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遊廓、花街の類形 その十四

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                 呉の朝日町にその形跡を見ることはありません。
軍港型 横須賀は海軍の町で鎮守府、海軍工廠、水雷団、水雷学校、海軍飛行場もあり、この鎮守府の開設と共にできた海軍御用達の遊廓が横須賀市遊廓で、昭和の始め、貸座敷が二十六軒ありました。

佐世保も一漁村であったのが、軍港になると一気に発展して明冶二十六年に勝富遊廓が設立されました。さらにこれだけでは需要の追いつけなかったのか、明冶四十三年に、花園遊廓が誕生し、妓楼が五十軒も立ち並びました。

呉市にも鎮守府が置かれ、江田島には海軍兵学校があり、それまでの一小村が軍港になると、昭和の始めには岡山市を超え、二十万人近い人口を抱える都市になり、明治二十年に吉浦遊廓、続いて明冶二十八年に朝日町遊廓が許可され、後発の朝日町の規模が先発の吉浦遊廓を大きく凌いだのは佐世保と同じ経緯を辿ったようです。

新舞鶴町竜宮遊廓も明冶三十四年鎮守府が出来ると設立され、軍縮以前は貸座敷が四十六軒あったのですが、軍縮後の昭和の初めには貸座敷が二十九軒に減少したのは、まさに軍港型の遊廓だったからに外なりません。もう一つ中舞鶴遊廓も軍港が咲かせた花で、加津良遊廓とも呼ばれ、開業は明冶三十八年でしたが、昭和十八年には海軍命令で、遊廓全家屋を明け渡したといいます。

陸軍型 師団のある都市には遊廓がありましたが、たいがい他の類型との併用型で、一時期大いに遊廓、花街を潤しました。ただ、軍都型として独立したと言える遊廓は案外少ないようです。其の中で、香川県善通寺町の遊廓は日清戦争後、乃木将軍が師団長時代できたもので、軍人の為の遊廓でした。

新潟県の小千谷町遊廓も明冶四十三年、附近に工兵大隊が出来たので必要に迫られ開設したもので、陸軍型の遊廓と言えます。さらに、その他城址が兵営として使用された千葉県佐倉町遊廓もこの類型に入るはずです。

戦前の花街に目を向けると、最盛期には芸者が千人を超えた浅草の花街に於いても、陸軍の将校たちは花柳会の上得意客で、お金はうなるほど持っており、軍人だけに遊びも派手で、一晩で、多くの半玉(舞妓)を引き連れて待合(お茶屋)を何軒も渡り歩いたといいます。

しかし日中戦争が始まると、出征兵士を送る会が重になり、日の丸を背に掛けた若者を料理屋の大広間で送り出す壮行会に芸者が呼ばれ、死んで帰るつもりの当人と、ドンチャン騒ぎをする事が多かったようです。

そして戦時下の昭和十九年には企業整備令が発令され、料亭も置屋も閉鎖、多くの芸者は花街を離れ、疎開地に赴きました。

参照:全国遊廓案内、日本遊覧社・お座敷遊び 浅草花街 芸者の粋をどう愉しむか、浅原須美著
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               呉市吉浦も面影は無いのですが、面白い意匠がありました。

by gionchoubu | 2014-11-29 12:35 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その十三

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開拓型
 江戸時代の北海道の遊里は港型がすこしあったぐらいでしたが、明冶になって開拓型、そして漁港型と言える遊所が現れました。

北海道の開拓事業を至上命令に官員、屯田兵、土工夫、囚人が国家事業として送られたのですが、基本これらの人は男達で、この厳しい環境の中、囚人は別として彼らに居づいて仕事をしてもらう為には遊廓は必要かつ絶対条件でした。

「此の地開びゃくのはじめ、花の都の東男の職人ども多く来ませしかど、まだその頃は人家もなく、まして女もあらざれば殊更に冬の肌寒く、独り寝の夢冷やかかく、もぼろしに都の親戚(みより)思い出て、目にちらつき仕事も手につかず、一人逃ぐればまた一人、一夜一夜にカマド減ず」開拓当初の札幌の様子を新聞記者が書いており、これが当時の職人の現実でした。

そして明冶四年、札幌の野原の真ん中、一面薄野の原に誕生したのが薄野遊廓だったのです。「女郎屋、また開拓の一端といわざるべきや」といったところで、松本十郎判官も根室に赴任するやいなや、遊廓を認めました。

室蘭は安政頃より、数件の旅館が遊女をおき、港型の遊里を形成していた様ですが、明冶五年開拓出張所が設置されると、新開地である新室蘭の沢町、常磐町に移転、さらに明冶二十年に屯田兵の輪西移住、炭?鉄道会社の工事が始まると幕西に移転、開拓型の遊廓として生まれ変わりました。

苫小牧浜町遊廓もこの流れで、女で居住民を?ぎとめる目的で開設したようです。

漁港型 江差も松前藩の頃は港型遊里にて、私娼といわれる女達が渡世していましたが、安政年間頃から繁昌し、輪通い小路に一時的に貸座敷が許可されたり、影の町に遊里が出来たりしたのですが、明治二十五年に新地が出来ると、影の町、切石町、上野町の業者が移り、芸妓、娼妓をおく遊廓が形成されました。

鰊漁期には魚夫、船頭、役人、商人、鰊仕込親方、廻船問屋が江差遊廓を陰に、表に支えました。

余市に沢町遊廓が誕生したのは、安政年間といわれ、魚場の繁栄はそのまま遊廓の繁昌につながり、その後全盛期には辻村楼一軒で、芸娼妓併せて四十名を数えたと言います。その他新今楼、梅川楼、柳田楼、さらに芝居小屋の亀遊座などが建ち、芸妓は江差、娼妓は東北地方から集まり、大正には料理店も並び、三、四、五月の漁業中は漁夫が二千人近くに膨れ上がり、海が時化れば、貸し座敷はこれらの漁夫で占められました。

其の他の北海道には、名を馳せた遊里に函館、小樽、旭川、根室などがあり、その他中小の遊里もいくつもあり、樺太にも豊原町遊廓、真岡町遊廓があり、樺太を含む北海道の遊廓総てが廻し制で、娼妓は居稼でした。

参照:北海道遊里史考、小寺平吉著


by gionchoubu | 2014-11-27 12:09 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊郭、花街の類型 その十二

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植民地型 昭和五年に発行された日本遊覧社『全国遊郭案内』は当時の国内の遊廓のみならず、台湾、朝鮮、満州の花街、遊廓にまで言及していますので、これを一つの類型とします。

外地に遊廓ができたのは、ほぼ明治三十八年、日露戦争講和後のようです。

本土から植民地に住む人は男性の方が多く、暫らく海外に滞在していると直ぐ内地の女性が恋しくなり、必然として娼妓、芸妓とも日本の女性が需要が多くなり、料金も嵩張りました。

植民地の遊廓で、娼妓は総て廻しをとらない(一夜で客のかけもちをしない)のは業者が関西から来たことを暗示しています。廻しついてはいずれ一項を儲け私なりの解釈を述べたいと思います。また芸妓、娼妓も居稼ぎで送り込みがなかったのもこの類型の大きな特徴です。

今回の植民地型は当然昭和初期までの外地の花街・遊廓の傾向であることを念頭に以下地域ごとに纏めてみました。

台湾 一番規模が大きかったのは台北市萬華遊廓で、貸座敷約六十、娼妓は約五百六十人です。芸者、娼妓そしてこの両方を兼ねた所謂二枚鑑札の芸娼妓で構成されていました。彰化遊廓は日本人中心で少数の朝鮮人が居ました。花連港遊廓は日本人と朝鮮人がほぼ同数で貸座敷約十軒。台中初音町遊廓は貸座敷十八軒。嘉義遊廓は貸座敷十軒。台南市新町遊廓は貸座敷十四軒に芸妓七十人、娼妓百十人で広島県次に長崎、熊本の女が多く、日本人のみで構成されていました。この新町遊廓と小川一筋を隔てた所に総て台湾人の芸妓百九人、娼妓九十四人の台南市台湾人遊廓があり、この台湾人芸妓は唄、舞踊、鳴物総て中国式でした。高雄市栄町遊廓は明治三十八年に旗后に設置されたものが大正八年に栄町に移ったもの。馬公街遊廓は明治三十九年に許可されました。

朝鮮 釜山牧島遊廓 明治四十二年頃設置。貸座敷十五軒、福岡、長崎の芸娼妓が多い。釜山緑町遊廓、娼妓は九州方面が多い。鎮海面遊廓は日本人中心。馬山壽町遊廓の娼妓は総て朝鮮人で、経営者も朝鮮の人が中心。その他馬山には萬町、元町、幸町に遊廓あり。吉野町遊廓は日本人娼妓中心。晋州面大河洞遊廓は朝鮮人娼妓中心。方魚里遊廓は娼妓二十人。大邸八重垣町遊廓は娼妓約五十人。大田面遊廓は九州の女三十人、朝鮮人の女二十人。金州相生町遊廓は娼妓五十人の半分は内地人で半分は朝鮮人。郡山府には新興洞遊廓と山手町遊廓が有り、共に娼妓六十人程。仁川郡敷島町遊廓の娼妓は二百人位で大多数は日本人。木浦遊廓は大正三年に許可。京城府弥生遊廓は殆ど日本人、二枚鑑札が多い。京城府新地遊廓は九百人もの娼妓がいるが日本人、長崎、熊本、福岡の女が多い。兼二浦面遊廓、土地に三菱製作所があって、大正七年頃は好況で貸座敷が十九軒程あった。鎮南浦碑石里遊廓は貸座敷九軒。平城府賑町遊廓は貸座敷五十五軒に百三十人の朝鮮人娼妓に内地人(主に長崎人)娼妓百五十人。元山陽地洞遊廓に妓楼八軒。咸興花咲町遊廓に貸座敷約十軒。羅南面美吉町美輪之里遊廓には内地人娼妓六十人に朝鮮人娼妓六十人。清津星ケ丘遊廓には朝鮮人娼妓三十人、日本人娼妓はおもに長崎県人で百十人。会寧面北新地、沿革は明治三十九年の日露戦争直後に日本料理店四件が開業して芸妓を置いたこと始まる。会寧面山同遊廓の娼妓は三十人。

関東州地方 大連小崗子、明治四十一年に表面的には料理店として開業し、酌婦の名目で娼妓を置き、料理店二十九軒に娼妓然の女二百七十人居る、日本人以外中国人の妓もいる。大連市逢坂町遊廓、明冶四十年に料理店の名目で始まる。店は七十軒もあり芸娼妓九百人の内二枚鑑札が四百人、娼妓は五百人、娼妓内朝鮮人は百五十人で日本人娼妓は九州、四国の女が多い。旅順支那町、明治三十九年に開設、乙種料理店の名の下、芸妓三十人に酌婦(娼妓)百十人。

京都の豊国廟の入り口に大阪の六遊廓、新町、松島、北新地、堀江、南甲部、南乙部が奉納した一対の献灯があります。明冶三十年、日清戦争直後に寄進されたものなのですが、その理由がネットの情報によると、二度の朝鮮出兵した秀吉を顕彰することで、国策の載って遊廓の海外進出を目論んだという趣旨がありました。

その後、明治三十八年、日露戦争による権益でその願いは叶ったのですが、台湾、朝鮮、満州の遊廓のシステムが、廻しを取らぬ、居稼形式の大阪乙部遊廓のそれと一致するのと、内地、即ち日本人の妓が西日本、九州の女性で構成された事を考え合わせば、ほぼ灘波新地(南乙部)新町、松島の業者で植民地の遊廓が運営されていたと見て良いと思います。

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by gionchoubu | 2014-11-24 14:29 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その十一

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                京都府 綾部 月見町は花街の風情をよく残します
城下町の花街・遊郭の成立過程はさまざまで、江戸の吉原や大阪の新町は前も述べたようにC 人目につくところから隔離を目的としたもので、幕府の意向に添い出来上がりました。

ただし大阪でも、新町以前に幕府でなく大阪城代が許可した今の道頓堀、ちょうど松竹座の裏あたりにあったとされる下灘波領の遊里は、その後非合法遊里としての起源を持つ島之内や北之新地と同じくBの人を集めようとした処に入るはずです。

もう一つの大都市、名古屋の築城の際できた飛田町の遊郭はA の人が集まる所に設置されたものの、その役目が終わると廃止の憂き目を見たのですが、異端の殿様宗春が七代目尾張藩主として赴任すると、西小路さらには富士見原、町に遊郭を新設しました。これは経済活性の目的でBにはいります。尤もこの試みは宗春失脚のため十年持たず、以後名古屋市中心には明治まで遊所というものが有りませんでした。

宗春が異端だった事で浮かび上がるように、江戸幕府は、特に元禄の奢移時代の反動で、以後極端な倹約令を引き、遊郭や芝居などは目の敵といった具合であり、城下に城代公認の遊里は中々持てなかった筈です。

ですから東海道を通る、浜松、吉田(豊橋)、岡崎などの城下町にあった遊里は非合法であり、宿場型として飯炊き女の名目で遊女を置いたものです。

江戸から離れた金沢の東廓は外様の加賀藩が散らばっていた茶屋を集めて公認したものですが、文政三年(1820)設置となれば江戸時代の終盤ですし、彦根の袋も藩政時代には無く、明治になって幕府の箍が外れて開業したものです。

ただ私としては、龍野、赤穂などの小城下町型花街といった類型は可能だと思いますので今後の課題としたいと思っています。

企業城下町型として、一つの企業が独占に近い形で遊郭、花街を支えていた類型が成立するかもしれません。

綾部の月見町の花街と、この町に大きな影響をもつ婦人衣料メーカー、半田市の花街と上客であった大手醤油メーカー、小松市にかつて存在した、特定の企業と従業員御用達の様な遊郭といった具合ですが、こちらも現在資料集めの段階です。




by gionchoubu | 2014-11-21 11:52 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その十

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鉱山型 佐渡の金山を頭に描くと、暗い坑道で命がけで金を掘る罪人達ぐらいの刷り込まれたイメージしか湧かないのが普通だと思うのですが、坑道を出て暫らく歩けば、我々が想像していなかった世界が展開されていたのです。

『慶長年録』(1603)に「佐渡の国に金山繁昌して京・江戸にも御座なき程の遊山見物、遊女等充満す。国々より来る金穿、町人等かようの遊興にふり、元手を失ひ候て悉く疲れ、国元へ帰る事なき者数をしらず」

集まったのは金穿、町人だけでなく、遊女化した熊野比丘尼、六条三筋時代の遊女歌舞伎、さらに世阿弥が流された所以もあって能演も盛んに行なわれました。

『慶長見聞録安紙』によれば、慶長八年の春から女歌舞伎が諸国へ下り、出雲阿国も最初佐渡に渡ってから京都で歴史的な上演をしたことになっています。

もう一つ『慶長見聞集』に、京都の六条三筋の廓を拠点として、遊女歌舞伎の有力な主催者であった佐渡島某、さらに同時期遊女歌舞伎の男舞歌舞伎の大スター佐渡島正吉という遊女、さらに大阪の新町開廓に手を貸した佐渡島与平、新町には吾妻太夫を出した佐渡島屋や新町の一角を占めた佐渡島町、さらに京舞の源流に佐渡島流という流派も見え隠れし、これらは佐渡と京・大阪を結んだ糸が存在した事を如実に物語っています。

佐渡の鉱山は当初、鶴子銀山が主で、遊里も山先町と柄杓町に開かれました。藤本箕山の『色道大鑑』に、諸国二十五箇所の公許の遊里として、江戸の三谷、京都の島原、大阪の新町とならんで、佐渡国鮎川山崎町と紹介されているのはこの為です。

山先町の遊女町は、享保二年(1717)に町の北端、海岸近くの水金町に移転し、昭和の時代まで存続しました。佐渡には江戸時代に、廻船商人によって栄えた、港型の小木町遊里もありました。

銀山に栄えた遊里に、秋田県雄勝町の院内があります。遊廓設置が認められたのは元和三年(1617)で吉原より早いのですが、なぜか『色道大鏡』から外れています。万治三年(1660)『院内銀山記後編』にその成り立ちを「当山繁栄のあまりにや、遊女白拍子の下り始ては慶長十三年の秋の頃、始て京都より五人下りしが、是を始として聞及聞伝へ、毎年ここ三ケの津より美目すぐれたる遊女歌伎の輩下り集りける程に、当山あら町といふ処に傾城白拍子夜発の輩二百余人ぞ徘徊す」

さらに「其内に過半は太夫と号し、諸芸世の常の白拍子にすぐれ、琴、三味線、浄瑠璃にうたはいふに及ばず、連歌、俳諧、謡、鼓に至るまで達したるもの共なり」とここでも高級遊女ぶりと、色濃い京都のつながりを感ずる事ができます。

鉱山型としてもうひとつ、銅山の発掘以後出来た栃木県足尾遊廓も好景気時代は豪遊を極めた町として挙げなければいけません。

鉱山型に金山、銀山、銅山ばかりでなく、明治に出来たものに筑豊炭田と共に発展した、炭鉱型として福岡県直方二字町の遊郭があり、当初私娼中心の溝堀花街として炭鉱労働者を相手にしていましたが、明治四十一年、二字町遊郭として公許になりました。

参照:佐渡金山、磯部欣三・江戸遊里盛衰記、渡辺憲司


by gionchoubu | 2014-11-19 15:43 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その九

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      串茶屋民俗資料館に掲げられた有りし日の花魁には、遊芸に長じていた様子が見て取れます。

観光地型 城下町や神社仏閣型や宿場型などとの複合の名勝、観光地の花街はいくつかありますが、純然たる観光地に出来た花街はほんの少数派です。

ここでは身近な所で、宇治にあった花街について『全国花街めぐり』松川次郎著をもとに紹介します。

平等院はもとより、宇治は昔より京都から遠出の格好の景勝地として好まれた土地で、春は桜、夏は蛍や鵜飼、秋には紅葉と一年通して遊興の地でしたが、長らく花街といったものはこれ無く、芸妓が現れたのは大正初年頃で、それまで好事家といった者は伏見や京都の馴染みの茶屋から、仲居同伴で芸妓、舞妓、地方を呼んでいたので、花代は大変高くつきました。

そこで目ざとい人が免許をとって旭検を立ち上げ、その後昭和三年に分離して都検が出来、その頃で旭検に置屋十一軒、芸妓三十四名、都検にも置屋五軒、芸妓八名いましたが、花街の成立の性質上、これといった名妓など生まれませんでした。

芸妓が入るのはお茶屋でなく旅館で、花屋敷、亀石楼、菊屋、月の屋、鮎屋、入船など、芸妓は宇治名物「茶の木」と「狸」をかけ「ちゃぬき」などと呼ばれる事がありましたが、今は旅館がいくつか残るだけで、置屋もチャヌキも過去のものとなりました。

これと似た経路をとったのが、河口湖の花街で、初めは富士吉田から芸者を呼んでいたのを夏期は甲府から芸者の長期出張を仰いでいた不便を解消する為、小さな花街が一時期ありました。

大造営型 江戸時代、大きな普請がある時、公許の遊廓が出来る事がありました。代表的なものに、慶長十五年(1610)名古屋城創築のため、家康が許可した飛田屋町廓があり、現在の本町・長者筋、北は蒲焼町から南は広小路の間に娼家が集められましたが、万治二年(1859)火事で消失した際、本来の目的を終えたとして廃止されます。

もう一つ例を挙げると、『?憩記聞』に「女郎屋の開祖、木の下、府中屋、櫛林村、当村の茶屋女、那谷寺御普請の砌、微妙院様より御免にて茶屋女出来たり」とあり、加賀で那谷寺復興の際、前田利常公(微妙院)が、造営工事促進の為、小松から通う建築に従事していた職人の慰安所として郭の営業を許可しました。

この串茶屋は明治時代まで約三百年に渡り北陸街道唯一の遊廓として榮えました。

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                    現在の串茶屋あたり
『串茶屋物語』串茶屋民俗史料館、『日本花街史』明田鉄男


by gionchoubu | 2014-11-16 12:36 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その八

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                     片山津温泉、大戦前でしょうか?
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                      同、大正時代に建てられた検番
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                 検番に温泉マークをを模った意匠がありました。
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             こちらも検番内、芸妓がお座敷にいるかどうか一目でわかります。

温泉型 『色温論』に「湯女はもと諸国の温泉にありがもとなるべし」との下りが有り、信仰的な湯治が時とともに、享楽的なものに移り、この風がやがて、大都市の湯屋、風呂屋に受け継がれていったのでしょう。

『有馬温泉記』に「昔の湯女は白衣紅袴の装束を着け、歯を染め黛を描きて、恰も上臈の如き姿を為し、専ら高位公卿の澡浴せらるる前後、休憩の折に当り、座に侍りて或は碁を囲み、或は琴を弾き、又は和歌を詠じ、今様を謡いなどして、徒然を慰むるを以てわざとせり。」とあるのですが、その昔の湯女こそ、建久二年に(1191)僧仁西が有馬温泉を再興して十二坊舎を置いた後、その坊毎の大湯女、小湯女の姿だったのかもしれません。

√鉄砲かついで来た山中で、しゝも撃たずに帰るのか

山中節にあるこの獅子は二枚鑑札の芸妓のことで、その意味は山中温泉にきて、芸妓を一夜妻に迎えないのは何とも無粋な・・・といった意味合いになり、この獅子の語源が、さらなる昔、この里に隠れ住んだ落ち武者の妻や娘が、生活苦の為、浅黄地の一反風呂敷をカツギのように頭からかむって、獅子のような姿で湯女に身をやつしたのが所似だと言われています。

とすると、有馬の昔の湯女も、地女でなく、こういったルーツを持つ人達であったなら、今様を歌い、和歌に興じ、碁を嗜む姿も理解できます。

さらに北陸温泉郷の芸妓は、

√鉄砲かたねて来た片山津、鴨も撃たずに空もどり

粟津温泉節にも

√鳥は鳥でも粟津の鳥は、男よろこぶ機嫌とり、

芸妓が片山津では鴨、粟津では小鳥、さらに山代温泉では太鼓の堂、芦原温泉でも夜叉と呼ばれ、それぞれ異名を持つのは面白く感ぜられます。

戦後の温泉芸者というと、決していい意味では用いられないのは周知の通りですが、温泉芸者も玉石混合、湯河原温泉の芸妓・おかめさんの生涯を追った『温泉芸者一代記』井田真木子著を参考に、温泉花街の一例を辿って行きます。

大正十三年、おかめさん(船岡なか)は十七歳で湯河原に売られました。芸者は財産も、庇護者もない女性にとって、生きる為、数少ない仕事の一つであった。

当時芸妓の鑑札は実父母の印が必要だったので、一段下の遊芸の鑑札で榮屋(通称赤ペン)の経営者に対して、四年年季八百円の条件で証文に判を押す。店には酌婦さんの名で、客を取る四十代のお姐さんが多かったが、芸妓も客をとらされた。

当時湯河原には見番がなく、若い芸者は、稽古をつけてくれる姐さん芸妓の身の回りの世話をして教えを請うしかなく、おかめは、寸暇を惜しんで先輩の世話をして、その見返りで練習を付けて貰った。

昭和五年に湯河原にも見番が出来、おかめも遊芸から芸妓の鑑札に書き換えた。
見番が出来ると、ちゃんとした師匠に芸をつけてもらえたが、この費用は芸妓持ちだった。

東京の一流芸者は長唄なら長唄、常磐津なら常磐津一本の芸を磨きその道のスペシャリストを目指すが、温泉芸者はお客の要望に沿って何でも覚えなければならない苦労があった。

昭和七年頃から奥湯河原にも大型旅館が建ち始め、おかめも湯河原で独立する。

昭和十年から湯河原は急速に発展、全国の遊里も好景気で活況、昭和十三年にピークに達し、この傾向は昭和十六年の開戦まで続く。

湯河原の芸者数がピークに達したのは昭和四十五年頃、目に見えて下り坂になってきたのが、昭和五十六年頃で、おかめさんにとって、お座敷遊びがカラオケにとって替わられたという印象が強い。

名妓と呼ばれ、三味線の名手であったおかめさんが見てきた大正、昭和の湯河原の推移は、そのまま日本の多くの温泉花街が歩んだ道と重ね合わせる事ができます。


by gionchoubu | 2014-11-14 16:14 | 遊廓、花街の類形 | Comments(5)

遊廓、花街の類形 その七

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                     勝山髷の宮川町の舞妓さん
湯屋及風呂屋型 後編 江戸の町に於いて、公許の吉原を差し置いて、湯女が跋扈し得た背景には、気軽、手軽、お安く遊べる、といった所が受けたわけで、町人のみならず武士も大小差して出かけるので、事態を重く見た公儀は寛永十四年(1637)風呂屋に於ける湯女を三人に制限し、これに背いたものには吉原大門の外で刑に処することにしました。

それでもこの風は改まらず、慶安元年(1648)禁令により江戸中の風呂屋営業停止したものの、承応元年(1652)風呂屋一軒につき女二人制限の令が出ているのは、慶安の禁令は有名無実だったとしか考えられません。

明暦三年(1657)幕府はとうとう江戸市中二百軒あった風呂屋を取り潰し、その遊女を新吉原に移しました。

しかし、取り締まれども、取り締まれども風呂屋は無くならなかったのは、新吉原成立後、寛文十年(1668)またもや大検挙を行い風呂屋七十四軒を潰し、遊女五百十二人を吉原に送ったことで明白です。

面白いのは、結局人々を斯くまで引きつけた風呂屋の魅力を新吉原が取り入れたことで、風呂屋者で形成された伏見町、堺町を中心に、店の構造を風呂屋作りにして、大格子を付け、庭も広く、店の前に腰掛を付けたりしました。

さらに、吉原の花魁には、気に入らない客を断ることが出来たのですが、風呂屋女は客を振ることがなかったので、(振らない)散茶という言葉が生まれ、この影響を受けた吉原の花魁にも、意気とか、張りといった気風が薄れていきました。

この上猶、江戸の町の風呂屋の撲滅叶わなかったのは、天和三年(1683)さらなる大検挙が行なわれ、湯女ら三百人が吉原送りになった事でわかります。

この時期一世を風靡したものに、丹前風呂の一つ紀国風呂から出た勝山がいます。勝山は寛永頃はやった女歌舞伎よろしく男装で現れ、この風俗が逆に武家の若者に受け、皆この風を真似たといいます。

結局勝山は、上記の流れで丹前風呂から吉原に移るのですが、類なる美貌に、諸芸にも通じ大評判をとり、後に現在、京の舞妓が祇園祭に結う「勝山髷」の由来となりました。

「勝山が吉原の道中、毅然とした態度で左右を見ることがないという噂を聞いた唐犬権兵衛という侠客が、仲間に自分が勝山を振り返らせようと約束しました。その夕方、皆で吉原へ行き、道中の勝山の後ろに廻った権兵衛は、こともあろうに勝山の髪の元結を切ってしまったのです。勝山の髪ははらはらと解けてしまったのですが、彼女は少しも慌てず、近くの茶屋で解けた髪を丸く巻き上げ簪で留め、道中を何事も無かったように続けました。この髪型が江戸中の評判となり、女は皆これを真似たといいます。」

これは『甲子夜話続編』に某学士の話として載っており、真偽はともかくとして、面白い逸話なので紹介させて頂きました。
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絵図で見ると、本来の勝山髷は頭上に大きな輪を描くのですが、これでは寝るたびに潰れると思われ、画像の様な現代舞妓の勝山になったのだと推測します。

参照:遊女・西山松之助編、日本遊里史・上村行彰、秘志生態風俗選10・林美一


by gionchoubu | 2014-11-10 11:03 | 遊廓、花街の類形 | Comments(2)

遊廓、花街の類形 その六

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                 額風呂、二階で宴会しています。弓矢→湯屋か?
湯屋及風呂屋型 前篇
 時代により、地域により、その呼び名は変わりますが、ここでは江戸中期の認識で、蒸し風呂を風呂屋、湯があるのを湯屋とします。

もともと、湯屋の女を湯女(ゆな)、風呂屋の女が垢掻女(背中を掻く姿から猿とも)や髪洗女と呼んで、共に入浴客の世話をしていた職業婦人だったのですが、いつのまにか、大都市で湯女として色を売るようになりました。

大阪では『元禄曽我物語』に「額風呂(がくぶろ)の小三、扇風呂の萩、湊風呂の近など、元禄中浪花にて名高き湯女ども」という記述があり、宝暦元年(1751)の島之内のねりものの番付に通常の遊女置屋とならんで、宇治風呂の白、千年風呂の小蝶、大黒風呂の岩、柏風呂の西などの妓がねりものに参加しており、当時の島之内の遊所は茶屋と風呂屋で一廓を形成していたものと考えられます。

大阪で風呂屋が出来たのは天正十八年(1590)とされ、『歴史女装考』によりますとその後「此湯女宝永の中頃にいたりては容色を飾り、浴客らが酒のあひてもなし、櫛一枚は常なるゆゑ塗櫛を二枚さして客の多きを見せ、頭かざりとも湯女のしるしともしたるなりけり。然して、稍色を売るにいたり、大湯女、小湯女の名目ありて、大湯女は酌をとり、小湯女は垢をすり髪をあらう」といった
具合になりました。

京都でも、この風呂屋という名で風俗営業があったのは、六条三筋の総中が元和三年(1617)奉行に「四條河原にて一町共に風呂屋と名付一ヶ月に一度も焚不申傾城屋仕候事」と訴えている事で明白です。

祇園新地には、薬湯や松湯といった湯屋か風呂屋があり、通りの名として残っていた(薬湯の町≒四条北の花見小路、松湯の町≒切りとおし)のを見ると相当名物だった事は分かるのですが、はたしてどういった営業だったのか見えてきません。もう一つ、島原で遊女塗櫛を二枚さす風があったのは、上記の湯女の風を習ったものとされています。
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             かつて松湯があった場所(古地図で確認)に松湯ビルがあります。
江戸に銭湯風呂が銭瓶橋のほとりに出来たのが大阪と同じ天正十九年で、承応から明暦にかけて盛んになりました。午後四時頃本来の風呂屋としての営業が終わると、上り場の格子の間を座敷のように金屏風を引き回して模様替えをし、湯女たちも衣装をつけ、三味線を弾き、小唄を歌い、なんら遊里と替わらぬ様相を呈しました。

京都では点在する風呂屋が、大阪島之内では遊所の構成分子として遊女を置いた風呂屋が存在したものの、妓楼の集合体としての遊廓の類型の一つとは成り得ないはずですが、江戸の神田、佐柄木町(神田雉町辺)の堀丹後守の屋敷前には一群の風呂屋があり、江戸の遊廓政策にも大きな影響を持ちましたので、類型の一つ足りうると判断しました。

この中で丹前風呂(丹後守の前)に通う浴客は粋な服装を好み、その様が一斉を風靡し、後に丹前は派手な姿態を称して言うようになり、さらに現在、旅館なんかで、大浴場に向かうとき着る「丹前」になりました。
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                          湯女図

参照:秘志生態風俗選10・林美一、東西浴場物語・浴場新聞社発行


by gionchoubu | 2014-11-08 11:57 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その五

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                       麻吉旅館
精進落し型 江戸の吉原、大阪の新町、京の島原を日本の三大遊廓と評することがあるのですが、これらはいずれも公許の色里、非公許ながらこれに伊勢の古市を加えて日本四大遊廓と唱えた事があるのを見ても、どれほど伊勢の古市は認知され、大変な集客力があったのが分かります。(古市を省き、長崎の丸山を入れ四大遊廓と言うこともあります。)

古市は現在の近鉄伊勢山田のほど近く、かつての参宮順路の要所を閉め、その遊女の起源は、平氏が西海で滅んだ後、その残党の一部が志摩の磯部や度会南島などに潜伏、人目を極端に怖れ最低限の暮らしに甘んじていたものの、その彼らが後に生活苦から娘を遊女に差し出したという言い伝えがあります。

その後、徳川時代の初め頃、非合法ゆえ三田奉行は風紀振粛の為遊女追放を発令すれども効果なく、寛文、延宝の頃には、各茶屋に二名の茶汲女の名目で遊女を置くことを黙認、廓楼は店の前に茶釜を据えながらも堂々と営業を続け、元禄時代になると、茶屋と称しながら高級遊女を抱える大楼も数件出来、繁華な町並みが形成されました。

古市が全盛を迎えるのは、名古屋で第七代尾張藩主、異端の殿様と喧伝された宗春が失脚、彼が独断で興した名古屋の西小路、鍛治町、古渡一丁目に出来た遊廓も同時に廃止、この時古市の出店も故郷に余儀なく戻るのですが、この名古屋時代に、京、大阪の娼家と交流で得たノウハウ、センスを持ち帰り、折りしも寛政の大火で灰燼に屈した古市を好機と捉え、神明づくりの大楼をどんどん建て、大阪の新町を差し置いて日本三大遊里の一つと唄われる位の繁栄を見て、全盛期を迎えたのです。

どうして古市を神社門前型に分類しなかったかと言うと、ここを訪れる人は、娼家かよいを精進落しと唱え、古市の遊女達も、宮めぐりの済まぬ前に登楼した客と分かれば、これを断ったといいます。

しかし「伊勢参り大神宮にもちょっと寄り」という歌があるように、伊勢参り、伊勢参り、と全国の人々が押し寄せる中、目的は古市で大神宮は口実という不届者が沢山居たわけであります。

面白いのは、古市で一夜を過ごすと翌朝、妓楼から手拭と妓より手紙が届き、もう一回泊まる(これを裏をかえすと言います)風習が慣例化して、客は一日こそ参拝に費やすが、妓楼から迎えに来るのでもう一泊、都合三泊逗留することになったそうで、この風は明治ごろまで有ったそうです。

しかしさしもの古市も旧街道が利用されなくなると衰退の一途を辿り、太平洋戦争で焼夷弾が撒かれ灰燼、唯一戦災を免れた仲之地蔵町(仲之町)麻吉一軒が旅館として残すだけになりました。その蔵には、侍が花代が無いにも関わらず登楼した為、やむなく残していった多くの刀があるそうです。

猶、歌舞伎でおなじみの『伊勢音頭恋寝刀(こいのたばね)』の舞台は古市の油屋にて実際起きた刃傷沙汰で、当時備前屋、杉本屋と並んで大楼の一角を担っていたこの油屋も戦争で消失、今はその場所を示す石柱を残すのみとなりました。

もう一つ、奈良県、大峯山の西麓に位置する洞川温泉は、修験道龍泉寺の門前町として発達し、沿道に並ぶ旅館には「精進落とし」の客を相手とする遊女などもいて夜遅くまで賑わいました。花街は麓の上市、下市があり、ここで芸妓遊びをしました。
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                  洞川で当時の遺構ですが、無人です

参照:伊勢古市考、野村可通、・艶本紀行東海道五十三次、林美一



by gionchoubu | 2014-11-05 12:50 | 遊廓、花街の類形 | Comments(2)