人気ブログランキング |


花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る

カテゴリ

全体
上七軒
遊郭・花街あれこれ
先斗町
宮川町
ねりもの Gion Nerimono
舞妓・芸妓
祇園東
五番町
雇仲居
京都の花街・遊廓
遊廓、花街の類形
亡くなった大阪の游所
亡くなった滋賀の遊郭
五条楽園
私娼
島原遊郭
祇園
パンパン、赤線
島原、輪違屋太夫 賛姿語録
*リンク
亡くなった奈良の遊廓
亡くなった兵庫の游所
未分類

以前の記事

2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月

お気に入りブログ

最新のコメント

>ぞめき様 ありが..
by ignatiusmaria0319 at 17:02
> 文車さん 実は..
by gionchoubu at 11:51
> 文車さん TS..
by gionchoubu at 11:46
ぞめき様 暑中お見舞い..
by 文車 at 17:06
> こうざんさん ..
by gionchoubu at 19:28
本ブログを読んで、「芸能..
by こうざん at 22:42
> こうざんさん ..
by gionchoubu at 14:51
こんばんは、近江八幡池田..
by こうざん at 00:23
> こうざんさん ..
by gionchoubu at 17:59
gionchoubu様 ..
by こうざん at 00:24

メモ帳

最新のトラックバック

美は幸福を約束するものに..
from dezire_photo &..

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

加古川関根新地 四
at 2019-09-19 14:26
赤線、青線、白線、紫線
at 2019-09-15 11:18
加古川 関根新地 三
at 2019-09-12 11:43
加古川 関根新地 二
at 2019-09-08 11:00
加古川 関根新地と検番筋
at 2019-09-03 18:06

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
近畿

画像一覧

カテゴリ:亡くなった兵庫の游所( 9 )

加古川関根新地 四

f0347663_14232344.jpg
                関根新地近くの王子荘、昭和48年の住宅地図に載ります

「昨年の三月までは国鉄駅前の白線地帯、同市平野、関根新地の二ヶ所で売春が行なわれていたが、同法施行後関根新地十五軒の特飲店は料理、旅館に完全に転業、当時働いていた接客婦八十五人のうち十人ほど残って大半は帰郷したといわれている。(加古川署調べ)

しかしその実態について糟谷市婦人相談員は“せっかく帰郷しても世間の目は冷たく約半数は再び舞い戻り白線地帯に流れこんでいる。しかも三千円〜四千円の収入ではどうしても生活できず売春をしなければ彼女らはいきる道がない。”とその間の事情を物語っている

その方法は売防法の盲点をついたなかなか巧妙なもので、加古川署の話によると、酒を飲みながら相手と交渉し時間をみはからって旅館で落合うという方法を取っているという。

しかしそういった場合

一、 業者がピンはねする管理売春。

二、 恋愛感情によるものか―

三、 単純売春か―

この三つの認定は非常にむずかしいといれ、同法第四条にこの法律の適用には国民の権利を不当に侵害してはならない―と規定されているようにただ“怪しい”というだけでは取締りができず結局地味な張込み以外に方法がない。

それを裏書するように同法施工後検挙したのはわずか七、八件でいかに同法による取締りが困難であるかを物語っている。

しかし一番恐ろしいのは性病で昨年三月までの定期検診で十人近く発見されていたものが、その後全く野放しの状態。

市婦人相談所に持込まれた一例をあげると関根新地で働いていたA子さん(24)は同法施行後、市内の白線地帯に残ったが、性病が悪化したため業者が同相談所に相談して神戸の婦人寮に入寮させた。

ところがわずか一週間でまいもどってきたので、こんどは姫路の婦人寮にいれた。

これも長続きせずふたたび市内にもどり売春を続けており、最近やっと神戸の生田病院に強制収容させたという例がある。」

////////////////////////////////////////////////////////

それから19年後、昭和48年の『ゼンリン 住宅地図』で確認するとまだ旧関根新地には*三日月、*百万両、*にしき(錦)*大門、スタンド和、一竜、鹿島、カナリヤ、*新月、*第一文福、寿荘、クロバー、クラウン、スタンドソラ、松竹、*第二文福、スタンド園の名が連なっており、一体どういう生業をしていたのか興味はあれど実態は不明です。

尚、*は解散時の特飲店の店名と同じままで御商売されていました。

さらに昭和62年の地図を見ますとスナック和、スタンドすみれのみで面影も殆どなくなっていたと思います。



by gionchoubu | 2019-09-19 14:26 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

赤線、青線、白線、紫線


f0347663_11084126.jpg

                      姫路城

昭和33年2月21日の神戸新聞に「転廃へあえぐ売春業者」の記事があり昭和32年12月31年の兵庫県警調べの表があります。


赤線        軒数     従業婦

神戸福原     232     810

神戸二葉新地    42     102

明石新地      14      57

高砂新地       1       6

姫路梅ケ枝     16     110

姫路湛保       5      23

相生川尻       6      31

洲本        17      68

西宮戸田町     27     103

篠山八上新地    10      17

青線

春日野新地      9      30

尼崎初島新地    10      32

尼崎神崎新地    61     220

伊丹新地      65     305

加古川関根新地   17     102

姫路夢前新地    15      94

城崎新地      14      52

白線

神戸市内     279     890
阪神地区      59     190
摂丹地区       4       5
東播地区      42     105
西播地区      97     250
淡路地区      17      40
但馬地区      10      18

赤線に分類されている箇所の中、神戸二葉新地と相生川尻以外は全て前身に遊郭時代を持っています。

神戸二葉新地は昭和二十年の空襲で神戸福原、新川の両所が移って出来た特飲街として赤線は納得いきます。(『神戸市史 第三集 社会文化編』)

相生川尻もネット情報(出典は明らかにされていません)ながら、古い遊郭地の室津から業者が移ってきたとあり、しかも、朝日新聞、兵庫版に昭和33年2月11日に大島町の特飲街と書かれているので、赤線の辻褄はとれます。

ここで考えてみたいのは特飲街(特殊飲食店街)が赤線、飲食店の営業許可のみで娼家経営を行なっていた地区が青線 ,定説と言っていい赤線の定義です。

しかし昭和33年3月23日の神戸新聞の阪神版の『いさぎよく解散 伊丹新地』に伊丹新地特飲街と書かれており、当初十三軒の内、神戸福原や大阪の飛田の業者の誘致があったというので、伊丹新地が青線に分類され、相生川尻が赤線に入っている根拠が分かりません。伊丹新地は工場跡を買い取ったもので塀に囲まれており、六軒の業者が他の家に混じって経つ相生川尻(=大島)新地よりはるかに赤線らしい様相でした。上記の統計ではその規模は赤線・青線の中でも二番目の業者数を抱えています。

前回紹介した加古川関根新地も特飲街で、決められた敷地に15軒の業者がひしめき合って建っており、解散式には加古川警察署長(青線なら警察は営業許可にからんでいません)まで出席しているので赤線か,と思いきや青線になっています。

そして、昭和33年3月10日の神戸新聞『赤線は消えるか・・・』の記事の中で加古川の関根新地と相生の那波川新地(=川尻新地=大島新地)を赤線として分類されており、同時代でも赤線と青線の定義がはっきりしていない事が分かります。以前当ブログで書いた『占領と平和運動』佐藤公次著でも伊丹新地を赤線と書いていました。

つまり、当時遊郭時代の過去を持ち特飲街に生まれ変わった所は間違いなく赤線、戦後特飲街として誕生した、伊丹新地、相生大島新地、加古川関根新地のように赤と青が混じった、どっちとも取れる紫線のような特飲街が存在した事になります・・・

今後色んな新地を見ていくうえで、一応の答えがだせれば、と考えています。


f0347663_11095065.jpg



by gionchoubu | 2019-09-15 11:18 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

加古川 関根新地 三

f0347663_11400015.jpg
朝日新聞 播州版 昭和33年2月11日に『売春業者と従業婦の動向』の記事に

「売春防止法の完全施行はいよいよあと二ヶ月たらず。播州地方からもやがて特飲店が姿を消すが、業者はいま転廃業の厳しい現実にさらされている。次に業者や従業婦の近況を探って見た。」

姫路市、高砂市、相生市と並んで加古川市の欄があります。

「平野新地(注、関根新地のこと)は十五戸の業者があり、従業婦八十余人が働いている、加古川署は六日業者に対し、

1  料理旅館の兼業は許さない

2  現在の従業婦の継続雇用は認めない

3  芸者検番やヤトナクラブの併設は認めない

4  新規の収入で生活が安定するようにし、住居の制限(たとえば寄宿舎)などしないことなどの方針を示した。

業者は当初旅館、料理兼業への転業を計画していたが、取締当局の方針がはっきりしたので、近く総会を開いて態度を決める。

いまのところ料理店十、旅館五へ転業する方針らしい。

当局も許可の場合は“売春はさせない”という誓約書をいれさせて、保健所などと協議して許可するといっている。

しかし旅館料理店に転業するにしても、店舗の改造に資金がいるだけに、業者も大きい悩みとなっている。」

/////////////////////////////////////////////////////////

加古川市関根新地の特異性はまず三年前に開業した新しい新地であると云うこと。業者が農地を買い上げ田んぼ中に誕生した事があげられましょう。

相生大島新地も戦後に誕生しましたが、業者六軒と最小規模であるものの、相生港の船運がありますし、同じく兵庫県に戦後誕生した伊丹新地には自衛隊があります。

関根新地は近くに観光する所はなく、大企業の工場があるわけでもなく、温泉や集客のある神社仏閣も無く、さらに加古川駅、繁華街からも離れています。

料理屋、素泊まり、半泊まりの転業旅館、商人宿として生き残りの道はほぼ閉ざされた情況でした。

料理旅館が禁じられたのは、座敷でお客を遊ばすという目論見を閉ざしたことになります。

ただし芸者検番を立ち上げ花街の道を目指すといっても、芸者の着物、小物、お稽古だけをとっても莫大な資本が必要で、一番ありえない選択といってよいでしょう。

旦那衆は駅すぐ近くの検番筋を支えるはずです。

一縷の望みはそれまでの従業婦をヤトナクラブで身をやつし、復活の機会を待つという方法ですが、これも認められませんでした。

この八方塞がりの情況が、誰からも過去を振り替えさせず、静かな住宅街で平和に過ごすという、現在の一番良い情況に誘ったのかもしれません。



by gionchoubu | 2019-09-12 11:43 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

加古川 関根新地 二

f0347663_10585165.jpg

朝日新聞 播州版 昭和33年3月1日に『大詰迎えた赤線地帯 当局と懇談会』の記事の「20日に廃業 加古川市の平野新地」を見ると、

「売春防止法が四月一日から実施されるので、県売春防止本部主催で四日午後二時から加古川中央公民館で、加古川、高砂両市の業者と従業婦ら約四十人を招いて懇談会が開かれた。

県から藤井民生部長、吉良山保安課長はじめ警察署、福祉事務所、職業安定所の係員らも出席、加古川平野新地組合(岡本務組合長)は二十日で転廃業すると報告した。

岡本組合長の話 従業婦は現在六十余人だが、うち十余人が結婚残りは郷里に帰るだろう。

中には女中、仲居などで残りたいという希望者があり、また転業に必要だといって三味線や踊りを習っている人もある。

業者は三十年五月、駅前から集団移転したが当時二百万から三百五十万円の借金で、二、三は払っているが、大部分が二、三十万円の借金を残しており、転業するにも資金がなくて困っている。

五、六人は別に加古川市の中心部でバー、スタンドなどを経営するということだ。従業婦の前借金は二十日限りで棒引にすることを決めている。

///////////////////////////////////////////////////////////////

今度は同年3月6日、読売新聞播磨版をみると『発足時の借金残る 20日解散 従業婦は棒引き』の見出しで、

「加古川 四日午後、加古川市中央公民館で、藤井県民生部長、吉良山県本部保安課長、兵藤加古川署長、日笠加古川保健所長、岸本加古川職安業務課長、泉市福祉事務所次長、糟谷、大内両相談員ら十八人、岡本組合長ら業者代表六人A子さん(二一)ら従業婦十八人が出席して懇談会を開いた。

関根新地は終戦後、国鉄加古川駅前裏通のマーケット、ヤミ市場内にあった白線業者が、さる三十年五月、自主的に関根地区の農地千三百坪を購入、十五軒の特飲店街にまとめ、従業婦八十人をかかえてスタートした。

この移転で各業者は三百五十万円から二百万円の資金を借りた。全返済したものは三、四軒。残りはいずれも三、四十万円の未済分を抱え、こんどの転廃業を迎えた。

組合では三日夜、協議会を開いてこんどの対策を話合い、二十日に解散、十五軒のうち五軒が料理業、九軒が旅館に転業することを決めた。のこり一軒は“一力”でさきに経営者がピストルで射殺された為未定。〜以下略」

//////////////////////////////////////////////////

加古川の平野にあった関根新地は平野新地の呼び名があった事が分かります。また移転の経緯や、そこに警察を含め市の各機関が係っていたことも読み取れます。

営業期間は三年にも満たない薄命の新地でした。



by gionchoubu | 2019-09-08 11:00 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

加古川 関根新地と検番筋

f0347663_18041381.jpg
                        一番手前が一力               

短命だった加古川の平野の関根新地を訪ねてみました。現在関根の文字を平野で見ることはありません。

『古地名新解 加古川おもしろ誌』編者 石見完次に

関根 一里塚のあった辺で、旅客の関所であったか。また水路の集まった地点だから堰の根ということか。古老も言わず推量するほかない。

となんとも頼りありません。このレアな地名を新地にもってきた名付け親にどんな拘りがあったのでしょうか。

昭和33年の3月2日の神戸新聞に『ようやく転業へ踏切る 加古川関根新地 料理屋と旅館に 従業婦の大半は帰郷』の見出しがあります。

これによると、転業対象十五軒のうち料理屋に転業するのが「新月」「大門」「百万両」「白牡丹」「都」の五軒、旅館に転業するのが「三日月」「第一文福」「錦」「第二文福」「鈴峯」「二鶴」「一力」「八千代」「常盤」「寿」十業者あります。

この新地は田の真ん中にあり、不利な条件の為日常の商売には向かず、旅館や料理屋以外の転業は難しかったようです。

紙上では関根新地を赤線と位置づけておりますが実際は赤線と何ら変らない青線のはずです。(理由は近ゞ述べます。)

読売新聞の兵庫版、昭和33年3月16日によると、3月15日に新地会事務所で加古川保健所予防課長、糟谷市夫人相談員らも出席した解散式があり、組合長は

「みなさんのためにもっと盛大なお別れの会をしたかったのですが、移転で借りた借金がまだ残っている現状、なにもしてあげられなく申しわけない。これからさき身体に気をつけて元気でくらしてください。」と挨拶しました。

発足して三年しか経って新地で、たぶん兵庫の他の赤線から移転してきた業者も、大きな借金が残したままの解散という嘘偽りのない挨拶だったのでしょう。

さて、神戸新聞に戻ると、新地に残って働く意思のあるものは検番筋から師匠を呼び、三味線などの芸を身につけさせ、一応の体裁を整えてから芸者として席に出す予定、と書いてあります。

加古川駅の南に検番筋はいまでもありますが、聞き取りによると昭和四十年代には検番もなくなり加古川の花街も終焉を迎えたようです。

かつて検番筋には芸妓置屋が並んでいたそうです。

ただ調べた限り、加古川の花街に関する記述は得られませんでした。

f0347663_18075157.jpg
                  この区画に十五軒あったはずです。面影ゼロです。

f0347663_18080846.jpg
行き止まりです。新地として孤立させる意思が読み取れます。

 

f0347663_18145675.jpg
昭和二十五年ごろの検番筋
f0347663_18160331.jpg
                  多分ここかと
f0347663_18264468.jpg
検番筋
f0347663_18281214.jpg
    加古川検番筋の看板
f0347663_18302297.jpg
f0347663_18305406.jpg
f0347663_18334458.jpg
検番筋から抜ける道
f0347663_18351280.jpg
                       繁の家
f0347663_18361344.jpg
                        スナック街


by gionchoubu | 2019-09-03 18:06 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

赤線 相生大島新地

f0347663_11374399.jpg
相生の赤線については10年ほど前に現地に赴き、近くの料理屋さんに其の場所を教えていただきました。その場所とは中央通から住吉神社、善光寺に至る道で、バス停でいうと播磨病院前の近くです。町名でいくと大島町3,4,5丁目です。

しかしネットで見ると違う場所が示されている方がいらっしゃたので再訪、公的機関の古老の方、実際其の場所にお住みの方複数にも伺いやはり上記の場所だと確信しました。

この赤線は当時の新聞でみると相生川尻、もしくは相生大島新地、あるいは那波川新地と呼ばれ、戦後に誕生し六軒の業者がありました。

朝日新聞兵庫版S33年2月11日に

大島町の特飲街は相生港の発展とともに戦前から栄えていたが、買春防止法の完全施行を前に六軒の業者は転業を計画、月末までにはっきりした線を出そうとという意気込み、中でも貸席三和亭=Mさん(60)経営=はすでに質屋に転業を相生署に申請、改築工事を進めており、他の業者も健全な旅館、喫茶店などの開業を考えている。

これらの特飲店で働く二十二人(相生保険所調べ)の女性も、近く帰郷するもののほか結婚、旅館の仲居へと身の振り方を考えているといわれる。

読売新聞S33年3月6日読売新聞播磨版

相生川尻の特飲業者(六軒)は六日総会を開き、十五日限りで転廃業を申し合わせる。このうち一軒は先月はじめ質屋に転業した。残りは旅館三、マージャン屋、料理屋。

一時は三十六人いた従業婦も現在は二十五人、全員が帰郷、結婚などで一人も残らないが、月末いっぱいの営業と考えているものが多い。

神戸新聞S33年3月16日、

那波川ジリの大島新地(六業者、従業者二十五人)は一業者がすでに二月末質屋に転業、残る五業者の従業者も十五日には十五人に減り最後の客を待ったが、生憎くの小雨のうえなじみ客のいる修理船が入港していないため客はなく、午後九時ごろには「もう閉店です」とばあさんも消えていった。

従業婦十五人も十八日までに結婚、帰郷など思い思いに更生の生活を歩む。

f0347663_11384353.jpg
                     この間隔で酒屋が二店
f0347663_11401081.jpg
                関連はないと思いますが二階に注目
f0347663_11443376.jpg
                    
f0347663_11423909.jpg
f0347663_11431786.jpg
                      川尻橋
f0347663_11460663.jpg
                    
f0347663_11465704.jpg
                   こちらは2010年に撮影、現在はありません。
f0347663_11480928.jpg
         ど根性大根 だいちゃんの町 相生…そういえば一時話題になりましたね。


by gionchoubu | 2019-09-01 11:49 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

伊丹新地 

f0347663_11423662.jpg
                       旧伊丹新地

神戸新聞阪神版 昭和33年3月23日より

『いさぎよく解散 伊丹新地』『一斉に消えた赤い灯 11軒がお座敷サロンに』

伊丹市北村竹ノ鼻、伊丹新地特飲街の新地組合(KT組合長、業者十七軒)は二十二日午前十一時から同組合事務所で保健所、警察、自衛隊幹部、市福祉事務所長ら関係者を招いて新地解散式を行った。

K組合長から「解散には多少の不満もあるがやむを得ない。この営業で生活してきた業者は土地的に悪条件で、生活権の確保については現在の設備をしばらくこのまま利用して転業したい。

一日も早く完全な転業できるよう資金融資などのあっせんに協力してほしい」

との解散声明発表、つづいて従業婦ばかりの組合生援会(会長OKさん)からもあいさつがあって、ここに伊丹新地は赤いネオンも消え、全店が営業を停止、組合も解散した。

同新地は二十五年伊丹市に自衛隊(当時は警察予備隊)が設置され、隊員の慰安所がぜひ必要だという要望から市内に散在していた四業者を二十七年四月に現在の新地(元工場跡)に統合、神戸福原、大阪飛田の業者らも誘致して十三軒で発足、現在は十七軒、八十人の従業婦を抱えているが、営業的にも最高の景気だった二十九年から三十年には従業婦も百二十人にふえ不夜城を築いていた。

なお転業については十七業者のうち四軒が旅館、十一軒がお座敷サロン、一軒が下宿、一軒が廃業を希望している。

K組合長の話

「従業婦八十人のうち五十人が郷里へ、二十人が結婚するが、残る十人は帰るところもないので、二、三人は面倒をみてやらねばならぬ。

その収入の道も考えてやらねばいけない。家に仕送りしていないものなら平均五、六万円は預金しているが、嫁入り資金にするほどでもない。

また業者も新地創設当時に銀行融資を受けているので各戸がまだ二、三十万の負債を持っている。

せめても従業婦が再び身を持ち崩さないよう政府でも十分な保障をしてほしいものだ。

二十二日以後のモグリ業者については組合同士が互いにケン制、自主的に取締って行きたい。

私は転業についてタクシー会社の創設を希望していたが却下されたので、お座敷サロンをするつもりだ。」

//////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

すこし前このブログで伊丹新地は青線と書きましたが、この記事をみて伊丹新地は特飲街と新聞で銘記されていますので、赤線であったことが分かりました。

また現在の公設市場が北本町3丁目50番は町名変更以前は大字門伊丹竹ノ鼻68の1であった事をことば館の方に調べていただき、工場跡→伊丹新地→公設市場の歴史をもったことも確定することができました。



by gionchoubu | 2019-08-12 11:45 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

伊丹湊町の花街と伊丹新地

f0347663_11290619.jpg
                    湊町の花街あたり

伊丹湊町に花街が出来たのは大正の初めらしく、侠客の今井幸吉という男が喧嘩の際刀で切られ左手が不自由になのが渡世の転機になったのか、警察に芸者置屋と検番を開業する旨警察に届けたことから始まりました。その後の伊丹一丁目四の二になります。

置屋として今井、寺本、初音、鳥新、石井、千玉、お茶屋に初音、つたや、とよ吉、ききょう、料理屋にちどり、尼常、他に寿座という芝居小屋もありました。

お茶屋に料理を仕出ししていたのが検番の向かいの寿司善でした。

京都の舞妓にあたるのが“子飼い”という少女で口入屋を通じ親に前借金が渡り、娘は置屋で踊り、三味線、小唄、端唄を習いながら年季奉公しました。

年季が明けると、一人立ちとしての自前の芸者、もしくは、移転先の置屋が元の置屋に引き抜き料として金を積み、その金の一部が芸者の田舎の親に渡り、稼ぎの半分を移転先の置屋、芸妓が残りの半分を取る“半自前”の芸者に区別されました。

昭和の初め湊町に六十人程芸者がいました。

√はやく暮れよと ぬし待つ身には うれし野村の鐘の音

伊丹小唄の一節ですが、この野村の鐘は猪名野神社の北の発音時の鐘でした。

√伊丹よかよか お客がおじゃる おじゃるはずだよ 酒の里

しかし湊町の花街の歴史は短く昭和十六年太平洋戦争が始まると、酒の町が育んだその短い歴史を閉じました。

終戦後、湊町の白雪の富士山蔵の筋向かいの一戸建ての古びた二階を根城にパンパンが三、四人住んでおり、進駐軍のアメリカ兵が夕刻になるとグループで現れ部屋の窓に小石を投げて合図をすると、すぐ降りてきてどこかに連れ立って行ったといいます。

最後に伊丹新地、『占領と平和運動』佐藤公次著の兵庫県篇に

昭和二十四年、坂本市長により保安隊誘致運動が展開され、市の農林六万坪と付属道路の改修費を無償で提供、さらに九万坪の水田をつぶして保安隊兵舎が国費で買い上げられました。

この保安隊用として“伊丹新地”の赤線基地四十軒が設置され遊廓ができたと書かれています。実際は遊廓制度が終了しているので伊丹新地は遊廓でなく、また遊廓後に買春が黙認された赤線でもなく、所謂青線のはずです。

場所は公的な機関の人はだれも首を傾げるばかりで伊丹新地の存在はご存知ありませんでした。

タクシーのご年配の運転手の方は伊丹新地の言葉は頂けなかったものの伊丹市公設卸売市場がその色地域で現在全く痕跡は無いとの事、七、八年前その場所に訪れ町の人にも確認できたので、まずここが伊丹新地だったと思います。

f0347663_11292781.jpg
                     伊丹市公設卸売市場

f0347663_11310710.jpg
                  市場の裏、伊丹新地へ抜ける道だったとの事


by gionchoubu | 2019-07-16 11:33 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

伊丹の遊郭、花街、青線

f0347663_11323203.jpg
                      猪名野神社

かつて伊丹には色里が三箇所ありました。それは三本松遊廓、湊町の花街、青線としての伊丹新地です。この三箇所を纏めて記述したものは伊丹市史を含め無く、遺構も無く、町名も変り、どうにもこうにもならない所でしたが、市立図書館のリファレンスの方に協力いただき、何とか概要だけ掴むことができました。

参照資料は、『伊丹公論 復刊第19号、通巻38号』:『聞き書き伊丹のくらし〜明治・大正・昭和』伊丹市立博物館:『醸技(かもしわざ)』小島喜逸著:『伊丹市民俗資料<第四集>伊丹の伝説』伊丹市教育委員会発行:『伊丹郷町物語』発行伊丹市です。

まずは「伊丹三本松 尾のない狐 わしも二、三度騙された」の俗謡で知られた三本松遊廓。江戸時代の寛文・元禄(1661~1704)頃とされるが確かな事は分かっていません、

その場所は市立博物館に所蔵されている地図によると猪名野神社西、伊丹市立図書館ことば蔵の向かい側あたり。古文書によると「北は天王町裏から西は宮崎町裏、南は表町の南北の両側を含む一帯で、青楼は十六軒と決められ、遊女の外出はお達しにより厳禁されていた」となります。

諸国遊所競には最下段にいたみ三本松として載り、猪名野神社の参拝客が支えた門前花街と考えるのが妥当だと思われます。

郷童に「松の女郎達チャ松の間にいつもほお染きてちらほらとゝ」というのもありました。

又、享保・元文・寛延の比に続て三本松の元にあっ娼家は、ふじ市、丹波屋、源太夫、ふしの棚などという娼家もあり、遊女の衣装は「大方五ツ重ねで下着は白帯付きハ綸子の肩裾大もようなるものを着し、下駄のかわりに五まい重ねの草履をはきぬ、自酌をとり糸竹のしらへもったなからてまらうと慰む、其さま賤しからず。」との事です。

又、離楼として野宮鳥井の西表に難波屋、裏にまるや、谷に伏見屋・辻村屋・口谷屋、柳町に丁子屋又兵衛、鍛冶屋町岩印の西にいせ屋、住吉町山の裏に白ふじ伝兵衛などが甍を競いました。

ただし天明の頃、この離楼の遊女と堺町の若者が心中騒ぎを起こしたのがきっかけで市中の離楼は禁止になり引越しや廃業を余儀なくされた模様です。

幕末も麻田藩(豊中市)の武士なども利用したようです。ただし明治になって戸長が潔癖症だとかで三本松の遊廓は廃止になりました。

跡地には伊丹一と言われ百人規模の宴会ができた魚与という料亭がありました。

その後この一帯には芝居や松竹系映画の伊丹劇場があり、その後ストリップ劇場になりましたが、現在、どんな想像力の強い人でもその雰囲気を感じる人はいらっしゃらないと断言できます。

f0347663_11331673.jpg
                     三本松遊郭跡にある不自然な小道


by gionchoubu | 2019-07-12 11:35 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)