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カテゴリ:亡くなった大阪の游所( 7 )

大阪 池田の花街と赤線

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駅から北へ商店街を抜けるとすぐ呉春(酒造)があり、そこが新地の入り口です。
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大阪府池田市の綾羽一、二丁目は以前米屋町、中之町(なかんちょう)と呼ばれ、戦前は芸者の置屋が数軒と検番が二箇所あり、十数軒の料亭が軒を並べ、北摂でただ一つの花街として知られていました。

その起源を辿ると、明治九年、めん茂楼、十年にみやこ楼が開業すると、立派な旅館・料亭が立ち始め、それ以前の角糸楼を合わせ、北摂一帯や大阪などからの遊覧客や地域の有力者たちの会合場所として発展しました。

明治三十一年、本町にあった富士一楼の藤田由松という人が本検という検番を設置し、芸妓二十数名を抱えて各旅館・料理業者の招きに応じ始めました。

その後宝検、旭検、中検などの検番が立ち上がったが結局本検のみが隆盛をきわめていくようになりました。

この規模の花街で四つの検番があるのは異常と言ってよく、たぶん芸妓の所属する置屋、あるいはせいぜい二、三軒の置屋グループを検番と称していたのだと思います。

そして客はお茶屋でなく、旅館、料理屋に入ったのでしょう。

明治四十年に本検は拡張され呉服検合資会社となり、各料理屋を組織して呉理会が出来ました。

池田の花街の情報は今のところ是ぐらいしか分かりません。

昭和十九年に大阪から遊廓が疎開して戦時中この地で新地として営業し、戦後に綾羽町商店会を組織しました。

そして綾羽町の特飲街は「綾羽新地」あるいは「池田新地」と呼ばれました。

昭和二十八年から二十九年にかけ住民側の「風紀取締を求める陳情」業者側の「風紀取締の罰則緩和を求める陳情」の後、市長参加のもと「風紀問題に関する懇談会」が催され、両者は対立しました。

結局、池田市では昭和二十九年二月二十七日に風紀取締条約を制定して、池田新地や以前の風紀取締法の規定により許可を受けていたものは(売春の)取締りを免れることを確認したので、反対派は赤線業者に押し切られる形になりました。

罰則は赤線地域以外の私娼を取締るという池田新地にとって都合のいいものに過ぎませんでした。

昭和三十三年の売春防止法施行時、十五の業者が池田新地待合業組合「池田新地かなめ会」に属し、七十人の女性が働いていました。

そして同年、大阪の布施新地、港新地、守口新地とともに池田新地はその歴史を閉じました。昭和三十九年『アトラスの住宅地図』をみても綾羽一丁目、二丁目にはその痕跡は全くといって良いほど認められませんでした。

参照:『新修池田市史 第三巻、第四巻、第五巻』『池田市史 史料編11』


新地の突き当りにある伊居太神社には昭和三十年六月に十周年記念(新地ができたのが昭和二十年とは終戦時に誕生したことになります)刻まれた一対の狛犬があります。赤線業者からの寄贈を神社が受けとるか?という疑問を抱えながらこの地を離れました。

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by gionchoubu | 2019-10-25 15:19 | 亡くなった大阪の游所 | Comments(0)

枚方の遊廓 TSUTAYA

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      貸座敷数    娼妓
明治12年  39軒    87人
  17年  31     37
  22年  23     28
  27年  34     56
  32年  33     44
  37年  31     32
  42年  20     33
大正 3年  33     32
   8年  35     49
昭和 4年  35    108
   9年  35    123  
  14年  35    165

貸座敷の数は時代をまたいで似たような数字が並びますが、娼妓数は昭和に入って激増しています。

大正三年三月には廓の芸妓によって第一回の万年踊りが始まりました。又、京阪電鉄の経営に係る枚方菊人形開館中、同廓芸妓中による枚方菊踊りを催しました。
  
昭和五年発行『全国遊廓案内』によると貸座敷は三十五軒、娼妓は百十人、店は陰店、娼妓は送り込みですが居稼ぎもいました。廻しは取りません。

妓楼として挙げられたのが、鶴の家、茂壽屋、大芳、東河内屋、玉芳、華屋、奥野楼、丸伊、花月、竹の家、馬野、上田屋、津の国屋、西松月、松屋でした。

昭和30年刊行、渡辺寛著『全国女性街ガイド』によると、

「昔の宿場で三十六軒に百八名、どっしりとした家並の、黴くさいのれんの間から客を呼んでいる。

十時から八百円なんて安い里だが、橋本に次いで、遊び慣れた四十男が好んで行くところ。

その逆手をとり、若いものが行くとモテる。枚方新地という。」

枚方桜新地で特筆すべきは、多くの人が毎日お世話になっている物が、桜新地由来となっている事です。

ティーポイントカードの発行元TSUTAYAのつたやは桜新地の貸座敷蔦谷のご主人がルーツとなっています。

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by gionchoubu | 2019-08-09 11:30 | 亡くなった大阪の游所 | Comments(0)

枚方の遊廓 桜新地

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                   以前に撮らせていただいたもの。現在はありません。

明治五年政府により遊女解放令が出されると、堺県では遊女の自由営業を認めると共に、お茶屋や席貸業の許可地は堺の新地と乳守と枚方の三箇所に限られました。

枚方宿の遊所は明治六年泊茶屋の名称を廃され、以来席貸遊妓の免許地となって継続しました。

泊茶屋は大阪独自の制度で天保の改革の際、公許地の旅籠屋に泊茶屋の名称を与えた事に由来しています。

明治九年、枚方遊廓の貸席業者は五十三軒でそのうち三矢(34軒)泥町(15)で売妓もこの二箇所で95%をしめ、女の年令は十五〜十九歳が最も多く56,7%でした。

明治十年、これまでの純粋芸妓と売妓を売妓と総括改称しました。

構成する四村全体が免許区域であった枚方宿は風紀上の問題や町民の要請もあり、明治の中ごろ泥町は貸座敷者多数を占め殆ど遊女町と変らぬ様相になり、掛行燈の灯の入る頃より次第に誘客の往来繁く、正に不夜城の観を呈していました。

明治四十一年三月十四日大阪府告示第六十六号を以って枚方大字三矢の堤防を開拓して邸地となして桜新地と名づけ、大字三矢、同泥町、同岡、同新岡に散在していた貸座敷免許地を、同四十一年九月三十日限り廃止すべき旨を告示しました。

結局、貸座敷の建設は此の期間中に出来ず、同四十二年四月三十日まで延期されました。

移転当時貸座敷二十軒、娼妓三十三人、芸妓二十と規模が縮小した事が分かります。

大正八年ころには、煙草屋、人力車帳場、料理仕出屋、寿司屋、うどん屋と遊廓事務所(検番)はある歓楽街でした。

参照:『枚方市史』:(旧)『枚方市史』:『日本遊里史』上村行彰著:『新版 郷土枚方の歴史』枚方市編修委員会


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                       この風景も今はみれません。


by gionchoubu | 2019-08-06 16:54 | 亡くなった大阪の游所 | Comments(2)

枚方の遊郭 鍵屋

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                      河内名所図会 枚方駅

淀宿と守口宿の中間にあった枚方宿は岡新町から、泥町村の南端まで十三町十七軒、京阪枚方駅から枚方公園駅までおよそ1、5キロと非常に長い宿場町でした。

宿場の経営は、今で言う補助金が出る場合もありましたが、基本宿場維持は宿場側の持ち出しであり、公用の貨客輸送の任を帯びた枚方宿の財政維持は困難を極めました。さらに、枚方宿は京街道を通る紀州、泉州の大名行列や長崎奉行の往来もあり、財政を圧迫しました。

幕府は宿場運営にお金は出さない代わりに、飯盛女の名で遊女を黙認しました。

宿場維持の為飯盛女が消耗品として酷使されるという図式は容易に想像されます。

枚方宿の四村の一つである三矢村では文政十三年から元冶元年の三十三年間で三十四件の飯盛女死亡の記録があります。これは史料に恵まれた事例とされ、枚方宿の飯盛女全体ではいったい何人亡くなっていたのか分かりません。

さらに遊廓につきものの心中事件も以上に多いのが枚方宿の特徴と。宝暦五年より文政十年まで六件の心中事件の記録があります。

享保七年大賀越前守は幕府の方針として心中御法度のお触れだし、心中という言葉すら相対死という言葉を充て重犯罪としました。

明和二年四月十八日、伊八女郎・中振村新七の心中があり、男は死そんじ、女は埋められました。その後八月六日、新七は打ち首、女郎は掘り起こされ、二人とも晒されたほど厳しいものでした。

諸国遊所競には、最下段であるものの、かはち、ひら方で顔を出しています。

もう一つ、枚方は水路交通の要所として、三十石船が昼夜別なく行きかったことで、枚方付近にくると、くらわんか船という小船がこぎ寄せて、河内弁で「餅くらわんか、酒くらわんか」と物を売りつけにきました。

客が拒絶反応をしめすと、汚い言葉でののしり、三十石船の苫を手荒く引き上げ、寝てい客を驚かせしましたが、天下の特権としてお咎めは無かったそうです。

現在も残る鍵屋のある三矢村堤町一帯は弦歌さざめく歓楽の地で「淀川三十石船唄」に

√ここはどこじゃと 船頭衆に問えば

ここは枚方鍵屋浦

鍵屋浦には 碇はいらぬ

三味や太鼓で 船止める


『宿場町』芳賀登著:『枚方市史』:『新版 郷土枚方の歴史』

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                         鍵屋
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中は博物館になっており、くらわんか船の再現など見所満載でした。


by gionchoubu | 2019-08-01 11:48 | 亡くなった大阪の游所 | Comments(0)

枚方の遊郭 枚方宿

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                       枚方宿

江戸の日本橋から京都の三条まで東海道五十三次があります。この京都から大阪に至る、伏見、淀、枚方、守口の四宿を加えて東海道五十七次といいました。

この大阪までの四宿は淀川が併走しているのが特徴で、伏見から下り船を利用する者が多く、それが元に片宿で呼ばれました。

旅籠屋は天明(1781~89)から天保(1830~44)にかけ増加し、飯盛女も天明に4名であったものが寛政(1789~1801)には127名以上に増え、枚方留女、隠売女躰(いんばいおんなてい)売女芸子躰などと呼ばれ、在郷に不似合なほど諸事華美をつくし、奢侈の風を増長し、旅籠屋は茶屋遊所同様となりました。

元禄四年、二月二十八日、オランダ領東インド会社の随行者であたエンゲルベルト・ケンプェルは

「此処には多数の旅亭・飲食店ありて、そこにて少数の銭にて茶を喫し、酒を飲み、又種々の温かき食物を得べし。

(是等の宿屋及び公衆の立寄る家々は)各戸に化粧したる若き私窩もあり(戸口に立ち、旅人を見蒐けて呼び込みつつを以て、容易に其と知らるるなり)

又、文政九(1826)年三月十七日に枚方を通ったフィリップ・シーボルトは

「枚方は一大村なり。大坂の住民が遊楽地としてよく来る所にして、そのため町は遊女にてうまりたり、それは余が我一行に一時間も先立ちて、少数の同行者と此町を歩み通りて、町の人々を好奇心より戸の前に喚起でしために、いよいよ多く目に入りしなり。」と書いています。

枚方宿は岡新町村、岡村、三矢村、泥町村の四村から成り、近世後期、三矢村では旅籠屋が置屋の役割も呼び、「子方呼屋」と称する小楼へ飯盛女を置り込んでいた。

想像するに、旅籠屋は飯盛女の名目の遊女を自所で旅人の相手をさす以外、席貸である子方呼屋に飯盛女を送り込み、在郷の者の相手をしたのでありましょう。

文政時代十一軒あった煮売屋はもともと仕出屋として旅籠屋や子方呼屋にも料理を仕出ししていました。

しかし天保になると煮売屋自体が料理茶屋になり、飯盛女が送り込まれる様になると子方呼屋の方は衰退を余儀なくされた様です。

その後は旅籠屋と煮売屋との間には「札代」の支払や料理の仕出をめぐって対立が絶えず、村方の仲介で和談が成立したりしていました。

参照:枚方市史研究紀要 第八号 『近世枚方宿と飯盛女』福山昭・山口尚子著

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                      枚方宿の本陣、旧三矢村


by gionchoubu | 2019-07-25 13:48 | 亡くなった大阪の游所 | Comments(0)

テキサス大通り 豊中のパンパン宿

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  テキサス大通り,阪急駅は蛍池

R・R・センターが奈良から神戸に移る前、大阪が候補地に挙げられました。その理由の一つに「伊丹空港に近い」というのがあります。

当時伊丹空港はItami Air Baseとして米軍基地でもあり、朝鮮戦争の前線基地として使用されていました。

朝鮮戦争中、5日間の休暇を得たアメリカ兵が伊丹に送られると、100ドル乃至300ドルを円に替え女と酒を求め奈良のRRセンターにバスで移動しました。

ところが、『占領と平和運動』佐藤公次著収録「蛍ガ池小学校区域」昭和28年九月と書かれた手書きの地図をみると、伊丹空港に大阪府で接する豊中市の阪急蛍池駅周辺から伊丹空港までの地域に100軒余りのパンパンハウス、10軒ほどの旅館、アパートそして40軒に近いキャバレー、カフェー、特飲店が描かれています。

特飲店とは「広辞苑」によると“特殊飲食店”接客婦をおく飲食店。1957年(実際は1958年)の売春防止法施行まで、売春婦を置いた店をいった。特飲店、とあります。

特飲街は特殊飲食店街の事で旧遊郭免許地、いわゆる赤線です。豊中には遊郭も赤線もありませんでしたので、買春のお墨付きと言っていい特飲店の許可の元営業ができたのでしょうか?

豊中の市史や年鑑には触れられていないものの、昭和28年の豊中の公安の資料に風俗営業取締法第一条一号営業待合料理店(小料理店)カフェ(バー)、第1条2号営業、キャバレー、ダンスホール、ダンス教授所、第1条3号営業、遊技場の欄があり、この第1条1号のお店が昭和25年の1月には8軒だったものが昭和28年の10月には39軒と大幅に増えています。

これこそが上記の40軒のキャバレー、カフェー、で風俗営業取締法第一条一号の営業許可を得ていたことで、特飲店とするのは無理があると思いますが正直よく分かりません。

そしてこの40軒の殆どが俗称テキサス大通に集中していました。

「蛍ガ池小学校区域」で色付けをしたのがテキサス大通り、あるいはテキサス通りとされた道で、蛍が池駅側にはITAMI AIRFIELD ENTRANCE のゲート、伊丹空港の近くは特に多く、ワシントン、ハワイローズマリー、ニューヨークなど十数軒がひしめき、その他通り沿いにハッピーアワー、リツルマン、フライングボール、ストリークラブ、ビレッジバー、ココナッツ、パシフィック、ブラックアウト、ドラゴンなどがありました。

『新修豊中市史通史二』に占領軍を迎い入れるに当り、大阪府は大阪市内および豊中・池田両市に「特殊慰安施設」を十数ケ所設置することが決定された(「朝日」昭和20年9・14)とあるので、豊中、蛍ガ池に戦後すぐパンパンハウスができる土壌があったと考えられます。

昭和25年には6月23日、8月6日、28日、11月20日に街娼婦の検挙取締りが行なわれています。

さらに、昭和26年(1951)1月20日、「街路等における売春勧誘行為等の取締条例案」が豊中市議会で即日可決されました。

その後2月5日、9月19日、20日、10月10日、12月22日にも取り締まりが行なわれ、10月30日には進駐軍兵士と日本人女性の心中事故も発生しています。

昭和27年には毎月取締りがあり、2月9日と2月23日には蛍ヶ池風俗営業者指導取締実施も催されました。

さて、奈良の尼ヶ辻のパンパンハウスがそうだったように、蛍池のパンパンハウスも農家の間借りだったはずです。それにしてもこれだけの色地域が、私が歩き回った限り、奈良RRセンターや大津の山上町のパンパンハウス地域と同じく、全く痕跡を残さないのはキャバレーの建物などは殆どバラック程度の作りだったからなどでしょう。

アメリカ軍兵士としてはわざわざ奈良にいかずとも空港から歩いてすぐに遊べる場所があればそれに越したことは無かったでしょう。

現在、当時無かった11号池田線とテキサス大通の交差するところにファッションホテル街があるのは全くの偶然でしょうか?

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                      テキサス大通り
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                       テキサス大通り、伊丹側


by gionchoubu | 2019-06-27 11:59 | 亡くなった大阪の游所 | Comments(0)

飛田新地と鯛よし百番


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  飛田新地の料理屋、よし百番

大阪の飛田遊廓に関しては色んな人が色んな所で書いているのでここでは短く纏めてみました。参照は昭和五年発行『全国遊廓案内』と昭和八年四月一日発行『郷土研究上方 上方遊廓号』です。


当時日本屈指の大廓と呼ばれた飛田遊廓の沿革は明治四十五年の南の大火で被災したミナミの難波新地の業者を中心に、松島遊廓の業者(全国遊廓案内では新町遊廓となっていますが松島遊廓のはずです)を加え大正七年十二月二十七日に開業しました。

そして治安維持の必要から今宮警察が新設されました。この頃は飛田遊廓でも芸妓も呼べることが出来ました。昭和の初めで一時間の玉代は一時間約九十銭ほどでした。

遊興は写真店(客は写真で娼妓を選ぶ)で娼妓は全部居稼ぎ制(娼妓は置屋から送り込まれるのではなく、抱えぬしの家で客をとる事)

遊興は時間、又は通し花制(一人の客に娼妓が付きっきりでいる事)で廻し(一人の娼妓が同時に二人以上の客をとる事)は一切とらず、一時間一円五十銭。遊興費に酒、肴、茶果の類は含まれませんでした。

一流妓楼である特大店は巴里、御園楼、都楼、世界楼、日の本楼

準特大店として設備万端に於いて特大店以上の豪華を極めていたのが本家第一と東大一

モダン設備を整えた儀楼は大喜楼、梅ヶ枝楼、君ヶ代楼、港楼、福愛楼、河萬楼、マツタニ楼、キング、大和、新大和、角タツタ、第二梅ヶ枝楼、第三梅ヶ枝楼、本家大一楼、東大一楼、三州楼、富貴楼、巴里など

昭和八年ごろには業者の数二百四十軒、娼妓数総数三千二百名を数え、毎五日目に検黴を行い一年を通しての入院率は二百五十名内外で毎年四回の慰安会が催されました。

昭和33年2月7日の毎日新聞、京都版によれば、売春防止法施行直前の飛田は飛田新地組合約180軒と明豊新地組合23軒に別れ接客婦1,400人が所属しておりました。

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玄関をくぐります
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玄関入ってすぐ左、もし創業が飛田遊郭開業と同じぐらいなら時代的に考えて陰店として使用予定の可能性が強いです。娼妓が襖裏に並び指名を待つわけです。ただし写真式に移行したので陰店として使用されなかったので無いのでしょうか・・・

                   

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                      中庭を二階から望む
               
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陽明門
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                          陽明門の中
              
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                        陽明門の中
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                    庭を望む特注の窓
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                      一階玄関を進んで右
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                      一階三条大橋と三条小橋
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                      日本一の太郎
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                         一階山殿、太夫図でしょう。
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  以上山殿
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                         由良の間の天井

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                     一階、秀吉公でしょうか
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                      二階狭い廊下
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                       二階島田の宿の向い

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                     その中、船の上で密会気分
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天井は大井川の渡し
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天神祭りでしょう。
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二階から一階へ



by gionchoubu | 2019-03-20 11:40 | 亡くなった大阪の游所 | Comments(0)