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カテゴリ:五番町( 8 )

五番町ぞめき 八

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                         愛染寺
    
私が下宿していたのは千中西に入った北側の愛染寺で玄関には今も当時も交番が有ります。風呂なし、トイレ・水道が共同で三人の大学生が寺の別棟に造られた三室に住んでいました。冬は炬燵のみの暖房で何とか寒さを凌げましたものの、夏は冷房も無く、しかも西日が照りつけ本当に暑かったものです。さらにこのお寺は日蓮で、高齢の庵主さんが早朝の本堂でお経を上げながら木魚を乱れ打ちをするので、必ず目が覚めます。さらにブロック塀を挟んではおりましたが、私の四畳半の二メートル先には墓石並ぶという状況で、一度心霊体験の様な恐い目にあいました。

千中の北西角がホシノレコード店で、こういった小さなレコード店は当時日本には幾らでも有ったものです。千本通りを北に上がり最初の筋を西にはいると、脂身の多いとんかつを出す料理店が有りよく通いました。さらに奥に進むと、当時はまだ有りませんが、昭和六十年頃、カレーのガラム・マッサーラがオープンしたので、カレー好きの私は卒業後も千中を訪ね、この名店によく通いました。まさに衝撃の味で、お母さんと、インドかどっかで修行して独自のカレーを習得した息子さん二人がいつも楽しく口喧嘩する中、スパ一シーながらまろやかな、カレーを堪能しました。後にお嫁さんも店に出ていました。そして後年このお店は白川通りの北の方に移転しました。

千中を北に上がると西側に今も昔もパチンコキングがあります。当時は今の四分の一ぐらいの規模でした。ここの交換用の景品が何故か石鹸で、終了でもすると、多量の石鹸を交換所に以って行かなければならず、重くて大変でした。他店は景品と言えば軽いメダルとかが多く、なぜキングが石鹸だったかは謎です。ちなみに一度この石鹸を風呂で使った事がありましたが、泡はでませんでした。

千中を南に下がると東側にパチンコ西陣センターとパチンコニュー京都があり、その間に喫茶ナポリがありました。さらに数軒下がる小さい旅館で丹後屋があり、その一階が喫茶店となっており、当時モーニングのサンドが安くておいしかった記憶が蘇ります。今は総てありません。

千中を東に行くと、当時一番通った王将が北側にあります。今も昔も王将の天津飯はうまだれですが、千中王将は甘めの甘酢で大好きでした。20年程前でしょうか、王将が王将ニュースというものを無料で店頭で配布しており、王将キャラクターなんかを募集したりしていました。そして王将ニュースには名物店長紹介というコーナーがあり、その第一回の名誉ある店長が、千中王将の田村善三店長だったので嬉しく思いました。

私が住んでいた頃、千本通りの商店街では、毎日「千本ラブの歌」というムード歌謡調の商店街のテーマソングが流れていました。最後が♪ラブ、ラブ、せんぼーん、ラブ♪、というもので、今でも耳につく、中々の名曲でした。

さらに昔の千中付近を田中泰彦著『京の町並み從小路鴨川西部編』で見ると、西陣京極の中の西陣キネマは西陣マキノキネマ、千中ミュージックは京山座、西陣大映は福野家がそれぞれ前身でした、さらに西陣東映もあったようです。その他、昔の雑誌でよく目にする長久座、千本座、寿座、三太郎席などの芝居小屋、寄席などが犇く一大遊興地だった事がわかります。


by gionchoubu | 2016-07-30 11:06 | 五番町 | Comments(0)

五番町ぞめき 七

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左(現イズミヤ)が喫茶マリアのあった場所

私が千中(せんなか)こと、千本中立売に住んでいたのは昭和50年からの4年間で、ここで大学生活を送りました。水上務の『五番町夕霧楼』は読んでいたので、ここが五番町の遊廓跡のすぐ傍と知っていましたが、別にそういった雰囲気は感じ取られず、ただ、やたら個人経営の飲み屋や喫茶店が多い町だと思ったぐらいです。

木村聡著『赤線跡を歩く、完結編』を開き、当時青山均さんが撮られた写真を見ると、大和楼や石梅楼といった貸座敷の建物を含め、まだまだ残っていたはずで、私も数え切れない程その前を通ったのですが、全く記憶にありません。今考えると写真の一枚でも撮っていたらと悔やまれるものの後の祭りです。

旧五番町遊廓内で覚えているのは、元五番町の検番跡に建てられていた成人映画専門の千本日活と、餃子と肉団子定食を良く食べた、カウンターだけの中華料理屋、ぎょうざ天国ぐらいです。スッポン料理の名店、大市は覚えていますが、遊廓の区域の先になります。

こちらも遊廓区域外となりますけれど、むしろ西陣京極がいい雰囲気をだしていました。筋を入るとすぐ左に食堂兼、喫茶店のマリアがあり、異常に朝早くから営業していました。朝六時には開いており、競馬新聞を読んでるおっちゃんがコーヒーを啜っていました。当時湯豆腐定食が天羅つきで350円でした。

筋をはさんだ向かいに太陽軒という小さい中華料理店もありました。当時、京都で冷麺が有名だったのは今出川の太陽軒です。ところが雑誌の取材の記者が、西陣京極の太陽軒に間違えて取材にこられ、たまたまそこに居合わせた私がその様子を見ていると、当然雑誌側にたいする店側の応対がちぐはぐなもので、私も、あの太陽軒はここではありませんよ、と言うのも憚れ、随分居心地悪かった記憶があります。この太陽軒の冷麺はその後ちゃんと、その雑誌に載っておりました。

さらに進むと突き当たりの手前右、照明なしの暗闇で一階はソファー、二階に桟敷のような、矢張りソファーの椅子が無い不思議な喫茶店があり、がんがんプログレッシブロックのレコードをかけていました。当時ロック側からジャズに接近した音楽をプログレッシブロックと呼んでおり、エマーソン、レイク&パーマーが代表格、逆にジャズからロック側にアプローチしたものをクロスオーバーというジャンルで呼んでいました。ベイスギターのスタンリークラークが好きでした。それにしても今なら消防法で絶対通らない、ほぼ暗闇の喫茶店でした。

西陣京極には西陣キネマと西陣大映という成人映画館あり、西陣キネマは洋物専門でした。さらに千中ミュージックというストリップ劇場もあり、若手の登龍門の劇場と噂されていました。今考えると、一流の踊り子は決して出ない、という意味だと思います。

千中ミュージックのすぐ先に今も現役の京極湯があります。学生の噂では、ストリップの踊り子がその京極湯によく訪れるとの情報が飛び交っていました。ただ私を含め、誰も千中ミュージックに行ったという話しは聞いたことがありません。

私たちが行ったのは千本日活の方で、当時300円でした、先日前を通ると現在も500円で入れる様です、日活ロマンポルノ、東活、大蔵映画などが頭を過ぎります・・・続く



by gionchoubu | 2016-07-28 15:21 | 五番町 | Comments(4)

五番町ぞめき 六

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赤の斜線が昭和三十二年の住宅地図による遊廓区域、オレンジは京都明細図(昭和二年〜昭和二十五年)では遊廓区域、昭和三十二年の住宅地図では廓内かどうか私には判断できない区画)

昭和三十二年の住宅地図で当時の西陣新地(五番町)廓内を見てみます。千本通、中立売通りにも一軒の妓楼はなく、表通りからは遊廓が分からない仕組みになっています。

まず中立売通りから六軒町通りを南に下ります。とびた食堂さんの筋です、とびたさんが開業されたのは昭和三十三、四年ぐらいでこの地図には載ません。その敷地に菓子えんたつが載ります。

東側をみていくと、菓子えんたつの南が中立売診療所で最初の貸席がまつい、そして彌生、第一金清館、末広、守菊と続き仁和寺街道に面する角がかどやです。この間十二軒の内九軒が貸席であとは料理屋など、素人さんのお宅はありません。

西側は第二金清席、バーまつ子、そして仁和寺街道までが報土寺で、報土寺の北にむつみ、大文字があり、報土寺の西に八軒の貸席が並びます。

六軒町を仁和寺街道から下ると東側は酒場の密集地で、すすみ、末広、千鳥、入船などが顔をならべます。さらに南も貸席が続き、現在の千本日活の裏に西陣貸席組合があります。その南も貸席でミス大阪という貸席もあったりします。

六軒町仁和寺街道を下った西側はまず菊清というお料理屋でその隣が富士屋というすし屋、そして貸席みやこ、いろは、ふじ、つるや、菓子屋、網船案内八丁亭、貸席石梅などが続き、最後が貸席いぶきです。

また六軒町仁和寺街道の南西も一力、枡や、清南など十五軒ほどの貸席とお好み焼き、はり、料理屋、バー、酒場、西陣飲料企業組合などの一画で、西陣新地唯一でしょう、素人さんのお宅が数軒混じっているようです。

今度は仁和寺街道を東に行きますと北側には先ほどの貸席かどやの並びは美人座、サロン白鳥、料理屋、酒場で貸席万年が境界線で東隣は国生寺敷地の幼稚園です。南側は北側の万年の先も貸席が続き、天楽荘、白玉、新京楽、大一と並び。最後が西留です。

そして千本日活周辺です。現在の千本日活は旧西陣貸席業組合(先ほどの六軒町とは別の建物)の跡地です。そのから千本通りに向かって北は角三福のみ、南は大和家、白牡丹など四軒の貸席が並びます。

千本日活と並んだ北にも数軒、南にも数軒の貸席が並び、一番南の境界にあったのが貸席いずみでした。

廓内は80%ほどが貸席で15%ほどが料理屋、酒場、バー、サロン其の他は八百屋、菓子屋、氷屋、素人宅などで、風呂屋はモリタケ湯のみでした。

*昭和三十四年、西陣新地は組合長、辻本良蔵の元再編成され、御茶屋二十七軒、芸妓四十人を置き、六月二十七日おさらえ会をおこないました。(2116,3月7日付記、1960年京都名鑑より)


平成26年現在、当時の貸席を偲べるのが、私の見立てでは僅か四軒のみです。


by gionchoubu | 2015-11-29 11:17 | 五番町 | Comments(6)

五番町ぞめき 五

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                        北新地の紋章

花街研究家だった加藤藤吉は『紋章の研究』で、「紋章は梅花一輪馥郁と咲き綻んでいる中に、北の字が描かれた。極めて優雅な紋章だが、いわずと北野天神の梅鉢の梅と北の新地を表現したもので、流石に伝統のある染色界を背景にする花街の紋章とうなづけるもので、花街の紋章としては素晴らしい傑作といえよう」と激賞しています。

「西陣ぞめき」、高谷伸(作曲)、若柳吉兵衛(振付)、杵屋弥助(和楽作曲)、佐藤隆世(洋楽編曲)

√ハァー春はうれしい桜のうたげ「キタ」、燃ゆる篝に花が散る、花が散る
 ホイキタ平野の掛床机、ホイキタ、ホイキタ、ホイキタ、踊りゃんせササ
踊りゃんせ

√ハァー空の黒雲、からりと晴れて「キタ」、心も清き鈴の音、鈴の音
ホイキタ平野の神の前、ホイキタ、ホイキタ、ホイキタ、踊りゃんせササ
踊りゃんせ

√ハァーもみじ彩る、野山にまさる「キタ」、西陣織の美しさ、美しさ
ホイキタさかんなをさの音、ホイキタ、ホイキタ、ホイキタ、踊りゃんせササ
踊りゃんせ
 
√ハァー山もいろかも真白に染まる「キタ」、なかに輝く黄金色、黄金色
ホイキタ雪の金閣寺、ホイキタ、ホイキタ、ホイキタ、踊りゃんせササ
踊りゃんせ

√ハァーいつも賑はふ、廓の灯「キタ」、三味や太鼓のさんざめき、さんざめき
ホイ北新地、北新地、ホイキタ、ホイキタ、ホイキタ、踊りゃんせササ
踊りゃんせ

『技芸倶楽部』より

『朱雀第19集』に俗曲考―花街五番町元芸妓よりの聞き取りー森雅樹に、戦前から昭和二十七、八年まで五番町で芸妓をつとめたかたから聞き取り、実際お座敷で歌われた端唄、小唄の歌詞を載せています。

「からかさ」「ちょんこ節」「さのさ節」「東雲節」「どんどん節」は原曲を下ネタアレンジしたものですが、ここで紹介するのをためらわれますので、興味のある方は京都右京中央図書館までお出向きください。

「五段返し」も長唄「越後獅子」の中の一説の良いとこどりらしく、全国でご当地の替え歌があったようです。

「五段返し」

京都名所を芸者引き連れて 祇園円山清水八坂南禅寺に
知恩院に黒谷真如堂三十三間堂銀閣寺に金閣寺に北野天満宮
平野神社に参詣して嵐山高尾に永観堂下賀茂上加茂御所の遊苑地
京極眺めて四条に出て御座れ参りましょう鳥新で一杯飲んで帰りゃ○○屋で
大うかれ(間 適当に)トンカラトンカラトンカラトンカラ トンカラ
お客は戻って芸者舞妓は大騒ぎ(散財しょ 流連しょ 毎晩しょ)

その他「京のわらべ唄」は北の一条戻橋から二条、三条から東寺羅生門を歌ったもの、又「まちがい節」では円山公園にあって花街の人の信仰を集めた弁天さんが出てくるのが興味を引きます。


by gionchoubu | 2014-09-10 15:12 | 五番町 | Comments(0)

五番町ぞめき 四

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                        千本日活

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                    白竹町、階段の手前までが北新地

昭和四年刊、上村行彰著『日本遊里史』の日本全国遊廓一覧によれば北新地の貸座敷数が112軒で娼妓数は470人となっています。

これが昭和九年になると、業者数(貸座敷、お茶屋、芸者置屋)136軒、娼妓数629、芸妓18となりますので、芸妓数が大幅減っているのが分かります。

同年、七月十六日北新地歌舞練場で国防婦人会北新地分会発会式が挙行され、廓内の女将、芸妓、仲居二百余名が白襷、白エプロンにて整列、来賓京都連隊
区司令部中林中佐より、里見ふく子に分会長、小泉きみ、澤田のぶに福分会長、里見東部組合取締及び小泉西部組合取締に顧問の辞令が交付され、午後には中林中佐の「国防婦人会の覚悟」の講演、二十八日には北新地より十一人の国防婦人会員が上七軒の婦人会と一緒に下京婦人会と防護団に対する配給に従事しました。

矢張り昭和九年、東部組合では、舞踊に若柳吉兵衛、長唄に杵屋弥助、清元には清元喜三太夫を担任教師としていましたが、技芸奨励の機会を持ち、西陣キネマ(千中上ル)を会場に北新地技芸奨励会を催しました。当日の呼び物は三福雛三、里見清子の「助六」で、その他にも当時舞踊の天才嬢と持て囃された里見清子の「保名」も良い出来だったと伝えられています。午後六時に開演し、最後は京都ジャズバンド団の伴奏で、芸妓少女四十余名による洋楽編曲による「西陣ぞめき」でフィナーレを迎えたのは午後十一時となりました。
芸妓が激減する中、どうやり繰りしていたのかは、今となって知る手段はなさそうです。

昭和十一年九月八日、虐待された娼妓の放火で五番町の十三軒焼けがあり、之を機に廃娼運動がいよいよ盛んになりました。(日本花街史)

昭和十二年、栄養食による体位向上のため共同炊事場を作り、格安で日に三度各戸毎に配り、廓内生活改善に努めました。貸座敷は百二十戸

戦後西陣新地と改名、昭和三十三年に解散しますが、その直前に発売された『全国女性街ガイド』に「通り名が五番町。宮川町祇園乙部にはネオンがないが、ここはネオンも多く活気がある。九三軒の店に、二七二名の女中さんがいる。」と紹介されています。

私自身、昭和五十年代に、千本中立売西入ルの愛染寺で四年間下宿生活をおくりましたので、この附近の様子は親しんでいたはずなのですが、なにか印象に残る建物があったかというと、千本日活は別として、有名な石梅楼も素通りしていたようです。

私が住んでいた頃、すぐ近くの西陣京極の一画は、千中ミュージック(ストリップ劇場)西陣キネマ(洋画の成人映画)、西陣大映(邦画の成人映画)や太陽軒(中華料理)マリア(喫茶店)などが歓楽街の雰囲気を醸し出していたのですが、現在は当時時々利用した銭湯だけが私の記憶に残ります。


by gionchoubu | 2014-09-08 15:31 | 五番町 | Comments(0)

五番町ぞめき 三




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五番町(北新地、西陣新地)の区域。
赤の斜線が昭和三十二年の住宅地図による遊廓区域、オレンジは京都明細図(昭和二年〜昭和二十五年)では遊廓区域、昭和三十二年の住宅地図では廓内かどうか私には判断できない区画)

北新地西部貸座敷組合事務所(上長者町通り千本西入五番町)取締、佐野惣吉
で内野女紅場は茶礼教師、活花教師、裁縫教師と書記

貸座敷と( )内は所属の娼妓数

三軒町(六軒町中立売下ル西入北側)
角河合(7)第一下浦楼(4)里勝(5)大せつ(6)光春楼(9)
一当楼(4)福栄楼(5)壽楼(6)西河合(5)植君(4)

四番町(六軒町鍋上ル)
第二石梅楼(7)角や(12)菊水(7)京阪楼(7)竹清(4)
第三楠花(4)第二清南楼支店(4)守菊(11)末広(11)
第七清南楼(5)河合楼(7)松石(10)第一馬場楼(3)
第二馬場楼(4)

四番町(六軒町中立売下ル西入ル南側)
亀清(4)辻菊(3)松初(4)梅の家(3)伊藤楼(5)第一増田楼(3)

四番町(仁和寺街道六軒町西入ル上ル)
三亀楼(5)第一長久楼(9)山響(8)山常(7)松ヶ枝楼(3)
第二松岡楼(7)開晴楼(9)福助楼(4)

四番町(仁和寺街道西入ル)
相生(5)泉楼(6)第二楠花楼(3)三七十楼(2)可祝(9)
松徳(2)晴開楼(2)

四番町(六軒町仁和街道下ル西入ル)
藤愛(4)森石(3)西富(6)中浅(3)西栄楼(5)武徳楼(7)
梅月(5)澤田楼(11)第一石梅楼(7)松鶴楼(10)中尾楼(3)
第二下浦楼(11)菊水支店(3)

四番町(六軒町仁和寺街道下ル西入ル)
江戸家(4)長島楼(6)第三末広(4)叶家(4)第二奥村(4)
北奥村(4)第一清南楼(11)幸栄楼(11)第二幸栄楼(5)大江楼(6)
大嘉楼(9)第三幸栄楼(6)

四番町(下長者町六軒町東入ル)
藤河楼(11)巽楼(5)種ふく(5)

五番町(下長者町六軒町東入ル)
山水(3)あら玉(3)第一山田楼(5)

五番町(上長者町千本西入ル)
敷島楼(4)安部楼(7)新盛楼(7)高二楼(2)第一楠花楼(10)
第六清南楼(8)中川楼(5)松菊(1)森とく(5)川竹楼(4)
第三石梅楼(5)高仲(5)第一松岡楼(8)角政(4)澤鶴(4*芸妓1)

五番町(仁和寺街道千本西入ル)
三日月楼(3)第二山田楼(8)岡亀楼(8)西房楼(5)雀楼(5)
大正楼(4)大清(6)松竹楼(5)第六清南楼支店(6)

利生町(下長者町六軒町西入ル)
第二西南楼(5)伊吹(8)朝日楼(5)西村楼(4)奥村楼(6)
生駒楼(11)平雛(7)第五石梅楼(4)月の家(3)花の家(6)

白竹町(仁和寺街道七本松東入ル)
巴楼(5)相楽(4)植木屋(3)扇楼(4)伊吹支店(4)

貸座敷数(妓楼)115軒、娼妓数646、芸妓1が北新地の西部の内訳で是に上記の東部所属の芸妓(義太夫)数を加えると芸妓65人となります。
東部の芸妓置屋とお茶屋の合計が37軒ですので北新地の業者総数は152軒という事になります。


by gionchoubu | 2014-09-07 10:44 | 五番町 | Comments(0)

五番町ぞめき 二

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     五番町遊廓エリア内ですがこちらは貸座敷ではありません(個人宅)が、立派な造りです。

明治七年、女紅場ができ、十九年に布令のもと五業取締規則により組合が出来、事務所も出来たのは市内の他花街と同じです。明治十一年、大西亀太郎編による『都の花競』によると、五番町の芸妓は十四人、義太夫芸妓一人、舞妓二人、
四番町に七人の名が記載されています。

大正四年発行の『京都府誌下』によれば大正二年,貸座敷128、芸妓49、娼妓469とあります。

大正十年に自発的の娼妓の張店の慣例を撤廃、大正十一年には芸妓部、娼妓部、芸娼妓連帯部の三部制を制定、更に大正十五年この三部制を廃止して元芸妓部を東部貸座敷組合、元娼妓部を西部娼妓組合と称しました。

この頃の五番町の組織は

北新地東部貸座敷組合事務所、取締、里見新三郎
同営業部、理事、里見新三郎
北新地東部歌舞会も会長は里見新三郎で、抹茶活花科、舞踏科、浄瑠璃科、鳴物科、長唄科、清元科、常磐津科、哥澤科を擁する実に見事な組織で、五番町の踊りは若柳吉兵衛と中村豊子が指導していました。さらに科目により北柳会(若柳流舞踊会)二六会(浄瑠璃会)北聲会(哥澤会)技芸研究会(歌舞音曲全部)清本元研究会(清元会)がありました。

この東部貸座敷組合で四番町に所属するのが、(A)芸妓置屋として、市房、春の家、田中、瀧川、中村、村種、宇栄繁、松村、二見、房の家、久富、五番町に西定、常盤、玉三枡、福丸、喜月、岸柳、美登里、三福、松月、利生町に俣野、喜楽で合計芸妓数六十一人、義太夫芸妓は三人とやや少なめです。

五番町の代表的な名妓としては、玉三枡の辻金時(本名辻つる)は明治三十六年、十七の年で芸妓になり、昭和六年に二十九年の芸妓生活を終え、北新地役員や朋友の見守る中、千本の橋本家で引退披露をしました。

その後も辻鶴の女将として北新地の中心人物でいた。『亡くなった京の廓』で田中緑江さんも五番町の代表名妓として紹介しています。

(B)東部貸座敷名簿に載るのが、四番町に、市房、春の家、千鳥、和田、田中愛、田中、大光、瀧川、中村、村種、宇栄繁、山田、松村、二見、房の家、寺田、君の家、森本、喜楽、水野、久富、五番町に西定、常盤、玉三枡、蔦屋、辻、福丸、里見、喜月、柳岸、三登里、三福、南西定、松月、白竹町に大なつ、藤家、利生町に俣野、菅原、一概には言えませんが、この(A)(B)に重なる店が置屋兼お茶屋、(A)のみに見えるのが置屋のみの営業、(B)のみがお茶屋のみの営業であると私は理解しています。


by gionchoubu | 2014-09-06 11:58 | 五番町 | Comments(2)

五番町ぞめき 一

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                     昭和初期の五番町の芸妓

堀江に対する長六茶屋、島之内には難波新地や、髭剃と呼ばれた南阪町、曽根崎新地には編笠茶屋・・・江戸期には大阪の一流花街はすぐ傍には上等とはいえない遊廓も栄え、庶民の遊所となっていました。

京都も同様で祇園には膳所裏、そして奥座敷上七軒が西陣の旦那衆のプライベート花街なら、職人が通ったのは今の千中辺り、水上勉の『五番町夕霧楼』でも知られた、五番町でした。この作家が五番町との思い出を綴った『五番町遊廓附近』では、まだ彼が十八、九の等持院に修行中に初登楼した頃の話から、八千代、バット等の千中の呑み屋の思い出、金閣寺を焼いた林養賢が放火のすこし前に五番町に登楼して、妓に「もうすぐ大変なことをやってみせるぞ」と予言した話、赤、青の化粧ガラスをはめこんだ石梅第一、第二の華やかな戸口の店と格子戸のしまった大玄関に水を打ち、西陣の問屋の入り口のような構えの大店、奥村楼の対比の事など、数少ない五番町の貴重な証言になっています。

正式には内野の四番町の三石町と西連寺南町と五番町ですが、語呂がいいのか人々は皆五番町といいました。嶋原を根本とする京都遊所系譜によれば、この内野五番町、四番町は北野上七軒と出稼ぎ地という位置付けで、大正元年区域を改め、一番町の中、四番町に面する表側、中立売通りに沿った表側を除いた
五番町、三軒町の一部、そして白竹町、利生町が営業地となりました。そして大正三年、大阪の高級花街、北之新地(曽根崎新地)を意識したのか、五番町は北新地と改称しました。これは区域の拡張とともに、五番町の名称では通信上、その他多大の不便を感じた故といいますが、その後も北新地は定着せず、皆五番町と呼びました。

享保の末年には茶屋株を得、その後旅籠株や煮売株も得て茶立女の名目で、北野神社や愛宕山の参詣筋として天明年間には大変賑わったようです。

天保前の遊所番付ではこの五番町は前頭の上位、先斗町よりも、上七軒よりも上位に置かれているので、その繁盛振りは我々の想像を超えていたものとおもわれます。しかしながら、名を残す妓とか、歴史に残る事件とか、何も伝わっていません。

正式に遊女渡世が許されたのは安政六年、北野七軒の出店としての許可を得て
慶応三年冥加金(税金のようなもの)で幕府より営業が認められましたが、翌年には明治政府になし崩しに引き継がれた格好です。猶、慶応三年の『四方の花』に五番町として千代屋に芸妓四十六人、遊女十一人の名が収録されています。

五番町は娼妓本位のイメージがつよいのですが、意外にも維新前までは芸者稼業で、その後娼妓はお隣の下の森から移転した業者が抱えていたもので、上記『四方の花』の千代屋は丁度その過度期に当たるものと思われます


by gionchoubu | 2014-09-05 14:44 | 五番町 | Comments(0)