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祇園ねりもの 三十九

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昭和三十二年のねりものより揚巻
「本年のねりものを見ますのに宣伝不足の憾があり新聞も余りとり上げませんでした。これは見るものの少なかった明治時代と違い、時代のせいとも考えられます。所望の振り付けは余りに簡単すぎました。それに毎回役員だけ八坂社へお詣りしているそうですがねり子も拝殿で舞うて神に奉納するとよいと思います。」

昭和三十五年、祇園東新地によるねりものの後、田中緑江氏はこう述べ『祇園祭ねりもの下』を結びましたが、それ以後平成二十六年まで54年間一度もねりものは行なわれていません。これは明治二十六年より昭和十一年までの43年のブランクを大きく超えるものです。

今思えば、仮に享保二十年(1735)頃にねりものが始まったとして、中断されたのはいつも騒乱、天災、戦争など世の不穏が原因、即ち、天明の飢饉、天保の改革、安政の大獄、幕末の動乱、明治に入っても、日清戦争、日露戦争、関東大震災、二度の大戦、そして昭和十年のねりものが流れたのも、大雨による鴨川の氾濫でした。つまり祇園ねりものは平和、平穏、安寧の象徴ともいえるのです。

何とか祇園ねりものの復活を見たいという思いからこのブログを書いてきました。その思いが通じたのか、先週京都新聞が取材にこられ、祇園東御茶屋組合にて発見された昭和33年を中心に撮影されたねりものの写真に大きくスペースを割き、立命館大学の加藤洋政先生と併せ、復興を願う者として、私のコメントも載せていただきました。

そして昨日、単身京都市産業観光局観光MICE推進室を訪れ、再興のお願いに参りました。京都市はおおきに財団を傘下にもち、五花街に大きな影響力を持つという事もありますが、ねりものの際の交通規制を含め、巨大な発信力を有する行政の力を借りないことには平成ねりものの復活は不可能なのは明らかです。実際昭和のねりものも京都市観光課が中心となり43年ぶりのねりものを邁進させたと聞きます。

さらに、本年に祇園会の後祭りが復活したこと、来年の後祭りの話題作りとして、これ以上の素材はない、これ以上のタイミングはないと考えて訪問しました。

もうひとつ、今ならまだ、昭和のねりものの記憶が残る方の聞き取りが可能で、裏返せば、十年後にはもうこれらの方の運営に関する助言は難しく、再現は無理だという危機感も、今のタイミングで市に提案した大きな動機となりました。

昔のように個人が万金をかけ、衣装に大枚をかなぐり捨てて、というねりものは到底無理ですが、たとえば祇園にこだわらず、五花街から二人づつ練り子が出せればねりものは成立しますし、一花街の負担はびっくりするような物にはならないはずです。八坂神社には、当時竹中工務店が制作した二台の屋台も保管されております。

祇園甲部、東だけでなく、上七軒もねりものは有りましたし、花街史以前としても宮川町もねりものを記録では二度出しています。実現は催されませんでしたが、戦前のねりもの復興の機運があったとき、先斗町もお揃いの着物を誂えこれを応援しようとした話もあります。衣装も弗旦が昔の夢なら、今風に企業にスポンサーを募るという方法もあります。練り子の提灯にスポンサーの名を入れれば、文化事業の再生という面でもイメージアップにつながり、美術面的な魅力と、他に類をみない祭事として世界中に発信されるはずです。

日が落ち、歩行者天国となる四条大橋から、あるいは絶世の美女姿、あるいは異形の姿で祇園社まで静々練り歩く、祇園ねりものは日本人の持つ美意識が凝縮され、これを見るものに、刹那の浄土をもたらしてくれはずです。





by gionchoubu | 2014-09-30 15:44 | ねりもの Gion Nerimono | Comments(0)

二条柳町より六条三筋へ

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二条柳町の廓は僅か十三年後の慶長七年(1602)に東本願寺の北、六条三筋(ろくじょうみすじ)に移転を命じられます。最初は東半分が開かれ、北は五条、南は六条、東が室町通り、西が新町通りで今の下京中学校あたりになり、北から柳町上の町、柳町中の町、柳町下の町と名付けられました。

三筋の由来は楊梅通り、鍵屋町通り、的場通りにあります。この区画に今も上柳町があるのは、その時の名残といえます。

一般に移転の理由は御所に近いからとか、周辺に家が建ち都市化したとか云われていますが、御所の近くは始めから分かっていたことですし、十余年でそう都市化するのも考えにくいので、多分、最初の選定がそもそも間違っており、これを定めた当局の面目を保つための方便だったと私は考えます。

明田鉄男氏は造営中の二条城から遠ざけたかったから、さらに広大な傾城を作り、税制の増収をもくろんだ可能性にも言及されています。

元和三年(1617)三月、元和五ヶ条が幕府より出されるのですが、それは

一、 傾城町は三筋に限り、その区域を越えて遊女稼業は禁止である。
一、 客は一晩しか泊まっていけない。
一、 傾城の衣類は紺屋染を用い質素に、金銀などはもっての外
一、 廓内の建築も質素に、町役は厳正に
一、 不審者は奉行所に通報せよ

移転当初から市内に散らばる無免許の遊女渡世は公許の三筋の人達にとって悩みの種で、六条三筋に住吉神社を勧請した同年六月、上記元和五か条を受け、六条三筋の総中は無免許業者をお恐れ乍らと訴えでました。

訴えられたのは、二条柳町の開発者の一人であった林又一郎を中心に市内広くに及びます。又一(市)は二条柳町にも六条三筋にも属すのを拒んだようです。

四条河原町 又市
同ていあんのうしろ 一町(貞安前之町は今の高島屋の西部分)
同こりき町 一町(現先斗町の一画)
同中島 一町(三条河原町東)
同ますや町 一町(上京、中京、下京に十箇所ほどもあり特定できません)
とひ小路 しつか太夫(富小路がとびのかうし通と『京雀』あるも分からず)
同たかみや町 一町(富小路蛸薬師下ルに現存します。)
たこやくし通 ゑいらくや
二条たわら町 たなかつら(かつて夷川新町西入ルに俵町あり)
こうしんのうしろ (庚申?荒神?どこを指したものか・・・)
北野 六軒町(上七軒の近くと思われる)
同 れいしょう(同上)
大仏この町(五条〜七条間の山和大路辺り?)

以上が告訴された無免許にて営業していた所です・

前回の参照以外、『文芸倶楽部第八巻第六号定期増刊』


by gionchoubu | 2014-09-29 17:39 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

九条の里

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                        九条の里
応永四年(1392)に公許になった九条の里が王城の地の遊里の濫觴と言われていますが、これは正式な文書によるものでなく、『灰屋紹益と吉野太夫』にこれを示す一文があるそうです。場所は七条東洞院下ルとされるのですが、なぜ七条で九条の里かもわかっていません。

その後、大永八年(1528)に『傾城補任状』という竹内新次郎という男に室町幕府が与えた遊里の許可証も発見されていますが、京都のどこだったのか、場所が記されていません。

天正十三年(1598)後陽成天皇時代、秀吉の馬の口取であった原三郎左衛門という人が秀吉に直言し、洛中の遊女町を一つ場所に集め傾城町をつくり都の繁栄に当たりたい、と申し出てこれを許され、後年遊廓作りのプロフェッショナルにして遊女歌舞伎の主催者でもあった林又一郎と手を携え完成させたのが二条柳町の廓で、人はこれを京都で最初、日本で最初の公許の廓と呼びます。
原三郎左衛門はここで桔梗屋始めました。

場所は万里小路(までのこうじ)二条、今の柳馬場二条で、その区画は北は戎川、南が押小路、東は寺町、西は柳馬場と『京都府下遊廓由緒』に書かれています。
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                       二条柳町
今でも芸者街などを花柳界といったり、こういった町に柳の木が多いのは、この最初の柳町のシンボルが二本の柳だった事が由来の様です。

二条柳町が誕生前の京都に散らばっていた遊所をひろい上げると、

北小路西洞院の傾城屋、北小路(きたしょうじ)は現今出川通りと七条の一筋北の二本あるのですが、どちらを指しているのか分かりません。貞和三年(1347)
北小路西洞院の傾城屋が焼けたという記録があります。

五条東洞院の遊女町、足利義満の愛妾高橋殿がでています。ただしその頃五条は現在の松原通りでした。

畠山図子の遊女町、上杉本「洛中洛外図屏風」に描かれており、遊女が通行人の袖を引っ張っています。遊女は束髪です。現畠山町は今出川の寺町と新町の間の筋を上がった所にあります。

地獄が辻(=かせぎが辻?)、現突抜町、今出川通七本東入ルで上七軒の近くです。ここは織物の町ですので、地獄は地奥の転訛、輸入品の織物、唐奥に対して、地本産を地奥と言ったようです。(ただし、この西陣の地獄が辻が遊里のあった地獄が辻であったと断定はできません。むしろ違う可能性の方が強いです。)
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                        突抜町
其の他、錦小路町遊女屋がありました。現町名は無く、錦小路のどこかでした。また、五条橋松原に立君がいたらしく、応永四年(1392)立傾城現るの記録があるそうです。

参照:日本花街誌 明田鉄男、京都市の地名 平凡社、日本遊里史 上村行彰
京都遊廓見聞録 京を語る会、洛中洛外図の世界: 室町時代の京都を見る 井上知明


by gionchoubu | 2014-09-27 12:25 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

篠塚流

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                       祇園祭お迎え提灯に毎年篠塚流が参加しています。
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                         花街の信仰が厚い知恩院濡髪神社にて
上七軒 篠塚流→花柳流
先斗町 篠塚流→篠塚流と井上流→若柳流と井上流→尾上流
宮川町 篠塚流→楳茂都流→若柳流
嶋 原 篠塚流→篠塚流と井上流→西川流 (*そのあとさらに花柳流に変わった模様です)
五番町 篠塚流
祇園東 篠塚流→井上流→藤間流
祇 甲 篠塚流→井上流
これに七条新地までも篠塚流だったという事なので、京都の踊りはすべて篠塚流が牛耳っていました。

この篠塚流の初代を技芸倶楽部の風月庵記は元禄時代名古屋の俳優、篠塚次郎左衛門に求め、一派はその後寛保に人気のあった嘉左衛門、善八事歌桐と受け継がれましたが、卯之吉あたりで衰微していき、もう一派である篠塚次郎左衛門の実弟十左衛門の子磯五郎の子、文三郎が江戸の志賀山流を取りいれた名古屋舞を京都にもたらし、下河原の芸妓や町方の娘の人気を得て、文三郎の子やはり文三郎と名乗り京都全市を手中に治めたとあります。

それまで京都の舞は幸若舞の変化した大頭の女舞が京舞であったが、篠塚流が現れると人気が無くなりました。

田中緑江は『京の舞踊』で篠塚文三郎を祖とし、その特徴を佐渡島流や志賀山流に幸若舞さらに能楽金春流を応用して自流を完成させたといいます。
その流儀は「手を伸ばさばあらん限り、足を伸ばすなら伸びるかぎり」と、舞台向きの派手な振りを特徴としています。

この篠塚流が確立したのは井上流とほぼ同じ頃、寛政年間(1798~1800)ぐらいと見られているようです。

この初代文三郎のあと、二代目文三郎、力寿(りきじゅ)と続き、三代目文三は明治五年、鴨川踊の振付けもしております。また嶋原の師匠もしていましたが、後妻のまさが大酒飲みで朝から樽から柄杓で酒を飲むありさま、弟子もしだいに離れて行き、後継者なしに明治十九年に亡くなりました。

その後、玉うのという女師匠が晩年上七軒に教えにいき、篠塚四代目を名乗っていたようです。そして、塚たか、辻本東三、藤村東三、水野つる(先斗町師匠)出雲菊子(上七軒出雲の女将)などが、個々指導にあたっておりました。

しかしながら昭和十年発行の『郷土研究上方』「上方舞踊号」という特集号全般、篠塚流の記述はゼロに等しく、この頃は人々の話題に上る事もなかった様です。

そして昭和三十七年に篠塚梅扇が多くの方々の後援を受け五代目篠塚流家元を再興しました。

篠塚流もそうですが、踊りの流派を辿るのは大変困難で、私も山村流や藤間流を辿った事があるのですが、能力不足が一番とはいえ、複雑で、諸説もあり、途中で投げ出しました。(山村流に関してはもう一度チャレンジするつもりです。)

又、家元の後継者の問題が大変なのは過去、色んな流派の問題が紙上、テレビで何回もとり上げられてきたのは周知の通り。三世不在の時期が長くありましたが、つくづく初生から現五世まで磐石の井上流が、原則男の弟子を取らない、京都から基本出ない、の排他的な要素も含め、特殊中の特殊と言わざるを得ません。


by gionchoubu | 2014-09-25 17:44 | 京都の花街・遊廓 | Comments(5)

雇仲居の学校

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昭和三十年に封切られた夫婦善哉は昭和初期ごろの大阪の風情を映したもので、主演は森重久弥、寄り添うのは蝶子という元北之新地の芸妓でヤトナとして家計をささえる淡島千景

大正十四年の『技芸倶楽部』35号で、この雑誌の記者が「雇仲居の学校」という記事をかいています。これによれば、京都で始めて雇仲居倶楽部ができたのが大正四年の秋で、場所は四条高倉西といいますから大丸のすぐ近く、今の繁華街のど真ん中といった所です。

この時代背景としては後大典前で経済は活況を呈し、飲食業も大繁盛で雇仲居を受け入れる下地は整っていたようです。この最初の倶楽部には元祇園の芸妓で東文龍も雇仲居として働いていたとの事です。

そして雑誌が発売された頃には、やのなの数も増え、府令により雇仲居取締規則も発布され、五条部内に二十、西陣署部内に八、中立売署部内に十一そして川端、堀川両署に七箇所、計五百人のやとながいました。単純に計算すると、一つの倶楽部に十人強のやとなが所属していた事になります。

そして仏光寺河原町西に全市雇仲居組合の取締事務所があり、矯風会という、雇仲居の学校もありました。この学校の前身は大正九年に二条木屋町のお寺の座敷で仮設されたのが最初で、大正十一年に組合事務所に移されました。

この学校の授業を見ると、大阪の便宜芸者としてのやとなのイメージとかけ離れた、大変厳しいもので、仕事の合間、市内の雇仲居は全員月四回以上はお昼の三時間近い時間授業を受ける義務があり、四回以下は過怠金を取られる仕組みになっていました。

この授業を総て書き留めると初等科である梅組科の内容が、

梅組科

起居態度、起居動作、進退の作法、立礼、座礼、庭園を散策する時の心得、戸障子及襖の開閉作法、洋式扉の開閉作法、座布団の出し方、火鉢の進め方、煙草盆の出し方、菓子の出し方、茶の出し方、引菓子紙の折方、排列の順序、炭の次ぎ方及寸法、碁盤の出し方、料理箱硯箱取扱心得、書籍色紙短冊の取扱心得、扇子の進め方心得、団扇の進め方心得、座敷へ案内及送り出しの心得、二階へ案内及送り出しの心得、階段にて会った時の礼、携帯品預り方心得、帽子及肩掛の渡し方心得、傘及洋杖の渡し方心、座敷上下、取次ぎの心得、送り出しの心得、自他履物の心得、来客に対し手洗いの作法、人の前を通ずる時の礼、人に行き会った時の礼、途上の礼、椅子に掛ける時の心得、賞状の受け方、刃物取扱いの心得、自己化粧心得、袴の名称、公衆の場所、陶磁器洗浄の仕方、大酔は如何にして手当てすべきか。

梅組科で徹底的にやとなの心得、行儀作法を教えました。梅組科が初等クラスとすると、随時科、竹組、松組、御礼式は上等クラスというべきもので、これも記すと、

随時科
 
会席膳組立の心得、本膳・二の膳・三の善・組立ての心得、折詰及縛り方の競技、箸紙の折方及び水引の掛方、洋服の取扱心得、袴の紐結び競技、礼式しをり目次質問。

竹組 

茶道、華道、花器と花台の名称

松組

置物飾り方、床の間装飾、日本間の装飾、掛物種類の取扱心得、屏風の種類と取扱心得、祝儀に忌む花の名称

婚礼科

三々九度盃の伝、其他儀式一式

やとなと言うと、時代が生んだあだ花、擬似芸者のような扱いを受ける記述も見かけるのですが、京都に於いては、この時代の雇仲居は芸妓にも劣らぬ、いや芸妓以上の厳しい行儀作法を目指していたようです。








by gionchoubu | 2014-09-23 11:43 | 雇仲居 | Comments(0)

酌人と雇仲居

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                        竹原
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                         住吉町
京都では江戸時代、下河原の山根子と呼ばれ、客に求められて酒の相手をするというよりも、東山山麓にて六阿弥(ろくあみ)といったお寺が経営した席貸屋に舞台を求め、品格を持って技芸を披露した町芸者や、宴席にも出て三味線も弾き踊りも踊るが、結婚式の儀礼や葬式のしきたりの際、家人のお手伝いに長じた酌人という職業がありました。

明治になり、山根子は祇園に同化され、井上流の踊り手となり座敷に侍り、山根子芸者と呼ばれる人はこの時代に消え去りました。一方酌人は、大正以後は雇仲居と名を替え、京都ではつい10年ほど前までは、客の求めに応じ旅館や料亭に、和装のコンパニオンとして座敷に入ることがあり、下河原に一、二軒ですが個人で経営されている倶楽部がありました。

この酌人が、料理屋、旅館の仲居と違うのは、酌人同志の横の繋がりを大切にしながらも、開宴事情の消息に長じ、特に冠婚葬祭などの席でも重宝されたことで、酌人の鑑札をもっていたことです。また、花街の芸妓とちがうのは、本来芸妓ほどの華美をよしとしなかった点で、大正八年『郷土趣味』13号の「大阪の酌人に就いて」今西茂喜筆を読むと、酌人の風俗は質素で、紋服では精々紬の紋付を用いるぐらいで、頭はりょう輪に結び、お歯黒をし、眉を落とすという独特なスタイルをもっていたといいます。

京都、大阪以外東京、福岡、姫路、神戸、奈良等にもこの酌人がいましたが、この雑誌が発売された頃には衰微していったようです。さらに芸妓が廃業してこの酌人に鞍替えしても、体力、習慣、養成も素因がことなるので、労働耐えられず中途挫折するのが普通だったようです。

大阪酌人組合規約及趣意書に

第六条 組合員は宴席に侍すると否とを問わず勉めて倹素の風を尚び其言語挙   
動を温雅にして苟しくも花街に於ける淫ぴの風に感染せざる事を要す。

第九条 酌人見習中は宴席に於ける盃盤の配置歓待の方法其他冠婚葬祭の儀礼に通暁すべく姉酌人に於て之が養成を怠るべからず。

と、当初の酌人の職業倫理は大変高いものでした。

しかし明治三十九年八月二十八日、大阪市酌人同業組合が大阪府知事、高崎親章に提出した『酌人組合設立趣意書』を読むと、大阪では酌人組合設立当時に於いてすでに「其下層にして卑俗なる業務に対する改善の手段を講ずる蓋し急務中の急務と云う可し」、と、お茶屋しか入れない芸妓と違い、おでんやであれ、そば屋であれどこでも出入りできる酌人のステータスを最大限に利用し、酌人の蓑を纏った簡易芸者として花街を蚕食する芽は既に出ていたことになります。

その後新世界で雇仲居は猛威を振るったのですが、西日本にはこの芸妓ならぬ雇仲居ばかりで一地区を形成した所が、私が知る限り、新世界以外に二箇所あります。

一箇所は昭和初期にできた三重県の四日市の住吉町と、もう一か所は広島県の竹原です。








by gionchoubu | 2014-09-21 11:09 | 雇仲居 | Comments(0)

やとな 大正芸妓 有芸仲居

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                         新世界
やとなさんとは大正から戦後にかけ大阪、京都、奈良、兵庫で一大勢力をもった女性の職業で、芸者の様で芸者でない、酌婦の様でそれだけではない、警察には常に目を付けられ、花街からは目の仇にされ、それ故変わり身も早く、場所により、時代によりその形態をかえ、その柔軟性ゆえ定義すらままならぬ存在でした。

京都では下河原が本場で、ほんの四、五年前までは、私も年一ぐらいはお客の要望で手配もさせて頂きましたが、今はもう営業されていないかもしれません。

現在のやとなさんは着物姿の手慣れたコンパニオン以上でも以下でもなく、料金も着物着用のコンパニオンと変わりませんでした。

やとなとは雇仲居のことですが、そもそも仲居は料亭、お茶屋、旅館で配膳が主な仕事で、臨時で仲居を派遣で雇うのは助仲居(すけなかい)で、たとえば貴船などで夏の一定期間これを手配するのを長助と呼びます。

しかし、お酒の相手が主で配膳はしないのに何故雇仲居なのでしょうか?

ヤトナの本場であった新世界の歴史を辿り、私ながらにその答を探って見ようと思います。

明治三十六年、現新世界から天王寺公園にかけ第五回内国勧業博覧会が催され、その跡地を中心に明治四十五年初代通天閣、ルナパークを含んだ一大アミューズメントパークが新世界でした。

そして大正四年逢坂通りに雇仲居小雪倶楽部が営業を開始しましたが、酌人の鑑札を手にしたやとなは、おでん屋だろうが蕎麦屋であろうが、一般の仏事、婚礼などでも何処でも赴くので重宝がられ、なにかとシバリの多い芸妓と違い、安価な上電話一本で呼べるのも便利で、新世界には新奇を求める客が真昼間から押し寄せる現象まで引き起こしました。

これに驚いた花街側は警察当局に取り締まりを働きかける一方、自らも料金を含めた営業形態の見直しを迫られたのです。

新町を省いたこれらの花街は江戸期の長きに渡り非合法遊里として、唯一公許の新町の強い要請で常に取り締まられた対象でしたが、皮肉な事に、明治になり自分たちが権威になると新町と手を携え新規の参入者を拒んだのです。

それでもヤトナの快進撃は止まらず、ヤトナの舞妓、幇間までもが出現するに及び、大正六年所轄難波警察も、新世界の業者の自覚改善を促す為、酌人新規出願を停止するという強硬手段で望みました。

そうこうしている内にも敷地内には料理屋が続々竣工するので、新世界酌人組合は大幅な改善策を実行せざるを得ませんでした。

その改善策とはヤトナは三味線を携行せず、裾をひかず、芸名を用いず、明かし花を売らず云々というものですが、これは取りも直さずヤトナはそれまで三味線を弾き、ぞろりとした裾をひいてお座敷に現われ、芸者のような名前を持ち、さらに客から請われればお泊り営業をしたという事に他ならないのです。

お茶引き芸妓の中には厳しい稽古の無い手っ取り早く稼げるヤトナに鞍替えした者も沢山いたでしょう。花街側が激怒したのもうなずけます。

ヤトナは大正芸者と呼ばれたり、有芸仲居の別名もありましたが、自らを雇仲居と呼び、芸の一字から遠ざけたのは、花街や世間の目を鑑み、体裁だけは仲居の一種として取り繕っていたので無いのでしょうか?


by gionchoubu | 2014-09-19 12:41 | 雇仲居 | Comments(2)

幾松の偽写真

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最近でも、竜馬の妻として名高いおりょうの若かり写真の真偽が話題になりましたが、昭和六年にも、当時ある本に掲載された酌人時代の幾松の写真が本物かどうかという話題を、昭和六年の『技芸倶楽部』技芸倶楽部社発行で、中神鹿城が三号にわたり掲載しました。

これはこの頃、東京の四六書院から発行された『芸者通』という本で、著者の花園歌子が文久三年(1863)に撮影されたと書かれた、幾松二十才頃とされる写真を掲載した事に端を発したものです。

実は鹿城は明治の末頃、大阪朝日新聞の記者時代、幾松の写真が実在するかどうか奔走するも糸口すら掴めなかった経験があるので、この写真が載ったときすぐ疑問を抱き、花街研究家の加藤藤吉に相談しました。藤吉は『芸妓倶楽部』にも寄稿し、歌子とも親交があったからです。

鹿城の言葉によると、「明治維新前、況して文久三年頃幾松にかぎらず三本木の酌人の写真が世にあらうとは信じられません、又其の時代に三本木の酌人が此様に江戸ッ子髷を結ふて居る筈がないです、又其頃には三本木の酌人のみか京都の芸者が斯様細衿の衣服を着て居る筈がないです〜略〜其外履物といひ総てに対して三本木の幾松とは何とも信じられない様です。」

一方加藤は肯定側で、この写真は当時のガラス写真の原版は不明ですが、印画紙焼付け版と考えられ、大審院判事法学博士尾佐竹猛の主宰する明治文化研究会、維新史料、風俗研究家もこれを幾松と認めているという答えが返ってきました。

しかし加藤自身も明治以前の文久に撮影されたのは疑問視しており、さらに尾佐竹博士も幾松の偽写真が数種出回っているのを認めながらも、これが幾松であると説得させる材料は東京側より出て来ませんでした。

歌子の方は、写真に幾松と書いてあった、東京側で田中伯以下多くの人が幾松と認めている、偽者と因縁つけるとは、いったいこの始末をどうしてくれるのだ、と、怒りに満ちた寄稿を『技芸倶楽部』に寄せ、中神も全文これを掲載しました。

中神は井上流の名人で花柳界に通じた松本佐多や実際幾松を見たことがある祇園の老妓に写真を見せても、悉く否認論者でわが意を得ましたが、決定的に偽写真と結論つけたのは、実際三本木時代の幾松と働き幾松を良く知る、この時八十六歳の老嫗も、さらに前回載せた木戸松子になった幾松の写真を所有していた木戸公別荘の当主、木戸忠太郎の証言も、写真は全くの別人であると裏付けたからです。

この騒ぎの中、鷲山球天が技芸倶楽部に、桂小五郎が即興に書いた浮雲に木圭(もくけい、桂の字を二つに分けた号)の落胤のある「さつきやみ あやめわかたぬ 浮世の中に なく(鳴く)は私と社守(ほととぎす)」の都都逸を添えた、小五郎直筆の団扇の写真を寄せました。

新撰組の厳しい追跡の中、幾松爪引きの三味に合せて、吉田屋の一室で吟じたかもしれない情歌を載せた団扇は、数十年後の浮世の写真詮索騒動をどう見たことでしょう。

* おりょうさんの写真ですが、名前が添えられていただけで本物であると判断するのは大変危険だと思います。なにしろ幾松の偽写真には洛東霊山にある翠香院松子さんの墓誌まで書き添えられていたそうですから。 


by gionchoubu | 2014-09-17 14:05 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

芸妓幾松が存在しなかった理由

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                       木戸松子夫人
                   
三本木といえば、矢張り幾松の逸話が気になるところですが、『霊山歴史観紀要14号』の大西荘三郎氏の『桂小五郎と幾松の顛末』を読むと、どの本にも父木崎市兵衛は小浜藩士と書かれており、私も、成程、武家の血をひく娘ならでこそあの胆力が備わり、同じ武家の桂小五郎への思い入れがあったのだろう、と思っていたのですが、氏は小浜藩の「藩士分限帳」のどの年代にも木崎姓がなく、「組屋文書」からその名を見い出し、市兵衛が天保元年から嘉永元年までの十八年余にわたって、町方支配の組屋家に勤めていた町人であろうと推破しました。

京都に木崎家が出奔したのは、「不埒の筋に付暇遣」されたためで、これが公にならなかったのは、明治の元勲の妻の父の不始末を公にするのを躊躇ったのではないか、と書かれております。

幾松が生まれたのは天保十四年、十月二日、父、木崎市兵衛。母、末の長女として、幼名はまつではなく計の可能性が高いそうです。

一家が京都にきたのは幾松が九歳のとき、計(カズ)が三本木で舞妓となったのが安政三年で以後二代目幾松として幕末の舞台で活躍することになるのですが、大西氏によれば、幾松の母が嘉永四年に市兵衛と死に別れた後、提灯屋と再婚したというくだりも嘘で、市部衛が無くなったのは明治二十九年で、娘の幾松(木戸松子)より長生きしました。

芸妓幾松は存在していなかった・・・

実は幾松は芸妓でなく、酌人であったという証言があります。昭和六年の雑誌『技芸倶楽部』91号に、当時幾松を良く知る八十六歳の老婦が「妾(わたし)は十三歳から二十五歳まで三本木の美濃徳といふ内から酌人にでていたのです。其頃は中々物騒の事でお武士さんや、稽古人さんが入り交り立ち交わりお越しになって、時々怖い事もありました、桂(木戸公の事)さんや、井上(井上聞多)さんも未だ稽古人時代でありました、幾松さんは同じ三本木の瀧中という内から出ていたお酌人であります〜略〜」

是はなかなか含蓄のある言葉で、三本木が江戸時代には正式な遊廓という免許地でなく、いわゆる町芸者が沢山集まった准花街のような処と考えると、天保の改革で、他所が営業を禁止されたのにもかかわらず、三本木がお咎めなしだったのも、又、遊所番付に顔をださなかったのも、合点がいきます。おそらく花街につきものの検番といった組織も無かったのではないかと思います。

又、芸妓とは鑑札が付きまとい、鵜飼の鵜のようにその花街区域にしばられるものですが、酌人なら自由に羽ばたくことが可能で、随分行動も自由だったことでしょう。

流石、田中緑江さんも東三本木の項で、京都には町芸者という女がいて、町家は、冠婚葬祭のとき、この女達を臨時で雇って式を手伝わせた、又三味を弾き唄を歌い、舞も舞うので、酒席をも賑わせた、と書いており、酌人という言葉はつかいませんが、三本木は町芸者のあつまりであった、と述べておられます。

三本木の酌人達は左褄をとり、見掛けは頭の先から草履まで、芸妓と見分けはつかなかったでしょうが、芸妓幾松は存在しなかった。木戸松子夫人は、三本木の酌人だった、という事になります。



by gionchoubu | 2014-09-14 10:40 | 京都の花街・遊廓 | Comments(2)

新三本木ぞめき 二

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そのすこし後、明治五年の『京都府下遊廓由緒』附図に新三本木之図がのり、北より西側、園通寺の南から上之町に茶屋奥田いく、南町に芸者屋井上勘助、安藤まさ、西村嘉兵衛で東側に上之町に山本清兵衛、中之町から南町にかけて山本長兵衛、神谷ゑい、常浅岩吉二軒、森田嘉兵衛二軒、谷出源右衛門、芸者屋植松あい、岡田でん、北村つるの十六軒でした。中年寄増田与吾八、添年寄谷出源右衛門とあります。

明治三年に公認の遊所になりましたが、同五年廃業、そして明治九年頃に消滅しました。明治三十年に東三本木花街の再興許可がでましたが、批判の声が高くて実現しませんでした。

しかし、日本の近代化を影ながら支えたこの花街の功績を人々の記憶から消し去ることが無いよう、歴史が意思を持ち粋な計らいをしたように私のは感じられるのです。

それはここにあった料亭、清輝楼の二階を立命館の前身である京都法学校の教室として中川小十郎に選ばせ立命館発祥の地とさせた事、さらに志賀直哉に名作『暗夜行路』の舞台としてやはり三本木を使わせたことです。

燦燦たる過去を持つ三本木には園通寺、山紫水明処と立命館が建てた碑が残りますが、今、かつての花街は静かな住宅地としてその余生を楽しんでいるようにも私には思えます。

参照:京都坊目志(碓井小三郎)、京都市の町名、亡くなった京の廓(田中緑江)

* 立命館 草創の地の碑 には、その場所に建っていた精輝楼と幾松、小五郎の吉田屋を混合して吉田屋=清輝楼としていますがこれは間違で、料亭吉田屋と料亭清輝楼は別のたてものです、
 
  吉田屋は禁門の変の後、桂小五郎が同志と密会中、新撰組に襲われた際幾松の機転で救われたとされる料亭で、緑江さんの文章には吉田屋→幸野梅峯画伯宅→湯浅→昭和三十年頃には井上流の屋寿永が夫人として住んで居たことになります。

  一方、精輝楼の後は貸席茨木屋から大正時代あづまやという洋食屋、そして近年まで、碑の写真にある旅館大和家でした。今一度検証され、事実が明らかになれば、訂正されることが望ましいと思います。


by gionchoubu | 2014-09-13 13:07 | 京都の花街・遊廓 | Comments(4)