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カテゴリ:先斗町( 15 )

先斗町ぞめき その十五

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瑞泉寺に建つ先斗町の紋章千鳥の由来を記した千鳥碑、前住職がもともと先斗町の公園に有ったものを先斗町の依頼でここに移されました。

2015年9月、北斗書房より自費出版された杉本重雄氏の『先斗町地名考 ポントの謎を解く』は二年前同氏より自費出版された『ポントを解く京都「先斗町」地名考』を改討・改題したものです。

裏表紙には“ポントはポルトガル語で先・先端の意味?「先斗町」は先端・洲崎の町?命名したのはポルトガル人?いつ頃からポントと呼ばれた?ポントを何故「先斗」と書く?「首斗」や「尻無」という字を何故ポントと読む?ポントの本当の意味と語源は?江戸時代の文献資料に基づく考証とポルトガル語解釈の再検討により、ポントという外来語と「先斗町」の地名の謎に迫る。”と有ります。

過去、この先斗町の名前の由来に多くの人が挑戦をされ、広辞苑の産みの親である新村出、早稲田大学の初代図書館館長も努めた市島謙吉、詩人、聖書学者の湯浅吉郎、そして風俗研究家で発禁処分王の宮武外骨も、この件に関し独自の説を唱えました。

先斗町廓事務所所蔵の原本が底本の『京都先斗町遊廓記録』(明治四十二年写、倉田保之編)に「先斗町の字義は川端堤の上に家居し、裏は河原なればさきばかりの町といへるより渾名せしとの説あり。又た船頭町の転訛という説もあり。案ずるに先はものゝ第一としてはじめに同じ斗は二十八宿の一にして、西方に位すものなれば、字通りに読むも万更拠処なきにしも非らざるなり。然るに先斗町と書いてぽんと町と読ましむるに就ては誰しも苦しむ処なるも必竟づる一口村とかいていもあらひ村などゝ読める類ひ多ければセとホとを戯れて呼びかへたるものなるべし。又学説として梵語より出てたるものともいへり」

と、セントと書いてどうしてポントと読むか、それは一口と書いていもあらいと読むが如し・・・と噺家さんの謎掛けの問答のような説をもち出さざるを得ない程、過去多くの文人学者を悩ませてきました。

多くの説は、ポントの発音を人名を含むポルトガル語のPONNTOやPONNTAにもとめておりますが、杉本氏は『スペイン語大辞典』の著書もあり、語学の観点からもこの考察に深い洞察を入れれるのが大変な説得力を持つのです。

又、かつて先斗町が出て来る古地図、古典作品、過去の先斗町の町名由来のすべて(と言っていいでしょう)検証を加え、過去誰もが唱えなかった説に辿りついたのです。

この場所で、その呼称由来を紹介するのも憚れますので、是非興味のある方は京都の中央の名がつく幾つかの市立図書館にて手にとって確かめてください。(書店、通販、出版社、ご本人にも確認しましたが自費出版ゆえ全く流通しておりません。又、最近の出版ゆえ本書が寄贈された図書館の開架で今閲覧できるかは確認が必要です。)

私にとって唯一つ残念なのは、私自身が定年を迎え、日々の激務から開放された暁には、是非この先斗町名前の由来に挑戦しようと思っていたのですけども、この書を読んで圧倒されすっかりその気を無くしてしまいました。

この書が通った後にはぺんぺん草も生えていないというのが実感です。


by gionchoubu | 2015-11-27 11:37 | 先斗町 | Comments(0)

先斗町ぞめき 十四

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                    道楽橋があったとされる先斗町側

納涼床
 寛政十一年(1799)刊の『都林泉名勝図絵』を見ると鴨川の四條河原にて、多くの料理茶屋が行燈に名前を掲げ、酒や料理で涼を求める人をもてなす様子がうかがわれます。今のように鴨川東側に床が組まれたのは明治以後のようです。
現在は二条から五条までの禊川の上に初夏には床を並べます。先斗町のお茶屋で床をだすのは、初乃屋、大市、井ふみ、丹米など。

十五大明神 十五番路地には千社札で埋め尽くされた十五大明神があります。これは昭和五十三年に火事が起きた時、酒房「ますだ」の所でピタリと止まり、狸の置物が割れていたといいます。これはお狸様が身代わりになってくれたものに違いないと、ますだの名物お女将おさださんが祀ったものです。
以前はお賽銭を入れると、お神楽のような音楽がなり、おたかさん本人の声で運勢をうらなってくれました。この占いはおさださんの人生観が窺える大変魅力のあるものでしたが惜しいことに故障したままです。この装置が壊れたのは、私の記録によると2008年のことです。ますださんのお店のなかには常連であった司馬遼太郎の直筆の屏風があります。

道楽橋 かつて先斗町と川端通りを四条大橋のすぐ北で結んでいた橋。
『鴨川の景観は守られた』木村万平著、では先斗町の北100メートル(現在お地蔵さんがある場所)から川端にかけて菊水という鳥すき屋が大正時代に自費で建設したもので、人幅三人ほどの木製の橋で「菊水橋」というのが正式名だったとの事。実際この店主片岡金七が写した菊水橋の写真が載ります。昭和十年の鴨川の氾濫で流されたとあります。

ちなみに、この洪水では祇園芸妓によるねりものが中止になりましたが、先斗町では若い芸妓に紫、年配芸妓に薄鼠の揃いの衣装、帯も紅白の昼夜帯、履物も揃え、明治二十六年以来中断してした四十三年ぶりの復活ねりものを盛り上げようという話があったそうです。

一方『決定版先斗町のすべて』先斗町歌舞会監修によると、作家の杉田博明氏の文筆で、これは料亭「竹村家」が私費で差し架けたもの、泉鏡花の短編小説『笹色紅』に竹村橋が出ている、と言った紹介があり、さらに、昭和三年ごろこの橋がなくなったという証言が、画家田中善之助の『京ところどころ』に記されている、とも書かれています。

どちらも祇園と先斗町という京都の象徴的な二花街を結んでいたので道楽橋と呼ばれていたのは共通しています。最初は竹村家が架けたが流され、その後菊水が架けたとすればなんとか辻褄は合います。

上記『鴨川の景観は守られた』によりますと、この道楽橋復活の議論が突如1980年におきました。架橋の場所はオリジナルの道楽橋より北、四條大橋と三条大橋の真ん中辺り、先斗町公園のすぐ北が予定地で鴨川の東側は賛成、先斗町はおおむね反対でした。その後数年を経て京都市による架橋理由として1、東西の中心街の一本化 2、消防署の迅速な到着 3、親水空間の多様化が京都地域商業近代化地域計画報告書にあったそうですが、1の理由はともかくとして、2はこういった計画の大義名分を表明したもので、官側が提唱したもっともらしい言い分。3にいたっては何をいっているのか分かりません。

その後、1996年、フランスのシラク大統領が来日の際、「鴨川にポン・デ・ザールの理念を生かした橋を架けては」と提案してこの問題が再燃にましたが、景観を損なうものとして反対運動がおこり、市はこの計画を白紙撤回しました。

先斗町側でこの反対運動の中心となったのが料理店「山とみ」の女将さんでした。市が山とみの鴨川側の看板が美観地区の条例違反として一ヶ月以内に取り除くよう通達してくるなどのいやがらせに出たのにもめげず、一人で立ち上がるや、署名、カンパを募り、集会で訴え、勝利に結びつけました。

勝利集会で、平成のジャンヌ・ダルクと持上げられたとき、「ジャンヌ・ダルクやて、人を火あぶりにする気どすやろか」と返したそうです。
山とみは、もともと先斗町で五十年続いたお茶屋さんでした。

ポン・デ・ザールはセーヌにある橋で、ポンはフランス語で橋を意味し、ポンと発音しますが綴りはpontです。先斗とpontは全くの偶然とはいえ、先斗町の語源がいまだに謎ですのでなにか因縁のような物を感じます。




by gionchoubu | 2014-08-24 11:43 | 先斗町 | Comments(0)

先斗町ぞめき 十三

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                         二見ヶ浦   
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                          高野山

先斗町あれこれ


千鳥の紋章 『日本花街志』で加藤藤吉は、「千鳥は加茂川の冬の情緒を語る名物の一つで、京の宿に聞く淋しいその鳴声は、家郷を偲ぶ独り身の侘しいものともなれば、置炬燵に夜の更けるのを忘れる楽しい思出ともなり、詩情豊かに心のマークともなる、京都の花街らしきものといえよう。」
「紋章の沿革は明治五年鴨川をどりと冠した、花街舞踊を始めて開催した際、当時の取締楠小三郎により創案されたもの」と書いています。

鴨川組と丸寿組 大正時代から続いているのが、高野山参りの鴨川組と伊勢参りの丸寿組で、休日を利用して一泊二日の旅を楽しむ妓が多いと渡会恵介が『京の花街』で書いています。高野山の霊場には講中で建てた立派な納骨堂があり、二見ヶ浦にも一対の献灯があります。
昭和七年の『技芸倶楽部』には、「丸寿組本年の伊勢参宮はコノ七日立ちで同夜は二見浦の二見館で一泊翌八日伊賀の赤目四十瀧を見物して王子駅経由で帰廓」という記事があります。先斗町歌舞練場に問い合わせたところ、現在この二講とも健在とのことです。

鴨川湯 かつて組合直営の風呂が下樵木町(中央にある公園の西南角)にありました。創設は明治四十三年とのこと、花街だけに当初は女性専用で芸舞妓は無料だったといいます。昭和四十年まで営業していました。

先斗町児童公園 丁度先斗町の中央にある公園は、第二次大戦中に防火のため、京都で幾つもの家屋密集地が強制疎開させられたが、この通称疎開公園と市営駐輪場もその一つ。多くのお茶屋さんが疎開しました。

昭和34年、京都府が定めた風俗営業等の規制に関する条例によると、学校、病院、図書館と並んで、児童福祉施設の100メートル以内での風俗営業が制限されているのですが、児童公園が児童福祉施設の児童遊園に含まれるのなら、先斗町をある種の風俗営業から守ってきたと言えるのかもしれません。
芸妓町の真ん中に児童公園の取り合わせは不思議といえましょう。

初代市子 先斗町には市の字を持つ芸舞妓の筋がありますが、遡ると大正五年、お茶屋「大市」を始めた初代市子にいきつきます。この市子は十三人の妹芸舞妓をもち、その中の市竜の筋が今でも続いていると思われます。先斗町の一大ブランドです。

ジェラルド・フォード 1974年、アメリカのフォード大統領が、アメリカの大統領として始めて訪日して京都を訪問、岡崎のつるやで日本側がフォード大統領の宴会に祇園、上七軒の舞妓とともにお花をつけたのが、先斗町の舞妓市菊でした。

ライザ・ダルビー 芸者をテーマに博士論文を書くため来日、実際先斗町に住み、市菊の名でお座敷を努め。後『GEISHA「芸者」―ライザと先斗町の女』を出版しました。検番に登録はせず、花代ももらいませんでしたが、市菊から妹としての杯を受け、お座敷では三味線や小唄もこなしました。上記の市子、フォード大統領の項もこの本を参照しました。


by gionchoubu | 2014-08-23 11:46 | 先斗町 | Comments(0)

先斗町ぞめき 十二

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一方、ダンス芸妓は大阪の宗衛門町の河合ダンスが本格的で名高いのですが、花街による少女のレビュー団は珍しく、渡会恵介著『京の花街』によれば、昭和十一年の鴨川をどり『踊る東海道』の中ばさみに少女レビューが登場すると、是をみたフランスのジャンコクトーが感嘆の声を上げたというくだりがあります。

同じ昭和十一年の五月十六日にはチャップリンも後に夫人となるゴダード嬢と鴨川をどりを観劇しました。彼がゴダードと共演したモダンタイムスが封切られる前年のことです。このときの詳しい状況が同年の『技芸倶楽部』七月一日号に載りますので紹介させていただきます。

この日神戸に着くと京都の柊屋旅館にチェックインした二人は市内散歩のあと午後八時過ぎ、先斗町歌舞練場に到着、寺井徹郎取締、舞台監督の日疋重亮氏と握手をして点茶席に向かいました。

ゴダード嬢が上席、チャップリンが次席に腰を降ろすと、この日のお手前は久代と久丸の両妓でした。チャップリンは立て出しの一服をすすると、笑いながらも畏まって茶碗をくるくる廻し、おうすを飲み干すと茶碗をおき、自分の白いハンカチを胸からつまみ出し、真面目な顔をして芸妓の帛紗捌きを真似たのですが、なんともお茶目な姿に滑稽味があったそうです。

茶席が終わると、二人は二階の一等席客休憩所にはまわらず、一階の受付口の長椅子に肩を並べて休憩しました。

会場に入ると、チャップリン、ゴダード、日本人の秘書は会場中央の最前列に座りました。世界の喜劇王と同席の幸運に恵まれた階下の観客は会場を仰いで目を注いだといいます。

奇しくも最初の舞台は喜劇仕立ての弥次喜多を中心とした『踊る東海道』でした。彼が鴨川踊りと書いた小さな団扇でしきりに自分を扇ぐ中、緞帳が上がると、背景は山時代橋柳の絵襖、左右に地方、囃子が並んでおりました。鼓唄が済むと同時に両側から踊り子が踊り出たので、チャプリンは正面、左右に目をきょろつかしながらも、満面笑みを浮かべていたそうです。

「三条大橋」の景では小さな声でしきりに隣のゴダード嬢と語り合い「大津絵」の場面では、藤娘、鬼、弁慶の異様な姿に目を光らせながら大声で笑い、「関の小萬」の景ではじっと舞台を見つめていました。

「吉田二階の場」が終わり、それに続く「店頭の場」が始まると、弥次役の筆右、喜多役の卯の龍が現れ、両人は女郎衆に家の中に引っ張られる場面、両人がこれから逃れるときの足の軽い所作、更に「遠目鏡の場」と進み、一連の舞台が終わると、チャプリン、ゴダード嬢とも膝を進め盛んに拍手を送り、御満悦の様子でした。

舞台が終わり一行が立ち上がろうとした時、観客の一人が両人の前に進み「失礼ですが、貴下の後ろ姿を写生しました。どうかこれにサイン願います。」といいつつスケッチをみせました。このスケッチを手にしたチャップリン、ゴダード嬢は自分の姿のところにサインをしました。さらにそばに居た婦人も扇を広げサインを求め、快く応じられました。

この男こそ京都美術界にその名を得た池田遥邨画伯で、女性の方は先斗町貸座敷卯月の仲居、お繁どんだったということです。

この舞台がチャップリン特別な印象を与えたのは、舞台後主演の筆右、卯の龍に握手をして帰りたいと舞台監督に申し出たことでも分かります。

尤も、二人の芸妓は楽屋を去った後で、ただ弥次、喜多の衣装があるのみ、これを目にしたチャプリンは衣装をぐっと握ると「是が抜け殻に握手だ。」と打ち興じると歌舞練場の芳名録に記帳のうえニコニコしながら鴨崖の地を後にしました。

この年の鴨川踊りは連日満員の盛況で、興業期間の大半は大入袋が出たということです。ちなみに、昭和十五年、再びチャップリンがゴダードと共演した独裁者は、日英米関係悪化のため、大戦後まで国内で封切られることはありませんでした。


by gionchoubu | 2014-08-16 11:29 | 先斗町 | Comments(0)

先斗町ぞめき 十一

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           先斗町にかぎらず、ダンス芸妓の写真はなかなかお目にかかれません。

昭和八年、先斗町歌舞練場の三階を全部ダンス場にしました。これは京都のダンスホールの魁でもありました。

この年、『郷土芸能上方』に劇作家の高谷伸が「先斗町菅見」という一文を寄せています。

「帰る駕籠屋に、また来るお客、チリツテトン、いつも賑わう祇園町、雨のふる日は、流連(いいずけ)先斗町 こんな歌がある。祇園町の大尽遊び、先斗町のしんねこ遊びを対照としたともいえる。」

「常磐津はこゝの自慢、師匠は文字八、昨年扇雀小太夫の戻橋に出演したのはこゝのお姐さん連、その筆頭がお美代である。長唄はレコードでお馴染の筆香を第一とし、卯の子、若手では栄二がある。三味線では肥った房子がめっきり若がえり、三智子、小定、繁勇などゝいふ所である」

「第一の踊り手は市龍、芸も達者だし、いつまでも若い。以前久鶴と言った久龍がこれに次ぎ、若手では豆子、一太郎、美代三、久雄、豆千代などがある。遡ると、堂雨さんと御縁の浅からぬ市子、今は池の療の女将お染などといふ人々もこの廓の踊り手として一時代を活した人であった。」

いずれも、この花街に深く親しん人ならではの、今となっては大変貴重な寄稿となりました。

昭和九年、先斗町少女レヴュー団の中から初めて十七歳の富貴谷常子が、専任ダンス芸者として十二月二十九日に芸者監札をうけ、翌十年一月一日に店だしをする運びになりました。それまでの団員は年が長ずるに準じて、普通芸妓に転向するのが常でした。これは本人より、お茶屋の意向だったとされます。
この時代、花街の置かれた状況を考えると無理からぬものだったのは、以下の趨勢をみれば頷けます。

日中戦争を三年後に控えた年でもある昭和九年の七月十四日、先斗町歌舞練場では国婦先斗町分会発会式が行なわれ、会員四百九十二名(内芸妓二百二十名)は何れも白エプロンに「大日本国防婦人会」と大書した白襷をかけ、結団式、役員選出、講演などが執り行なわれました。さらに十七日、女将十名が班長、久龍、市龍、卯の子ら芸妓十名が副班長として下京区役所に至り防護団の配給に従事しました。

実はこれに先立つ七月七、八日、先斗町貸座敷組合事務所が主催となり、円山音楽堂で「在満将士慰問金募、先斗町少女レヴィュー講演」が催されました。会費は二十銭均一、プログラムの前半は

一、 ジャズタンパリダンス
二、 シャツポー踊り
三、 影を慕ひて
四、 フラフラダンス希望の恋路
五、 タンゴリーサー
六、 青空に唄ヘ
七、 吉原雀(舞踊)
八、 スケータースワルツ
九、 アクロバックスダンス
十、 東京甚句
十一、 神田祭(舞踊)
十二、 唐人お才(新舞踊)
十三、 花売娘の唄
十四、 海燕(舞踊)

そして後半は非常時日本の全十幕で太平洋爆撃艦隊航空隊、軍艦の甲板などの言葉が並びました。この風潮のなか、大日本国防婦人会を前にして、普通芸妓ですら居心地の悪い思いのする中、ダンス芸妓がいかに肩身の狭い思いをしたか、想像に難くありません。

昭和十年には六月二十八、二十九の両日、歴史的な鴨川の大出水が起こり、先斗町は殆どが床上、床下浸水、納涼床も全て流され、損害は六十、七十万円ののぼり、歌舞練場のダンスホールも一時閉鎖するほどの騒ぎになりました。

ちなみに、この月の技芸のお花売り上げ上位者は、笑丸、美代作、豆楽、市、美代奴、豆丸、美代福、吉雄、豆千代、卯の子ということになります。


by gionchoubu | 2014-08-15 12:00 | 先斗町 | Comments(0)

先斗町ぞめき 十

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                      先斗町少女レヴィユー

昭和五年には今も続く水明会がはじまりました。舞妓さんがメインともいえ、普段花街に馴染みのない人も十分楽しめる鴨川踊りと違い、温習会である水名会は選ばれた芸妓による技芸の成果の発表会で、観客も目の肥えた人が多く、会場の雰囲気も趣きも随分違った物なのは、今も昔も変わらないようです。

同時に時代の趨勢もあり、先斗町でも、お客が花代をつければダンスの相手もつとめる、洋装によるダンス芸妓が登場し、京都では宮川町と共にダンス熱が盛んになりました。

先斗町にはさらにお茶屋の娘さんを中心に結成された少女レビュー団まで出来ました。昭和五年、先斗町歌舞練場で四月一日から一週間催された「レビューわが京都」のプログラムをみると、ダンスは石井行康、日本舞踊は若柳吉蔵が担当しており、

一、ジャズ春の宵
二、オリエンタルキャメルトーン、
三、お人形さん
四、人魚の戯れ、
五、蛙ダンス、
六、支那幻想曲武艶舞、
七、角兵衛獅子、
八、メイボールダンス、と和洋混沌とした内容でした。

昭和六年の一月八日、先斗町遊廓新年始業式を覗いてみても、浄瑠璃とダンスが同時に披露されるという、明治以前も、現在も見られない、この時代特有の混沌とした舞台で、午前十一時挙行、式場上手に祭壇を設け、皇大神宮を奉仕し、まず寺井取締より新年の挨拶、営業成績良好各妓に受賞、祝杯の上解散しました。

午後二時に、会場二階に招待客を招き、舞妓のお手前で抹茶を饗したあと、別室にて女紅生徒の裁縫、編み物、習字、手工品等を展示、鑑賞、さらに式場に案内され、各種芸能が一同に披露されたわけですが、そのプログラムは

浄瑠璃、壽式三番叟 勅題舞踊、社頭雪 清元、花がたみ 常磐津舞踊、常盤の老松 長唄素囃、娘七種と続いたのち、ダンス芸妓による、追羽、そして最後を飾ったのが、少女ダンスによる、スパニッシュジプシーフリーダンスでした。芸妓名を見ると義太夫系が菊之助、富太郎と男名が多く、きれいどこは豆千代、市などのそれらしい芸名が目立つのに対し、ダンス芸妓は良子、米子、少女ダンサーも良子、徳子などすべて現代名でした。


by gionchoubu | 2014-08-14 15:18 | 先斗町 | Comments(0)

先斗町ぞめき 九


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                       現在の歌舞練場

昭和二年大林組により、木造の建物を一新して現在の鉄筋の歌舞練場が建てられました。天井を緞子の布で張り、廻り舞台のある立派な建物ですが、なにぶん限られた地所の中、土地の買収は困難を極めたようです。

先斗町の舞踊はもともと他廓同様篠塚流でした。明治四十五年の鴨川をどりのパンフレットをみても、篠塚流の橋本みと子が担当しているのが分かります。

大正十三年の鴨川をどりを調べると、前半を篠塚、後半が若柳といった具合で、公式に篠塚流から若柳流になったのが昭和二年、新歌舞練場竣工が流派の入れ替わりの期になった様で、その後暫らく若柳吉蔵が担当していました。

さらに、昭和十八年より若柳吉朗とあわせ尾上菊之丞の名が見えはじめ、現在は尾上流が先斗町の公式流派となっています。

温習会やおおざらえの外に明治の終わりから長唄を中心とした技芸研究を目的とした千代榮会や、大正には福富師匠の主宰の元に鳴物連が集まった先斗町紫紅会というのもありました。また義太夫が盛んで義太夫芸妓も羽振りをきかせていたといいます。

昭和初期の先斗町に戻ると、松川二郎は昭和四年刊『全国花街めぐり』で、京の遊びは祇園に止めをさすものの、これは余ほど祇園に馴染があってのこと、松川自身も新鋭気風の先斗町に足が向いたようです。

そして当時の代表的芸妓として湯口吉枝、長谷川卯の子、中川市龍、高野市弥、三上喜久弥、浅田市代を挙げ、娼妓は居ないと記しています

高谷伸は同年の技芸倶楽部で『全国花街めぐり』を全国の主要花街をほぼ把握した著述を今まで類例のない著述と推奨していますが、先斗町の代表的名妓として、美代、筆香を洩らしている、少数だが娼妓もいると苦言を呈しています。

丁度この頃、先斗のカラーが革新的なイメージに定着していくのですが、これは取締りがこの町の生え抜きであった出雲房二郎から寺井徹郎に映ったことで鮮明になりました。出雲房二郎が生まれたのは先斗町の著名な貸座敷であった瓢亭で明治二十八年の鴨川踊再興から百万円近い負債を双肩に築きあげた洋装歌舞練場まで四十年に渡り先斗町を取締りとして纏め上げてきた人です。一方寺井徹郎は遠州出身で、その進取の気質が積極的な諸政策を生んだと田中緑江さんは書いています。昭和四年五月十五年、鴨川踊りに英国グロスター公殿下が観劇し、寺井徹郎は殿下と握手し、先斗町一同大感激、大いに自分の新鋭策の力となったことでしょう。


by gionchoubu | 2014-08-12 15:57 | 先斗町 | Comments(0)

先斗町ぞめき 八



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木造の先斗町歌舞練場


鴨川踊りの再開は明治二十八年の先斗町歌舞練場の落成を期に、第十三回が催されました。この建物は間口十軒、奥行十五軒半、翆紅館と名づけられています。この間、明治二十三年には祇園甲部、先斗町、宮川町芸妓が北垣国道知事に対して市税徴収不服訴訟が大阪控訴院により却下、二十六年にも先斗町の芸妓が減税を請願、却下されています。(京都地方労働史)

明治四十三年の鴨川をどりのパンフレットを見ると、この年の貸座敷は東側(鴨川側に61軒、西側に91軒の合計152軒、芸妓188人、義太夫芸妓20人、娼妓8人、伯人19人とあります。白人は玄人に対しての素人、転じて私娼を指したものでしたが、嶋原ではこのころでは太夫の次位(以前は天神と唱えていました)の女のことを言ったもので、嶋原より出稼ぎをしていたものとおもわれます。


大正四年発行の『京都府誌下』によれば大正二年,貸座敷178、芸妓221、娼妓30とあります。


この頃、松竹が鴨川踊を東京歌舞伎座で一週間興行を計画、一列車をチャーターし、上野の精養軒を借り切り寝泊りして連日満員にしたという快挙もありました。

大正十五年の技芸倶楽部では、取締りと鴨涯女紅場の場長が出雲房次郎、貸座敷数169軒、

石屋町  芸妓1人
橋下町  芸妓7人
若松町  芸妓36人 舞妓1人 義太夫芸妓3人 娼妓2人
梅ノ木町 芸妓15人      義太夫芸妓2人 娼妓4人
松本町  芸妓21人 舞妓3人 義太夫芸妓3人
柏屋町  芸妓3人       義太夫芸妓1人
鍋屋町  芸妓43人 舞妓1人 義太夫芸妓4人
下樵木町 芸妓83人 舞妓2人 義太夫芸妓7人 娼妓15人
材木町  芸妓46人 舞妓4人 義太夫芸妓2人

芸妓合計253人、舞妓11人、義太夫芸妓22人、娼妓21人


by gionchoubu | 2014-08-11 18:36 | 先斗町 | Comments(0)

先斗町ぞめき 七

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明治十一年に出版された大西亀太郎の『都の花競』(京都市立右京図書館所蔵)は京都の花街の芸娼妓の住所、年齢、本名まで載った名簿で、これにより当時の先斗町の芸妓、舞妓、義太夫芸妓、娼妓数を町別に記すと

下樵木町 芸妓29人 舞妓9人 義太夫芸妓2人
橋下町  芸妓2人  舞妓1人         娼妓1人
若松町  芸妓8人  舞妓2人 
梅の木町 芸妓3人  舞妓2人 義太夫芸妓2人
松本町  芸妓5人       義太夫芸妓2人 娼妓8人
栢屋町  芸妓1人
材木町  芸妓6人  舞妓2人 義太夫芸妓1人 娼妓1人
鍋屋町  芸妓6人       義太夫芸妓4人 娼妓3人

合計芸妓60人、舞妓16人、義太夫芸妓11人、娼妓13人
芸妓、舞妓、義太夫芸妓の合計は娼妓数をはるかに凌ぎ、先斗町が芸妓本位の花街であった事を如実に物語っています。
年齢でいうと舞妓が十三歳〜十九歳、芸妓は二十台前半が多いものの十四歳での芸妓もいました。義太夫芸妓はその三味線の形態から太幹とも呼ばれ、浄瑠璃を座敷で演じるのを専門にしたお姐さん達で、祇園でも大連と呼ばれ非常に発言権をもったといいますが、戦後、義太夫自体が下火となり、昭和四十年台後半より京都でも殆ど見かけなくなりました。宮川町や大坂の堀江は美人義太夫芸妓で名を馳せました。

明治十五年には芸妓の数も余ほど増えたと見え、鴨川踊りも前年より出番一組増やして五組にしました。

明治十九年布令にて五業取規則を発布されたのを期に四条下がるの斉藤町が先斗町よりはずされ、橋下、若松、梅木、松本、柏屋、材木、樵木、鍋屋の八町が先斗町区域になり、先斗町の組合制度は取締一名、福取締一名、事務掛四名、筆生二名、用使二名、検徴隠婆役一名、同助役一名、線香番二名、帳合一名、用使六人の組織になりました。ここで言う五業というのは貸座敷、尾形小方、引手茶屋、紹介人、娼妓の事です。

鴨川踊りは明治十七年より明治二十七年まで休止しますが、これは経済不況が影響したもので、収支の賞も出ないのに、雨が降っても会場の鳥須沙摩の図子までかよわねばならぬ、出演者より散々小言が出たのが大きいようです。

明治二十八年刊『京都土産』によると、この年の先斗町には貸座敷132、芸妓139人、娼妓56人、屋形27軒、引手茶屋五軒、著名貸座敷として岡千賀、藤村屋、梶亭など16軒、名妓として村岸小岸、桐村市福、碓井すて等29人を揚げています。屋形は置屋、引手茶屋は一般に妓楼に行く前に芸妓を呼んで遊ぶ所です。




by gionchoubu | 2014-08-10 12:59 | 先斗町 | Comments(0)

先斗町ぞめき 六

第一回の鴨川をどりが行われたのは、当時先斗町に適当な会場が無く、その開催を四条御旅北入る烏須沙魔(うすさま)の図子東側の寄席、千代の家に求めましたが、ここも狭く(席内は間口4間、奥行き十七間)踊子十二名、地方七名、小鼓二名、太鼓一名、二名を三組作り、三月毎夜交代で出演しました。

この時の先斗町の踊りは篠塚流が担当しており、当時、その前年から行なわれた祇園が、都をどりの成功の功の報酬として篠塚流を追い出す形になりましたが、基本京の踊りは上七軒も、宮川町も、嶋原も篠塚流でした。

踊りは篠塚文三、三弦は杵屋六三郎、鳴物は杵屋万蔵が担当、演目は「雲井の庭」で勧業場町横井雅頌の作とされています。
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               節分に、八坂神社で豆まきをする先斗町の舞妓さん。

明治十年には、仙洞御所のお庭の醒花亭で京都の花街の芸妓が売茶をしました。この時に考案されたのが立礼式で、今の五花街の踊りのお茶席に引き継がれています。

都をどり、鴨川をどりのお茶席で、祇園甲部と先斗町の舞妓のみが嶋原の太夫ばりに片側の赤襟を折り込んで見せています。これは、嶋原の太夫は御所の出入りを許されていた、普段赤襟を返しているのは禁色の赤を身につける事を許されていることを誇示している(実際嶋原太夫が御所に入った事実が有る訳ではありません)という俗説を踏襲していると思うのですが、何故この二花街が赤襟をかえすのか、どなたか教えていただけませんでしょうか?

私はひそかに、この時御所で抹茶の接待をした花街こそが祇園と先斗町で、御所の出入りを許されたことを示したのだと考えています。

明治五年当時の貸座敷は百八十六軒で維新を期に娼妓本位から芸妓本位の花街に変貌を遂げました。

明治六年、先斗町でも女工引立会社設立の許可を願いでます。これは明治五年、新政府による「芸娼妓解放令」のあと、行き場を失った芸娼妓に技能を身に付けさせようと、強く花街側にその設立を求めたもので、京都では同年二月嶋原、同三月祇園で開設されました。

授業内容は槙村正直が自ら発案し、着物一般を扱う縫物局、小袖綿などを扱う綿積局、巾着などを扱う莫大小局、糸繰局ですが先斗町は土地が狭いので、祇園では加えられた養蚕、製茶は実行されませんでした。維持費は半分は府庁が持ちました。同七年布令で女工引立会社が女紅場(にょこうば)と改称されましたが、遊所の場合、実質茶技、諸芸を学ぶ場所となりました。


by gionchoubu | 2014-08-09 12:45 | 先斗町 | Comments(0)