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祇園ねりもの 三十二

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                  昭和十一年七月一日発行の技芸クラブ


乙部によるねりものが復活した昭和十一年は、溝口健二の代表作で祇園乙部の芸妓を描いた『祇園の姉妹』が封切りされた年でもあるのですが、主演の山田五十鈴が演じた“おもちゃ”という変わった名の芸妓は当時乙部実在の売れっ子芸妓で、この時の後屋台の囃方の一人として鉦、川邑おもちゃとして参加しております。

また、江戸時代を含めたねりものの歴史の中でも傑作の一つといえる歌舞伎十八番の一つ「暫」は東京の市川家に許可をいただいたといいます。

この時の祇園乙部によるねりものは幸い大好評を記し、その後人形にこの衣装を着せて東京の大丸、名古屋、金沢、盛岡等各地のデパートをまわりさらに評判を得ました。祇園乙部内でも、このねりものを催したことで廓内の結束も高まり、その後の営業面でも好成績を得たと言いますが、なにより乙部の評価を高めたのは大きな財産となり、その後のねりもの全ては乙部、のちの東新地で続けられました。

さて、昭和十年のねり物が大雨による洪で中止になった際、十一年は乙部、十二年は甲部がそれぞれ単独で開催の約束が交わされ、十一年は乙部が約束を果たしたので、当然翌年は甲部の開催予定で事が進み、実際二月には組合役員が目ぼしい芸妓数名を組合事務所に集めてねりものに出演するよう勧誘しました。

ところが、その勧誘の仕方が「ねりものに出してやる」的な高圧的なものだったという事で芸妓側が反発、翌日になると一旦承諾したものまで断ってしまうとう事態になったのです、技芸倶楽部昭和十一年七月一日号記事よれば、祇甲組合杉浦取締役が「当組合に於て催さんとするねり物に就き、当組合の芸妓がその出演に就いて何の斯うのと彼是不平がましい事をいふ抔とは実際あるまじき事であります、私も組合取締の重任たる以上、当組合員から彼是問題を起さるゝやうな事はして居らない積もり、ねり物に出演を拒む人があれば強ひて出演せなくても宜しい、沢山な芸妓中僅か十二三人の出演者を求める事は左して困難とは思ひません、出演を断る人は断って宜しい、何でも斯でもねり物は実行して見せます」と当誌に状況を語りました。

 そうしている内に都踊が済み、当時行なわれていたやさか踊も終わった五月二十日になっても、開催に関しての芳しくない風説のみが立ったのですが、水面下では男幹事達や女役員たちが不眠不休で?子勧誘に当たった甲斐もあり、漸く十三人のねり子が決まりました。祇甲歌舞会の発表の名は、いろは順で五十嵐登代香、松本とき子、石川とめ子、大塚だん子、松山多美子、松田つゆ、中川万光、野田福光、高橋三栄、中西里喜美、河合三四子、井上久龍、杉本久、いづれも井上流の名取、井上三世もしくは四世の直弟子、鈴木吟子師の弟子で、十三人中、五人は十年のねりものに出演予定名を連ねておりました。

しかし、何者かが府保安課に投書をしたとかで、祇甲役員は同課の呼び出しを受け、芸妓に?子を強制したり、衣装その他の負担を強いてはならぬ、との通達があったとされるのですが、歌舞会としては、市の観光課の補助金二千円を当てにもし、ねり子に衣装代の半額を負担させ、歌舞会は残りの半額、一人につき五百円検討の支出を保安課に申し出をしました。

ところが、市の希望としては、ねりものの進路を昨年の乙部がとったように、河原町を通るルートを希望したものの、祇甲としては従来の廓内中心の練りを主張したため市の交付金は見込めない事になり、さらに保安課も、たとえ半額でもねり子の負担を強いるのは絶対ならぬという厳重な意向を示され、どうにもこうにも立ち行かぬことになり、ねり子を発表した翌々日、すなわち六月十日、歌舞会総満場一致で昭和十二年のねりものは中止となったのです。

芸妓倶楽部の記事は「祇園新地甲部ねり物再中止の由来」で「来年の祇園会には祇甲、祇乙両廓が七月十日と同十八日の神輿祓いと神輿洗いのこのいづれが前の日か、いづれが後日か、兎に角両日に催されるゝものと今から期待して今度こそは間違はないだろうと思う。」と書かれていましたが、結局この期待は見事に裏切られることになるのです。


by gionchoubu | 2014-07-31 15:06 | ねりもの Gion Nerimono | Comments(0)

祇園ねりもの 三十一

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                  いずれこの人形も公開されると思います


                
                七月 七夕の花扇、御花使女中、池糸 きく
五摂家の一近衛家の女中、夏の外出姿と、同家の下僕二人、一人は例年七夕に宮中へ献上の七草の御花扇を持ち、一人は御花扇に雨傘を差しかけゆく、近代公家行事の模演。(高島屋)
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八月 八朔の花紫、吉原の花魁、岡とめ 豊冶
吉原江戸の遊里の行事、八朔に道中の、遊女の特殊なる風俗を歌麿筆「青楼年中行事」等により再現、当日遊女はすべて白色の衣を着する慣例にして、それに禿二人を配す。(三越)

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九月 五条橋の月 弁慶 池糸 房鶴
牛若弁慶五条橋の伝説により、主人公武蔵坊を当時天下に鳴り響きたるかの山法師姿。尚裏頭は寸法、着用法等能楽の観世流により又月夜を想はしむるために銀襴織とす。(大丸)

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十月 吉原廓の紅葉、高尾太夫、近江福、三栄
江戸の有名なる遊君高尾太夫の雨中道中の寛潤なる風姿をみせんとするもの、その名によりて紅葉月十月に見たて、時雨の中を男衆の肩に乗り、長柄の傘を差しかけさせて行く所。江戸時代初期の浮世絵に依る。(大丸)

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十一月 猿若町の寒牡丹、暫、照の家 よし
かの歌舞伎十八番の随一「暫」の姿。大略市川家五代目、七代目あたりの舞台姿錦絵により、新に考証したるもの。(三越)

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十二月 櫓の雪、八百屋お七、木村 一太郎
江戸時代初期の小説等に見えたるかの八百屋お七、それを、浄るり演劇等に仕組まれたる、やぐらの場にとり、師走の雪の中にさまよふ、町内処女の可憐なる風俗を表す。(三越)

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by gionchoubu | 2014-07-30 15:04 | ねりもの Gion Nerimono | Comments(0)

祇園ねりもの 三十

それでは祇園東(当時乙部)単独によるねりもの計五回の内の第一回めの前半を紹介させていただきます。

昭和十一年 七月十日、行燈題 園の賑、先囃子三味線は屋台の前を三味線を弾きながら歩き、太鼓外の鳴物は屋台の上に座って囃しました。先囃子の三味線四人、太鼓二人、小太鼓三人、大太鼓一人、銅拍子二人

正月 松の壽、万才 ともえ 朝子、才三 木村 若常
年の端に、御代をことほぐ万才楽の、目出たき初春の風俗、万才、才三の服装は、江戸時代中期の浮世絵に依りて意匠す、万才は熨斗目の素襖、才三は反古染友禅模様の廣袖の小袖に紫縮緬の頬かむり姿。(高島屋謹製)

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祇園東お茶屋組合に保管されている人形
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二月 箙の梅、上歌 久壽
源平合戦記の中の、かの生田森の若武者梶原源太の軍中の風流、待鳥帽子に腹巻着けたる勇壮なる武装。(大丸)
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三月 関の花、小野小町、高里 末吉
かの逢坂の古関に縁ある小野小町の花の姿を、平安朝時代の若き上臈の晴装、汗彩姿として表はし。それに衵姿の女童三人を配す。(大丸)

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四月 追分の藤、ふぢ娘、大富 久吉
かの大津絵のふぢ娘、俳聖芭蕉の「筆のはじめは何佛」の句を色糸の縫にした小袖に、江州水口製の「つゝら笠」といふ、元禄時代の町娘外出姿。(大丸)

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五月 三河杜若、在原業平、松村 三玉
かの八つ橋の故事に依り、在原業平朝臣の官服姿を、古来よく描かれたる直衣、布袴にて表はす。添ふるに水干姿の童二人。(大丸)

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六月 鎌倉山の時鳥、静御前、北つね とよ
京の白拍子静が、頼朝、政子の召によりて鶴ヶ岡の社前に、歌舞を演ずる男舞の風姿。その服装は、時代考証に依らず、大略後世の能楽風俗にて表す。(高島屋)

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by gionchoubu | 2014-07-29 14:59 | ねりもの Gion Nerimono | Comments(0)

宮川町ぞめき 五

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そして天保十三年(1842)、水野越前守忠邦の政策、いわゆる天保の改革で日本中、古来免許を受けた以外の遊廓は禁じられ、京都では遊女、芸者家業は島原、中書島、撞木町以外は祇園を含めてすべて廃止、もしくは島原へ転入を命ぜられ、当然宮川町も例外ではありませんでした。

しかしわずか八年後の嘉永四年(1851)祇園、二条新地、上七軒、七条新地については所司代脇坂淡路の守は京都の経済政策の一環として、島原の支配化の条件で復活を許したのですが、嘉永七年に当の島原が大火に会い、島原から仮宅として宮川町に移る業者も出、とうとう安政六年(1859)宮川町は七条新地の出店としての営業を認められたのです。

尚、このとき同時に先斗町、五番町、五条橋下も遊女屋茶屋渡世の正式許可が下りました。

その後、慶応三年(1687)九月、京の他の廓ともども、年三千両の冥加金上納を幕府に申し出ると翌月「全遊所今後無年限営業許可」の申渡しを受けることになるのですが、翌年幕府は倒れ明治になりました。

『四方の花』によれば慶応三年宮川町には住よし屋、池桝屋、立花屋、京井筒屋、浪華屋に合せて芸子36人、舞子18人、義太夫芸妓15人、遊女68人の名が載ります・

維新の頃は祇園と共同組合を作ったりしていたものの、まもなく宮川町は独自の営業体を取るようになりました。

明治五年、祇園の都をどり、先斗町の鴨川をどり(明治六年とする記述も有り)が催されるに当たって、さらにその年宮川町の宮川おどりも計画段階にあり、先斗町遊廓由緒でも開催をほのめかしていますが、実際に催された証拠となるような記録はないようです。

この頃宮川町が府提出した京都府下遊廓遊所の地図によれば、宮川町の区域は宮川筋一丁目から七丁目と西御門町になります。

明治六年4月、宮川町遊女婦女職工引立会社が開設されますが翌年下京第二十区女紅場と改称、明治二十四年二月、宮川町芸妓有志、鴨東婦人慈善会を結成して貧民救助のため積み立て開始の記録があります。その他明治二十九年に宮川町の箱丁(いわゆる芸妓衆の身の回りの世話をする箱屋)が増給要求でストライキを起こしています。

この間、明治十一年七月に大西亀太郎によって出された『都の花競』によると、同六月八日に届けがあった宮川町二丁目に芸妓春勇、鶴葉、瀧鶴、鶴代、三丁目に芸妓玉勇、勇香、君松、三代菊、品栄、栂尾、舞妓喜多、四丁目に芸妓歌勇、歌松、君勇、小富、小栄、歌鶴、絹松、辰路、春栄、君松、梅勇、絹尾、菊葉、義太夫芸妓春吉、宇之吉、舞妓小絹、五丁目に芸妓鶴代、秀松、西御門町に芸妓小峰の名を見ることが出来ます。

明治二十八年刊『京都土産』所載の遊廓一覧に宮川町に貸座敷百五十三軒、芸妓九十八人、娼妓百七十八人、屋形四十九軒、本年以後宮川踊を催すの計画ありの記述とともに、著名貸座敷として平井常、辰巳楼、富田楼、安部楼、万喜楼、竹村屋、駒風楼、和田梅楼が載りました。





by gionchoubu | 2014-07-28 16:07 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町ぞめき 四

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                    四条京阪、出雲の阿国像

祇園と歌舞伎といえば仮名手本忠臣蔵七段目の祇園一力の場が有名ですが、実は内蔵助が一力で遊んだという記録はなく、これは実際内蔵助が通った伏見の撞木町遊廓の笹屋を演出上祇園に移したものとされています。

ただ口伝ではありますが、元禄十四年、主税が京都山科に滞在中に宮川町の蔭間となじみになったという話が伝わっています。この陰間(かげま)の語源は、若衆歌舞伎の時代、実際の舞台に立つ役者が舞台子なら、控えの役者である陰の間が転じたのが陰間、すなわち色子でありました。

この宮川町の若衆に群がったのが、女に飽きた金持ち、未亡人、そして僧侶達で「叡山の水、宮川町に抜け」「釜の座は、宮川町と和尚いい」女犯の戒律には背かないという理由で若衆にうつつをぬかしたのは、西鶴の「男色大鏡」に妙心寺の開山三百五十年忌に諸国から上洛した金持ちの僧侶たちが宮川町で散財する話でも明らかであります。

さらに宮川町が歌舞伎の世界に残したもので、いわゆる役者の屋号の内でいくつか、たとえば音羽屋など、宮川町の若衆茶屋の屋号が由来であろうと田中緑江氏は推察しておられます。

衆道の地としての宮川町の歴史は承応元年(1652)女歌舞伎が禁じられた頃から始まり、具体的な記録としては貞享五年刊『諸国色里案内』に、宮川町の記述があり「こゝは、ぶたい子・かげ間・野郎のすみか、ぶたい子銀壱枚、かげ間屋金子壱歩、あるいは廿匁」と見え、この風は天明(1781〜1788)頃まで続いたと言われています。

野郎歌舞伎の時代、宮川筋一丁目に、玉水や・水木や・えびすや・中村屋・花屋・や・ゐづつ屋・若木や・竹屋などの酒席が軒を並べたといいます。(京の花街)

さて、遊女街としての宮川町の歴史に戻ると、『京都府下遊廓由緒』によれば、「宝暦元辛末五月宮川筋一町目ヨリ六町目迄十ヶ年限茶屋株差氏許相成追々年継続済致シ候由記録アリ」と記されていますが、宝暦元年は1751年、これを許可したのが京都所司代松平豊後守資訓で、町奉行は稲垣能登守正武でした。

町割りとしての宮川町は五丁目までが四条河原、六町目より建仁寺領に属していたのですが、茶屋株がおりてから、すなわち非公認ながら実質遊女町になってからこの境界線はなくなったようです。

それから十九年後、明和七年(1770)、祇園町とともに茶屋株継続を許されるのですが、『月堂見聞集』によると、享保八年(1723)五月二日夜、宮川筋四丁目の露地より出火し、三丁目、四丁目で百八十軒あまりが焼け、この中に歌舞伎役者二十一人の家も被害にあったのですが、実際火元も歌舞伎役者瀬川菊之丞という噂が広がったといいます。その後も翌享保九年、同十五年、さらに寛保元年(1741)と立て続けに火事があり芝居櫓は消失、多くの舞台子が道頓堀に移り、そのころあった六座の内二座が廃絶、あるいはこれを機に宮川町も衆道の町から遊女の町へ比重が移っていったのかもしれません。



by gionchoubu | 2014-07-27 11:38 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町ぞめき 三

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『当代期』によれば出雲阿国が北野でかぶき踊りを見せたのが慶長八年(1603)とされ、その後宮川町のすぐ隣りの四条河原では、島原の前身である六条三筋の廓の遊女による歌舞伎が人気を博しました。

『孝亮宿禰日次記』の記述に、慶長十三年の四条河原の興業に数万人の群集が押し寄せたと有るので、その人気はすさまじいもので、寛永六年(1629)には女舞、女浄瑠璃を含め女歌舞伎は禁止されます。

『京童』に女歌舞伎の観客は「皆六根をなやまし、心を六塵にとらかし、宝をなげうち、あるいは父母の養いをかえりみず」と、これはまさに江戸幕府の人民に対する政策方針の間逆をいくもので、遊女歌舞伎自体も、自廓の宣伝のため興業したに他ならず、この間元和期(1615〜1624)京都所司代板倉勝重は、四条河原の七つの櫓に興業権をしぼることで歌舞伎の取締りを掌握し、町中にあった六条三筋の廓も郊外である島原に移転させ風俗統制に乗り出しました。

ちなみに、女歌舞伎が禁止された年、四条河原で女性による能が催されたのですが、それを見に来た侍集団の喧嘩の結果により多くの死者を出した事例を見ると、江戸時代が始まって暫く、まだ侍にも民衆にも戦国時代の気質が残っていたのかもしれません。

阿国歌舞伎、遊女歌舞伎の後に現れたのが若衆歌舞伎で、それまでマイナーであった稚児や若い美少年の踊りや狂言に時代が移行します。しまつのわるい事に、男性の中には戦国時代からの風習である同性愛の衆道に走り美少年であるがゆえ大名、武家の奥方まで若衆歌舞伎に熱中し、『江戸名所記』によれば「若衆どもの髪うつくしく結い、うす化粧して小袖の衣紋じんじょうに着なし、ほそらかなる声にて小歌うたい」「桟敷にある方々は耳元まで口をあき、よだれを流し」という状況に至った為、承応元年(1652)幕府は体制維持、社会秩序の点からこれをも禁じ、若衆は前髪を切り、月代の成人頭での舞台を余儀なくされ、歌舞伎は今の歌舞伎の原型である野郎歌舞伎としての道を歩んだのであります。

それまで武士や僧侶の間でのみ行われた衆道は若衆歌舞伎以後、野郎歌舞伎になり女形が生まれ、庶民にも広がったわけですが、宮川町はこういった役者を抱えたお茶屋を若衆茶屋、蔭間茶屋と呼び衆道の地として盛んになり、この風は天明の頃まで続きました。

『近世風俗史』によれば、江戸ではこの男色は、芳町、木挽町、湯島天神、麹町天神、塗師町代地、神田花房町そして芝神明前で盛んであったが、やがて芳町、湯島天神、芝神明前に限られ、天保の改革後は湯島天神のみで密かに行われたとあり、大阪では、明治以後、南地五花街の一つに吸収された坂町も衆道が盛んでしたが、天保後消滅したとされています。

さらに、「京師は宮川町と云ふ遊女町の中にあり。」「因みに記す。京師宮川町某の家にて通和散、一名ねりぎと云ふ白き末薬を製し、三都にこれを売る。男色かならずこれを用ふ。」と衆道の宮川町について述べています

京の宮川町は勿論、東京の芳町、湯島天神、芝神明前、大阪の阪(坂)町ともども、男色が無くなった後でも高名な花街たりえたのは、歌舞伎と花街との密接な関係を窺わさせるものです。

浅草芸者の地方の芸風はとにかく清本でも小唄でも浄瑠璃でも何でもこなすことで、一つの道を究め、客の求めに応じた曲を弾くなどは芸者としてのプライドが許さない芸所の花街からは五目と揶揄されるほどなのですが、この浅草芸者の歴史をたどれば、中村座、市村座、河原崎座という江戸三座の芝居茶屋に生まれた猿若町芸者つまり櫓下芸者にいきつきます。

また大阪道頓堀五座(角座、中座、朝日座、弁天座、浪速座)にあった南地五花街の内、特に今の松竹座の南にあった難波新地にたくさんいた、座敷に入ると「コリャ珍しい顔じゃなあ」というのが極まり文句であり、色気をはなれ面白く座をもつヤケ芸妓が存在したこと、そして南座を含七つの櫓の役者を擁した町で、いまでも一年目の舞妓でさえ座持ちの良さは京都五花街一であると、私が信じて疑わない宮川町など、もし歌舞伎街型花街という類型がなされるならば、その特色は気持ちよくお客を遊ばし、満足させるという所にあるとさえ私には思えてきます。

実際、特定の花街は於いて、芸妓が歌舞伎役者のパトロンのような存在であったという様な話はたくさんあり、花街が歌舞伎の後ろ立てのような時代がありました。芝居と花街は密接な関係を持ち、とくに明治から終戦までどんな名優でも花街の応援がなければ芝居は成功しないと言われたほどです。

祇園では昔、歌舞伎役者は座敷に上げないという不幸な時代もありましたが、明治以後、祇園は街を挙げ、時には総出で東京の歌舞伎総見に出かけ、このため祇園で芸舞妓を座敷に呼べないという事まであったそうです。


by gionchoubu | 2014-07-26 12:21 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町ぞめき 二

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                      宮川町を通る舞妓さん。

祇園の一角としての、宮川筋一丁目=石垣町=東石垣ですが、『好色一代女』に「石垣町茶屋といへど、此処には一軒に七、八人づゝも有て、衣服の仕出しよき相手に、分里の事も聞おぼえ云々」と、これが書かれた貞享三年(1686)以前にはすでにここが遊里化していた事を物語っています。

さらに『武野燭談』(ぶやしょくだん)という書物に「石垣茶屋、河原を見下ろし、がけ造りにして、四壁金襴純子にて張、床をば畳をやめて天鵞絨(ビロード)を以包み、天井をば水晶の合天井にして、水をたゞへて金魚を放ち、障子はびゝどろを以て、四方はみえて内はみえぬやうにかまへ、珍膳美味を尽し、美婦是を配膳するほどに、貴賎共に金次第の遊興放埓なりしかば、天和中禁止される。」という記述があります。

天和年間は1681〜1683年、江戸時代の初期にこのような遊興が非合法の遊里でまかり通っていたとは信じがたいのですが、これを嬉遊笑覧で引用した喜田村?庭も、「さまでの花美ならば其頃の草子にみゆべきに、さる事聞こえず」といささか懐疑的です。

さらに喜田村は『西鶴大鑑』で「祇園、石垣、上八軒、穴奥(こっぽり)、八坂、清水の茶屋」と述べられた、祇園周辺の遊里を紹介しています。

天保以前の全国の遊里を相撲の番付に見立てた『諸国遊所競』でも、東石垣は宮川町と分けられており、東石垣は西の十三枚目を占め、両所ともに先斗町、上七軒よりも上位、東石垣の領域の狭さをも考えると、認知度は相当なもので、大いに賑わっていたと考えられます。しかしながら東石垣は正式名称としては宮川筋一丁目になります。

さて、宮川筋二丁目以下の様子を『京都市の地名』で探して見ると、『月堂見聞集』に享保八年(1723)、祇園新地団の辻子(一丁目と二丁目の間)で当局の一斉取締りがあり、白人(私娼)三十余人が今で言う検挙され、親元に帰されたとあり、さらに同書によれば、享保十七年(1732)宮川筋五町目の米屋喜兵衛の借家の市懸茶屋井筒屋よつ、と言う者が市掛下女の名目で女を抱え、町々所々に遊女を遣わしたことが露見し、よつは所払い、家財も欠所を申し付けられていますので、宝暦以前に遊女が居たことは間違いありません。

もう一つ、同書によれば、祇園祭の神輿洗いに出された、一種の仮装行列である練物が宮川町でも享保六年、雨乞の題で、さらに同十八年にも鬼一法眼の題で出されていたことが分かります。この練物は後年、遊女や芸妓が練り子となった祇園で大変有名になり、何度も中断したものの、昭和三十五年まで続いた祇園の一大風物詩でした。

ただし、当時祇園もそうであった様に、宮川町の妓女がこの仮装に加わったというわけではなく、まだ町方の練物であった事でしょう。

雨乞いは切実な願いであったでしょうし、鬼一法眼は前年初めて上演された浄瑠璃でしたので、人々は大いに活目してこれを見たに違いありません。

諸国遊所競では宮川町、即ち宮川筋二丁目以下は前頭西五枚目と大健闘しています。



by gionchoubu | 2014-07-25 16:05 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町ぞめき 一

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宮川筋は鴨川に沿って四条通りから五条通りまでの南北の通りですが、一本道ではなく、宮川筋一丁目は四条から団橋までの川端通りに当り現在は存在しません。団橋より松原通りまでが宮川町筋二丁目より五丁目、そして宮川町六丁目から
八丁目までは、ここから現れる一本鴨川寄りの道に通りを変え、五丁目までの筋は五条通りまで西御門町、西川原町町、田中町と名前を変えます。つまり宮川筋は三本の別の筋の総称ということになります。

現在の花街、宮川町のお茶屋が存在するのは、この内宮川筋三丁目〜六丁目、そして西御門町になります。

宮川筋一丁目が開発されたのは、寛文六年(1666)祇園新地外六町の一町としてで、二年後鴨川にそって石垣を築いたので、石垣町とも呼ばれましたが、後鴨川の西にも町並みがありましたので、西石垣(さいせき)に対して東石垣(とうせき)とも呼ぶようになり、東石垣の方が通称になりました。

延宝二年(1674)の荻原家文書に二丁目から五丁目の記載があるので一丁目のあとすぐ開発されたと見え、『改正増補京羽二重大全』によれば六丁目以下が開けたのは正徳二年(1712)以降のことです。しかしながら『坊目誌』によれと宮川町筋二丁目から五丁目が開通したのが寛延三年(1750)とずいぶん開きがあることも付け加えておきます。(京都市の地名より)

宮川の語源については諸説あり、『京町鑑』にはかつて四条の南東川端に、夏の禹王の廟が有ったからから、加茂の斉王の宮がここで鴨川の水をせき止めて清斉せられたから、などがありますが、田中緑江氏は祇園祭では、四条下がった辺りの鴨川の水を神輿洗いの儀式に使うので、つまり宮川の宮は八坂神社そのものであるという説に与されています。

宮川町遊郭としての歴史は、祇園社への門前花街としての一面と、歌舞伎役者が住む衆道(男色)風俗の町という二面性があり、これが共存したところに特色があるのですが、さらに、宮川筋一丁目のみは、祇園新地六町の一町として独自の道を歩んできましたので、まずはこの三つの歴史を分けて辿ってみます。



by gionchoubu | 2014-07-24 13:16 | 宮川町 | Comments(0)

祇園東ぞめき 九

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そしてこの女工場が祇園を甲と乙に分ける直接的な原因となりました。田中緑江氏の『亡くなった京の廓』を引用しますと、「これは府へ納めました賦金参円の内半額を組合へ還附し、それでこの女達の教育費に充てる事になっていました。下附された金は毎月二千円になりますが、実際費つていたのは二百円で、残金が積立てられ、それが相当な金額に達し、その間不審があると膳所裏の人から四万円を納税者へ返えせと十四年春より紛糾して来ました。六月には富永町六ヶ町からも十余万円を返せと訴訟騒ぎとなり」膳所裏は分離し、十月に花街事務所である検番も作り事実上独立しました。ちなみに、乙部分離前、花代をめぐった紛争に侠客、会津の小鉄が調停役を買って出てセンセーションを巻きおこした事件までありました。


そして明治十四年十二月十二日付を以って、京都府知事北垣國道より、林下町中村乙吉に「甲乙ノ名称ヲ以テ区分スベシ」との指令を受け、甲を譲り、中村乙吉氏は祇園乙部の初代取締に就任しました。

この年、美磨女紅場(みまにょこうば)と組合事務所が東末吉町に作られたとされるのですが(明治十九年の資料もあります)、昭和十年頃の地図に組合事務所が富菊と中勇の間に描かれているので、中末吉町通りの北側に建っていたものと思われます。

残念ながら、祇園東お茶屋組合にも美磨女紅場の記録は残っていません。
また、乙部の名を布令命ぜられたのが明治十九年とする本もありますが、祇園新地乙部貸座敷組合発行の祇園會ねり物復興記念帖の記述に即して、祇園乙部誕生は明治十四年十二月十二日と明記されております。


この遊廓の甲、乙制は祇園以外にも京都北新地(五番町)、大阪南五花街他でもみられるのですが、祇園の場合は全く違う二つの花街としての分離でした。

この時の版図は甲部が祇園町南側、膳所裏を除く祇園町北側、中之町、富永町、清本町の一部、弁財天町、元吉町、二十一軒町、常磐町、橋本町、末吉町、川端町と林下町の一部、清井町の一部、宮川町一丁目、鷲尾町、下河原町、月見町、上弁天町の十九町で、一方乙部は祇園町北側の一部、林下町の殆ど、清本町の一部になります。

甲、乙が分離するすこし前、明治十一年六月八日届け、同七月に大西亀太郎によって出版された『都の花競』に現祇園東から届けられた芸、舞妓の名簿を見ますと、膳所裏に、祇園町北側より出稼ぎの分として芸妓小鶴、八重松、菊葉、舞妓に力松、祇園町南側より出稼として芸妓常松、鶴吉、舞妓に鶴松、林下町に芸妓鶴香、舞妓に玉鶴、松栄の名を認めることができます。

藩邸は膳所藩(現滋賀県)引き上げの後、谷口起孝という人の管理となり、藩邸内は殆どが貸座敷になったのですが、敷地は所有者が転々とし、昭和五年頃には神戸の乾新兵衛のものとなり、番頭の山本彦五郎が所有していました。

膳所藩邸跡地に話をもどすと、その殆どが住所でいうと、ほぼ祇園町347番地で、昭和四十年ごろの地図とてらしあわせると、今は途中で家屋になり無くなった境界線の路地を含め、くっきりと藩邸跡が浮かび上がります。

さらに付け加えると、この辺りの水道管の権利は滋賀県守山の人で、戦後しばらくたっても、この辺りにビルなどを建設するには、工事関係者はその方の承認が必要だったそうです。



by gionchoubu | 2014-07-23 15:30 | 祇園東 | Comments(0)

祇園東ぞめき 八

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                     観亀神社大祭の奉納舞

明治になると、初年すぐに膳所藩は近江に戻り、膳所藩邸も三年に取り壊されども膳所裏(祇園東)は依然祇園の一部でした明治五年には都をどりの第一回が祇園東の敷地内である松の家席という寄席で行われたのですが、松の家席の場所は、東大路新橋西の路地を南に入った場所という事なので、これが最初の筋ならギオン福住の筋か、二本目ならお茶屋岡留の筋にあったことになります。近所の人によれば、この筋には乙部当時の娼妓を連れた、心中でもしたのか三高(今の京大)生の亡霊が今からそんなに遡らない時代まで出たといいます。

ちなみに、二回目から都をどりは花見小路の南にさがった西側にあった清住院の敷地で開催されましたが、さらにその後現在の歌舞練場に移り現在を迎えています。清住院も現在は浮世小路の南端に移りました。

そして明治五年十月二日に、外国の圧力(所謂マリアルーズ事件)などもあり、太政官達 第二九五号、芸娼妓解放令が発布されたのに伴い、祇園でも明治六年、婦女職工引立会社が設立されました。そして明治七年女紅場と改名しました。

女紅場(にょこうば)とは工を後に紅をかけたもので、花街に於いても、女性に読み書きを始め、養蚕、紡績、機織、刺繍、製茶などを身に付けさせようと設置されたもので、これが祇園にとってどれだけ大きい意味をもっていたかは、祇園第一のお茶屋、一力がその敷地を女紅場に明け渡し、一時期ではありますが、清井町に移った事でもわかります。

そしてこの女工場が祇園を甲と乙に分ける直接的な原因となりました。田中緑江氏の『亡くなった京の廓』を引用しますと、「これは府へ納めました賦金参円の内半額を組合へ還附し、それでこの女達の教育費に充てる事になっていました。下附された金は毎月二千円になりますが、実際費つていたのは二百円で、残金が積立てられ、それが相当な金額に達し、その間不審があると膳所裏の人から四万円を納税者へ返えせと十四年春より紛糾して来ました。六月には富永町六ヶ町からも十余万円を返せと訴訟騒ぎとなり」膳所裏は分離し、十月に花街事務所である検番も作り事実上独立しました。ちなみに、乙部分離前、花代をめぐった紛争に侠客、会津の小鉄が調停役を買って出てセンセーションを巻きおこした事件までありました。


そして明治十四年十二月十二日付を以って、京都府知事北垣國道より、林下町中村乙吉に「甲乙ノ名称ヲ以テ区分スベシ」との指令を受け、甲を譲り、中村乙吉氏は祇園乙部の初代取締に就任しました。

この年、美磨女紅場(みまにょこうば)と組合事務所が東末吉町に作られたとされるのですが(明治十九年の資料もあります)、昭和十年頃の地図に組合事務所が富菊と中勇の間に描かれているので、中末吉町通りの北側に建っていたものと思われます。

残念ながら、祇園東お茶屋組合にも美磨女紅場の記録は残っていません。
また、乙部の名を布令命ぜられたのが明治十九年とする本もありますが、祇園新地乙部貸座敷組合発行の祇園會ねり物復興記念帖の記述に即して、祇園乙部誕生は明治十四年十二月十二日と明記されております。



by gionchoubu | 2014-07-22 15:39 | 祇園東 | Comments(0)