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カテゴリ:亡くなった兵庫の游所( 32 )

尼崎 神崎新地

尼崎 神崎新地_f0347663_10021500.jpg
 まるで収容所のような特飲店。現在もこの二階の庇の特徴を持つお宅が数軒あります。(人がお住まいなので画像はご遠慮させて頂きます。)

昭和33年2月17日の神戸新聞阪神版に尼崎の青線である初島、神崎両新地が出来たのが昭和30年で、市中心部の業者が辺鄙な場所に移ったと有ります。

神崎新地は戸ノ内町にあり戸ノ内新地の名もありましたが、日本最古の遊廓の一つとされる江口・神崎・蟹島の一つ神崎がこの辺りですので、過去の栄華にあやかる気持ちがあったのかもしれません。

神崎新地も初島新地も尼崎繁華街にあった特飲店が市民の要望と警察の意向で昭和30年に移されたのですが、そもそも何故一箇所でなく取締りが分散される二箇所なのか説明してくれるものは有りません。市内の特飲街の一つ難波(なにわ)新天地は大陸引上者と称したS氏が五千坪の土地を購入して開けたと神戸新聞にありましたので、あるいは相容れない二人の有力者がおり、統一が難しかったと私は見ております。

1956(昭和31)年6月24日のアサヒグラフを見ると、尼崎市の中心部にあった新天地や難波新地に約百三十軒あつた特飲店が、昭和27年に全国で一番きびしい売春取締りの市の条例が出来、市街地から遠く離れた初島と戸ノ内の二箇所に集団移転をすることになったとあります。

昭和30年7月5日、戸ノ内診療所新築完成、その後検診は週2回、保険職員が出張して診察にあたっていました。

不便な移転先では客足も減り自滅するだろうという市警察当局の思惑は外れ、二箇所とも大繁盛、ことに神崎新地は最初移転した73軒の他、新規開業6軒を加え商店なども合わせると200軒という一大繁華街となりました。神崎新地はもと飛行機工場跡を土地会社が買取り、業者に坪千五百円で分譲したものです。

神崎新地の構造ですが、まず毛斯倫大橋を渡り入り口の尼崎北警察モスリン派出所の次の筋、現在のガソリンスタンドのある左の区域です。中央道の右側は神崎新地組合事務所や診療所があるもの特飲店はなく旅館とか料亭でした。

神崎新地は現在の地図でみると、北も南も西も神崎川、猪名川に囲まれ、ほぼ隔離された区域になります。

昭和32年の地図で確認すると、旧町名として、戸ノ内中ノ割、島開、四天田とあり、そこには初姫、養気楼、竜宮、ほがらか、銀月、吉野桜・・・いかにもの店名が並びます。奥には神崎新地互助会事務所も見えます・

昭和33年2月17日の神戸新聞、阪神版をみると、売春防止法施行を前に、半分の32軒が旅館、12軒が小料理屋、他、バー、下宿、お座敷サロン、スタンド、やとなクラブなどに転業希望を出しました。

業者としては他の土地へ出て行く資金もないので、トルコセンターや映画館を作って大阪、尼崎の客を作ろうという計画もありました。

その後神崎新地は又資料が集まれば書いてみたいと思います。

尼崎 神崎新地_f0347663_10050201.jpg
        この側が特飲街です。
尼崎 神崎新地_f0347663_10055207.jpg
       道を挟んだこの側は旅館や飲食街


by gionchoubu | 2020-02-21 10:08 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

尼崎 初島新地

尼崎 初島新地_f0347663_14235852.jpg
          
尼崎 初島新地_f0347663_14245360.jpg
         戦後の貸座席に時々見られるスタイルです。

昭和33年2月17日の神戸新聞阪神版に尼崎の青線である初島、神崎両新地が出来たのが昭和30年で、市中心部の業者が辺鄙な場所に移ったとしています。

尼崎現代史年表によれば、これに先立つ昭和29年9月12日初島新地では地鎮祭が行なわれ、昭和30年3月初島・戸ノ内(神崎)新地、反対をよそに着々工事進行とあります。

30年10月4日の同紙には、難波新地、新天地、パーク街、浮世小路、杭瀬などの特飲店百四十四軒のうち先立つ半年の間この内二十五軒が初島新地に移ったとあります。

初島新地は阪神尼崎の一つ大阪よりの大物駅から歩くと20分程かかり、歓楽街としても大変不利な場所で、業者が市内に留まりたかったのは明らか、辺鄙な場所に移ったのではなく移らされたのでした。

これは尼崎市内の四警察が4月から、市中心部にあった特飲店にて連続的に売春取り締まりを強行し、市はその後半年で連日のように取締り、市売春取締条例違反検挙を193件挙げ331人検挙しました。

9月には尼崎市中心に150軒あった特飲店の内、元に居座るのは18軒、警察は9月30日にこれら残留者に対して営業停止を勧告したのです。

上記の新聞紙上によると、初島新地組合(59軒、約230人)は昭和33年1月、尼崎中央署に、新地組合を二月末日で解散し、3月中には転業する事などの誓約書を出ましたが、七業者が神田中通二丁目のミス東京横の新店舗を買い取り開業予定であるとも書かれています。

業者にとってみれば、警察の圧力で初島新地に移ったものの、売春防止法施工で、4年経たずに廃業、転業を迫られた訳で、到底そのまま受け入れることは出来ませんでした。

さて、尼崎図書館所蔵の昭和34年地図によると初島新地は南初島町7,8、10番地で、時代は転業・廃業・偽装の真っ最中の様子が読み取れ、旅館として福助、春月、花屋、一二三など11軒、スタンドが奴、ひさご、カドヤなど10軒、料理屋、食堂4軒、バー2軒、青線時代を彷彿させる一力、初島楼、金波、つたのや等30軒ほど、そして組合事務所2軒、初島温泉あとは氷屋、アパート、理髪、パーマなどになります。

正面側には青線業者が無く、表からは隠れた仕組みになっており、裏は神崎川で遮られています。

その後の様子をゼンリン昭和43年の地図で確認すると、旧初島新地の区域で上記の業者と同じ看板で営業している所は殆どなく、富士乃屋、大黒楼、お染め、松竹梅、ことぶき、楽園、大鵬、さゆり等々業種が分からない名前で埋めつくされており、新地時代より多くの店名が書かれています。

そしてゼンリン昭和52年の地図では喫茶店数店あるもの殆どが建設会社系、工業系や個人宅の名前に替わっているので、この間当局の力学が働いたのは間違いない所です。

この辺りの事情は後日明らかになれば再度挑戦したいと考えます。

尼崎 初島新地_f0347663_14255818.jpg
尼崎 初島新地_f0347663_14262703.jpg
                人の気配はありません。
尼崎 初島新地_f0347663_14272219.jpg
                こちらも閉められた感じ
尼崎 初島新地_f0347663_14282421.jpg
               右上の意匠も時々見られる物です。


by gionchoubu | 2020-02-16 14:29 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(4)

花街 柳原

花街 柳原_f0347663_11473277.jpg
画像の柳原天神社の隣に祀られている柳原稲荷神社は柳腹花街の信仰が厚かったとのネット情報があります。戦災でこの場所に移動しました。宝恵駕籠もしていたようです。


明治になり神戸では遊女は福原遊廓に限り、宿屋は小広町、神明町、逆瀬川町、東柳原町、西柳原町の五箇所に定められました。

これらの町は飯盛り女という名の非合法遊女や芸妓を置きながら、福原の様に正式に遊女屋渡世を願っておりました。

この頃、柳原蛭子神社の前に「柳原の門」があり、遊女屋があったのは此の門の外であったので、門外(もんそと)といえば遊女屋または柳原を意味しました。

柳原では、一つの場所で遊女と芸者と混在させているのは風儀を乱し、やがて柳原を滅亡させるだろうと危惧し、笹屋、奈良屋、西川、山秀、島米などのお茶屋と置屋が相談のうえ、芸者は其のまま柳原に残り、遊女のみ新川へ移しました。

是が柳原花街と新川遊廓誕生の由来です。関西では遊女無しの最初の芸妓のみの花街と見てよいでしょう。

柳原の花街が誕生した頃の明治12年の『兵神花柳細見』によれば、西川信席、淀川又七席、播本席、奈良屋佃席という五軒に分かれて、芸者は三十八人との事でした。

明治13年に柳原には芸妓88人舞妓2人がいた事になり、(『兵庫県統計概表』)上の数字と随分違います。

明治15年刊『豪商神兵湊の魁』に柳原町に六軒の料理貸席業があり、その中に淀川がありネット情報によれば、往年の映画解説者淀川長治さんの実家という事です。ちなみに『淀川長治自伝』に、実家が当時の花柳街の置屋だったと書かれていました。

その後明治27年に柳原淀検に芸者24人、柳原中検に26人の芸者が居たことになり席(せき)制度からより実用的な検番制度に移行した事が分かります。

神戸中検の芸妓が容色で東京の新橋と比較できるなら、柳原の芸妓は技芸を持って東京の柳橋に譬えられた、と言われたほど技芸の街でありました。

「柳原ながし」 作歌 宮本卯平 作曲 岡安喜太郎

兵庫柳原やなぎはないが 塗りの駒下駄素足にはいて 小褄なりふり柳腰
やんれ微風そよそよふけば 靡く心の恋もある

兵庫柳原やなぎはないが たそや行燈のかげ行く傘も 濡れて燕の飛び模様
やんれ春雨しとしと降れば 泣いて嬉しい夜もある

兵庫柳原やなぎはないが 欞子小窓にほのめく月の 影も艶めく四畳半
やんれ朧夜かすんで更りゃ 人にあかせぬ夢もある

兵庫柳原やなぎはないが みどり丈ながその黒髪を 添えて願いの朝詣で
やんれ暁しらしら明けりゃ 神に無理いう人もある 

参照:『福原遊廓沿革誌』『郷土研究 上方遊廓号』



by gionchoubu | 2020-02-04 11:50 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

兵庫 新川遊廓

兵庫 新川遊廓_f0347663_16411209.jpg
                   地図一              

明治十年八月兵庫の内、娼妓営業地域が福原町、西柳原町、東柳原町、北逆瀬川町、神明町、佐比江町に指定されました。

そして明治十三年四月上旬、嘉納治郎右衛門は土地繁盛の目的を以って新川遊廓設置の出願をし、許可を得て、明治十四年福原及び新川両遊廓の娼妓を一等と定めその他を二等娼妓としました。

新川遊廓誕生には、芸娼妓が混在していた柳原の花街が、遊女は遊女、芸妓は芸妓と区別し、芸妓のみ柳原に残し、遊女のみ新川に移したという裏事情もありました。

明治十五年『豪商神兵湊の魁』に新川開廓当初の大店として今在家町、貸席業として三邑楼と宮本楼が載ります。

さて明治四十二年に前書きが書かれた『花柳界 美人の評判記 神戸市内 西ノ宮 明石』に、兵庫新川遊廓の沿革概要があり、新川遊廓は薬仙寺の前の溝を埋め立て開店したが、明治二十年の頃、新出在家三丁目と南逆瀬川町(勢春楼所在地)に漸次移転した、と書いてあります。

移転前の新川遊廓の場所はわかりません。当時の薬仙寺の敷地は両地図ともずいぶん大きく、当時の門の位置も定かでないので、前の溝がどこか特定できませんが、今在家町のどこかのはずで、移転後のすぐ近くと考えられます。

明治十九年、柴田正編集による地図を見ると、遊所として兵庫に福原町、西柳原町、東柳原町、北瀬川町、神明町、佐比江町が無くなり今出在家町の西に新遊廓地と書かれています。(地図一)

この新遊廓地が移転後の新川遊廓です。明治二十二年の地図(地図二)には正にその場所に新川遊廓が載ります。

ただ他に移転したという記述は、いろんな文献を当たったものの見当たらず、明治二十年あたりの神戸又新日報を見ましたものの遊廓移転の記事を見つけることは出来ませんでした。

さらに新出在家町(新在家町はあります)の存在自体どこを探しても出てきません。これは今出在家町の誤記と考えれば辻褄は合います。

現在の南逆瀬川町1,2丁目は今出在家町より随分離れており新川遊廓とは考えられません。

『町名変更一覧表』に、昭和四十八年に今在家3丁目の全てと南逆瀬3丁目の一部が今出在家町3丁目に変更とありますので、私は現在の今在家3丁目辺りが移転後の新川遊廓の場所と考えています。つまり薬仙寺から画像の今出在家小公園を含み、海岸線線辺りまでの区域と思います。県立工業高校の敷地もある部分含まれるはずです。(2月1日訂正)


とにかく兵庫の町名変更は、今出在家町は条例に1~6と書かれているが4~6丁目は不明・・・などと書かれていたり、変更に次ぐ変更があり尋常沙汰ではありません。

『公娼と私娼』内務省警保局が昭和六年二月に出した資料でも新川遊廓は今在家町と南逆瀬川町になっております。貸座敷二十二軒、娼妓は二百九十四人居ました。

さて、新川遊廓の様子は、

明治二十二年三月に、宮本楼、繁栄楼、新川楼、金栄楼、若山楼、柳原楼、小西楼、豊栄楼、藤原楼そして朝日楼の妓楼十軒に妓数六十三人がいたと記します。

明治二十二年七月二十八日の『神戸又新日報』に、新川遊廓の新川楼と金栄楼では、娼妓が張り店で椅子に腰掛けている、深夜一時、二時まで畳では夏は辛かろう、しかし椅子に腰掛けているので脚気に成らないか心配である・・・という読者からの要らぬお世話の投書を紹介しています。

深夜まで格子の中で客に愛想する娼妓さんの遣る瀬無い表情が目に浮かびます。

明治三十年『神戸みやげ』岡本郎吉著によると「神戸に遊廓二個所あり、一を福原、一を新川と云う、去れど新川は地も西南に僻し、且つ貸席業者も僅々十数軒に過ぎずして遊客の如き多くは水夫等にて別に記するまでのこともなければ遊廓として専ら福原のことのみ挙ぐべし」

と随分下に見られています。

明治四十二年の新川遊廓には勢音楼、第二支店、第四支店、第五支店、いろは楼(第二支店、第三支店)、繁栄楼、小西楼、宮本楼、新川楼、金栄楼、松栄楼、吉野楼、和田川楼、戎楼、松鶴楼、可祝楼、大黒楼があり114人の娼妓がいました。出身は伊勢が最も多く、次いで紀州の女が目立ちました。

昭和五年刊『全国遊廓案内』では貸座敷二十二軒、娼妓は約二百人、店は写真式、娼妓は居稼ぎ、廻しはとらない等と短く纏められていました。

新川遊廓の戦後の実態は何も出てきません。『神戸空襲体験記<総集編>』に昭和二十年三月十七日に新川遊廓辺りも空襲にあっておりますので、此の日に壊滅したのかもしれません。



『兵庫県警察史 明治・大正編』『神戸開港三十年史、下』『福原遊廓沿革誌』

兵庫 新川遊廓_f0347663_16401730.jpg
                  地図二

兵庫 新川遊廓_f0347663_16414547.jpg
                新川遊廓の南端


by gionchoubu | 2020-01-29 16:43 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

西宮 戸田町遊郭


西宮 戸田町遊郭_f0347663_11552888.jpg

大正十四年、市制施行で西宮市が誕生した祝いと思われます。左に立花楼、右に音羽楼の名が見えます。傘を差せば傾けないとすれ違えない狭さです。

兵庫県、西宮は西国街道と中国街道が走り、港町であり、酒が名産、全国のえびす神社の総本社である西宮神社まであるという、花街・遊廓が育つ条件が揃う日本屈指の土壌がったと言えます。

さらに奈良朝時代より徳川時代初期頃までの間、諸国の宿場で春を売った傀儡(女)くぐつ(め)の守り神であった百太夫まで祀られているとあれば、直接西宮遊廓との関連は無いでしょうが、游女に縁の深い土地と言えます。

江戸時代に飯盛女という宿場女郎もいたはずですが、はっきりとした記録は残ってないようです。

明治初年に虎屋・油七等の旅館が貸席業に替わるも、一年余りで禁止され、間もなく営業を許され、貸席業者の中には娼妓と芸妓の両方を抱えるものがありました。

明治十年、東の町、石材町、久保町、鞍掛町、馬場町、中の町、釘貫町に貸座敷ならびに娼妓営業区域が指定されました。

明治十二年に兵庫県として娼妓と芸妓の兼業(二枚鑑札)が禁止された頃、西宮に芸妓72人と舞妓が6人おり、貸座敷が東ノ町ほか2町に23軒、娼妓は80人いました。

これでは風紀上、取締上よろしくないという事で、明治四十年、六馬、田中、丸谷、京吉、京與等本町筋に有ったものや馬場町にあった業者を東は与古道筋、西は今在家筋に至る戸田町界隈に集合させました。

これが西宮戸田町遊廓の起源で、土地の人は裏町と呼んでいたはずです。

大正の末頃には本町裏通(通称裏町)に貸座敷39軒、娼妓355名、芸妓126名と19軒の芸妓置屋がありました。

昭和4年、西宮遊廓移転問題が起こり、廓内は移転派と反対派に分かれました。反対派は、移転先の集客の不安と、新建築の費用の負担の捻出問題等を市長に陳述しました。結局移転問題は立ち消えになった模様です。

芸妓は都司楼、三福楼、阪東屋、東亭、おきな、さし金、常盤、橋熊、ごまや、〇長、〇萬、等の料亭に入ったものと思います。

店は写真式、娼妓は居稼ぎ制、遊びは時間か通し花制で廻しは取りませんでした。

六月には裏町遊廓の東はずれの円福寺の愛染祭があり、町の主婦たちが遊廓を通ると塩を撒かれるくらい、女の人が敬遠している廓の通りを、この夜だけはオケンタイ(大っぴら)に歩いて愛染さんへお詣りしました。

裏町きっての大店であった、本町から移ってきた六馬楼の店先には、美しい花魁人形を飾って参拝客の目を楽しませた事もありました。

その後、戦災で全滅したものの、終戦後またたく間に復興、ただし昭和32年7月に115人いた従業婦は、33年3月には88人に減り、この月15日、西宮席貸組合は解散式を行い赤線時代を終えました。

参照:『猥褻風俗辞典』宮武外骨、『西宮町史』、『兵庫県警察史 明治・大正編』
『全国遊廓案内』、『西宮大観』、『酒都遊覧記』飯田寿作、浅田柳一著、『神戸又新日報』昭和4年2月9日の記事、『神戸新聞、阪神版』昭和33年3月15日の記事

西宮 戸田町遊郭_f0347663_12000370.jpg

             市政十周年、昭和十年の写真
西宮 戸田町遊郭_f0347663_12044539.jpg

        ほとんど消失していますが、ここが戸田町遊郭跡と確信しています。
西宮 戸田町遊郭_f0347663_12064051.jpg

大阪の瓢箪山稲荷神社に、裏町きっての大店の六馬楼が奉納した玉垣があります。
遊郭業者が自分の郭内以外の神社に奉納するのは大変珍しいと思います。ほかに大阪新町関係も祀られています。



by gionchoubu | 2020-01-22 12:14 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

真光寺前の笹屋の八重菊

真光寺前の笹屋の八重菊_f0347663_14572407.jpg
         兵庫津の遊廓跡めぐりで、何度も兵庫大仏に会いました。   

先日、天保の末期から弘化の初年に掛け(1840頃)、佐比江町、真光寺前、土手下(湊町)に引店が出来て非常に繁盛したと書きました。

引店とは、客の袖を引いて無理やりに遊ばす、チョンチョン格子より更に下等なもので、船頭や漁師などの遊び相手となり、女は毛饅頭と呼ばれました。

宮武外骨の『猥褻風俗辞典』によると、この毛饅頭は武蔵の国本庄町でも使われたようで、“「毛饅頭」とはここに解説しがたき猥褻の語義なるべし。”と書かれています。

さて引店が下等なら、中産階級以上の人は『割』又は『両掛』と称する芸、娼妓兼帯の女のお世話にありました。所謂二枚鑑札の女です。是は嘉永年間(1848~1853)に磯之町に現れ日夜繁盛、磯之町の娼家は殷賑を極めました。

ところが、文久三年(1861)に天領であった兵庫津を管轄していた大阪の与力勤番所から、突然お触れがで、佐比江町、真光寺前、土手下の三箇所の引店と磯之町の両掛宿を一箇所に柳原に集め遊女渡世を厳禁し、宿屋に業種変更を命じました。

しかし、女に多額の投資をしていた業者は結局、表面は宿屋であるが、実は日本全国何処でも行なわれていた様に、飯盛女の名目で女を留め置き、遊女業を勤めさせました。

当時の柳原の大店として、佐比江から西川、奈良屋、佐野屋、赤源、播重、公辰、山秀、土手下から住吉屋、竹の屋、真光寺前から笹屋、橋本、磯之町から明石屋、箔屋が引越しをして来て、西川と山秀は昭和になっても営業していました。

当時兵庫津で名を馳せたのが真光寺前の笹屋の八重菊で、其の頃の流行歌に

娼妓(おやま)買うなら真光前で、音に聞こえた八重菊買やれ、この妓匂いも色もある

と囃されました。柳原に移ってからは本名の小菊を名乗り全盛を続けました。

さて、そもそも与力勤番所がなぜ柳原に多くの宿屋を必要としたか・・・それは幕末の坩堝の中、幕府の軍勢が長州征伐に向かう際、幕府軍の兵士が泊まる宿屋が徹底的に不足したので、それに充当する為という、幕府存亡に賭けた事情があったからでした。

幕末の見逃された歴史と言えそうです。

これに先立つ二十年前、天保の遊所整理で大阪でも泊茶屋なるものが誕生しましたが、或いは裏にこういった力学が潜んでいたのかもしれません。

参照:福原遊廓沿革誌

真光寺前の笹屋の八重菊_f0347663_15022214.jpg
                真光寺


by gionchoubu | 2020-01-19 15:05 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

兵庫 佐比江遊郭

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         摂津名所図江

元禄九(1696)年の『兵庫津絵図』には佐比江(さびえ)を内海と記し、その岸が七宮神社の北に迫り湊口惣門の東にあった番所のそばまで海になっている様子が描かれています。

寛政八(1796)年~寛政十(1798)年刊行『摂津名所図絵八』に佐比江が載り「兵庫津にあり。此地は上方よりの入り口にして、常に賑し。茶屋・花魁(うかれめ)の家所々に見えて、琴・三味線をならし、旅客の袖をひく。」との説明がありました。

絵では、張り店で一人の遊女が三味線を弾き、もう一人は、当時の遊女の風として、自分が吸っているキセルを品定めしている遊客に渡している姿が見えます。

三味を弾き、床にも侍る、いわゆる二枚鑑札の妓女の姿です。

そして「兵庫髷紅おしろいの花の顔 佐比江といへど 日々に新し」と当時の俗謡がしたためられています。

『日本の髪形 伝統の美 櫛まつり作品集』京都美容文化クラブによると、兵庫髷は江戸時代前期の髪形で、兵庫の遊女から起こった「唐輪髷」の変形で、寛永(1624~44)頃に女性の髪形として普及し始め、寛文(1661~73)頃には遊女ばかりでなく、一般女性の髷としても見受けられるようになりました。

この髷の特徴は、頭頂部に輪を一つ作って根を結んだもので、「島田兵庫」「乱兵庫」「つくね兵庫」「立兵庫」等多くの種類があります。

ちなみに、この兵庫髷を横に倒したものが江戸期中期の横兵庫で、堅気の女性でなく、あだっぽく粋な女性に結われました。

その昔、雲上人が

「年を経て 濁りだにせず佐比江には 玉藻かへして今もすむべき」

と詠んだ佐比江町は、西国街道をすぐ南に控え、元禄の頃から酒楼、妓楼が軒をならべ、遊女が行きかう旅人の袖を引きとめ、弦歌さざめく中、兵庫髷に紅おしろいで、日ごと、夜毎に賑わっていたのでしょう。

天保前の遊所番付けで佐比江は五段中、上から二段目に顔をだします。

佐比江は他の遊所と併せ、幕末に柳原に移されたのですが、ことの繊細は後日に・・・

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         遊女の信仰を集めた猿田彦神社

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          佐比江町


by gionchoubu | 2020-01-08 11:33 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

兵庫の遊廓、女郎隣、真光寺前、磯之町

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長田港(女郎隣)
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                女郎隣
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駒ヶ林蛭子神社(女郎隣)いかなごくぎ煮発祥の地の碑

平凡社『兵庫県の地名』によると長田の駒ヶ林の地図にあった女郎隣(じょろかいち)という所に、大輪田泊の繁盛した頃遊女町があり、これが磯野(之)町に移り、さらに佐比江に移ったとの事です。


又、垂水に今でも遊女塚(宝篋印塔)があります。『播州名所巡覧絵図』に「俗云に云、建武(1334~1337)頃、筑前博多の商人竹村という物、江口(神崎)の遊女のために建てしとぞ、真実しらず、又一説に大阪の遊女下ノ関へ行に此海に溺死す、故に此塔云々」とありますので、ここに遊女町が有った訳で無いようです。

ちなみに、又一は京都の柳町二条を始め色んな遊廓作りに名を残す林又一郎の事だと思います。

延宝九(1681)年刊『色道大鏡』にはこの磯野町が日本遊廓総目、二十五箇所の第十四番目に摂津国兵庫、磯野町として載り、「兵庫の傾城町は、都を福原の京に遷されし以後より、少々出来初て、頃年にいたる。」と有ります。

ですから十三世紀の初め頃に女郎隣が出来たのでは無いかと私は思っています。

天保前の遊女町の順位を表した遊所番付けでは摂津は伊丹三本松以外では佐び江、しんこ前、兵庫磯之町が載り、これによると、上記の磯野町と佐比江は同時に二箇所として存在したことになります。

磯之町と佐び江は上から二段目、しんこ前は一番下の最下層の遊所になります。

『福原遊廓沿革誌』では宝暦(1751~1763)の頃から川中島といった今の新川薬仙寺の裏あたりに、芸者と遊女とを兼ねたような化粧の女がいて、客の招きに応じて座敷に罷り出て、お酒のお相もすれば、お閨のお伽したとしています・

さらに天保の末期から弘化の初年に掛け(1840頃)、佐比江町、真光寺前、土手下(湊町)に引店が出来て非常に繁盛したと書いてあります。

遊所番付けのしんこ前はこの真光寺前だと思います。

上記の磯之町、川中島、真光寺、又明治に出来た新、旧新川遊廓(新川遊廓は一度移転しています。後日とり上げます)は互いに非常に近く、全て海か新川周り、西国街道もこの区域を走りますので、遊所が非常に育ちやすい立地でした。


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                 磯之町
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                 真光寺前
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この地図の中に西国街道を中心として川中島、真光寺前、移転前の新川、移転後の新川、磯之町、土手下、佐比江、福原の各遊廓と柳原の花街がありました。全国屈指の遊所の密集地です。


by gionchoubu | 2020-01-04 12:01 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

花隈の花街

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町誌『花隈』に荒尾親成「花隈花柳界湛上記」が収録されており、それによれば、慶応三年神戸に居留地が作られたとき、神戸より兵庫地区の方に有力者が多く、県庁も兵庫にあり、そこから湊川、宇治川、鯉川(現在の鯉川筋)と三つの川を隔てた中央から離された場所の海岸に西洋系、清国系は鯉川と宇治川の間に居を構えました。南京町は当時の清国人の市場だった訳です。

明治十年西南の役で神戸が兵隊の輸送基地になったりして取引が盛んになり、商売上手で設けた清国人は遠く祖国に家族を置いたまま、花隈の地に家屋敷や別亭を作り二号さん、三号さんを置きました。

二号さん、三号さんの中に遊芸にいそしむ人がいて明治二十年頃から花隈が色町になったという事です。

花街の成立には色んな例がありますが、このパターンは初めて出会いました。

その後、明治二十三年に火事で花隈の妾宅の大半を失い、さらに明治二十七、八年日清戦争で有力華僑が本国に続出、旦那を失った女性達によって何軒かの待合や料理屋さんが営まれ、活気を取り戻した花隈花街は発展の道を歩みました・・・

はたしてそんな簡単に事が進むのでしょうか?という疑問も湧きます。

これに答えてくれたのが加藤政洋先生著『モダン都市のにぎわい 神戸の花街盛り場孝』で、伊藤博文が県令時代に住み込んでいたというある人物の別邸があり、伊藤が兵庫県を離れた後、ここが料亭(鳴松亭)として営まれ、この開業をきっかけに、花隈に隣接していた元町にあった花街の置屋や料理屋が徐々に移転してという経緯を示してくれました。

つまり複雑な花街経営の全てのノウハウはいとも簡単に元町の業者によってもたされたという事になります。

これと入れ替わるように元町の花街も無くなってしまいました。

そして第一次大戦後の好景気、三井、三菱、住友、川崎、鈴木の財閥を始め勝田、岡崎、山下、内田等の船成金、さては政界の大物旦那に育てられ超のつく格調高い、東京の新橋と並び賞された花街まで上り詰め、名妓を輩出しました。

花街はよい旦那がいてこそ一流になるのです。つまり置屋、お茶屋の花街とお客が作った作品だと私は思います。

政治家では伊藤博文、西園寺公、桂太郎、後藤新平らも常連、最盛期には料亭、貸席百五十軒、芸妓五百名と神戸一の花柳界になりました。

しかし誕生したのが遅かったにも係らず昭和四十年代には芸妓は六十人ほどになり昭和の終わりにほぼ灯は消えかけたようです。

それでも昭和四十年代に料亭は、阿らい、青葉、いさみ、魚善、上い、千鳥屋、長駒、とり源、豊福、服部、富士の家、まえ田、松の家、みつや、森本、わかくさ、すし仕出しの花隈成駒屋、貸席、福六などがありました。

呉服屋三軒、雇仲居紹介みつわ会、花隈検番、舞踊では花柳の師匠のお宅もありました。

先日若い神戸っ子に聞いたところ、花隈にあった花街の存在は、お母さんも含めてご存知ありませんでした。

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玉垣には花隈芸妓協同組合、播磨家、玉家、十四春、松葉などお茶さんらしい名前も刻まれていました。


by gionchoubu | 2019-12-24 16:18 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

姫路の白線と花街

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神戸新聞、昭和33年3月10日の記事「赤線は消えるが・・・」に、姫路署の調べによると市内の白線(ぱいせん)業者は東新地三十軒(従業婦六十人)山陽新地十二軒(従業婦三十人)白国、伊伝居周辺に八軒(同約四十人)が散在、別に街娼婦約三十人、ポン引約五十人がいる。

これらの業者は殆どが飲食店経営営業もしくは無許可で商売を続け従業員に客を取らせている。

とあります。伊伝居(いでい)は赤線梅ヶ枝の直ぐ南で歩いて五分ほどの住宅地です。さて、東新地と山陽新地はどこでしょう?

答えは一年後の神戸新聞昭和34年3月28日の記事「あれから一年 赤線の灯は消えたが・・・」にありました。

記事には「姫路の売春は生きている。“ただ北から南へところを変えただけだ”と姫路署の一署員はずばりいいきっている。

姫路市内で売春地帯として公然と活動しているのは山陽姫路駅の南、通称“南地”の一部と光源寺前町の通称東新地。南地は二十五軒、売春婦六十人、ポン引二十人、東新地は十八人、売春婦三十人―四十人、ポン引約十人と警察は推定しているが、いずれもスタンド、バー、飲食店にカモフラージュしている。

それに最近目立ってきた傾向は非常に組織化してきたこと。道路で客を引く女たちの周辺には必ず見張りがつく。

金払いの悪い客がわめけばどこかららか若い遊人風の男たちがドッと出て来てたちまち袋だたきにする。

女が警察につかまると至れりつくせりの差入サービスするなど暴力団のバックが白線をガッチリ支えていると姫路署はいっている。~略~」

山陽新地は南地の事だと思います。

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姫路の花街に関して情報は極端に少なく実態像は殆ど掴めていません。

明治十年、姫路は芸妓、舞妓の許可地域に定めらており、

兵庫県統計概表によると明治十三年に西魚町に芸妓56人、舞妓6人とありました。

姫路の歓楽街魚町通りの碑の文面です。

“江戸時代初めの西魚町は、魚屋が立ち並ぶ町でしたが、江戸時代中期以降、料亭や芸妓屋などが立ち並ぶ花街へと姿を変えました。

明治7年、姫路城内に日本陸軍が駐屯すると、この界隈はますます賑やかになり、大正時代には芸妓137名・舞妓19名が在籍しました。

今日では芸妓の姿をみることはできませんが、今でも多くの居酒屋などが立ち並び、朝まで賑わいが続きます。”

姫路市が出した『姫路百年』の盛り場慕情に

「ますます活気を見せる姫路の商工業に呼応するかのように、花柳界もにぎわった。福島楼や井上楼などの料亭や小料理屋が軒を連ね、検番も置かれた魚町は、姫路一番の盛り場としてにぎわった」とし、芸妓衆による姫路踊りや、昭和天皇のご成婚を祝い練り歩く芸妓の写真が載ります。

昭和30年代には魚町通りには柳の木や粋な板塀など花街の雰囲気が残っていたという事は戦前で花街は無くなったと推測されます。

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東新地
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                南地(山陽新地のはず)
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 同じ場所を反対から
                
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江戸期から続く森重さん


by gionchoubu | 2019-12-16 16:27 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)