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by gionchoubu
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祇園ねりもの 十九

文政四年(1821) 長秀の絵番附 あんどう題なし、先囃子、太鼓二名、三味線五名、鉦一名は鳥羽屋の幇間さの八ですがやはり絵姿はありません。以後も幇間連中は名前のみで一切(一回だけ例外あり)描かれません。練り子は十七名、大星力弥(さくら井や栄の)鬼市虎蔵(うじやつる江)道成寺白拍子(み升や小とま)等、後囃子は幇間の大津連。長秀のそれぞれの出演者の番附けがあります。
この回の一枚絵の多くを早稲田大学演劇博物館浮世絵閲覧システムで閲覧できます。
文政七年(1824) 長秀の絵番附 あんどう題不明、先囃子、紅葉狩、練り子二十三名、富士太鼓(京いづつや千栄)嵐橘太郎役頼政(祇一力いろは)風流女猿廻し(うぢやきみ鶴)等、後囃子は石橋姿幇間の花扇屋連十名、太鼓、鉦、大太鼓、小鼓、胡弓、笛、三味線と大変賑やか。
文政八年(1825) 緑江さんは催行年に入れていますが、本文の記載がありません。
文政九年(1826) 長秀の絵番附 先囃子十一人、練り子二十七名、行平(三升や梅の)重の井(井筒や小とら)弓張月白縫姫(さくらいやひさの)等、後囃子に鳥羽屋の幇間連中。
文政九年に刊行された『鴨東四時雑詞』に中島棕隠が詠んだねりものの漢詩があります。更番扮戯喚呼頻。品得妙年殊色人。後隊旋随前隊去。幾双団扇払炎塵。という物ですが、面白いのはこの後に続く部分で「祇園の神会、本日前後、熱閙亦甚し。五月晦、及び六月十八日、鴨東四条橋東に在つて、神輿を洗浄す。之を神輿洗と謂ふ。是の日たるや、鴨東の茶坊・娼戸・夥を結び銭を醵し、翠を斂め香をホウして雑劇戯文の故事を演ず。其の人物は娼妓を扮し、浄旦の諸装を為す。又纏結して棚を為し、其の首尾を押し、楽は三弦・胡琴・堤鼓・鉦鼓・細腰鼓有り。毎隊、珠翠錦綺、香?白紵、艶装濃沫、観者嘖嘖たり。要は無頼の子弟を勾引して奇貨と為すに過ぎざるのみ。」
ねりものの華美な装いなどを褒めそやした後、結局道楽息子に散財させると結んでいます。文政なら練り子は芸妓以外考えにくいのですが、娼妓と書かれているのはどう解釈したらよいのか?
文化二年版、並木舎五瓶著『誹諧通言』の祇園神輿荒祇園の会に「六月七日十四日十八日芸子のねり物出す」と書かれているのも付け加えておきます。
棕隠は今でも京都の五花街で舞妓が必須舞の「京の四季」を作詞したとされる程祇園になじみの深かった漢学者で、放蕩の末、自らも二条新地で銅駄余霞楼、つまり「どうだよかろう」というしゃれのきつい料理屋を経営していた事でも知られています。
文政十年(1827) 長秀の絵番附 先囃子九人に小弓(胡弓)加わります。鉦は幇間が担当、練り子十九名、町娘(京いづつ屋小辰)風流木六駄(松本や菊葉)もさ順礼(新しや今菊)等、後囃子は花扇屋の幇間らが石橋姿。
祇園ねりもの 十八



文政元年(1818) 緑江さんが実施の年に入れておられない、長秀の絵番附が存在します。
文政元とらのとし 祇園神輿洗祢り物絵客列書 長秀画
先はやし 太鼓 万や 小ゆう、井上や 今つる
三味線 うぢや 若貴、△屋 まの、京いづゝ屋 ふき、同 琴治、
新や くま、同、若葉
一 蛍かり町娘は千賀 かつ、花ひしや? 笑冶
一 白酒うり 新や 梅冶
一 せんだく女 さくらい屋 小瀧、付添 粂仙人 京や 竹冶
一 女うかひ 井上や つる梅
一 風流さる廻し 京や 小左枝
一 ぬひ物寺小 近江や ひな冶、付添はでっちひな松
一 曲付 琴冶、 同 琴江?
一 風流紅うり ならや 初の
一 豊玉姫 いづゝや 今つる
一 つゝれのみき新七役 万や 松江
一 女鉢の木 白たえ 三升や ゆき、西明寺はなか、玉づさは 鹿気
一 白木やお駒 腰元姿 京いづゝや 八重松
一 とびん いづゝや 光枝、いかけは力松
一 錦帯はしけいせい 高間戸 禿はいま、同 さくらいや とら
一 融汐汲 三升や 小か野 山左はん
練り子は歌舞伎などの役柄、歴史上の人物と並んで、江戸期は当時の生業を映したものも多く見られます。
練り子は全員非常に穏やかな表情で描かれています。洗濯女と付添は裸足で練っています。女鵜飼の船と鵜はどんな仕掛けになっていたのでしょう。先囃子鼻の下が黒いのは気になる所です。
祇園ねりもの 十七



上、文化十一年の番附 下文化十四年の番附
文化、文政より天保にかけてが祇園の最盛期、ねりものも全盛期を迎えました。
番附も文字だけの文字番附から絵姿が入った番付、さらにこの頃には人気のある芸妓一人を描いたカラー刷りの番附がブロマイドとして沢山出回るようになりました。
文化十一年(1814) あんどう題 花の園 前囃子は猿曳姿の三味線四人、太鼓二人、練り子二十三名、女鷹匠(新や小いな)茶屋娘(井筒や房尾)道成寺(扇九くが路)等、現在まで最古とされる有楽斎長秀の絵番附けが残り、また初めて番附けに練り子の置屋が載りました。
この番附には「祇園境内」と有るそうですが、緑江さんは、ひょっとしたら祇園街を練らず、祇園社境内のみを練り歩いたのかもしれない、と推測されました。
文化十三年(1816) 緑江さんが催行の年には入れていますが本文にはありません。詳細不明。
文化十四年(1817) 緑江さんが催行の年には入れていますが、本文にはありません。長秀の絵番附がありねりものは催されました。この絵番附けは、雑誌「ぎをん」163、で見ることができます。
先囃子は三味線四人、太鼓二人、練り子二十一人、楊弓や女(井の上や、巻の、大原女(万や、十市)等。
早稲田大学演劇博物館浮世絵観覧システムで、文政元年(文化十四年の翌年)頃とした一群の祇園ねりものの一枚絵を探索することが出来ます。年代を特定出来る番附が出てこないので確証は無いものの、いくつかの推察を経て、北川博子氏は竜頭の冠の先囃子が文化十二年、桜の冠をかぶった先囃子が文化十三年と推察されています。
堀越三津弘氏は、この竜の被り物をした、春川五七に依る先囃子、松本屋こまを掲げ、干支との関連を指摘されていますが、私が今までみてきた限り、先囃子の被りものと干支は無関係と思われ、竜は水を司る超自然の象徴として、近くの鴨川を念頭に置いた大雨による水害や、その逆の雨乞い信仰からよるものと考えました。
早稲田大学演劇博物館浮世絵観覧システムを中心にこの年代あたりの一枚絵を拾い上げて見ると、
先囃子太鼓(あふみやかの)、同胡弓(水口やりう)が桜の冠で長秀作
先囃子三味線(京屋とせ妹つた)長秀作、三味線(松本屋こま)五七作が竜の被り物
加賀の千代(近江屋亀洛)長秀作
花子(萬や松栄、付添妹そよ)長秀作
紅葉がり、惟茂やく(三升屋小苫、付添京いづゝや琴江、付添井上や小さの)長秀作
蝶々売(三ます屋やどり妹やぎ)長秀作 *画像掲載
なりひら舞(いづゝやよね)長秀作
茶や娘(ならや力松)長秀作
蘭奢侍助市(うぢやよね)長秀作
弓張月、叶☆子役白ぬい姫(なら屋鶴松)豊国作
風流肴屋姿、町屋飯たき姿(井つゝや歌吉、同、歌松)長秀
七月の舞妓・芸妓 その九




√京はナア 霞のむらさきくれはうすべに
風流はんなり しっとり千年
都に流れて コンコンチキチン コンチキチン
ヤンレヨーイヤ ヨーイヤサ
√京はナア 姉三六角 おぼろの川筋
ふたり出会うて ホンノリホンノリ円山
はやしは鉾町 コンコンチキチン コンチキチン
ヤンレヨーイヤ ヨーイヤサ
√京はナア 思いは友仙つづれに鹿の子に
乱れて顔よすのれんのれんのお月さん
あしたも陽気に コンコンチキチン コンチキチン
ヤンレヨーイヤ ヨーイヤサ
七月の舞妓・芸妓 その八




「昔噺」と云う上方唄の一部として「七賢人」の中にも用いられました。
舌きり雀の話といった方が分かりやすいかもしれません。
振り付けは初世、もしくは二世の井上八千代とされるので、文化文政〜幕末あたりの作品と思われます。
舞妓さんによる雀のしぐさがとても可愛らしく、癒されます。
√昔 むかし山のあなたにあったげな 爺は山へ芝刈りに 婆様は川へ洗濯に 留守に雀が棚のもとの 糊を残らず食うてしまい、
婆様見るよ腹をたて 舌切雀で追い払い 爺様いとしや杖をつき 乃の字で糊を食う他た雀どんは ここではござらんか
チュウチュウ野越え山越え 里を越えてエエ行ったとイナ
七月の舞妓・芸妓 その七



奉納舞では、墨塗りの笠をかぶり、紅の胸紐、小露の附いた白の千早に緋の切り袴、腰には金銅の瑶珞を吊し、頭には数珠と鉦をかけ手に撞木扇等を持ち、歌舞伎踊りを収めます。
出雲の阿国の一向の出で立ちだったといわれています。
七月の舞妓・芸妓 その六




本日の画像は元禄島田の鬘を着けた祇園東の舞妓さんたちですが、五年程の画像には、つね桃さんの姿を見る事ができます。

七月の舞妓・芸妓 その五



そして翌日は、いよいよ山鉾巡行です。
七月の舞妓・芸妓 その四





他の芸能に先立ち、祇園甲部の芸舞妓による京舞が納められます。
画像は複数年を載せました。
七月の舞妓・芸妓 その三




「芸舞妓はんビアガーデン」の主催は祇園商店街振興組合、協賛はエビスビールです。