すのは、都市政策として力ずくでその地を繁栄させる場合があり、大阪の道頓堀がまさにその大成功例で、この切り札をもともと栄えている五条橋詰めや、北野の門前に持ってくるようなもったいない使い方を当局がするはずが無い、とまで言えると私は考えます。

六条河原は、もともと罪人の処刑地で、本能寺の変、関が原の戦いでも敗者の処刑が行われました。七条新地が元々妙法院が支配していたのに対し、七条新地に挟まれる形で存在した六条新地は雑色領であり、これが後々の混乱を生むきっかけとなります。

その後、享保十三年(1728)六条新地の高宮町と菊屋町の西側に米会所が設立され、高瀬川で運ばれた米穀の取引が始まります。この辺りは賑わい、これは明冶四年、米会所が十禅師町に移転、さらに明冶十九年、錦小路通東洞院下がる、西魚屋町に移転(大丸百貨店のすぐ北)に移転するまで続きます。

移転の理由は、日出新聞の記事でも述べられていませんが、もはや米の運搬の動脈としての高瀬川にこだわる理由が無くなったという背景と、矢張り遊廓に接するとあれば、色々不都合な事があったと推測されます。七条側は大反対、すったもんだの後の移転となりました。

しかしもし、七条米商会所がこの地で繁栄したなら、七条新地の存続のほうが難しかったと私は思います。なぜなら、ものの常として、なにか事あることに移転の憂き目を負ったのは、いつも遊廓側でした。

ちなみに明冶二年に菊浜小学校が開校しますが、落成開業式に、京都府権大参事、槙村正直も臨席しています。菊浜の名は七条米浜と菊屋町からとりました。

私の調べた限りでは、江戸期〜明冶期にかけて六条新地の区域は一度も遊里化しておらず、少し前書きましたように、大正元年八月二十三日、京都府令第六号の一節として、高宮町、菊屋町、富松町(高宮町に面せる表側)平岡町(高宮町に面せる表側及菊屋町に面せる表側)つまり六条新地の北側が、七条新地に組み込まれて始めて遊廓になり、その後五条楽園に引き継がれたものと思います。



by gionchoubu | 2015-05-30 13:53 | 五条楽園 | Comments(0)

五条楽園ぞめき その十一

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私が、当初『京都遊廓由緒』を元に、七条、五条間を南からABCDに区分けして、AとCが七条新地の指定地としてあるので、Cのみを取り出す場合、六条通りの延長上でもありますので、便宜上Aと分けて、六条新地と呼んだのではないかと考えました。

しかし、荻野家文書の旧名六条新地八町略図がBを六条新地としているので、Bを以って六条新地であると書きました。

先日、京都府立史料館の館古023中井家文書434、戌四日、正徳三年写『六条・七条新地絵図』を拝見、これにて正にBに高瀬川の西の現在の梅湊町を含んだ区域が六条新地と断定できました。

なぜなら、中井家こそ、奉行として三十橋近い公儀橋の普請を担当、その中で享保年間以降、工事内容の決定や図面の作成、工程管理にも深く関わっており、五条橋から正面橋、七条大橋、高瀬川の各橋を含む地図を保管したのは至極当然のことに思われます。

この地図は公開できるものではありませんが、正徳以前Aが七条新家地、Bが六条新家地、そしてCが北七条新家地と表記されており、六条新地をはさんで、A、Cが七条新地と呼ばれていったものと思われます。

ちなみにこの頃のD(五条橋下)は藪と畑の字が当てられています。

又、しっかりと五条の下から高瀬川に沿ってお土居が描かれていますが、これも宝暦になり、開発が進み、五条橋下にも茶屋株が与えられた頃すっかり整地されました。

面白いのは加茂川正面橋北に音羽川が東から注ぎ込んでいるのが書き込まれている事で、現在も同じ場所に暗渠となった音羽川の注ぎ口があります。

北の修学院のすぐ近くに高野川に流れ込む別の音羽川がありますが、絵図にある音羽川は、清水から流れてくる別の川です。

六条新地と七条新地の境となる正面橋が架けられたのは、両新地が開発された宝永・正徳ごろと推測され七条新地と六条新地が50%ずつ費用を出して維持管理を行なってきました。

しかし、これは負担が大きすぎ、橋の維持に幕末には七条新地は妙法院より、六条新地には東本願寺より助成金が出たそうです。

今一度中井家の図絵をみると、六条新地に一箇所、七条新地に一箇所高瀬川の舟入が見え、この間四本の橋が架けられています。

江戸期に置いて、六条新地は遊里化しておらず、その辺りの事情は次回に持ち越したいと思います。
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by gionchoubu | 2015-05-27 14:54 | 五条楽園 | Comments(0)

町名変更の愚

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             南地五花街の紋章の扇子を振りながら櫓町を通る宝恵かご

私はどの土地でも、行政区名は変えてもいいが、町名は絶対変えてはいけないという立場です。

為政者にとって甘い甘い味のする町名変更、この禁断の実に手をつけ、取り返しのつかない結果を生み出した都市の一つが大阪市です。

現在宗右衛門町として一つに括られている所は、かつての長堀橋筋二町目、千年町、玉屋町、笠屋町、畳屋町、心斎橋二町目の六町の南端と宗右衛門町の全部でありました。

さらに明冶五年以前は、同じ区域が油町三町目、酒辺町、南塗師町、道頓堀御前町、道頓堀布袋町、菊屋町の六町の一部と道頓堀宗右衛門町の全部と、もう無茶苦茶です。

道頓掘の南側現在道頓堀1で済まされている所は東櫓町、西櫓町、こちらも明冶五年三月十七日以前の町名は道頓堀吉左衛門町道頓堀立慶町の一部でした。

最初に、この町の創設に寄与した町年寄、堺屋吉左衛門、芝居立慶の由来を葬り、次に芝居小屋が多く存在した痕跡を消し去ったのです。

町名をみれば、特にこの辺りには昔どういう商売があったかが分かったり、どういう人がかかわったかを偲べたりするのですが、もうお仕舞です。

大阪の他の地も似たようなもので、これでは土地の人に自分の町を、無形ではありましょうが過去の遺産を振り返り誇りを持て、と言う方が無理で、私自身何十回と大阪に出向き、道で出会った人に、附近のお寺、神社を含め何か縁の有ることを尋ねるとしても、本当に何もご存知のない方が多いのは、この町名変更に原因が有ると私は信じて疑いません。

かつて、ある市がホームページに町名変更の理由を載せました。

1、 もしもの時に、救急車、消防車等がすぐに来られない。(生命にかかわる場合がある。)
2、 郵便物、荷物がなかなか届かない場合がある。(時間や経費の無駄。)
3、 来客者がお宅をさがしたり、あなたがお宅の場所を伝える場合に苦労する。
4、 役所等の公簿の整理が煩雑になり、住民サービスに影響がでる場合がある       

これを見てとても悲しい気持ちになるのが、最後の4番目に本当の理由をもってきて、これを発信した市が本来の目的をカモフラージュしたつもりである事と、町名変更に人の命を持ち出し、市民を愚弄している点です。

どうして町名を変更すると人が死ななければいけないのでしょうか?

郵便物の件でも、道頓堀の今はなき阪町(かつて京都の伏見の人が住んでた町です)の看板を掲げた天羅店でお店の人に、町名変更があったとき、一番困ったのが郵便配達の人だったという話を私は実際聞いております。

この町名変更は強い中央の意向が働いていると思われます。

すこしの救いは、一度変更した町名を戻した例もあります。金沢の花街、主計(かぞえ)町は一度変更を余儀なくされましたが、本来の名を取り戻しました。誰も尾張町二丁目と呼ばなかったのでしょう。

参照:『大阪の町名』大阪町名研究会編、清文堂



by gionchoubu | 2015-05-24 14:56 | Comments(4)

遊里の町名

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                     祇園の舞妓さん

緑江叢書6『京の町名のいわれ』で田中緑江さんは京の古い町名を分類して、

一、人名(山名町、俊成町)
二、職業名(八百屋町、畳屋町)
三、樹木名(木町、藤ノ木町)
四、神名(稲荷町、小将井町)
五、仏名(薬師町、石不動町)
六、祭礼に関した名(牡丹鉾町、長刀鉾町)
七、三ヶ町合併名(柏清盛町=柏野町+清玄町+盛下町)
八、対称した名(上之町、中之町、下之町)
九、寺院名(真如堂町、中堂寺町)
十、土地の名(円山町、百々町)
十一、道路名に町名をつけたもの(本町一丁目、宮川筋一丁目)
十二、商家の屋号(茶屋町=茶屋四郎左衛門町)
十三、神社名(西天王町、清明町)
十四、邸宅の名(二条殿町、常盤井殿町)

等々、その他いくつも分類例を仄めかしています。

私が注目するのは遊里における町名で、特に荒地などに新地として一気に沢山の町が開け、新町名が幾つも必要となる時には、町名間に関連性を見る事ができます。

例えば祇園新地内六町は正徳三年(1713)に誕生したもので、富永町、末吉町、清本町、元吉町、橋本町、林下町を見ると、富が永く続きますようし、末永く吉でありますように、元から吉でありますように、という名付け親の意図が読み取れそうです。

七条新地十一町の内十町は上二之宮町など近江阪本日吉大社に因んでいます。
一気に十一の町名を付けるのは至難の業で、多少やっつけ感の匂いがしない訳でもありませんが、便利な方法でした。

二条新地六町の内、新先斗町と新生洲町は鴨川を挟んだ先斗町の繁栄にあやかろうとしたに違いありません。

その先斗町ですが、九町の内五町に松、梅、柏、藤のお目出度い植物が入るのは矢張り命名者の意図を感じます。

島原は西新屋敷が正式な呼び名で、その名の通り、六条三筋にあった遊廓を西の新しい屋敷に移したもので、六町の内三町は移転前、六条三筋時代の上ノ町、中ノ町、下ノ町をそのまま島原でも使っています。

これらの町名を付けたのは誰なのか、多分京都所司代の息のかかった町奉行辺りだと思われますが、宮川町に於ける宮川筋一町目から宮川筋八町目の様に一から数字を数える町名は京都ではほんの少数派なのです。

北から南、四条から五条まで宮川筋で、五条から少し東に本町が一丁目から伏見稲荷まで二十二丁目まで続き、その先は深草直違橋の町が今度は十一町目から一丁目までさらに南に伸びるのはとても偶然とは思えません。



by gionchoubu | 2015-05-21 14:04 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

花街 幕西遊郭


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前回、遊廓の側面、娼妓側からの室蘭幕西遊廓を紹介させて頂きましたが、今回は北海之花街発行所から出版された『北海道乃花街』より、幕西遊郭の花柳界、すなわち花街の視点で見ていこうと思います。

この本が発行されたのが大正十四年でしたので、曽根富美子作『親なるもの断崖』の物語が始まる昭和二年前夜の状況が捉えられています。北海道乃花街によれば明冶二十八年に幕西に遊廓が許可される前、貸座敷は札幌通りにあったといいます。芸妓はその前から少数はいましたが、幕西開廓以来急激に増えました。これは時代的にいうと日清戦争終結後と重なります。

お茶屋や芸妓を取り持つ花街事務所というべき見番ができたのは意外に遅く明冶四十年で、これを室蘭見番として立ち上げたのが旅館福井館主人、福井三郎、常盤、室川、元菊水の主人らで組合組織として作りました。

その後大正七年に室蘭町見番が株式組織として、八尋徳吉により設立され、室蘭見番すなわち室見に対し(室蘭)町見番と呼ばれたようです。普通一花街一見番が原則で、複数見番が存在する場合、廓内になにか揉め事があり、対立勢力が新見番を立ち上げたのが常。ところが室蘭の場合、室蘭見番の了解のもとの創設となります。

新設の理由も、芸妓の我儘を矯正したり、勉強を促す為との動機ですが、この様な新見番の立ち上げは全国的に見て稀有の事だったと思います。

町役場の調べで大正六年では、娼妓数九十七、芸妓数三十と当時は娼妓本位の遊廓といえます。

ところが『北海道之花街』では大正の末頃になると、室見の構成が、取締福壽、福取締竹吉、評議員糸八、同みさほ、小てる、茶良子、久子、金弥、おかる、市子、千代丸、秀勇、太郎、ひな子、ぽん太、老松、おはん、小里、千成、奴、音丸、勘平、おはつ、やま子、茶目、小蝶、まり子、たか子、一丸、富子、八千代、定子、あや子、たえ子、文子、五郎、高千代、鈴弥、一奴、栄子(以上本玉つまり芸妓、地方)まる子、みや子(半玉つまり関西で言う所の舞妓)となり、室見だけで四十二名の芸妓、半玉を数えることが出来ます。

一方、町見の大正十三年十一月末の構成は、取締が喜久助、萬作、米八の三人で、六助、小鉄、みよし、成駒、喜代香、一栄、かよ、時助、菊治、はな子、ふみ子、秀子、福栄、若丸、小市、太郎(本玉)てまり、福太郎(半玉)の二十一名の芸妓、半玉が所属し、両方合わせると六十三名おり、親なるもの断崖の背景には、娼妓本位から芸・娼妓本位に移る幕西の花柳界としての成長が伺えます。

同書は、当時の室蘭の人口に対する芸妓数が九百人に一人と、人口に対して芸妓の率が高いのは、この花街が元からの市街方面に片寄っているのと、便利な地点にあり、且つ又、後家屋の数の多さに因ると分析しています。

ちなみにこの時期の線香代(花代)は両見番とも本玉四十銭、半玉二十五銭、はじめの一時間は四本、次の時間より三本、見番の手数料は本玉一本につき四千、半玉二銭五厘、料理屋のハネ線は本玉一本に付五銭、半玉が三銭でした。

又、当時の室蘭の旗亭(旅館、料理屋)十三軒の内、紹介するに価するのは常盤、よし兼、室川、川清。室見で名妓は糸八、老松、ぽん太、町見が米八、六助、その他売れっ妓が室見の千代丸、おはん、千成、小てる、ひな子、まり子との事でした。その内、おはん、糸八の二人は冒頭の画像で確認することができます。



by gionchoubu | 2015-05-19 15:33 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

張見世、陰見世、写真見世

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                 絵葉書に見る吉原、張見世

吉原が舞台の映画で、外の通りから一段高い格子越しに客が覗ける部屋で、悠然と葉巻を嗜む花魁を見ることがありますが、この格子越しの部屋を張見世(はりみせ)と言います。

張見世は妓楼の表に面した広い座敷で、奥の襖には極彩色の絵が飾られ、遊客の気分を盛り立てました。吉原見物には店に上がらず、これだけを楽しみに吉原通いをする人もいました。

相惚れは額へ格子の跡がつき・・・という句を見ると、男と女、時には商売抜きで惚れあう事もあったのでしょう。  

しかしながら、娼婦が店先に並んで、誘客に顔を晒すのは女性を侮辱するものだとして明冶三十六年頃から廃れ、大正初期に法令化されました。そしてお客は写真式で妓を選んだのです。

下川耿史、林宏樹著『遊郭をみる』によると、京都府福知山猪崎新地では、禁止後も張見世を続けたので、娼妓との会話を楽しみとする男達が他県から車でやってきたそうです。(実際は陰見世のはずです。後日?崎新地ぞめきで明らかにします)

写真見世は言葉通りで、店頭に妓の顔写真が額などに入れられ、その下に名前を書き、客は妓を直接見ることが出来ず、写真で選びました。法令以前、明冶十年七月、京都の島原は写真見世形式になりました。

もう一つが陰見世です。『全国遊廓案内』でか「表に店を張って居ずに、くゞりを這入って、表から見えない所に店を張って居る事」という表現をとっています。

京都市にあった五条楽園がまだ七条新地と呼ばれていた頃、いわゆる写真式で写真をショーウィンドウのように飾っていましたが、売防法施行直前には“照らし”といって蛍光灯のスポットライトを当てた陳列棚に女が並んでいて、のれん越しに顔が見えたそうです。表向きは陰見世であっても、業者は知恵を絞り、ぎりぎりの所で勝負せざる負えない状況だったのでしょう。

廻し制度(以前説明しました)の妓楼で客が入るのは大部屋、廻し部屋、本部屋があり、この順で料金が高くなりました。大部屋は広間を屏風などで仕切って使用しました。
廻し部屋は、割り部屋ともいい、小部屋が並んでいるような作りで、妓が順に廻って床をつけました。江戸前落語でよくこの状況が語られます。

さて、本部屋は上妓に与えられた専用の部屋に客が入ります。妓は実際ここで生活するため、長火鉢、箪笥、家具調度品があり、独特のなまめかしさがあり、女性の私室に招きいれられるという風情が料金となって跳ね返ってきました。


by gionchoubu | 2015-05-17 12:02 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

花街度数 下編

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                      思わず息をのむ広島県大崎上島木江の貸座敷群

昭和四年発行『日本遊里史』の全国遊廓案内に先斗町貸座敷百六十九軒で娼妓数三十三人とあります。ところが、同じ年に発刊された『全国花街めぐり』で松川二郎は先斗町の説明で「こゝには娼妓は居ない、純然たる町芸者風で、踊りも祇園とはちがって此処は(当時)若柳である。」と述べています。どちらが正しいのでしょう。

全国花街めぐりが発行された同年、雑誌『技芸倶楽部』で高谷伸が「松川二郎著“全国花街めぐり”はその範囲の殆ど全国の主要花街に亘っている点、交通関係から説き出して芸妓の花代に到る精密な数字的記述まで、今までに類例のない著述として推奨に吝なるものではない」とこの労作にエールを送っています。

ところが「(先斗町)に娼妓はいないと断定しているが、ほんの少数はいる」と地元ならではの情報を元に少し苦言を呈してます。確かに、この時期先斗町にそこそこの数の娼妓さんはおりました。

さらに祇園の所で松川が、「眼のさめるような友禅の振袖を翻し“あてどないしましょ”なんとか言って花簪をビラビさせている所は、東京の半玉などより遥かに線が柔らかで、芳紀まさに十五か六かと見え給うが、よく糾弾してみると、妾こと三十二歳に侍るなどと、恐ろしいやうな泥を吐いて“いい年してこないな姿をして勤めますのんは、自分かて浅ましう思いまっせ”」という振袖花魁なるものの話を紹介して、この花魁が都踊りの踊り手にも紛れ込んでいるらしい、と言うという下りには、

「振袖花魁といふものは、京都に住んでいる自分でさえ知らないのに、他郷の松川氏が御承知とは不思議である。ことにこれに都踊の踊り子のことを書き加へ、知らぬ人には都踊に花魁も混じるかと思わせるやうな書きぶりは面白くない。この項は全部削除すべきである。」と多少ご立腹の様でした。

それでは思いついた遊廓の花街度をざっと調べます。

東京 新吉原 0.1
   洲崎   0.1
   品川   0.1
   新宿   0.1
大阪 新町   0.4
   堀江   2.1
   松島   0.1
   五花街  0.5
   飛田    0.1
北海道薄野   0.1
兵庫 福原   0.1
長崎寄合町   0.1
福岡新柳町   0.1
金沢 東廓   4.4
    西    2.0
福井 小浜  1.3
名古屋旭廓  0.1 などなど

花街度数はお遊びですが、この度数や貸座敷数などに、ある指数を掛けると、ひょっとしたら見えない芸妓数が現れてこないかと現在色々試しております。



by gionchoubu | 2015-05-15 11:08 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(1)

花街度数 中編

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                   上七軒の皆さん、ずいき祭り
京都の欄をみますと、上七軒には貸座敷が三十三軒有りますが娼妓は二人のみ。ということは、娼妓を置いた置屋が一軒か、最大二軒で、三十一軒か二軒が数の見えない芸妓、舞妓が入る本茶屋と芸・舞妓が所属する置屋ということになります。

ですから、貸座敷総数を娼妓数で割り、その数字が高ければ高いほど、芸妓の割合が高く、花街度が高いといえます。京都でちょっとやってみますと、

上七軒        16.5   芸妓本位
北新地(五番町)  0.2   甲部、芸妓本位 乙部、娼妓本位
祇園甲部      4.7   芸妓本位
祇園乙部(東)   0.8   芸・娼両本位
宮川町        1.1   芸・娼両本位
島原          0.4   娼妓本位
先斗町        5.1   芸妓本位
七条新地      0.2   娼妓本位

つまり、京都ではこの度数が突出している上七軒、先斗町、祇園甲部が芸妓本位、度数が1前後を芸・娼妓本位、0,5以下を娼妓本位とすれば、同じ頃かかれた松川二郎の『全国花街めぐり』の京都の項で「芸妓本位の花街にも少数の娼妓があると同時に、娼妓本位の花街にも若干の芸妓が居る。例えば妓甲にも太夫が居るし、島原にも芸妓が居るの類である。」と説明していおり、甲部、乙部と二つに分けた北新地以外、私の分類と一致します。

祇園甲部の太夫には奇異の感じを持たれる方もいらっしゃると思いますが、この頃祇園には島原太夫と同じ装束をした太夫さんが何人もおりまして、人通りの多い祇園で太夫道中をやったりするので、各方面から苦情がでました。

興味のある方は、京都府立総合資料館に昔の都をどりのパンフレットが所蔵されていますので、ご覧いただければ、幾人もの祇園の太夫の写真を見る事ができます。

さて、娼妓のいる花街で全国で一番花街度が高いのが上七軒で、これは京都でもぶっちぎりの高さにあります。

実は上七軒は長きに渡って多くて二、三人、少なくとも一人の娼妓さんを置く伝統がありました。『技芸倶楽部』に小太郎という娼妓さんの話が載りますので紹介させて頂きます。

彼女は元は別の土地で酌婦をされていたらしいのですが、兄が電車の車掌の勤め中に負傷し、家政が立たなくなりこの稼業に入りました。

ただし大変内気な性格なので、同業者のいない上七軒を希望し、その頃上七軒唯一の娼妓となったとの事でした。小太郎の性格は頗る柔和で愛嬌者、余暇にお茶、お花、裁縫の勉強をしていたそうです。

何故上七軒が少数の娼妓を置いたのか、それは普通に考えて、芸妓さんの身持ちを崩さないという目的があったと思います。

多くの芸妓さんの防波堤となり、身一つで寄せる高波を蹴散らした小太郎さん、沢山稼いだ後、いい旦那さんを見つけ、普通の奥さんとして、幸せな残りの人生を送ったのを祈るばかりです。




by gionchoubu | 2015-05-12 11:20 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(2)

花街度数 前編

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          鳥取県倉吉の梅乃家さん、ネットで見ると取り壊された様です。残念!         

『全国遊廓案内』の遊廓語(さとことば)のしおりに貸座敷を「芸娼妓の置屋、揚屋、又は兼営の家等を総称したもの」とあります。

貸座敷という言葉が生まれた背景には明冶五年の「マリー・ルイーズ号事件」があります。この名を冠した南米ペルーの船が横浜に寄港したとき、奴隷の一人が停泊中の英国軍艦に助を求めました。困った英国軍の館長は日本側に奴隷の処遇を委ねます。日本側は国際法違反として奴隷を解放しました。

激怒したペルー側が弁護士を通して主張したのが「日本には、奴隷と全く処遇の替わらない公認娼妓がたくさんいるじゃないか、そんな日本が国際法を縦に奴隷のことをとやかく言う資格はない!」と、これには日本側も抗弁できず、その結果、外圧によって生まれたのが芸娼妓解放令なのです。

そしてその副産物として便利な言葉、貸座敷が生まれました。その解釈は、貸座敷の経営者は娼妓を身代金によって束縛しているのでなく、只、彼女達を寄宿させ、部屋代や設備の貸与料をもらっているだけです。その稼業は自由意志によってなされていうレトリックを用いたものです・・・こういった法律上の詭弁が今の日本の他の分野でも根付いて、利権を生んだりしていませんか?

とにもかくにも貸座敷とは便利な言葉で、島原の揚屋も、祇園のお茶屋も、上七軒の置屋も、七条新地妓楼も遊女屋も、東京の引き手茶屋も待合も全部貸座敷一言で済ますことが出来るのです。

しかし困ったことが一つあります。それは貸座敷とあれば、それが芸妓の入るお茶屋なのか、舞妓が住む置屋なのか、はたまた娼妓が入る妓楼なのか、それとも娼妓置屋か区別できないことです。

昭和四年に春陽堂が発行した上村行彰著『日本遊里史』の付録にある日本全国遊廓一覧には当時の全国の遊廓の所在地、俗称、貸座敷数、娼妓数から健康診断所、その廓の指定病院から病床数、健康診断及び治療に関する諸費まで載ります。

花街や遊廓には時代によっても、色んな捉え方ができ、定義するのが難しいのですが、今回はざっと大まかに、1、娼妓のみで芸妓のいない所、2、芸妓も娼妓もいる所、3芸妓のみで娼妓のいない所の三つのみに分けて考えてみます。娼妓とは公認遊女の事です。

日本遊里史が対象にしているのは1,2のみで3の芸者町には一切触れていません。たとえば東京でいうと、芳町、柳橋、駒込、芝浦、新川、根岸、神田、日本橋、下谷、駒込、神田、新宿、新富町、浅草、五反田、深川、四谷、新橋、目黒、渋谷、大塚、芝神明、白山、湯島天神、向島、九段などの花街は含まれていませんし、関西では明冶四十二年の大火後、梅田駅に近い為公証業者を廃し、芸妓一本になった曽根崎新地(北新地)が含まれていません。


by gionchoubu | 2015-05-10 10:59 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

祇園ねりもの 四十一

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五月六日(水)まいまい京都さんのガイドとして、祇園ねりもののコースを歩きました。大変マイナーな題材ですので、募集人数が集まるかどうか心配だったのですが、幸い定員でスタートすることが出来ました。

今回歩いたのは道順が記された明冶四年のものですが、江戸時代もほぼ同じコースだと思います。

前日の京都新聞の朝刊で、私が取り組んだ昭和十一年のねりものの版画の記事が偶然記載されましたのはグッドタイミングでした。http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20150505000011

先ず、京阪祇園の南改札口で自己紹介と、祇園ねりものとは何か、簡単な歴史を紹介しました。

祇園京阪9番出口を出ると、四条大橋に関する碑がありますので、四条大橋と花街祇園の関係、昭和十一年の祇園東のねりものに出演した“おもちゃ”という芸妓さんに纏わる話をしました。

ねりもののスタート地点であった元吉町から富永町に入り、祇園ねりもの行列の事、練り子の事、お茶屋のしつらえなどを説明させて頂きました。

末吉町では、明冶の練り子のうち、江良佳代、松本佐多の二人の話や大阪のねりもの、風呂屋と湯屋の違いなどなどをお話させて頂きました。本来ここから新橋、縄手、四条を歩き、八坂神社南門に向かうはずでしたが、祇園東お茶屋組合に立ち寄る時間が来てしまったので、そのまま祇園東お茶屋組合に行きました。

本来お茶屋組合はお休みでしたが、取締である中勇の中西さんのご好意で、実際のねりものの歌舞伎の暫の衣装と、昭和十一年のねりもののミニチュア人形、稽古場を見せていただきました。

神幸道から下河原に入り、途中東景寺、菊渓川に拠った後、二軒茶屋、月下氷人石のお話をして、八坂神社に入り、井上流みやび会の事、美(うつくし)神社から円山公園しだれ桜、祇園小唄碑を経て、八坂神社の絵馬館が最後の立ち寄り、新橋まで来て無事終了しました。

ゆっくり練り歩くつもりが、時間が押し気味で、だんだん早歩きになってしま
いました。あっという間の二時間三十分でした。


by gionchoubu | 2015-05-08 10:50 | ねりもの Gion Nerimono | Comments(0)