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祇園ねりもの 八

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摂津名所図会
坂町、幇間のねりもの


「浪華の諸社、水無月の神事に氏地の色里より、練り物或は囃子を出して祭礼の賑ひとするに廓中(新町)を最とし、崎陽(島之内)これにつぎ、堀江・坂町、北の新地は廓中、崎陽の上にたヽん事難し。就中江南(南地)の地は歌舞伎役者の住所ゆえ妓婦。歌妓の化粧もおのずから妙手に至り、殊更練物囃子などを催す時は劇場の輩ちからを添え日頃の艶色に百倍の美を顕はし、衣装の物好きは年々歳々打扮の趣向新たなりといへども、往古は麁なるものなり」

と、前述の『南水漫遊』は大阪のねりものは、矢張り昭和十六年まで続いた新町のねりものが一番とし、江南(島之内、崎陽)のねりものはこれに続き、歌舞伎の影響もあり衣装なども凝っているが、昔は質素であったと述べています。

(*これを紹介した石井琴水は崎陽を北之新地、即ち曽根崎としていますが崎陽は島之内(江南)が正しいのです、ちなみに島之内(江南)はその他にも、陽台、南江、南州、ミナミ、南陽、向側等々多種の呼び名がありました。)

寛政十年(1798)摂津名所図会にこの島之内の?物が載るのは、浪花の名物として揺るぎない地位を得ていたことが分かります。その絵に添えられたのは

「諸社の夏祭にハ女伶妓婦の輩いろいろに姿を憂して、花の盛の匂ふが如く、身にハ錦繍を絡ひ、あるいハ女も男に変り、若も老の風俗して前囃子、後囃子に琴、三弦、鼓弓、太鼓、笛にていさましく拍子どり、列り行くを?物といふ、特にみな月十五日御津八幡の祭にハ、名にしおふ島の内の女伶風流に粧ふて練あるく、両側の青楼よりハ妓婦の輩共に花を飾て互に艶をくらべ、見に来る人もミなうかれて酒を勧め、ねり物すがたにて揚げづめの一夜妻とするも難波津?の繁花なるべし」

という一文と闌更の「夏祭人も潮のわくかこと」という句でした。1928年版の南区志に島之内の練物を短い文ながら的確に表現されているので紹介すると「名にしおふ島之内八幡宮の祭礼(六月十五日)は、流石江南の色里を控へてゐる丈に、女伶妓婦の輩いろいろに姿を扮して艶を競む、前後に囃子を附けて練る、?るとは梁塵愚按の註に、人の徐かに歩くを云うと。これは崎陽年中行事の一つとして著聞される。前囃子には太鼓、筝木琴、三弦、笛、鼓、大太鼓、後囃子には太鼓、鼓、三弦、摺鉦、篠笛と調子はなやかに練って行く。毎歳寄物語神祇の如き、定成の兼題の如き課題に応じて打扮する。あと押さえの見送りはいつも白き神馬である。唯先頭の見附台のみ年々趣向を凝らした造物をする。蓋し弓矢の神である八幡社の神いさめであるからであろう」として雑徳山四季詠合を載せているのですが、北川博子氏が『阡陵』の63で紹介された天保七年の島之内の雑徳山四季詠合絵番附と練り子はほぼ同じ、ただし妓婦の絵姿は無く文字のみで構成され、月、雪、七夕などの番組の進行と練り子の名が書かれております。

年代は消えてみえません。見附台は松、文末は見送り御神馬、そして片岡板と見えます。島之内の練物は六月十四日、十五日、十八日、二十八日、二十九日の五回も行われたので、たぶん同じ年のそれぞれ違う日の番附と思われます。

ここで変り種を一つ、後年、宗右衛門町(島之内)と同じく南地五花街の一角を占めた対岸の遊所、坂町に天保八年六月十七日と十八日、幇間(たいこもち)による俄(にわか)ねりものの絵摺りが『上方』の千日前今昔号に載ります。四人の芸妓が三味や太鼓をたたく姿とふじ川の三八、つる井のたき八ら十人の幇間が練っているのですが、芸妓のねりもとは随分違う、笑いをさそうねりものを出していた様子が分かります。南地は幇間の勢力が強く、昭和まで歴代の取締りは随分苦労した様です。

by gionchoubu | 2014-05-31 12:56 | ねりもの Gion Nerimono | Comments(0)

祇園ねりもの 七

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五蝶亭貞広 嶋の内ねりもの



これから花街のねりものについて考えていきたいのですが、そもそも何故花街がねりものをだしたかという問題があります。

『郷土研究上方』の中で、上田長太郎氏が、神社仏閣の附近に多くの花街が発生したのは、「先客萬来を願う花街が、人寄りのよい神社仏閣への参詣道に店を構へるに至ったのは彼等業者として最も賢明な目のつけどころであり、最も當を得た方法でもあったらうが、ただそれだけはなく、神社仏閣附近の土地は寺領になっていて、寺社奉行の管轄下に属し一般町家の属する町奉行とは、取締方法などに寛厳の差があったものだらうと考えられ、それが神社仏閣の附近に花街が出来た過程の一つだらうとも考えられる」と述べ、花街の広告宣伝にはきびしい取締りがつきものだが「さういふ風に、祭礼に花街から手古舞が出たり八乙女が出たりするのは、信仰をかねて廓の宣伝方法として採用されて来た物である。」という結論に至りました。

たしかにこう考えると、すくなくとも当初は、なにも伊達や酔狂で花街がねりものを出したのでは無く、自廓の宣伝、つまり祭礼にかこつけて、堂々と遊女の顔見世の役割を帯びていたという事ができ、これが遊廓が花街に変わっていく過程で、練り子が遊女から芸妓にとって代わり、旦那衆が大枚はたいて豪華な衣装を芸妓に与え、それこそ伊達や酔狂に旦那の見栄まで入った豪華絢爛たる練物行列になったといえます。そこで前回の宝暦元年の島之内の妓達が、娼妓か芸妓か考えていきたいと思います。従来彼女達は娼妓、すなわち遊女とされているようですが、断定的な記録は見かけないので、両方の可能性を探ってみます。

彼女達は娼妓である・・・基本的に宝暦という年間は、江戸で芸者が始めて吉原で誕生した時代、京都でも始めて嶋原に芸子の記録がでますが、両方とも公許の廓でした。大阪の公許は新町のみ、ましてや島之内は江戸でいう非公許の岡場所、廓の主役はあくまで白人と呼ばれた遊女でした。島之内のねりものは遊女の顔見世をかね、茶屋側が送り出したものである。

彼女達は芸妓である・・・大阪はすでに享保年間に芸妓(芸子)の記録があり、宝暦に書かれた『浪花色八卦』に島之内の芸子の話が載り、さらに『浪花今八卦』では、宝暦時代の芸子にはそれなりのけじめがあったが、そのすぐ後の安永年間に書かれた今八卦時代の芸子はずいぶん手ごわくなったなど、かなりの行数を芸子に費やしています。宝暦年間には島之内で芸子が台頭してきた事が分かります。当時は娼妓も芸妓も三味線を弾きましたので楽器は決め手になりません。

私は基本的に、島之内も天明(1781〜1789)ぐらいまで娼妓がねりものに参加したと思っていますが、さりとて、少なくと島之内においては宝暦に芸妓が練り歩いた可能性を否定できる材料も持ち合わせていません。

by gionchoubu | 2014-05-30 12:39 | ねりもの Gion Nerimono | Comments(0)

祇園ねりもの 六

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南水漫遊

大阪のねりものについては石井琴水が『伝説の都』で延宝八年(1680)の『難波鑑』の「ねりもの、母衣掛武者立花砂の物色々のつくり物に美を尽くし、今の渡邊筋より本町堺筋へ出て、高麗橋を渡り、大津町のお旅所までねる」「御神事ねりもの、引きやま三方面にして〜略〜或は異類異形に出でさせさまさまの芸づくし〜略〜また母衣かけ武者、小具足いろいろあり、天神橋通りをわたり、難波橋の邊まで行く」を(花街ねりもの以前のねりものとして)紹介しているのですが、その後に濱松歌国著『南水漫遊』宝暦元年(1751)島之内の花街による番附の存在を書いています。

実はこの番附は喜田川守貞も『守貞謾稿』で触れているので抜粋すると「宝暦元年?物番附を蔵す人あり。その番付に載る妓名に、(ふたこ山)宇治風呂の白、(××れ山)伏竹の民、(かヽみ山)岸本屋松、(戸隠山)南同道、(たかい山)門同糸、(鎌倉山)吉田屋成、(茶うす山)京井筒屋小万、(あたこ山)桜屋小糸、(かうり山)千年風呂小蝶、(あいの山)桔梗風呂小滝、(伯母杵山)天満屋紋、(さなた山)同梅、(瀧田山)塗師屋小春、(ミわ山)大黒風呂岩、(石山)京扇屋豊、(熊の山)同糸、(甲山)太平登佐、(まつ山)森田屋登和、(三笠山)綿治雛、(春日山)北綿屋長,(待かね山)同万与、(おとこ山)大長の亀、(大河内)八幡屋辰、(八幡山)柏風呂西(箱根山)大九雛、(ひゑひ山)大伊大、(すめ山)薩摩屋雛」守貞謾稿には南水漫遊には書かれている( )内の山は省略されており、当てた漢字、かなも随分違います。

当然両方とも元の番附である版画を模写したはずなのですが、とくに守貞謾稿の方は、この後に続く妓に、囃子の楽器の割り当てがありませんので( )内とあわせ意図的省いたものだと思います。南水漫遊は最初に島之内ねりもの番組、足曳の兼題ではじまり、上記の山、置屋、練子の名前を二十七人載せた後、はやしよしの山とし、太鼓・もり新ちか他一人、かね・もり新なか他三人、三弦(三味線)・さくらやいわ他二人、笛二人、最後に見送りやまさくら、千秋万歳楽で結んでいます。この番附には島之内花街の番附としても京、大阪の花街の番附としてもいろいろなことが見えてきます。まず、このねりものの題が関西を中心とした山づくしだったことが分かります。そして花街ねりものの番附けとしては、今のところ祇園を含め最古の番附と思います。

さらに一番古いにかかわらず妓の名前と、所属の置屋が書かれています。祇園で妓の名前が最初に載るのは、寛政八年のことで四十五年も後のことになります。また、置屋以外に風呂屋がお抱え妓を置いていた明確な資料となっています。守貞謾稿によれば、上記の内薬師風呂は文政末か天保始めに、大江風呂も天保の改革で無くなりました。

さて、今回の練り物に関して、私なりに一生懸命調べているのですが、資料の少ないのは覚悟していたものの、現代文が提供されていない、いわゆる草書体とかくずし字にはとことん悩ませられました。辞典を買ったりして挑戦しましたが、結局無駄な努力だと悟り、プロに依頼した次第です。
by gionchoubu | 2014-05-29 12:30 | ねりもの Gion Nerimono | Comments(0)

祇園ねりもの 五

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もう一つ、京都のお隣り亀岡の丹波一宮の出雲大神宮で、毎年四月十八日に行われる出雲風流花踊りについて、『亀岡市史』『民俗祭事の伝統、丹波・亀岡のまつり』両資料を見比べながら、雨乞いとして『左経記』に万寿二年(1025)の大般若経転読に載り、社蔵文書では雨悦風流という形で長禄三年(1459)の記録にも残る行事について調べてみました。

明和四年(1767)のものとされる『丹波馬路村花踊練物番附』を紹介させて頂きたいのですが、もし本当にその年代が正しいのなら、人物が描かれた練物番付としては最古の物の一つといえそうです。『祇園祭・花街ねりものの歴史』で私たちの目に突如現れた宝暦五年刊『祇園ねり物絵づくし』から十二年後ということになります。私自身版画に関して全くの門外漢ですが、素人目に見ても、作者は違えど、この二つの作品の視覚的な印象は良く似ているとおもいます。

さて、この丹波馬路村花踊練物番附は上段に、先はらい、香ろう持ち、傘、はさみ箱、ぞうり取、花かさと続きその後先あんどうを持った男が前半風流行列のテーマ「松尽」を掲げ、遠山松、礎馴松、逆櫓松、位皇松、物見松、姫小松、影向松、阿古や松、屋台そしてはやし方八人、かり者人数百二十人、けいご供が続きます、そして下段には、にわか練り物人数七十人(山ぶし、たばこうり、人形)、けいご人数百五十人、そして後半風流行列のテーマ「梅尽」の先あんどう、梅干、継梅、梅若、信濃梅、江南梅、梅王、箙梅、梅ノ申兵衛、梅枝、難波梅、軍法梅、好文木、軒端梅、屋台そしてしんぱち、花笠人数三百十五人、けいご人数三百十五人、大けいご五十人、弁とう持弐百五十人、総人数合千四百九十八人の大行列でした。

雨乞いを目的とした農民による練物でありますから、三味線弾きなどは描かれてなく(当時京都の町方でも三味線を弾きながら歩ける程達者な人はそんなに居なかったはずです)、鳴り物は太鼓ぐらいのものだったようです。後年城下町であった亀岡に花街はありましたし、当時でも旅籠町あたりに飯盛り女のたぐいはいたかもしれませんが、とても彼女たちの参加は考えられません。本練物の殆どは男性、女性は花笠人数の三百十五人に集中していたのですが、在郷の農民が主だったはずです。

この神社の練物で面白いのは、同日(これは明和四年九月十六日と明記されています)馬路村河原一族の花踊練物番附、梅尽しの記録が残ることで、当然参加者は全て河原何某、たとえば江南梅は河原勘兵衛倅の清蔵、梅王が河原源七倅の善吉、梅かえが河原文平娘ぎん、といった具合です。さらに驚くべきは囃子方に三味線、太鼓、鉦、小鼓担当まで全てこの一族でまかなっていたことです。前言をすぐ翻すのですが、この練物をだした総計百十七人の亀岡の河原一族、とんだ酔狂、芸能の一族で恐るべしと申し上げるしかありません。

丹波馬路村花踊練物番附に戻ると、もう一つの事実は、この番付の終わりに、練物に使われた衣装類は、京都室町さわら木町のゑちご屋から借りたと刷られている事です。レンタル風流衣装は当時商売になるほど需要があったのでしょうか? またわざわざこれを番付に明記したのも違和感が残ります。

さて、この風流花踊りは明治十六年に中断しましたが、大正十三年に花踊りのみ復活、昭和四年に吉川観方氏の考証で現在の衣装が揃えられました、吉川観方は画家、版画家でありながら、大正、昭和にかけ映画の風俗、衣装の時代考証に携わり、舞妓風俗なども非常に詳しい人で、昭和十一年以後の祇園会ねりものの衣装すべてを担当したことでも知られています。


by gionchoubu | 2014-05-28 15:48 | ねりもの Gion Nerimono | Comments(0)

祇園ねりもの 四

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宝物殿にはレプリカですが藤森祭図絵があります。 

2014年の駆馬神事


その緑江さんが『祇園祭りねりもの上』で「深草藤森神社へ、本町の氏子の男女」と、挙げたねりものについて『創祀千八百年藤森神社』を参照にもう少し詳しく見ていきます。

藤森祭りは貞観五年(863)年、時の摂政藤原良房が天皇の長寿と国家安穏を祈念した深草貞観に始まるとされ、江戸時代には毎年、朝廷からは御撫物に白銀十枚を添えて御下賜があり、徳川将軍からは太刀一振、馬一頭が献上され、武運長久の祈願が行われました。今でも五月五日、藤森祭(深草祭)がメディアに登場すれば、駆馬神事として馬術の技を競い合う場面ばかりが強調されるのですが、江戸期中期の作品で大英博物館所蔵の『藤森祭図絵』を見ても、母衣武者、七福神を含んだ行列が境内から伏水街道を北へと進み、稲荷社までの練り歩きもこの祭りの華でした。

四日市祭りでも七福神を出していた町がありましたが、七福神も唐人行列、武者行列などの定番練物の一つだったのかもしれません。長らく中断していたこの七福神行列が平成十八年に復活したのは何とも目出度いことだと思います。

京の「ねりもの」として、緑江さんは今宮神社へ上七軒、住吉神社へ嶋原、八坂神社へ祇園と、それぞれ花街の妓たちが参加したと書いておりますが、藤森神社のみは本町の氏子と書いています。実は、大正の初めまで墨染、さらに大石内蔵助が遊んだ撞木町という遊里が藤森神社のすぐ近くにありましたが、この二つの花街の妓らが行列の一角でも担ったという痕跡はみあたりません。

墨染は明治に芸者もおりましたが、江戸期の長くは飯盛女の域をでない女達中心の遊所でありましたし、戦後も営業していた撞木町も、歴史は嶋原より古く、江戸の吉原ができた時吉原に店を出した娼家があった程の日本屈指の歴史をもった遊里ではありましたが、ついぞ二流の上をいくことのなかった遊所で、ついぞこの二箇所に晴れの舞台の御呼びはかからなかったようです。

京都にしても、大阪にしても花街のねりものを出し得たのは超のつく一流の花街で、それを支えた旦那衆にとっても一夜の大見得の見せ所でありました。又藤森の祭礼には上記のように幕府の献上までありましたので、その手前、この行列に色を添えることも憚れたのかもしれません。

伏見にはもう一つ、天明の『拾遺都名所図絵』で「古の江口、神崎に順え旅客の船をとどめ揚柳の陰に觴をめぐらし、あるいは歌舞の妓婦、花のあしたに袖を翻し、琴三弦の音は月の夕に絶える間なし」と紹介されたそこそこ振るった中書島遊所があったのですが、本町の旦那衆はこのすこし離れた中書島を支えたか、それこそ祇園まで足を伸ばして遊んでいたのかもしれません。


by gionchoubu | 2014-05-27 18:32 | ねりもの Gion Nerimono | Comments(0)

祇園ねりもの 三

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知恩院大遠忌のおねり

寛永年間(16241643)に始まった八幡神社祭礼である津まつりも、今でも三重県を代表する祭りの一つで『明暦年間祭礼の次第』『勢陽雑記』にこの祭りの江戸時代初期の様子がでています。前回紹介した四日市祭りと同じく神の遊行である神輿行列以外に各町内が815日に風流(練物)行列を出しています。

この時の行列は町名を省きますが順番に、造物、曳船一艘、大名行列の真似、はりぬき大頭、鐘曳、仙人の真似、山伏の真似、石引、猩々印五幣、御湯立、愛宕参りの真似、高野聖の真似、唐人行列、潮汲、鷹野行列、杣人行列、順礼、川猟、鷹野、母衣武者の真似で1200人、その後の神輿行列に200人以上、警固人を合わせると1700人を超えるという大掛かりなものでした。

〜の真似とそうでない物の違いがよく分からないのですが、分部町の唐人踊りは現在でも109日に八幡宮を一巡してから町内を練り歩くそうです。

神社祭礼とは異なり、所謂練物の範疇には入らないのですが、岩田準一の『志摩のはしりかね』に三重県鳥羽地方ではしりがね(以前別のブログで紹介させていただきました)といわれた船上遊女たちや鉄漿附祝に茜や黄金色の鉢巻を締めた船夫たちが酒樽を担ぎ、天保銭を結びつけた笹葉を振りたて練り歩き、天保銭や手拭を撒き散らし見物人に拾わせ、船夫たちを取り巻く女郎衆が三味線を弾いて囃し立てる様子も紹介されています。

三重県にかぎらず、愛知県犬山市では寛永12(1635)に始まったとされる針綱神社の犬山祭り、岐阜県美濃市の八幡神社の祭礼、東京でも日枝神社の山王祭、埼玉県は川越氷川神社の秋の祭礼など、江戸期が安定すると力をつけてきた商人を中心とした町衆による練物の歴史にはいとまないのですが、慶長9(1604)に岡山県、津山の徳守神社の祭礼で氏子が練物を出すようになりましたが、寛文9年(1667)の祭礼で24町が出した練物でいざこざが発生して市中のねりものが宝永まで禁止された、などという記述に出会うこともあります。

さて、ねりものを広辞苑でひくと【練物・*物】祭礼の時などにねり行く踊屋台、仮装行列または山車の類、あるのですが、練、*以外にも、黎、祢り、祢里、踟とさまざま表記がされます。

文献に最初に現れたのが鎌倉時代の建保年間、「賀茂祭練物見物の桟敷を設け、仙洞女院出御ありて之を御覧ぜらる」『宇治捨遺物語』の練とされ、『伝説の都』で石井琴水はその桟敷は一条烏丸西と書き、田中緑江はこの練物が(世俗でなく)祭礼の行列とみなしています。

さらに緑江さんは僧侶が大遠忌とか何か大きい法要が催されると、五条の袈裟をかけ、立派な僧服をまとい、長い寺の廊下、又は境内にこしらえた桟道の上を悠々とねって歩く所謂「お練り」を引き合いに出し、僧侶たちのお練り見たいな様なもの、ということが練物の語源と述べています。

*ねりの旧字ですが、表記できません。


by gionchoubu | 2014-05-26 17:04 | ねりもの Gion Nerimono | Comments(0)

祇園ねりもの 二

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同じく三重県四日市でも旧暦七月二十七日、諏訪神社例祭、四日市祭りにて古くから黎が奉納されてきました。これは各氏子町から奉納されたもので、少なくともその発生は花街のねりものとは別で、町練として分類されるべきものです。

古くは享保九年(1724)、神社から郡山役所への明細帳に「濱田より大山車二輌、四日市より二輌、他に練物少々御座候」とあります。その後宝暦三年に那須与一と扇の的の練り物の記録、天明八年には司馬江漢の『江漢西遊日記』に「廿六日 天気 アブラ照、暑し、四日市諏訪祭ナリ、夜営ニて亀六 と参ル、京風の山と云フ物出ル、富士の巻狩のねり物を見物す、」と見えます。

四日市の黎は歩く人が主体の人練り、からくり人形をのせた二層三層の山車を動かす山、一種のハリボテを使った船の三種に分かれるようで、これに古市の人が台の上に乗って担ぎ手によって運ばれるものを入れると黎の基本形が出揃い、祇園ねりものはこの人錬りの進化系といえると思います。

さて、司馬江漢が富士の巻狩を見物したすこし前、安永年間(1772~1781)のものとされる黎物の一覧があるのですが、北町の七福神、上新町のおもいおもいの黎物、竪町の朝鮮人、西中町の船づくし、東中町のかさぼこ、北条町の魚づくし、下新町の打物づくし、浜町、中納屋町の関船、新丁の一の谷二段目、蔵町の唐子、北納屋町、東袋町、南納屋町の鯨つき、桶之町の百物語、新田町、北浜田の鹿がり、江田町の太神楽そして南浜田の富士の巻狩り、などたいへん大掛かりなもので、後年幕末から明治初期に成立したとされる伊勢四日市諏訪神社御祭黎物という木版刷りと対比してみると、四日市の京都の黎物が祇園祭でいう鉾(四日市では大山と記載)や山、西町がだしていた神輿や雅楽の奏上を含めすべてを黎としています。

ですから四日市からみれば京都の祇園祭りの山鉾巡行すべてが黎という事になるのでしょう。この中で新丁(今の新町、新々町、新町一区)の一の谷二段目は明治時代に菅公山車に変わったのですが、町練りでご祝儀を頂いた家で所望(しょもん)とと呼ばれる演技をするという記述があります。

これはまさしく祇園ねりもので、馴染み客から所望(しょもう)の声がかかるとそこで練り子は立ち止まり、その衣装に関する舞いを舞った見せ場と同じで、今のところ、少なくつもこの件に関しては。四日市の方が、京や大阪の花街のスタイルを踏襲した物と私は考えています。

四日市祭りで神輿、大山車は神事色の強いもので、各氏子町から出た黎は神前に奉納される余興のようなものだったとされるのですが、これも京都の祇園祭りに於いて、神事とされる山鉾巡行とは別に行われた、芸妓によるねりものとの共通する点と指摘ができると思われます。さらに船づくし、魚づくし、打物(雅楽の楽器や武器など)づくしなど「〜づくし」も花街のねりものと一致しているのですが、これは所謂「風流」の系統をたどるもので源流は同じものと考えていいでしょう。

以上の内容は平成二十一年に四日市の祭りを学ぼう会から発行された『四日市祭り』を元に書いているのですが、この本のなかで*の替わりに黎の字を当てる理由や、さらに黎と練りの区別まで言及されている非常な労作となっております。四日市は東海道五十三次の宿駅さらに伊勢参宮の旅客も立ち寄った場所として江戸の中ごろから大いに榮え、戦前まで、北町の娼妓に対し、お隣の南町には芸妓町だったのですが、この南町の安永の黎物一覧に「踊り染分手綱合戦二戦」とありますが詳細は不明です。

昭和初期に地元の画家である出口對石が書いた四日市祭りの絵の一枚に、山車の後ろに底抜け屋台で鳴り物を鳴らす芸者衆の姿が描かれており、戦前まで花街が補助的な役割とはいえ四日市の黎物に関わった事が分かります。現在も四日市祭りで人練りである富士の巻狩りが初期のすがたを留めており、四日市祭りのシンボルである大入道が安永時代の桶の町の黎であった百物語事にも思いをはせ、是非ともこの祭りを拝見したいものです。

*旧字体の為表記できません



by gionchoubu | 2014-05-25 14:32 | ねりもの Gion Nerimono | Comments(2)

祇園ねりもの 一

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昭和十一年祇園乙部(現祇園東)によるねりものの番付

二年前、昭和のねりもので使用された屋台二台が、八坂神社で保管されていることが話題に登ったことなどがきっかけで、昨年観亀神社宵宮祭での当時のねり子衣装展示につながり、新聞の記事にもなりました。

また、三回に渡り、江戸時代の京、大阪の廓のねりものの資料を嶋原の角屋さんが公開された事、さらに臨川書店より、福原敏男氏、八反裕太郎両氏の祇園祭・花街ねりものの歴史が出版された事などなど、ここ一、二年は少しばかりですがねりものの話題が世間にでました。

花街のねりものというと京都の祇園、上七軒、嶋原、大阪の島之内、坂町、北之新地、新町が挙げられるのですが、祇園ねりもの以外を見渡してみると、浮世絵、番付などは多少残るものの、研究者も少なく、その実態、背景などはなかなか見えてこないのが実情です。

ここで地元以外あまり紹介された事がない、かつて三重県に存在した、非公許の遊里ながら江戸の吉原、大阪の新町、京都の嶋原と並び称された伊勢の古市にて第二次大戦までは催された練物について『伊勢古市考』(野村可通著、三重県郷土資料刊会)がまとまった記述をされているので紹介させて頂きます。

古市では練りと称され盂蘭盆にかけた、八月十四、十五、十六日の祭りの最終日の夜に盛大に行われたもので、練り子がしずしずと歩く人練りではなく、総檜材、縦十五尺横七尺程の舞台に人が乗った練り屋台を若者が担いで練り歩いたもので、この練り屋台は町内単位の町方と杉本屋、備前屋の大楼が出し、舞台の上に乗るのは大方が芸妓、娼妓あるいは子供たちで、人形と呼ばれ、練の進行中は瞬き一つ出来ない約束で、休憩までの十分、二十分は目が血走っている状態、休憩時間人形はを飲まされたり、化粧を直してもらったり一騒動だったのことです。

練り舞台は前面と正面の二辺に三段式で、無数にローソク立てが釣るされると針金で固定され、そこに百匁ローソクが立てられました。後昭和に入り電気やガスに替わったのですが、本来ローソクを立てるべきと作者は述べられています。

練りの進行は進行役の拍子木が鳴り終ると、「イヤー」という掛け声と共に前囃子が始まり進められました。行列は古市と大書した高張提灯、麻の紋付に黒羽織の町役員、青年連の前囃子、そして屋台、芸妓による後囃子の順で構成されていました。

青年連は揃いの浴衣、揃いの角帯、揃いの豆絞りの手ぬぐいで先頭は太鼓二人、続いて鼓四人が二列、さらに太鼓一人と鐘一人、笛二人、三味線四人が続き、大太鼓一人のみ枠外で合いの手を勤めました。後囃子の芸妓の方も同じスタイル、同じ陣容だったのですが、あくまでも先導者の補助的役割であったそうです。

それぞれの演し物は舞台上の生きた人形に合わせ、たとえば「お祭り左七」の様に決められるのですが、町内に適当な女性がいなければ、杉本屋、備前屋などの大楼から候補を玉代を払って借りてきました。

とにもかくにも古市の練りは豪華絢爛、訓練された活人形の芸術美にあり、それぞれの町内から出発した一行が終点の長峰神社に着く頃は、夜もかなり更けていたようです。

伊勢の古市は伊勢参りの口実として寄られた遊所として知られるのですが、京の花街の接点として伊勢地方では良く見られる笑門とかかれた一種の注連縄が、今でも祇園を含む京都のお茶屋でいくつも見られます。

そして祇園の都をどりが古市の伊勢音頭を参考として、明治五年に第一回が行われたのですが、このあたりの事情は後日書かせて頂く機会があると思います。




by gionchoubu | 2014-05-24 16:18 | ねりもの Gion Nerimono | Comments(0)