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遊廓・花街の類形 その三

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港型には海港型、河港型、軍港型などが考えられるのですが、軍港型については後日述べます。

海港型 延宝六年(1678)の『色道大鏡』に載る全国二十五箇所の著名遊里を見ても、江戸の吉原、大阪の新町、京都の島原と並び、越前三国松下、同敦賀六軒町、播州室小野町、芸州多太海、長門下関稲荷町など凡そ半分がこの港型遊里に分類されるのです。

そもそもこの下関稲荷こそ、伝説とはいえ、遊女発生の地といわれ、壇ノ浦で敗戦した平家の官女たちが、自らを売ることによって、生計をたてたという伝承があり、この土地で薄い桜色の小をこの伝承の官女に見立て、小平家と呼ぶ慣わしがあると聞きます。

さらに下関で遊女をヒメと呼んだのは、平家の姫君たちが緋色の袴で色を売ったという伝承もあります。

又、浄土宗の開祖法然上人と、上人に帰依した播州室津の遊女友君の話は涙をさそいます。

当時の輸送は完全に水上輸送が殆どで、人も金も、そして遊女も港に集まったのは当然で、今はその名を聞くことも無い、石川県の福浦などは、奈良時代は若狭に次いで北陸第二の港として栄え、渤海交流の拠点として、さらには江戸期に北陸で唯一、西廻り航路の指定を受け、明治五年には、日本最古の灯台ができた程の良港で、当然多くの遊女を抱えていたといいます。

こういった遊里は基本港の陸にあったのですが、鳥羽を中心とした三重の港や瀬戸内海の一部で、オチョロ(舟)という小舟に乗って沖に出た船上遊女が沢山おりました。

鳥羽、安乗(あのり)、的矢、渡鹿野(わたかの)、三箇所(さんがしょ)、浜島、小浜などでは、彼女達を志摩のはしりがね、と呼ばれました。

宿場で幕府の手前、飯盛女と体裁をつくろったように、はしりがね達は味噌汁の実として青物を売る“菜売り”の名称を得、官令で指定地以外でこういった商売が出来なくなると姿を消しました。

広島の御手洗を訪れたとき、江戸時代のお茶屋を保存した若胡子屋にはおちょろ時代の写真が掲げられ、おちょろ舟のミニチュアを作り続ける船大工さんがおり、おちょろに乗った遊女は終戦後も残り、石炭舟に通ったとの事です。

河(湖)港型 平安時代にまで遡れば、大阪の江口の観音、中君、小馬、神崎の河菰姫、孤蘇、蟹島の立牧が河口の港の高名遊女なら、近江の国琵琶湖の朝妻舟は烏帽子水干姿に鼓を置き、手には末広の白拍子は謡曲の世界、古の川であれ湖であれ海であれ、港には伝説とも実話ともつかぬ遊女の話が多くのこされます。

江口、神崎、蟹島は旅人が海船から河船に乗り換えた船着場で、その繁華は大変なもので、遊女の数も多く存在しました。特に関西にこの河港型の遊所が多く、大阪の新堀、三軒家、伏見の中書島さらに運河港になりますが、先斗町も河港型と宿場型の複合型と分類できると思います。

又、島原の揚屋(お茶屋)、新艘(しんぞう、太夫の妹女郎)、水揚、引船(太夫の付添)など、古の水辺の遊女からきたと思われるこれらの言葉から考えても、古来、遊女と港には強い結びつきが有りました。

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参照:江戸遊里盛衰記、渡辺憲二・志摩のはしりかね、岩田準一

*最初の画像は船大工の宮本国也さんで、ブログの趣旨を説明させて頂き、掲載を許可頂いております。

by gionchoubu | 2014-10-30 12:15 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓・花街の類形 その二

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                   広重 東海道五十三次 御油宿
しかし、何といっても一番遊所が出来たのは矢張りA の人が集まるところだったのは間違いなく、以下その代表の一つ、宿場型として分類したものの中で、東海道五十三次だけとって見ても、『近世風俗志』に「官許の妓院あるは駿府の弥勒町のみ、その他は飯盛女なり。五十三駅のうち売女なきは、草津、石部、水口、坂下なり」とありますが、実際草津に水口にも宿場が育んだ遊所はありましたので、これに他の街道を加えると、日本全国宿場型遊里だけでも、二百では済まないはずです。

宿場型 宿駅はもともと公用伝馬の通じの為に幕府が設けたもので、私の旅行は頭に有りませんでした。幕府がずるいのは、宿場運営には自ら金をださず、義務、労役、維持を宿場に一方的に課したことで、宿場としては旅籠経営ぐらいでは到底立ち行かず、殆どの宿場では、遊里渡世をして凌いでいくしか生きる道は無かったのです。

そして幕府の方は表向きには遊里を禁じながらも、飯盛女の名目でこれらの女を事実上黙認しました。これはまさしく日本人の本音と建て前の特性に通ずるもので、現在も、パチンコなどで同じような歪を見る事ができます。

江戸に目を向けると、東海道の第一宿が品川で、参勤交代の半分以上はこの宿駅を通過したとのことで、栄えに榮えました。江戸落語の「居残り左平冶」やめ組の喧嘩で有名な島崎楼もここの話で、戦後まで品川芸妓としてその名を馳せました。

新宿も、宿が示すように、もとは甲州街道の基点として飯盛女が一夜の客をとる旅籠町が起源で、後に権力や暴力の渦巻く町となり、鈴木主水と橋本屋白糸の物語を生みました。

その後、新宿は日本有数の繁華街となり、大正七年に新指定地に移りましたので、起源は A即ち新宿一丁目から三丁目がこれにあたり、移転後の新指定地は Cということになります。

一方奥州道第一の宿駅が千住で、『江戸図解集覧』に宿屋が一四一軒、内八二件に飯盛女がおり、もう一つ中仙道の最初の駅が板橋で『中山道宿村大概帳』によれば「所々に花魁店前に並び、紅粉をよそほふて花簪をさしつらねて、美艶をかざる。格子のうち、ゆきかう旅客をとどめて、あれこれと興ずるもの多し」という状況でした。

もう一回『近世風俗史』に登場して頂くと「江戸にて駅妓を宿場女郎という。三都ともに駅を宿という。今俗の風なり、江戸の四口おのおの娼家あり。品川を第一とし、内藤新宿を第二とし、千住を第三、板橋を四とす。これ妓品をいふなり。」

この宿場形花街の繁栄の上に、我々の現在の暮らしがあるのを決して忘れてはいけません。

参照:宿場町、芳賀登・日本花街誌、加藤藤吉


by gionchoubu | 2014-10-28 14:57 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その一

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遊廓や花街は、このカテゴリーに入らないものもありますが、大体は

A 人が集まる所
B 人を集めようとした所
C 人目につくところから隔離した所
に分類されます。

C は公許の大遊廓に多く、江戸の吉原、大阪の新町、京都の島原はこの範疇にはいります。京都の島原は柳町二条→六条三筋→島原に移りました。吉原も明暦三年、古吉原より新吉原に移りました。大阪の新町も葦の生い茂った地に開業しています。
金沢の東郭など、城下町の遊廓はこのタイプが多かったようです。

その他明治に旧街道に有った数多くの遊里が郊外に移されたわけですが、たとえば神奈川遊廓も明治十七年に宮洲町に集められ、次いで二十二年に宮州町・七軒町の新埋立地に限定、ちょうど隣接の高島町遊廓が新金町、永楽町に移転した後であったから、これとあわせ大発展しましたが、これが仇になり、明治三十三年県令によりさらに北の反町遊廓に移されたという経緯があります。

同じく、神奈川の保ヶ谷も明治三十三年、岩間上町の新地に移転していますし、東海道と中山道が合流していた草津宿の遊廓も明治三十一年に、町の東端の田圃をつぶして東新地を作り、旧街道の残っていた業者が移りました。

大阪の飛田遊廓も灘波新地や新町の業者が大正七年に移転したものですし、北陸に目を向ければ、金沢の東茶屋街も、文政三年に、前田家十二藩主、前田斉広(なりなが)が、金沢の中心部に点在していた御茶屋を町の端に集めて公認の遊里として誕生させたもので、当初は茶屋街一帯が板塀で囲われ、入り口には木戸が設けられていました。

岡山市東中島と西中島も、旭川の中洲に、市内に点在していた所謂風俗営業をここに押し込めたという経緯があります。

次にB の人を集めようとした所ですが、これで未曾有の大成功を収めた例が灘波、道頓堀周辺です。道頓堀掘削後、国家プロジェクトとして、官はここに煮売り株、湯屋株、風呂や株、髪結床に旅籠の権利、水茶屋株に茶屋株、仕上げに芝居株、相撲、市場、あらゆる特権をここに与え、民もよくこれに答え、日本一の繁華街を育みました。

その中心にあったのが後の南地五花街、これまた日本最大の遊廓で、島之内宗右衛門長から、いまのマルイあたりまでの広大な土地に、最盛期には芸者のみで二千五百人という巨大花街を出現させました。

大阪にはこの手法で繁栄を見たところが他にも存在し、今の堂島の繁栄も、もとは安治川の河道修理の結果できた堂島に新地を得て、町割りをして茶屋百二十株を許可したことが繁栄の端を発したものですし、北新地(曽根崎新地)も又、宝永年間に茶屋株や芝居の許可を得た作品といえます。堀江もしかり、まさに大阪の繁栄の原動力は新地開発にあったのです。

参照:日本遊里史、上村行彰・艶本紀行東海道五十三次、林美一


by gionchoubu | 2014-10-26 11:00 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

廓言葉の研究 その二

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それではみなさんと一緒に廓言葉を勉強しましょう。
まず『廓言葉の研究』から尊敬語で自立動詞「なんす」の活用と用例を見て行きましょう。これは「する」の尊敬動詞であって「なさる、なさいます」と言い換えることができます。

未然 なんせ、なんし
連用 なんし
終止 なんす
連体 なんす
仮定 なんすれ なんせ
命令 なんし なんせ
推量 なんしょ

終止形 なんす
○ ぬしやア、何をなんすへ。 『福神粋語録』

連体形 なんす
○ 邪間(魔)をなんすなら、心まかせになんすがいゝ。 『妓情返夢解』

連用形 なんし
○ おふじさん、どふなんしたへ。 『通言総籬』

命令形 なんし
○ そんなら主アお出なんすとも、お出なんせとも、かってになんし。『無粋照明房情記』

推量形 なんしょ
○おめへさんが見なんしたら、びっくりなんせう。『無粋照明房情記』

* 「なんす」は補助動詞としての用法もあり、動詞型活用の連用形について、敬愛の意をあらわす。この場合に、上の動詞が撥音便形となることがあり、また上の動詞に接頭語「お」の付くことがある。

次に「ある、居る」の丁寧語で「ございます、あります、居ります」の意味をあらわす自立動詞「おす」「おっす」です。

未然 おっせ
連用 おっし、おし
終止 おっす、おす
推量 おっしょ の四用法になります。

終止形 おす、おっす
○今のような事がおすとね、気味のいゝものざんす。『契情実之巻後編』

未然形 おっせ
○ 義理と死ぬとの二ツでは、しぬほどやすひことはおっせん。『北廓方』

連用形 おっしょ
○ おもう人もおすせうが・・・『二筋道後編廓の癖』

* 「おす」「おっす」もまた補助動詞用法があり、形容詞型活用のウ音便形(まれに連用形「―く」)について、丁寧の意味を表す。この場合、間に助詞の入ることがある。

『廓言葉の研究』では触れられていませんが、吉原には士農工商のあらゆる階級の人が訪れるわけで、花魁が客の身分によって其のたび言葉を変えるというのは、実際問題として無理でもあろうし、時には武家に対して失礼な言葉遣いで、すわ手打ちといった取り返しのつかない事故を防ぐ為にも、廓内での共通語は必要不可欠な方便であったとも私には思えるのです。

話は飛躍しますが、明治となり標準語が国語学者によって作られたとき、たとえば、「です、ます」などの言葉は当時中枢にいた長州山口弁が基準になったとか、当時の山の手の言葉を参考にしたとか、これといった決め手はないようですが、ひょっとしたら、身分囚われない万能語で、しかも身近にあった吉原言葉がーとても後世の人に花魁言葉が標準語の雛形とは口が裂けても言えなかったでしょうがーこれを作った人たちの頭の片隅にになかったかと想像するのも、無稽荒唐とは言えない気がするのです。

だって「ありんす」の「ん」を「ま」に替えるだけで「あります」が出来るわけですから。




by gionchoubu | 2014-10-24 12:15 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

廓言葉の研究 その一

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                       島原太夫
遊廓や花街は大変縁起を担ぐ世界で、お客が去るのを嫌い、猿と言わずエテ(得て)と呼び、同じく掏るが縁起が悪いのでスルメをアタリ(当り)メと呼び替えました。

その他、お茶を引く、なじみ、せく、初会、など皆この特殊な環境で育まれてきた言葉で、多分漫才コンビの相方も、客に対する花魁を相敵(あいかた)と言うのですが、あるいはこの世界から来たものかもしれません。

昭和三十九年に出版された『廓言葉の研究』は廓言葉の動詞について纏められたもので、この廓言葉の動詞の研究をされながらも亡くなられた文学博士湯沢幸吉郎の意思を継ぎ、門下生達によって世に出されたものです。

廓と書いて“さと”と呼ぶのはかの大石良雄(内蔵助)が大石うきの名で詞を書き、岸治郎三が曲をつけた「廓景色」が有名で、祇園で歌い継がれてきました。

『廓言葉の研究』は古書店でも中々お目に掛かれないのですが、私は以前オンデマンドで買いましたので、名著として珍重されてきたのでしょう。

廓言葉で大変有名なのが吉原のアリンス言葉で、花魁が「わちきは、いっそうくやしゅうありんす」などと、舞台や映画で頭の上から声をだすのを見る事がありますが、これは楼主が、田舎で集めた女たちの方言を隠すため、特殊な言語を発達させたものと言われています。

一方、京都の島原で太夫が使っていたのが「なます言葉」でこれは「主さん一杯くんなまし」、やはり地方の訛を出させない言葉を使いました。

しかし、博士によれば、トニー谷やイヤミが使っていた「ザンス」や、東京の山の手の人たちの「ザーマス」言葉も元は廓言葉で、京の花街で今も使われる、「そうおすな〜」の「オス」言葉もこのカテゴリーに入ります。

その他、この研究書は「ござんす」「おざいます」「おだんす」「おざりす」「おざんす」「おっせす」などの廓言葉を、丁寧語、尊敬語に分け、助動詞、自立動詞、補助動詞、形容動詞に分類し、多くの汎例を示し、五段活用させたのがこの名著『廓言葉の研究』なのです。

博士の研究は、吉原や島原などの公許の遊所に留まらず、いわゆる品川などの官が正式に認めていない色里であった岡場所の用語「ごぜえす」「ざります」「なせえす」などにも触れています。

今は使われませんが戦前までは「岡惚れ」という言葉があり、江戸前落語なんかに良く出てきます。東京の岡にたいするのが大阪の島で、沢山あった非合法遊里は島と呼ばれていました。

ひょっとしたら縄張りの意味で使われる「シマ」も元をただせば廓言葉に起源を持つような気もします。


by gionchoubu | 2014-10-22 11:39 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(2)

墨染

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都林泉名勝図会、墨染、南新町の様子・この街道を右に行けば墨染寺、左が京阪線路のはずです。旅人の傘を奪い宿に引き入れる女がいます。又大枡屋の二階では夜も更けないのに三味線で宴会をしているグループ、伊勢屋の二階では街道の賑わいを見る遊客と妓がいます。芝居小屋もあります。有馬稲荷の鳥居が見えますが、大分前に無くなりました。
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上記の絵図あたりです。有馬神社は疏水付近のはず。

飯売女、飯盛女、飯炊女、出女、留女、おじゃれ、たぼ、柱負い、夜馬、足洗女、伽やろう、道の者、くぐつめ、土地により場所により、所謂宿場女郎にこれだけの異名があるのでの分かるように、江戸時代の街道には、旅人の袖を引っ張り、宿に引き込む女がいました。

お江戸日本橋と京都三条の東海道五十一次には総ての宿駅にこういった遊女がありましたし、中仙道も多くの宿場には赤前垂れをして渡世をするものがおりました。

前回の撞木町のすぐ近く、伏見から京都への交通要所であった墨染めはこの宿場町型の遊里と言ってよく、全国的にはごく普通の遊所ですが、京都では毛色の変わった遊び所でした。

お客は京都、伏見間を往来する町人や東海道からここを経由する旅人達ですが、街道型の遊里としては上記のように全国何処でもあった下級遊里の一つで、遊所番付に載ることもありませんでした。

ただ、あるいはこの風景が京都の人に面白く映ったのか『都林泉名所図絵』で「深草里墨染花魁」と紹介されています。又『東海道中膝毛』でも「墨染といへる所にさしかゝりけるが、爰はすこしの遊所ありて、軒毎に長簾かけわたしたるうちより、顔のみ雪の如く白く、青梅の布子に、黒びろうどのはんゑりまで、おしろいべたべたつけたる女、はしり出て、弥次郎が袖をとらへ」との下りがあります。


元禄十二年巳卯年、南新町、七軒町、墨染横町の三町に茶屋株を得て、この頃は茶立女を置き二十五軒の茶屋で営業していたようです。天保の改革で茶屋は禁止され、明治まで旅人宿や商人宿の名目で遊女を置きました。


明治五年写『京都府下遊廓由緒』にこの遊所の簡単な沿革と地図がのるので、一廓として認められていた事になります。

明治十一年の『都の花競』には七軒町に小浅(21才)南新町に富鶴(20才)、伸吉(21才)の芸妓が載り、娼妓は南新町に八人、墨染横丁に一人、七軒町に二人の登録がありますが、この規模では見番の様な組織は無かったかもしれません。


大正四年発行の『京都府誌下』によれば大正二年,貸座敷5、芸妓1、娼妓18とあります。


緑江さんの聞き取りによれば、京阪の線路のところに杉野屋、疎水の所に上田屋があったそうです。日露戦争後は撞木町に吸収され今は面影もありません。

実は現祇園東で地方をされているお姐さんがいらっしゃり、一度座敷でお話を伺ったのですが、自分の生まれた町が花街だった事は全くご存知ありませんでした。

参照:京都市の地名、平凡社・猥褻風俗辞典、宮武外骨、京都遊廓見聞録、田中泰彦編


by gionchoubu | 2014-10-20 16:32 | 京都の花街・遊廓 | Comments(2)

撞木町

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   撞木でなく、正式には橦木町の様です。
『山州名跡伝』に「在墨染南一町余、撞木町と号す、町の形丁に類するの云ひ也、初の名は夷町と号す」実は秀吉の時代林又一郎がもっと西にあった田町(現醍醐田町?)に伏見最初の遊廓を作ったのですが衰退、その後「渡邊掃部、前原八右衛門と云う者、時の奉行長田喜兵衛、柴山小兵衛に乞得て再興す、今の所也、時は慶長九年十二月二日也」1604年の事です。

江戸時代、撞木町(夷町)は官許の遊所として全国、江戸の吉原、京都の島原、大阪の瓢箪町(新町)長崎の丸山と併せ二十四の一つに数えられています。『洞房語園』

六条三筋時代、町奉行が再三注意すれど、公家が撞木町に遊びにくるので、当時の所司代松平紀伊守は自分の利の紋を灯燈に付けて撞木町の揚屋に夜掲げたので、公家連中は青ざめ撞木町通いを止めたそうです。

大石内蔵助が祇園で遊興した記録は無く、実は撞木町で小さく遊んでいたというのが本当に様です。通ったという揚屋も祇園の万亭(一力)でなく、撞木町の編み笠茶屋の万亭ですので、史実と歌舞伎は大きくかけ離れたものと言わざるを得ません。

大石はここの笹屋清右衛門という青楼の二階座敷の鴨居の欄間に、戯れで山の姿を彫ったという口伝や、又この店で酩酊のうえ、天井に三十六文字の辞を書き、天明時代に屏風にされ、その後大阪の筧家に保管されていたとの話も有るですが、その後どうなったかわかりません。

大石の逸話が広まり、撞木町での密謀は成就するとの噂が立ち、それにあやかろうと登楼する者も多かったようです。又『東海道中膝毛』にこの廓の遊女が「山のけつね」として紹介されているので、これが刊行された享和二年(1802)には知名度もあったと思われますが、天保前の遊所番付にその名を留めなかったのは、規模が小さかったことも理由でしょうが、全国的な知名度も薄れてきたのでしょう。

ただし、天保の改革では島原を除いて京の遊廓は祇園だろうが、上七軒であっても総て島原に移転するか廃業のお達しを受けるのですが、この撞木町と中書島はお咎め無しだったのは、この二箇所が官許の遊里として相当の歴史を持っていた為に外なりません。

茶屋の数は延宝六年(1678)で揚屋五軒を含む十六軒程の家が『色道大鏡』にのり
明治五年には十七軒が営業していました。明治十七年の『都の花競』には六軒の営業主と小梅という娼妓さんの名が認められていました。

大正四年発行の『京都府誌下』によれば大正二年,貸座敷11、芸妓2、娼妓45とあります。

昭和四年に夷町、恵比寿町とも表記されていましたが、撞木町を正式町名にしました。

昭和二十年には三十軒の茶屋、解散頃の昭和三十二年には九軒で接客婦は四十名だったといいます。

解散の少し前、花街研究家の加藤藤吉は『日本花街志』で撞木町に一項を設け
「紋章は撞木町を宣伝した大恩人、大石内蔵助良雄の功労を記念し、二つ巴の家紋を誰にも断らず借用しているのだというが、旧京阪墨染に近く地の利は好いのだが、衰退の限りを尽くした花街で芸妓無し、僅か十二、三軒の店に三十人の遊び女が追い遣られる日を待っている始末である。」と述べています。

参照:京の地名、平凡社・京都遊廓見聞録、田中泰彦編

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                 笹屋の跡地に建てられた大石にちなむ碑


by gionchoubu | 2014-10-18 11:36 | 京都の花街・遊廓 | Comments(3)

助六の由来

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六条三筋時代の遊女で歴史に名を残したものに揚巻(あげまき、総角を充てる事もあり)がおります。この実在の傾城を江戸の吉原に移したのが歌舞伎『助六由縁江戸桜』の三浦屋揚巻で、主人公の助六も同じく吉原に置き換えられていますが、本来京都の中京に住んでいた侠客でした。

元和年間、六条三筋の丹波屋の遊女であった揚巻は容色・才芸に秀でており、助六とは相思相愛の仲でした。ある日助六は陶要人(すえかなんど)の陰謀を知り、要人の一味と酒を飲む機会があったのでその非を説きました。

しかし要人の仲間は激昂して刀を抜いたので、助六は数人を倒し、一人を捕まえ奉行に差し出したのですが、これを恨んだ要人達は助六が酒を飲んでいるときに不意をうって殺してしまったのです。

これを悲しみ泣かし明かした揚巻は、助六の友人灘波屋治助に助太刀を頼み、六条三筋で要人が豪遊した時、治助が隙を見て羽交い締めにすると、揚巻は手にした懐剣で要人を刺し、見事敵をとりました。

面白いのはここからで、今コンビニでも買えるお寿司の定番で「助六」というものがありますが、この由来が「揚巻」にあると言うのです。つまりアゲの稲荷寿司とマキ寿司のセットでアゲマキ=助六というものです。

もう一つ、この頃廓で出来て、居酒屋などで出会う言葉を紹介します。

江戸初期、六条三筋に来た遊女候補生は、徳川に敗れた豊臣側の武家の娘もおり、彼女達の折り目の良さが、傾城、太夫たちの質を高め、客筋もそれに答えるものでした。

小さい頃から、先輩遊女の下で、禿として諸芸、諸道を習い、和歌俳諧にまで通じ、これを習得するには何年も掛かるのですが、まれにこのコースによらず、つまり禿時代を経ず一本立ちする娘もいました。

彼女達は突出しと呼ばれ、姉さん遊女でなく、置屋の楼主や妻が教育しました。
居酒屋で最初に出てくる「ツキダシ」の語源です。

ちなみに時代は分かりませんが、料理屋で出てくる「おとうし」や、皆さんおすし屋さんの言葉と思っている醤油を「ムラサキ」と言うのも実は廓(さと)言葉です。


by gionchoubu | 2014-10-16 14:46 | 京都の花街・遊廓 | Comments(3)

下の森

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六軒町通りをはさんで西が下の森、東がが五番町でした。ただし明治以後、五番町は表通りは外れ、1〜2軒奥に区域を定められていました。

近世、北野天満宮の門前一帯を下ノ森とよんだのですが、下ノ森遊郭は上七軒と五番町の間にありました。場所は新建町、西町、東町、三軒町、北野商店街の西半分から一条通りに出て、北野警察署に至るまでのごく狭い区画になります。(画像は私の想像ですので細部に違う所はあるでしょう。)

その歴史を辿ると

元禄〜正徳(1688~1716) 三軒町(松下三軒町)に六軒の茶屋があったと『京都御役所向大概覚書』にありますが、水茶屋だったと推察されます。

公的には天明元年(1781)社家長屋町(徳勝院長屋、上七軒の西)の水茶屋株が分けられて遊里が成立したことになります。(京都府下遊廓由緒)

宝暦十一年(1761)島原の支配下にはいり、寛政二年(1790)他の非合法遊里の遊女とともに遊女狩に会い一時営業停止になりましたが、同年、東町と西町にのみ営業を許される。

享和元年(1801)新建町も遊里として公許の地になりました。

文化十年(1813)上七軒より東町に出店と芸者取り扱いが許されます。

『東海道中膝毛』に「北野の下の森といふにいたる。ここはいたって賑やかで、芝居などもあり、見世物、豆蔵、よみうり、講釈、又、空茶釜とゐみやうせし、よしずばりの水茶屋ていなるもの、ところどころにあり」という記述がありますが、この空茶釜は京の北野にいた私娼の異名です。

天保前の諸国遊所競(相撲番付に模したもの)では丁度真ん中ぐらいの位で、ほぼ同時期だされた同じような番付けには下森(花百文、よる九百文)と書かれ、結構上位に位置します。

以後、天保の改革で一時廃止も嘉永年間に復活、以後明治になり京都府の管理下に入りました。

下ノ森遊廓の記録は少なく明治十一年出版の『都の花競』にも芸妓、娼妓とも名が載りませんし田中緑江さんも触れていません。

上京区九番組下之森東町の図に業者十四軒、同西町の図に十三軒、上京九番組下之森三軒町の図に茶屋井上新次や吉田琴など十一軒、上京九番組下之森新建町之図に店附抱女、川上竹次郎、同、上田幸三郎、同、山口卯之助など七軒が描かれており、それを参考に版図を作成しました。

ちなみに、この図は明治になって地元の業者が官に請われて提出し『京都府下遊廓由緒』の付録なのですが、これによると下ノ森遊廓は北野という大きな括りで上七軒組合の支配を受けており、「下之森は嘉永五(1852)壬子二月願済致し上七軒と一体ニ相成候哉ニ相見候事」の文があります。

以前五番町で書きましたが、江戸期芸妓中心だった五番町に明治以後娼妓を供給したのがお隣の下の森であったという記録があります。

五番町の区域が大正元年八月に変更されましたので、その際下の森は消滅したのだと思います。昭和の始めには、まだ当時の風情を留めていたそうです。

参照:京都市の地名



by gionchoubu | 2014-10-14 11:43 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

吉野太夫

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                    吉野太夫花供養、常照寺
吉野太夫を称し「なき跡まで名を残せし太夫、前代未聞の遊女也」『好色一代男』井原西鶴

六条三筋時代以前の太夫の中には学問もあり、諸芸に通じ、貴賓の相手としても恥ずかしくない教養を身に付けている者もいて、遊女ながら優れた文化遺産の担い手として後世に名を残した例もありました。

その中でも別格とされるのが吉野太夫で、本名を徳子といい、父は武家の松田武右衛門、慶長十一年(1606)京大仏の近くで生まれ、七歳で六条三筋の置屋林与次郎に預けられました。林与次兵衛は再三触れる林又一郎別名と書かれている本がありますが、どうでしょう、私の考えでは又一郎は六条三筋に入らず野に下った人で、別人だと思うのですが・・・

吉野太夫は禿名を林弥といい益子肥前太夫に仕えたが、あまりの美貌に出雲松江城主堀尾忠晴の助言もあり十四歳にて太夫に昇進、吉野伝曰く「才智深く心情篤く、容顔艶麗にして花を欺き、一度口を開けば心融けざる者なく、一度見えて迷わざるなし」名妓、二代目吉野太夫の誕生です。

吉野太夫が通じていたのは、歌道、連化、文学、音楽では琴、琵琶、笙、茶道、香道、挿花、合、碁・・・知恵深く、酒席の席のとり持ちが上手で「ふたつなき心を君にとゝめ置きて 我さへ我にまよひむるかな」などの歌を残しました。

その美しさは、太夫十八人の大寄があり、晴れの日という事で、各太夫とも最高の輝くばかりの衣装で現れたが、吉野がでてこない、何でもお客につきあい明け方まで起きていたとの事、使いをだして呼びにやると、寝乱れ髪に白綾の肌着、黒の上衣に紫の帯という姿で現れたが、余りの美しさに、並み居る着飾った太夫が口も聞けない程だったといいます。(色道大鑑、扶桑列女伝)

その盛名は明の国まで届き、李湘山という男から恋文と一遍の詩が送られてきました。それには「日本曾聞吉野名 夢中髣髴覚猶驚 清容未見恨無極 空向海東数鴈行」と書かれていました。寛永四年(1627)の夏の出来事です。

その人柄を表す逸話に、駿河守金綱という刀鍛冶の弟子が吉野を人目見てとりこになり、一心に働いた金で吉野太夫に会いにいったが門前払い、それを聞いた吉野太夫が哀れに思いその弟子を招いて一夜をすごした。満足した弟子は「今は世に思い残すことなし」と桂川に身投げをしました。

その後、寛永八年、灰屋紹益という文化人が二十六になった吉野を身請け、彼にとって有頂天の時が流れますが、寛永二十年(1643)吉野は亡くなってしまいます。悲嘆にくれた紹益は「都をば花なき里になしにけり 吉野は死での山にうつして」と手向けの句を読み、彼女の遺灰をことごとく酒に混ぜて飲んでしまったそうです。

まだ吉野が六条三筋の太夫だった頃、汚い坊主が揚屋に現れ「吉野を見せろ」「いや見せない」と押し問答になり、それを聞きつけた吉野が自ら身を現すと、その坊主は満足して信徒から借りた百銭を置いて帰りました。不思議に思った吉野が後をつけさすと、その坊は日蓮宗常照寺住職乾上人という高僧、以後吉野は深く乾上人に帰依し、吉野はこの寺に葬られました。

毎年春、里の桜が散る頃、吉野太夫花供養が常照寺で催される由縁であります。



by gionchoubu | 2014-10-12 11:33 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)