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朝代遊郭 前編

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「これだから朝代通いはやめられない」という声が聞こえてきそうな素晴らしい写真。昭和十年代の朝代の芸妓とお客。

明冶三十四年刊『舞鶴案内』に
「桂林寺下より朝代神社前通りにいたる数丁の間を朝代新地とす、明冶二十一
年初めて指定地となる。現下在る所の貸座敷三十八戸、芸娼妓殆ど二百人、軍港要塞の施設共に益繁栄を加ふ。」と開設当時から朝代は娼妓のいる遊郭であり、芸妓がいる花街でした

同書の劇場の項には「朝代新地に在るものを縦楽座とし、鎮守府街道にあるも
のを舞鶴座とす。舞鶴座は明治三十一年の新築にして、縦楽座は本年を以って
改築される」としています。

『舞鶴市西地区歴史的建造物調査報告書』に「この朝代遊廓の立地について考
えると、この朝代は城下町田辺の端部に位置しており、西には愛宕山がせまっている。また愛宕山に沿って桂林寺などの寺院が位置している。近世城下町において寺町や花街を形成し、城下を囲む結界領域にするという手法はしばしば行なわれている。朝代に花街が形成されたのは前述したように明冶21年だが、明冶時代になってもまだ花街は市街地の周縁部に位置させるという手法が受け入れられているという点で興味深い」と書かれています。

そして「現在この地に残っている町家の多くは本二階になっており、他の地域の町屋と比べて軒の高い町並みなっている。このように軒の高い家は京都の祇園の町並みに代表される様に、御茶屋などに多い形式である」との指摘もあります。

大正十二年刊『舞鶴』に「西山公園の麓北は桂林寺下から南は朝代神社の下に到る一帯に一廓をなして居るのが朝代遊廓である、明冶二十三年八遊廓指定地となったもので現在では貸座敷業五十四戸、芸妓七十一名、娼妓六十九名で何れも尤物揃ひである。同廓に送り営業で、新舞鶴の龍宮新地、中舞鶴の加津良遊廓は店張り営業で夫れぞれ特色を発揮して居るが、舞鶴の朝代遊郭は一番古い廓として繁栄を続けて居る。」

舞鶴には、同時に三箇所の遊廓が存在し得たのですが、やはりそれは鎮守府が置かれた海軍都市という性格によるものが大きいのでしょう。そしてもう一つ、この三箇所が一つの市ながら、お互いかなりの距離を持つことが出来た都市構造にも拠るものと思われます。

尚、『舞鶴』引用部分の送り営業とは、芸娼妓を置屋から派遣してもらう事で、
一方、店張り営業とは、娼妓のいる店にお客が入るわけで、一般に送り込みのほうが、居稼(店張り)より上等とされており、加津良、龍宮は軍港型の遊郭で、朝代は、所謂売防法の後も、純然たる花街として存在したのは、海軍以外に地元の旦那衆が支えていたという見方も出来ると思います。

『全国遊廓案内』に朝代遊郭は載っておらず、龍宮は居稼ぎ、中舞鶴(加津良)は送り込みとなっていますが、私は舞鶴町役場が編集した『舞鶴』の通り。加津良はお客が遊女屋へ通う居稼だったと思っています。

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   昭和十年代の朝代の歌舞練場の様子。当時は花街の象徴たる歌舞練場が朝代にあった様です。
by gionchoubu | 2015-03-31 12:39 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

茶屋の種類 後編


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                                 鳥羽 待合 津の国

かつて案内茶屋というのが有りまして、ここでは花魁のいる妓楼とお客をとりもつ役目を持ちました。

編笠茶屋 江戸では、吉原が火事になり、遊女屋が市中で仮宅営業をした時、顔を出すのを躊躇う武家に編み笠を貸す茶屋が出現しました。田町に多く存在していました。京の島原にも有りました。大阪には編笠茶屋という名の遊所が曽根崎新地と接していました。

引手茶屋 明冶以降に一流の大店への案内所の役目を帯び、客は引き手茶屋に芸妓を呼んで景気づけをしてから置屋から送り込まれた娼妓のいる貸し座敷に繰り出しました。この引き手茶屋のみで遊び、遊女と遊ばないのが通とされました。引き手茶屋から入った客が貸し座敷で浪費した金は全部引手茶屋に付けられました。

その他、案内茶屋系に切手茶屋送り茶屋なども有りました。

待合というのは待合茶屋の略で、所謂、席貸し業種として、女将が料理屋か料理を運ばせ、置屋から芸妓を呼ぶので、関西でいう本茶屋と同じ意味合いです。非常に機密性が高いので、待合政治などという言葉も生まれました。

盆茶屋 京都の壬生寺の地蔵堂の近くに在った「盆茶屋」から転化しました。後、店の人と顔を合わせることなく、逢瀬を楽しむことが出来た、大阪、京都に数多く在った盆屋になりました。ファッションホテルの元祖とも言えます。江戸では出会茶屋といい素人の逢引に利用されました。座敷に盆が置いてあり、客は其の中にお金を入れると忍び足で出て行くので盆屋の名前の説が有力です。

泊り茶屋 江戸時代、旅籠での遊女渡世は非合法でしたが、日本全国に蔓延していました。大阪では江戸末期に、道頓堀、曽根崎新地、新堀でこれを合法とし、泊り茶屋と名乗らせました。

その他色茶屋系には曰茶屋、曖昧茶屋、猫茶屋、茶屋小屋、転び茶屋、わけ茶屋、だるま茶屋、転び茶屋、前出茶屋があり、男色にはかげま茶屋が使われました。

基本茶屋はお抱え芸妓や遊女は置かず、置屋から妓を呼ぶので、揚屋と形態は同じで、明冶以降、貸座敷と呼ばれた時代が長く続きました。
貸し座敷については以前述べました。

参照:廓の生活 中野栄三著、



by gionchoubu | 2015-03-29 17:55 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

茶屋の種類 前篇

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                 島原の揚屋も茶屋のルーツの一つです。

掛茶屋 茶屋の原点。 葭簀張りで床机を置き、峠などで旅人に渋茶を出しました。

出茶屋 店だけで住居は別にあり、夕方になると店を閉めました。

水茶屋 昔は社寺の境内などに出し、茶屋女を置きました。慶長元年に庄司甚内が鈴ヶ森に出したのが江戸の最初の水茶屋。

その他、休み茶屋、立場茶屋などがあり、今の喫茶店の元祖といえます。

料理茶屋 料理も出した茶屋で、水茶屋の進化したもの。浅草金竜山で茶漬け   
     を出した「奈良茶」など

会席茶屋 さらに進化して宴会用の料理を出しました。

茶屋が料理を出すようになり、茶屋女が遊女化さらに芸妓化に進んでいった
と思われます

振舞茶屋 大阪などで、蔵屋敷の役人や金持ちの町人、さらに参勤交代の時
西国大名もお忍びくる御茶屋で、格式というものが生まれ、今のお茶屋のルーツと言えるでしょう。    
    
留守居茶屋もこの系統に入るかもしれません。

遊び茶屋 享楽の場所として、今のお茶屋に進化しました。

突伏茶屋 深川の料理茶屋で、堅いお客だと、芸者が酔ったふりをして、芸者  
     の方から客を誘ったのが所以。

踊子茶屋 江戸で町芸者の前身、江戸の踊り子が遊女化して客を誘いました。

天神茶屋 太夫の次に格式のある、天神の位の妓がくる茶屋です、天神は文政頃、大阪に於いて「まんた」と呼ばれました。

呼出茶屋 私娼を呼ぶ茶屋、大阪では呼屋といい、鹿子位(太夫、天神の下のクラスの妓)を呼屋で揚げました。

本茶屋 今の格式のあるお茶屋を、一現茶屋と区別す為本茶屋と呼ぶこともありました。いわゆる一現さんお断りのお茶屋。 (最近は一見さんと記るすようです。)

一現茶屋 現金さえもって行けば、誰でも自由に上がれるお茶屋。大阪が本場。
     娼妓専門の場合は「おやま屋」と言いました。本茶屋の芸妓ははいりません。


by gionchoubu | 2015-03-27 12:26 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

祇園東ぞめき 十五

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            2014年2月、久々に復活した祇園東のおばけ、右が雛菊さん、左は美晴さん。

祇園東の歴史

万治元年(1650)に創建された江州膳所藩本多の京屋敷があったので、人々は現在の祇園東を膳所裏と呼び、江戸期京都市内に沢山あった庶民相手の遊里の一つでした。

天保の改革(1842) 前頃の全国の遊所番付けに現在の祇園東辺りが八軒せぜ裏として載りますが、ランクとしては、真ん中より少し上位の位置です。

明冶五年に、京都府が府下の遊廓に提出を命じた『京都府下遊廓由緒』によれば、祇園町八阪(坂)新地として、現在の祇園甲部と祇園東が一つの花街として見なされています。(膳所裏祇園町北側之家尻ニテ一町立ツニ非ず、という表現が見えます)

明冶十四年十二月十二日付、京都府知事北垣國道より、林下町、中村乙吉に「甲乙ノ名称ヲ以テ区分スベシ」の指令を受け、祇園の大部分が甲部、そして分離した乙部が現在の祇園東となりましたので、祇園東の創設は明冶十四年と考えられます。

実際の分離の原因は、府に納めた税金の還付金に不信があると、富永町他六町と膳所裏から組合に対する訴訟騒ぎがあった事にあり、膳所裏が明治十四年十月に新たな検番(組合事務所)と美磨女工場を作った事にあります。

明冶十九年には祇園乙部五業組合が出来完全に独立。

明冶三十三年、布令により貸座敷組合が設立されると、雪亭の主人小山友次郎が取締に就任して娼妓中心であった乙部を改善して、現在の芸所の基礎が出来ました。

昭和二十四年、祇園東新地お茶屋組合と改称、この年初代の祇園会館が誕生。

昭和二十七年、この年に第一回祇園おどり(後に祇園をどり)始まります。

昭和三十三年、祇園東お御茶屋組合になり現在に至る。


祇園東あれこれ・・・

* 歓亀神社はもともと膳所藩の中庭にあった神社で祇園東の守護神。
慶応元年の新地焼けでは神社の西で火は止まり、大正四年頃の火事でも乙部のお茶屋が一軒も焼けなかったのはこの神社のご加護と言われています。
膳所藩は御所の守護を主とした京都月番のお火消役をつとめました。
ちなみに、地図で祇園町北側347番地を塗りつぶすと旧膳所藩が浮かんできます。

* 昭和十一年封切り、溝口健二監督の『祇園の姉妹』は当時の祇園乙部が舞台です、ただしその内容は祇園乙部の怒りを買いました。山田五十鈴主演、尚、脚本の依田義賢とルーカスは面識があり、スターウオ―ズのヨーダのモデル説あり。

* 昭和十一年に、宝暦〜明冶二十六年まで祇園甲部で祇園祭の時催された、芸妓による仮装行列『祇園ねりもの』を復活、昭和三十五年まで、計五回催されました。



by gionchoubu | 2015-03-23 17:36 | 祇園東 | Comments(0)

芸妓の権兵衛名

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     祇甲 まめ丸さん

芸者さんが持つ名の事を源氏名という人がいますが間違いです。源氏名とは、その昔、遊女の名を源氏物語に求めたもので、芸者さんの名は芸名というのが正しいのです。

芸者さんの名前の付け方には、なんとなく流行の様なものがあり、現在ではお姐さんの一字を頂き、とし花、とし彩、とし輝、とし真菜のように受け継がれるのが一つの流れで、とし筋、などと読んだりします。この流れは随分昔からある様で、噺家さんなども、一門の中で一字をもらい、名を引き継ぐのはご存知の通りです。

芸名には面白い名前があり、このブログのタイトルの画像の一番右はおもちゃと言う名前ですし、昭和の始めの浜松の花街には、金泉のキング、明石屋のヘナチョコ、瓢の宇為多良瓢子と書いてウイタラヒョウコと読ませたお姐さん達がおりました。

昔の芸者名には男名も多く、金沢の主計町に太郎という料理屋がありますが、もともと其の名で左褄をとった芸妓さんにちなんだものです。

男名の芸者は気風の良い東京の芸者にもぴったりで、レコード歌手でもあった藤本二三吉や小唄勝太郎が名を馳せました。

京都の幕末の祇園の芸娼妓名簿など拝見しても、浄瑠璃を語る義太夫芸妓は寅吉、常吉、君介、梅之介などと総てが男名、芸妓、舞妓は女名が多数派ですが、梅吉、米吉、力弥などの男名も存在します。娼妓さんは基本女性名でした。

そのころの島原の太夫さんを見てみると、文車(ふくるま)、瓜生野(うりうの)、八重雲、賤機(しずはた)、古式豊かな遊女の名が並びます。

そもそも何ゆえ男性名を芸妓に用いたか? ある本に、芸者から女性名で、文が送られてくると、旦那連中が困るから、という様なことがかいて有りましたが、非常に一面的で説得力に欠けると思います。

その端は、羽織を着て権兵衛名(男名)を名乗り、「色を売らず、芸を売る」心意気で、その昔、江戸の花柳界の一時代を築いた深川芸者が源流にある、という説はきっぷが良いのですが、実際の所、非合法の芸者などを置いたお抱え主が男名で登録して摘発を逃れた、と考えるのが合理的な様です。

以前祇園甲部の豆まる(まるも丸なら男名ですけど)さんが舞妓時代、あやうく男の名をつけられそうだった、という話をされていたので、男名は芸で勝負をかける芸妓の誉れ、みたいな話を私の方で試みたのですが、周りに男名の芸妓がいないので、その真意はお分り頂け無かったかもしれません。

“祇園の太郎”みたいな男名や、勇ましい“先斗町の萬龍”の様な舞妓が誕生したらとても素敵だと私なんか思ってしまうのですのですけどね。

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by gionchoubu | 2015-03-21 12:17 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

新芸妓論

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                     宗右衛門町宝恵籠行列

萩原朔太郎による新芸妓論

昭和二年の東京二業時報の芸者教育号に萩原朔太郎が当時の花街を憂慮して一文を寄せました。

冒頭『芸者はつまらない』という当時の青年の一般的な意見から唐突に始められた詩人による芸議論は、当時なにゆえ若者が芸者を嫌い、カフェーの女給に走るかを綿密に、そして執拗に書き綴っております。

若者が女性に求めるのは、江戸風の粋な島田髷でなく、当時流行ったシンガルや断髪で、音楽の趣向は三弦より、西洋音楽、芸妓が好む歌舞伎の話題でなく、パラマウントの映画談義やスポーツで、青年達と芸妓の趣味は、いわば正反対である、と断じ、当然両者の溝は深くなるばかりと決め付けました。

本来、芸妓というものは、『文明の花』であり、衣装、装飾、流行風俗は時代の最先端を行き、劇や音楽や民謡、小説到るまで、すべて花柳界を中心に発展してきたと持上げた後、今日では流行の先駆を活動女優や、さらには女学生にまで奪われ、『文明の落伍者』とまで落としました。

芸妓の役割とはどう有るべきか?それは配偶者と持つ、生活のしんみりした話では得られない、生活の明るい世界における、芸術や、思想や、娯楽や、社交のことで、ゆえに芸者は教養有る男子の話相手として、十分なる知識、趣味、才能を持たなければならない。(この辺りは現代の奥さん連中に聞かせば、彼はぐうの音がでないほどやりこめられたはずです。)

しかるに今日の芸妓はどうだろう。今日の芸妓は無知で退屈だ、教養のある紳士や青年が芸者と遊ぼうとするなら、性欲を満たそうとする目的しかありえない。(この辺りを現在の芸妓さんに聞かせれば、彼の詩人生命は終わっていたでしょう。)

唯一彼が希望をもったのが、当時大阪を中心に流行った、洋装で客と踊る所謂ダンス芸者で、どこで情報を仕入れたか、「現代に於いては、とにかくダンス芸者が、最も高い程度の教養をもっている。」と断じました。

そして、このまま行けば、芸妓の堕落は救うことが出来ず、芸妓とういう江戸時代の骨董品は久しからずして社会から廃滅してしまうだろうと説きました。

萩原朔太郎の主張はこうです。「今後の芸妓は、よろしく洋装すべきである。何よりも先ず、あの三味線といふ楽器を廃し、代りにピアノやマンドリンを弾くやうになることだ。」

ここで私に一言だけ言わせてください。

「えーと、それってもはや芸妓ちゃうやん。」


by gionchoubu | 2015-03-19 12:05 | 舞妓・芸妓 | Comments(0)

本物舞妓の見分け方

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                     舞妓さんの消防訓練

1 本物の舞妓と変身舞妓の見分け方

舞妓さんは地毛である。それゆえ変身舞妓さんは近寄って鬘だと分かるのですぐ分かる。といった見分け方は過去のもの、最近は地毛を巧みに使って変身させるのでこの手は通用しなくなりました。

また着物も以前は、らしからぬ着物も多かったのですが、最近の舞妓変身業者さんの中には、置屋さんの注文先と同じ呉服屋さんから仕入れておられる所もあるので、見かけで判断するのは以前より難しくなりました。

だいたい昼に舞妓さんは基本からげと呼ばれる普段着の着物姿なので、白塗りでだらりの帯で歩いているなら、昼のお座敷の行き帰りが殆どで、結構早足で歩いています。

最近、本物の舞妓さんはあまりおこぼ(高い木靴)をあまり履かないようで、逆に変身舞妓さんがおこぼ姿なので、おこぼで昼ゆっくり歩いていたら、だいたい変身舞妓です。

ここで私が確実に本物か、変身舞妓か見分ける方法を伝授しましょう。この方法は私が編み出したので、本とかネットには載っていません。

まず怪しいな、と思ったら、その舞妓さんに近づきます。

まだです。もっともっと近づいてください。そして耳元でこう囁いてください。

「あなた本当の舞妓さんですか?・・・それとも・・・?」

2  舞妓さんは相手がタクシーならば、平気で道路を横切る。

舞妓さんは頭の先から足の先まで、大変高価なものを身につけているので、もし事故にでもあえば、損害補償が莫大になるのは当然、タクシーの運転手さんはそれを先輩ドライバーからその事を教わっているので、舞妓さんに近づくと、こわごわゆっくり走行する。

舞妓さんの方もそれを知っているので、相手がタクシーだと分かると、大胆な行動に出る・・・一種の都市伝説ですが、これは嘘です。舞妓さんはちゃんと交通規則を守ります。

3 舞妓さんは転ぶとき、ぽっちりをまもりながら転ぶ。

舞妓さんが身に付けるもので一番高価なのがぽっちりという帯止め、珊瑚、めのうやヒスイに細工を施しており、中にはもう同じものを作れる職人さんもいないので、舞妓さんは置屋のお母さんから、万一の為、ぽっちりを守りながら転ぶ方法を学ぶ・・・

嘘っぽい? いや実はこれが本当のようで、実際地方さんがつい最近、この話をお客さんにしいるのを、私は確かに耳にしました。

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                       ぽっちり

by gionchoubu | 2015-03-17 14:56 | 舞妓・芸妓 | Comments(0)

園部 宮町 わたぎ芸妓

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                     園部公園、わたぎ芸妓

大阪、宗右衛門町の巨星、大和家主人、阪口祐三郎(すけさぶろう)が会長を務めた全国花街連盟が昭和三十年ごろ、所謂売防法の成立直前に調べた全国花街所在地を見ると、日本全国600以上の花街の名が見えます。

しかしながら、例えば京都では峰山、宇治の花街が欠落していますし、お隣の滋賀も大津と一くくりにしていますが、実際は柴屋町以外に真(西)町、甚七町の三花街がありました。その他草津にも東新地がありました。

さらに金沢の有名な東、西、主計町、昭和三十年に北廓がまだ有ったかは存じ上げておりませんが、確実にあった三箇所も金沢の花街で済ましており、当然石坂はカウント外です。

京都の五番町、七条新地、撞木町、橋本、滋賀の水口、日野などは芸妓の居ない遊廓として省いたと容易に想像できるのですが、いったい当時日本に芸妓のいた花街はどれほどになるのでしょう、700近くあったかもしれません。さらにこれに芸妓の居ない娼妓だけの遊廓を加えると・・・日本全国の花街。遊廓の総数は軽く700を超えていたはずです。

この編纂に大きく寄与したと思われる、阪口会長の秘書を勤めた『日本花街志』の著者でもある加藤藤吉は浅草の料亭をやめ、花街研究に一生を費やした人で、特に東京の花街には通じていたはず、実際東京の覧には、

新橋、よし町、日本橋、新川、新富町、神田、九段、芝神明、芝浦、新橋南地、麻布、赤坂、牛込、大木戸、四谷、十二社、白山、天神、駒込、下谷、根岸、浅草、柳橋、仲の町、立川、目黒、向島、深川、亀戸、品川、西小山、五反田、大井、大森、大森新地、蒲田、玉川、渋谷、調布、中野新橋、新井、大塚、池袋、玉子、尾久、南千住、板橋、柴又、平井、青梅、八王子の51ヶ所を載せています。現在は東京六花街に八王子を加えた七花街があると言いますが、いつか訪れたいと思います。

さて、京都の園部にも芸妓がいたのは間違いないのですが、其の実態は分かりません。『みんなの歩みと未来への夢 翼 園部101年 記念誌』に新小唄、園部音頭発表会(宮町わたぎ芸妓)園部公園にて、昭和10年頃、とあるのが私の持つ総ての情報で、図書館、公民館、教育委員会にお尋ねしましたが何も出てきませんでした。

ただ、芸妓がいたなら、警察による鑑札が必要なので、その方面からまた調べて見たいと思います。

なお、わたぎ(綿儀)は料理旅館で、戦中町営になり、運営を現京都市のこうろ旅館の現社長のお母さんに任されたのですが、その後別の経営者に引き継がれたものの、六十年ほど前に取り壊されました。

こうろ旅館の現社長にお尋ねした所、以前ご本人も探した事があるものの、写真、パンフレット等一切残っていません、ただ現在唯一残るわたぎの遺構、黒塀の記憶はあり、庭でチャンバラごっこをした思い出があるそうです。

私も近所の人にお伺いしたのですが、芸妓置屋や見番の存在は確認できなかったので、園部の宮町を京都に有った花街の一つに加えていいものか悩んでいます。

*大正四年発行の『京都府誌下』によれば大正二年園部に芸妓15人の登録がありました。(2016年1月19日追記)

*昭和6年1月の『技芸倶楽部』に丹波園部矯風会の欄で倉橋保之作の社頭雪(本調子)が載っています。「栄え行く 御世の例しか 園部町 末廣がりに 賑わしき 年を迎へて 少女(をとめ)らが 着飾る袖も ふる雪を はらひ清めて 産土(うぶすな)の 神の宮居に 初詣」(2016,4月12日追記)

*京都府保安課の調査によると、昭和二年ごろの園部町に56人の芸妓がいました。(2017、6月24日追記)

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                        綿儀跡

by gionchoubu | 2015-03-14 12:04 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

遊里におけるお歯黒 その五

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                   右のお屋敷が若胡屋です。

若胡子屋の花魁、八重紫が、今日も一人のお大尽客に多額の金をもらってお歯黒を付けることになった。

廓の風習で大尽客は相手にお歯黒を付けさせて女房気取りにするのが誇りであり、そうさせなければ大尽客として持て囃されなかった。

花魁には何時もかしづいて用たししてくれる禿がいた。今日も、言葉優しく、

「花魁エー お歯黒つけなんせ」

と、言ってお歯黒壺を差し出した。それを受けとって羽根筆でつけたが、どうしたものか、其の日に限ってよく付かぬ。

外のお歯黒壺と取り返させたが、どうも思うように黒く染まらぬ。金の威光で客はしきりに催促する。

花魁も気が気でなく苛立ち、疳は高ぶり、雪かとまがう厚化粧の顔には、青い筋さえ浮かんできた。

火鉢の側で様子を見ていた可愛い禿は、小さい胸を詰まらせ、目からは涙の露さえ光って、不安におびえ震えていた。

「エーイ 口惜しい!」

と、絹を裂くような声、煮えたぎったお歯黒は禿の口へ注ぎ込まれた。

禿は忽ち虚空をつかんで悶え、食いしばった唇の間から、お歯黒混じりの黒血が流れ、恐ろしい形相で事切れた。

それから花魁八重紫は良心の呵責に責められてか、禿の恨みか、鏡を見る度に禿の姿が映り、

「モーシ花魁え、お歯黒付けなんせ」

と、其の声に幾度か気を失った事か、流石に今全盛の八重紫も、若胡子屋にいたたまれず前非を悔い、死んだ禿の回向を思い出し、四国八十八ヶ所廻りを発心し、今治まで渡った時、

「此処から一人で行きなんせ。」

と言って禿の姿は再び現れなくなった。

若胡子屋は今、御手洗会館となり、古びた壁に、禿が苦悶して吐いた黒血の痕が残っている。

その後幾度か塗り替えたても、いつの間にか黒血が浮かび上がってくると言います。

参照:前回と今回は『串茶屋 遊女を偲ぶ6』遊女の墓保存会(非売品)の港町と遊女屋を参照させて頂きました。今回の話はほぼ転載させて頂いております。

*江戸期、遊女がお歯黒をした理由は太線の内容によるものと思います。

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                若胡子屋の一階です。奥に見えるのは色籠だと思います。










by gionchoubu | 2015-03-10 14:42 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

遊里におけるお歯黒 その四

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                       御手洗の芸妓衆

広島県の瀬戸内海に浮かぶ御手洗(みたらい)島は、天然の良港があり、江戸期には、北前船、千石船の寄港地として、又参勤交代の大名及び家中が立ち寄る海駅として大変賑わい、汐待ち、風待ちの船がかりに対し、船員の慰安の地としての遊女屋がありました。

昭和の始めに出版された『全国遊廓案内』に載ることはありませんでしたが、同時期出された『日本遊里史』の付録、日本全国遊廓一覧には、貸座敷7、娼妓数35人の記録があります。ここで切なくも、怖ろしい「おはぐろ事件」が起きたのですが、この物語は次回にまわし、この港町の遊里について前田銀松氏の言葉を借りて紹介させて頂きます。

参勤交代で御手洗を訪れた西国大名は多いいのですが、鹿児島、熊本、長州、中津、延岡、小倉、福岡、宇和島、大洲なども各藩は船宿を持ち、特に細川肥後藩は一夜千金の黄金を撒き散らし、今でもこの地での語り草になっています。

明和五年(1768)の記録には人口五百四十三人の内遊女が百二十人から百三十人を占め、今も残る若胡屋を始め、海老屋、藤屋、堺屋などの遊女屋が軒を並べていました。

小さい町というのもあって、町民、遊女の区別の見方はなく、お互い親近感を持ち、町の祭礼、行事には遊女が参加して彩りを添えるので、近郊近在からの見物客で一層賑いました。

御手洗の住吉神社の玉垣には遊女が寄進したものも多く、扇屋内、もろこし、花むらさき、堺屋内、ひな絹、志な川、若胡子屋内、小米、名山、二葉屋内、子楽、富田屋内、小三、中津屋内、しきたま、富士屋内、吉勢川などの遊女の名が刻まれています。

御手洗の遊女には、揚屋で接待したオカゲイシャと、以前紹介したオチョロ舟で漕ぎつけるオキゲイシャがあり、オカゲイシャは茶。生け花、三絃、琴、唄などの技芸作法が必須だったので、船頭や船主を顧客にしたものでありましょう。オキゲイシャは衣服のつくろい、洗濯などもこなしたといいますので、船員の一夜妻を勤めたのでしょう。

遊女屋は馴染み客の獲得が必要条件だったので、馴染み客を他の遊女が横取りすると、仲間からすさまじい折檻を受けました。俗にこのリンチを成敗と称し、横取りした遊女を裸にして柱にくくりつけ見世物にし、抱え主が一言でもこれに干渉しようものなら、一同店つきせずというストライキで対抗しました。

御手洗が大いに栄えたのは江戸期で、明治十年から日清戦争以後は昔日の繁栄は陰をひそめ、それでも戦後まで細々ながら、遊女屋は渡世を続けました。
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                         オチョロ舟

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             御手洗の人の廓に対する想いが伝わってきます。あるお宅の軒先にて

by gionchoubu | 2015-03-08 11:49 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)