花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

プロフィールを見る
画像一覧
通知を受け取る

カテゴリ

全体
上七軒
遊郭・花街あれこれ
先斗町
宮川町
ねりもの Gion Nerimono
舞妓・芸妓
祇園東
五番町
雇仲居
遊廓、花街の類形
京都の花街・遊廓
亡くなった滋賀の遊郭
五条楽園
私娼
島原遊郭
祇園
パンパン、赤線
島原、輪違屋太夫 賛姿語録
*リンク
未分類

以前の記事

2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月

お気に入りブログ

最新のコメント

> 今紫 改 文車さん ..
by gionchoubu at 11:47
花街ぞめき様 お久し振..
by 今紫 改 文車 at 17:02
> narahimuro..
by gionchoubu at 11:05
花街ぞめき、いつも興味深..
by narahimuro at 21:28
> きようすけさん ..
by gionchoubu at 11:54
島原どう筋の大店K旅館は..
by きようすけ at 14:55
> きようすけさん ..
by gionchoubu at 11:31
記事の定義によるとかつて..
by きようすけ at 09:04
記事の定義によるとかつて..
by きようすけ at 09:04
> tourisugar..
by gionchoubu at 18:06

メモ帳

最新のトラックバック

美は幸福を約束するものに..
from dezire_photo &..

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

米子灘町遊郭 一
at 2018-10-16 11:09
とし夏菜、ふく美、とし桃、美..
at 2018-10-13 14:52
宮川町、とし純、とし夏菜、と..
at 2018-10-12 11:16
ふく恵、小凜、君友、富美珠、..
at 2018-10-11 15:59
とし輝、とし結、とし愛、とし..
at 2018-10-10 11:23

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
近畿

画像一覧

カテゴリ:宮川町( 27 )

とし夏菜、ふく美、とし桃、美恵菜、とし花

f0347663_14375231.jpg
                 2013 宮川町、とし夏菜
f0347663_14392037.jpg
              2013 宮川町、芸妓 ふく美、舞妓 とし
f0347663_14455930.jpg
                  2013 宮川町 美恵菜
f0347663_14482128.jpg
                   2013 宮川町 とし真菜
f0347663_14493401.jpg
               2013 宮川町 芸妓 とし花、舞妓 とし

by gionchoubu | 2018-10-13 14:52 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町、とし純、とし夏菜、とし花、たね寿、とし輝、とし桃

f0347663_11035104.jpg
                   2012 店出し直後のあどけない、とし純さん。
f0347663_11063971.jpg
                   2012 とし夏菜さん
f0347663_11082964.jpg
                2012 芸妓、とし花さん、舞妓、とし輝さん
f0347663_11103287.jpg
                2012 芸妓、たね寿さん、舞妓、とし輝さん
f0347663_11120688.jpg
                2012 店だし直後でいつもおぼこい、とし桃さん

*前回まではニコンD40でしたが今回よりニコンD7000です。

by gionchoubu | 2018-10-12 11:16 | 宮川町 | Comments(0)

ふく恵、小凜、君友、富美珠、君綾、とし真菜

f0347663_15540866.jpg
                  2011 宮川町、ふく恵、小凜
f0347663_15551135.jpg
                  2011 宮川町、君友、富美珠
f0347663_15571122.jpg
                   2011 宮川町、君綾
f0347663_15582145.jpg
                   2011 宮川町、とし真菜

by gionchoubu | 2018-10-11 15:59 | 宮川町 | Comments(0)

とし輝、とし結、とし愛、とし夏菜、ふく里

f0347663_11160885.jpg
                        2010年 宮川町、とし輝
f0347663_11305981.jpg

2010年 宮川町、とし結さん
f0347663_11194866.jpg
2010年 宮川町、とし愛
f0347663_11204766.jpg
2010年 宮川町、とし夏菜
f0347663_11352672.jpg
2010年  宮川町、ふく里

by gionchoubu | 2018-10-10 11:23 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町 ふく里、とし愛、富美苑

f0347663_13223054.jpg
2010年 宮川町 ふく里さん

f0347663_13225227.jpg
2010年 宮川町 とし愛さん

f0347663_13285253.jpg
2010年 宮川町 富美苑さん

by gionchoubu | 2018-10-09 13:28 | 宮川町 | Comments(2)

宮川町ぞめき その十一




f0347663_12572555.jpg

          2008年の画像です。翌年か二年後に上演中の撮影禁止になりました。

明治五年京都で博覧会が催され、その附博覧会として京都府から祗園の都踊、先斗町の鴨川踊、下河原の東山踊、宮川町の宮川踊を命じられています。都踊、鴨川踊、東山踊の記録は残っていますが、宮川踊の番付や詳細も噂も何もないので、田中緑江さんは実際は行われなかったのではないか、と書いており私も掛け声だけで終ったと思います。


宮川町の歌舞練場は大正五年四月に落成、昭和十九年に戦時体制で大阪砲兵工廠の皮包工場になり、終戦を迎え昭和二十年十月米軍のダンスホール、キャバレーに改装、そして二十五年に京おどりが始りました。

昭和三十二年十月五日の京都新聞で「秋のおどり対談」が楳茂都流家元で宮川町の踊の師匠で京おどりの振り付け担当者の楳茂都陸平と元映画の演出家で上七軒歌舞会顧問として舞踊劇などを演出していた石田民三の間でなされています。

宝塚歌劇の“ジャブジャブコント”や大劇の踊りやレビューも演出する陸平は花街の踊りについて

「芸妓の踊りはあくまで芸妓の踊で、レビューになってはいけないというのが私の持論です。芸妓は芸妓らしい踊りをしなければならない。レビューガールや女優じゃないのですから。」

「私は花やかで、色気がなければならないと思っています。内容、表現にこの花やかさと色気がほしいですね。舞踊劇にしても役者のと、芸妓との相違はこれでしょう。」

そして「芸術づいてはダメですよ。」

レビューとは踊りと歌とを中心にコントを組み合わせ、多彩な演出と豪華な装置を伴うショーでパリが起源となります。

京おどりは当初から群舞の踊りに定評があり、今もフィナーレを飾る三世今藤長十郎作曲の宮川音頭が絶品で私も毎年見させていただいています。

専門的な事は分かりませんが、最初は少人数で始められプロローグから始り、唄に対し動きがシンコペーションになって部分がアクセントをつくりいつも感動します。

昭和二十九年の第五回の最後は第十二景「扇流し 末広模様」という長唄がフィナーレです。

翌年の三十年の第六回の第十一景「彩る錦」という題で、現在の宮川音頭が別の題名で初めてフィナーレを飾ったと思います。なぜなら他の歌詞は全く違うものの「国へ土産は都紅、納豆、八ッ橋、みすや針、すぐき、柴付、五色豆、みやげばなしは、みやげばなしはヨーイヨイヨイ京おどり」と現在と全く同じ歌詞が最後の歌詞で歌われています。

翌年の第七回に初めて第八景で「宮川音頭」のタイトルになりましたが、国へ土産は都紅〜の歌詞を含め現在の歌詞は全く出てきません。。

この後も宮川音頭の歌詞は一定せず、現在の歌詞になるには長い時間を要しました。

振り付けは楳茂都陸平です。

f0347663_12253978.jpg
                    宮川音頭の始まりです。
f0347663_12251290.jpg
f0347663_12204526.jpg


by gionchoubu | 2018-09-24 12:42 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町ぞめき その十

f0347663_13001257.jpg
         舞踊「末広がり」宮川町芸妓、高木叶乃、馬場若瀧 大正十三年

昭和二十九年に文芸春秋新社から出版された『風流抄』船橋聖一著に赤線時代の宮川町の事が載っています。

芸者屋や娼妓置屋は小方屋(こかたや)と呼び、芸妓の花代が一時間330円で先斗町より少し安い。娼妓(戦後娼妓は制度上ありませんので宮川町では女中と呼ばれていました。)は一時間385円とあります。

筆者は、お連れの写真家と、当時の組合長が経営していた遊嬉楼に揚がると、娼妓が入る小間でなく、只散財するだけの散財部屋に通され、芸妓、娼妓の会長、副会長に会っています。

芸妓では年菊、よし子、きん子そして十八才の舞妓、年祐に合い、年祐は姉さんに「先生に東京に連れていって貰うて、女にして貰いなはれ、」などと本当か冗談か言われています。

副会長の娼妓は看護婦さんか家政婦さんのようで、頽廃的なところがどこにも無いという印象を聖一は持ちました。

宮川町の中には亭主持ちの娼妓もいて、朝の客を送り出すと、着物を替えて、自分の家へ帰って行き、夕方までは女房役を務め、夜になれば廓に戻りました。亭主は戦争出で傷を受けたり、あるいは長い病人で、女房の非常手段を認めざるを得ない人達でした。

『京の花街』渡会恵介著によると、この旧習はこの著書が発売された昭和五十二年ごろも続いており、芸妓ばかりの“芸”の町と化した宮川町には所帯持ちが多く、芸妓の約八割まで“家”を構えていているが、結婚しているわけでなく“所帯主”という意で、月二回の休日に、日頃たまった雑用を一度に片付けている。

宮川町の特徴は芸妓でも、娼妓でも五日働くと三万円だけは信用金庫から貸し出すことになっており、日歩は三銭五厘、年利で一割二分との事でした。

昭和二十八年には大阪の南地の名物であった芸妓の宝恵籠行列が、正月の宵えびすで宮川町の芸妓を載せ市内を周りました。。これは昭和三十六年の阪急地下鉄工事がきっかけで無くなりましたものの、現在東映の女優さんが乗り伝統は続いています。

昭和四十四年に学校法人東山女子学院が発足し、宮川町の芸・舞妓は全てここの生徒で、毎年一月七日の始業式を“技芸初め”と唱えました。初代の校長は舞いの師匠である楳茂都陸平で、芸能化・社会科の二部制をとり、社会科では英会話なども取り入れました。外国人の花代が二倍と決めてあったのも外国人客を意識したものと考えられます。

お茶屋の駒屋の先代も先進性のある方でGEISYA HOUSEで売り出したこともありました。

この駒屋と親戚の石初が現在でも宮川町の双璧になります。



by gionchoubu | 2018-09-20 13:02 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町ぞめき その九


f0347663_11235895.jpg

                    宮川町の路地

大正の初期から昭和の始めまでぐらいで花街、宮川町がたいへん賑いました。

大正の中頃には芥川龍之介もよくこの町で遊んだようです。


宇野浩一は「芥川龍之介―思いだすままに―」の中で昭和九年に龍之介に誘われて宮川町に行ったことを回顧しています。

龍之介は慣れた様子で最初に先斗町により、そのあと宮川町で宇野浩一は龍之介の手配で一泊することになり、事の顛末をしたためました。

其処には私の龍之介像とかけ離れた姿が描かれていました。興味の有る方は宇野浩一全集でどうぞ。

宇野浩一は当時の宮川町の様子を

“宮川町の茶屋は、どの家も、三階だてで、しかも、一階も、二階も、三階も、みな、細目の格子づくりである。
それらの家家は、両側に、すき間なしに、たっている。それに、町幅は五六間であったから、私は、宮川町に一歩いれた時、北から南へまっすぐに通っているその五六間幅の道の両側に、一階、二階、三階、と、それぞれの高さの、細目の格子が、両側に、一枚の塀のように、ずっとつづいているのを見て、思わず、あッ、と、心のなかで、叫んで、立ちどまった。

一と口にいうと、それは、ありふれた形容であるが、壮観であった。”

又、京大の教授が「遊ぶんだったら宮川町へ行け」といったことがあるそうで、当時の宮川町は花街の要素が非常に強く、それに芸妓と遊んだ後、お客の要求によっては娼妓が相手になるので一般に芸妓の身持ちは硬かったといいます。

それだけに古老の話によると「宮川町に行った」と親に言えばあまりしかられなくてすんだそうです。

日本が国際連盟を脱退して、中国で関東軍が南下を始めた翌年の昭和九年七月八日、歌舞練場に国防婦人会宮川町分会の発会式が挙行され、二十六日から三日間防護演習が行われ、宮川町歌舞練場は新道分団の配給本部に充てられました。

戦時中は一億総決起の言葉で産業動員にかけられる者もあり、数もへりました。また、芸者遊びが色眼鏡で見られたので娼妓に重点がおかれ、戦後の一時期、宮川町は大正、昭和初期の芸者の町としてより接客婦の町と一般に見られるようになりました。

昭和三十二年、同町には二百五十三業者、接客婦二百六十二人、芸者百二十五人と府下十三遊郭中最大の陣容を誇り、水揚花代は昭和三十二年で一億八千九百七十万円に上がりました。

ちなみに当時の接客婦の場合を見ると一時間の花代六百五十円のうち二百五十円が接客婦の取り分で。置屋百円、揚屋二百四十円、税金三十九円、組合二十一円の分配で、月収平均四万三千二百三十八円で、ちょっとした会社の課長クラスの月給並みでした。内半数は前借金がありました。

f0347663_11242255.jpg



by gionchoubu | 2018-09-17 11:25 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町ぞめき その八

f0347663_12145276.jpg

昭和7年110号『技芸倶楽部』によると京都市内の遊郭でダンス芸妓が始めて生れたのは宮川町ということです。ダンス芸妓が生まれたのが十数年前と書かれていますので、大正の十年代になるのでしょう。

巷にはダンスホールが溢れ、銀幕の映画女優の人気に対し、一番危機感を持ったのが花街の人達であったのは容易に想像できます。

京の花街のダンス芸者は上七軒と宮川町以外では先斗町が少女歌劇団までもっており、で祗園乙部(現祗園東)でも神戸から教師を呼び、芸妓だけでなく娼妓にもダンスを教えていました。

その後宮川町のダンス芸妓は増えたり減ったり、さらに殆ど中絶したり、したようです。大正15年の名簿に立花ダンスという置屋があり、千代子、ラン子、ルリ子というダンス芸妓の名がみえます。

この大正15年というと1926年、最初のトーキー映画と言われるアルジョンソンの『ジャズシンガー』の封切りの一年前、フレッド・アステアは映画デビュー前、姉のアデールと舞台で踊っていた時代なので、いかに宮川町のダンス芸妓がモダンだったが分かります。

昭和32年10月29日の京都新聞によると、大正13年にモダンバレーを宮川町がチャイコフスキーの「くるみ割り人形」など数曲ピアノに合わせ派手に踊った事があり、きっかけは同廓の舞踊の師匠であった楳茂都陸平の指導という事で、同氏が宝塚歌劇団で舞踊の教師をしていた関係でした。

その後昭和になって、即席で芸者の免許が取れるのもあって宮川町にダンス芸妓が現れ、歌舞練場で着物を着た丸髷の芸妓が連日レコードにあわせ、「クイック、スロー、クイック、スロー」とやるものですから、珍しがりやが相当つめかけ、名物になったということです。

昭和5年には上記の立花屋に星子(せいこ)、ケイ子、洋子、エス子以外に大君という置屋もダンス芸妓を持ち、千鶴子、ハト子、そして一時マキノ映画の女優でバーレスク舞踏出身といわれたヒトミがおりました。

昭和7年ダンス教授の木村駒子の元、約三週間、歌舞練場の舞台を占有し、数十名の宮川町の芸妓に不眠不休の状態で稽古をつけ、主催宮川舞踏研究場主催『宮川町芸妓ダンス大会』が7月13日から15日まで午後六時から宮川町舞踊研究所が主催者として催されました。

プログラムは交響楽、ミニユウエット、刃、蒲田、満州娘、スペイン、ハンガリア、オリエンタル、森の暁、花売娘、セノオオリエンタル、メバエ、鶴亀、カッポレ、ボルガノ船頭、出船、小波、大波、くるかくるか、越後獅子、波の精、ラッキーセブン、トロメライ、影を慕いて、アイラシキワルツ、カスツチュームボール、興国行進曲

衣装は全部松竹衣装部借り入れ、借り入れ料だけでも壱千余円、出演者五十余人、入場金壱円、大盛況で席は全て埋まりました。

昭和七年は1932年、アステアが華麗な動きを見せたミュージカル映画「トップハット」(1935)や大掛かりな仕掛けが評判だった「巨星ジークフェルド」(1936)

以前となり、特にフィナーレの興国行進曲のスケールには只々驚かされるばかりです。

このダンス大会の後援が宮川町長唄むつみ会、義太夫芸妓に長唄にダンス芸妓、古(うにしえ)を尊び時代の最先端をいく姿は今も健在、二年前の「京おどり」では出演者にピコ太郎芸妓のパフォーマンスがあり、私は拍手喝采でしたが、大概の観客の方は何が起こっているのか理解できていない様でした。

f0347663_13191458.jpg
                 すべてが宮川町の芸妓です。     

 



by gionchoubu | 2018-09-14 13:13 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町ぞめき その七

f0347663_14465032.jpg
               ふく恵ちゃん(今回の画像はずーと以前のものです)

宮川町の踊りの流派はもともと篠塚流で、文久三年生れの原たかは十才頃から竹内みつに稽古をつけてもらい宮川町の師匠になりました。竹内みつは篠塚流三代目の文三の直門だった人です。

藤村東三も宮川町松原上ルに住み宮川町の女達を教え評判が良かったといいます。

宮川町で最後に篠塚流を教えたのは玉うのと云う師匠で明治の終わりごろまで教え、その後上七軒で師匠になりました。

その後宮川町では舞踊会の大家、楳茂流(うめもとりゅう)の開祖である楳茂都扇性の二世を専属舞踊教師とし、その後息子の陸平が師匠となりました。

陸平はもともと宝塚歌劇団で舞踊の教師をしていましたが、父の扇性が宮川町の師匠だったので、これが縁で其の後長きに渡り宮川町を指導しました。

楳茂都流は幕末鷲谷正蔵が御所の大橋の局より教はり、子の将曹に伝え自ら今様風流舞楳茂都流を起し扇性(初代)と名乗ったのが起源となります。

大正十五年の『技芸倶楽部』を見ると、楳茂都美彌、永井ます、上原八重、楳茂都富佐が舞踊科の師匠で、その他浄瑠璃科、鳴物科、長唄科、清元科、常磐津科、抹茶科、裁縫科がありました。

当時宮川町というと座敷で義太夫のさわりを語る義太夫芸妓が有名で、太芸者(ふとげいしゃ)と呼ばれ、最盛期に八十人の太芸者がいたといわれます。大正十五年には、近江徳に、うた助、上久千代に、三八、八助、橘に初之助、大初に富助、亀久に好介、下今井に友之助、よし梅に丸之助、新谷に龍八、後谷に○助今も宮川町の大看板のお茶屋、石初にも染八という義太夫芸妓がいました。

お気づきでしょうか?義太夫芸妓は全て男名がついています。これは全国共通の事で、女の色香を売るのでは無く、芸を売るのだ、という心意気といわれています。

昔花街の子供たちのうち、美しく、芸が好きなものは舞妓から芸妓に、気のよくつくものは仲居に、そして芸の覚えがいい妓は義太夫芸妓を目指したといいます。

宮川町の主な義太夫は三輪会という組織を持ち、三輪会に属さない義太夫が大正十五年に幼声会を結成し浄瑠璃会を行いました。

昭和七年七月、芸妓四百五十余、娼妓三百三十余名、御茶屋は三百余で、遊嬉楼、福山楼、明治家、平井、大和屋、西秀などが代表的な家でした。


f0347663_14520122.jpg
                      菊夕さん
f0347663_14530125.jpg
                     富美苑ちゃん
f0347663_14544941.jpg
                     富美苑ちゃん
f0347663_14555538.jpg
                     ふく里ちゃん
f0347663_14572431.jpg
                     ふく尚さん


by gionchoubu | 2018-09-11 14:50 | 宮川町 | Comments(0)