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宮津 新浜ぞめき その六

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見番、検番、険番、券盤など、花街につき物の見番は江戸時代に吉原で、芸者の玉代・祝儀の収納事務を行なう場所として、又、芸者が遊女の様に客を引く事が無いように監視する目的で作られたもので、明冶以後の全国の花街には、大阪の花街のように扱店(みせ)というシステムも例外として有ったものの、大体が一花街一見番制でした。稀に種々の事情で複数の見番を持つ花街もありました。

明冶以後の見番は、芸妓のお花代の把握や芸妓の就廃業の手続き、芸妓の出向くお座敷と芸妓の就業配分など、その花街に関する事務管理を行なう機能をもった事務所として存在し、現在の花街にもこの見番は大概備わっているものです。

当然新浜にも見番(検番)はありましたが、江戸期に於ける宮津の見番が、独立した組織というより、『宮津市史』の言葉を借りると、置屋の仲間組織としての独自性をもっていたので、紹介させていただきます。

宮津の見番は専従の番頭・手代などがおらず、町奉行から「看場・線香番」を申し付けられた支配人と置屋が二ヶ月交代で勤める「勤番」と、同じく交代で勤める組頭一人で運営されていました。

線香番とは、時計が無い時代、芸妓の花代の時間を計るのを、線香の燃えつくす数で計っていた事によるもので、線香場というものがありました。

宮津の東新地時代の特異性は、見番が町奉行の支配下にある公的機関としての性格を持っていた事にあります。

見番の芸妓に対する権限は絶大なもので、宮津の場合、芸者置屋からお茶屋に芸妓を派遣するのではなく、置屋がお茶屋をかねており、芸妓は料理屋か、もしくはその置屋で仕事をする場合でも必ず見番を通さねばならず、もしこれを怠ると「花抜売り」として厳しい制裁を受けました。

江戸時代末期に、新浜で起きた主な事件を挙げると、

万延元年(1860)、布袋屋五助がこの「花抜売り」をやり、置屋仲間が町役所に訴えて、五助は過料銭十貫文を仰せつかっています・

文久元年(1861)、またもや布袋屋五助は、置屋仲間が「差障り之客」として一切の付き合いを禁じた「三味曳花次」を座敷に上げ、芸子を付けたので、この時の花代は没収されました。

文久元年十二月、岩滝屋文七のお抱え芸子八重松が、由良屋半蔵という男と「直馴染」をした科で、置屋中間から「提札三十日」を命じられています。直馴染とは、芸子が特定の男と、私的に通じる事で厳禁とされていました。提札とはただ働きの事です。しかし芸子も人間である以上、直馴染はありがちだった様で、由良屋半蔵は、さき松、鶴代という芸子とも直馴染をした証言により、それぞれ提札三日を仰せつかっています。

それにしても、一体この半蔵とやら、いったいどのような色男だったのでしょうか。ちなみに罰が科せられたのは芸子のみのようで、もし半蔵がやり得だったなら、なんというか、私は許せません。

文久二年(1862)、因幡屋ふさが、お抱え芸子梅路を新地の「門外へ花売込み」をした五日間の「押込」の刑を町奉行から申し渡されています。これは宮津に限った事ではなく、免許地以外での芸子、娼妓とも、営業はご法度でした。

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by gionchoubu | 2015-02-27 12:12 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

宮津 新浜ぞめき その五

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京の花街と新浜の繋がりを大きく示唆するものに、この蘇民将来(祇園、宮川町では笑門が主流)と書かれた一年中お茶屋の玄関に掲げられる締縄が新浜で見られた事も挙げたいと思います。京の花街が、伊勢から持ち帰ったものと推測されるのですが、新浜のこの蘇民将来は祇園が関係しているはずです。笑門についてはいずれ書いてみたいと思います。

ケラーマンが帰国後、1913(大正二)年、SF小説『トンネル』がベストセラーとなり、世界的名声を得、何度か映画化もされ、この作品に強い影響を得たのが手塚治虫です。

彼の初期の代表作『地帝国の怪人』はまさに『トンネル』にインスパイアーされた作品で、当初、オリジナルに敬意を払い、トンネルの題そのままで発表しようとしたのですが、出版社等に説得され地帝国の怪人で世に出したという経緯があります。

実は筒井康孝氏もこのトンネルを推しております。SF作品は、その性質上時代が経つと人を惹きつけるのは難しいのですが、トンネルは、一連の筒井作品と同様、普遍性を持つ小説といえるのでしょう。

そのケラーマンが、宮津滞在中、いかに踊りを中心とした花街文化に心頭したかは、彼が日本舞踊の手ほどきを小奴や小奴の師匠に受けたことでも分かります。

山中、荒木亭での大尽遊びや師匠と踊り手にマンツーマンでの踊りの指南を受けた経験が後年「僕は日本の土を踏むと、忽ちお茶屋と可愛らしい踊り子たちに、大に惹き附けられてしまって、いくらお金がかゝらうとも構わん、どうしてもお茶屋と踊り子の通人になってしまはうと、覚悟をしたものである。僕はこの決心を実行した。お陰で僕は幾年の間、経済的にとても苦しい身の上となった。」と語らせました。

宮津のキャッチフレーズは“二度と行こまい丹後の宮津、縞の財布が空となる、丹後の宮津でピンと出した”という宮津節の一節で、JR宮津駅でもまずこの言葉で出迎えられるのですが、ケルーマンが、縞の財布を持っていたかどうか分りませんが、まさに宮津節を実践した格好になります。

余談になりますが、宮津の観光資源として、新浜花街、ケラーマン、手塚治虫のライン生かすと、面白いものが出来るかもしれません。

次に、財布が空になるまで、世界的名声を得たドイツ人作家の心に染み入った宮津の新浜の芸の質はどう育まれたのかを考えて見ます。

『宮津市史通史編下』で筆者は明冶五年の『酌取女人員書上帳』と『茶汲女人員書上帳』に酌取女五十一人と茶汲女二十一人の名がかかれており、酌取女が玉助、梅路、花松、八重松等々の源氏名(注・本来源氏名は源氏物語からゆかりの名をつけたもので、芸者は芸名というべき)を持ち、芸者、芸子などともよばれたのに対し、茶汲女は芸名をもたず、芸子とも呼ばれなかったので、遊女であったろうと推測しています。

そして万延元年(1860)から二年の間に「抱え届」のだされた酌取女、茶汲女の主出身地を調べると、酌取女の殆どが京都の祇園、木屋町、新地や寺社門前町から来ている一方、茶汲女の出身地は京都、若狭、越前、丹波、但馬、播磨等々広く抱えられていることを指摘し、宮津の芸子は、京都の芸子、舞妓等の置屋を養親として、その置屋から宮津へ抱えられたのであろうと述べておられます。

この、宮津の花街と京都の花街、特に祇園を結んだ糸は何であったか? 私は所謂天保の改革が関連していると思います。

天保十三年壬寅八月、官命で当時京都(伏見は除く)にあった遊廓の業者は廃業するか、島原に移れという厳命を受け、当時千三百の業者が島原移転を希望したものの、実際移れたのは10%の百三十九戸、遊女、芸者の人数は五百三十三人に過ぎません。

ところがこの布令で、宮津に於いては、宮津町中の業者は新浜に集住するように、というお達しのみで、遊女屋、芸妓屋とも渡世は合法だったのです。それに続くのが万延元年の抱え届けの酌取女の出身地・・・これ以上は書かなくても良いでしょう。



by gionchoubu | 2015-02-24 14:21 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

宮津 新浜ぞめき その四

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西日本では殆ど見ることが無い、うだつがあがるの語源である卯建が新浜にあります。大変珍しいものなので、宮津観光のパンフレットに載せてもいいのでは?

さらにケラーマンは、山中というお茶屋での、お座敷遊びの体験を書いています。お花をつけたのは、すでに馴染みになった、当時宮津一の踊り手の名高い二十歳の芸者小奴、そして十六歳の一子と十二歳の福子という二人の舞妓です。さらに、六、七人の踊り子が加わり、当時宮津のお座敷でよく見られたであろう舞いの詳しい描写が有りますので、簡単にまとめますと、

浦島舞・・・所謂、浦島太郎の物語です。耳を劈くような甲高い声で小奴は歌い、三味線を弾きます。そこに二、三挺の三味線が毟るような弾きかたで伴奏し、太鼓を打つのは福子、踊りは一子が扇と翁の面を巧みに使って努めます。

鬼舞・・・羅生門に集まった赤鬼、青鬼、斑鬼の滑稽で哀れな踊り、
ここでケラーマンは「日本の踊りというものは写実的な表現を禁じて、ただ一寸した身振りで、それと示すようにぼかしてある。そのそれと示すのも又、やさしい動きや美しい姿勢が拍子を取って続いて行く間に、うっかりしていると、もう分からなくなってしまう。」と述べています。

さらしの舞・・・この踊りの作者は歌舞伎の団十郎で、ここでもケラーマンは「日本の国民が芸術的本能にいかに富むかという證據は布晒しというような簡単な日常生活の事項さへも、踊りの主題に選んだかという一事である。しかもこの踊りこそ、美しさと鋭さのある、金剛石といふべきものだ。」と、日本の踊りの一面を切り取りました。

松の舞・・・「この踊りは繊細な動きの連続したものである。踊り子の眼は、真直に遠くの方を身ながら、時々首をちょいちょいと動かす。扇子を使う。それきりである」、ケラーマンがこの踊りを見て閃いたのは、寺の戸や、屏風や箱に描かれた一筆描きの書との類似で、これを踊りにしたら松の舞である、と、そのシンプルさの深い味わいといったものに深く感じ入ります。

三国一舞・・・ここで一転、お多福の面を被った一子による滑稽なしぐさに、座敷は笑いに包まれました。

三社の舞・・・踊り手は福子、ケラーマンの感想は「この踊りの物語は、頗る不思議で、しかも全く日本的である。ほかの民族には、到底この物語のやうに、空想に富むと同時に、素朴に満ちた物語を作ることは出来まい。」

しゃべり山姥舞・・・吉原の荻野屋の遊女八重桐と彼女に想いを馳せる坂田蔵人時行という侍と、これを妬む遊女、小田巻の話。

月が重なりゃ・・・頬を膨らませ、額に真っ黒な前髪を垂らして、猫のような丸い頭で十二歳の福子が踊る様に、ケラーマンは堪らず笑い出し、最後には目から涙を出したのです。

さっさ・よ・やっさ・・・そしていつも、その夜のお仕舞に踊るのがきまってこの曲でした。ケラーマンは回顧します。

「その曲の旋律は、永久に僕の耳にこびり付いて、時々踊り子達の叫ぶ短い言葉が僕の記憶の中に蘇ると、その度にお茶屋の有様が眼に浮ぶ。清潔な美しい部屋、綺麗にお化粧した踊り子達、酒の匂ひ、僕達みんなを取巻く屈託のない楽しさなどである。芸者達はみんな揃って、一列になって踊るーさっさ・よ・やっさーみんな腕を振る、手を拍つ。
さっさ・よ・やっさと家中に響く。お茶の通りに響く。直さんと料理人は、立ち上がって一緒に踊る。
手を打つ。体を曲げくねさせるーさっさ・よ・やっさー真赤な船頭も踊りだす。しまいには僕も仲間入りする。」


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by gionchoubu | 2015-02-22 11:26 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

宮津 新浜ぞめき その三

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このドイツ人ケラーマンが明冶末ごろの宮津の芸者に関するくわしい記述を 『さっさ・よ・やっさ』 に残しています。もし、彼が日本人なら、当時の人にとって芸者に関する基礎事項は省略するはずですが、異国民として始めて接する風俗を、自国語で自国民に紹介する作業には、当たり前として触れない事も一から説明する必要があり、それが、私たちが到底知ることが出来ない、当時の宮津芸者の姿を鮮明に浮かび上がらせてくれるのです。

又、ケラーマンは著述家の資質として、冷静な分析で宮津花街を観察する一方、本人も書いておりますが宮津芸者に対する尊敬と愛情が、この一篇を読むものを、当時の新浜の紅燈が艶かしくゆれる世界へと誘うのです。

彼は芸者一般について「芸者は遊女よりも上の階級に立っているけど、一般から言って特に尊敬されているという訳にはゆかない。お茶屋に娘が出入りするやうになると、その娘は泥水に足を入れたと人から言われて、それを止めると泥水から足を洗ったと言われる。けれども結婚すれば、過去の生活はすっかり消えたように忘れられて、良人(おっと)の社会的地位をそのまゝ妻も持つことになる。これは芸者も遊女も同じ事である。」と、微妙なニュアンスに触れています。

彼の説明は舞妓以前の仕込みさんから始まり、まず、女の子が大体六歳でこの世界に入り、歩き方、座り方、物を差し出す事、挨拶そして花の活け方や、茶の立て方なども含めた行儀作法を習う、そして最初は太鼓の打ち方から入り、八歳になって三味線と踊りを練習始める事。

そして、同時に歌も習うが、一年で一番寒い「寒」を含む一ヶ月、まだ薄暗い早朝に、朝日の出るまで、声が潰れるまで毎日歌い、渋い声を得るという、厳しい練習法を紹介しています。

それから修行は鼓(読む人が想像出来るように、大きな砂時計の様な楽器と絶妙の説明があります)を始め、特別な才があれば、胡弓を習得し、最後に最も難しい琴に行き着く事。

ただし、女の子が不器用なら、茶屋の主人はその子を両親に返しますが、見込みがあると稽古を続けます。だから若い芸者は最初の二、三年は無報酬でお座敷を努め、お礼奉公に入るが、茶屋の主人は三年分として、両親にまとまった金を払う。基本的に芸者も遊女も貧しい家の出が多い事。

以上は、一般的な関西の芸所といわれた花街、特に祇園の風習に近いものですが、祇園と宮津の関係については、後ほど卑見を述べて見ます。

今回の最後はケラーマン(秦豊吉訳)による舞妓の店だしの様子の一文です。

「(舞妓に)付添って行くのは、茶屋の主人、女の上に日傘をさしかける下男、新しい踊り子の名刺を入れた小さい籠を持つ女中などである。その女の子は町の狭い通りをちょこちょこ歩いて行く。人々の微笑に見送られて行くその子は、王女のやうに着飾って、目を真直ぐに前の方へ向けて香水や白や漆の好い匂いを撒き散らして行く。茶屋の主人は旅館の主人の前にお辞儀をして、かう言ふ。おゝ、旦那様、失礼ですが亀の松を御紹介申上げます。まことに上手な踊り子でございます。どうぞ御贔屓くださいますよう私からお願ひ申上げます、と言ふ。」

店出し、舞妓という言葉は使われておりませんが、舞妓の店だしに違い有りません。


by gionchoubu | 2015-02-20 13:18 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

宮津 新浜ぞめき その二

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                        新浜
明冶十年一月二十五日、宮津万年新地として、当時の京都府権知事の槙村正直に命ぜられ、他の府下の遊廓とともに、その由緒を提出したのですが、それによれば万年新地に移住したのは二十数軒の業者のみでした。

移ったのは良いものの、万年新地は三方を山に囲まれ眺望が良くない上、海からも遠く不便な地で、遊ぶ客の評判も良くなかったようで、新浜(以後東新地の呼び名は使いません)復帰の機運が高まり、移転を許され新浜に引っ越す業者と、移転復帰を拒む業者との間で対立を生んだ末、明冶三十年頃には万年新地は跡を絶ち、新浜のみが宮津の遊廓となりました。

この間、明冶十五年八月布達された、京都府甲第158「貸座敷取締規則」によると、貸座敷営業免許地として、当時の京都市内九ヶ所以外に市外六ヶ所の免許地が記されています。その六ヶ所とは、伏見、墨染、中書島、福知山柳町、宮津万年町、同新浜、とこの両者が共存している事が明白に分かります。

ちなみに貸座敷という名称は明冶六年に傾城屋、遊女屋、茶屋などと別々に呼んでいた業種を「貸座敷」と総称で呼ばせたもので、芸妓、娼妓という言葉も、この時、官製用語として統一されたものです。

宮津の遊廓が新浜一本になった頃、水島保布の『旅の収穫』に「その桟橋が遊廓の一角へ架せられて、そこからつゝく狭い道路は、軒端屋号を記した角行燈が、黄昏早く点す薄い燈心の火に挟まれた、枝垂柳の影から透くれ色の長暖簾を両脇に眺めて、本通りへと通している〜略〜汽船を待って潰し島田に赤い手柄をたらりと垂れ、荒んだ頬桁に白粉を刷きかけた、見るからに舟着き所の女郎の型をした女達がだらしなく小褄をかゝげて、ぞろりぞろりと草履穿きでその桟橋近くまで出歩いて来た。」と、当時の新浜遊廓の娼妓さんが、たぶん客引きの為であろう、汽船の乗客を迎える瞬間を捉えています。

ここで、明冶四十二年、ドイツの作家 Bernhard Kellermann (以後ケラーマンと表記)の宮津滞在記で、ケラーマン自身が新浜のお茶屋体験を通して、当時の花街新浜の具体的な様子が浮かび上がりますので、紹介させていただきます。

この、当時長編小説『トンネル』という世界的な人気をもったベストセラー作家が長期の日本滞在中、どっぷり浸かったのは、東京でも横浜でも京都でも宮島でも大阪でもなく、宮津、とりわけ新浜であり、その旅行記を残したのは、宮津にとっても貴重な財産のはずです。

ケラーマンは『日本印象記』の宮津の項で「日本に滞在中、この町が一番面白かった。この町の話をするのは、友人の事を話すように嬉しい・・・」

そして花街新浜を、

「この町の通りで一番美しいのは、茶屋町通りである。茶屋は、普通の家に比べると、まるで豪奢な別荘と見える。二階作りで、廊下や庭や、立派な門がある。茶屋の前を通りながら一寸覗くと、何処にも必ずその家の格式や富裕を示す品物が飾っている。その品物といふのは、鹿や魚や鳥を描いた立派な屏風であったり、人気の無い部屋に置かれて、暗闇で金色に光っている、綺麗な漆塗りの箱であったりする。三味線が鳴る。太鼓が聞こえる。異様な歌声がする。通りをちょこちょこ行く小さな踊り子を見ると、白粉を付けて、唇に紅をさしている。遊女の真黒な眼が、隙間から覗く。夕方暗くなって来ると、この通りには、明るい提灯が一杯点く。幻想的な華やかな世界を現出して、千一夜物語中の都市のやうに思われる。」

ケラーマンは多くの国を旅したことでも知られていますが、千一夜物語りの架空の都市と比べるなど、まさに宮津に岡惚れして、そしてベタ惚れになってしまったのです。
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by gionchoubu | 2015-02-19 12:52 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

宮津 新浜ぞめき その一

                        現在の万年新地
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ざっくりと、宮津遊廓の歴史を見ると、もともと市中に散らばっていた遊女屋を今の新浜あたりに集め囲ったのが東新地ですが、これは江戸時代の始め、都の各所にあった遊女屋を一箇所に纏めた六条三筋の廓とよく似ています。

そして、都の六条三筋あたりが市街化されてきたので、現在の島原に強制移転させたと同じ様に、宮津でも東新地も山よりの万年町に移されました。

島原は現在の地に留まったままですが、宮津の遊里の特異な所は、万年町から元の新浜に戻ってきたことです。

宮津の遊廓の歴史を年代で追っていくと・・・

文化八年(1810) 宮津に遊女屋が許可される。

天保十三年(1842) すべての遊女屋が東新地へ集住するよう命じられたのを受け、市中に十一軒あり「栄久講」と名づけた仲間組織の内七軒が移る。

この天保十三年は老中水野忠邦の天保の改革の年で、洛中の遊廓は島原に移るか全面廃業を命じられたのですが、それに比べると随分軽いお達しに思われます。

天保府命前、諸国の200箇所以上の遊里を相撲の番付に模した『諸国遊所競』に宮津の遊里が顔をださないのは、全国的な知名度がまだ低かったと見ていいでしょう。

東新地とは、魚屋町の北側を埋め立てた土地で、当時は海に面しており、北前舟の寄港地として、海港型の遊廓の色合いが濃いいものでした。現在はさらに埋め立てが進みましたが、それまで、新浜遊廓は天の橋立てが望める立地だった訳です。

万延元年(1860) 桜田門外の変が起きた年の十月に魚屋町名主の西川喜兵衛が新地年寄、白柏(しらかせ)町の元結屋(三上)清兵衛と本町の人参屋(殿村)五兵衛の二人が東新地取締に任じられたのですが、この殿村・三上の二人が就任中、公務日記として交代で書いた七冊の『御用日記』により、宮津の遊廓のしくみが現在に伝わるのですが、それは続きで明らかにしたいと思います。

この万延元年に東新地には家数七十二軒(内二軒は空き家)ありました。

文久三年(1863)三月二十九日、東新地の酌取女・茶汲女の置屋に商売替えの命令がでるが、置屋の抵抗により、遅々として進まず。

慶応二年(1866) 東新地は事実上廃止、囲い門戸も取り払われ、東新地の名称は東新浜に改称、さらに吹屋谷という山よりの地が万年町と改められる。この時、屋町(蛭子町)口と吹矢谷(万年町)口の両側に、東新地より黒塗冠木門を移して境界としました。

慶応三年(1867) 万年町の裏側を万年新地とし、宮津市中の「遊女業者体之者」を集中させた。

万年新地の誕生です。


by gionchoubu | 2015-02-18 11:53 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

加津良遊廓 後篇


昭和十四年 舞鶴鎮守府復活を祝う芸者たち(ふるさと今昔写真館)
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大正2年には貸座敷27軒、芸娼妓併せ91人(内芸妓21)

大正12年に、貸座敷28軒、芸娼妓併せ104人

昭和初年頃は、貸座敷25軒、娼妓数78人(日本遊里史)

昭和4年頃は、貸座敷20軒、娼妓数23人(全国遊廓案内)と激減しています。

丁度この頃、東京の滝野川の海軍爆薬部を誘致しているのに、この減少の理由は分かりません。

そして昭和18年、海軍命令で加津良の全家屋が明け渡しになりました。その、誕生も廃止も、海軍に振り回された一生でした。

昭和五年出版の全国遊廓案内によれば、中舞鶴町遊廓として、二十軒の貸座敷(妓楼)に娼妓が二十三人いて、その多くは近県の女で貸座敷は陰店を張っていました(吉原の様に表から娼妓が顔を見せているのが張見世で、玄関を潜らなければ娼妓を見れないのが陰店)

遊興は通し花制で客の廻しは取りません、(廻しについては以前説明させて頂いています。)

費用は一時間遊びが一円で、泊まりが六、七円でした。この一時間一円は激安で、同じく軍港型遊郭であった竜宮遊郭も同じ料金で大変お安い料金で遊べた事になります。同じ時期、宮津は一円三十五銭、これでも安いほうで。伏見の中書島なら二円は必要でした。(ちなみに、同時期、大阪の飛田や松島は一時間一円五十銭でした)泊まりの六、七円は中書島でも同じ位でしたので相場、といった所でしょうか)

呉の吉浦が同じ時期、一時間二円とっていた事を思えば、加津良遊廓と竜宮遊廓の料金の安さは異常と言ってよく、これは大正七年(1918)竜宮遊郭のほうで、料金が高すぎると水兵のボイコット運動があり、軍人割引制が導入されたので、加津良も是に引っ張られた格好だったのでしょう。

全国遊廓案内によれば、この時代の揚屋は、京屋、成田楼、蔦屋、清家、一之家、丸吉、正的楼、常盤楼、東屋、吉野楼、亀之家、大正楼、お多福、榮楼、新吉野、君之家、入船楼、寛容楼、大よし、信京楼など。

参照:舞鶴市史、遊郭をみる、下川耿史、林宏樹




by gionchoubu | 2015-02-16 16:47 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

加津良遊廓 前篇

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加津良遊郭(中舞鶴町遊廓)

舞鶴には竜宮、朝代ともう一つ中舞鶴に加津良(かつら)にも遊郭がありました。前者二箇所と比べて語られる事のすくない加津良は、JR西舞鶴駅よりバスで20分ほどの所にあり、現在では一日に東舞鶴行が四本という便の悪さです。

それまで寒村だったのが、明冶20年代に、舞鶴鎮守府や海軍施設の用地買収がこの辺り一帯で行なわれ、京都府加佐郡中舞鶴町中舞鶴町長浜字加津良に遊郭が開業したのが明冶38年でした。

是は地元住民が、遊郭地設定の上申を新市街調査委員長に提出したことを受けての事なのですが、地元住民の遊郭誘致意見を纏めると、

一、 風俗の壊乱、近年、中舞鶴に増加した労働者の多くが若者で、遊郭が無いので、町内良家の婦女子にちょっかいをだし て困る、又、同じ理由で料理旅館の酌婦が遊女化して九十名ほどが、違法に客をとっている、もし警察が取り締まれば 、一晩で拘置所があふれてしまう。

一、 舞鶴には軍港の遊郭として竜宮新地があるが、鎮守府や海兵団から一里  
   余町あり、海軍兵士で竜宮に行くものは稀で、このため本町内に妖婦の猖獗を見る事になった。

一、 従来の遊郭地や他の遊郭候補地の者が、遊郭は多少遠い方が取締りの点で宜しかろうと加津良の遊郭を反対しているが 、これは自己の利害を考えて国家の利害を考えない取るに足らない意見で、舞鶴と同じ軍港の呉を見ても、海兵団から 一里も離れて営業を始めた吉浦遊郭が僻地にあるため、呉市街の風俗は壊乱し、警察の取り締まりも功を奏していない 。呉の轍を踏んではいけない。鎮守府や海兵団に近い加津良に遊郭を許可されたし。

といった内容で、この住民による誘致意見が功をそうしたものか、明冶三十八年八月、大字長浜小字加津良で遊郭は営業を始めたのでした。典型的な軍港型遊郭の誕生でした。
  
ただし、地元の方にお伺いした所、水兵の御用達遊郭というイメージは無く、一般の人の遊客も多かったとのこと、又、今のバスの通る道から遊郭に入る道が広いのは当時遊郭の賑わいを伝えるもので、銀座通りと呼ばれる事があったそうです。又、当時の遺構も残されているとの事でした。

尚、遊郭の裏側に稲荷神社がありますが、平成八年の神社神報によると、外国人による宮司の脅迫、神社の乗っ取り騒ぎがあり世間を賑わしましたが、現在は静かな環境の様でした。
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                          銀座通り
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by gionchoubu | 2015-02-14 12:32 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

宮武外骨 猥褻風俗辞典

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                        河出文庫

『猥褻風俗辞典』(わいせつ風俗辞典)の序で、著者の宮武外骨(みやたけがいこつ)は、世の中に切手やマッチや色々なものを集めて趣味にしている人がいるが、何故蒐集するか、それぞれ口実はあるだろうが、これを突き詰めると、「なんとなくおもしろし」の精神ではないか、私がなぜ遊女の異名を書いて世に出したかというと、なんとなく面白そうだったから、という様な事を書いています。この辞典に収録された遊女の異名(別名)何と400以上、それぞれに、その呼び名の由来を載せた力作です。

宮武外骨は『滑稽新聞』の主催者として、又著作家として、権力や不正にパロディーや糾弾で立ち向かい、発禁、投獄を繰り返し、明冶、大正、昭和を駆け抜けた、本人に言わせると、外骨はつむじまがりで、『猥褻風俗辞典』は明冶四十四年、『筆禍史』と『本邦新聞紙』の両書を予約した購読者へ無料進呈された珍本だったのです。

遊女の呼び方には、朝妻船、川竹の流の身、格子の君、遊行女婦(さぶるこ)、花菖蒲(はなあやめ)、鳳凰(ほうおう)、室の友君、高等内侍(こうとうないじ)などの格調高いもの。

動物等に例えたものとして、間鼠(あいねずみ)、穴熊、あひる、牛、馬、うわばみ、大凡鳥(おおよそどり)お亀、お獅子、尾なし狐、籠の鳥、鴨、狐、金猫、銀猫、山猫、夜鷹、猿、鹿、章魚(たこ)、鼠、猫、蛍、鮪、山羊、夜からす、駱駝・・・犬、狸以外殆どの身近な動物が揚げられています。

植物は、あざみ、梅女郎、瓜、自然生、菜の花、麦(ばく)、南京(かぼちゃ)花菖蒲、夕顔、米(よね)路傍の柳、やっぱり有りました。

怖い系には、お化け、亡者、白鬼、地獄、白首、六地蔵、鉄砲、反対に有難いものとして、地蔵様、釈迦、達磨、天神、姫などなど。

さらに遊女の下品な呼び方として、垢掻女、馬糞女郎、馬糞拾い、すべた、ふんばり、へちゃ、とっても下品でここに書けないものもあります。

私のお勧めは洒落系とでも言いますか、遊女が江戸初期のように、意気も張もなくなり、お客を振ることも無くなった事を、やはり振ることが無い散茶に例えた散茶女郎(さんちゃ女郎)、同じように、不見転(みずてん)は、客の種類を選ばず、だれかれとなく枕をかわす芸者で、客を見ないで転んでしまう安芸者の事、ニュースーは、この本が世に出た頃、神戸で流行った遊女の異名で、闇の中よりニューと出て、男を捕らえてスーと消えるのでニュースーと呼ばれたという事です。

さて、私も嘗ての花街や遊廓と言われた場所を訪ね歩いている訳ですが、何故時には人が眉をひそめる場所を歩き回るのか、色々理由をつけて自分を納得させていた時もありました。しかしながら『猥褻風俗辞典』の宮武外骨の言葉に出会って、その答えが分かったのです。

「なんとなく面白そうだ」からです。


by gionchoubu | 2015-02-12 12:09 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

建仁寺、薬師図子の熊野比丘尼、後編


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比丘尼には尼出、仕掛比丘尼、船比丘尼、売比丘尼、頭を丸めているので丸女(まるた)や竹釘、さらに繻子鬢などの多くの異名があったことでも、その勢いを知る一端となります。

幕府とて、取り締まりを続けたのですが、手入れがあれば中宿を移す、神出鬼没の比丘尼は町奉行の裏をかき増殖、正徳時代には、茅場町、同心町、浅草御門跡まで勢力を伸ばしたのです。

ところが元文六年、八官町の中宿で、桜田辺の身分のある武士が比丘尼と心中をした事件をきっかけ幕府も本腰をいれてこれに当たり、江戸の比丘尼はほぼ絶滅しました。

当時心中は相対死と呼ばれ、幕府がきついご法度としたもので、万一生き残ろうものなら、非人の世界に落とされました。前述の武士と比丘尼の死体も裸で路傍に捨て置かれ、野犬や烏の餌食になったと言います。

武士にこのような恥辱を与えた比丘尼は絶対許すことは出来ない、という強い
覚悟が一斉取締りの裏にあったのか、比丘尼遊女はほぼ絶滅、寛政九年の『親子草』のも「比丘尼と云うものは今は一向に見当たらず候」と過去の語り草になりました。

比丘尼は眉をそらず、あるいは眉細く墨を引き、お歯黒をせず水晶のような歯を見せ、紅をつけ白粉を粧い、月代を中がりにして、まるで忌中の男のようだ、という記述からみると、その異形はよほど怪しい光を放っていたに違いありません。

又、この風俗が廃れたずっと後に書かれた『近世風俗志』でも『嬉遊笑覧』でも、この比丘尼には項を設けて詳しく考察している所を見ると、この女僧が突然変異のように遊女化した比丘尼に人々の興味は尽きなかったようです。

大阪の舟比丘尼については、ずっと後に踏み込んでみようかと思いますが、今回は建仁寺の南、六波羅蜜寺の西にある薬師図子、南に隣接する山崎町に元禄ごろ色を売った熊野比丘尼に関する記述を原文で紹介します。

『人倫訓蒙図彙(い)』

「哥(うた)比丘尼 もとは清浄の立派にて、熊野を信じて諸方に勧進をしけるが、いつしか衣をりゃくし、歯をみがき、頭をしさいにつゝみて小哥を便に色をうるなり。巧齢暦たるをば御寮と号し、夫に山伏を持、女童の弟子あまたとりて、したえる也。都鄙に有。都は建仁寺町薬師の図子に侍る。皆此末世の誤りなり」

『京雀跡追』

「山さき町 此所よりもくわんじんびくに多く出る所なり。ひがしがわにやくしあり。此づしにとりわけ多し。」

『色道大鏡』の記述に、建仁寺町に周峯、周慶などの比丘尼、さらに京大仏(正面通り山和大路)に祐清という比丘尼の棟梁がいたという話もあります。、鳥辺野の芳の絵図が近世風俗志に載りますので、京大仏、鳥辺野まで勢力を伸ばしていたようです。

参照:趣味史談遊女の時代色、武田完二著
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                      画像はすべて薬師町

by gionchoubu | 2015-02-09 14:34 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)