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遊郭における廻しに関する一考察 その三

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                  油屋は古絵葉書で見かけることがあります。
そもそも江戸の吉原が廻し制だったのはこの町の成立過程を考えれば一目瞭然で、その江戸城築城から町の整備にいたるまで、多くの職工人の労働が必要だったという背景があり、数的に男性優位の世界で、さらに参勤交代の制度もあり、遊女の絶対数の不足が成立の裏にあったのは間違いありません。

しかし、この制度がその後昭和の時代まで、東京式といわれ、中部地方から東日本、東北、北海道まで支配したのは、遊女の絶対不足というより、制度ありきの因習がそのまま続いたと私は考えます。

そして、廻しという制度が、遊廓史に於いて大きな爪痕を残した惨劇事件の背景にあるという説を唱えた、昭和四十六年刊、野村可通氏の『伊勢古市考』を紐解き、氏の言葉を借り、廻しという環境がいかに遊客の心を蝕んだか見て行きたいと思います。

その事件は歌舞伎でもお馴染み「伊勢音頭恋寝刃」の元となった実話で、時は寛政八年(1796)伊勢の古市全盛の頃、騒動の舞台は油屋で、その時遊女三十六人、料理人三人、下女二人、下男三人、子飼十二人それに楼主の夫妻と祖母がいた油屋という大楼で、この事件は一般的には、この大楼の名をとり油屋騒動といわれています。

この惨劇を起こしたのは、二十七歳の孫福斎という、浦田町で開業していた青年医師で、京都に遊学した経験を持つ、経済的にも恵まれ、将来を嘱望された美男子でもあり、こんな凶行とは無縁の境遇だったはずです。

ただしこの事件があまりに凄惨を極めた為か、当事者、関係者が後難をおそれ、一様に口を閉ざし、この青年医師の凶行の動機も、酒乱が原因と片付けられているのですが、この事件に関する芝居や関係書物を横に置き、野村可通氏は、事件後油屋が奉行所に提出した始末書と『立田紅於園調書』を元に解き放ちます。

事件の全貌は、斎が油屋のおこんという若い馴染みの遊女に会いにいったことが発端で、野村可通氏は斉がおこんに相当の恋心を抱いていたと推測しています。

この日斎は、仕事で悩みでもあったのか、おこんに酌をさせ、酒をのむのですが、酒が進むにつれて、ますます心が重くなり、さらににがりきった青年医師の癇に障ったのが二階で始まったドンちゃん騒ぎ、妓楼では見慣れた風景ですが、悪酔い寸前の斎には、耐え難いものでした。

そして、あろう事が、仲居のおまんが、襖越しに斎の酒の相手をしていたおこんを呼び出し、金払いのいい二階の客に連れ出したのです。つまりおこんを他の客に廻しました。

二階で遊客におこんを取られ憤懣やるかたない斎に聞こえるのはおこんの嬌声の混じった馬鹿騒ぎ、とうとう斎は座を蹴ると、おまんに「刀、刀」と怒気を含んだ声で呼びました。怒って斎が帰ってしまうとおまんは思って、満面の笑みで、言い訳がてら宥めたのですが・・・

刀を抜いた斎はおまんの左手指三本を傷つけてしまったのです。「人殺し〜」と叫び逃げ惑うおまんを追いかけた斎は止めに入った下男の宇吉に切り付けると、次に下女のおよしに傷を負わせ、主人清兵衛の母親さきに脳天から切りつけ惨殺、次に二階から騒ぎを聞きつけ降りてきた、遊女おきしは首を切られて即死、つづいて遊女おしかも切られて重傷、阿波から来て遊興中だった二階の3人の客も重傷を負い、その後一人はこの傷で死亡しました。幸いおこんは難をのがれましたが、その後の消息は不明です。

この後まもなく、孫福斎は刀で自害するのですが、なにせ民衆の憧れ「お伊勢さん」の舞台古市遊廓全盛のの異常な出来事だったので、テレビも週刊誌もない時代に、日に五千人は下らないといわれた参宮客の口をかり全国を巡り、瞬く間に『切宝年菜種実』として大阪角座で初演され、現在の『伊勢音頭恋寝刃』になったというのです。

可通氏はこの廻し制度について「妓楼における遊客とのトラブルの主原因は“廻し”である場合が多い。“廻し”とは一人の女郎が何人もの客をたらい廻しにすることで、これが客の心象を害し、いかに客を半狂乱にするものであるかを、私は身をもって知っている。斉の場合も、或はそれでなかっただろうか、」

「(客)の報復手段も全く常軌を逸したものになり勝ちである。たとえば大小便をふとんに包んで帰るのはまだよい方で、ひどいのになると、炭火をふとんに包んで帰る悪質なものまである」と、この制度について述べています。


by gionchoubu | 2014-12-29 11:26 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

遊郭における廻しに関する一考察 その二




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                 絵葉書に見る吉原:角海老楼、小紫
江戸前落語、吉原を舞台にした『五人廻し』では、まさにこの廻し制という非条理な制度の生んだ悲喜こもごもを描いております。

この話によると、客は前払いで見世にあがり、花魁が来るまで、酒をのんだり、鮨を注文したりして、じっと待つのですが、花魁には客を振ることが許されていました。一晩待っても花魁がこない事もあり、振られる事もあるのですが、これをとやかく言うと野暮のレッテルを貼られるのです。

江戸っ子にとって野暮と呼ばれるのは最大の辱めで、何事も粋にこなすのが身上、楼主のみに利する、この客にとって何のメリットもない、又遊女にとっても大変な労力を課す廻しは、江戸っ子気質を巧みに利用したと言うしかありません。

噺にでる最初の男は、この江戸っ子を鼻にかけた男で、「おれなんざなあ、買った女がそばにいねえから甚助をおこしてポンツク言うような野暮な人間じゃねえんだ。いいか、こっちゃァもう女なんてえのァ飽きてるんだ。そばでなんかされるのはうるせんだ。」と持っていきようのない怒りを若衆にぶちまけます。

二番目の男は気障なうえ薄気味悪く「つまりこの遊びというものがでげすな、二階へ上がる、おばさんや新造衆などが出てきて、そのお世辞をお肴にご酒いただきなぞは、ま、とにかくとして、お引け、閨中のばやいになって、婦人のいるほうが愉快かそれとも・・・かくの如く、だれもいあいほうが君愉快か・・・」
と若衆につめより、花魁がこない代わりに「ここに火箸が真っ赤に焼けている、これをひとつ君の背中にじゅう・・・ッと押し付けてみたい」とその恨みの大きさを表現します。

三番目は理屈の多い男で「ここにこの領収書というものがある。これに台の物(料理のこと)小物などというものを記してあるが、これは僕が、酒食に浪費したとあきらめてええが、この劈頭の、娼妓揚代金という点に至っては、大いに解釈に苦しんでおる」と代金の返金を求めますが、考えてみれば尤もな話です。しかしこれが通らないのが吉原という所です。

四番目は自惚れが強い男で「なァ、客を振るなら田舎者でも振ったらよォかんべえッて、田舎者ォ・・・おらなんざァこう見いても江戸っ子だァ、この野郎」「おらが顔を三日見なければ女ッ子が肺病になるちゅうだ。」「おらのような者をふったら女郎冥利に尽きやァしねえかッてねェ」とえらい剣幕で男衆を困らせます。

最後の男は田舎者のお大尽、実は花魁はこの男につきっきりだったのですが、その男と若い衆のやり取りが、

「(花魁が)いやな客でも我慢すろってえのに、廻らねえだァ・・・おらァにォ惚れてるだァよ」

「恐れ入ります、どうも」

「これが廻らねえといって(他の客が)われにつらく当たるべえ?」

「それなんですよ、玉代を返せなんて、不粋なことを言うのがいちばん困りますんで」

「玉代返せってか?呆れたもんだァ、そんなことを言うのはおおかた田舎者だべ」

といったやり取り方があって、花魁はお大尽に四人分の玉代を出して、四人を追い返してくれ、と頼み、お大尽も快く引き受けます。

ところが、花魁はもう一人分出してくれとお大尽に頼みます。

「(その一人分のお金)どうするだ?」

「あちきがもらって、あらためておまはんにあげます。」

「あんで、あらためて、おらがもらってどうするだ?」

「それを持って、おまはんも帰っておくれ」、

落語の落ちには、無理っぽいものも少なくないのですが、是は見事な落ちっぷりだと思いませんか?

参照:落語百選、麻生芳伸


by gionchoubu | 2014-12-26 12:06 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

遊郭における廻しに関する一考察 その一

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                      絵葉書に見る吉原
『全国遊廓案内』の遊廓言葉(さとことば)の栞では廻し制を「廻し花制とも云ふ。一人の娼妓が同時に二人以上の客をとって、客を廻って歩く事」と説明し、関東を中心に行なわれたので、一般的に東京式と言われると付け加えました。

この反対が通し花制で、客の廻しを取らずに、一人の客に一人の娼妓が附きっきりで居る事で、これは大阪式、あるいは上方式と言いました。

万延頃の『江戸自慢』という地誌に「娼婦ハ廻しと言事あり。一人の女郎にて一夜に客三四人も引受、彼方より此方、此方より彼方と順々廻り、乗せて下して又乗せて、渡し舟の如く、衆生済度ハ三尊の阿弥陀も江戸の女郎には及び難し。おいらん昼三の上物には此事なく、一歩以下の安物ニ限れり。」と説明しています。(明田鉄男著、日本花街史より)

それでは、この廻しによる、関東と関西の境界線がどこにあるのかを、昭和五年に発行された日本遊覧社発行の『全国遊廓案内』で収録された、当時の植民地を含め、総ての遊廓の廻しの有無が書かれているので調べてみました。

それによれば、北海道は総て廻しをとり、東北でとらなかたのが塩釜と一戸町
北館の二箇所、関東の58箇所で廻しをとらなかったのが平塚と大磯の二箇所のみで、あとは総て廻し制でした。

中部を見ますと、豊橋より東は廻しをとる東京式だったのですが、面白いのは境界に近い島田遊廓で、豊橋の東で基本廻しをとっていたのですが、島田は東海道五十三次の一つ、大井川が川止めに合えば、川向こうの金谷遊廓ともども、長逗留の客の需要が発生するので、当然女が足りなく、廻しは必要不可欠だった事でしょう。

岡崎の西を見ると、関西は勿論、中国、四国、九州そして沖縄までたった一つ、三重県を例外として、総て廻しを取りませんでしたので、廻しによる関東と関西の境界は豊橋と岡崎の間に有りました。

長野がすべて廻しをとったのですが、岐阜は取りませんでしたので、県境が境界線ということになります。新潟は基本東京式でしたが、新発田は馴染みであれば廻しをとり、中条は内緒でとっていたので、一応富山との県境が境界といえるかと思います。

三重県の遊廓がだいたい廻しを取ったのは、明らかに伊勢参りの一つの目的であった伊勢の古市にひっぱられた格好で、日本四大遊廓のひとつに数えられた古市では、遊女に対する、圧倒的な需要があったので、それこそ廻しを取らなければ廻らなかったはずです。

このように基本県単位で廻しをとる、取らないがあったのは、三重県などを除き、県単位で、それを規定した条例があったはずです。

外地に目を向けても、樺太の遊廓は東京式で廻しをとり、台湾、朝鮮、満州に沢山あった遊廓は押しなべて、大阪式、廻しを取りませんでした。


by gionchoubu | 2014-12-24 12:11 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

橋本遊郭の歴史 その五

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左、隅田川、男 小野席恋香 おくみ 石原席小糸
唄 吉二、三絃 九二八、登司子、梅松、駒栄、秀勇、三太

右、日高川三面、面売 石原席豆一
唄 小石、百三、三絃 登司子、繁子、糸次、若竹

城南橋本遊廓歌舞奨励会(昭和二年技芸倶楽部十二月号より)

京阪沿線橋本遊廓では橋本倶楽部と称する演舞場に等しい建築物があっても何分娼妓が多数の為め、ツヒそれに圧せられて芸妓達の技芸を磨く費用の出所がなく、又その倶楽部も料理屋本位の旅館経営を目的としている。

其処で芸妓側の有志者が奮発組織したのが養昭会といふ、謂ば技芸練習の団体、そして高橋某といふ長唄師匠を迎へ、舞踊師匠はこれまで通り八幡に住居する石原某で全員が稽古に精を出し発会式と云ったやうな歌舞奨励会を十一月五、六の両日前記の倶楽部で開催した、感心なのは舞踊はすべて衣裳附大道具入、夫にも拘はらず無料公開。

芸妓を多数抱えて居る楼主がチビリチビリ盃を傾けながら喝采を絶叫する、夫ればかりではなく、誰か賞めないか、喝采をせないか、成駒家とか、高麗家とか、何とか声をかけるものはないのか・・・と。

兎に角斯うした、一粒選りの奨励会が催されたのは何処かに声援家があるからだらう・・・など思はせたが長唄はまだ感興を惹くまでには至って居らない、併し舞踊は思ひの他(少々見くびっていたかもしれぬが)の出来栄、中にも「鞍馬獅子」の郷の君、喜三太は特に光っていた。

踊る妓は言葉もハッキリ、此廓の味を高く買って遣らねばなるまい。写真以外の番組は、

松の名所(舞)恋香(唄)小石(三絃)九二八、登司子、吉二 
さらし女(舞)三長(唄)吉三、三太(三絃)九二八、繁路、君香、種栄
長唄 秋の色種(唄)吉二、〆奴、松代、小石(三絃)九二八、時二、春千代、君香
保名(舞)金丸(唄)松代(三絃)政次、駒栄、一奴、加壽一
長唄 時雨西行(唄)時二、松代、長六、百三(三絃)登司子、君香、糸次、梅松
長唄 俄獅子(唄)三太、三長、権八、良一、加壽一(三絃)時二、信次、秀勇、駒栄、繁路

*大阪では置屋の事を~席といいます。奈良や和歌山でも席は使われました。
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上、鞍馬獅子、郷の君 石原席千代三、喜三太 大君席千歳
唄 小石、百三、三絃、登司子、小初、政次、長六、春千代

下、吉原雀、女 石原席鈴太郎、男、奥西席君香
唄 〆奴、三太、小石、三絃 登司子、駒栄、豆数、梅松
by gionchoubu | 2014-12-22 11:51 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

橋本遊郭の歴史 その四

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昭和十二年の橋本の業者を総て記すと、石原楼、榮楼、石季楼、西幸福楼、稲葉楼、よし歌、鯉初楼、民乃家、一富士楼、辻よし楼、辻よし楼支店、岡田楼、小野家、巴楼、小川楼、大きん楼、友栄楼、第二友栄楼、星川楼、織家、増仲楼、吉元楼、いろは楼、華松楼、繁の家、小金川楼、土家楼、辻井楼、嶋辻楼、中村家、第二中村家、大和家、花家、萬喜楼、吉野楼、南佐楼、菊水楼、竹沢楼、久保田楼、多津美、京山楼、賑楼、三枡楼、第二三枡楼、第三三枡楼、京華楼、第二京華楼、第三京華楼、増田楼、前田楼、高瀬楼、第二高瀬楼、一福楼、東幸栄楼、松久楼、幸福楼、深川楼、福本、富士太、ふじ雪、一橋楼、鯉谷楼、昌栄楼、宝春楼、つぼみ楼、吾妻、山勝、鶴の家、辻安楼、ひさご楼、幸栄楼、勝山楼、玉家、新京福、ます家、長榮楼、和泉楼、三盛楼、第二幸福楼、朝日楼、平山楼、森川楼、森田楼、松よし楼、大山楼の八十五戸

郭内は殆ど貸座敷で占められていたのですが、その他、正福寺、金比羅神社、巡査駐在所、郵便局、歯医者、紹介業、履物屋、結髪業、化粧品屋、煙草屋、雑貨家、文房具家、仕出家、十数軒の飲食業、公会堂、理髪店そして橋本湯がありました。この中で理髪店と橋本湯は今も営業されています。

戦前、戦中、戦後あたりの橋本遊廓の様子は分からないのですが、昭和三十年、『よるの女性街・全国案内版』で渡辺寛は大店として辻よし、石原を挙げ、業者七十五軒、娼妓二百六十二名としております。

同じ頃『日本花街誌』の第二章、紋章の研究で加藤藤吉は、紋章もないのに橋本に一項を設けて、「行事も催さなければ、宣伝の必要もなく、極めてのんびりと朝に京の客を送り、夕べに大阪の客を迎えている頼もしさである。」と結んでいます。

この後直ぐ、昭和三十一年五月に成立した売春防止法で二年間の猶予を経て、遊廓前面廃止が決定づけられると、橋本の貸座敷業者は自民党に集団入党して実施延期を要望しましたが、当然の事ながら、この決定が覆ることは有りませんでした。

結局、橋本遊廓の廃止にまつわる歳費の減少で、八幡市の年間町民税の三分の一、300万円の町税が減少、八幡市は財源に苦しみながらの財政運営に直面することになったのです。

いかに橋本遊廓が財政面で市に利したかを『八幡市誌』は、その経過をそのままに書いているのです。多くの市史、町史が地元にあった遊廓の存在すら触れていないのを鑑みれば、その昔、橋本の遊女は雇い主の籍に入り、宗旨を同じくしたという古文書の事例と合い通ずる気風といったものがこの地にあるのかも知れません。

さて、遊廓廃止の前後より、橋本は地区内の鉱水に炭酸鉄泉が規格に適合するとの判定を受け、淀川温泉の名称で温泉地の道を模索し、数軒の温泉旅館が誕生しましたが、集客が思うようにいかず、昭和52年に解散しました。

多津美旅館さんについて・・・現在多津美旅館として内風呂を持ち、女性客はお断りして、男性のみ、ビジネス客や職人さんなどを顧客とされていますが、もとは大工であった先代のおじいさんが京阪駅前、今の理髪店の道路挟んだ左斜め前で貸座敷を開いたのですが、後日現在の場所、いろは楼あった場所に移転しました。音無川から淀川を見渡せる立地は、橋本の中では一等地と思われます。私も宿泊させていただき、色々お話を伺うことができました。

参照:橋本遊廓沿革誌
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                    画像はすべて多津美旅館さん

by gionchoubu | 2014-12-15 11:16 | 京都の花街・遊廓 | Comments(2)

橋本遊郭の歴史 その三

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娼妓本位の色里ながら、芸妓数も六十人を数えた大正十一年、橋本が立派な歌舞練場を作ったのは、遊廓から花街への転進を考えたというより、娼妓と芸妓共存の廓を目指したと考えるのが自然です。

ところが皮肉にも、歌舞練場が完成すると。全世界的な金融恐怖による恐慌がはじまり、娼妓の数は増加の一途を辿れども、芸妓の数は減りつづけ、昭和四年には貸座敷は七十四戸、娼妓も三百七十三名に達したのに、芸妓は三十三名と半分になり、仲ノ町にあった娼妓検査場(駆黴所)も、鯉谷政次郎取締の元、歌舞練場に移されました。

この頃主な妓楼として第二中川楼、第一勝山楼、第一成駒楼、辻本楼、第一友栄楼、藤井楼、森田楼、辻よし、大金楼などが挙げられ、店は陰店式(表に店を張らず、くぐりを入って、表から見えない処に店を張る張る事)、娼妓は居稼ぎ(芸娼妓が抱え主の家で客の相手をすること)もあれば、送り込み(芸娼妓が置屋から派遣されること)もありました。

女は中国、四国、九州方面が多く、昭和四年頃の娼妓の費用は一時間遊びが一円、引過ぎからの一泊は五、六円、一方芸妓の玉代一時間が一円五十銭で二時間目より一円でした。ちなみに同時期祇園では一時間遊びが二円で二時間目から一円だったので、祇園と橋本の花代はさほどの開きが無かった事になります。

この頃の橋本の環境は、景色がよく、夏は涼しく、多くの綱船が出漁して、夜間は不夜城、川岸に弦歌さざめく遊興の地でした。

昭和九年四月二十四日、取締役石原伝四郎の時には、組合に功労あった故正副取締役十四名とやはりこの廓で無くなった芸娼妓を追悼する慰霊祭が行なわれました。

そして昭和十二年、貸座敷数八十六戸、芸妓三名、娼妓六百七十五名の賑わいを見せ、再興五十周年を向かえ、石原伝四郎取締の手により祝賀式挙行、記念碑建設そして橋本遊廓沿革誌が橋本地域貸座敷組合事務所より発行されました。

この昭和十二年は、数の上では橋本遊廓の最盛期となりました。しかし増えたのは娼妓の数と実質的な在阪の楼主の利益のみで、せっかくの歌舞練場は本来その名前の目的で使うことは殆どなかったはずです。
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                  見事さに息をのむ橋本の妓楼郡

by gionchoubu | 2014-12-13 12:04 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

橋本遊郭の歴史 その二

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江戸時代、橋本には数十件の妓楼があったとされたものの、明冶五年十月二日、太政官布告295号、即ち娼妓解放例で全国の遊里は大打撃を受け、橋本の廓も中断を余儀なくされました。

さらに明冶十年、淀川対岸に当時の国鉄、京都、大阪間の東海道線が開通したため、橋本は対岸に繁栄を奪われ、決定的な衰微に見舞われます。

娼妓解放令の後、それこそ数百年、旅客に酒、魚、茶菓子を提供し、遊里で糧を得ていた人達に遊廓はだめだ、商売を替えろ、正業に就け、といっても途方にくれるばかり、生活に困り他所に移るものあり、橋本は寂れるばかり、もっとも手早く地域の賑わいを取り戻すには、けっして良策とはいえないでしょうが、遊廓復活しか道はなし、そこで明治二十年六月、知事の許可を受け、遊廓区域橋本駅として見事復活したのです。

再興と同時に貸座敷、芸妓、娼妓、引手茶屋、紹介業による五業組合を設立、場所は仲之町の十番地、組合長は奥西松之助氏で、貸座敷七戸、芸妓九名、娼妓九名の小規模な再スタートでした。

当時の橋本遊廓は木津川警察署の管轄の為、営業鑑札は木津川警察署から受けたものの、芸妓税などは娼妓検黴場の所在地の関係上伏見警察署に上納しました。

その後八幡紡績会社をはじめ、工場などの設立もあって明冶三十年、取締植村藤吉氏の元で、貸座敷十三戸、芸妓十余名、娼妓二十三名になりました。

明冶三十三年、京都府令第百号を以て貸座敷取締規則公布を期に、五業組合を解散、橋本地域貸座敷組合と改称、貸座敷十三戸、芸妓十一名、娼妓三十九名

明冶四十年、貸座敷二十一戸、芸妓十六名、娼妓三十名

この橋本に明冶四十三年に京阪電車が開通により、京都、大阪の境界にある橋本にはどちらからもアクセスがあるという地の利を得、そして男山八幡への参詣客の増加、さらには第一次世界大戦による空前の好景気も追い風になり、大正十一年に貸座敷四十六戸、芸妓六十名、娼妓百二十七名と数倍の規模になりました。

この頃が橋本に一番芸妓がいた様で、同年七月、焼野に十万円をかけ、辻本幸之助取締の時代、立派な歌舞練場兼芸娼慰安余興場を建設しました。その中には料理部も兼ね備えていました。

大正十一年に是だけの歌舞練場を持つ花街はそうそう無く、地元の人が今でも、この歌舞練場を誇りに思うのは肯けます。
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                      歌舞練場跡

by gionchoubu | 2014-12-11 12:31 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

橋本遊郭の歴史 その一

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江戸時代初期の様子を捉えたとされる、大阪城天守閣蔵『大坂市街・淀川堤屏風』に、淀川にせり出した二階の座敷で、茶屋女が男に酒を注ぎ、その隣の茶屋でも茶屋女と戯れる男が描かれているのを見ると、橋本遊廓は京と大阪を結ぶ遊里として描かなければならぬ存在だったのでしょう。

橋本の芽生えは古く、神亀元年(724)聖武天皇が山崎に寺院を建立し、宝寺と称して勅願所とし、毎年奈良より勅使を差し遣わしたのですが、当時附近の川に橋が無かったので、行基菩薩が神亀三年山崎の橋を作り、この橋の東の袂を橋本の津と称した事から始まるとの事です。

程なくここに一軒の茶店ができ、通行人の休息所となり、茶汲女が遊女化したのは何時のことか、とにかく京都府内の遊里としては、一番歴史があると言えると思います。

ここから大阪に入れば、平安期から栄えた江口、神崎、蟹島の里があり、舟着場には、小船に棹さし、客船に媚を売り、旅客の無聊を慰める遊女がおりました。

橋本遊廓は西に天王山、東に男山に挟まれた景観の地であり、さらに岩清水八幡宮の門前町の要素もあり、遊廓の類型でいくと港型、宿場型、神社仏閣門前型、さらには観光地型、そして史実にも口伝にも乗りませんが、精進落しの口実でここにお世話になった人がいたと考えても不思議ではありません。

宝暦年間、俳人蕪村が宝寺より帰るとき「若竹や橋本の遊女ありやなし」の句を残しているのを見ると、長い江戸時代、橋本遊廓は或ときは大いに振るい、また或ときは寂れもしたのでしょうけど、蕪村が橋本といえば遊女と連想したぐらい有名な色里だったわけです。

明治維新前は西国大名上洛往還の要路にして人馬中継の駅場だったので、橋本駅と称される場合もありました。

橋本の遊女は雇い主の籍に入り、宗旨を同じくしたとの古文書あり、つまりお抱え側に手厚い保護を受けたわけで、小松の串茶屋で、遊女が楼主の墓に名を刻む例を私自身見た事はあるのですが、これは異例の扱いと思えます。

ただし、天保前の遊所番付ではかなり下の位、京都の五条橋下が同じぐらいの位置にあります。歌舞伎『双蝶々曲輪日記』あるいは人形浄瑠璃『引窓』の橋本の里もこの橋本遊廓の事です。
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by gionchoubu | 2014-12-09 12:22 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

宇治の花街

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                       花やしき
宇治の旅館として名を馳せる花やしきが創業したのは明冶二十六年、現在あじろとして喫茶室を営まれている網代が料亭として商売を始めたのが明冶二十九年、平等院の門前としてののみならず、京都から格好の小旅行地として、春は桜、夏は蛍に鵜飼、秋には紅葉と、ここで芸者遊びをすればさぞかし楽しいだろうと考えるのは人情というものでしょう。

しかし花街ができたのは、大正の初めらしく、それまでは中書島やあるいは仲居同伴で京都から芸妓を呼んだので、これは京都でお茶屋遊馴れをした旦那衆に限られていたものと想像するに難くありません。

昭和四年刊、松川二郎による『全国花街めぐり』によれば、それまで旭検という一検番制だったのが、昭和三年分離して都検ができ二検番制になりました。旭検に属する置屋十一軒、芸妓三十四名、都検には置屋五軒、芸妓八名だったの事、この規模で二つも検番ができたのは、何か確執みたいなものがあったのでしょうか?

この花街については市史にも載らず、地元の人も全くといっていいほど気に掛けておらず、実際名妓なども出ず、検番ができた後も、宇治に頼らず、京都から高い費用を出して芸妓を呼ぶ人も多かった様です。

実際、ここの芸妓は宇治名物「茶の木」と「狸」をかけてチャヌキなどど呼ばれ、先斗町が一本二十七銭、祇園甲部で三十五銭の時、一本十銭とこれまた軽便で祝儀とかも必要ありませんでした。

当時の主なる料亭、旅館に花屋敷、亀石楼、菊屋、公園菊屋、鮎屋、百々夜、みなと屋、酒一、入船、佐々木、月の家、梅月、網代など、花屋敷は現在の建物の後ろに木造の立派な建物が残っており、当時の風情を良く残しています。

宇治の座敷で歌われたのが茶摘唄で、一名投節とも言われたとの事、江戸のつぎ節、新町のまがき節、島原のなげ節と各遊里の代表節のひとつの島原の投節と関係あるかは分からないのですが、松川次郎は投節とは「なげるとは声を鼻に抜くの意、悠揚として又婉な節廻」と合理的な説明をされているので、投節の歌詞と茶摘唄の節をヒントに(私は聞いたことがありませんが)、伝説の投節の再現を試みる人があっても良いと思います。

今のあじろさんは昭和十九年に大阪から疎開でここを購入されたのですが、戦後もしばらく芸者は細々と商売されており、母屋が住友銀行の寮として契約される以前に呼んだ事があるとの事でした。

ちなみに網代は宇治の昔にあった漁方です。

*『京都年鑑』に昭和三十八年の宇治芸妓組合に、平岡千代の元、十人芸妓がいたことになります。(2016,3月7日付記)
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                       かつての置屋街

by gionchoubu | 2014-12-07 12:53 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その十七(白梅図子)

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               白梅図子(通り)から白梅図子(遊廓跡)を望む
小判鮫型 江戸期の現大阪市内の遊所をみると、単独で存在した小さい遊所もありましたが、遊廓が幾つか集まり、群を形成したところがあります。これらを仮に馬場先群、曽根崎新地群、堀江群、宗右衛門町群、新堀群とすると、曽根崎新地、堀江、宗右衛門町は超一流、馬場先、新堀は二流といったところなのですが、その核となる花街の近くにとてつもなく下等な遊廓が、おこぼれを頂戴する小判鮫の様にぶら下がっていました。

曽根崎新地には、骨堀(こっぽり)というおどろおどろしい名前の遊所が今のアメリカ総領事館あたりにありました。堀江にも長六茶屋という品格最も劣悪なる遊所があり、娼婦の顔は銅版の如く、腰は石臼に似て、路上に立ちて通行の人を捉えたといいます。宗右衛門町には南坂町に髭剃と呼ばれた遊所、そしてもう一つ灘波入堀沿いに幽霊新地という下等遊里があり、妓家より半身を出してもしもしと招いたといいます。

新堀のちかくにあったのは羅生門とどぐろ、通行人がいるとむりやり妓楼に引っ張り込み、銭の持ち合わせがないと着物を剥いだから羅生門。さらに、どぐろは川の石垣の間に潜む魚で、釣り糸が垂れると餌に食いつき、石垣に入り込む始末に負えない魚がその名が由来なのでどんな所か推察できます。馬場先は生玉神社界隈の遊里で、近くには尼寺前とか六万体に下等な遊女がおり、近くの坊主共を餌食にしていました。

実は、別のブログでかつて存在した大阪の遊所を“亡くなった大阪の遊所”として、数十箇所追い求めた事があるのですが、ある日突然、原因が分からぬまま、他の内容含めて300回以上分、六年かけたブログが消えてしまいました。
バックアップをとっていなかったのが残念。いつか再挑戦したいと思います。

これまで私なりに遊廓、花街の成立過程を主にして類型を試みましたが、類型にはいらない遊所もでてきます。たとえば京都で盧山寺の北にあった白梅図子といわれた下等遊里はどのグループにも属しません。

すぐ西が御所にもかかわらずこの遊所が明冶まで存続し得たかは、その成立過程に秘密があるようです。

ここの住民はもともと、元禄に新松屋町、そして安永に夷町に住んでいた二町から成るのですが、元の住居を幕府所司代邸拡張の為召し上げられ、代替地としてこの地を与えられたものの、住民が移転費用に困り、煮売茶屋を申し出てこれが認められ、いつしか遊女をおく茶屋になったという過程があります。現在の新夷町がそのまま嘗ての白梅厨子になります。

幕府としては、何の落ち度もない住民を無理やり先祖代々の地から追い出したという負い目があり、いわば黙認の形をとったものだと思うのですが、どうでしょうか?

この白梅図子、名前はきれいなのですが、ここに行くと虱がうつされるので、しらみのずしとも呼ばれ、天保前の諸国遊所競でも、前述の大阪のどぐろ、尼寺(前)羅生門、こっぽりらと最下列の最後のほうでひしめきあっています。

田中緑江さんが『亡くなった京の廓』で白梅図子の様子を老人に聞き取り「白粉をベタベタつけた醜い女が寺町辺やお車道へ出て客を引いているのを見た、首に膏薬を張り首の曲がらない女がいて恐くてよく行かなかった」という話を紹介しています。

『京都坊目志』では、この白梅図子のすぐ南に藪之下という下級遊所がありましたが、今は九軒町、盧山寺の東の駐車場辺りだと思います。この藪之下の由緒は、藪の下にあっただろう以外何も分かりません。


by gionchoubu | 2014-12-06 14:18 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)