人気ブログランキング |


花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る

カテゴリ

全体
上七軒
遊郭・花街あれこれ
先斗町
宮川町
ねりもの Gion Nerimono
舞妓・芸妓
祇園東
五番町
雇仲居
京都の花街・遊廓
遊廓、花街の類形
亡くなった大阪の游所
亡くなった滋賀の遊郭
五条楽園
私娼
島原遊郭
祇園
パンパン、赤線
島原、輪違屋太夫 賛姿語録
*リンク
亡くなった奈良の遊廓
亡くなった兵庫の游所
未分類

以前の記事

2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月

お気に入りブログ

最新のコメント

>ぞめき様 ありが..
by ignatiusmaria0319 at 17:02
> 文車さん 実は..
by gionchoubu at 11:51
> 文車さん TS..
by gionchoubu at 11:46
ぞめき様 暑中お見舞い..
by 文車 at 17:06
> こうざんさん ..
by gionchoubu at 19:28
本ブログを読んで、「芸能..
by こうざん at 22:42
> こうざんさん ..
by gionchoubu at 14:51
こんばんは、近江八幡池田..
by こうざん at 00:23
> こうざんさん ..
by gionchoubu at 17:59
gionchoubu様 ..
by こうざん at 00:24

メモ帳

最新のトラックバック

美は幸福を約束するものに..
from dezire_photo &..

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

姫路 夢前新地とアルサロ
at 2019-12-08 12:17
室津、日本で一番長く続いた遊郭
at 2019-12-03 16:14
西成、カラオケ居酒屋 孔雀
at 2019-11-28 15:49
室津遊郭
at 2019-11-24 13:51
姫路夢前新地、中門新地
at 2019-11-22 12:13

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
近畿

画像一覧

カテゴリ:亡くなった兵庫の游所( 21 )

姫路 夢前新地とアルサロ

f0347663_12170045.jpg

『全産業住宅案内図帳』昭和33年を見ると、先日中門新地と教えて頂いた場所には食品店(現在も営業)、電気屋、菓子店、時計店などでスナック等は一切ありません。

ただし中門通りの一画に11軒のカタカナのお店?が固まっている筋がありました。ただ地図の手書きの字があまりに小さく一軒も正確に読めません。スナック群の様な感じは受けます。

中門新地の特定は今のところ出来なくなりました。

一方、六軒家と教えていただいたあたりはまさに歓楽街で、夢前新地はここでほぼ間違いないと思います。そこには安兵衛旅館、銀閣旅館、春日旅館、都旅館、玉ノ屋旅館、そして最後まで旅館が残っていたと教えていただいた場所に旅館和尚と夢前旅館が載っています。

さらに4軒のパーマ店、3軒のスタンド、1軒のバー、1軒のパチンコ屋、食堂、喫茶、お好み屋併せて12軒、広畑射的場、そして広畑花国?アルバイサロンがありました。

//////////////////////////////////////////////////////////////////////

アルバイトサロン、略してアルサロが最初に現れたのが大阪の千日前で、時は昭和25年、その店の名は“ユメノクニ”といいました。

接待の女性は女子学生、OL、主婦などの素人女性を保証給を出して雇い、「素人の手作接待」を掲げました。

このユメノクニのホステスの動機で最も多かったのが「自分の生活費を稼ぐため」次いで「家族を助けるため」そして「結婚の準備金を稼ぐため」でした。

大阪で花開いたアルサロが東京に伝わってオープンしたのが昭和28年、銀座2丁目にあった「赤い靴」でその後「メリー」「君の名は」「白いばら」「シルバーゴールド」が銀座に出来ました。

当時の募集広告に「上品な純喫茶スタイル。お迷いにならずデパートにお勤めになる気持ちで安心しておいて下さい。」というのがあったそうです。

このユメノクニは昭和63年に閉店、まさに昭和時代の終わりでした。

ちょうどその頃、「アルサロ」と交替するかの如く昭和62年に池袋で現れたのがキャバレーとクラブを合併した「キャバクラ」でした。

参照:小泉信一著『裏昭和探検 風俗、未確認生物、UFO・・・』

それにしても、赤線、青線全盛時代、お金を出せば簡単に欲を満たせる時代・・・男性客はアルサロに何を求めたのでしょうか?

素人ぽい女性でしょうか?

擬似恋愛でしょうか? はたまた普通の恋愛でしょうか? 

男は面倒くさい生き物としか言いようがありません。



by gionchoubu | 2019-12-08 12:17 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

室津、日本で一番長く続いた遊郭

f0347663_16122198.jpg
              法然上人と友君

『法然上人絵伝』には法然が四国配流の途中、播磨国、室の泊まりにて遊女教化を受けた図があります。友君が鼓を持ち、垂髪で作眉、緋色の袴をつけており、当時の遊女の風俗を垣間見ることができます。

友君は本名を“ふき”と云い木曾義仲の第三夫人で、義仲が討ち死にしたあと室津で遊女になり船人の旅愁を慰めたと言い伝えられており、淨運寺にはお墓もあります。寺内には友君の木彫りの小像があり、私も訪れた際にお参りさせていただきました。

宮武外骨の『猥褻風俗辞典』をみると室の友君という言葉自体が平安時代末期よりいにしえの遊女の異名として用いられたと書きました。

『諸国遊所競』で播州室之津は西の前頭八枚目という高位にあり、江戸の後期でも遊所としてかなりの格をもっていたと当時の人は思っていたようです。

明治12年に6軒貸座敷があり21人いた娼妓も明治21年には僅か3軒娼妓も18人になりました。
(『兵庫県統計書』)又明治13年にはたった一人の芸妓がいました。(『兵庫県統計概表』)

昭和五年刊『全国遊廓案内』によると、「而して此処の遊廓には豊臣秀吉、平清盛、徳川三代将軍家光等の来遊した記録もあるので・・・」とありますのでその出典が気になります。

店は陰店、貸座敷が三軒(愛栄楼、金勢楼、昇栄楼)で娼妓は三十人、居稼ぎ制、廻しは取らず、費用は御定りが三円五十銭で短時間なら八十銭でも遊べる・・・これは格安中の格安です。

『兵庫県警察史 昭和編』をみると兵庫県における公娼廃止時(昭和21年1現在)の売春関係者の表があり、二葉新地、丸山、姫路、明石、高砂、飾磨、洲本、篠山と併せ網干に貸座敷2、娼妓数8とありましたので、念のため網干に行き網干町史、他を調べましたがやはり過去に網干に免許が下りた事実はありません。

これは網干の近くの室津の事だと思います。つまり網干警察が室津の管轄だったとすると辻褄があいます。

昭和33年朝日新聞の兵庫版をみると、売防法完全施行前の赤線、青線の個所に室津は含まれいないので、昭和二十年代に室津遊廓は消滅したと思います。

日本の最古の遊女町として江口・神崎や近江の朝妻と並び室津が挙げられましょう。

江口・神崎そして朝妻の遊女町も随分昔に無くなりました。

室津の遊女町の起源を平安時代の末とすると、800年間遊女町だったわけで、これは日本の遊廓の中でぶっちぎりの長さを誇ったと言えます。

f0347663_16132475.jpg
               友君の墓
f0347663_16135594.jpg
              室津の町並み


by gionchoubu | 2019-12-03 16:14 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

室津遊郭

f0347663_13494970.jpg
『色道大鏡』で藤本箕山は播州室津は日本の遊廓の祖と書きました。平安時代の初期、室の遊女が空海と詞をかわした、とあります。

同書では建仁寺天穏龍澤の『播陽室津図記』、半陰子の『室津尾野町之記』を収録していますが難解な漢文でとても私の手に負えるものではありません。

もう一つ『室津遊郭記』では弘法大師(空海)が室津にきた時

法性の室のみなとを立出て さとりをひらく花川の水

という和歌を残したとあります。

『平家物語』にも「室・高砂の遊君」などとみえ、都落ちして西海に向かう平家が室泊に立ち寄る場面に鼓を鳴らす遊女が描かれています。

『好色一代男』で井原西鶴は「本朝、遊女のはじまりは。江州の朝妻。播州の室津より、事起りて。今国々になりぬ。」「室は西国第一の湊。遊女も昔にまさりて。風儀もさのみ大坂にかはらずという」と室津を遊女の起源の一つとしています。

田宮仲宣著の『愚雑爼』に「傀儡は山岳により、遊女は河海によるものなり。傀儡は信濃、美濃、近江の者を上等とし、播、丹、作の者これに次ぐ。筑後の者は下等なりとぞ。」

播は播磨の事で室津は播磨にあるので、室津の売女のルーツが傀儡女であったことを伺わせています。

大江匡房の『傀儡子記』に傀儡子の芸能のレパートリーの一つに棹歌をあげています。

現在も室津で催される「小五月祭」には男装した女子高生が出演しますが、ずーと以前は室津の遊女「室君」が男装して「棹の歌」を神前で奏でました。

室津に遊女に触れた書物は上記以外でも文化四年開版の『北里見聞録』や『長戸本平家物語』などでも見ることができ。平野庸修の『播磨鑑』では「室君は世にかくれなき遊女にて、かく歌にも読れ、世の末までも名を残されぬ〜略〜其後宮木、友君、大柄杓、小柄杓など云遊女有し也」と記しました。

『遊行女婦・遊女・傀儡女』で著者の滝沢政次郎は室の遊里は、遊女記ができた頃には、江口・神崎の遊里に次ぐ楽地であったが、治承四年(1180)の福原の遷都により、江口・神崎は交通の幹線から外れ、室は新都の大玄関として急に栄え、江戸時代の室の遊女町は尾野町(斧町)にあり、西屋・但馬屋・つる屋が傾城屋として特に有名であった、と述べています。

この室津の歴史を辿ると、遊女は芸能集団の要素が非常に強かった様子が見えてきます。

参照:上記以外『御津町史 第一巻』

f0347663_13501479.jpg
f0347663_16001783.jpg
               加茂神社にあった小五月祭りの様子


by gionchoubu | 2019-11-24 13:51 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

姫路夢前新地、中門新地

f0347663_12082848.jpg
                        中門新地跡

昭和33年3月16日の朝日新聞の兵庫版によると売春防止法施行前の姫路夢前(ゆめさき)新地は青線に分類され、14軒の業者に94人の従業婦がおりました。(32.12.31現在 兵庫県警調べ)

姫路市は赤線として古くから梅ヶ枝新地と湛保があったためか、どうしてもこの時期の記事で売春防止法関連の姫路の項はこの二つの旧遊廓になってしまったようで夢前新地の詳しい情報を見つけることは出来ませんでした。

神戸新聞の兵庫版、昭和33年3月10日では戦後に誕生した姫路広畑区、夢前、中門新地に業者十一軒と記されています。ただし赤線に分類されているので、当時でも赤線と青線の分類は曖昧な所があったのでしょう。

ただしこれは青線を赤線とする事があるのみで赤線を青線とした例は無いようです。

ちなみに読売新聞の播磨版、昭和33年3月6日では飾磨所管轄の青線として夢前新地、中門新地の二箇所を上げおり、この二箇所は別の青線と捉えています。

はたして夢前新地と中門新地とは別に存在したのでしょうか?

幸い地元の当時を知る人にお会いすることはできお聞きすると、中門新地はご存知なものの逆に夢前新地はご存知ありませんでした。

中門新地は予め予想したとおり広畑の中門通りに面していました。当時その方によると、たぶん解散後の様子と思われますが、飲み屋街だったとの事、ただしその中で何が行なわれていたは知る由がない、ともおっしゃていました。

そして解散した後、五、六年で面影も消えたようです。

そしてその方から中門新地から少し離れたところに六軒家(屋?)と呼ばれていた場所に二階に小部屋が幾つもある旅館があり、この二階で事が行なわれていたとの貴重な証言を得ることができました。

残念な事にその建物は数年前に駐車場になりました。

つまりこの六軒家が夢前新地で、中門新地と分けて考える人もおれば、一緒くたにした人もいたというのが私の見方になります。

ただしこの“ろっけんや”も俗称のようで直ぐ近くの方も聞いたことが無いとおっしゃっていました。

さて、相生の新地には川尻特飲街、大島新地、那波川新地等の呼び名がありましたし、前回の伊丹新地も地元の人は五番街と呼んでいた様でした。

そもそも青線は戦後誕生しており、昭和33年に表向きは解散しております。加古川の関根新地などわずか3年の営業機関でした。つまり名前すら定着するまでに終焉したところもあったのだと考えられます。


尚、当時を知るその人によると、広畑の青線を潤したのは近くの大手企業の工場関係の人や船乗りたちで、今でも需要があるのかどうか分かりませんが多くのスナック系の看板が目立ちました。実際に夜に灯が灯るかは、日のあるうちにこの地を離れたので定かではありません。


f0347663_12104109.jpg
                         六軒家
f0347663_12115658.jpg
f0347663_12123434.jpg
f0347663_12125598.jpg


by gionchoubu | 2019-11-22 12:13 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

伊丹新地と五番街


f0347663_14310446.jpg

これまで伊丹新地を追い続けてきましたが、今回過去の記述の中で二回変更します。


まずは最初、伊丹新地には遊廓時代の過去を持たないので青線と考えました。ところが昭和27年4月に開業した時、もともと市内に散在していた四業者以外に福原や飛田の旧遊郭業者を誘致した特飲街だったので赤線と書きました。

しかし今回昭和33年3月23日の神戸新聞、阪神版で、伊丹新地は青線に分類されていますので今一度青線に訂正させていただきます。

もう一つは其の場所を現在の公設市場と書きましたが、実際は公設市場と隣接した北側の部分と判明しました。

特定のきっかけは昭和39年の『観光と産業の伊丹市住宅地図』を見ることが出来たからです。

これによると伊丹市営総合卸売市場は新築工事になっており、これと接する北側にナポリ、扇家、丸美、入船、ちづる、サロン春美、おた福、サロン清栄、サロン末吉、スタンドみゆき、マーキュリー洋酒喫茶、スタンドまゆみ、恵美、千代、第二やよい、吉美ちゃん、新世紀、サロン梅ヶ枝、サロンママ、サロンママ、サロン大番、小判スタンド、三楽、ことぶき旅館、旅館よしの、竹葉旅館、旅館松鶴、旭荘、とみや荘、万両荘、木村荘、銀礼荘、友荘・・・上記の新聞に解散後は4軒が旅館、11軒がお座敷サロン、1軒が下宿に転業予定となっており、まさにその様に転業した様子が浮き彫りになっていました。

さらに伊丹神姫タクシー伊丹営業所まで入り口付近にあり、遊客の送迎をしていた事まで分かります。

いままで聞き取りをした中で複数のかたに新地は公設市場の所と聞かされていたのでそう書きました。つまりおっしゃった方は「伊丹新地はどこですか?」の問に対し、「公設市場の所」と返していただいたのは、公設市場の辺り、という事だったのでしょう。

鑑みるに、公設市場建設のために青線業者すべての土地を買収し立ち退かせるのはほぼ不可能でしょう。

『兵庫県大百科事典』によると伊丹市公設地方卸売市場は昭和38年3月新設総合卸売市場用地の買収に着手、昭和40年3月6日に開業とあります。

それにしても夜の町と朝の町が一時期隣併せという随分妙な時期があったことになります。

その後の伊丹新地の様子を昭和49年のゼンリン住宅地図でみると旧新地の一番南に角屋、小料理屋のタロー、オーロラ、築波、君の家がかすかに名残を感じさすぐらいでもう殆ど新地の面影はなかったはずです。

ちなみに伊丹市立図書館である「ことば館」で調べていたところ町名が竹ノ鼻68-1から北本町3丁目50に変更されたのは昭和54年頃との事でした。

さて、今回伊丹新地跡を再訪すると、旧新地敷地内で、やはり北側が歓楽街だったとの事、ただし伊丹新地ではなく「五番街」と呼ばれていたと教えていただきました。

これは昭和33年以降に過去のイメージを払拭するために名所変更をしたのでしょうか?

ただ現在随分離れた伊丹の北野に五番街という昭和レトロのスナック街があり、その関連性に新たな謎を抱えてしまいました。
f0347663_14332066.jpg

この筋より南が伊丹新地
f0347663_14351556.jpg

伊丹市立博物館の入り口にあるこの航空写真(昭和31年)の千代田光学の部分が伊丹新地・・・中を見せて、というわけにもいかず、ネガの場所もわからないとの事・・・残念!

f0347663_14404893.jpg

公設市場の裏から伊丹新地に抜けれた小道、と聞きました。


by gionchoubu | 2019-11-17 14:32 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

洲本、遊郭、花街、赤線

f0347663_16585936.jpg
                      2011年撮影

『兵庫史学第32号』の「洲本遊廓」新見貫次著、によると幕末淡路に遊廓が数箇所ありました。洲本では明和に入り由良港の出入りが便利になると明和四(1767)年、四丁目中津街に紀国屋と平野屋の二軒の青楼が許可されました。

この紀国屋には哥木という遊女が最も有名だったと『堅磐草』に出ているそうでこれが淡路郷土誌中唯一の遊廓に関する記事との事でした。

俗謡に

「福良湊は入能ようて出ようて、女郎の情のない湊」

「志築女郎衆は水くれと云たら、くれる真似してくれなんだ」

「志築女郎衆は茶碗の湯着、色はしろうても水くさい」

・ ・・あまり評判は良くなかったようです。

『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 洲本』新見貫次著によれば  淡路島の洲本の猟師町(現在の海岸通り)に洲本遊廓がありました。明治十年発行の淡路新聞には、遊廓設置反対と賛成の議論があったものの、同十二年郡長の名で免許が下りました。

場所は洲本港の入り口で、ここを通らなければ町にはいられませんでした。

『兵庫県統計概表』によると明治13年に洲本の漁師町に芸妓85人、舞妓5人がいた事になり、これはかなり大きな花街だったといえそうです。

つまり漁師町は関西でよくみられる遊廓と花街が同居していた色里でした。

『兵庫県警察史 明治・大正編』によると、名東県(当時淡路は名東県)は人形浄瑠璃がさかんんな土地柄で芸妓志望者が多かった。とあるのは芸妓の多さを裏付けています。

昭和五年刊『全国遊廓案内』によると、妓楼約十九軒娼妓約百名位いて、兵庫県では室津、篠山、そして洲本町遊廓の三箇所のみが陰店(屋内で実際娼妓を見た上で指名できる)であとは写真式(写真のみで娼妓を選ぶ)でした。

神戸や明石、西宮、姫路などの都市部は全て写真式なので、交通の便が悪いこの三箇所は当局から大目に見られていたと考えられます。

張店(道路から格子越しに娼妓を選ぶ)は明治期、陰店も大正半ばで人道上の理由で禁止されましたが、遊客は当然直接自分の目で敵方(あいかた)を指名したかったはずです。

渡辺寛著『全国女性街ガイド』によると洲本桟橋で降りて観光バスに乗ると嫌でも遊廓を通る仕組みになっているが最近、学生旅行(修学旅行)の風紀云々で別に道路を作った、と赤線時代終盤の様子を伝えています。

又、同書には洲本より島の東北にある岩屋町に酌婦が三十名程あり面白く遊べるとの情報がありました。

読売新聞 神戸版 昭和三十三年三月十五日に『消えた洲本特飲街の紅灯』の見出しがのり赤線時代最後の様子を映しだします。

「売春防止法施行の四月一日を前に洲本市猟師町、通称“ハマ”の歓楽街は十六業者のうち営業を続けていた八軒も十四日一せいに廃業、従業員十二人も解放されて十五日朝帰郷、八十年の伝統を持つ“洲本特飲街”の紅灯は完全に消えた。」とあります。

同紙によれば、旧組合事務所を工費三百万円でキャバレーに改装、約四十人のダンサーを置き、ひき続きパチンコ遊技場、トルコ風呂、子供遊園地、水族館んなどの娯楽センターを作る予定とありました。

花街側の情報としまして、洲本小唄には四バージョンあったようです。それぞれ一番だけ紹介すると。

√洲本来てから 洲本きてから 恋やけ日やけョ ハ、ヨイコラサット かえりともない 涼風に ハ、ヨイコラサノサッサト ウイタウイタウイタサット

√洲本大浜松原づたい行けば青潮、五色の砂に寄せてくだけて夫婦波、洲本よいとこ浜づたい

√イイネ町々 洲本の町は まどろむ鴎の波まくら、ソートゆらゆら金色に 海原そめたよ朝の日が・・・

√洲本ヨイヨイ三熊山眺めがすてき ちぬの海原、ヨイトサ、遠ちの山エザヤン ソヤザン

今は昔の華やかな様子が浮かびます。

f0347663_17031998.jpg

f0347663_17034194.jpg
f0347663_17035833.jpg
貸座敷だったのでしょうか?
f0347663_17044291.jpg
                 以前はこの手前は海だったとのこと


by gionchoubu | 2019-11-10 17:01 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

神戸 春日野新地

f0347663_13421561.jpg
春日野新地跡

擬似芸妓と云える雇仲居(やとな)の花街というと大阪の南陽新地(新世界)、京都の木屋町、下河原、三重の住吉町、広島の竹原などが挙げられます。

兵庫では、他所とは少々趣きを違えますものの、神戸市の春日野新地が雇仲居を従業婦として始まり、青線としてその時代を終えました。

『モダン都市の系譜 地図から読み解く社会と空間』水内俊雄、加藤政洋、大城直樹著によると、春日野新地は昭和10年、雇仲居と料理屋の二業地として誕生しました。

この昭和10年2月18日の『神戸新聞』の普通欄に

やとな至急大募集、多忙につき収入確実、宿泊の便あり、衣装代貸、春日野道倶楽部、電話一八四七の募集が出ております。

ちなみに同欄で「女給、快活の愛嬌のある二十五歳までの五、六名急要客筋よし、楠町六丁目電軍交叉点角、金星」というのもあります。

これはカフェーの女給の募集と考えられます。女給の募集に二十五歳の希望があるのに、やとなに無いのは、やとなの年齢層が女給に対して高いのを暗示していると私には思えます。

そして戦災により中断したようですが、昭和27年7月1日、料理屋営業の許可(9軒)を受け特飲街、すなわち青線として復活しました。

『朝日新聞兵庫版』昭和33年2月21日を見ると売防法完全施行の直前の春日野新地には9軒の業者に30人の従業婦がおりました。

さて春日野新地の場所はどこでしょうか?

当時春日野小学校に通っていた方の証言によると、当時新地はじごくだに(地獄谷?)と呼ばれていました。商店街に幾つも横筋がありどれが春日野新地か分からないとの事、新地以外の筋も地獄谷と小学生には見分けが付かない程の雰囲気のところがあったようです。

別の方に聞いてようやく春日野新地の場所が分かりました。『昭和30年度版都市地典 神戸市の部』で確認すると今は無き春日名画劇場向かいの筋で、一力という店があるのでいかにも青線業者という名前です。それ以外も老松、さくら、かつら等素人宅でなさそうな店がならびます。

商店街から春日部新地を通るとすぐ日本ダンロップゴム株式会社につき当たります。それ以外にも付近は川崎製綱所、神戸製鋼所などの多くの大企業があり、これらの従業員が春日野新地を潤したのは間違いないでしょう。

f0347663_13430293.jpg


by gionchoubu | 2019-11-06 13:47 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

飾磨町遊郭 湛保

f0347663_10561327.jpg
『兵庫県大百科事典』神戸新聞センターの『湛保』(たんぽ)の項を見ると、江戸時代、飾磨津の最南端に建設された港湾。弘化3年(1846)新規築港されると、湛保の岸には船問屋・遊廓などが立ち並び港として活気を呈するようになった、と書いてあります。

掘り下げた土砂は南の海岸に積み上げられ弘化山と名づけられると、文久3年(1863)姫路藩により外国船に対応すべく砲台が設けられ、お台場と呼ばれたといいます。

明治十年八月、飾磨津の内 須賀町に貸席ならびに娼妓営業地域の一つとして指定されました。

須賀町は湛保を含んだ町で、元文5年(1740)の姫路町飾万津町地子銀控に「須賀町」と有るそうです。(『兵庫県市町村合併史 上巻』)

『兵庫県統計書』によると摂津国飾磨津須賀町に

明治12年貸座敷11軒に娼妓18人おりました。

明治13年貸座敷18軒に娼妓24人と増加したもののその後暫時減少

明治21年貸座敷3軒に娼妓18人となりました。  

昭和四年刊の『全国遊廓案内』では飾磨町遊廓として紹介され、貸座敷十軒、娼妓が約六十人、店の制度は写真式、娼妓は居稼制、廻しはとりませんでした。

主なる店として高島楼、朝日楼、栄松楼、大黒楼、花月楼、初開楼、宮本楼、八幡楼、三笑楼がありました。

昭和10年5月飾磨には10軒の貸座敷業者に64人の娼妓がいました。
(『旭影』昭和12年1号)

公娼廃止時(昭和21年1月)飾磨の貸座敷業者10軒に娼妓74人なっていました。(『兵庫県警察史 昭和編』)

その後湛保は赤線時代を迎え8軒の業者がありましたが3軒が廃業、朝日新聞兵庫版昭和33年2月21日によると、業者5軒に23人の従業婦がおりました。(昭和32年12月31現在、兵庫県警調べ)

そして昭和33年3月6日の読売新聞、播磨版ではさらに2軒が廃業従業婦は18人まで減少して赤線湛保も程なく終焉を迎えました。

f0347663_10563988.jpg
f0347663_11130093.jpg
海神社にて、お料理屋さんでしょうか?
f0347663_10572954.jpg
      遊里につきものの思案橋ですが湛保から1キロ離れているので無関係でしょう。



by gionchoubu | 2019-11-03 11:08 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

高砂の遊廓と花街





f0347663_15012824.jpg
この建物こそ北渡海町の初開楼でした。手前のドアを開けると階段です。2階は押入れのない6畳くらいの部屋が並んでおり、貸倉庫としても利用されていました。向かいの建物が母屋でした。どういう経路で商店街(現在シャッター街)に取り込まれたのでしょうか・・・とりあえず、超貴重な物件だと思います。


近世以来旅客の往来が多かった高砂には、他の港町と同じく遊郭が存在し遊女が存在していました。
      
明治11年 貸座敷 7 娼妓 13   だった数字が

明治15年 貸座敷 7 娼妓 34   と増えましたが

明治23年 貸座敷 3 娼妓 24   と減じました。


当初の高砂町の遊郭の特色は免許地として一区域に貸座敷が集中していたのではなく各町に点在していたことで、明治13年の例をみても

狩網町、北本町、次郎助町、北渡海町、南渡海町、高瀬町にそれぞれ貸座敷が一軒、もしくは二軒ありました。これは町全体に広がっていたという訳ではなく、鍛冶屋町中心とした南北の地域に当たります。

それにしても他の商業施設や民家のなかに貸座敷が点在していたのは全国でも珍しいと思います。

しかし昭和二年、高砂実業協会発行の『高砂案内』の貸座敷業を見ると、松鶴楼、相生楼、高砂楼、陽気楼四軒が次郎助町、初開楼のみが次郎助町すぐ南の北渡海町になるので、大分コンパクトになったようです。

昭和五年の『全国遊郭案内』では高砂町遊郭に上記の五軒を挙げ、店は写真式、娼妓は居稼ぎ制、廻しはとらないとありました。

一時間遊びは台の物は別として一円はとても安価で、近くの明石の遊郭が台のもの別で二円なので半額で遊べたことになります。

『旭影』昭和12.1号によれば、昭和10年5月、高砂遊郭に5軒の貸座敷業者に52人の娼妓がいました。

『兵庫県警察史 昭和編』によると昭和21年1月、県下の公娼廃止時に4軒の貸座敷業者に32人の娼妓がいました。

朝日新聞、播州版、昭和33年2月11日の紙面をみると高砂市の赤線業者一戸で従業婦四人で売防法施行後は料理屋に転業する予定とありました。

高砂の花街について書いてみますと、『高砂案内』には芸妓置屋業として横町に二軒、次郎助町に一軒、細工町に一軒と次郎助町を含んで遊廓の南にあった事になります。

芸妓はお茶屋でなく、石寅(南本町)相生旅館(次郎助町にありましたので相生楼の姉妹館だと思います。)常盤(朝日町)角佐(藍屋町)や料理屋に入ったものと思います。

料理屋は置屋のあった横町に入船、友恵など七軒が集中しており、その他四町に五軒ありました。

次郎助町には今新、沖ノ屋、朝日亭と三軒もカフェーがありました。

参照:上記以外『高砂市史 第三巻 通史編 近現代』

f0347663_15003321.jpg

2009年撮影時は八百屋さんが営業されていました。

f0347663_15020148.jpg

光守大神の玉垣に高砂芸妓組合事務所と刻まれています。
f0347663_15034380.jpg



by gionchoubu | 2019-10-31 15:04 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

明石 東本町遊廓

f0347663_12012257.jpg
                  2009年の画像、現在この雄姿を見ることはできません。

明石の東の宿場に遊女屋ができたのが正徳四(1714)年ごろとされ、初め三軒の遊女屋が元祖とされその後二軒、さらに五軒が加わり、それ以外にも旅籠屋に飯盛女を置いたり、娼妓に似た芸妓をおく料理屋も現れました。

明治初年廃藩後、明石港入り口の中崎海岸付近では船員相手の惣花(そうか)とよばれる下級私娼がいました。

明治三年宿駅廃止になり、町中に郭を置いてはならぬという事で、明治六年、島田槌松という人が中崎にあった明石藩の米倉跡の払い下げを受け、ここで大蔵谷の娼妓を移して新地を誕生させたと言います。

その時『明石市史 下巻』によると明石城の西にある「王子にも一部を移したという説があるが詳らかでない」とあり、又神戸新聞、明美版、昭和33年3月1日では一部が王子の南にある望海の浜に移ったとしています。

ところが明治十四年には大蔵谷にも貸座敷十四、五軒あり娼妓二十三、四人、芸者七、八名がいたという記録(明治十四年二月五日、『朝野新聞』)があるので実際よく分かりません。

兵庫県統計書(『兵庫県警察史 明治・大正編』収録)によれば

       貸し座敷   娼妓
明治12年    16     29
  13年    17     32
  14年    19     37
  15年    17     40
  16年    14     35
  17年    13     30
  18年    05     13
  19年    04     11
  20年    04     13
  21年    05     20

この貸し座敷数には東本町と大蔵谷の合計したものです。明治18年に貸し座敷数、娼妓数ともに激減しています、推測になりますが、明治17,8年に大蔵谷は廃止され、東本町一本になり、王子にしろ望海の浜にしろ、移った直後消滅したとおもわれます。

『明石市史史料(大正期編)第八集(下)』に新地遊廓移転協議、大正四年町会々議録というのがあり、明石町長の印もあります。官庁の命令で(東?)本町から川西(魚住地区?)のどこかが候補に上がっているようなのですが詳しく分かりません。この移転問題は明治四十二年に持ち上がっていた、とあります。

たしかに現在の中崎2(旧東本町)は明石市役所のお隣の位置で風紀上大きな問題だったと考えられます。

昭和五年の『全国遊廓案内』によれば明石市東本町遊廓に妓楼は十四軒、娼妓は百三十人、店は写真店で娼妓は居稼ぎ、妓楼は千歳楼、西栄楼、栄楼、遊楽楼、一力、いろは、山本、可祝、金波、錦松、三州、尾西、花月、末廣とあります。

旭影』昭和12.1号によれば、昭和10年5月、高砂遊郭に14軒の貸座敷業者に123人の娼妓がいました。

『兵庫県警察史 昭和編』によると昭和21年1月、県下の公娼廃止時に14軒の貸座敷業者に122人の娼妓がいました。

東本町遊廓は戦災も免れ古い建物が特徴でした。戦後はこれといった投資もせず、償却も済み、若手もほとんど他に職をもっているので、売防法施行に対して他の赤線のようなあせりが無かったといいます。

昭和32年末には14の業者と57の従業婦がおり、昭和33年二月末で県下のトップを切ってその歴史を閉じました。


f0347663_12055015.jpg
建物の二階が改装され、隣が三層楼だったのがわかります。
f0347663_12073574.jpg
f0347663_12080338.jpg
                  張店を意識されたのでしょうか?
f0347663_12104964.jpg
f0347663_12113298.jpg
f0347663_12114938.jpg
f0347663_12131154.jpg
    中崎二丁目5
f0347663_12133249.jpg

                  


by gionchoubu | 2019-10-13 12:04 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)