花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る

カテゴリ

全体
上七軒
遊郭・花街あれこれ
先斗町
宮川町
ねりもの Gion Nerimono
舞妓・芸妓
祇園東
五番町
雇仲居
遊廓、花街の類形
京都の花街・遊廓
亡くなった滋賀の遊郭
五条楽園
私娼
島原遊郭
祇園
パンパン、赤線
島原、輪違屋太夫 賛姿語録
*リンク
亡くなった奈良の遊廓
未分類

以前の記事

2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月

お気に入りブログ

最新のコメント

> narahimuro..
by gionchoubu at 16:26
花街ぞめき様へ 元..
by narahimuro at 18:15
> narahimuro..
by gionchoubu at 14:16
> あきさん コメ..
by gionchoubu at 14:51
本当に詳しく、有難うござ..
by あき at 21:27
花街ぞめき様へ 元林院..
by narahimuro at 22:47
> やまねさん し..
by gionchoubu at 12:40
河原町四条の蝶類図鑑は常..
by やまね at 11:23
> やまねさん そうで..
by gionchoubu at 12:36
ちなみに プログレががん..
by やまね at 22:56

メモ帳

最新のトラックバック

美は幸福を約束するものに..
from dezire_photo &..

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

奈良、花街、初瀬 
at 2018-12-11 15:55
花街 元林院ぞめき 三
at 2018-12-09 12:56
花街、元林院ぞめき 二
at 2018-12-06 12:58
上七軒 大文字 勝奈さん その四
at 2018-12-05 12:24
花街 元林院ぞめき 一
at 2018-12-02 17:25

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
近畿

画像一覧

<   2015年 01月 ( 11 )   > この月の画像一覧

舞妓・芸妓そして島原太夫にまつわるエトセトラ その一

f0347663_12271087.jpg
                      とし結さんの結界
結界 舞妓さんや芸妓さんが座敷に現れると、たいがい扇子を横に置きお辞儀をしますが、これを仏教用語で結界といいます。

結界は、演者である自分と、お客様とのけじめをつける所作といわれます。

お茶席でも主人が結界をするのは、「親しき仲にも礼儀あり」といった所です。

歌舞伎役者や落語家さんや文楽の世界でも、襲名披露で口上を述べるとき、必ずこの結界をするので、「ああ、あれか」と思われた方も多いのではないでしょうか。

舞妓さんが座敷に入っても結界をしないこともあります。其の場合、たいがい踊りに扇子を使わず、団扇や布巾を使う時などです。

左褄を取る 舞妓さんも芸妓さんも、お引きずりの着物を着ており、座敷以外では、裾を引きずらないよう、左手で褄を取ります。(着物の帯から下を褄をといいます)

芸・舞妓とも、この褄は必ず左手でつまむので、昔は芸妓になることを、左褄を取る、といいました。
「私も若いときは新橋で左褄を取っていたのですが・・・」といった様な言い回しを昔の本で見かける事があります。

なぜ芸妓が左手で褄をとるかというと、左褄を取るととによって着物の合わせ目が逆になり、男性の利き手がはいりにくくなるので、芸は売っても体は売らぬということを暗示している、といった説明が一般的です。

娼妓さんは右で褄をとるので、成程と思うのですが、家庭の奥さんも右で褄を取ったのが説明できません。

そこで、座敷で、お客にお酌をするとき右手でないといけないので、左で褄を取るとう合理的な説明もありますが、面白くも何ともありません。

私が人に説明する時は、着物の合わせ目の方を選びます。

第一聴き手の食いつきが全然違います。。
f0347663_12282417.jpg
                    左褄を取るとし夏菜さん
f0347663_12293872.jpg
                数年前一力さんの向かいに張られていました。

by gionchoubu | 2015-01-30 12:31 | 舞妓・芸妓 | Comments(0)

赤襟を返す


f0347663_11335344.jpg
                                 都をどりにて
歌舞伎『助六由縁江戸桜』をご覧いただくと、揚巻を中心にズラット並んだ吉原の花魁たちの見事な艶姿、この花魁たちが、それぞれ豪華な衣装で並ぶ中、皆一様に赤襟を返す姿が、色とりどりの着物姿に、見事なアクセントを付けているのに気づかれることでしょう。

この赤襟を返すのは本来島原の太夫の風習ですが、歌舞伎の世界では、どうしたものか、東も西も遊女の証しと見なされているようで、遊女の側面の強い大阪歌舞伎での茶屋の娘は赤衿を返しますが、同じ場面に出る仲居さんなどは襟を返しません。

そもそも、何故島原太夫が赤襟を返すかは、遊女の最高位であった昔の島原太夫は、十万石の大名と同位の正五位の官位を持ち、禁色の赤を身にまとっていることを見せ、御所に入所出来る事をアピールしていると言われています。

ですから、官位と無縁な花魁さんなどが、赤襟を返すのは、一種のファッションのようなもので、歌舞伎の世界でも花魁が赤襟を返すのに眉をひそめる人もいました。

不思議な事に、京都五花街のうち、祇園甲部の都をどりと、先斗町の鴨川をどりの芸妓(以前舞妓と書きましたが芸妓との御指摘受けましたので書き換えました)さんのみが、幕間のお茶席でこの赤襟をかえすのです。

実は明治十年、京都の花街が、博覧会協会が仙洞御所の酔花亭にてお茶席を設けたことが有り、この時編み出されたのが、椅子を用い海外の方にもお茶を楽しんで頂くための立礼式で、現在五花街の〜踊りのお茶席は皆、この立礼式(りゅうれいしき)の作法で接待しています。

この時島原太夫も抹茶の接待をしましたが、もし、その京都の花街が祇園と先斗町の芸妓のみであり、島原太夫の赤襟の風を取り入れたと考える事は出来ないでしょうか?

ただ、この二花街の芸妓の赤襟が御所でお茶席を設けたことによるものか、どの文献で見たことも、聞いたこともなく、私が密かに思っていることだけで、何も証拠たるものが無いのであしからず。(実際関係者に、そんな馬鹿なと一笑された事があります、ただ理由は説明されませんでした。)

さて、そもそも、この太夫の襟返しですら、いつからあったものか触れているものに出会った事がなく、江戸期の太夫の絵姿を見ても、この赤襟に出会った事は、私の経験としてありません。

五年程前、常照寺の「吉野太夫花供養」で、質問コーナーみたいな場があったので、おそるおそる、如月太夫にこの質問をしました。

太夫もご存知なく、きっと私のことを、眼鏡の「面倒くさい奴がいる」と思ったに違いないのですが、表向きはにこやかに、しかも毅然と「こんどお会いしたとき屹度お答えしようぞ。」みたいな事を太夫言葉でおっしゃいました。

ところが向こうは正五位、こっちは平民、個人で太夫にお花をつけるなんて、とてもとても・・・

「今度って、一体どういう状況なんだよ〜」と言いたい気持ちで一杯です。

参照:京の花街「輪違屋」物語、高橋利樹

f0347663_11343530.jpg
                                    如月太夫


by gionchoubu | 2015-01-26 11:35 | 舞妓・芸妓 | Comments(6)

京都五花街の始業式

f0347663_14323301.jpg
                      祇園甲部始業式
京の五花街の内、先斗町、宮川町、祇園東、祇園甲部の四花街が一月七日、上七軒は一月九日にそれぞれ始業式をそれぞれの歌舞練場(祇園東はお茶屋組合)で行います。

各花街の芸舞妓は黒紋付の正装で、髪には花簪の代わりに稲穂を挿し、凛とした姿で会場に向かうので、多くのカメラを携えたギャラリーが押し寄せ、祇園甲部の歌舞練場沿いの花見小路では警官が交通整理に現れます。

その祇園甲部の始業式は、理事長の発声により「芸妓・舞妓の誓い」

一、私たちは常に美しくやさしく親切にしましょう。
一、私たちは祇園の伝統を誇りとし、心の修養につとめ、技芸の習に励みましょう。
一、私たちは善良の風俗をみださないよう、清潔でありましょう。
一、私たちは京都の国際的地位を認識し、新知識の吸収に意を用い、視野を広めましょう。
一、私たちはつねによき風習を作り、みなさんから愛されましょう。

を唱和します。

次に前年に一番お花(売り上げ)が多かった芸妓、舞妓が表彰されるのですが、
昔から、花街というのは物凄い競争社会なのです。

最後に祇園甲部では、当世の井上八千代さんが正月を祝「倭文」を舞い始は終
ります。

芸・舞妓とも、この大きいお師匠さんの気を張り詰めた舞台に、新たな一年
の芸の精進に誓いを立てることでしょう。

さて、毎年五花街の始業式はあるのですが、終業式の話は聞いたことがありま
せん。

卒業式が無い理由は聞いたことがないのですが、もしこれに、芸の道に到達点は存在しない・・・有るのは終わりなき芸道の追求のみ、という考えが潜んでいるなら、何と素晴らしくも恐ろしい世界でしょう、としか私には言い様がありません。
f0347663_14341075.jpg
                 2011宮川町の始業式へ向かうとし結さん
f0347663_14365318.jpg
              同じく右よりとし愛さん、とし夏菜さん、一番左はとし真菜さん?

by gionchoubu | 2015-01-22 14:39 | 舞妓・芸妓 | Comments(0)

中書島遊郭の歴史 その六

f0347663_15361570.jpg
何しろ京阪電車に乗れば、直ぐ祇園、先斗町という日本を代表する花街に、また西にむかえば、これまた格式豊かな大阪曽根崎新地、日本一の規模を誇る南地五花街と、中書島が芸妓町としてやっていくのは大変で、沿線にあった橋本や枚方の桜新地と合わせ娼妓中心になるのは無理ないところだったと思われます。

その昔、ここの禿だった八千代太夫が島原で大成したように、昭和の中書島の錠石の代表美人だった小奴は舞踊も達者、後に祇園甲部に移り永楽屋の若二として名を馳せました。

しかし、東海道五十三次で江戸日本橋から第一宿であった品川が品川遊廓を潤したように、同じく京都から大阪に向かう最初の要所であった中書島は気軽に遊べる公許の遊廓ということで全国にその名を響かせ、井原西鶴も、雲助連中にとって近くの撞木町は金銭面で折り合いがつかず、伏見の泥町(中書島)で紛らわしたという話を書いています。

『東海道中膝毛』でも、淀川で三十石の船頭が、客に「せんどうさん、夕べは中書島じゃあろ。精進がわるいさかい、コリャ雨じゃろぞいの」と軽愚痴をたたかれていますが、西鶴も、十返舎一九も、芸所遊所としての中書島の世間の認知度が高く、人気の点でここは外せないと逸話に加えたものなのでしょう。

さて、戦前、伏見に十六師団が開設されると、中書島は軍都型の遊廓になり、昭和九年には芸妓数五十九名を数えたものの、戦後は京都市内芸妓連合会からもはずれ、芸妓減少傾向に歯止めがかからず、それでも十四、五人の芸妓で春、秋の温習会は催していました。

そして、木幡に自衛隊の官舎ができると、国防の第一線に立つ若者専門の慰安施設としても利用されました。

昭和三十一年に貸席業者五十八軒、接客婦は百八十三人、そして昭和三十三年、売防法の執行により、日本全国の他の遊郭と共に、中書島遊廓も滅びました。

猶、『京都遊廓見聞録』によれば、この後、芸妓町として花街を続けるか、京大宇治分校と学芸大の下宿町として鞍替えするか、中書島は二派に別れましたが、その後芸妓が復活することは有りませんでした。

先斗町の千鳥、祇園のつなぎ団子のように中書島花街の紋章がありましたが、丸の中に、中と書いた意匠とも呼べないものでした。

f0347663_15364108.jpg
                           舞、喜久栄・長唄、加代、玉子・三絃、千子、松代


by gionchoubu | 2015-01-19 15:39 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

中書島遊廓の歴史 その五


 

f0347663_12055151.jpg

  中書島あれこれ(画像は蓬莱橋)


長建寺 元禄十二年(1699)、深草大亀谷即成院から多聞院を移して創建されました。寺名は中書島遊廓を開いた伏見奉行建部内匠守の長命を願い長建寺としました。ほぼ中書島遊郭と同じ歴史を持ち、本尊が弁財天であることから、中書島の守り神として芸、娼妓の信仰を集めました。ご

江戸時代は六月二十五日、明冶以後は七月下旬に大祭を行い、鉦音にぎやかな渡御船に柴を積み、河中に出て護摩供を催し夜空を真っ赤にこがす壮厳なお祭りで、古くは伏見奉行の役人が警固にあたりました。長建寺のご住職は何度か立ち話をさせて頂いたのですが、大変素敵なお人柄で、私が尊敬する田中緑江さんのお話も伺いました。

伏見小唄 昭和四年、伏見市誕生の折、作詞西条八十、作曲中山晋平によって世にでた十二番まである小唄があります。7番で中書島が、10番で撞木町がでてきますので、1番と合わせ記します。

1 菊は咲く咲く葵は枯れる トコトンヤレナ
  西にくつわのあれ音がする 錦旗ひらめく鳥羽伏見 ヤレヨイヨイ ヨイサッサ トーコトントン トンヤレナ トコト   ントントンヤレナ

7 恋のかけ橋わたるにゃ恐し
  越さにゃいとしいあの妓に会えぬ 男泣かせの中書島

10  向こう通るは大星さまか
  傘がよう似た深編笠が 朧月夜の撞木町

映画ロケ地 古くは、明暗道中師など日活の時代劇によくこの辺りが使われました。最近では仁義なき戦いの頂上作戦に、登場しました。

酒処萬平 長建寺の近く、昔を忍ばす路地の中に、元遊廓の建物を利用したお店があります。店を入ると、娼妓さんの陰見世があります。(張り見世は表にあるものを言いますので、こちらは陰見世だと思います。私も実際見せていただいた事がありますが大変貴重なものです)

中書島検番 蓬莱橋を渡った公園の南にありました。

 中書島の遊廓の長男として生まれた西口克己が昭和三十一年発表した三部作で、廓の闇の部分を書き、当時、廃娼問題が盛んな折、大センセーションをおこしました。他に祇園祭の再興に命をかけた京町衆を描いた祇園祭、文殊九助、山宣など

参照:京都市の地名、技芸倶楽部、Kyoto THE FUSHIMI(特集中書島の酒場に色香を求めて)、


by gionchoubu | 2015-01-17 12:10 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

中書島遊廓の歴史 その四


f0347663_12105640.jpg
昭和初期の中書島の芸舞妓
昭和七年、松川二郎が誠文堂から発行した『三都花街めぐり』に中書島が花街として紹介されています。この内容は松川二郎が昭和四年、誠文堂から出版した『全国花街めぐり』の続編出版予定先行記事として、伊勢松坂、岩代郡山とともに『旅行時代』という月刊誌の創刊号(昭和五年七月号)に載せた記事とほぼ同じです。

余談ながら、どういう事情か分かりませんが、全国花街めぐりの続編が発行される事はありませんでした。

同時期に出版された『全国遊廓案内』は中書島を当然遊廓視点で見ており、娼妓数約四百、貸座敷数八十四軒、店は写真式で陰店は殆ど張ってなく、娼妓は殆ど居稼ぎ、廻しはとらず、費用は一時間遊びが二円程、半夜は四円、全夜は六、七円、税は消費額の約一割二分としています。

三都花街めぐりでは、中書島を花街視点で紹介していますが、芸妓の数は八十から九十人、娼妓の数は芸妓の四倍以上で、松川は娼主・芸従の本格的遊廓で、昼夜弦の絶ゆるときなき洛南唯一の温柔郷という表現を用いています。

さらに妓楼の主なものとして、末広楼、芳の家、新栄楼、仲辰楼、揚屋の主なるものとして、喜多仲、横萩、料亭の主なものとして、澤文、寺田屋、鮒亀、橋田、魚常そして日本一の柳樹を自慢する今富橋畦の喜多家を挙げますが、緑江さんも、喜多家に触れ、その頃舞台のある座敷は珍しく、わざわざ京都の人々も、中書島の芸妓を呼び、ここで宴会をしたとしています。

遊興制度は、芸妓の花代が一本十銭の十銭花で、一時間約十本で、最初の一時間には送り花二本がついて十二本の計算になるとのこと、特別祝儀(つまり芸妓と寝る事)の場合一流芸妓を白切符、中流を青切符、下級を赤切符と称し三段階に分けるが、最下級の赤切符でも、東京の場末の花街に比べると遥かに高いのは、娼妓本位遊廓だから芸妓の特祝は当然高くなると説明しています。

代表的芸妓として横山の貞、柳家の千代、柳家の金吾を推し、名物楼妓に小園を挙げました。

月刊『技芸倶楽部』から、この頃の中書島の花街の側面を探ると、昭和四年、三月十九、二十日両日、大手座で温習会を催しています。十九日の番組は、素囃、八島官女、長唄伊勢音頭、その他舞踊俄獅子や舞踊三ッ面椀久、さらには浄瑠璃、白石噺揚屋之段など、よし助、染之助の義太夫芸妓の名もあります。

その前年の昭和三年、五月二十一、二十二日にはこの芸妓倶楽部主催で、京都市公会堂で京都の当時の七花街と中書島を併せた『技芸倶楽部創刊第六年記念京都伏見八遊廓総合歌舞音曲園芸大会』という矢鱈長い演芸会がありました。

その時、二十一日、素唄「四季の壽」(長唄小奴、小金、三絃玉太郎、友奴)の評は概ね好評で、流石に日頃練習に余念なき連中丈あって絃歌共に非常なできばえ、「中書島の芸妓は案外芸に上達している」・・・つまり余り期待されていなかった事になります。

翌日は篠塚流の舞で「都鳥」をかけたのですが、これもはんなりし円熟した振りで大喝采を受けています。江戸期、京都の舞を井上流と二分した篠塚流は、京都の花街からはすでに撤退を余儀なくされたものの、伏見の中書島で最後の牙城を守っていたようです。



                  


by gionchoubu | 2015-01-13 12:20 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

中書島遊廓の歴史 その三

f0347663_13112798.jpg
                   柳町と言われた伝統を引き継いでいます。
                 
『伏見概集記』に中書島遊廓の記述があり、傾城数九十七人で、遊女の最高位太夫の位は居ないものの、それに次ぐ天神十三人がおり、続く鹿恋(かこい)四十人、半夜四人、見世四十人、茶屋数三十六軒、茶立女七十人の記録があります。

享保十三年(1728)の『伏見大概記』にも、柳町傾城数三十七人、揚屋五軒、中書島茶屋三十六軒、茶立女七十人と記されており、天明七年(1787)刊の『拾遺都名所図会』に「近年遊女町となりて古の江口、神崎に準え旅客の船をとどめ揚柳の陰に觴をめぐらし、あるいは歌舞の妓婦、花のあしたに袖を翻し、琴三絃の音は月の夕に絶える間なし」とその繁栄を伝えています。

天保前の全国の遊所を相撲の番付に模した諸国遊所競では、同じ伏見の墨染、撞木町と併せ、最下段の一画、位で言うと京の五条橋下より下に置かれていますが、その後の天保の遊所整理で、それこそ関脇の位の京の祇園を筆頭に都の上七軒、先斗町、宮川町が花街、遊廓としての営業を差し止められたのに、撞木町と中書島は、古くから公許の遊廓であったとして、営業を続けることができたのは以前も書いた通りです。

江戸期に於いて、淀川を通じて伏見と大阪の八軒家を三十石船で結んだ水路は京都・大阪間の貨物運送の最重要幹線であり、参勤交代も西国大名は皆伏見を通り、それに交通の要所として多くの旅人、商人が淀川を通じ、都と浪速を絶える事なしに船で移動したとすれば、中書島遊廓は繁栄を約束されていたも同然でした。

天保年間には茶屋四十六軒、芝居小屋も一軒出来ました。明冶五年の記録によると、業者は五十九軒あります。明冶十一年の『都の花競』では中書島伏見第四区として、西柳町の芸妓として菊葉(19)梅勇(24)留吉(24)、東柳町の芸妓に床鶴(24)梅尾(21)小峯(15)種吉(14)峯歌(17)
あい吉(20)小万(16)舞妓として、まだ芸名を持たない舞妓一人。西柳町に娼妓六人、東柳町の娼妓十四人の名を確認する事が出来ました。

明冶四十三年京阪電車開通によって中書島駅ができ、更に大正三年油掛、塩小路高倉間の電車が中書島駅まで延長されると、伏見の南玄関として脚光を浴び、料亭、酒舗が軒を並べる歓楽街になりました。

大正四年発行の『京都府誌下』によれば大正二年,貸座敷77、芸妓45、娼妓282とあります。



by gionchoubu | 2015-01-11 11:10 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

中書島遊廓の歴史 その二

f0347663_12460179.jpg


マリア灯篭・・・現在長建寺にあるマリア灯篭は、元々柳町の御所にもお出入りを許可されていたお茶屋「紅屋」の隠れ座敷にあり、隠れキリシタンが祈りをささげたものとされ、下にマリア様の姿が浮かびあがっています。東寺高山右近の家も南浜小学校の辺りに有りました。

中書島の名前の由来ですが、中書は秀吉が伏見城在城当時から、この地が元禄七年(1694)まで朝散太夫中書少郷脇坂淡路守の邸宅があり、伏見住民が脇坂侯を敬称して「中書さん」といっていた事、島は今の京阪中書島駅あたりは宇治川の河川内で、この宇治川と宇治川筋で囲まれた土地を弾正島、矢倉島そして中書島に分けて称していたことに依ります。

ちなみに中書町の呼称は、京都市内の上京区(丸太町智恵光院バス亭の近く)にもあり、これも脇坂中務大輔安治が伏見に移る前ここに住居があったことが由来で、脇坂氏の官名、中務大輔が中国の位である中書に相当していた為、この呼称が生まれました。

秀吉在城時代、人口六万を誇る日本四大都市としてその名を天下に知らしめていた伏見でしたが、その後衰退、建部内匠頭が伏見奉行に就任すると、荒廃した中書島開発の為南浜町から蓬莱橋、表町から今富橋の二橋を架け、民家建設の請願を許可しました。

明冶の始め伏水中書島として、自らが府に提出した『京都府下遊廓由緒』を見ますと、言い伝えではあるが「東山天皇元禄元戊辰年建部内匠頭伏水在役中大亀谷村多門院弁財天引移相成右天女茶立女之唱ヲ以遊女並茶屋株免許相候由」
と中書島遊廓の起源を元禄元年(1688)としています。

ただし『京都市の地名』では中書島遊廓の成立を元禄十三年誕生、『伏見史話』『城下町伏見町名の秘話』『歴史に隠れた伏見の碑』などの著作のある吉田酔痴氏は中書島遊廓の誕生を元禄十三年七月とされています。

そして阿波橋西の柳町(通称泥町)や、南浜の遊所をすべて中書島に収め、蓬莱橋がかかる中間道路を隔て、東柳町、西柳町としましたが、町名で呼ぶ人は殆ど無く、俗称中書島と読んだのです。

『嬉遊笑覧』では元禄時代に完成した『色道大鑑』を引用し「同処柳町、俗に泥町といふ。夷町(撞木町)より十六町坤の方也。舟人・馬借の類入こみて興ずる処、風俗いふにたらず。されども元祖の薫、また八千代などは、此地より出たり。奇といふべし。」
と紹介しています。

この色道大鏡の「日本遊廓惣目」に全国二十五箇所の有名遊里が載るのですが、この中に、伏見から伏見夷町(撞木町)とこの伏見柳町(中書島)の二箇所も選ばれているのは、当時の伏見の存在感の大きさを示している様です。

さらに色道大鏡には伏見柳町の図が載ります。それによりますと、東柳町北より、空地、挙屋やしき明地、大工屋六兵衛、丹波屋源左衛門、淀屋太郎兵衛、ならやつま、奈良屋加平治、常陸屋長兵衛、近江屋長左衛門、丹波屋甚左衛門、年寄丹波屋元清、大阪屋由仙、松葉屋三左衛門、大阪屋清左衛門、京屋真幽、福田利兵衛、町役人庄助、そして西柳町北より、挙屋隅屋与平治、挙屋丹波屋吉兵衛、挙屋橘屋半兵衛、丹波屋太郎助、同、天満屋八郎右衛門、檜皮屋長兵衛、奈良屋加平治、同、出口屋勝兵衛、大坂屋六之助、江戸屋八兵衛、同、堺屋九兵衛、富田屋勘兵衛、そして此東西の橋の間を泥丁と言うと書かれています。





by gionchoubu | 2015-01-09 12:57 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

中書島遊廓の歴史 その一

f0347663_17282302.jpg
                      醍醐田町
中書島の遊廓史は江戸時代以前に遡ります。最初遊女がいたのは今の伏見南浜小学校辺りのノ木浜町のようで、寛永三年(1626)今は無き阿波橋の西の西柳町に移りました。ここは今の豪川の西、阿波橋町辺りをいったものと思われます。もう一箇所は現在黄桜酒造が建つ南浜町でした。

高瀬川のすぐ東に豪川が流れており、遊女達も舟運関係の男達を中心に渡世していたと思われるのですが、ここの出身者に薫という名妓や、後年島原に移り良純法親王につくした八千代という名妓もいました。

八千代は元伏見の柳町、福田理兵衛の禿で、慶安二年(1649)二月十日、島原の奥村三四郎に抱えられ、八千代と称しました。『色道大鏡』に「古今無双乃遊女高徳秀才人也」と手放しで賞賛されており、良純親王が甲州に配流された後、剃髪して尼となりました。

その後、この二つの遊所が統合され、中書島の遊廓が開かれる以前、慶長元年、伏見に撞木町遊廓が誕生したのと同じ年、京の町に柳町二条の遊郭を築いた林又一郎が、伏見田町(丁)にも遊廓を開いたとあり、撞木町の西とまでは記録にあるのですが、古地図をみても田町の場所は不明です。

撞木町遊廓の西北一キロのところ、現在東高瀬川を挟んだ醍醐田町がありますが、角倉了似がこの流路に着工したのが慶長十八年といいますから、この線は薄いと思われます。

私の仮説として付け加えると、田町は町名でなく田の形をした遊廓だった故、そう呼ばれたないか、という説を視野に入れることは出来ないでしょうか?というのも後の中書島遊廓の形状も田の字をしているからです。この考えは、同じ年にひらかれた撞木町か、もとは夷町でしたが、その町のTの形状をもって撞木町と呼ばれたことから脳裏に浮かびました。

さて、伏見に撞木町遊廓と田町の遊廓が誕生する二年前、文禄三年(1594) 大地震で伏見城が倒壊し、多くの奥女中が犠牲になりました。その際柳町の遊女を臨時の雑用に付かせたというのですが、当時の遊女の風を考えるに、面白い事例だと思います。ただしこの倒壊は、『京都市の地名』によれば文禄五年とされています。

その後、伏見城は指月(観月橋辺り)から伏見山にうつり再建されるのですが、
文禄五年が正しければ、機に聡い又一郎の事、大造営の職工人を当て込んで遊廓を開き、それが出来るとサッサと都に引き返して、その後、一世を風靡しおた遊女歌舞伎の興業主の一人となったのかもしれません。というのは田町の遊廓はまもなく消滅しています。

伏見の遊所といえば、淀にもあったという記録もありますもの、普通、この中書島と以前一項を設けた撞木町そして宿場町の墨染めの三箇所が上げられるのですが、現在は京都市ながら、伏見の遊所は市内の遊廓・花街とは違った歴史をたどり、京都の遊廓の総元締めであった根本の島原の支配下から免れ、天保の改革の遊所整理で、市内の遊廓が廃業か、島原に移れという命からも外され、墨染のみ中書島か中書島に移れというごく軽いお達しで、それすら、名目を茶屋株から旅人宿か商人宿に鞍替えすれば良いことになり、事実上黙認の形を得ることが出来ました。

島原以外、生きるか死ぬかの選択を迫られた都の業者にとって中書島は羨望の的だったに違いありません。





by gionchoubu | 2015-01-06 17:29 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

遊郭における廻しに関する一考察 その五

f0347663_11523493.jpg
それでは本題に入ります。りんが年八両三分、五年年季で串茶屋よごやのひさぎ女(飯盛女つまり遊女)となったのが宝永二年(1705)といいますから、串茶屋がまだまだ低級な遊里で、遊女もブタコなどと陰口をたたかれた時代です。

しかしながら、加賀前田家のご城下、安宅関でお馴染みの富樫の時代より浄土真宗の土地柄、人と人との縁を尊び、串茶屋に於いても、遊女であっても自分である程度、その晩枕を重ねる男を選ぶ張りも自由もあり、楼主もきっちり線香で時を計り、おつもりを告げる不人情のなかった時代、後年女遊びの社会では当たり前とされ、遊ぶ客も、前提として見世に揚がった「マワシ」がご禁制だった古き良き時代の話です。

北陸街道にあり往来の激しい串には、士分格の徒士、足軽、職人、僧まで年に何回か立ち寄る馴染客も多く、もし仮に、一人のひさぎ女に二人の馴染客が立ち寄れば、女はより馴染客を選び、楼主を通じ、外した客を他の店に紹介するという不文律が成立していました。

そして外した客には、お引き花と称する屋号を染めた手拭を出すという義理果たしがあり、客にとっても、女にとっても、取った寝取られたの気まずさが、この手拭一本で帳消しになると考えられていました。

さて、りんがよごやに来て奉公にも馴れてきた頃、年の頃なら二十五六、松任在住の十飛飛脚の新七という若い衆、酒も遊びもまず人並み、金払いがよく、よごやにとってはまず上客の部、最初の一夜で店の看板女郎すてがとりこになったという評判の男前がやってきました。

しかしこの日は十一月、頼母講や季節旅で串がひときり賑わう日、よごやでもその宵は早くから客が付き、すても当然泊まり客が付いていました。女主人のおふでは、普段ならお引き花で、義理手配の掛け合いをするのですが、この繁忙期の中、まず時間の無駄とあきらめ、さりとて馴染みの新七を返すわけにもいかず、花はとらぬまでも空き部屋の一つを当がい自ら酒の相手をしながらどうしたものか、思案しておりました。

この日すてについた客は金沢の尾山、鷹匠町の水内の殿様の下回りで、大聖寺藩に丁銀を届ける帰りによごやの客となった斉木三佐という四十がらみの馴染で、士分ということもあり、よごやでは大事な顧客でありました。

すてが、酒の相手をし、枕を交わした後、三佐がひと寝入りしたので、たばこの一服づけに階下におりると、この空き部屋で所在無げの新八と顔を合わせたのです。

二人は、いわば相思相愛の仲、三佐が眠っているのをいいことに、おふでも人情で、新八がすてと思いを遂げるのが分かった上、粋な計らいで自分の寝室に下がったのです。

おふでが、うつらうつらいていると、「おーいおかみ出て来よう、よごやは廻しの客をとって、法度破りしても、いいんかい、ふたつ重ねて叩き切るがのう、それでも文句は無いやろがい、」三佐の大声が、狭いよごやの天井まで響き渡ったのです。

鬼の形相で、抜き身を振りかざした、怒りに燃えた三佐の姿を前に、海千山千のおふでも、この時の恐ろしさは、のちのちまで亭主の弥六にしみじみ述懐したという程すごいものでした。

全宿六部屋の女郎も客も、ぶるぶる震えながら成り行きゆきを案じていたのですが、一人だけ悠然と構えた、六十路のご隠居風情の客が、つかつかと三人立ちすくみのくだんの部屋の前でしわがれ声の一喝、

「この無粋新参、何をほざくか!」

この老人こそ、加賀藩横山家従士頭上何某という尾山城内で要職にあった侍
斉木三佐も下士分限の若輩ながら面識があったと見え、たちまち青菜に塩のへなへな腰で、はいつくばい「平に、平にご内聞に」がやっとの挨拶、夜が明けぬ串茶屋を一目散で後にしました。

その後程なく串茶屋に支藩からお定めのお触れが回ってきたのですが、「士分登楼のときは、刀槍のたぐい下足帳場おあずけの事。放歌、高吟慎みの事。きざみ花以後お構いなきこと」きざみ花を取っていいとは、廻しをしても良いという事、いったい上坂何某は尾山城内でどんな大身だったのか、串茶屋ではこの噂で持ちきりだったといいます。

参照:湯女りんの日記(串茶屋ごよみ二)小柴あかね、池田巳亥一、収録、『串茶屋 遊女を偲ぶ(六)』遊女の墓保存会 


by gionchoubu | 2015-01-03 11:53 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)