花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る

カテゴリ

全体
上七軒
遊郭・花街あれこれ
先斗町
宮川町
ねりもの Gion Nerimono
舞妓・芸妓
祇園東
五番町
雇仲居
遊廓、花街の類形
京都の花街・遊廓
亡くなった滋賀の遊郭
五条楽園
私娼
島原遊郭
祇園
パンパン、赤線
島原、輪違屋太夫 賛姿語録
*リンク
亡くなった奈良の遊廓
未分類

以前の記事

2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月

お気に入りブログ

最新のコメント

花街ぞめき様へ 元..
by narahimuro at 18:15
> narahimuro..
by gionchoubu at 14:16
> あきさん コメ..
by gionchoubu at 14:51
本当に詳しく、有難うござ..
by あき at 21:27
花街ぞめき様へ 元林院..
by narahimuro at 22:47
> やまねさん し..
by gionchoubu at 12:40
河原町四条の蝶類図鑑は常..
by やまね at 11:23
> やまねさん そうで..
by gionchoubu at 12:36
ちなみに プログレががん..
by やまね at 22:56
> kwc_photoさ..
by gionchoubu at 10:35

メモ帳

最新のトラックバック

美は幸福を約束するものに..
from dezire_photo &..

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

花街 元林院ぞめき 三
at 2018-12-09 12:56
花街、元林院ぞめき 二
at 2018-12-06 12:58
上七軒 大文字 勝奈さん その四
at 2018-12-05 12:24
花街 元林院ぞめき 一
at 2018-12-02 17:25
大和郡山 洞泉寺遊廓ぞめき 三
at 2018-11-28 12:34

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
近畿

画像一覧

<   2015年 04月 ( 13 )   > この月の画像一覧

下河原の山根子 前篇

f0347663_12015893.jpg
下河原通り。かつてのお茶屋、迦陵頻(かりょうびん)より八坂神社を臨む。

下河原の由来はこの地を流れる菊渓(きくたに)川と轟川の氾濫で土壌が出来たからとも、真ケ原の下手で下河原になったとも言われています。高名な料亭、菊乃井は菊渓川の上流にはかつて自然の菊が群生しており、菊の香を含んだ井戸が由来といいます。又、菊渓川は途中から暗渠になっていますが、菊渓川が下に流れる旅館、元奈古さん等は、市に土地の使用料を払っています。

下河原には秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)、ねねが高台寺に住み、その遊芸好きゆえ、毎日の様に舞や芸を楽しみましたので、この附近には舞芸の達者な者達が移り住みました。

ねねが寛永元年(1624)亡くなると、この女達が下河原の山根子と呼ばれる町芸者となって、近くの寺が設けた屋敷などで舞を披露しました。

京都の島原や江戸の吉原に芸妓が現れたのが宝暦年間(1751〜1763)といいますから、山根子達のほうが古いわけで、何といっても、廓芸者とは違う格式の高さといったものがありました。芸妓と違い花代は貰わず、扇料として祝儀を貰い、座敷へ呼ばれても、お客に挨拶もせず、客の上座に座り、顔見知りなら「ご機嫌さん」と口を切ったといいます。

明和(1764〜1771)の時分から、也阿弥、左阿弥、眼阿弥、正阿弥、重阿弥、連阿弥という六阿弥(ろくあみ)などの寺が所有の席貸を中心に山根子たちは呼ばれました。その少し後、初世の井上八千代が最初に舞を指導したのがこの山根子たちでした。

安永九年(1780)刊の『都名所図絵』に「下河原はむかし雲居寺の北より谷川流れ出て一面の河原なり。驟雨の時は満水して下流にては宮川と号し、鴨川に流れ入るなり。何れの世よりか山崩れて川を埋み、高楼飛観軒端をつらね、歌舞の妓婦花やかに出立て」と記されております。

余談ですが宮川町の宮川とは、四条、五条間の鴨川が由来といわれていますが、菊渓川が所以かもしれません。

寛政十一年(1799)刊の『京林泉名所図絵』に下河原舞の会として、結構な広さの座敷で蝋燭を灯かりに、三味線で舞う山根子の姿が描かれています。客も侍、僧侶、や裕福そうな町人、女性客も沢山います。

『近世風俗史』に「山猫 芸子の一種なり。祇園社背ろにあり。故に山猫と目す。三絃の皮、猫皮を良とす。故に山猫と言ふ。常の方言なり。東山に住む弾妓なる故に山猫と云ふなり。」私はごく単純に考えて、山根子は山猫が転化したものだと思います。

山根子というと、これについて触れたものはどれもこれも、芸達者で、品行方正な芸能集団といった調子でかかれ、私なんかでも、日本の花街史にそよぐ一服の涼風として、その姿に憧憬の念を持っていたものです。

ところが、宮武外骨が紹介した『高安澄信翁筆記』に、「円山の茶屋へ諸山の坊主内々にて遊びに行く時、下河原より、配膳の女来りて取持ち、その坊主と床入りする。坊主は女を犯す事ならぬゆえ、猫を抱いて寝ると言うなり。なお円山の猫ゆえ山猫と言うなり。また昼は配膳にて夜は遊女と化けて出るゆえ、斯く言うなり」

ごく一部の山根子とほんの少数のお坊さんの所業とは思いますが、歴史を硬直な目で見て、疑いも無く二百年以上品行方正たれ、と決め付けるのもどういったものかと・・・

「猫じゃ猫じゃとおっしゃいますが、猫が下駄はいて絞りの浴衣でくるものか」

という俗謡が寛政時代にはやりましたが、猫という言葉は江戸の町でも天保以前から芸者の異名として使われました。


by gionchoubu | 2015-04-29 12:04 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

五条楽園ぞめき その十

f0347663_11332547.jpg
五条楽園の関係者の方に、一本の横断歩道のお話を伺った事があります。

かつて四条から木屋町通りを下がり五条まで来ると、五条通りに横断歩道があり、そのまま五条楽園の木屋町筋に入れたそうです。人通りのある木屋町通り、ごく自然な成り行きです。

ところがある日、五条楽園の方に大変知恵の有る方がいらっしゃって、この横断歩道を、どういう理由で当局を説得したか分かりませんが、消し去ったのです。その後視界まで遮るガードレールまで出来てしまい、このルートは完全に遮断されてしまったのです。

木屋町筋を下って来た人は左に五条大橋を渡って東に抜けるか、もしくは西に向かい、河原町通りまで行って横断歩道を渡り南へ流れるので、一般の人が河原町の横断歩道を渡ってから、わざわざ五条楽園に戻って入る可能性をほぼ消し去ったのです。

つまり五条楽園が色街として最近まで存続し得たのは、楽園を陸の孤島にした一本の横断歩道かもしれないという話です。

√旦那はん おいでやす ええとこどすえ 芸者ワルツでステップか 五条楽園 花えくぼ 柳並木と ぼんぼりが ほのかに浮かぶ 恋のみち

でも、もう恋の道にぼんぼりを灯す女(ひと)影はどこにも見えません。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

七条新地を構成した町の名の多くは滋賀県坂本の日吉(ひえ)大社に因んだ名が付けられています。これはこの辺りが東山七条の新日吉(いまひえ)神社の氏子町であるという歴史からきています。緑江叢書の『町名のいわれ』、『坊目誌』そして『京都市の地名』を参考に廓内だった町名の由来を記していくと何かが見えてきます。

都市町 寛永十四年(1637)洛中絵図に「トイチ丁」とみえる。当町は旧七条道場金光寺領で市比売(いちひめ)神社の旅所であったが、町名は祭神が都市の守護神であったことによるという。

南京極町 京極大路の南にあることによる。

平居町 町名の由来は不明

以上D群

八ツ柳町 日吉神社のある坂本の浜の地名八ツ柳からとりました。

波止土濃町 日吉神社の前の流が由来です。

早尾町 日吉七社の内早尾をとって町名としました。

岩滝町 日吉神社境内にある字岩滝に由来

聖真子町 日吉の祭神の聖真子町からきています。

以上C群

菊屋町 開町以前の字菊屋からきている。

高宮町
 不明

富松町 不明

平岡町 不明

富浜町 不明

鍵屋町 不明

以上B群

山王町 天台宗の鎮守である日吉山王からきています。

上下二之宮町、上下三之宮町の計四町、日吉神社の二ノ宮、三ノ宮が由来

十禅寺町 日吉、山王七社の一つから

大宮町 日吉の大宮から

以上A群

この町名群で面白いのは、その三で提示した最初の七条新地区域の内。A郡、C群が日吉神社由来で、B群が全くこれに由来していないという事です。
私はC群が六条通りの延長であり、さらに当初B群が七条新地に入らなかったので、A群と区別する為、C群を六条新地と呼ばれたと推察しました。

実はこのB群六町に現ひと・まち交流館のある梅湊町が梅沢町と湊町が合併してできたものなので、B群六町にこの二町を加えた八町が、六条新地であると荻野家文書の旧名六条新地八町略図に描かれているそうです。(参照:京都市の町名)

つまり、D群の五条橋下は別所として、当初の七条新地は日吉神社由来で、そうでないB群と出生が違うという事が見えてきました。

やっぱりこういった事は素人が勘ぐると碌なことがないといういい例でありまして、謹んでお詫びと訂正させて頂きます。

六条新地はB群であり、C群ではありません。

宝暦十一年(1761)、煮売株六十軒に増加した際にB群ができたと見ていいでしょう、この六条新地は七条新地開設の折はまだ無く、宝暦十一年に出来たが、また消滅してしまい、昭和三十三年頃、その半分ほどが五条楽園で復活したと言うことになります・

五条新地(D群)はやはり、宝暦年間に川口庄助と増野伊右衛門が御土居跡に町を建てることを幕府に申請して許可を得たものであるので、それ以前に、御土居建設を命じた秀吉が由来の遊廓地という、その一で書いた伝承には、残念ですが無理があると言わざるを得ません。

ただし宝暦十一年、秀吉が実際に茶屋株を許した北野上七軒の真盛町より、南京極町に茶屋株を文派して遊里になった経緯があるので、このことが、回りまわって五条楽園、七条新地、秀吉由来の遊廓伝説を生んだのではないかと、私は考えています。

荻野家文書の旧名六条新地八町略図は私自身見ていないので、いずれ日を置いて、再びぞめくつもりです。

f0347663_11342739.jpg
                  木屋町五条北側より望む五条楽園


by gionchoubu | 2015-04-26 11:38 | 五条楽園 | Comments(2)

五条楽園ぞめき その九

f0347663_11582073.jpg

                現在、この風景を見ることはありません。


昭和四十四年の五条楽園を歩いて見ます。

先ずは五条側、平居町の弁天湯のある筋から入ります。右側入り口の右に見えるのは城旅館で、一軒置いて高瀬川会館というスタンド街、よし子、福ちゃん、お多福などのお店が並びます。

以前はこの筋の入り口に、アーチに大きく七条新地と浮かび上がるネオンがあり目を引いたのですが、いつの間にか無くなりました。

その先、右側最初の路地の角は大江山というお寿司屋さんで、其の隣りが丸いステンドグラスが三つ、カフェー調のお茶屋あさひです。二番目の路地の角が栄楼で一軒置いて菊加ばし、そのまま南に進めば友キ、井上、本池中などのお茶屋さんが続き五条会館を右に見ながら下れば、扇家、鈴江、助六、成駒、平安クラブと続いて、一番奥が末広です。

左側の入り口は出光興産のガレージで、次が旅館浅とみでそのお隣がサロン白牡丹、グリル日月、サロン千代鈴で、其の隣が弁天湯とお好み焼きのみどり、その先に銀水、宝船、梅鉢、川代などのお茶屋が佇みます。

かつてのこの筋の入り口辺りには木下楼という三層の貸座敷が灯をともし、今は旅館の浅とみも元は貸座敷、さらに北一雲明楼という貸座敷もありました。

次に西木屋町通りの北から、左に高瀬川を見ながら、歩けば、ひょうたん、月の家、多喜、江戸花、春駒、寿美、三日月、羽衣というお茶屋街、その先はちょっと前までニコニコ倶楽部という置屋さんが有ったのですが、今はガレージです。もともと京都では〜倶楽部は雇仲居の派遣業者がこう名乗るのですが、ここでは置屋さんをこういいます。戦前の名簿を見たことがあったのですが、七条新地にやとな倶楽部は無かったはずです。

五条にもどり、都市(といち)町から木屋町通りを南へ下ります。この町は明冶に遊廓地から外れたのでお茶屋は一軒もありません。まず入り口附近に五条小橋派出所があります。

すぐ大きな榎が聳え立ち、さらに進むと金光教の教会があります。西日本の遊廓の近くによく金光教さんを見かけるので、芸、娼妓さんの信仰を集めたのかもしれないと思い、これに詳しい大学の図書館で調べた事があるのですが、金光教側の資料からは、関連付けるものを探すことは出来ませんでした。

すぐ先に公衆トイレがあり、ここからが八ツ柳町です。ここから鴨川に向かって一梅、しぼり荘があり、鴨川一つ東の南北の筋に花びし、美はる、ピンクタイルが素敵な孔雀というお茶屋と福ノ家クラブという置屋があります。

高瀬川に戻り、公衆トイレの東にあるのがお茶屋の岡崎で、その先が大茶屋本家三友です、これだけの大茶屋は日本中探したってそうお目にかかれるものではありません。

高瀬川に沿って、ミヤコ倶楽部、お茶屋花幸、旅館花園、しばらく素人さんのお宅が続いて二軒のお茶屋の先が梅湯です。ここから東に向かい、最初の路地を南に下がれば東側に旅館吉はつ、たこ初食堂、お茶屋寿、池中、第二山本、西側には旅館増福があります。

吉はつさんの所を北に上がれば、西側に八千代、富美家があり三友さんのもう一つの玄関が見えてきます。東側はお茶屋谷梅、旅館好成楼です。

波止土濃町の筋には北から南へ、西側がお茶屋花柳、東側が森田、川崎クラブ、石江があり、その他八ツ柳の鴨川沿いに銀柳、まつやのお茶屋があります。

五条楽園の東南が菊屋町で、旅館平岩荘、お茶屋は三友支店、さがのがあります。もう一つ、任天堂のある平岡町の北に新池中というお茶屋があります。

わりにきつい春雨の中、少し早歩きで巡りました。見逃したお茶屋さん、倶楽部があったらごめんなさい。




by gionchoubu | 2015-04-24 11:59 | 五条楽園 | Comments(2)

五条楽園ぞめき その八

f0347663_11364273.jpg
それでは明冶以降の七条新地の芸娼妓の数を中心に追ってみます。

明冶五年、業者二百三十四人、娼妓九百七十三人、芸妓三十七人(日本花街史)

明冶十一年出版された大西亀太郎による『都の花競』によれば、下京第二十六区、橋下の部で芸妓の登録なし、娼妓のみで、南京極町に七人、平居町に二十五人の本名と年齢が載ります。十七歳から三十一歳までで、殆どが二十代前半の女性です。

明冶二十八年刊『京都土産』によれば、七条新地に貸座敷百二十九軒、芸妓二十三人、娼妓四百二十一人、屋形(芸娼妓置屋)十五軒、著名貸座敷に友月楼、鈴木、柴田楼、勢国楼が挙げられています。(日本花街史)

『京都坊目誌』に大正元年八月二十三日、京都府令第六号の一節として、七条新地々域が載り、平居町(新寺町に沿いたる表側及び同通以西を省く)、南京極町、聖真子町、八ツ柳町、岩滝町、早尾町、波止土濃町、高宮町、菊屋町、富松町(高宮町に面せる表側)平岡町(高宮町に面せる表側及び菊屋町に面せる表側)の十一町です。

これは前々回載せた地図の南側に菊屋町と高宮町そして富松町と平岡町の一部を加えた区域で、これが、そのまま受け継いだのが五条楽園の区域と思われます。ただし新寺町が分からないので、平井町のどこが外れたのかは不明です。

大正二年『京都坊目誌』によれば、貸座敷二百五十六戸、娼妓九百四十五人、芸妓二十四人同年中の遊客十二万四千九百六十人と有ります。

昭和四年発行の『日本遊里史』によれば、貸座敷二百八、娼妓九百八十八(この統計には七条新地に限らず芸妓数は全くのりません)この娼妓数は、祇園乙部、宮川町、島原、中書島の娼妓合計一千四十七と変わらない数字です。

これがどれほど大きい数字かというと、日本全国で当時の七条新地を凌いだのは東京の新吉原、洲崎、大阪の松島、飛田、五花街(灘波)、神戸の福原、沖縄のチージ、名古屋の旭廓のみという事で分かります。

ただし、是だけの規模でありながら、七条新地が『日本遊廓案内』に収録されなかった理由は分かりません。

昭和九年には業者(貸座敷)二百四十一、娼妓一千三百二十六、芸妓ゼロ
(日本花街史)

昭和三十〜三十三年頃に業者百七十九、娼妓六百九十三となり、売防法の実施で遊廓としての七条新地は歴史の幕を閉じました。

この売防法実施の直前に花街研究家の加藤藤吉が『日本花街志』で芸妓がいなく、花街の紋章もないのに、第二部、紋章の研究で七条新地を取り上げたのも不思議です。「市内の浄化運動には毎度その対照とされ、移転運動が起るけれど、花街の業者により、多くの府市の負担がまかなわれている都市だけに簡単には事は渉どらず」と移転問題が現れては業者の反対で消えていた様子が分かります。

当時の七条新地に紋章がなかったのも「極めて消極的な営業政策」をとっており、催す行事もなければ、紋章の制定も必要ないと、加藤藤吉は結論づけました。

この花街としての七条新地を見てみますと、大正の初めに今も残る立派な歌舞練場を建てましたので、芸妓街への検討が当時の幹部の人たちにはあったのでしょうか? 大正十二年の『技芸倶楽部』をみると、七条新地はそれまで舞の流派が、ずっと篠塚流だったことが分かります。

大正の終わりから技芸倶楽部主宰の各遊廓連合競技大会が暫くの間ですが、毎年行なわれ、当時京都の、上七軒、北新地(五番町)、島原、祇園甲部、同乙部、先斗町、宮川町、中書島はこれに参加しているのですが、七条新地のみ「芸妓少数の故とて例に依り参加せなかったが」と、芸の披露は見合わせていました。

当時の七条新地の芸妓さん達が、この不参加を悔しく思い、眠れない夜を過ごしたか、ホッと胸を撫で下ろしたか、今となっては知るすべは有りません。


by gionchoubu | 2015-04-22 11:37 | 五条楽園 | Comments(3)

五条楽園ぞめき その七

f0347663_14310338.jpg
さて、大正十五年の『技芸倶楽部』に、同年九月一日実行された京都七条新地の娼妓待遇改善の実施の決定記事が載っています。

娼妓の待遇改善促進が大幅になされた訳ですが、明冶二十四年の一方的に貸座敷の経営者側に立った組合規約からほぼ四十年後になります。今回は黒川七条所長が改善促進の労あっての改善でした。

この間、明冶三十四年、七条新地の娼妓が七条署へ自由廃業届出をしました。これは、前年、名古屋で娼妓自由廃業の火の手が上がり、各地に普及したものです。

七条新地としても、京都府最大の遊廓として、娼妓の待遇改善は必要不可欠の課題として取り組まざるを得ない状況に追い込まれた結果なのでしょう。

改善待遇の内容は

一、娼妓稼業一カ年毎に金六十二円を積立て満期廃業の際同人の支度金と共に交附する

一、元貸金(前借金)に利子を附せざる事

一、稼業中妊娠したものの医薬その他の費用は全部抱主の負担とす

一、入院中は小使金を支給する事

一、八坂病院入院患者に対し毎月組合議員二名以上訪問し一人毎に幾分の見舞品を送る事

一、月仕舞(一名宵仕舞)全廃の事

一、日柄は全廃の事

一、娼妓が仲居又は事務所小使に贈る祝儀全廃の事

一、接客用衣類、寝衣、長襦袢など楼主から全部支給

一、公休日を定め春秋二季に慰安会を催し其他結髪料及び必需品を支給しお茶引きの懲罰に対する労務全廃等改善の事

つまり、それ以前は、商売衣服は自分持たされ、貸し金には利息を付けられ、
お客がつかなければ罰金を取られる事もあったということになります。
あの高給取りの事務所小使は娼妓から祝儀までせしめていたのです

八坂病院とありますが、これは明冶三年七月、祇園神幸道(現東大路八坂神社の南最初の筋)に娼妓梅毒治療所を設置したのが最初で、東京、大阪に先駆け開始したもので、明石博高の尽力が功を奏したものです。当時上七軒、五番町、島原、七条新地、二条新地、先斗町、祇園、宮川町、墨染、中書島の遊廓の負担で運用されていました。

明冶十五年には花見小路に四千四百坪を敷地とし新築落成しましたが、明冶二十八年頃、患者の素養が悪くなり塀を越えて脱走する娼妓が多くなり、塀を二尺高くした記録があります。

大正二年に、広道通松原通に移転、収容人数二百五十名あったといいます。京都の娼妓数は明冶四十四年で2、355名、昭和十四年には3,921名に膨れ上がりました。

f0347663_14304234.jpg
         通りは違いますが、上のお茶屋さんとつながっています。(同じお茶屋さんです)


by gionchoubu | 2015-04-20 14:36 | 五条楽園 | Comments(0)

五条楽園ぞめき その六

f0347663_11484069.jpg
  明治十九年に制定された七条新地の区域 、七条〜正面が抜け落ち、都市町もはずれ、その後の五条楽園の区域に非常に近いものとなりました。

それでは、前述の七条『組合規約謄本』を開いてみます。これは当時の下京警察署長であった池上勝太郎が下収第三八一〇号として認可したもので、二十六条からなっています。規約に権威を持たせようとして、条項を増やしたのかもしれません。その為か、私はやや冗長の感をもつのですが、当時の七条新地の妓風といったものも垣間見えますので紹介させて頂きます。

第十一条までは組織、役員に関するもので、第十条の正副取締人の被選挙人の資格のない人に、四、瘋癲白痴ノ者が挙げられているのですが、そりゃそうでしょう。

第四章、組合取締ノ方法として第十二条があります。第三項に通行人を勧誘スベカラズというのがあります。

第四項は芸娼妓、稼人、下碑、雇人、寄寓主は雇い主に対し、欺いて解約したり、雇い主に対して不利益な事をすれば、将来他の業者に雇い得られないという申し入れや、第五項として、いわゆる芸娼妓を含む雇い人が甲から乙の業者移る場合は、甲の業者から承諾がないと乙に移れないという、極めて雇い主に有利な項目が並び、これに警察署長が判を押しているのは、時代の趨勢というものでしょう。

第七項は花代で、芸妓に対し、娼妓がやや高めといった所です。日柄が共に二十銭で、これは、正月、祭事など、いわゆる紋日に誘客に請求する特別手当みたいなものですが、かつて島原や吉原で業者が勝手にこの日も紋日、あの日も紋日と決め、島原では寛政年間に紋日が一年の内、百三十六日も紋日となり、お客は紋日を避けてくる対抗手段をとったという、笑えぬ状況がありました。

ただし島原の紋日はそれこそ揚代が紋日には倍になるという酷いものでしたが、この時代七条新地での日柄はチップぐらいの金額でした。

面白いのに第十一項があります。

「貸座敷業者ハ毎日午前一時ヨリ同六時マテノ間ニ芸妓ヲ招ク時キハ芸妓又ハ娼妓一名以上同席スルニアラサレバ営業ヲナスベカラズ芸妓モ亦之ヲナササルモノトス」

これは何を意味するかお分かりでしょう。そうです芸妓が娼妓の分野の仕事をさせない手段に違いありません。

第十五項、「引手茶屋ハ貸座敷業者ヘ遊客ヲ案内シ其シ揚代金ハ直ニ其貸座敷業ヨリ遊客ニ請求シ其請取金高百分ノ五ヲ引手茶屋手数料トシテ之ヲ付ス」

普通吉原などでは、誘客は引手茶屋で芸者遊びをして、そのあと妓楼に繰り出す、支払いは全て引手茶屋が受け持つという図式でしたが、これは引き手茶屋とそのあと引手茶屋から後日請求を受けるお客の間で信頼関係があるときのみ成り立つシステムです。七条新地の遊客はすべて其の日の内に清算を済ますという客と業者のドライな関係が読み取れます。

第二十一条に、組合経費を毎月二十五日に各営業者より徴収するとし、

上等貸座敷   二五銭
中等貸座敷   二十銭
下等貸座敷   十五銭
引手茶屋    十銭
小方(置屋)  十五銭
紹介人     十五銭
芸娼妓     十銭

と有ります。七条新地の五業は、貸座敷、引手茶屋、芸娼妓置屋、紹介人、そして芸娼妓から成り立っていたことが分かります。

ちなみに取り締まりの月給は六円、小使雇給料が四円五十銭とそんなに変わらなかったのが不思議です。 
f0347663_11581121.jpg

by gionchoubu | 2015-04-18 11:58 | 五条楽園 | Comments(0)

五条楽園ぞめき その五


f0347663_14582908.jpg
このステンドグラスももう有りません

その後すぐ、享和二年(1802)滝沢馬琴が『羇旅漫録』で七条新地が公許になったばかりの様子を「京にて島原の外御免(公許)の遊女町は五条坂、北野、内野なり。五条坂はあこや株と称す。又近年あらたに免許ありしは祇園、同新地、二条新地、七条河原(新地)等なり。」その外として幾つか挙げた後「御影堂うら、都市町、平居町」と五条橋下を書き連ねています。御影堂うらは南京極町辺りとみて間違いないでしょう。(現在も御影堂町は存続します)
文化年中になると、芸者も七条新地で取り扱いが許され、五条橋下や宮川町、西石垣(さいせき、四条南の鴨川西岸沿い)に七条新地から遊女が出稼ぎに行くようになったとされるのですが、証明するような物は残りません。

この頃の全国の遊所を相撲の番付に摸した『諸国遊所競』では両者ともかなり下の地位で、やや七条が五条より上にいます。京都でこの二箇所を下回る所に、高台寺前、撞木町、清水前、今出川、内の新地、三かん寺、墨ぞめ、しらみの辻(白梅図子)が有りました。

余談になりますが、以前より私自身、この今出川と三かん寺の場所を探しあぐねておりますが全く分かりません。

さて、天保十三年(1842)の全国的な遊所整理で、七条も五条もいったん商売変えたものの、嘉永四年(1851)に再び許可が出て、七条新地はA,Cで営業再開しました。

この後、安政六年(1859)に五条橋下にも正式に遊女屋茶屋渡世の許可がでて、七条新地から移る業者もでてきました。

元治元年(1864)の六月一日、坂本竜馬が江戸の勝海舟の許にいく前、当時おりょうが働いていた七条新地の扇岩という旅館に会いに行き、一時の別れの盃をかわしています。(『反魂香』二より) 又、この年七月、禁門の変で七条新地は焼失しました。


慶応三年(1867)『四方の花』では、尾張屋に芸子17人、遊女七人、笹つる屋に芸子十八人、河合屋に芸子三人、遊女十五人の名が載ります。

明冶六年、五条橋下の平井町に、芸娼妓の手に職を持たす目的で、婦女職工引き立て会社ができ、翌年下京第二十六区女紅場(にょこうば)と改称します。

七条新地の女紅場が五条側にできたと言うことは、明冶になって事実上この二廓は合併していたと見て良いようです。

ただし、正式にこの七条新地と五条橋下が合併したのは『京都遊廓見聞録』では判然としないと、又『日本花街史』ではなぜか、京都府令第六号(京都坊目誌を引用?)大正元年八月二十三日付を合併の日としています。

明冶二十四年三月に七条新地五業新地区域五業取締事務所が出した『組合規約謄本』によれば、明冶十九年府令第三号五業取締規則により七条新地五業組合が発足したことになり、其の区域を聖真子町、岩滝町、早尾町、波止土濃町、八ツ柳町(C郡総て)とD郡の内平居町と南京極町で、七条側のA郡がすっかり抜け落ち、D郡の都市町も遊廓区域からはずれました。

さらに、錦織剛男という方が大阪府民生部総務課に寄贈した謄写版刷りの『京都遊廓年表』によりますと、明冶十九年八月、七条新地を拡大(橋下および竹林図子を合併)取締は平井町巽女工場におく。(日出新聞、八、二十八)とありますので、名実ともこの年に新しい七条新地が誕生と断定していいと思います。(日本花街史も花街史年表ではその旨記載されています)

京都遊廓年表は大阪府立中央図書館と大阪府立中之島図書館に所蔵されています。

ちなみに、竹林図子は竹林院と等善寺の東際、現在の河原町通りの一部となりました。
f0347663_15005535.jpg

by gionchoubu | 2015-04-16 15:01 | 五条楽園 | Comments(0)

五条楽園ぞめき その四

f0347663_12040511.jpg
宝暦十一年(1761)、煮売株六十軒に増加、この時、『京都府下遊郭由緒』では書かれていませんが、島原遊廓の支配を受ける、と緑江さんは指摘しています。公許の島原の支配を受けるという事は遊女渡世が認められたと同じ意味になります。

この宝暦十一年にはD郡の内、南京極町が上七軒の新盛町より茶屋株を借り受け営業を始めます。ですから宝暦十一年が五条橋下の遊所が誕生した年で七条新地とは、出所が全く別の遊所としてライバル関係になりました。

明和九年(1772)以前に書かれた神沢杜口の『翁草』に、五条橋詰蕎麦切屋の話が載ります。その中で、「右の場所(五条橋下)は、七条新地地下ざまの者の通ひ行く遊里の咽首にて、日暮れれば群れる事、他の遊所に優れり。」と、当時、京都一賑った遊所であった事が分かります。

ただし、ここに集まるのは「其人柄各下劣にして、箕を担い、撈を肩に置く輩ばかりなれば、かしこの日小屋に立寄て、立ながら、蕎麦切を喰者夥し。又は都の入口なれば、都下の貴賤物見遊山のかへるさには、爰(ここ)に憩う輩多く、日暮れ前後はわづかの日小屋所せき膝を容るの寸地もなし。」

江戸期、五条大橋は、都、伏見、大阪を結ぶ大動脈で、四条の橋が絵図などを見ても大体が浅瀬をつなぐみすぼらしい橋だったのに対して、五条大橋は立派な官橋、破損しても官費で修理が出来たのです。

しかしその袂の一部はお世辞でも上品とは言えぬ所だったという事になります。

寛政二年(1789)、幕府の方針を受け、大々的な非合法遊女摘発が行なわれ、他廓同様、七条新地も茶屋株を差し止められ売女を島原に強制送還されました。五条橋下はともかく、七条新地は上記の如く島原の支配を受けていたならば、摘発を受けたのは、有無を言わせぬ圧力があったのかもしれません。

ところが同年、七条新地は、祇園、二条、北野とあわせ、島原に口銭を納めることで正式に遊女渡世が許可になりました。

前述したように人は街道の五条に集積され、其の内の有るものは七条に向かう図式が見えるのですが、七条新地が再開したと同時に五条の橋のすぐ南でも隠し売女が猛威を振るいました。
『史料京都の歴史』の『上月家文書』に、七条新地が遊女渡世を認められた寛政二年

五条橋下都市町の大文字るい 抱売女三輪
同所京極町 紀伊国屋新治郎 抱売女小はる
同所平井(居)盛御影堂南裏門角 播磨屋つね 抱売女小まつ 
同所御影堂境内紙屋吉三郎借屋 大坂屋まき 抱売女むめ
北七条岩滝町 津ノ国屋喜兵衛 抱売女ひな
同所聖真子町 山家屋熊次郎 抱売女はな

を七条新地が島原に訴えたのです。自分たちは公許の遊廓として口銭を納めているのに、非合法で口銭を納めぬ五条橋下に客を奪われ難儀している、取り締まって欲しい、という内容です。

ここで明らかになるのは当時の七条新地は前述のA郡(正面〜七条)のみで、C郡を含まないと言う事、当時の七条新地の業者は二十軒だったこと。そして七条が五条に対して如何思っていたかです。
f0347663_12063361.jpg

by gionchoubu | 2015-04-14 12:06 | 五条楽園 | Comments(0)

五条楽園ぞめき その三

f0347663_13374538.jpg
五条楽園(正式には五條楽園ですが以後五条楽園と表記します)の関係者にお聞きしたことがあるのですが、かつてこのあたりの遊廓は秀吉に許可を頂いて、渡世を始めたという言い伝えがあるそうです。ただし内部にも外部にも、それを裏づける何かが有るわけでなく、それ以外の五条橋下〜七条新地にまつわる歴史的を考察するような材料も何も残されてなく、ただ、秀吉が当地の誕生に関わったという口伝が残るのみとの事でした。

こういった傾向は、この地に関わった事でなく、他廓に於いても大体似たようなものです。近年の花街に於いても、その記録に人々が冷淡なのは、前回の亀岡の花街でも身をもって感じた次第です。

この七条から五条の間遊所は色々な呼び名があり、時代によっても複雑に入り乱れるので、これを便宜上、町名ごと4区画に分類して整理して考えて見たいと思います。南の七条から北の五条にかけてA,B,C,D群に分けました。

A群、七条側の上二之宮町、下二之宮町、上三之宮町、下三之宮町、十禅師町

B群、上ノ口通りと正面通りの間の富浜町、富松町、高宮町、菊屋町、平岡町、鍵屋町。

C群、岩滝町、早尾町、波止土濃町、八ツ柳町、聖真子町

D群、都市町(といちちょう)、南京極町、平井町

この七条〜五条間に七条新地、六条新地、五条新地、五条橋下そして五条楽園の呼び方があり混乱します。

特に、六条新地の扱いに頭を悩ませるのですが、私は本来A群プラスC群が七条新地ですがC群のみを指す必要がある場合に六条新地と呼ぶことが有ったのだと考えています。

これは、AとCの間に遊廓地に入らなかったB郡が有った為に起きえた現象で、、あえてC郡のみを取り出して指すとき、一々町名を呼ぶのが面倒なので、六条通の延長にあった新地区域を、とりあえず六条新地と読んだのではないのでしょうか?

さて、明冶五年、当時京都府参事であった槙村正直が府勧業部に命じて、編纂させたのが『京都府下遊廓由緒』で、その中に七条新地と五条橋下が載るので簡単に歴史を振り返ってみます。区域は先ほどののA,B,C,Dで説明させて頂きます。

七条新地、

宝永三年(1706)、Aの区域を開いて町家にしたい届出がありました。

正徳二年(1712)、上の区域がB,C,Dに変更されました。

享保二年(1717)、Aの区域に、煮売屋としての営業が許可され、一軒につき酌人女二名、見習い女を置いて良い事になりました。

七条新地遊廓の芽が出たのはこの瞬間です。
f0347663_13383941.jpg


by gionchoubu | 2015-04-12 13:38 | 五条楽園 | Comments(3)

五条楽園ぞめき その二

f0347663_11594480.jpg
東海道中膝毛の続き

吉弥「わしゃナ、かちん(餅)なんば(葱)がえいわいな」

弥次「かちんでも家賃でも頓着はねえ。早くしてくんな」

吉弥「一気に参じるわいな」

このおやま、酒肴を言い付けに下に降りる。後に残りしおやまは、此内、帯びの間から鏡をい出し、行燈の傍へ寄り、顔を直す。やがて下より、銚子盃をい出し、大平(椀)が一人前に一つずつ、広蓋に乗せもちだす。弥次郎肝をつぶし、

弥次「なんだ、大平(ひら)を人別割とは珍しい。京はあたじけねえ(欲深い)所だと聞いたが、こゝらは又豪勢だ」

北八「四百には安いもんだ」

この二人は、酒も肴も揚代の四百の内だと思い、むしょうに安いと褒める

金五「サア一つ上がりなされ」

北八「始めよう。オトトトトト、ひらはなんだ。ハハア、葱にはんぺい(半平)は聞こえたが、こっちでははんぺいを焼くとみえて、真っ黒に焦げていらア」

吉弥「オホホホホ、そりゃかちん(餅)じゃわいな」

こんなやり取りの後、結局弥次さん北さんは、鳥の鮨も注文することになったのですが、酒代、肴代はたまた蝋燭代も、当初の四百以外に店から請求されるに及び、約束が違うと揉めますが、なんとか値切って交渉成立しました。

その後、北八は吉弥と床を共にします。深夜になると、吉弥は目を覚まし、北八を起こし、北八の着物を借りてお手洗いにいったまま戻ってきません。

実は吉弥は男の着物を着て、手拭を被り、男客の振りをして逃げてしまったのです。年季半ばでおやまに逃げられるとは抱え主にとって大損害、鬼太りでどてらを着た大男の亭主は、手下をつれ、弥次さん北さんがおやまの欠落の手引きをしたと、二人を縛り上げます。

結局夜が明け、近所の別の同業者の取りなしで、何とか二人は開放されたのでした。

さて、この遊廓での飲食を台の物といいます。『全国遊廓案内』ではくどい程、この遊廓の料金は台の物は別勘定であるとか、ここは酒一本に肴がつくとか書かれているのは、遊廓に於いて、客と店側の大きなトラブルの一つが、この酒、肴が後で請求された時に起こったと容易に想像されます。

尤も、『全国遊廓案内』が出版された昭和の初めは、弥次さん北さんの歩いた東海道の中で、神奈川で込みの所が多かったのですが、静岡、愛知、三重、滋賀、京都は基本酒肴は別料金でした。日本全国で見ると、北関東や東北地方は遊興費に台の物は含まれていましたが、それ以外はだいたい別勘定です。

もう一つ注目したいのは、五条新地の妓がなんとも色気の無い男名である事です。芸妓の男名については以前説明しましたが、ここの遊女が男名であるのは、五条橋下を含む七条新地に享保年間に茶屋一軒につき酌人二名、見習女を置く事が認められたのですが、それ以上の女を抱える時、楼主はあたかも下男を抱えているように男名で役所に届けて、表面上辻褄を合わせたとも考えられます。
f0347663_12001213.jpg

by gionchoubu | 2015-04-10 12:01 | 五条楽園 | Comments(0)