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カテゴリ:雇仲居( 14 )

上方名物やとな

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かつての大阪、新世界の南陽新地はやとなの街でした。最盛期にはやとなの舞妓、やとなの幇間までおりました。

昭和六年刊、酒井潔著『日本歓楽郷案内』の大阪歓楽郷案内の第六章『上方名物やとな』は当時の擬似芸妓としてのヤトナの等身大の姿を映し出しています。

「上方特有の職業婦人にやとなというものがいる。芸妓の役目と娼妓の役目と兼ねているが、私娼ではない。ちゃんと公認された存在である。やとな倶楽部とか、組合というものがあって、客の求めさえあれば飲食店だろうと、ソバ屋だろうと、出先の上下はかれこれ言わぬ。

歌沢や常磐津など注文したって、それは注文するほうが野暮であるが、俗歌や端歌の一つ二つくらいは、ポツンポツンと三味の音にあわして歌ってもくれよう。その代り花代もずっと安い。

仲居上がりもいれば、お茶引芸妓のなり下がりもいる。大きな宴会などがあって、芸妓が出揃って間に合わぬ時は、やとなでも呼んで散在しようということはあり勝なことだ。」

やとなが誕生したのは奈良か、京都か、大阪か分かりませんが、とにかく関西地方で爆発的に繁栄しました。四国、中国、東海地方まで広がります。北陸でヤトナの話は聞きませんので、芦原、片山津、山中などの温泉芸者が盾となってやとなの進出を食い止めたものと思います。現在関西でヤトナの話は聞きませんが、四国などでは、まだヤトナさんが生き残っているとい話は仄聞します。

「二流三流の料理屋でも結構だから、女中に命じさえすればすぐに呼んでくれるはず。別にうるさい規則があるわけでもなく、やかましい習慣もないからやとな買いは簡便である。」

と、同書は教えてくれます。うるさい規則とは本芸妓を呼ぶ場合に比べて、という事です。

「芸もたいしてできないし、さればといって娼妓までなり下がるのも気がひけるし、売笑婦になって秘密稼ぎはなおいやだという、あらゆる意味においての日和見的な傾向をもつのがたとなの特徴であろう。けれども芸妓や娼妓よりずっとお金がたまる商売だそうだから、われと思わん方々はこぞって結婚の予約申込をすべきである。いいチャンスといい対手さえあれば、いつでも足を洗おうとしているお姐さんたちが多いのだから、思ったよりも案外はかばかしく相談がまとまるかも知れぬ。」

さて、いくら安いといったって、当時の男共はなぜ調子はずれの三味線を弾くヤトナを揚げて夜な夜な騒いでいたのでしょうか?

ちゃんと答えも『日本歓楽郷案内』に出ております。

「ええ、彼女と雲隠れする方法?」そんな野暮なご質問は・・・女中にさえ頼めば、一にも金、二にも金の色町のならい、そこはそれーねえ。それとも、お土産いただくのが恐いような方は、最初から素性のしれない女など御対手にしてはいけない。週一回ずつ検査をやる娼妓からさえ、われわれはしばしば結構なおみやげを頂戴することがあるのだから。

このやとな、すでに大正時代に東京進出を果たしたことは果たしたのですが、東京には定着はしませんでした。苦労を厭うヤトナのやわな足では天下の険である箱根の峠を越えることが出来なかったのか、あるいは伊東や熱海の芸者衆が身をもってやとなの攻勢を阻んだのか、今の私に答えを見出すことは出来ません。


by gionchoubu | 2015-10-18 11:32 | 雇仲居 | Comments(2)

ヤトナの終宴

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昭和三十三年売防法施行後、京都市のポン引きが目を付けたのは赤線周辺に存在した経営不振の小さい旅館で、中には赤線からの転業者もおりましたが、素人が手を染め、ポン引きに電話で連絡して女を世話する、さらにはバーの女給が、何度も男を変えて泊りに来ても、実情承知の上同伴で泊める、女を別のところに下宿させ、泊り客に宿の女中が斡旋するといったように自らが管理売春に手を染めるというところまで現れました。

とにかく松原署管轄だけみても、四百軒の旅館の内半分がこの道に関与したといいますから驚きです。

こういった傾向に歯止めがかかったのは、ひとつには昭和三十九年東京オリンピック開催が背景に見え、警察も国の威信をかけ、風俗取締りに全力を掛けた結果ではないかと推察されます。ちなみに、都をどりの開催される祇園甲部歌舞練場の隣のヤサカ会館で、冬期には週末開催のみになるも、春、夏、秋には毎晩京舞を含む古典芸能を鑑賞できるギオンコーナも、外国人向け開演として東京オリンピックと同時に始まり現在に至ります。

この東京オリンピック開催に前後して全国でホテルオープンラッシュがあり、立食パーティの機会も生まれ、夫婦でパーティに出席する習慣がない日本独自に生み出されたのがバンケットコンパニオンだったのです。

京都バンケットサービス業協会が平成二年に関係者に配ったKBSA通信NO2「5年のあゆみ」を読みますと、京都のコンパニオン創生期の状況は「考えてみますと、私はコンパニオン歴に付きましては20年以上という長丁場となりましたが、当時は他に類をみない新職種の為、お客にいかに理解を得、受け入れて頂くか、悩み、かつ苦悩したものでした。」という生の証言があります。

この京都バンケットサービス業協会が結成されたのは昭和60年2月13日、すし松別館で、初代会長には京都企画の代表取締役であった秋山末吉氏が選ばれ、その設立趣旨には

「人材派遣事業立法化の進む中、バンケット・コンパニオン派遣業界も全国的には、大手業者の集いとして日本バンケット・プロデュース協会が設立され、現在野放しになっているこの業界に自主的に規制を設け、社会的にも認知される業種として発展させていこうと活躍されておられます。
 京都の業界も個人営業等を加え、役50社位の業者が乱立致しております。なかには社会的にもひんしゅくを買い、又、労働者保護の立場からも問題になる営業をされている業者の方々もおられる様に推察される現況であります。
 そこで、我々も業界発展の為、又、京都の観光事業の一端を担うものとして、よりグレードの高いサービスをモットーに、バンケット・コンパニオンの教育等、労働者保護の立場をふまえつつ、清潔・明朗なる業者の集りの場を持つ為、協会設立の運びとなりました。」

この社会的にひんしゅくを買うものの中には、ピンクコンパニオンの存在もあったでしょう。京都市の場合、旅館は大阪万博前から修学旅行旅館と高級旅館に二分され、温泉地と違い、ピンクコンパニオンの育つ土壌も、需要も殆どありませんでした。

ただし皆無というわけではなく、二十年ほど前、伏見にピンクコンパニオン派遣業者があったのを私は知っております。こちらを呼ぶのは、たとえば、他府県の男性中心の公的な職場で(ご安心ください。私の知る限りでは警察、消防関係ではありません。)地元ではなにかと人の目につくので、日帰りで京都で羽目を外す・・・といった催しだったりしたものです。(現在でも、風の噂によれば、手配可能のようです。)

コンパニオン業界においても、コンパニオン引き抜き合い、不良コンパニオン、フリーコンパニオンといった問題も抱えていました。派遣先の旅館側で問題とされたのは、スナック嬢であるコンパニオンが旅館に入り、宴会のあと自店に強引に勧誘し、あとで旅館にクレームがつくといった事があります。

しかしコンパニオン業界の一連の努力により、バンケットコンパニオンは世間に認知され、オフィスレディや女子大生のアルバイトのコンパニオン達が時にほんの少しの割増料金で着物を着て宴会場に入るようになると、もはや組織力まで失った京都のヤトナが復活する道は完全に絶たれたのです。

参照:遊女と街娼、錦織剛男




by gionchoubu | 2015-10-11 10:37 | 雇仲居 | Comments(0)

コンパニオン

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昭和五十六年の京都市の職業別電話帳で、芸ぎ紹介欄を見るとコンパニオンセンター、みやびバンケットの二業者がここに電話番号を載せています。これは、まだコンパニオンの見出しがない為、やむなく実質雇仲居置屋の欄である芸ぎ紹介に顔を出したものでしょう。昭和五十八年には新たに芸ぎ紹介欄にワールドユニバースが加わりますが。名前から判断すると、こちらもコンパニオン派遣会社と思われます。

みやびバンケットは現在みやびプロデュースの名の元、コンパニオン派遣事業を中心に活躍されております。京都府旅館ホテル生活衛生同業組合参加の共栄会の会員として、同組合の忘年会、新年会のお手伝いもされています。

さて、昭和五十九年の職業別電話帳に初めて「コンパニオン紹介所」の欄が設けられ、アーバンプロモーション、京都企画、シェル・バンケット、ソシアル、たんぽぽ、ティープラント企画そしてみやびバンケットサービスの各社が登録しました。

ところが僅か六年で、コンパニオンの需要が爆発的に増えたと考えられるのは、平成二年の職業別電話帳をみると、「コンパニオン」欄に四十社以上の業者がひしめきあっており、今度は逆に、玉川クラブ、花の会、三吉クラブなど実質やとな派遣業者が芸妓置屋欄とコンパニオン欄と同時に登録しているのが分かります。

この頃のコンパニオン業務は欄外の広告をみると、パーティ・宴会コンパニオン以外、観光ガイド、プライベート秘書、展示会、イベント、タレントマネージメント、クラブ・ラウンジのトータルプラン、コンサート・ディナーショーキャンペーンガールと業務内容は芸能プロダクションやスナック、ラウンジ、クラブレディーの手配まで幅広い需要に答えようとしているのが見て取れます。

これはまだ業界にも、世間にも、コンパニオンのカテゴリーが確立していない過度期といってよく、この業種振り分けは何度かシャッフルされ、とりあえず今の状態に落ち着いていると見てよいでしょう。

平成九年のコンパニオン欄は二十七社と平成二年から大幅に減っており、かつてコンパニオン欄に登録していた業者の幾つかは、大きく成長した芸能プロダクションなどに業務の移行がおこなわれたと推察されます。

この業者が世間に認知されていく段階、「バンケット・コンパニオンのことなら・・・信頼ある実績、ご満足いただけるサービス、安心してご利用いただける、裏面の協会加盟会社へ、ぜひご用命ください」のモートーの元、ホテル、旅館の派遣を中心に昭和六十年に設立されたのが『京都バンケットサービス業協会』でした。

KBSA(京都・バンケット・サービス・アソシエーションでありましょう)通信NO.2の加盟会員は平成二年、

アイプロジェクト、ASUKA、アルファー企画、加茂企画、京都企画
京都中央企画、総合企画くすの木、クリエイトイフ、グループしずか、サンコー企画、サンフラワー、千日企画、ソシアル、ニューバンケット、みやびプロデュースの各社で、事務局はみやびプロデュースにおかれました。

この千日企画が昭和九年の職業別の電話帳に「コンパニオン派遣」に載らず「芸能プロダクション」に欄を移しておりました。


by gionchoubu | 2015-10-08 11:43 | 雇仲居 | Comments(0)

ヤトナは何処に?

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昭和八年の職業別電話名簿に安井神社境内に東山花壇とやとな安井倶楽部本店が載ります

芸妓は花街という籠の中に、地盤区域を定められ、重税を課せられ、その行動範囲から、服装、髪型、生活様式にいたるまで、あらゆる所でがんじがらめの枠にはめられ、さらに芸の裏づけがなければ明日がないという厳しい条件がつきまといます。

そこで行くと、その前身が酌人という冠婚葬祭や宴会の雑役をこなしてきた雇仲居は、全く違う職分だったわけです。問題は雇仲居の一部が芸妓の職分を侵し、擬似芸妓として、宴会に侍り、さらに、この擬似芸妓分野が本職となってしまった事にあります。

結局、戦後にいたって雇仲居とは、三味線を携えて座敷に呼ばれて、簡易芸妓としてお客を遊ばす、もしくは芸の素養もなく、ただ酌婦として呼ばれ、お客の求めに応じ金銭でもって夜のお供をする・・・という二つの流れが出来たと思います。

本来雇仲居の本分は酌婦でなく酌人にあるわけで、擬似芸妓も擬似地方も、ましてや、宴席は隠れ蓑で夜のお供が主になる雇仲居が主流になるとは、大正四年、京都で最初の雇仲居倶楽部である「やとな倶楽部」を立ち上げた主幹、鷲尾彦次郎の本意では無かったはずです。

その会則によれば、当倶楽部の会員は諸礼式、謡曲、茶道、音曲等の教育が行き届き、品行方正、どんな厳格なご家庭に呼ばれても大丈夫・・・しかるに戦後、厳格な家庭の一軒でもヤトナを家に招きいれた奥さんはいらっしゃったでしょうか?

現在京都で五花街は健在、舞妓は京都の代表としてお座敷は勿論、行政に、コマーシャルに、映画に、テレビのバラエティーに、引っ張りだこ、外国人の人気も大変なもの、つらい修養は報われました。

一方、花街最大の敵言われ、安くて便利、電話一本でどこにでも現れたヤトナは何処にいってしまったのでしょうか?

やとなの首を締めたのは本分を忘れたヤトナ自身であったのだと思います。 

昭和に入って、遊廓、花街業者がヤトナの次に怖れたのは、モダンなカフェーの女給達でした。カフェーの設備は近代的、当時洋画で見られる銀幕世界の中で、タンゴやチャールストンを一緒に踊ってくれる洋装のカフェーの女給のほうが、花街にとって次元の違う脅威でした。

結局ヤトナを呼んだ男達は誰よりも移り気で無節操、カフェーの女給、キャバレー嬢、ピンクコンパニオンなど、その時代の魅力で飾られた女性達にその趣向をなんの躊躇いも無く変えてしまったのです。

やとなの本分である行儀作法で冠婚葬祭を取り仕切る酌人としての立ち位置を振り返ったとしても、省みる事のなかった元の職場は他の業種に完全に奪われた後、ヤトナの帰る所はどこにもありませんでした。


by gionchoubu | 2015-10-05 15:46 | 雇仲居 | Comments(0)

上八軒(うえはちけん)と上八軒(かみはちけん)

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                   面影皆無の旧八軒あたり 

先ずは上八軒(うえはちけん)、こちらは広辞苑に「京都四条通から南藪の下あたりにあった私娼街」とあります。これは現東大路の八坂神社からすぐ南で、東大路が電車道として拡張されるまえは細い道、八軒とか藪の下とか呼ばれた場所です。
 
よくまあ広辞苑に載るな、と私自身驚くほどのマイナーな遊所で、文献でいうと『西鶴大鑑』に「祇園、石垣、上八軒、穴奥(コッポリ)、八坂、清水の茶屋」『好色一代女』でも「町の髪ゆひらしき男、細奥(コッポリ)、上八軒の茶屋あそびの諸分けならではしらず云々」紹介されています。つまり、八坂神社を境に北が小堀(こっぽり)南が八軒です。『諸国遊所競』では八軒ぜぜ裏と載るのがこの両者を併せたもので、この場合、膳所裏=小堀と考えていいと思います。

そして上八軒(かみはちけん)、渡会恵介著『京の花街』に「最近は、芸事のきびしい上七軒の“裏”をゆく上八軒が出来た。場所を指したものでなく、上七軒の地方の芸妓がリーダーになって始めたホステス稼業。これを新研芸妓という。クラブへ電話をかければ、“はい、伺います”、宴会が主で二時間五千〜八千円が相場。地方は上七軒のレッキとした芸妓だから、三味線は何でもコナすし便利がよいと、この“上八軒”を常用する客もふえた。」昭和後期の風情です。

ちょっと出来すぎた話ですが、コンパニオン会社を昭和の後期に立ち上げた最古参のコンパニオン派遣会社の社長さんにお聞きしたら、この上八軒が実際、この派遣会社に登録しており、上木屋町によく出向いたとのお話を、つい最近お聞きしました。

さて、平成二年のタウンワークで、五条楽園以外の雇仲居倶楽部と思われる置屋を芸ぎ置屋欄(個人名を除いて)から探して見ます。今回は前回までの、上木屋町、下木屋町、五条楽園、下河原の四グループ以外にも散在した市内全域の倶楽部も載せました。

中京区 西京倶楽部、木屋町三条上
吉富久 先斗町三条下

東山区 さつま 八坂下河原東
     寿栄吉倶楽部 東大路松原上る
     玉川クラブ 下河原八坂鳥居前下
     つるの屋 下河原八坂鳥居前下
     花の会 下河原八坂鳥居前下
     三吉クラブ 高台寺南門下下河原
     美幸 山和大路四条下
     輪蘭豆 下河原八坂鳥居前下
     
 
山科区 翁

随分減っています。山科に顔をだした翁は木屋町御池にあった翁クラブと関係あるのかもしれません。

平成十一年では矢張り五条楽園を除くと下河原の玉川クラブ本店と山和大路四条下の美幸のみがタウンページにのり、この十年にさらに激減しました。ただし。タウンぺージに載りませんが、下河原か安井に西秋クラブがありました。そのころ、私も何度か、玉川クラブと西秋クラブでヤトナさんを手配したことがあります。

この玉川クラブも平成二十三年コンパニオン派遣業者として載りますが翌年にはタウンページから姿を消しました。

平成のやとなさんは、着物を着たコンパニオンと同じで、座敷に呼ばれて客さんにお酌をして座を盛り上げて・・・といった感じで、私自身三味線を抱えたやとなさんは一度も見た事はありません。

料金は原価でコンパニオンが8000円ならやとなは10000円が相場で、お客さんにしてみると、ホテル、旅館の手数料込みで二時間で12000〜13000円でした。車代も込みですので、随分お安いと思います。中にはびっくりするぐらいの綺麗なやとなさんもおりました。



by gionchoubu | 2015-10-02 13:25 | 雇仲居 | Comments(3)

雇仲居倶楽部 お茶屋と置屋

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      五条楽園

今一度昭和三十八年の職業別電話帳の芸妓紹介(置屋、小方を含む)欄で五条楽園の雇仲居倶楽部を探してみると。(個人名を除く)あさひ倶楽部、おとめ、川崎クラブ、神戸屋、次郎長、大喜倶楽部、第一倶楽部、高瀬クラブ、ニコニコクラブ、ミヤコクラブ、丸八クラブ、

同年のお茶屋(待合、貸席を含む)の欄には、ヤトナが送り込まれたと思われる五条楽園のお茶屋が、五花街や島原のお茶屋と肩を並べていますので、個人名を除いて書き出してみると・・・いわみ、一力、扇屋、かま田、川竹、喜久粋、きしや、京矢、銀柳、孔雀、好成楼、三友、三友楼本家、新田中、新ふよう、末広、友喜、第一千代鈴、宝船、谷梅、千代幸、つるや、つるや支店、築家、登美家、友恵、浪花、羽衣、花びし、花柳、東三友、東大和、ひょうたん、ひらいわ、光、芙蓉、富美の家、平安クラブ、桝谷、みかさ、三日月楼、明月、ももよ、八千代、大和、大和家、米栄、若ゆり・・・

ただし、こちらの一力さんは祇園の一力さんとは全く関係はありません。全国に一力の名をもつ店は、飲食店を中心に大変多く、京都でも現在先斗町に一力の看板を上げるラーメン屋さんがあります。以前この風潮を元祖祇園一力のご主人に尋ねた人がおりまして、「このご時勢、お茶屋経営だけでは中々大変なので、全国に支店を出して・・・」のような、粋なお答えされたという話を聞いております。大御茶屋のご主人の余裕と洒落は長年かけて培われたものなのでしょう。

送り込むクラブより、送り込まれる御茶屋のほうが多いのはこの世界の常、また置屋であるクラブは基本質素な店構えで、一方お茶屋は、色んな意匠でお客をひきつける必要があります。

二十年後、昭和五十八年版の芸妓紹介欄を見てみると、今度はコンパニオンセンター、みやびバンケット、ワールドユニバースなど所謂コンパニオン派遣会社が芸妓紹介に乗り出してきました。といっても派遣要員は雇仲居と見るべきで、洋装のコンパニオンも派遣するが、要望があれば、着物を着たコンパニオンとしてヤトナも派遣するといった処でしょう。

平成二年になりますと、芸妓置屋欄からコンパ二オン派遣会社欄から消え、コンパニオン派遣会社は総てコンパニオン派遣会社の欄に入り、玉川クラブは芸妓置屋欄にもコンパニオンの欄の二つに顔をだしています。欄外の枠で芸妓置では舞妓の後姿と簪の絵に筆書体で芸妓置屋玉川クラブ、コンパニオンの枠ではパーティ&宴会コンパニオンのご用命は・・・TaMaGaWa Club、そしてキュートな洋装の女性が描かれています。

さて、現在、嵐山の旅館などで舞妓を手配すると祇園東などから、亀岡の湯の花温泉の旅館で同じく舞妓を呼ぶと、たとえば宮川町からタクシーでお座敷に来てくれますが、花街のシステムとして、往復の時間も花代に計算されますので、祇園で呼べは100分いてくれる処、実質嵐山では一席が30分を切ったりしますし、亀岡では二席の料金が必要となります。当然往復のタクシー代も馬鹿になりません。

京都商工人名録、昭和九年版に株式会社嵐山倶楽部が太秦西蜂岡町に、昭和三十八年の職業別電話帳には嵐山京福電停前に、新研芸妓置屋、嵐山クラブが登録されており、これは当然、嵐山の旅館の需要を見込んだものでしょう。ただし昭和四十八年版では姿を消していました。


by gionchoubu | 2015-09-30 12:30 | 雇仲居 | Comments(0)

五条楽園芸妓組合

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前々回書いたように、昭和三十八年の京都の職業別電話帳は芸妓紹介所として雇仲居、新研芸妓の紹介所と一現(見)さんお断りのお茶屋を二つの職種と分けて掲載されておりますが、後者に以前当ブログでも紹介した宇治、橋本、中書島の花街が載りますので順番に見て行きます。

まず宇治には宇水園、ふくや、山水、洛巽亭と個人名の五軒が名をつらねます。宇治は花街のみの歴史で、娼妓はおりませんでしたので、宇治の旅館に入る芸妓置屋と見てよいでしょう。

一方は橋本には、中之町に京山、昌英?、西幸福、初菊、前田楼そして小金川にも第五一橋が登録されています。橋本の芸妓は戦前に消滅しており、売春防止法の時代は娼妓ばかりでいたので、このお茶屋はいわゆるヤトナ系専門置屋だったと思います。橋本は売春防止法以後、温泉旅館街を目指しましたので、旅館に擬似芸妓の需要は大いにあったでしょう。

中書島には愛乃家、第三末高、近江家、とんだや、叶良家、中時、日乃出、山種、ふじや本店、美芳と八軒の個人名の登録があり、これらは芸妓のいる本茶屋と芸妓置屋、新研芸妓の席貸、置屋と私は見ています。

上記の置屋、お茶屋などは昭和四十八年版でも六割ほど残りますが、昭和五十八年版で認められるのは中書島の美芳と宇治に突然現れた銀杏庵のみです。逆に言えばこの頃まで花街の伝統が中書島と宇治には残っていたことになります。

さて、京都市の中央に戻り、職業別により昭和四十八年の芸ぎ紹介を参考にして、個人名や判断の難しいお店を除いた昭和後期の雇仲居倶楽部や組合を見ると・・・

あこや倶楽部 東大路松原上東
御池倶楽部 高台寺門前下河原、下河原八坂鳥井前下
京都新研芸妓東山組合、京都雇仲居従業員組合、下河原月見町
祇園クラブ 下河原八坂鳥居前下
寿栄吉倶楽部 東大路松原上
辰巳倶楽部 東大路松原上東
玉川クラブ 下河原八坂鳥井前下
正城倶楽部 下河原八坂鳥居前下
弥坂クラブ 東大路松原上
森田屋 清水4
あこやは嘗ての阿古屋新地、辰巳も昔あった辰巳新地由来でしょう。

あさひ倶楽部 西木屋町五条下
五条楽園芸妓組合、五条楽園芸妓置屋組合、西木屋町五条下
高瀬クラブ 木屋町五条下
次郎長 三ノ宮上ノ口上
大喜倶楽部 上ノ口二ノ宮西
第一倶楽部 加茂川上ノ口上
おとめ 加茂川六軒上
福の家倶楽部 加茂川六軒西、加茂川六軒下
丸八クラブ木屋町六軒東
ミヤコクラブ 東木屋町六軒下

上木屋町芸妓置屋組合 二条木屋町東生洲町
西京倶楽部 木屋町三条上
翁クラブ 木屋町御池上
忠兵衛 三京河原町上東
二条星ノ家 木屋町二条
二条クラブ 二条木屋町東

上より下河原〜松原東大路郡、五条楽園郡、上木屋町郡と三つのグループに別れ、かつて雇仲居倶楽部の密集地であった高瀬川沿い仏光寺〜松原間の倶楽部が下木屋町の検番もろとも消滅しているのが見て取れました。




by gionchoubu | 2015-09-28 12:18 | 雇仲居 | Comments(0)

廓育ち

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          この先すぐ右手に京都新研芸妓東山協会がありました。現在は全く無関係のお店です。

“関西独特の「やとな」は奈良が本場、それがいつの間にか京で完成されてしまった。本人達は「新研芸妓」と称し、宿では「やとなはん」といい、お客は「やとパン」と呼ぶ。宴会ではお酌はもちろん歌も三味もやり、散歩にもつき合い、温泉同伴も遠出なしでやる。宿での話し相手から夜のお勤めまで、ひとりで芸者、女中、恋人、女郎を勤めてくれるという仕組みだから調法である。東山の安井、下河原一帯と上下木屋町に散在して宿に呼べる。”昭和三十年、『旅行の手帳NO.20』に収録された『よるの女性街・全国案内版』の東山・木屋町の項で執筆者の渡辺寛は述べています。

この便利な「やとなはん」いくらで呼べたのでしょうか、昭和三十九年発行、錦織剛男著『遊女と街娼』によると、当時五条楽園は新研芸妓とヤトナで八十一名、売春防止法後五年程経っていますが、五番町にもまだ新研芸妓十一名、祇園乙部に本芸妓七十三に対し新研十九名、中書島に本芸妓十八名に新研二十名いた事になります。

同書によると、昭和三十七年四月調べで、祇園甲部の一時間の花代は640円、新研は50分400円とあまり代わらないように思えますが、実際甲部の芸、舞妓を呼べば、花街独自の仕組みをを経るので、とてもこれでは済まず、一方新研は本芸妓の半分~三分の一ぐらいの料金で呼べたのでないでしょうか?

さらに、新研、雇仲居その他観光芸妓なるものが裏稼ぎをすると、

セット制 表面は料理屋、裏で売春
ドリンク制 飲屋で世話され旅館にいく
シモタヤ売春 旅館と連絡してやる、といった具合になりました。

昭和三十九年公開、東映映画、『廓育ち』は売春防止法施直前の島原の様子を捉えたものです、その中で宮口精二の科白「まぁ、赤線の業者諸君も、(売春)防止法の適応を受けることになったが、しかしなぁ、心配はご無用ちゅうもんや、新しい検番を作っておやま(娼妓)は皆新研芸者になってもろて、のう、芸者が客と惚れあって寝たちゅうことになれば、防止法の適用は受けへん、名案やろが。」

ところが、昭和三十八年の職業別電話帳で新研芸妓を掲げるのは、組合、置屋を含めて五箇所ありましたが、昭和四十八年の職業別電話帳(欄外の別枠宣伝)では、御池倶楽部と玉川倶楽部そして本欄の京都新研芸妓東山協会の三箇所、昭和五十九年では、京都新研芸妓東山協会のみ、玉川クラブも芸妓置屋として載せています。そして京都新研東山協会も昭和六十二年を境に電話帳から消えております。実は住宅地図の方はその何年が前から姿を消しているのですが、所属の新研芸妓の保険、税金等の残務処理の関係もあったでしょうし、電話だけ残していたのかもしれません。とにもかくにも、新研の名は昭和と共に滅んだと見てよさそうです。

余談ですが、やとパン、あんまパン(パンマ)などの風俗語はパンパンからきており、コールガールのニュアンスが大変強く、最近女性アナウンサーを~パンと呼ぶ風潮に、私などは大変違和感をもってしまいます。


by gionchoubu | 2015-09-26 15:47 | 雇仲居 | Comments(0)

新研芸妓


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 下木屋町の雇仲居の検番があったあたり。(京都明細図によれば西木屋町仏光寺を下がる四軒目の東側)

渡会恵介は『京の花街』で、「上木屋町と下木屋町に加えて東山に検番があって、<新研芸妓>という。下木屋町が、東山に合併して二つのグループとなり、芸妓置屋組合もある。新研とは“新しいセンスと美しさにあふれた”という意味で、芸妓を呼ぶときは、それぞれ置屋のグループへ直接電話すればよい。ほとんどが宴会花だから、料亭での宴会へ出張するのが専門、いわば純粋のホステスといえる。」と書いています。

この下木屋町の検番は、昭和八年の松園蔵版の『京都職業別電話名簿』にも『京都商工人名録昭和9年版』にも載りませんが昭和九年の『京阪神職業別電話名簿』に雇仲居置屋業組合事務所として確認でき、場所は西木屋町、仏光寺下、これこそが上記の下木屋町の検番だと思います。この時点では上木屋町の検番は何処にも見えません。

戦争を経て、昭和二十四年、京都の他の花街の芸妓と共に、東山区下河原月見町のヤトナ従業員組合が労務者供給事業と認定され、認定されたヤトナが325名いました。このとき認定された芸妓は816名ですので、本家芸妓に対する擬似芸妓ヤトナの比率は相当高かったといえます。渡会の言う東山に合併したヤトナグループがこのヤトナ従業員組合です。

さらに非売品でありますが、加藤政洋研究室が発行した『加藤藤吉写真集〜京都編〜』に、藤吉により新研見番京東山と書き込みがあった昭和三十五年撮影と推察されるシンプルな洋風二階建て建物の写真が載っています。

同写真集によると昭和三十一年の住宅地図に「京都新芸妓共同組合」として載り、昭和三十四年版では「京都新芸妓東山歌舞会」と名前が変更されているとの事、早速京都府立資料館で確認させていただきました。(ちなみに昭和三十年以前の住宅地図はありませんでした。)

さらに調べてみると、面白いことに、昭和三十八年の職業別電話帳では同じ電話番号で月見町に「京都新研芸妓東山組合」と「京都雇仲居従業員」の二つが登録されています。

つまり、新研芸妓であろうが、雇仲居であろうが母体は同じで、業者側が新研という名を編み出し新基軸を打ち出したものの、お客にとってはどっちでもよい話で、きっと「若い妓」「座持ちのいい妓」「若い妓はだめ」ぐらいの要望がおおく、あまり、歌舞会だから言って、「三味線や踊りのうまい妓」、雇仲居の名があっても「お祝い事を上手に仕切れる妓」などの声は少なかったと思います。

この電話帳ではやとなは「芸妓紹介(置屋、小方)を含む」の分類でヤトナ倶楽部と銘打っているのはニコニコやとな倶楽部ぐらいで、嵐山クラブ、新研芸妓置屋、乙女新研芸妓などと新研の名のる所が幾つか以外は〜倶楽部、あるいは個人名です。

二条木屋町東には京都新研芸妓組合中京支部が登録されおり、渡会のいう上木屋町検番はこれであると思います。

五条楽園の管轄としては、上記のニコニコやとな倶楽部、あさひ倶楽部、高瀬倶楽部あと個人名が一軒で、殆どは、西木屋町町五条下ル平居町五条楽園芸妓組合が窓口になっていたと思われます。

この「芸妓紹介(置屋・小方)を含む」と「お茶屋(待合・貸席)を含む」と、昭和三十八年の職業別電話帳には二つの項が並んで見る事が出来、基本前者がヤトナ系、後者が一現(見)さんお断りのお茶屋さんですが、前者に現在宮川町のお茶屋がのったり、後者にも京都新研芸妓東山協組(注、すこし登録名が違います)や五条楽園のお茶屋が載ったりしますのでこれをお茶屋探しに利用した人はかなり混乱したと思います。

尤も、一現(見)さんお断りのお茶屋に、紹介もなく、電話帳だけをみて芸妓を要望する兵(つわもの)もいらっしゃらなかったでしょうけど。


by gionchoubu | 2015-09-24 11:30 | 雇仲居 | Comments(1)

雇仲居倶楽部


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木屋町四条下がる

昭和十年頃には市内に雇仲居の置屋は五十軒ほどあり、同営業組合は便宜上これらを五条、松原、中立売、西陣の四区間に分けました。

京都市雇仲居置屋営業組合は、所属雇仲居の品性技芸の向上をはかるため事務所内に矯風会を設け、会長、副会長、教師、助教を置き、会員を梅組、竹組、随時課の三種に分け、雇仲居希望者は検定試験に合格すればまず梅組に編入され、礼儀作法を中心に教えられ、終了者は竹組に進級して活花、抹茶の教授が始まりました。

随意課は婚礼に関する課なので、竹組の希望者や会長の推薦者に限り入会を許されました。婚礼式は小笠原流と藤原流の二様でありました。

この矯風会編纂、“礼式栞”の組合議長の序文は「社会の存立は共存共栄を持って基とし、共存共栄の経となり緯となるもの即ち礼節である。祝賀慶弔の行事は言はずもがな、親族知友の校驩内至朝暮の挨拶、起居辞の令、凡そ人々の相接する必ず礼儀あり、作法がなければならぬ。雇仲居置屋業は諸般宴会斡旋の需めに応じ、社交場裡必須の機関たる任を完ふするを本領となすものなるが故に其所属雇仲居は品性の高尚と諸礼儀式の熟達を期すべき』

この雇仲居は大正十年には京都市に218人、昭和三年に710人、この昭和十年にも500を超える人数がおりました。冠婚葬祭や宴会の雑役を職分と考える雇仲居もおおたでしょうが、擬似芸妓として、営業時間が十二時と決められているにも拘らず、二時、三時まで鳴り物入りで騒ぎ、世の顰蹙をかうヤトナも多数おりました。

昭和八年の松園蔵版の『京都職業別電話名簿』を見ると、京都市内に雇仲居倶楽部は四十数軒あり、職種は雇仲居置屋、雇女業、雇女置屋商、やとな倶楽部、雇仲居置屋業、やとな置屋業、雇仲居業、ヤトナ置屋業、ヤトナ倶楽部、ヤトナ業、ヤトナ置屋とばらばらで、自分たちの業種の統一もなされていないのが分かります、これは各倶楽部から申請されたものをそのまま載せたのでしょう。

加茂川倶楽部、アサヒ倶楽部、乙女倶楽部、ヤトナみや古、ヨシヨシ倶楽部、コトブキ倶楽部など高瀬川沿いの仏光寺〜松原あたりに10軒ほど、御池倶楽部、河原町倶楽部、ヤトナ元祖忠兵衛、奴倶楽部など河原町三条あたりに8軒ほど、本場といわれた東大路松原〜安井金比羅間は以外にすくなく東山花壇、あこややとな倶楽部、サイセキ倶楽部、常盤倶楽部、松原倶楽部、やとな安井倶楽部の5軒、その他離れた所に、千本下立売の乾やとな倶楽部、千本出水の千本ヤトナ倶楽部、大宮、寺の内の個人名の雇仲居置屋業、紫野北舟岡町の船岡倶楽部といった具合です。面白いことに『京都商工人名録昭和9年版』には祇園町南側で一力さんが合名会社萬亭で雇仲居倶楽部に登録されています。

この雇仲居倶楽部の密集地である高瀬川沿い仏光寺〜松原は席貸兼旅館も多く、当時この業種が上記の電話帳にて京都に68軒ありましたが、この区域だけで
栄屋(画像)、藤田楼、中の家、など15軒を数えました。

京都市で一番この席貸兼旅館が多かったのは同じ高瀬川沿いでもずっと北の二条〜三条間で、富の家、月下亭、玉川楼、木乃輝、あずま屋など十八軒ありました。

松川二郎は『全国花街めぐり』で「是等の家々は表に旅館と書いてあっても、旅館にあらず、料亭にもあらず将た貸席でもないところの席貸という独特のお茶屋であることは巳に大坂の部で述べた。芸妓置屋とは直接の取引がなく、凡て貸席から送り込む形式になってゐるが、木屋町の如きは地続きで極く近い関係もあろうが、貸席と席貸の連絡がよく取れてゐて、殆ど普通の貸席と異なるところは無いやうである。」

貸席と席貸に貸座席、お茶屋、待合とこの世界はややこしいことこの上ありません。

雇仲居と席貸の関係は加藤政洋著『京の花街ものがたり』に詳しいので興味のある方は是非購読をお勧めします。
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              木屋町四条下ルにあった加茂川倶楽部・・・同じあたりに・・・偶然でしょうか?
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                       木屋町押小路

by gionchoubu | 2015-09-21 12:57 | 雇仲居 | Comments(0)