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祇園東ぞめき 十二

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                          昭和三十二年のねりもの
                       昭和十一年には後ろに見える屋台におもちゃがいました。

祇園の姉妹

昭和十一年(1936)封切り、原作、監督、溝口健二、脚本、依田義賢の表題の映画は、当時の祇園乙部のおもちゃの芸名の実在芸妓を、当時十七歳山田五十鈴が迫真の演技で演じ、見るものを圧倒しました。

実在のおもちゃは川邑の芸妓で、映画が封切られた年のねりものの千鳥破風の屋台の上で囃方の一人として鉦を担当しました。又昭和三年の祇園乙部芸娼妓名簿で吉之家の娼妓におもちゃの名がありますので、芸妓のおもちゃはすくなくとも二代目以降ということになります。

溝口の代表映画にとどまらず、日本映画をも代表する傑作として名高い作品ですが、実はこの映画は封切当時、祇園乙部の人々を激怒させ、廓の新聞に、あの映画の関係者は三条、四条の橋を渡らせない、つまり祇園に近づくのを許さないと書かれたのです。

祇園は、その昔大和橋架け替えに始まって、安政四年には乙部の林下、清本両を含む内六町が鴨川の河原へ四十二本の石柱を築立て、長さ五十軒の橋板を敷き渡し、幅三間欄干付の見事な四条大橋を架しました。さらに明治七年にも、祇園新地内六町、外六町相よって工事費自ら負担で、府の勧業課に四条大橋架替えを願い出て、宇治観月橋畔の製鉄所に発注して欄干、脚柱の鋳造をなし、七、八年の両年かけ工事を成就、祇園の紋章であるつなぎ団子が施された欄干を誇りに、元吉町、弁財天と並んで後の乙部の林下町の代表が出て華々しく渡り初めをしました。

つまり、祇園にとって架橋は遊客を導く生命線であり、ときには茶屋株のバーターとして架橋は時の所司代から課せられたもので、この血のにじむような努力で渡した橋をそうやすやすと渡らせないという思いがこの言葉の裏にはあるはずです。

映画の内容は、芸妓と客の関係を、旦那制度を含め、打算的な敵対関係としてリアリスティックに描いたもので、暴露物になれた現在の目を通して見ると、さほどの怒りを買うものでもない様な気もするのですが、こういった表現に免疫が少なく、献身的にロケに協力した当時の祇園の人達の身ともなれば、騙された気になったのでしょう。

この映画は当時の乙部の息遣いを感じ取れる唯一の手がかりで、昼尚暗い路地という路地を早足で通る、芸者、遊客、物売りのシーン、夜になれば軒先に丸型ガラス電で屋形の名を浮ばすお茶屋の様子など、今のバー、クラブなどに軒先の殆どを譲った現在の祇園東には存在しない、三業地、五業地、免許地などの面影を偲ぶことが出来るタイムマシーンのような存在ですらあります。

現存拝見できる物は六十九分判で完全版より二十分程カットされた判しか残されていないのですが、戦前の一つの花街の様子を捉えた一級の資料としても重要です。

祇園町北側の看板がはっきり読み取れるなど、この作品のほとんど乙部内で撮られた事は明白で、さすがに古い映画のため、画面上解読できないお茶屋も多いのですが、それでも当時の芸妓置屋上歌、娼妓置屋山下、お茶屋の平八(昭和四十八年の名簿にあり)、の名は読み取ることができ、さらに貸座敷一覧では確認できないものの、池光などの名も確認できます。

そして梅吉、おもちゃの姉妹が住む置屋は持ち家でなく借家である事、甲部のエリアではありますが、まだ欄干のない巽橋のシーンがある事(残念ながら映っているのは白川の南側で、第二次対戦中、強制疎開されたお茶屋大友を含んだ白川の北側は映ってません)、南木屋町の席貸(お茶屋と同意語である貸席とは又違った業種で花街、遊廓の免許地以外でも営業できました。旅館的な機能をもった所もあり、文豪などが長逗留して作品を書くことでも知られています。)だと思える座敷のシーンがあることなど興味はつきません。

この映画製作の際、脚本家の依田義賢氏は三十歳、全く花街になじみがなかったので、中京の呉服問屋の旦那の紹介を得て、祇園甲部のお茶屋、加藤楼へ絣に袴、弁当持参で取材をかさねました。

封切り後、祇園から大バッシングを受けたのは前述の通りですが、当人による後日談によれば、祇園のお怒りがとけたのは一年もたってから、山田五十鈴の役名、おもちゃ本人に座敷にきてもらい、手をついてあやまったところ、罰としてダンヒルのライターを取り上げられて許してもらったそうです。その後は旭日昇天の勢いで乙部であそびつづけ、やがて甲部のなじみにもなりました。

祇園の姉妹はその後、1956年、野村浩将監督のもとでリメイクされども、舞台は甲部の設定でおもちゃの役名もなし、内容も大分薄められた感じがします。とは言え、若き日の勝新、舞妓姿でパチンコをする中村玉緒、芸達者な田中春男や、当時良く芸者役を演じていた小暮美千代など、それなりに結構楽しく見ることが出来ます。

さらに1999年、深作欣二監督、脚本新藤兼人で『おもちゃ』というタイトルの映画が溝口健二氏へのオマージュで作成されども、内容は昭和三十三年の京都の花街を描いたものの、乙部とは関係のない作品で、私も見る機会を得ていません。

余談ですが、溝口健二氏の信奉者であるジョージ・ルーカス氏と依田氏は面識があり、彼がスター・ウオーズ、ヨーダのきっかけであったと一部で噂されていますが、真偽の程は不明です。

私の所有する絵葉書では、アンニュイなお茶屋の座敷の午後、ナミ、玉リュウ、三郎の芸者と共に、トーストや、紅茶を前に、お菓子をとって、帯は矢の字、けだるげにこちらを見る舞妓姿のおもちゃさんらしき写真(一番右)があります、ただし鉛筆の手書きで四人の名前がかかれているため、本人との確証を得ておりません。

このブログのカバー写真がその絵葉書です。


by gionchoubu | 2014-08-31 16:03 | 祇園東 | Comments(0)

祇園東ぞめき 十一

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                         南座の総見

昭和五年に日本遊覧社から発行された『全国遊廓案内』の祇園遊廓に「享保十七年には茶屋渡世の公許が下り、寛政二年(今から約百三十年前)には遊女町の許可があって、完全に遊廓と成り、更に明治十八年には甲の部、乙の部とに分離して今日に至ったものである。甲乙ともに芸妓は娼妓より多い。」とあります。

さらに同時期に書かれた松川次郎氏の全国花街めぐりでは当時の京都八花街を祇園新地甲部、先斗町、上七軒、北新地甲部(五番町)を芸妓本位、宮川町と祇園新地乙部を芸・娼両本位そして島原、北新地乙部(五番町)を娼妓本位とし、京都の花街を「芸妓本位の花街にも少数の娼妓があると同時に、娼妓本位の花街にも若干の芸妓が居る。例えば祇甲にも太夫が居るし、島原にも芸妓が居るの類である。北新地は芸妓部組合と娼妓組合に分れ、それで二つの遊廓として算へられているけれども、元来同一の区域であるから芸娼妓本位の一遊廓と見てもよいであろう、実際には娼妓の方が多数を占めている。そして芸妓本位もしくは芸娼両本位の遊廓に於ける娼妓は凡て“送り込み”の制度で、屋形から揚屋へ呼んで遊ぶのであるが、娼妓本位の遊廓の娼妓は“居稼ぎ”であることを、その特色としている。」と、祇園乙部の娼妓が送り込みであったことを示しています。

昭和九年、日中戦争を三年後に控えたこの年七月二十日、祇園乙部歌舞練場では、国防婦人会祇園乙部分会の発会式が挙行され、女将、芸妓、仲居等役三百五十名は、白エプロン、白襷の盛装で整列、開会の辞、国旗掲揚、宮城遥拝、伊勢大廟遥拝、君が代合唱の後京都連隊区司令官中林中佐による「国防婦人会の使命に就て」の講演があり、二十七日には祇園甲部の芸妓らとともに、乙部から国防婦人会員となった桃菊、ひさ、絹葉ら十人が下京区役所にて防護団に対する配給、その他の勤務に服しました。

この年の祇園乙部の芸妓花順をみますと、よし、久栄、一太郎、仙太郎、桃菊、芳千代、芳福、三栄、とよ冶(岡留の名妓豊冶と思われます)、末吉らが上位に名を連ねました。


by gionchoubu | 2014-08-30 13:30 | 祇園東 | Comments(0)

祇園東ぞめき 十

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                  現在祇園をどりの撮影は禁じられています。

錦織剛男の京都遊廓年表に、明治十八年、十二月、下京十五組(当時東山区は存在していませんでした)祇園北側町の老娼妓、重村政勇ら娼妓互慰会を結成、
花柳病で入院した場合に備えての互助会制を設立したとありますが、これは甲、乙どちらであったか詳らかでありません。

さて、明治時代の乙部がどんな様子だったかを伝える資料は殆どみかけません。
芸妓に対し娼妓が多くを占め、よい廓と見なされなかった事、明治三十三、四年、分離前の共有財産であった八坂女紅場の不動産に関する法廷闘争が甲部とあった事、明治四十三年、宮川町、先斗町とともに祇園乙部の三花街が芸娼妓救済所を設立、内外日報に「芸娼妓の生みし子供にして便りべき所なきもの、芸妓にして疾病休養中衣食に窮するもの貧困者を収容して病者に医薬を与え正業なきものには産業を授け老衰を養い、児童には適当な教育を施す等夫々身分に応ずる救済法を設ける」という記事が載った事ぐらいしか手元の資料では見出せません。

しかし娼妓優位の乙部で、明治三十三年、布令によって貸座敷組合が設立されると、雪亭の主人小山友次郎氏が取締に就任、この廓の改善に努力しました。
大正十五年に取締を辞任した際その長年の労に報いるため、慰労金と記念品の贈呈式が祇園中村楼で行なわれました。そしてねりものが乙部によって復活を果たした昭和十一年の一年前、昭和十年七月十二日、これを見ることなく、八十一才で亡くなりました。

歓亀神社の中に、大正四年十一月に建てられた玉垣がありますが、その中にこの雪亭と小山友次郎氏の名を確認することができます

分離当時、祇園乙部の茶屋(貸座敷)七十戸、芸娼妓併せ百人強、

明治二十八年刊、『京都土産』所載遊郭一覧によれば、貸座敷百四十五軒、芸妓三十五人、娼妓二百三十六人、屋形二十六軒、

大正元年末の貸座敷数は百九十三戸、芸妓八十五人、娼妓二百二十六人とあります。(京都府警統計)

大正十二年には藤間門壽を舞踊教師、師匠である藤間門壽郎を舞踊顧問、ほぼ同時期に清元教師に清元梅松、師匠の清元梅吉を顧問迎えました。

『技芸倶楽部』によれば、昭和三年一月末の祇園乙部は取締が西川繁三郎、美摩女紅場専属師匠として舞踊 藤間門壽郎、長唄 杵屋勝六と鎌田美代、 鳴物 堅田新十郎、美摩女紅場嘱託師匠、浄瑠璃 野澤喜市郎、常磐津 常磐津菊三郎、清元 清元喜三太夫、顧問 竹澤弥七

屋方(置屋)数、百十九戸、芸妓数二百四十五人、娼妓数二百四十九人 
芸妓を五人以上抱える屋方は北常、近江福、田中君、花菱、浅種、岸辰、
君徳、ともゑ、大鐡、高愛、九二八、柳楼、鶴米、川邑、酒井亭で娼妓を沢山抱えていた屋形に河福、木村初、吉之家、山梅、伊勢八重などで、九二八のように芸妓十三人、娼妓十一人も抱える見世もありました。現在まで続くのが岡留、中勇、繁之家です。



by gionchoubu | 2014-08-29 12:47 | 祇園東 | Comments(3)

先斗町ぞめき 十四

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                    道楽橋があったとされる先斗町側

納涼床
 寛政十一年(1799)刊の『都林泉名勝図絵』を見ると鴨川の四條河原にて、多くの料理茶屋が行燈に名前を掲げ、酒や料理で涼を求める人をもてなす様子がうかがわれます。今のように鴨川東側に床が組まれたのは明治以後のようです。
現在は二条から五条までの禊川の上に初夏には床を並べます。先斗町のお茶屋で床をだすのは、初乃屋、大市、井ふみ、丹米など。

十五大明神 十五番路地には千社札で埋め尽くされた十五大明神があります。これは昭和五十三年に火事が起きた時、酒房「ますだ」の所でピタリと止まり、狸の置物が割れていたといいます。これはお狸様が身代わりになってくれたものに違いないと、ますだの名物お女将おさださんが祀ったものです。
以前はお賽銭を入れると、お神楽のような音楽がなり、おたかさん本人の声で運勢をうらなってくれました。この占いはおさださんの人生観が窺える大変魅力のあるものでしたが惜しいことに故障したままです。この装置が壊れたのは、私の記録によると2008年のことです。ますださんのお店のなかには常連であった司馬遼太郎の直筆の屏風があります。

道楽橋 かつて先斗町と川端通りを四条大橋のすぐ北で結んでいた橋。
『鴨川の景観は守られた』木村万平著、では先斗町の北100メートル(現在お地蔵さんがある場所)から川端にかけて菊水という鳥すき屋が大正時代に自費で建設したもので、人幅三人ほどの木製の橋で「菊水橋」というのが正式名だったとの事。実際この店主片岡金七が写した菊水橋の写真が載ります。昭和十年の鴨川の氾濫で流されたとあります。

ちなみに、この洪水では祇園芸妓によるねりものが中止になりましたが、先斗町では若い芸妓に紫、年配芸妓に薄鼠の揃いの衣装、帯も紅白の昼夜帯、履物も揃え、明治二十六年以来中断してした四十三年ぶりの復活ねりものを盛り上げようという話があったそうです。

一方『決定版先斗町のすべて』先斗町歌舞会監修によると、作家の杉田博明氏の文筆で、これは料亭「竹村家」が私費で差し架けたもの、泉鏡花の短編小説『笹色紅』に竹村橋が出ている、と言った紹介があり、さらに、昭和三年ごろこの橋がなくなったという証言が、画家田中善之助の『京ところどころ』に記されている、とも書かれています。

どちらも祇園と先斗町という京都の象徴的な二花街を結んでいたので道楽橋と呼ばれていたのは共通しています。最初は竹村家が架けたが流され、その後菊水が架けたとすればなんとか辻褄は合います。

上記『鴨川の景観は守られた』によりますと、この道楽橋復活の議論が突如1980年におきました。架橋の場所はオリジナルの道楽橋より北、四條大橋と三条大橋の真ん中辺り、先斗町公園のすぐ北が予定地で鴨川の東側は賛成、先斗町はおおむね反対でした。その後数年を経て京都市による架橋理由として1、東西の中心街の一本化 2、消防署の迅速な到着 3、親水空間の多様化が京都地域商業近代化地域計画報告書にあったそうですが、1の理由はともかくとして、2はこういった計画の大義名分を表明したもので、官側が提唱したもっともらしい言い分。3にいたっては何をいっているのか分かりません。

その後、1996年、フランスのシラク大統領が来日の際、「鴨川にポン・デ・ザールの理念を生かした橋を架けては」と提案してこの問題が再燃にましたが、景観を損なうものとして反対運動がおこり、市はこの計画を白紙撤回しました。

先斗町側でこの反対運動の中心となったのが料理店「山とみ」の女将さんでした。市が山とみの鴨川側の看板が美観地区の条例違反として一ヶ月以内に取り除くよう通達してくるなどのいやがらせに出たのにもめげず、一人で立ち上がるや、署名、カンパを募り、集会で訴え、勝利に結びつけました。

勝利集会で、平成のジャンヌ・ダルクと持上げられたとき、「ジャンヌ・ダルクやて、人を火あぶりにする気どすやろか」と返したそうです。
山とみは、もともと先斗町で五十年続いたお茶屋さんでした。

ポン・デ・ザールはセーヌにある橋で、ポンはフランス語で橋を意味し、ポンと発音しますが綴りはpontです。先斗とpontは全くの偶然とはいえ、先斗町の語源がいまだに謎ですのでなにか因縁のような物を感じます。




by gionchoubu | 2014-08-24 11:43 | 先斗町 | Comments(0)

先斗町ぞめき 十三

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                         二見ヶ浦   
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                          高野山

先斗町あれこれ


千鳥の紋章 『日本花街志』で加藤藤吉は、「千鳥は加茂川の冬の情緒を語る名物の一つで、京の宿に聞く淋しいその鳴声は、家郷を偲ぶ独り身の侘しいものともなれば、置炬燵に夜の更けるのを忘れる楽しい思出ともなり、詩情豊かに心のマークともなる、京都の花街らしきものといえよう。」
「紋章の沿革は明治五年鴨川をどりと冠した、花街舞踊を始めて開催した際、当時の取締楠小三郎により創案されたもの」と書いています。

鴨川組と丸寿組 大正時代から続いているのが、高野山参りの鴨川組と伊勢参りの丸寿組で、休日を利用して一泊二日の旅を楽しむ妓が多いと渡会恵介が『京の花街』で書いています。高野山の霊場には講中で建てた立派な納骨堂があり、二見ヶ浦にも一対の献灯があります。
昭和七年の『技芸倶楽部』には、「丸寿組本年の伊勢参宮はコノ七日立ちで同夜は二見浦の二見館で一泊翌八日伊賀の赤目四十瀧を見物して王子駅経由で帰廓」という記事があります。先斗町歌舞練場に問い合わせたところ、現在この二講とも健在とのことです。

鴨川湯 かつて組合直営の風呂が下樵木町(中央にある公園の西南角)にありました。創設は明治四十三年とのこと、花街だけに当初は女性専用で芸舞妓は無料だったといいます。昭和四十年まで営業していました。

先斗町児童公園 丁度先斗町の中央にある公園は、第二次大戦中に防火のため、京都で幾つもの家屋密集地が強制疎開させられたが、この通称疎開公園と市営駐輪場もその一つ。多くのお茶屋さんが疎開しました。

昭和34年、京都府が定めた風俗営業等の規制に関する条例によると、学校、病院、図書館と並んで、児童福祉施設の100メートル以内での風俗営業が制限されているのですが、児童公園が児童福祉施設の児童遊園に含まれるのなら、先斗町をある種の風俗営業から守ってきたと言えるのかもしれません。
芸妓町の真ん中に児童公園の取り合わせは不思議といえましょう。

初代市子 先斗町には市の字を持つ芸舞妓の筋がありますが、遡ると大正五年、お茶屋「大市」を始めた初代市子にいきつきます。この市子は十三人の妹芸舞妓をもち、その中の市竜の筋が今でも続いていると思われます。先斗町の一大ブランドです。

ジェラルド・フォード 1974年、アメリカのフォード大統領が、アメリカの大統領として始めて訪日して京都を訪問、岡崎のつるやで日本側がフォード大統領の宴会に祇園、上七軒の舞妓とともにお花をつけたのが、先斗町の舞妓市菊でした。

ライザ・ダルビー 芸者をテーマに博士論文を書くため来日、実際先斗町に住み、市菊の名でお座敷を努め。後『GEISHA「芸者」―ライザと先斗町の女』を出版しました。検番に登録はせず、花代ももらいませんでしたが、市菊から妹としての杯を受け、お座敷では三味線や小唄もこなしました。上記の市子、フォード大統領の項もこの本を参照しました。


by gionchoubu | 2014-08-23 11:46 | 先斗町 | Comments(0)

先斗町ぞめき 十二

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一方、ダンス芸妓は大阪の宗衛門町の河合ダンスが本格的で名高いのですが、花街による少女のレビュー団は珍しく、渡会恵介著『京の花街』によれば、昭和十一年の鴨川をどり『踊る東海道』の中ばさみに少女レビューが登場すると、是をみたフランスのジャンコクトーが感嘆の声を上げたというくだりがあります。

同じ昭和十一年の五月十六日にはチャップリンも後に夫人となるゴダード嬢と鴨川をどりを観劇しました。彼がゴダードと共演したモダンタイムスが封切られる前年のことです。このときの詳しい状況が同年の『技芸倶楽部』七月一日号に載りますので紹介させていただきます。

この日神戸に着くと京都の柊屋旅館にチェックインした二人は市内散歩のあと午後八時過ぎ、先斗町歌舞練場に到着、寺井徹郎取締、舞台監督の日疋重亮氏と握手をして点茶席に向かいました。

ゴダード嬢が上席、チャップリンが次席に腰を降ろすと、この日のお手前は久代と久丸の両妓でした。チャップリンは立て出しの一服をすすると、笑いながらも畏まって茶碗をくるくる廻し、おうすを飲み干すと茶碗をおき、自分の白いハンカチを胸からつまみ出し、真面目な顔をして芸妓の帛紗捌きを真似たのですが、なんともお茶目な姿に滑稽味があったそうです。

茶席が終わると、二人は二階の一等席客休憩所にはまわらず、一階の受付口の長椅子に肩を並べて休憩しました。

会場に入ると、チャップリン、ゴダード、日本人の秘書は会場中央の最前列に座りました。世界の喜劇王と同席の幸運に恵まれた階下の観客は会場を仰いで目を注いだといいます。

奇しくも最初の舞台は喜劇仕立ての弥次喜多を中心とした『踊る東海道』でした。彼が鴨川踊りと書いた小さな団扇でしきりに自分を扇ぐ中、緞帳が上がると、背景は山時代橋柳の絵襖、左右に地方、囃子が並んでおりました。鼓唄が済むと同時に両側から踊り子が踊り出たので、チャプリンは正面、左右に目をきょろつかしながらも、満面笑みを浮かべていたそうです。

「三条大橋」の景では小さな声でしきりに隣のゴダード嬢と語り合い「大津絵」の場面では、藤娘、鬼、弁慶の異様な姿に目を光らせながら大声で笑い、「関の小萬」の景ではじっと舞台を見つめていました。

「吉田二階の場」が終わり、それに続く「店頭の場」が始まると、弥次役の筆右、喜多役の卯の龍が現れ、両人は女郎衆に家の中に引っ張られる場面、両人がこれから逃れるときの足の軽い所作、更に「遠目鏡の場」と進み、一連の舞台が終わると、チャプリン、ゴダード嬢とも膝を進め盛んに拍手を送り、御満悦の様子でした。

舞台が終わり一行が立ち上がろうとした時、観客の一人が両人の前に進み「失礼ですが、貴下の後ろ姿を写生しました。どうかこれにサイン願います。」といいつつスケッチをみせました。このスケッチを手にしたチャップリン、ゴダード嬢は自分の姿のところにサインをしました。さらにそばに居た婦人も扇を広げサインを求め、快く応じられました。

この男こそ京都美術界にその名を得た池田遥邨画伯で、女性の方は先斗町貸座敷卯月の仲居、お繁どんだったということです。

この舞台がチャップリン特別な印象を与えたのは、舞台後主演の筆右、卯の龍に握手をして帰りたいと舞台監督に申し出たことでも分かります。

尤も、二人の芸妓は楽屋を去った後で、ただ弥次、喜多の衣装があるのみ、これを目にしたチャプリンは衣装をぐっと握ると「是が抜け殻に握手だ。」と打ち興じると歌舞練場の芳名録に記帳のうえニコニコしながら鴨崖の地を後にしました。

この年の鴨川踊りは連日満員の盛況で、興業期間の大半は大入袋が出たということです。ちなみに、昭和十五年、再びチャップリンがゴダードと共演した独裁者は、日英米関係悪化のため、大戦後まで国内で封切られることはありませんでした。


by gionchoubu | 2014-08-16 11:29 | 先斗町 | Comments(0)

先斗町ぞめき 十一

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           先斗町にかぎらず、ダンス芸妓の写真はなかなかお目にかかれません。

昭和八年、先斗町歌舞練場の三階を全部ダンス場にしました。これは京都のダンスホールの魁でもありました。

この年、『郷土芸能上方』に劇作家の高谷伸が「先斗町菅見」という一文を寄せています。

「帰る駕籠屋に、また来るお客、チリツテトン、いつも賑わう祇園町、雨のふる日は、流連(いいずけ)先斗町 こんな歌がある。祇園町の大尽遊び、先斗町のしんねこ遊びを対照としたともいえる。」

「常磐津はこゝの自慢、師匠は文字八、昨年扇雀小太夫の戻橋に出演したのはこゝのお姐さん連、その筆頭がお美代である。長唄はレコードでお馴染の筆香を第一とし、卯の子、若手では栄二がある。三味線では肥った房子がめっきり若がえり、三智子、小定、繁勇などゝいふ所である」

「第一の踊り手は市龍、芸も達者だし、いつまでも若い。以前久鶴と言った久龍がこれに次ぎ、若手では豆子、一太郎、美代三、久雄、豆千代などがある。遡ると、堂雨さんと御縁の浅からぬ市子、今は池の療の女将お染などといふ人々もこの廓の踊り手として一時代を活した人であった。」

いずれも、この花街に深く親しん人ならではの、今となっては大変貴重な寄稿となりました。

昭和九年、先斗町少女レヴュー団の中から初めて十七歳の富貴谷常子が、専任ダンス芸者として十二月二十九日に芸者監札をうけ、翌十年一月一日に店だしをする運びになりました。それまでの団員は年が長ずるに準じて、普通芸妓に転向するのが常でした。これは本人より、お茶屋の意向だったとされます。
この時代、花街の置かれた状況を考えると無理からぬものだったのは、以下の趨勢をみれば頷けます。

日中戦争を三年後に控えた年でもある昭和九年の七月十四日、先斗町歌舞練場では国婦先斗町分会発会式が行なわれ、会員四百九十二名(内芸妓二百二十名)は何れも白エプロンに「大日本国防婦人会」と大書した白襷をかけ、結団式、役員選出、講演などが執り行なわれました。さらに十七日、女将十名が班長、久龍、市龍、卯の子ら芸妓十名が副班長として下京区役所に至り防護団の配給に従事しました。

実はこれに先立つ七月七、八日、先斗町貸座敷組合事務所が主催となり、円山音楽堂で「在満将士慰問金募、先斗町少女レヴィュー講演」が催されました。会費は二十銭均一、プログラムの前半は

一、 ジャズタンパリダンス
二、 シャツポー踊り
三、 影を慕ひて
四、 フラフラダンス希望の恋路
五、 タンゴリーサー
六、 青空に唄ヘ
七、 吉原雀(舞踊)
八、 スケータースワルツ
九、 アクロバックスダンス
十、 東京甚句
十一、 神田祭(舞踊)
十二、 唐人お才(新舞踊)
十三、 花売娘の唄
十四、 海燕(舞踊)

そして後半は非常時日本の全十幕で太平洋爆撃艦隊航空隊、軍艦の甲板などの言葉が並びました。この風潮のなか、大日本国防婦人会を前にして、普通芸妓ですら居心地の悪い思いのする中、ダンス芸妓がいかに肩身の狭い思いをしたか、想像に難くありません。

昭和十年には六月二十八、二十九の両日、歴史的な鴨川の大出水が起こり、先斗町は殆どが床上、床下浸水、納涼床も全て流され、損害は六十、七十万円ののぼり、歌舞練場のダンスホールも一時閉鎖するほどの騒ぎになりました。

ちなみに、この月の技芸のお花売り上げ上位者は、笑丸、美代作、豆楽、市、美代奴、豆丸、美代福、吉雄、豆千代、卯の子ということになります。


by gionchoubu | 2014-08-15 12:00 | 先斗町 | Comments(0)

先斗町ぞめき 十

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                      先斗町少女レヴィユー

昭和五年には今も続く水明会がはじまりました。舞妓さんがメインともいえ、普段花街に馴染みのない人も十分楽しめる鴨川踊りと違い、温習会である水名会は選ばれた芸妓による技芸の成果の発表会で、観客も目の肥えた人が多く、会場の雰囲気も趣きも随分違った物なのは、今も昔も変わらないようです。

同時に時代の趨勢もあり、先斗町でも、お客が花代をつければダンスの相手もつとめる、洋装によるダンス芸妓が登場し、京都では宮川町と共にダンス熱が盛んになりました。

先斗町にはさらにお茶屋の娘さんを中心に結成された少女レビュー団まで出来ました。昭和五年、先斗町歌舞練場で四月一日から一週間催された「レビューわが京都」のプログラムをみると、ダンスは石井行康、日本舞踊は若柳吉蔵が担当しており、

一、ジャズ春の宵
二、オリエンタルキャメルトーン、
三、お人形さん
四、人魚の戯れ、
五、蛙ダンス、
六、支那幻想曲武艶舞、
七、角兵衛獅子、
八、メイボールダンス、と和洋混沌とした内容でした。

昭和六年の一月八日、先斗町遊廓新年始業式を覗いてみても、浄瑠璃とダンスが同時に披露されるという、明治以前も、現在も見られない、この時代特有の混沌とした舞台で、午前十一時挙行、式場上手に祭壇を設け、皇大神宮を奉仕し、まず寺井取締より新年の挨拶、営業成績良好各妓に受賞、祝杯の上解散しました。

午後二時に、会場二階に招待客を招き、舞妓のお手前で抹茶を饗したあと、別室にて女紅生徒の裁縫、編み物、習字、手工品等を展示、鑑賞、さらに式場に案内され、各種芸能が一同に披露されたわけですが、そのプログラムは

浄瑠璃、壽式三番叟 勅題舞踊、社頭雪 清元、花がたみ 常磐津舞踊、常盤の老松 長唄素囃、娘七種と続いたのち、ダンス芸妓による、追羽、そして最後を飾ったのが、少女ダンスによる、スパニッシュジプシーフリーダンスでした。芸妓名を見ると義太夫系が菊之助、富太郎と男名が多く、きれいどこは豆千代、市などのそれらしい芸名が目立つのに対し、ダンス芸妓は良子、米子、少女ダンサーも良子、徳子などすべて現代名でした。


by gionchoubu | 2014-08-14 15:18 | 先斗町 | Comments(0)

先斗町ぞめき 九


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                       現在の歌舞練場

昭和二年大林組により、木造の建物を一新して現在の鉄筋の歌舞練場が建てられました。天井を緞子の布で張り、廻り舞台のある立派な建物ですが、なにぶん限られた地所の中、土地の買収は困難を極めたようです。

先斗町の舞踊はもともと他廓同様篠塚流でした。明治四十五年の鴨川をどりのパンフレットをみても、篠塚流の橋本みと子が担当しているのが分かります。

大正十三年の鴨川をどりを調べると、前半を篠塚、後半が若柳といった具合で、公式に篠塚流から若柳流になったのが昭和二年、新歌舞練場竣工が流派の入れ替わりの期になった様で、その後暫らく若柳吉蔵が担当していました。

さらに、昭和十八年より若柳吉朗とあわせ尾上菊之丞の名が見えはじめ、現在は尾上流が先斗町の公式流派となっています。

温習会やおおざらえの外に明治の終わりから長唄を中心とした技芸研究を目的とした千代榮会や、大正には福富師匠の主宰の元に鳴物連が集まった先斗町紫紅会というのもありました。また義太夫が盛んで義太夫芸妓も羽振りをきかせていたといいます。

昭和初期の先斗町に戻ると、松川二郎は昭和四年刊『全国花街めぐり』で、京の遊びは祇園に止めをさすものの、これは余ほど祇園に馴染があってのこと、松川自身も新鋭気風の先斗町に足が向いたようです。

そして当時の代表的芸妓として湯口吉枝、長谷川卯の子、中川市龍、高野市弥、三上喜久弥、浅田市代を挙げ、娼妓は居ないと記しています

高谷伸は同年の技芸倶楽部で『全国花街めぐり』を全国の主要花街をほぼ把握した著述を今まで類例のない著述と推奨していますが、先斗町の代表的名妓として、美代、筆香を洩らしている、少数だが娼妓もいると苦言を呈しています。

丁度この頃、先斗のカラーが革新的なイメージに定着していくのですが、これは取締りがこの町の生え抜きであった出雲房二郎から寺井徹郎に映ったことで鮮明になりました。出雲房二郎が生まれたのは先斗町の著名な貸座敷であった瓢亭で明治二十八年の鴨川踊再興から百万円近い負債を双肩に築きあげた洋装歌舞練場まで四十年に渡り先斗町を取締りとして纏め上げてきた人です。一方寺井徹郎は遠州出身で、その進取の気質が積極的な諸政策を生んだと田中緑江さんは書いています。昭和四年五月十五年、鴨川踊りに英国グロスター公殿下が観劇し、寺井徹郎は殿下と握手し、先斗町一同大感激、大いに自分の新鋭策の力となったことでしょう。


by gionchoubu | 2014-08-12 15:57 | 先斗町 | Comments(0)

先斗町ぞめき 八



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木造の先斗町歌舞練場


鴨川踊りの再開は明治二十八年の先斗町歌舞練場の落成を期に、第十三回が催されました。この建物は間口十軒、奥行十五軒半、翆紅館と名づけられています。この間、明治二十三年には祇園甲部、先斗町、宮川町芸妓が北垣国道知事に対して市税徴収不服訴訟が大阪控訴院により却下、二十六年にも先斗町の芸妓が減税を請願、却下されています。(京都地方労働史)

明治四十三年の鴨川をどりのパンフレットを見ると、この年の貸座敷は東側(鴨川側に61軒、西側に91軒の合計152軒、芸妓188人、義太夫芸妓20人、娼妓8人、伯人19人とあります。白人は玄人に対しての素人、転じて私娼を指したものでしたが、嶋原ではこのころでは太夫の次位(以前は天神と唱えていました)の女のことを言ったもので、嶋原より出稼ぎをしていたものとおもわれます。


大正四年発行の『京都府誌下』によれば大正二年,貸座敷178、芸妓221、娼妓30とあります。


この頃、松竹が鴨川踊を東京歌舞伎座で一週間興行を計画、一列車をチャーターし、上野の精養軒を借り切り寝泊りして連日満員にしたという快挙もありました。

大正十五年の技芸倶楽部では、取締りと鴨涯女紅場の場長が出雲房次郎、貸座敷数169軒、

石屋町  芸妓1人
橋下町  芸妓7人
若松町  芸妓36人 舞妓1人 義太夫芸妓3人 娼妓2人
梅ノ木町 芸妓15人      義太夫芸妓2人 娼妓4人
松本町  芸妓21人 舞妓3人 義太夫芸妓3人
柏屋町  芸妓3人       義太夫芸妓1人
鍋屋町  芸妓43人 舞妓1人 義太夫芸妓4人
下樵木町 芸妓83人 舞妓2人 義太夫芸妓7人 娼妓15人
材木町  芸妓46人 舞妓4人 義太夫芸妓2人

芸妓合計253人、舞妓11人、義太夫芸妓22人、娼妓21人


by gionchoubu | 2014-08-11 18:36 | 先斗町 | Comments(0)