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カテゴリ:祇園東( 16 )

祇園東ぞめき 富多愛

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昨年の「祇園をどり」で見事な琴の腕前を披露した、祇園東、富菊の富多愛(とみたえ)さんの先笄(さっこう)姿です。

年少舞妓時代の基本は「割しのぶ」、年長舞妓が主に結う「お福」そして、舞妓最後の髪型がこの先笄です。明治時代初期に町家の娘が奥さんになるとこの髪型にし、お歯黒にしました。

一昨日、観亀神社宵宮際のときは富多愛さんも歯を黒く染めておりました。

舞妓さんは勿論、芸妓さんも結婚するとこの世界を去らなければならず、置屋さんのお母さんが「せめてほんの少しでもお嫁さん気分を」ということでこの先笄姿が舞妓時代の最後を飾る、という由来を以前読んだことがあります。

京都美容文化クラブ『日本の髪型』には“挿し物は、櫛、笄(こうがい)、前挿しは亀甲を使用するのが決まりで、このような根挿しを「よしちょう」と呼んでいます。また地毛のかぶたを使い先笄特有の輪を作ります。”の説明がありました。

京都古布保存会発行『舞妓の美―花街を彩る匠の技―』では“元は江戸時代に関西周辺の商家の奥さんが結っていた髪型です。いわゆる「笄髷」の一種で、髪の毛を笄の周りに巻きつけ、「橋」と呼ばれる細い板状に髪の毛をまとめたものを前から後ろにかけます。橋は「いちどめ」と呼ばれるピンのような形をしたもので、髷の上にとめつけます。そこに鼈甲製の櫛や笄、かんざしを飾り、緋縮緬を髷の中を通してつけるという技巧的な髪型です。”

昭和三十五年、今のところ最後の「祇園ねりもの」で富菊のれい子が公達役で、お花史役で富栄が出ています。この年のねりものの主催者は「祇園ねりもの会」となり、富菊の由来でしょう、富森菊一組合取締が会長になっています。富森菊一氏は市会議員としても活躍されました。

現在、お茶屋兼置屋の「富菊」で富多愛さんの妹分である富津愈(とみつゆ)さんは中学校の時四年間ニュージーランドのパラパラウムに留学して英語を身に付けた新時代の舞妓さんです。

富菊さんの玄関で、外国人の方とお母さんが会話しているのを何度かお見かけしています。外国の方にこの花街という素晴らしい文化を知ってもらう糸口が綻びかけている様です。
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by gionchoubu | 2016-05-15 10:52 | 祇園東 | Comments(0)

祇園東ぞめき 十五

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            2014年2月、久々に復活した祇園東のおばけ、右が雛菊さん、左は美晴さん。

祇園東の歴史

万治元年(1650)に創建された江州膳所藩本多の京屋敷があったので、人々は現在の祇園東を膳所裏と呼び、江戸期京都市内に沢山あった庶民相手の遊里の一つでした。

天保の改革(1842) 前頃の全国の遊所番付けに現在の祇園東辺りが八軒せぜ裏として載りますが、ランクとしては、真ん中より少し上位の位置です。

明冶五年に、京都府が府下の遊廓に提出を命じた『京都府下遊廓由緒』によれば、祇園町八阪(坂)新地として、現在の祇園甲部と祇園東が一つの花街として見なされています。(膳所裏祇園町北側之家尻ニテ一町立ツニ非ず、という表現が見えます)

明冶十四年十二月十二日付、京都府知事北垣國道より、林下町、中村乙吉に「甲乙ノ名称ヲ以テ区分スベシ」の指令を受け、祇園の大部分が甲部、そして分離した乙部が現在の祇園東となりましたので、祇園東の創設は明冶十四年と考えられます。

実際の分離の原因は、府に納めた税金の還付金に不信があると、富永町他六町と膳所裏から組合に対する訴訟騒ぎがあった事にあり、膳所裏が明治十四年十月に新たな検番(組合事務所)と美磨女工場を作った事にあります。

明冶十九年には祇園乙部五業組合が出来完全に独立。

明冶三十三年、布令により貸座敷組合が設立されると、雪亭の主人小山友次郎が取締に就任して娼妓中心であった乙部を改善して、現在の芸所の基礎が出来ました。

昭和二十四年、祇園東新地お茶屋組合と改称、この年初代の祇園会館が誕生。

昭和二十七年、この年に第一回祇園おどり(後に祇園をどり)始まります。

昭和三十三年、祇園東お御茶屋組合になり現在に至る。


祇園東あれこれ・・・

* 歓亀神社はもともと膳所藩の中庭にあった神社で祇園東の守護神。
慶応元年の新地焼けでは神社の西で火は止まり、大正四年頃の火事でも乙部のお茶屋が一軒も焼けなかったのはこの神社のご加護と言われています。
膳所藩は御所の守護を主とした京都月番のお火消役をつとめました。
ちなみに、地図で祇園町北側347番地を塗りつぶすと旧膳所藩が浮かんできます。

* 昭和十一年封切り、溝口健二監督の『祇園の姉妹』は当時の祇園乙部が舞台です、ただしその内容は祇園乙部の怒りを買いました。山田五十鈴主演、尚、脚本の依田義賢とルーカスは面識があり、スターウオ―ズのヨーダのモデル説あり。

* 昭和十一年に、宝暦〜明冶二十六年まで祇園甲部で祇園祭の時催された、芸妓による仮装行列『祇園ねりもの』を復活、昭和三十五年まで、計五回催されました。



by gionchoubu | 2015-03-23 17:36 | 祇園東 | Comments(0)

祇園東ぞめき 十四

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祇園をどり

まず、祇園東の舞踏の歴史について振り返ってみます。この地は祇園の一部として、江戸中期から京都の花街を席巻した篠塚流でした。こちらは舞台向きの派手な振りが特徴で、「手を伸ばさばあらんかぎり、足を伸ばすのなら伸びる限り」というもので、初代は篠塚文三郎、歌舞伎の立役だったとされており、佐渡島流、江戸志賀山流に幸若能楽金春流を応用して独自の境地を開きました。

三代目文三が明治十九年臨終の際、新橋東大路に西入北側の路地に玉うのという師匠がおり、たかという師匠と一緒に篠塚流を継ぐように頼みましたが、両女とも遠慮して継がなかったという話が伝わっています。

その後、明治五年の都をどりの後、祇園は井上流一本になり、甲部は現在も井上流、乙部時代に東は藤間流となりました。

明治十九年、美摩女紅場を建設した後はここで温習会も催していましたが、昭和十六年に今の会館の土地を買い求め、戦後アメリカの進駐軍に接収されていた歌舞練場(演舞場)や事務所を処分、昭和二十四年現在の場所へ初代の祇園会館を作りました。

この館は総檜造り和風建築、舞台窓口三十六尺、奥行二十二尺、左右の桟敷は高欄付一部椅子席、収容人数五百五十名(収容人数は現在の感覚では六割程度だと思います)一階にフランス料理店を備えていました。開館を記念して、花櫓、お祭り、其儘三写絵、雪月花、幻お七、奴道成寺、第二部、再春菘蒔、三社祭、隅田川、釣女を三月二十一日より二十七日まで第六回温習会として開催しましたが、より一層拡大したものと再建築を願い三年後に二代目である現在の祇園会館が誕生しました。

昭和三十三年三月二十三日開館、舞台の幅を六間から八間、客席も五百から千(当時の座席表を見ると席は六百六十七、消防法の規制を受けない時代でしたので、収容千人はそれを踏まえての数字です。その後、昭和六十一年、祇園会館全面改装、席数を減らし、現在は五百二、階段前が縦十一列から九列に、階段後も大半が横三十席から二十五席に減らしました)に広げ、今の形になり、祇園をどりが毎秋行われるのはご存知の通りです。

新築落成記念公演は、宝塚歌劇団の演出家でたいへん厳しい指導でしられた、白井鉄造作、阿国山三歌舞伎始、八場、舞鶴三番叟、北州千歳寿、初だよりマイラセリ、狂獅子各一場でした。

祇園会館は当初、春も祇園東による催しがあったようですが、後年長きに渡って名画館として親しまれていました。現在祇園をどりの期間以外は吉本花月が毎日舞台を行っています。

記念すべき祇園おどり(四回よりをどりに変更)の第一回は昭和二十七年、作、野淵昶、番組は、京井筒、日向平家、柳、京都アルバム、取締は富森菊一氏、芸妓組合長は岡島豊治で、この時の観覧量三百円、茶席が二百円でした。

第二回と三回と六回は林悌三作、四回と五回は白井鉄三作、第七回は竹内伸光作、そして第八回も竹内伸光作ですが、構成に田中緑江氏がかかわり、パンフレットのごあいさつでも顔を並べます。その後二十一回(昭和五十二年)より長きに渡り、脚本、構成は“京の花街”の著者でおなじみの度会恵介氏が担当、現在は塩田律が脚本、構成を担当しています。

振付は第一回〜第五回まで藤間良輔、六回〜二十回まで藤間勘寿郎、二十一回からは現在まで藤間紋寿郎が担当しています。

第三回から第四回の間、昭和二十九〜三十三年までブランクがあるのは二代目祇園会館建設の為、又、昭和六十三年には昭和天皇崩御のため中止されております。

京の〜踊りは明治五年より祇園の都をどり、先斗町の鴨川をどり、そして下河原の東山踊り(まくづ踊り)が最初で、その後すぐ島原の青柳踊り(明治七年か八年より三、四回行われた様です)、実は明治五年宮川おどりも附博覧会の予定にあったのですが、実際催された記録はどこにも見つかっていませんので、中止になったという見方がされています。宮川町の京おどりは昭和二十五年。そして昭和二十七年、菅道公千五十年万燈祭に協賛し、上七軒が北野をどりを始めました。


by gionchoubu | 2014-09-04 18:08 | 祇園東 | Comments(0)

祇園東ぞめき 十三


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祇園東の区域の内、祇園北側347番地はすべて膳所藩の屋敷跡です。(グリーンが内その347番地で、ピンクは膳所藩屋敷の庭に祀られ現在も信仰を集める歓亀神社、赤の斜線が祇園会館です。昭和四十年代の地図にフィルターをかけました。

祇園乙部貸座敷組合事務所発行、昭和十四年九月十七日現在の芸娼妓一覧によれば、いろは順に並べられた芸妓之部の置屋五十八軒、芸妓数百九十人、たくさん芸妓を抱えたのが植辰の十三人、九二八(クニハチ、富菊の二軒西にありました)の十三人、近江福九人、木村九人などで、特筆すべきは、この木村にギ、勝助、また大市にギ、良吉など義太夫芸者が確認できたことです。関西の義太夫で名高かった花街は大阪では、堀江、京都では宮川町などですが、祇園甲部、先斗町でも戦後まで、義太夫芸者は一種独特の存在感を示していました。又、富菊、岡留、梅田、繁の家など現在のお茶屋組合の組員の名前もみえます。

娼妓之部をみると、置屋三十二軒、娼妓数百三十五人と、芸妓が娼妓を上回り、いよいよ芸妓本位の街が確立されました。また何軒かは芸妓、娼妓兼用の置屋もありました。

昭和十一年の貸座敷二百二十軒から、昭和十四年の置屋総数九十軒(芸妓置屋五十八軒+娼妓置屋三十二軒)を引いた百二十軒がこの時期の芸妓、娼妓を置かないお茶屋と妓楼のトータル数ということになります。

さて、終戦直後の祇園はアメリカの進駐軍のせいで様子が一変し、闇市もでき、GIが横行、祇園乙部では進駐軍を立ち入らせない様、off limit の看板をだす店が目立ったそうです。

昭和二十四年、乙の字を捨て祇園東新地と名称を変更し、花街の紋章も八つの団子丸の中の乙を東に変えましたが、現在は八つの団子のみです。祇園甲部は今でも分裂の際に考案された八つの団子の中に甲の字を当てていますが、両花街の団子の意匠はもともと水茶屋時代、祇園社頭で売られていた茶店時代の由緒から草案され、八の数字は、橋本、林下、末吉、清本、元吉、富永などの甲、乙またがる八町の結束を表現しているという説があり、もしこの説が正しければ、紋章のなかで甲乙が仲良く同居していることになります

昭和二十九年八月一日現在の祇園東新地事業組合員名簿をみますと、その数百六十六軒、昭和十四年の芸娼妓置屋の合計九十軒にくらべ多いいのは、単純に芸娼妓を置かない、お茶屋専業、貸席専業の館の数が含まれるからに違いありません。ここで現在も営業の福屋、中勇、田中浪(田中菜美)、叶屋、栄政の屋号をみることが出来ます。

昭和三十年八月発行、渡辺寛著、全国女性街ガイドの祇園乙部の項に、芸妓五十四人、女中(娼妓)百三十二人、お茶屋百七十人、置屋二十軒、芸妓一時間の玉代は一席いくらといい、芸妓一時間三百円、大きな屋形(置屋)としてあげられた九二八、植辰、吉春、大和屋は昭和二十九年の名簿で確認できましたが、榊初は確認できません。同じように大きいお茶屋北千代、古梅は確認できましたが、中照というお茶屋は確認できませんでした。

昭和三十三年、三月十六日、いわゆる売防法完全施行の直前、祇園東新地お茶屋から、現在の祇園東お茶屋組合になり、この時点で、お茶屋百四十軒、接客婦百三人となりました。

『亡くなった京の廓』田中緑江著によりますと、昭和三十三年頃の代表的な芸妓として、岡留の豊治を筆頭に、愛みつ、叶二、つね香、市子、幸三、市づる、豊和、真知子、幸宥、つる文を挙げています。

昭和四十七年の組合員名簿での会員お茶屋は六十一軒、売防蓬が実施されてからわずか十五年の間に半数以下になっているのは、時代の流れ、ライフスタイルの変化、レジャーの多様性といくつも理由は挙げられるのでしょうが、日本全国の花街、遊廓から娼妓関連の貸座敷が消えてしまったように、当然祇園東からも娼妓が消え、伎楼もなくなりました。

ちなみに、この頃の花代は一本十五分、一時間四本立てで千三百八十六円が定法だが、実際は五割増しが常識、宴会花は祝儀をふくめて二時間七千五百十三円の勘定でした。

さらに昭和五十七年の名簿ではお茶屋数は二十七軒、この中で、たとえば中畑という新橋筋、林下町にあったお茶屋はこのあと十年ぐらいで廃業、二階建て木造のお茶屋は地下一階、地上五階、三十ものスナック、バーがひしめくビルになっていますが、バブルの中、お茶屋だけで、この敷地を維持するのは、固定資産税だけでも大変だったと想像できます。

現在、平成二十五年の祇園東お茶屋組合員名簿に載るのは、福家、榮政、叶屋、
田中菜美、ほりたに、繁の家、梅田、中勇、岡とめ、富菊、まん、の十一軒であります。

乙部時代からの取締は初代中村乙吉氏、小山友次郎氏、佐伯寅蔵氏、山下寅吉氏、西川繁三郎氏、村上治郎吉氏と続き、富森菊一氏、富森多津子氏、梅田明子氏、岡嶋良一氏、そして現在は中勇の中西三郎氏が取締を務めます。
(ただし村上氏と富森氏間の取締は不明)



by gionchoubu | 2014-09-01 13:41 | 祇園東 | Comments(0)

祇園東ぞめき 十二

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                          昭和三十二年のねりもの
                       昭和十一年には後ろに見える屋台におもちゃがいました。

祇園の姉妹

昭和十一年(1936)封切り、原作、監督、溝口健二、脚本、依田義賢の表題の映画は、当時の祇園乙部のおもちゃの芸名の実在芸妓を、当時十七歳山田五十鈴が迫真の演技で演じ、見るものを圧倒しました。

実在のおもちゃは川邑の芸妓で、映画が封切られた年のねりものの千鳥破風の屋台の上で囃方の一人として鉦を担当しました。又昭和三年の祇園乙部芸娼妓名簿で吉之家の娼妓におもちゃの名がありますので、芸妓のおもちゃはすくなくとも二代目以降ということになります。

溝口の代表映画にとどまらず、日本映画をも代表する傑作として名高い作品ですが、実はこの映画は封切当時、祇園乙部の人々を激怒させ、廓の新聞に、あの映画の関係者は三条、四条の橋を渡らせない、つまり祇園に近づくのを許さないと書かれたのです。

祇園は、その昔大和橋架け替えに始まって、安政四年には乙部の林下、清本両を含む内六町が鴨川の河原へ四十二本の石柱を築立て、長さ五十軒の橋板を敷き渡し、幅三間欄干付の見事な四条大橋を架しました。さらに明治七年にも、祇園新地内六町、外六町相よって工事費自ら負担で、府の勧業課に四条大橋架替えを願い出て、宇治観月橋畔の製鉄所に発注して欄干、脚柱の鋳造をなし、七、八年の両年かけ工事を成就、祇園の紋章であるつなぎ団子が施された欄干を誇りに、元吉町、弁財天と並んで後の乙部の林下町の代表が出て華々しく渡り初めをしました。

つまり、祇園にとって架橋は遊客を導く生命線であり、ときには茶屋株のバーターとして架橋は時の所司代から課せられたもので、この血のにじむような努力で渡した橋をそうやすやすと渡らせないという思いがこの言葉の裏にはあるはずです。

映画の内容は、芸妓と客の関係を、旦那制度を含め、打算的な敵対関係としてリアリスティックに描いたもので、暴露物になれた現在の目を通して見ると、さほどの怒りを買うものでもない様な気もするのですが、こういった表現に免疫が少なく、献身的にロケに協力した当時の祇園の人達の身ともなれば、騙された気になったのでしょう。

この映画は当時の乙部の息遣いを感じ取れる唯一の手がかりで、昼尚暗い路地という路地を早足で通る、芸者、遊客、物売りのシーン、夜になれば軒先に丸型ガラス電で屋形の名を浮ばすお茶屋の様子など、今のバー、クラブなどに軒先の殆どを譲った現在の祇園東には存在しない、三業地、五業地、免許地などの面影を偲ぶことが出来るタイムマシーンのような存在ですらあります。

現存拝見できる物は六十九分判で完全版より二十分程カットされた判しか残されていないのですが、戦前の一つの花街の様子を捉えた一級の資料としても重要です。

祇園町北側の看板がはっきり読み取れるなど、この作品のほとんど乙部内で撮られた事は明白で、さすがに古い映画のため、画面上解読できないお茶屋も多いのですが、それでも当時の芸妓置屋上歌、娼妓置屋山下、お茶屋の平八(昭和四十八年の名簿にあり)、の名は読み取ることができ、さらに貸座敷一覧では確認できないものの、池光などの名も確認できます。

そして梅吉、おもちゃの姉妹が住む置屋は持ち家でなく借家である事、甲部のエリアではありますが、まだ欄干のない巽橋のシーンがある事(残念ながら映っているのは白川の南側で、第二次対戦中、強制疎開されたお茶屋大友を含んだ白川の北側は映ってません)、南木屋町の席貸(お茶屋と同意語である貸席とは又違った業種で花街、遊廓の免許地以外でも営業できました。旅館的な機能をもった所もあり、文豪などが長逗留して作品を書くことでも知られています。)だと思える座敷のシーンがあることなど興味はつきません。

この映画製作の際、脚本家の依田義賢氏は三十歳、全く花街になじみがなかったので、中京の呉服問屋の旦那の紹介を得て、祇園甲部のお茶屋、加藤楼へ絣に袴、弁当持参で取材をかさねました。

封切り後、祇園から大バッシングを受けたのは前述の通りですが、当人による後日談によれば、祇園のお怒りがとけたのは一年もたってから、山田五十鈴の役名、おもちゃ本人に座敷にきてもらい、手をついてあやまったところ、罰としてダンヒルのライターを取り上げられて許してもらったそうです。その後は旭日昇天の勢いで乙部であそびつづけ、やがて甲部のなじみにもなりました。

祇園の姉妹はその後、1956年、野村浩将監督のもとでリメイクされども、舞台は甲部の設定でおもちゃの役名もなし、内容も大分薄められた感じがします。とは言え、若き日の勝新、舞妓姿でパチンコをする中村玉緒、芸達者な田中春男や、当時良く芸者役を演じていた小暮美千代など、それなりに結構楽しく見ることが出来ます。

さらに1999年、深作欣二監督、脚本新藤兼人で『おもちゃ』というタイトルの映画が溝口健二氏へのオマージュで作成されども、内容は昭和三十三年の京都の花街を描いたものの、乙部とは関係のない作品で、私も見る機会を得ていません。

余談ですが、溝口健二氏の信奉者であるジョージ・ルーカス氏と依田氏は面識があり、彼がスター・ウオーズ、ヨーダのきっかけであったと一部で噂されていますが、真偽の程は不明です。

私の所有する絵葉書では、アンニュイなお茶屋の座敷の午後、ナミ、玉リュウ、三郎の芸者と共に、トーストや、紅茶を前に、お菓子をとって、帯は矢の字、けだるげにこちらを見る舞妓姿のおもちゃさんらしき写真(一番右)があります、ただし鉛筆の手書きで四人の名前がかかれているため、本人との確証を得ておりません。

このブログのカバー写真がその絵葉書です。


by gionchoubu | 2014-08-31 16:03 | 祇園東 | Comments(0)

祇園東ぞめき 十一

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                         南座の総見

昭和五年に日本遊覧社から発行された『全国遊廓案内』の祇園遊廓に「享保十七年には茶屋渡世の公許が下り、寛政二年(今から約百三十年前)には遊女町の許可があって、完全に遊廓と成り、更に明治十八年には甲の部、乙の部とに分離して今日に至ったものである。甲乙ともに芸妓は娼妓より多い。」とあります。

さらに同時期に書かれた松川次郎氏の全国花街めぐりでは当時の京都八花街を祇園新地甲部、先斗町、上七軒、北新地甲部(五番町)を芸妓本位、宮川町と祇園新地乙部を芸・娼両本位そして島原、北新地乙部(五番町)を娼妓本位とし、京都の花街を「芸妓本位の花街にも少数の娼妓があると同時に、娼妓本位の花街にも若干の芸妓が居る。例えば祇甲にも太夫が居るし、島原にも芸妓が居るの類である。北新地は芸妓部組合と娼妓組合に分れ、それで二つの遊廓として算へられているけれども、元来同一の区域であるから芸娼妓本位の一遊廓と見てもよいであろう、実際には娼妓の方が多数を占めている。そして芸妓本位もしくは芸娼両本位の遊廓に於ける娼妓は凡て“送り込み”の制度で、屋形から揚屋へ呼んで遊ぶのであるが、娼妓本位の遊廓の娼妓は“居稼ぎ”であることを、その特色としている。」と、祇園乙部の娼妓が送り込みであったことを示しています。

昭和九年、日中戦争を三年後に控えたこの年七月二十日、祇園乙部歌舞練場では、国防婦人会祇園乙部分会の発会式が挙行され、女将、芸妓、仲居等役三百五十名は、白エプロン、白襷の盛装で整列、開会の辞、国旗掲揚、宮城遥拝、伊勢大廟遥拝、君が代合唱の後京都連隊区司令官中林中佐による「国防婦人会の使命に就て」の講演があり、二十七日には祇園甲部の芸妓らとともに、乙部から国防婦人会員となった桃菊、ひさ、絹葉ら十人が下京区役所にて防護団に対する配給、その他の勤務に服しました。

この年の祇園乙部の芸妓花順をみますと、よし、久栄、一太郎、仙太郎、桃菊、芳千代、芳福、三栄、とよ冶(岡留の名妓豊冶と思われます)、末吉らが上位に名を連ねました。


by gionchoubu | 2014-08-30 13:30 | 祇園東 | Comments(0)

祇園東ぞめき 十

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                  現在祇園をどりの撮影は禁じられています。

錦織剛男の京都遊廓年表に、明治十八年、十二月、下京十五組(当時東山区は存在していませんでした)祇園北側町の老娼妓、重村政勇ら娼妓互慰会を結成、
花柳病で入院した場合に備えての互助会制を設立したとありますが、これは甲、乙どちらであったか詳らかでありません。

さて、明治時代の乙部がどんな様子だったかを伝える資料は殆どみかけません。
芸妓に対し娼妓が多くを占め、よい廓と見なされなかった事、明治三十三、四年、分離前の共有財産であった八坂女紅場の不動産に関する法廷闘争が甲部とあった事、明治四十三年、宮川町、先斗町とともに祇園乙部の三花街が芸娼妓救済所を設立、内外日報に「芸娼妓の生みし子供にして便りべき所なきもの、芸妓にして疾病休養中衣食に窮するもの貧困者を収容して病者に医薬を与え正業なきものには産業を授け老衰を養い、児童には適当な教育を施す等夫々身分に応ずる救済法を設ける」という記事が載った事ぐらいしか手元の資料では見出せません。

しかし娼妓優位の乙部で、明治三十三年、布令によって貸座敷組合が設立されると、雪亭の主人小山友次郎氏が取締に就任、この廓の改善に努力しました。
大正十五年に取締を辞任した際その長年の労に報いるため、慰労金と記念品の贈呈式が祇園中村楼で行なわれました。そしてねりものが乙部によって復活を果たした昭和十一年の一年前、昭和十年七月十二日、これを見ることなく、八十一才で亡くなりました。

歓亀神社の中に、大正四年十一月に建てられた玉垣がありますが、その中にこの雪亭と小山友次郎氏の名を確認することができます

分離当時、祇園乙部の茶屋(貸座敷)七十戸、芸娼妓併せ百人強、

明治二十八年刊、『京都土産』所載遊郭一覧によれば、貸座敷百四十五軒、芸妓三十五人、娼妓二百三十六人、屋形二十六軒、

大正元年末の貸座敷数は百九十三戸、芸妓八十五人、娼妓二百二十六人とあります。(京都府警統計)

大正十二年には藤間門壽を舞踊教師、師匠である藤間門壽郎を舞踊顧問、ほぼ同時期に清元教師に清元梅松、師匠の清元梅吉を顧問迎えました。

『技芸倶楽部』によれば、昭和三年一月末の祇園乙部は取締が西川繁三郎、美摩女紅場専属師匠として舞踊 藤間門壽郎、長唄 杵屋勝六と鎌田美代、 鳴物 堅田新十郎、美摩女紅場嘱託師匠、浄瑠璃 野澤喜市郎、常磐津 常磐津菊三郎、清元 清元喜三太夫、顧問 竹澤弥七

屋方(置屋)数、百十九戸、芸妓数二百四十五人、娼妓数二百四十九人 
芸妓を五人以上抱える屋方は北常、近江福、田中君、花菱、浅種、岸辰、
君徳、ともゑ、大鐡、高愛、九二八、柳楼、鶴米、川邑、酒井亭で娼妓を沢山抱えていた屋形に河福、木村初、吉之家、山梅、伊勢八重などで、九二八のように芸妓十三人、娼妓十一人も抱える見世もありました。現在まで続くのが岡留、中勇、繁之家です。



by gionchoubu | 2014-08-29 12:47 | 祇園東 | Comments(3)

祇園東ぞめき 九

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そしてこの女工場が祇園を甲と乙に分ける直接的な原因となりました。田中緑江氏の『亡くなった京の廓』を引用しますと、「これは府へ納めました賦金参円の内半額を組合へ還附し、それでこの女達の教育費に充てる事になっていました。下附された金は毎月二千円になりますが、実際費つていたのは二百円で、残金が積立てられ、それが相当な金額に達し、その間不審があると膳所裏の人から四万円を納税者へ返えせと十四年春より紛糾して来ました。六月には富永町六ヶ町からも十余万円を返せと訴訟騒ぎとなり」膳所裏は分離し、十月に花街事務所である検番も作り事実上独立しました。ちなみに、乙部分離前、花代をめぐった紛争に侠客、会津の小鉄が調停役を買って出てセンセーションを巻きおこした事件までありました。


そして明治十四年十二月十二日付を以って、京都府知事北垣國道より、林下町中村乙吉に「甲乙ノ名称ヲ以テ区分スベシ」との指令を受け、甲を譲り、中村乙吉氏は祇園乙部の初代取締に就任しました。

この年、美磨女紅場(みまにょこうば)と組合事務所が東末吉町に作られたとされるのですが(明治十九年の資料もあります)、昭和十年頃の地図に組合事務所が富菊と中勇の間に描かれているので、中末吉町通りの北側に建っていたものと思われます。

残念ながら、祇園東お茶屋組合にも美磨女紅場の記録は残っていません。
また、乙部の名を布令命ぜられたのが明治十九年とする本もありますが、祇園新地乙部貸座敷組合発行の祇園會ねり物復興記念帖の記述に即して、祇園乙部誕生は明治十四年十二月十二日と明記されております。


この遊廓の甲、乙制は祇園以外にも京都北新地(五番町)、大阪南五花街他でもみられるのですが、祇園の場合は全く違う二つの花街としての分離でした。

この時の版図は甲部が祇園町南側、膳所裏を除く祇園町北側、中之町、富永町、清本町の一部、弁財天町、元吉町、二十一軒町、常磐町、橋本町、末吉町、川端町と林下町の一部、清井町の一部、宮川町一丁目、鷲尾町、下河原町、月見町、上弁天町の十九町で、一方乙部は祇園町北側の一部、林下町の殆ど、清本町の一部になります。

甲、乙が分離するすこし前、明治十一年六月八日届け、同七月に大西亀太郎によって出版された『都の花競』に現祇園東から届けられた芸、舞妓の名簿を見ますと、膳所裏に、祇園町北側より出稼ぎの分として芸妓小鶴、八重松、菊葉、舞妓に力松、祇園町南側より出稼として芸妓常松、鶴吉、舞妓に鶴松、林下町に芸妓鶴香、舞妓に玉鶴、松栄の名を認めることができます。

藩邸は膳所藩(現滋賀県)引き上げの後、谷口起孝という人の管理となり、藩邸内は殆どが貸座敷になったのですが、敷地は所有者が転々とし、昭和五年頃には神戸の乾新兵衛のものとなり、番頭の山本彦五郎が所有していました。

膳所藩邸跡地に話をもどすと、その殆どが住所でいうと、ほぼ祇園町347番地で、昭和四十年ごろの地図とてらしあわせると、今は途中で家屋になり無くなった境界線の路地を含め、くっきりと藩邸跡が浮かび上がります。

さらに付け加えると、この辺りの水道管の権利は滋賀県守山の人で、戦後しばらくたっても、この辺りにビルなどを建設するには、工事関係者はその方の承認が必要だったそうです。



by gionchoubu | 2014-07-23 15:30 | 祇園東 | Comments(0)

祇園東ぞめき 八

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                     観亀神社大祭の奉納舞

明治になると、初年すぐに膳所藩は近江に戻り、膳所藩邸も三年に取り壊されども膳所裏(祇園東)は依然祇園の一部でした明治五年には都をどりの第一回が祇園東の敷地内である松の家席という寄席で行われたのですが、松の家席の場所は、東大路新橋西の路地を南に入った場所という事なので、これが最初の筋ならギオン福住の筋か、二本目ならお茶屋岡留の筋にあったことになります。近所の人によれば、この筋には乙部当時の娼妓を連れた、心中でもしたのか三高(今の京大)生の亡霊が今からそんなに遡らない時代まで出たといいます。

ちなみに、二回目から都をどりは花見小路の南にさがった西側にあった清住院の敷地で開催されましたが、さらにその後現在の歌舞練場に移り現在を迎えています。清住院も現在は浮世小路の南端に移りました。

そして明治五年十月二日に、外国の圧力(所謂マリアルーズ事件)などもあり、太政官達 第二九五号、芸娼妓解放令が発布されたのに伴い、祇園でも明治六年、婦女職工引立会社が設立されました。そして明治七年女紅場と改名しました。

女紅場(にょこうば)とは工を後に紅をかけたもので、花街に於いても、女性に読み書きを始め、養蚕、紡績、機織、刺繍、製茶などを身に付けさせようと設置されたもので、これが祇園にとってどれだけ大きい意味をもっていたかは、祇園第一のお茶屋、一力がその敷地を女紅場に明け渡し、一時期ではありますが、清井町に移った事でもわかります。

そしてこの女工場が祇園を甲と乙に分ける直接的な原因となりました。田中緑江氏の『亡くなった京の廓』を引用しますと、「これは府へ納めました賦金参円の内半額を組合へ還附し、それでこの女達の教育費に充てる事になっていました。下附された金は毎月二千円になりますが、実際費つていたのは二百円で、残金が積立てられ、それが相当な金額に達し、その間不審があると膳所裏の人から四万円を納税者へ返えせと十四年春より紛糾して来ました。六月には富永町六ヶ町からも十余万円を返せと訴訟騒ぎとなり」膳所裏は分離し、十月に花街事務所である検番も作り事実上独立しました。ちなみに、乙部分離前、花代をめぐった紛争に侠客、会津の小鉄が調停役を買って出てセンセーションを巻きおこした事件までありました。


そして明治十四年十二月十二日付を以って、京都府知事北垣國道より、林下町中村乙吉に「甲乙ノ名称ヲ以テ区分スベシ」との指令を受け、甲を譲り、中村乙吉氏は祇園乙部の初代取締に就任しました。

この年、美磨女紅場(みまにょこうば)と組合事務所が東末吉町に作られたとされるのですが(明治十九年の資料もあります)、昭和十年頃の地図に組合事務所が富菊と中勇の間に描かれているので、中末吉町通りの北側に建っていたものと思われます。

残念ながら、祇園東お茶屋組合にも美磨女紅場の記録は残っていません。
また、乙部の名を布令命ぜられたのが明治十九年とする本もありますが、祇園新地乙部貸座敷組合発行の祇園會ねり物復興記念帖の記述に即して、祇園乙部誕生は明治十四年十二月十二日と明記されております。



by gionchoubu | 2014-07-22 15:39 | 祇園東 | Comments(0)

祇園東ぞめき 七

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   元禄島田の髪姿の祇園東による祇園祭花笠

ちなみに、この番付にのる祇園地区の遊所はいくつもあり以下並べて見ると、

祇園町・・・四条通りの北側、南側で今も続く一力、祇園一番とされた井筒などが軒をならべました。享和二年(1802)刊『羇旅漫録』(きりょまんろく)で、滝沢馬琴は祇園町にふれ、「井筒、扇九、一力など座敷ひろし、客あれば庭へ打ち水し、釣灯篭へ火を点す。忠臣蔵の七段目の道具建の如し。」と述べました。
番付では西の関脇、大正元年、四条北側の道幅を広げて電車を通すため、表通りでのお茶屋営業は禁止になりました。

祇園新地・・・時代により多少変わりますが、前述の祇園内外六町から膳所裏、縄手店つき、西石垣の北部分を省いた所、東の小結で天保以前には祇園町とほぼ同じ評価を得ていたことが分かります。
江戸期には富永町に大店が多かったようで、玉屋、三升屋、近江屋、京井筒などが有りました。
さらに外六町ができた時、島原からの出店だったとも伝えられた富田屋の流れをくむのが今の富美代です。尚、現在、四条花見小路から南の祇園は明治になってからお茶屋街になりました。

西石垣・・・さいせきと読み、現在は鴨川べりの川端通りの中、南座の西側。
鴨川をはさんだ東側は東石垣(とうせき)といい今も名料亭などがあり花街の風情を残します。番付では膳所裏より上位

『武野燭談』(ぶやしょくだん)という書物に「石垣茶屋、河原を見下ろし、がけ造りにして、四壁金襴純子にて張、床をば畳をやめて天鵞絨(ビロード)を以包み、天井をば水晶の合天井にして、水をたゞへて金魚を放ち、障子はびゝどろを以て、四方はみえて内はみえぬやうにかまへ、珍膳美味を尽し、美婦是を配膳するほどに、貴賎共に金次第の遊興放埓なりしかば、天和中禁止される。」とありますが、どんな様子だったのか、ぜひ拝見したいものである。

祇園山・・・祇園山の遊里について書かれた文献は拝見したことはないのですが、円山公園から下河原にかけての高台を指したものだと思います。
この辺りは、北の政所が晩年に芸能のパトロンとして育んだ舞踊集団、山根子、近世風俗志では山猫芸者の本拠地で、六阿弥(ろくあみ)と呼ばれた六つの貸座敷を中心に、芸で身を立てていました。
井上八千代一世が、最初に舞を指導したのが下河原の山根子だといわれています。明治になりこの山根子は祇園の芸妓に同化し姿を消しました。
八軒膳所裏よりすこし位は下がります。

八坂前・・・こちらも推測ですが、八坂神社の正門である南門の前、清井町辺りを指したものと思われます。ここも明治になり、二条新地が廃止されると、二条の業者はここに移り、清井新地を名乗りました。渡会恵介の京の花街では祇園甲部、乙部に対し、祇園丙部の名があったとしています。八軒膳所裏より下位。

(*『京都私娼考』に八坂まえは八坂の塔の前という見解が出ていました。成程、当時は八坂神社は祇園さんと呼ばれていたはずですので納得、訂正します。2016、3月2日)


縄手みせ付・・・縄手通り沿い、大和橋より北、三条通りまでを指したものなら、古くから蛍茶屋の異名で栄えた夜のみあやしげな茶屋がありましたが、祇園新地が正式な遊所となると寂れ、安永には茶屋も二三軒になり、やがてなくなったとされるので、番付が発行された時には消滅していたはずです。
あるいは文献にはありませんが、四条より下の縄手を指したものかもしれません。
みせ付もよく分かりません、以前は大和橋縄手付近には祇園新地としての富田屋などの大茶屋があり、夏には鴨川の中洲に店をだしていたので、この店のことかとも思いましたが、それにしては八坂前と変わらぬ番付で矛盾しています。

尚、蛍茶屋は、昼間は褐色染の水引暖簾をかけ、煎茶などを出す店として取り締まりを逃れたとしていますので、あるいはその店をさしたものか、ただし蛍茶屋が栄えたのは、祇園遊廓の黎明期、謎の多い遊里です


by gionchoubu | 2014-07-21 16:23 | 祇園東 | Comments(0)