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カテゴリ:亡くなった兵庫の游所( 36 )

尼崎の特飲街 前半

尼崎の特飲街 前半_f0347663_10575387.jpg
昭和30年10月の神戸新聞尼崎版に「市の中心から消えた紅い灯」が載りました。市内四警察署は4月から連続的に売春取締りを強行し検挙件数193件、331名にのぼりました。

この結果、尼崎市内にあったパーク街、浮世小路、難波新地、杭瀬そして進展地にあった144軒の特飲店の内6ヶ月で当局の目論見通り、初島新地に移ったもの15軒、神崎新地に移ったもの28軒、廃業したもの56軒、近く移転する予定のもの17軒、残り18軒が現在地に残ったままと有ります。

はたいて、この5箇所の特飲街はどこでしょうか?

結論から申し挙げると、昭和32年の住宅地図に尼崎市内にスタンドがあった場所が6箇所あり、ここが特飲街だったと私は考えています。

以下の情報は全て当時の神戸新聞です。

まず神田中通りのパーク街、このパークは現在のカンナミ(神田南通り)新地の一本上にあった剣戟などの芝居や映画を上映していたパーク座にちなんだものと考えられ、無許可建築が最も多く、危険な木造三階建てが32戸のうち23戸ありました。

近所の当時この近くに移り、喫茶店で働き始めた当時お嬢さんだった方にお聞きすると、パーク街の存在を知らず、お客さんに場所を聞かれたので、阪神パークの場所を教えてしまったと今でも後悔されていました。

特飲街のつもりで遊園地に行ってしまった人の面喰った様子が目に浮かびます。

昭和32年の地図では5軒のスタンドが確認できます。

次に浮世小路、竹谷小学校の真北に有り、三階の屋根からここの屋根が見えるので父兄の間で問題となりました。戦後最も早く商店が出来たと言われ、隣接の三和が主食市場で、それに平行して特飲街が作られました。

パチンコ屋、一杯飲み屋、ドブロク、カストリ、安酒が主で尼崎型ハトの街として昭和30年には市内数箇所の内、ここが最も繁昌していました。

地図では竹谷小学校に面する通りにスタンドだるま、スタンド一富士の二軒がみえるのでここが浮世小路でしょう。

パーク街と浮世小路は隣接しており阪神出屋敷駅より歩いて五分程、『全国女性街ガイド』で「出屋敷は二十三軒に七十九名、サービス屈指で尺八の名所」としているのはこの二箇所を一箇所としているのだと思います。

ちなみに尼崎にも花街がこの近くありまして、神田中通り六ノ二二九には検番があり、昭和30年に芸妓14人が遊興税値上げに憤慨、二日間ストライキをしたと新聞にありました。

一方難波(なには)新地は官公庁街難波新町にあり、オフィス街、官庁や会社のすぐ裏にあった特飲街です。ただ市は尼崎に特飲街なるものは無いというスタンス、又市警保安課でも「断じてそのようなものは存在しない」ただ市民が勝手にそう呼んでいるだけ、強いて言えば特飲街によく似た行為をやっている場所だ、と逃げの一手でした。

難波新町会と社交親友会がありました。

地図によると、難波新町三丁目に二軒のスタンドが確認できます。現在このあたりにラブホ街があり、とても無関係とは思えません。

杭瀬のスタンド街は阪神杭瀬近く、当時北杭瀬駅があった国道2号線沿いにありました。

当時の地図では7軒のスタンドがあり、卓球場やダンスホールも確認できますし、宮前公園側には松竹映画劇場がありました。

最難関、なにわ新天地に関しては後日に・・・





by gionchoubu | 2020-03-24 11:00 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

新福原遊廓誕生

新福原遊廓誕生_f0347663_18575106.jpg


                         福原遊廓 張店    
明治三年、神戸大阪間に鉄道が敷かれることになり、その最適の場所が福原遊廓地となり、福原遊郭は移転を余儀なくされました。これが現在のJR神戸駅です。

新福原(即ち現在の場所)は人跡稀な荒涼の地で、わずか開廓以来僅か二年で移転命令が出たことにもより各楼主はむずがり、夜逃げ同様姿を消すものもありました。


ところが明治四年大津波で福原遊廓も壊滅状態になり、これが期に五月から業者は続々と新福原に移転をはじめました。


移転当時の遊女は約三百五十名、吉原に倣い大門を建て、町名も仲の町、裏通り、京町と呼び、その後京町は三十軒筋と名を替えました。見返り柳も植えたとあるので、これが柳筋となったのでしょう。


『続編 明治・大正 神戸のおもかげ集(第二集)』によると、大店として、勢徳楼、大砲楼、勢陽楼、萬国楼、宝新楼等十七軒、中店三十九軒、小店十八軒でした。


新遊廓は移転以後繁盛が続き、各楼主も移転新築に投資した借金のめどがつき始めた時、明治五年十月になって突如として政府から出たのが遊女解放令でした。


これは遊女の前借金を棒引き、国許へ帰る旅費のないものには其の旅費まで負担せよというもので、業者は嘆願を続けたものの実らず、福原は全く火の消えたありさま、大門も取り毀されました。


しかし今度は明治六年に貸座敷が許可され福原遊廓も出なおしとなりました。


ただ兵庫県が特殊だったのは明治六年六月十六日付けで市中ならば好みの場所で貸座敷途世を許すと、芸娼妓営業地の制限を解いたので、三の宮、元町、栄町に妓楼を開くものが続々と現れました。


即ち福原遊廓は明治に入って開廓した後、直ぐ移転命令→遊女解放令→津波被害さらに遊女屋がどこでも出来る様になった故、お客を上記の町の中心地に奪われました。


この新規の場所の中で一番繁昌したのが、楠公前八千代座の裏筋に出来た蓬莱長屋で、昔の引見世と同じ見世が幾つも出来、無理やり
通行人を引き込み散財させたので、“二度と行くまい蓬莱長屋、縞の財布が空になる”という俗謡が流行った程の賑わいました。


この続けさまの受難で閉店、廃業の店が相次ぎ、福原では僅かに七軒の見世が無理から大戸を空けていたに過ぎませんでした。


福原遊廓創設以来の取締だった藤田泰蔵は、あまりに廓に不運が続いたので、遂に廓務一切を放擲し姫路に移り梅ヶ坪に遊廓を開きました。これが梅ヶ枝遊廓の濫觴となりました。


参照:福原遊廓沿革誌



by gionchoubu | 2020-03-18 19:09 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

西新開地 二葉新地


西新開地 二葉新地_f0347663_10251248.jpg
昭和8年、第一回神戸みなとの祭りの協賛として二葉新地が催した「おいらん道中」
花魁、禿、金棒を引く手古舞の芸など


芸妓町になる以前の二葉(ふたば)新地は法界屋(門付けの芸能者)の亭主が家で子守をし、代わりに女房の方が三味線を風呂敷に包んで芸妓代用品として現れたといいます。

大正11年3月、芸妓置屋の認可がおりたものの、指定地の二葉町・久保町五丁目では、不景気の折認可は貰って芸妓を抱え込む勇気のあるものが無く、従来から法界屋の鑑札で稼いでいた独身の女が3,4人集まり一軒持ったぐらいという淋しいものでした。

大阪発祥といわれる法界屋は機会があれば又書いてみたいと思います。

その後すぐ、やっこ倶楽部など3軒の雇仲居倶楽部が許可され、西新開地は芸妓と雇仲居と酌婦の町になりました。

昭和に入ると商店街の形成や地域の発展と共に、二葉5丁目には置屋やお茶屋が建ち並び、二葉新地と呼ばれ、福原に対し西の検番と呼ばれ、全盛期には芸者110人、雇仲居50人、置屋30軒ありました。

客層は三菱や川崎などの偉いさんや、駒ケ林の漁師さんが多く、毎晩入りびたり家を売ってしまう様な人も出てきました。

昭和10年の調査で、大正筋及び六間道一帯の商店街が「西新開地」と称される様になりました。

芸者の検番以外に、朝日、中央、太陽、敷島、松竹の5軒の雇仲居の検番があり、昭和34年頃まで柳の多い街でした。

記されてはおりませんが、主に会社の偉いさんが芸者遊びをし、雇仲居は娼妓の役目を負っていたと思います。

二葉新地と並んで久保新地があり、久保新地は戦前6丁目にあり、戦後は5丁目の大丸屋の横丁に移りました。

二葉4丁目にはレンガ筋があり、射的やコーヒー屋(カフェーの事と思われます)があり、地獄谷と呼ばれていました。

この地獄谷は春日野新地でもお聞きしたことがあり、他の古老からもお聞きしました神戸独特の言い回しのようです。この文は『西新開地(西神戸)物語』神戸アーカイブ写真館を元に書いていますが、由来は“入ったらなかなか出てこられない歓楽街”というのがその名の由来でした。

戦後の二葉新地は又の機会に。

又、加藤政洋先生が『神戸の花街・盛り場考』で二葉新地と西新開地についての詳しい記述が有ります。




by gionchoubu | 2020-03-07 10:31 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

福原遊郭 ラシャメン


福原遊郭 ラシャメン_f0347663_10463666.jpg
神戸村では開港以前に十銭で転んだので十銭とよばれた淫売婦や、手軽に春を売った惣花や、おちゃらと言う娼婦が、町家、さらには草陰で商売しました。

慶応三年頃、開港を目当てに多くの外国人が神戸に上陸し、今の元町四丁目で料理屋を営んでいた専崎弥五平という男に女性の斡旋を申し込んだが応じる女はいませんでした。

専崎の出入りに、佐野常助という顔役が七人おちゃらを抱えており、専崎はこの常助にその報酬として、高額の金額を提示したので、自分のおちゃらに持ち掛けたが誰も応じないので、破格の提案、すなわち年期の三年を半分にすると言うとようやく一人のおちゃらが首を縦に振りました。

その西洋人の敵娼を済ませた女が西洋人は大変親切だ、勤めが楽で先方が機嫌を取ってくれたというので、他の六人も年季が半分で仕事が楽という事でぞくぞくと異人を相手にしたので常助はたちまち成金になりました。

明治元年、当時県令であった伊藤博文の友人で遠藤金蔵という男が佐野常助に相談して、十人の連署を得て福原遊廓開設の出願をしました。福原は、その昔、福原遷都の故事に因んで選んだ名です。

そして明治元年、東川崎町、今のJR神戸駅の構内に、専崎を町年寄りに一廓を構えました。

明治元年に発行された『もしほ草』の第二十三編に

「福原町ととなへ、四方に柵矢来を設け、牢屋敷の如し、大門は北向き、右廓内には長屋ていのあやしき家三四棟普請成就いたし、売色は大阪兵庫より、夜鷹、ひっぱりともおぼしき醜婦のみあつまり、その数凡そ百人ばかり、見る目もおそろしきほどの顔色居並び候、しかし斯る醜婦ばかりよくもよくもあつめしものと、皆あやしみ申候」

客も水夫、火焚、黒奴、支那人、日雇い人足などで、一夜の揚代は日本人は金一分、西洋人なら二分で、西洋人相手の遊女はラシャメンと呼ばれました。

福原遊廓は営業開始より枕切れに次ぐ枕切れの大繁盛、明治二年になると、大店、中店併せて二十軒あまり、遊女の総数も二百七、八十名に増え、大店では大宝楼、中店では兵庫屋が代表格でした。その他支那人の引手茶屋の役目をもった南京茶屋もありました。

以前専崎の家に寄食をしていた藤田泰蔵が吉原の廓内事情に詳しかったので、廓風は全て江戸の吉原に倣い、大門の傍らに会所を設け、廓内は車馬の通行を禁じ、夜警は消防人足が印半纏の勇ましい姿、金棒を引いて徹夜で非常を警しめました。

福原には検番もあり芸妓も三十余名おり、風紀の取締りは厳格で、色を売ることは厳禁、お座敷の遊興を扶け、客を陽気にもてなすことのみに勤めたので、柳原芸妓と研を競いました。

参照:福原遊廓沿革誌




by gionchoubu | 2020-03-03 10:49 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

尼崎 神崎新地

尼崎 神崎新地_f0347663_10021500.jpg
 まるで収容所のような特飲店。現在もこの二階の庇の特徴を持つお宅が数軒あります。(人がお住まいなので画像はご遠慮させて頂きます。)

昭和33年2月17日の神戸新聞阪神版に尼崎の青線である初島、神崎両新地が出来たのが昭和30年で、市中心部の業者が辺鄙な場所に移ったと有ります。

神崎新地は戸ノ内町にあり戸ノ内新地の名もありましたが、日本最古の遊廓の一つとされる江口・神崎・蟹島の一つ神崎がこの辺りですので、過去の栄華にあやかる気持ちがあったのかもしれません。

神崎新地も初島新地も尼崎繁華街にあった特飲店が市民の要望と警察の意向で昭和30年に移されたのですが、そもそも何故一箇所でなく取締りが分散される二箇所なのか説明してくれるものは有りません。市内の特飲街の一つ難波(なにわ)新天地は大陸引上者と称したS氏が五千坪の土地を購入して開けたと神戸新聞にありましたので、あるいは相容れない二人の有力者がおり、統一が難しかったと私は見ております。

1956(昭和31)年6月24日のアサヒグラフを見ると、尼崎市の中心部にあった新天地や難波新地に約百三十軒あつた特飲店が、昭和27年に全国で一番きびしい売春取締りの市の条例が出来、市街地から遠く離れた初島と戸ノ内の二箇所に集団移転をすることになったとあります。

昭和30年7月5日、戸ノ内診療所新築完成、その後検診は週2回、保険職員が出張して診察にあたっていました。

不便な移転先では客足も減り自滅するだろうという市警察当局の思惑は外れ、二箇所とも大繁盛、ことに神崎新地は最初移転した73軒の他、新規開業6軒を加え商店なども合わせると200軒という一大繁華街となりました。神崎新地はもと飛行機工場跡を土地会社が買取り、業者に坪千五百円で分譲したものです。

神崎新地の構造ですが、まず毛斯倫大橋を渡り入り口の尼崎北警察モスリン派出所の次の筋、現在のガソリンスタンドのある左の区域です。中央道の右側は神崎新地組合事務所や診療所があるもの特飲店はなく旅館とか料亭でした。

神崎新地は現在の地図でみると、北も南も西も神崎川、猪名川に囲まれ、ほぼ隔離された区域になります。

昭和32年の地図で確認すると、旧町名として、戸ノ内中ノ割、島開、四天田とあり、そこには初姫、養気楼、竜宮、ほがらか、銀月、吉野桜・・・いかにもの店名が並びます。奥には神崎新地互助会事務所も見えます・

昭和33年2月17日の神戸新聞、阪神版をみると、売春防止法施行を前に、半分の32軒が旅館、12軒が小料理屋、他、バー、下宿、お座敷サロン、スタンド、やとなクラブなどに転業希望を出しました。

業者としては他の土地へ出て行く資金もないので、トルコセンターや映画館を作って大阪、尼崎の客を作ろうという計画もありました。

その後神崎新地は又資料が集まれば書いてみたいと思います。

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        この側が特飲街です。
尼崎 神崎新地_f0347663_10055207.jpg
       道を挟んだこの側は旅館や飲食街


by gionchoubu | 2020-02-21 10:08 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

尼崎 初島新地

尼崎 初島新地_f0347663_14235852.jpg
          
尼崎 初島新地_f0347663_14245360.jpg
         戦後の貸座席に時々見られるスタイルです。

昭和33年2月17日の神戸新聞阪神版に尼崎の青線である初島、神崎両新地が出来たのが昭和30年で、市中心部の業者が辺鄙な場所に移ったとしています。

尼崎現代史年表によれば、これに先立つ昭和29年9月12日初島新地では地鎮祭が行なわれ、昭和30年3月初島・戸ノ内(神崎)新地、反対をよそに着々工事進行とあります。

30年10月4日の同紙には、難波新地、新天地、パーク街、浮世小路、杭瀬などの特飲店百四十四軒のうち先立つ半年の間この内二十五軒が初島新地に移ったとあります。

初島新地は阪神尼崎の一つ大阪よりの大物駅から歩くと20分程かかり、歓楽街としても大変不利な場所で、業者が市内に留まりたかったのは明らか、辺鄙な場所に移ったのではなく移らされたのでした。

これは尼崎市内の四警察が4月から、市中心部にあった特飲店にて連続的に売春取り締まりを強行し、市はその後半年で連日のように取締り、市売春取締条例違反検挙を193件挙げ331人検挙しました。

9月には尼崎市中心に150軒あった特飲店の内、元に居座るのは18軒、警察は9月30日にこれら残留者に対して営業停止を勧告したのです。

上記の新聞紙上によると、初島新地組合(59軒、約230人)は昭和33年1月、尼崎中央署に、新地組合を二月末日で解散し、3月中には転業する事などの誓約書を出ましたが、七業者が神田中通二丁目のミス東京横の新店舗を買い取り開業予定であるとも書かれています。

業者にとってみれば、警察の圧力で初島新地に移ったものの、売春防止法施工で、4年経たずに廃業、転業を迫られた訳で、到底そのまま受け入れることは出来ませんでした。

さて、尼崎図書館所蔵の昭和34年地図によると初島新地は南初島町7,8、10番地で、時代は転業・廃業・偽装の真っ最中の様子が読み取れ、旅館として福助、春月、花屋、一二三など11軒、スタンドが奴、ひさご、カドヤなど10軒、料理屋、食堂4軒、バー2軒、青線時代を彷彿させる一力、初島楼、金波、つたのや等30軒ほど、そして組合事務所2軒、初島温泉あとは氷屋、アパート、理髪、パーマなどになります。

正面側には青線業者が無く、表からは隠れた仕組みになっており、裏は神崎川で遮られています。

その後の様子をゼンリン昭和43年の地図で確認すると、旧初島新地の区域で上記の業者と同じ看板で営業している所は殆どなく、富士乃屋、大黒楼、お染め、松竹梅、ことぶき、楽園、大鵬、さゆり等々業種が分からない名前で埋めつくされており、新地時代より多くの店名が書かれています。

そしてゼンリン昭和52年の地図では喫茶店数店あるもの殆どが建設会社系、工業系や個人宅の名前に替わっているので、この間当局の力学が働いたのは間違いない所です。

この辺りの事情は後日明らかになれば再度挑戦したいと考えます。

尼崎 初島新地_f0347663_14255818.jpg
尼崎 初島新地_f0347663_14262703.jpg
                人の気配はありません。
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                こちらも閉められた感じ
尼崎 初島新地_f0347663_14282421.jpg
               右上の意匠も時々見られる物です。


by gionchoubu | 2020-02-16 14:29 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(4)

花街 柳原

花街 柳原_f0347663_11473277.jpg
画像の柳原天神社の隣に祀られている柳原稲荷神社は柳腹花街の信仰が厚かったとのネット情報があります。戦災でこの場所に移動しました。宝恵駕籠もしていたようです。


明治になり神戸では遊女は福原遊廓に限り、宿屋は小広町、神明町、逆瀬川町、東柳原町、西柳原町の五箇所に定められました。

これらの町は飯盛り女という名の非合法遊女や芸妓を置きながら、福原の様に正式に遊女屋渡世を願っておりました。

この頃、柳原蛭子神社の前に「柳原の門」があり、遊女屋があったのは此の門の外であったので、門外(もんそと)といえば遊女屋または柳原を意味しました。

柳原では、一つの場所で遊女と芸者と混在させているのは風儀を乱し、やがて柳原を滅亡させるだろうと危惧し、笹屋、奈良屋、西川、山秀、島米などのお茶屋と置屋が相談のうえ、芸者は其のまま柳原に残り、遊女のみ新川へ移しました。

是が柳原花街と新川遊廓誕生の由来です。関西では遊女無しの最初の芸妓のみの花街と見てよいでしょう。

柳原の花街が誕生した頃の明治12年の『兵神花柳細見』によれば、西川信席、淀川又七席、播本席、奈良屋佃席という五軒に分かれて、芸者は三十八人との事でした。

明治13年に柳原には芸妓88人舞妓2人がいた事になり、(『兵庫県統計概表』)上の数字と随分違います。

明治15年刊『豪商神兵湊の魁』に柳原町に六軒の料理貸席業があり、その中に淀川がありネット情報によれば、往年の映画解説者淀川長治さんの実家という事です。ちなみに『淀川長治自伝』に、実家が当時の花柳街の置屋だったと書かれていました。

その後明治27年に柳原淀検に芸者24人、柳原中検に26人の芸者が居たことになり席(せき)制度からより実用的な検番制度に移行した事が分かります。

神戸中検の芸妓が容色で東京の新橋と比較できるなら、柳原の芸妓は技芸を持って東京の柳橋に譬えられた、と言われたほど技芸の街でありました。

「柳原ながし」 作歌 宮本卯平 作曲 岡安喜太郎

兵庫柳原やなぎはないが 塗りの駒下駄素足にはいて 小褄なりふり柳腰
やんれ微風そよそよふけば 靡く心の恋もある

兵庫柳原やなぎはないが たそや行燈のかげ行く傘も 濡れて燕の飛び模様
やんれ春雨しとしと降れば 泣いて嬉しい夜もある

兵庫柳原やなぎはないが 欞子小窓にほのめく月の 影も艶めく四畳半
やんれ朧夜かすんで更りゃ 人にあかせぬ夢もある

兵庫柳原やなぎはないが みどり丈ながその黒髪を 添えて願いの朝詣で
やんれ暁しらしら明けりゃ 神に無理いう人もある 

参照:『福原遊廓沿革誌』『郷土研究 上方遊廓号』



by gionchoubu | 2020-02-04 11:50 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

兵庫 新川遊廓

兵庫 新川遊廓_f0347663_16411209.jpg
                   地図一              

明治十年八月兵庫の内、娼妓営業地域が福原町、西柳原町、東柳原町、北逆瀬川町、神明町、佐比江町に指定されました。

そして明治十三年四月上旬、嘉納治郎右衛門は土地繁盛の目的を以って新川遊廓設置の出願をし、許可を得て、明治十四年福原及び新川両遊廓の娼妓を一等と定めその他を二等娼妓としました。

新川遊廓誕生には、芸娼妓が混在していた柳原の花街が、遊女は遊女、芸妓は芸妓と区別し、芸妓のみ柳原に残し、遊女のみ新川に移したという裏事情もありました。

明治十五年『豪商神兵湊の魁』に新川開廓当初の大店として今在家町、貸席業として三邑楼と宮本楼が載ります。

さて明治四十二年に前書きが書かれた『花柳界 美人の評判記 神戸市内 西ノ宮 明石』に、兵庫新川遊廓の沿革概要があり、新川遊廓は薬仙寺の前の溝を埋め立て開店したが、明治二十年の頃、新出在家三丁目と南逆瀬川町(勢春楼所在地)に漸次移転した、と書いてあります。

移転前の新川遊廓の場所はわかりません。当時の薬仙寺の敷地は両地図ともずいぶん大きく、当時の門の位置も定かでないので、前の溝がどこか特定できませんが、今在家町のどこかのはずで、移転後のすぐ近くと考えられます。

明治十九年、柴田正編集による地図を見ると、遊所として兵庫に福原町、西柳原町、東柳原町、北瀬川町、神明町、佐比江町が無くなり今出在家町の西に新遊廓地と書かれています。(地図一)

この新遊廓地が移転後の新川遊廓です。明治二十二年の地図(地図二)には正にその場所に新川遊廓が載ります。

ただ他に移転したという記述は、いろんな文献を当たったものの見当たらず、明治二十年あたりの神戸又新日報を見ましたものの遊廓移転の記事を見つけることは出来ませんでした。

さらに新出在家町(新在家町はあります)の存在自体どこを探しても出てきません。これは今出在家町の誤記と考えれば辻褄は合います。

現在の南逆瀬川町1,2丁目は今出在家町より随分離れており新川遊廓とは考えられません。

『町名変更一覧表』に、昭和四十八年に今在家3丁目の全てと南逆瀬3丁目の一部が今出在家町3丁目に変更とありますので、私は現在の今在家3丁目辺りが移転後の新川遊廓の場所と考えています。つまり薬仙寺から画像の今出在家小公園を含み、海岸線線辺りまでの区域と思います。県立工業高校の敷地もある部分含まれるはずです。(2月1日訂正)


とにかく兵庫の町名変更は、今出在家町は条例に1~6と書かれているが4~6丁目は不明・・・などと書かれていたり、変更に次ぐ変更があり尋常沙汰ではありません。

『公娼と私娼』内務省警保局が昭和六年二月に出した資料でも新川遊廓は今在家町と南逆瀬川町になっております。貸座敷二十二軒、娼妓は二百九十四人居ました。

さて、新川遊廓の様子は、

明治二十二年三月に、宮本楼、繁栄楼、新川楼、金栄楼、若山楼、柳原楼、小西楼、豊栄楼、藤原楼そして朝日楼の妓楼十軒に妓数六十三人がいたと記します。

明治二十二年七月二十八日の『神戸又新日報』に、新川遊廓の新川楼と金栄楼では、娼妓が張り店で椅子に腰掛けている、深夜一時、二時まで畳では夏は辛かろう、しかし椅子に腰掛けているので脚気に成らないか心配である・・・という読者からの要らぬお世話の投書を紹介しています。

深夜まで格子の中で客に愛想する娼妓さんの遣る瀬無い表情が目に浮かびます。

明治三十年『神戸みやげ』岡本郎吉著によると「神戸に遊廓二個所あり、一を福原、一を新川と云う、去れど新川は地も西南に僻し、且つ貸席業者も僅々十数軒に過ぎずして遊客の如き多くは水夫等にて別に記するまでのこともなければ遊廓として専ら福原のことのみ挙ぐべし」

と随分下に見られています。

明治四十二年の新川遊廓には勢音楼、第二支店、第四支店、第五支店、いろは楼(第二支店、第三支店)、繁栄楼、小西楼、宮本楼、新川楼、金栄楼、松栄楼、吉野楼、和田川楼、戎楼、松鶴楼、可祝楼、大黒楼があり114人の娼妓がいました。出身は伊勢が最も多く、次いで紀州の女が目立ちました。

昭和五年刊『全国遊廓案内』では貸座敷二十二軒、娼妓は約二百人、店は写真式、娼妓は居稼ぎ、廻しはとらない等と短く纏められていました。

新川遊廓の戦後の実態は何も出てきません。『神戸空襲体験記<総集編>』に昭和二十年三月十七日に新川遊廓辺りも空襲にあっておりますので、此の日に壊滅したのかもしれません。



『兵庫県警察史 明治・大正編』『神戸開港三十年史、下』『福原遊廓沿革誌』

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                  地図二

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                新川遊廓の南端


by gionchoubu | 2020-01-29 16:43 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

西宮 戸田町遊郭


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大正十四年、市制施行で西宮市が誕生した祝いと思われます。左に立花楼、右に音羽楼の名が見えます。傘を差せば傾けないとすれ違えない狭さです。

兵庫県、西宮は西国街道と中国街道が走り、港町であり、酒が名産、全国のえびす神社の総本社である西宮神社まであるという、花街・遊廓が育つ条件が揃う日本屈指の土壌がったと言えます。

さらに奈良朝時代より徳川時代初期頃までの間、諸国の宿場で春を売った傀儡(女)くぐつ(め)の守り神であった百太夫まで祀られているとあれば、直接西宮遊廓との関連は無いでしょうが、游女に縁の深い土地と言えます。

江戸時代に飯盛女という宿場女郎もいたはずですが、はっきりとした記録は残ってないようです。

明治初年に虎屋・油七等の旅館が貸席業に替わるも、一年余りで禁止され、間もなく営業を許され、貸席業者の中には娼妓と芸妓の両方を抱えるものがありました。

明治十年、東の町、石材町、久保町、鞍掛町、馬場町、中の町、釘貫町に貸座敷ならびに娼妓営業区域が指定されました。

明治十二年に兵庫県として娼妓と芸妓の兼業(二枚鑑札)が禁止された頃、西宮に芸妓72人と舞妓が6人おり、貸座敷が東ノ町ほか2町に23軒、娼妓は80人いました。

これでは風紀上、取締上よろしくないという事で、明治四十年、六馬、田中、丸谷、京吉、京與等本町筋に有ったものや馬場町にあった業者を東は与古道筋、西は今在家筋に至る戸田町界隈に集合させました。

これが西宮戸田町遊廓の起源で、土地の人は裏町と呼んでいたはずです。

大正の末頃には本町裏通(通称裏町)に貸座敷39軒、娼妓355名、芸妓126名と19軒の芸妓置屋がありました。

昭和4年、西宮遊廓移転問題が起こり、廓内は移転派と反対派に分かれました。反対派は、移転先の集客の不安と、新建築の費用の負担の捻出問題等を市長に陳述しました。結局移転問題は立ち消えになった模様です。

芸妓は都司楼、三福楼、阪東屋、東亭、おきな、さし金、常盤、橋熊、ごまや、〇長、〇萬、等の料亭に入ったものと思います。

店は写真式、娼妓は居稼ぎ制、遊びは時間か通し花制で廻しは取りませんでした。

六月には裏町遊廓の東はずれの円福寺の愛染祭があり、町の主婦たちが遊廓を通ると塩を撒かれるくらい、女の人が敬遠している廓の通りを、この夜だけはオケンタイ(大っぴら)に歩いて愛染さんへお詣りしました。

裏町きっての大店であった、本町から移ってきた六馬楼の店先には、美しい花魁人形を飾って参拝客の目を楽しませた事もありました。

その後、戦災で全滅したものの、終戦後またたく間に復興、ただし昭和32年7月に115人いた従業婦は、33年3月には88人に減り、この月15日、西宮席貸組合は解散式を行い赤線時代を終えました。

参照:『猥褻風俗辞典』宮武外骨、『西宮町史』、『兵庫県警察史 明治・大正編』
『全国遊廓案内』、『西宮大観』、『酒都遊覧記』飯田寿作、浅田柳一著、『神戸又新日報』昭和4年2月9日の記事、『神戸新聞、阪神版』昭和33年3月15日の記事

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             市政十周年、昭和十年の写真
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        ほとんど消失していますが、ここが戸田町遊郭跡と確信しています。
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大阪の瓢箪山稲荷神社に、裏町きっての大店の六馬楼が奉納した玉垣があります。
遊郭業者が自分の郭内以外の神社に奉納するのは大変珍しいと思います。ほかに大阪新町関係も祀られています。



by gionchoubu | 2020-01-22 12:14 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

真光寺前の笹屋の八重菊

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         兵庫津の遊廓跡めぐりで、何度も兵庫大仏に会いました。   

先日、天保の末期から弘化の初年に掛け(1840頃)、佐比江町、真光寺前、土手下(湊町)に引店が出来て非常に繁盛したと書きました。

引店とは、客の袖を引いて無理やりに遊ばす、チョンチョン格子より更に下等なもので、船頭や漁師などの遊び相手となり、女は毛饅頭と呼ばれました。

宮武外骨の『猥褻風俗辞典』によると、この毛饅頭は武蔵の国本庄町でも使われたようで、“「毛饅頭」とはここに解説しがたき猥褻の語義なるべし。”と書かれています。

さて引店が下等なら、中産階級以上の人は『割』又は『両掛』と称する芸、娼妓兼帯の女のお世話にありました。所謂二枚鑑札の女です。是は嘉永年間(1848~1853)に磯之町に現れ日夜繁盛、磯之町の娼家は殷賑を極めました。

ところが、文久三年(1861)に天領であった兵庫津を管轄していた大阪の与力勤番所から、突然お触れがで、佐比江町、真光寺前、土手下の三箇所の引店と磯之町の両掛宿を一箇所に柳原に集め遊女渡世を厳禁し、宿屋に業種変更を命じました。

しかし、女に多額の投資をしていた業者は結局、表面は宿屋であるが、実は日本全国何処でも行なわれていた様に、飯盛女の名目で女を留め置き、遊女業を勤めさせました。

当時の柳原の大店として、佐比江から西川、奈良屋、佐野屋、赤源、播重、公辰、山秀、土手下から住吉屋、竹の屋、真光寺前から笹屋、橋本、磯之町から明石屋、箔屋が引越しをして来て、西川と山秀は昭和になっても営業していました。

当時兵庫津で名を馳せたのが真光寺前の笹屋の八重菊で、其の頃の流行歌に

娼妓(おやま)買うなら真光前で、音に聞こえた八重菊買やれ、この妓匂いも色もある

と囃されました。柳原に移ってからは本名の小菊を名乗り全盛を続けました。

さて、そもそも与力勤番所がなぜ柳原に多くの宿屋を必要としたか・・・それは幕末の坩堝の中、幕府の軍勢が長州征伐に向かう際、幕府軍の兵士が泊まる宿屋が徹底的に不足したので、それに充当する為という、幕府存亡に賭けた事情があったからでした。

幕末の見逃された歴史と言えそうです。

これに先立つ二十年前、天保の遊所整理で大阪でも泊茶屋なるものが誕生しましたが、或いは裏にこういった力学が潜んでいたのかもしれません。

参照:福原遊廓沿革誌

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                真光寺


by gionchoubu | 2020-01-19 15:05 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)