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カテゴリ:雇仲居( 14 )

やとな倶楽部

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             ヤトナの本場であった東山安井
大正四年、京都に最初の雇仲居倶楽部はその名も「やとな倶楽部」で、主幹が鷲尾彦次郎、会長中川さだこを置いて四條高倉で看板を掲げたのですが、その案内書に当倶楽部の営業案内があり、それを要約すると

一、当倶楽部はヤトナ即ち高級仲居供給業として、大阪、神戸に続き、京都の最初のヤトナ倶楽部として開業した。
一、当倶楽部の会員には、諸礼式、謡曲、茶道、音曲等の教育が行き届いている。
一、会員は品行方正で、どんな厳格なご家庭に呼ばれても大丈夫。
一、当倶楽部の会員は元祖やとなくらぶの徽章をつけている。
一、以下の場席に会員をお招きください。
  園遊会、ご婚礼、ご宴会、ご家庭御小宴会

とし、ヤトナを呼ぶメリットとして、電話一本で簡単に呼べ経済的、芸者では差し支える場所にも呼べる、などを挙げ、宴会の様式に応じて料金を△月の部△雪の部△花の部に分けました。

その後十年あまりで雇仲居の学校で紹介したようにヤトナ倶楽部の数は増え続け、ヤトナ学校まで設立されたのですが、その頃既に園遊会、ご婚礼、ご家庭小宴会はともかく、ご宴会に芸妓の代用として呼ばれるヤトナが独自の進化を遂げてきたたようです。電話一本でどこにでも来るし時間制限もない便利芸者、やとなの需要は増える一方であったようです。さらに芸妓は重税に苦しむもやとなはその限りでない、芸妓のように花街に縛られることもなく、稽古を含め拘束がはるかに楽、となるとヤトナの志望者こと欠かないという背景も見逃せません。

昭和七年七月号の『技芸倶楽部』を読むと、実際ヤトナの営業は夜十二時までと決められているのですが、木屋町、東山安井の旅館、席貸で営業時間外でも取締りから逃れていた状況がよく分かります。

さらに昭和九年八月の同書では「東京玉の井の出方、京都の如何はしい雇仲居、警察取締は中々困難か」の記事に「京都では出方と云って好いか、私娼といって好いか、其の別名は知らないが、普通の席貸、料理屋等のうちには夜の三時四時頃までも調子外れの三味を弄して俗悪極まる卑猥な唄を唄ひ、或は辺り憚らず高声を放ち猥褻極まる咄しを交して近所合壁の眠りを妨げるのは大抵如何はしい雇仲居である、夫れでも何等咎めらるゝ事なく、毎夜アノ家でも、コノ家でも、横暴を極め近所の迷惑、安眠妨害、そんな事は知らぬが半兵衛式、夫等の取締は何処にあるか、サッパリ訳が分かぬ様な事では、実以て迷惑千万な事」とヤトナは品行方正どころか、私娼と同列で述べる文が載るほど、その最初の理念とはかけ離れた存在になってきたのです。



by gionchoubu | 2014-10-07 13:16 | 雇仲居 | Comments(3)

雇仲居の学校

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昭和三十年に封切られた夫婦善哉は昭和初期ごろの大阪の風情を映したもので、主演は森重久弥、寄り添うのは蝶子という元北之新地の芸妓でヤトナとして家計をささえる淡島千景

大正十四年の『技芸倶楽部』35号で、この雑誌の記者が「雇仲居の学校」という記事をかいています。これによれば、京都で始めて雇仲居倶楽部ができたのが大正四年の秋で、場所は四条高倉西といいますから大丸のすぐ近く、今の繁華街のど真ん中といった所です。

この時代背景としては後大典前で経済は活況を呈し、飲食業も大繁盛で雇仲居を受け入れる下地は整っていたようです。この最初の倶楽部には元祇園の芸妓で東文龍も雇仲居として働いていたとの事です。

そして雑誌が発売された頃には、やのなの数も増え、府令により雇仲居取締規則も発布され、五条部内に二十、西陣署部内に八、中立売署部内に十一そして川端、堀川両署に七箇所、計五百人のやとながいました。単純に計算すると、一つの倶楽部に十人強のやとなが所属していた事になります。

そして仏光寺河原町西に全市雇仲居組合の取締事務所があり、矯風会という、雇仲居の学校もありました。この学校の前身は大正九年に二条木屋町のお寺の座敷で仮設されたのが最初で、大正十一年に組合事務所に移されました。

この学校の授業を見ると、大阪の便宜芸者としてのやとなのイメージとかけ離れた、大変厳しいもので、仕事の合間、市内の雇仲居は全員月四回以上はお昼の三時間近い時間授業を受ける義務があり、四回以下は過怠金を取られる仕組みになっていました。

この授業を総て書き留めると初等科である梅組科の内容が、

梅組科

起居態度、起居動作、進退の作法、立礼、座礼、庭園を散策する時の心得、戸障子及襖の開閉作法、洋式扉の開閉作法、座布団の出し方、火鉢の進め方、煙草盆の出し方、菓子の出し方、茶の出し方、引菓子紙の折方、排列の順序、炭の次ぎ方及寸法、碁盤の出し方、料理箱硯箱取扱心得、書籍色紙短冊の取扱心得、扇子の進め方心得、団扇の進め方心得、座敷へ案内及送り出しの心得、二階へ案内及送り出しの心得、階段にて会った時の礼、携帯品預り方心得、帽子及肩掛の渡し方心得、傘及洋杖の渡し方心、座敷上下、取次ぎの心得、送り出しの心得、自他履物の心得、来客に対し手洗いの作法、人の前を通ずる時の礼、人に行き会った時の礼、途上の礼、椅子に掛ける時の心得、賞状の受け方、刃物取扱いの心得、自己化粧心得、袴の名称、公衆の場所、陶磁器洗浄の仕方、大酔は如何にして手当てすべきか。

梅組科で徹底的にやとなの心得、行儀作法を教えました。梅組科が初等クラスとすると、随時科、竹組、松組、御礼式は上等クラスというべきもので、これも記すと、

随時科
 
会席膳組立の心得、本膳・二の膳・三の善・組立ての心得、折詰及縛り方の競技、箸紙の折方及び水引の掛方、洋服の取扱心得、袴の紐結び競技、礼式しをり目次質問。

竹組 

茶道、華道、花器と花台の名称

松組

置物飾り方、床の間装飾、日本間の装飾、掛物種類の取扱心得、屏風の種類と取扱心得、祝儀に忌む花の名称

婚礼科

三々九度盃の伝、其他儀式一式

やとなと言うと、時代が生んだあだ花、擬似芸者のような扱いを受ける記述も見かけるのですが、京都に於いては、この時代の雇仲居は芸妓にも劣らぬ、いや芸妓以上の厳しい行儀作法を目指していたようです。








by gionchoubu | 2014-09-23 11:43 | 雇仲居 | Comments(0)

酌人と雇仲居

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                        竹原
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                         住吉町
京都では江戸時代、下河原の山根子と呼ばれ、客に求められて酒の相手をするというよりも、東山山麓にて六阿弥(ろくあみ)といったお寺が経営した席貸屋に舞台を求め、品格を持って技芸を披露した町芸者や、宴席にも出て三味線も弾き踊りも踊るが、結婚式の儀礼や葬式のしきたりの際、家人のお手伝いに長じた酌人という職業がありました。

明治になり、山根子は祇園に同化され、井上流の踊り手となり座敷に侍り、山根子芸者と呼ばれる人はこの時代に消え去りました。一方酌人は、大正以後は雇仲居と名を替え、京都ではつい10年ほど前までは、客の求めに応じ旅館や料亭に、和装のコンパニオンとして座敷に入ることがあり、下河原に一、二軒ですが個人で経営されている倶楽部がありました。

この酌人が、料理屋、旅館の仲居と違うのは、酌人同志の横の繋がりを大切にしながらも、開宴事情の消息に長じ、特に冠婚葬祭などの席でも重宝されたことで、酌人の鑑札をもっていたことです。また、花街の芸妓とちがうのは、本来芸妓ほどの華美をよしとしなかった点で、大正八年『郷土趣味』13号の「大阪の酌人に就いて」今西茂喜筆を読むと、酌人の風俗は質素で、紋服では精々紬の紋付を用いるぐらいで、頭はりょう輪に結び、お歯黒をし、眉を落とすという独特なスタイルをもっていたといいます。

京都、大阪以外東京、福岡、姫路、神戸、奈良等にもこの酌人がいましたが、この雑誌が発売された頃には衰微していったようです。さらに芸妓が廃業してこの酌人に鞍替えしても、体力、習慣、養成も素因がことなるので、労働耐えられず中途挫折するのが普通だったようです。

大阪酌人組合規約及趣意書に

第六条 組合員は宴席に侍すると否とを問わず勉めて倹素の風を尚び其言語挙   
動を温雅にして苟しくも花街に於ける淫ぴの風に感染せざる事を要す。

第九条 酌人見習中は宴席に於ける盃盤の配置歓待の方法其他冠婚葬祭の儀礼に通暁すべく姉酌人に於て之が養成を怠るべからず。

と、当初の酌人の職業倫理は大変高いものでした。

しかし明治三十九年八月二十八日、大阪市酌人同業組合が大阪府知事、高崎親章に提出した『酌人組合設立趣意書』を読むと、大阪では酌人組合設立当時に於いてすでに「其下層にして卑俗なる業務に対する改善の手段を講ずる蓋し急務中の急務と云う可し」、と、お茶屋しか入れない芸妓と違い、おでんやであれ、そば屋であれどこでも出入りできる酌人のステータスを最大限に利用し、酌人の蓑を纏った簡易芸者として花街を蚕食する芽は既に出ていたことになります。

その後新世界で雇仲居は猛威を振るったのですが、西日本にはこの芸妓ならぬ雇仲居ばかりで一地区を形成した所が、私が知る限り、新世界以外に二箇所あります。

一箇所は昭和初期にできた三重県の四日市の住吉町と、もう一か所は広島県の竹原です。








by gionchoubu | 2014-09-21 11:09 | 雇仲居 | Comments(0)

やとな 大正芸妓 有芸仲居

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                         新世界
やとなさんとは大正から戦後にかけ大阪、京都、奈良、兵庫で一大勢力をもった女性の職業で、芸者の様で芸者でない、酌婦の様でそれだけではない、警察には常に目を付けられ、花街からは目の仇にされ、それ故変わり身も早く、場所により、時代によりその形態をかえ、その柔軟性ゆえ定義すらままならぬ存在でした。

京都では下河原が本場で、ほんの四、五年前までは、私も年一ぐらいはお客の要望で手配もさせて頂きましたが、今はもう営業されていないかもしれません。

現在のやとなさんは着物姿の手慣れたコンパニオン以上でも以下でもなく、料金も着物着用のコンパニオンと変わりませんでした。

やとなとは雇仲居のことですが、そもそも仲居は料亭、お茶屋、旅館で配膳が主な仕事で、臨時で仲居を派遣で雇うのは助仲居(すけなかい)で、たとえば貴船などで夏の一定期間これを手配するのを長助と呼びます。

しかし、お酒の相手が主で配膳はしないのに何故雇仲居なのでしょうか?

ヤトナの本場であった新世界の歴史を辿り、私ながらにその答を探って見ようと思います。

明治三十六年、現新世界から天王寺公園にかけ第五回内国勧業博覧会が催され、その跡地を中心に明治四十五年初代通天閣、ルナパークを含んだ一大アミューズメントパークが新世界でした。

そして大正四年逢坂通りに雇仲居小雪倶楽部が営業を開始しましたが、酌人の鑑札を手にしたやとなは、おでん屋だろうが蕎麦屋であろうが、一般の仏事、婚礼などでも何処でも赴くので重宝がられ、なにかとシバリの多い芸妓と違い、安価な上電話一本で呼べるのも便利で、新世界には新奇を求める客が真昼間から押し寄せる現象まで引き起こしました。

これに驚いた花街側は警察当局に取り締まりを働きかける一方、自らも料金を含めた営業形態の見直しを迫られたのです。

新町を省いたこれらの花街は江戸期の長きに渡り非合法遊里として、唯一公許の新町の強い要請で常に取り締まられた対象でしたが、皮肉な事に、明治になり自分たちが権威になると新町と手を携え新規の参入者を拒んだのです。

それでもヤトナの快進撃は止まらず、ヤトナの舞妓、幇間までもが出現するに及び、大正六年所轄難波警察も、新世界の業者の自覚改善を促す為、酌人新規出願を停止するという強硬手段で望みました。

そうこうしている内にも敷地内には料理屋が続々竣工するので、新世界酌人組合は大幅な改善策を実行せざるを得ませんでした。

その改善策とはヤトナは三味線を携行せず、裾をひかず、芸名を用いず、明かし花を売らず云々というものですが、これは取りも直さずヤトナはそれまで三味線を弾き、ぞろりとした裾をひいてお座敷に現われ、芸者のような名前を持ち、さらに客から請われればお泊り営業をしたという事に他ならないのです。

お茶引き芸妓の中には厳しい稽古の無い手っ取り早く稼げるヤトナに鞍替えした者も沢山いたでしょう。花街側が激怒したのもうなずけます。

ヤトナは大正芸者と呼ばれたり、有芸仲居の別名もありましたが、自らを雇仲居と呼び、芸の一字から遠ざけたのは、花街や世間の目を鑑み、体裁だけは仲居の一種として取り繕っていたので無いのでしょうか?


by gionchoubu | 2014-09-19 12:41 | 雇仲居 | Comments(2)