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カテゴリ:亡くなった奈良の遊廓( 38 )

奈良RRセンター その二


奈良RRセンター その二_f0347663_10560329.jpg

                        近鉄尼ヶ辻駅

今回参照しているのは1953年8月発行の『古都の弔旗:奈良R・R・センター調査報告書』奈良R・Rセンター調査団によるもので、同調査によるRRセンター、の移り変わりを記すと


1952年5月 1日 RRC設置

     9月 3日 廃止同盟結成

1953年6月26日 一時閉鎖

     7月27日 再開=朝鮮休戦

     8月11日 神戸へ移転発表

と非常に短い期間だったことが分かります。

さて、RRセンターを中心としたパンパンとアメリカ兵との売春の形態を見ていくとまず挙げられるのはバー・キャバレーを中心とするもので、五日間の休暇を与えられたアメリカ兵はバーなどで営業者やボーイと交渉し女を手配するというものである。相場は一日五千円で、パンパンが謝礼として一割ほどボーイに支払っていたようです。

もう一つは反社会集団を中心としたホーハウスという根拠地(名前の由来も、場所も不明)を持ち自動車を使ったもので、この場合はパンパン三割、親方三割、ポン引き三割で、残りの一割はパンパンが検挙された時の差し入れや予備費という名目で親方が保管していました。

その他アメリカ兵とパンパンの直接交渉があるものの、発覚すればこの世界の慣例として営業主及び同僚から大変なリンチを受けました。

RRセンターの周辺を見てみるとカフェ、バー三十四軒、ギフトショップ十二軒、パンパン・ポン引き用の飲食店七軒、キャバレー四軒、写真店(スケッチ屋)四軒、洋品店三軒、ストリップショー三軒、靴屋二軒、美容院、衣料店、射的、駄菓子屋それぞれ一軒で経営者は大部分、大阪、京都の人々で、その中には大阪の台湾人四人、奈良の朝鮮人一人、奈良の地本三人という事でした。

バーの建築には耐火建築であることが建築条件ですが、三軒が条件にかなっているのみで大部分は木造に原色豊かな仮建設でした。

上記の移り変わりを見てみれば、この降って湧いたようなRRCの開設がいつ廃止、移転されるか分からない情況の中、大きな投資をしてバーを建設するのが躊躇われ、殆どがバッラク状であったのは無理ならからぬものだったのは容易に推察されます。

実際奈良RRCは一年三ヶ月で神戸移転が発表されました。

当初RRセンターがあったのは横浜、大阪、小倉、この大阪のRRセンターが奈良移り、さらに神戸に移転したわけです。
奈良以外はすべて港を持つ町で、港を持たない奈良は海兵隊にとってかなり不便な立地であったと思われます。

今後事情が分かれば大阪から奈良に移転された理由も調べてみたいと思います。

by gionchoubu | 2019-04-07 11:05 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良RRセンター その一

奈良RRセンター その一_f0347663_14580484.jpg
                   奈良RRセンター(現積水化学工業)

昭和二十七年以降の奈良市内での警察活動を語る上で欠かせない問題に、戦後日本の特異な風俗として多くの社会問題を投げかけたRRセンターをめぐる問題がある。

このRRセンターの正式名称は「Rest-Recreation Center」で略してRRセンターと呼ばれていた。
(NARA Rest And Recuperation Center が正式名称です。5/4日訂正)

RRセンターは進駐軍将兵、特に昭和二十五年六月二十五日未明朝鮮半島の三十八度線で勃発した朝鮮戦争に、韓国軍援助のため出撃する国連軍兵士の休養施設として設けられたもので、昭和二十七年五月一日大阪市内から奈良市横領町の旧興亜機魁工場に移転・開設され、その収容能力五百名といわれた。

こうした休養施設は、昭和二十八年当時、全国で奈良と横浜それに小倉の三ヶ所に設けられていた。

RRセンターの移転・開設とともに大阪から移ってきた兵士相手のキャバレー・カフェー業者たちは、RRセンター正面のある横領町から尼ヶ辻一丁目にかけてのわずかの間に、キャバレー二軒、カフェー十三軒、レストラン十軒、ギフトショップ二十四軒などを立ち並べ、時ならぬ不夜城を現出することになった。

また、パンパンガールと当時呼ばれた不特定多数の占領軍兵士相手の売春婦や、占領軍将校など特定の男性から一定の生活費、住居を与えられてその娼婦になり当時オンリーといわれた者ら約二千五百名がここに群がり、彼女らに間貸する民家も多数にのぼった。

いつの世にもこうした売春問題で心配されたのは性病問題であり、これを案じた奈良地区司令官ロング大佐は、県に対してその予防法の樹立を申し入れた。

検予防課は、占領軍関係業者に呼びかけて「進駐軍サービス協会」を設立、同協会に属する接客婦三百人に身分証明書とバッジを発行し、県立奈良病院で週一回性病の検診を行なうなどの検診体制をとった。

こうして事実上「非日本人用赤線区域」が奈良の西郊に出現し、ここに月一億円の金が落ちると噂されるほどになった。

RRセンターを利用する兵士たちの数は一定しなかったが、朝鮮半島での戦場から帰った兵士たちは、ここで五日間の自由時間を与えられ、多額のドルを日本円にかえて外出し、古都・奈良の風物に接した、

以上『奈良県警察史 昭和編』編集 奈良県警察史編集委員会より




by gionchoubu | 2019-04-02 15:01 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良 五条市の花街

奈良 五条市の花街_f0347663_12020276.jpg
『大和名所図絵』に「五条里は宇智郡の駅(うまや)にして四方の旅客ハここにゆき、遠近の産物もこゝに交易して朝市夕市とて商家多く郷の賑ひいはん方なし」と記しています。

五条村が大きく発展するのは筒井家三家老家の出身松倉豊後守重政が二見城主に任ぜられて以来で、寛永一六年(1639)正式に五条村に伝馬町がおかれ、吉野郡奥地の物資の集散・中継ぎの役割を果たすようになりました。(『奈良県の地名』平凡社より)

この五条市にもかつて花街は存在しました。

昭和四年二月十三日の大阪朝日新聞大和版に『滞税せぬのは当り前の事だす』県から表彰された若松の女将の記事が載りました。

その内容は

「県から納税功労者として表彰された宇智郡五条町大字須恵、松浦こう(47)は表彰者でも変り種の料理屋の女将、五条地方では芸者時代の若龍さんで通っている。五条町新町で生まれて、芸妓から現在の須恵で抱え芸者三人をもち兄弟の子まで引き取って一人は五条高女へ一人は小学校へ通わせている。

そして現在は芸者置屋兼料理業若松の女将に〜略〜五条一流の料理店名月の夫婦や五条町の旧常盤時代の朋輩(ほうはい)でそのころから賢い人だといはれてゐた。

酔へば『諸君よ諸君、我党は』と演説をやるが、それは政争地の五条で叩きあげた関係で、さて政友か民生かと聞くと『私は中立や』とぬらり逃げてしまふ。

その演説が道楽で、商売を始めて十六年、大正十一年遊興税が実施されて以来、一回も滞納せず検番の集会でもその演説口調で納税鼓吹をするなどが今回表彰の動機となったもので・・・以下略」

この記事で五条市にも検番のある花街があったのが分かります。芸妓は他の小都市がそうであった様に、お茶屋はなくて、料理屋や旅館に入ったものと思われます。

同じく同紙の昭和五年二月十九日に、吉野郡賀名生村で賀名生節「大和賀名生を知らないかトコオシャラカホイ」を蓄音機、ラヂオで宣伝したが、そろそろ梅の見ごろとなるので、今度は右歌曲に島田豊氏が振付けして賀名生節踊りが最近出来上がったので、五条芸妓に習得させ、本年から宣伝することにした。」

が載ります。(白黒画像載せました)

さて、今回五条市にお邪魔し、図書館では全く情報を得ることが出来なかったものの、近鉄五条駅のすぐ近くの旅館(今は空き地)の二階に芸妓が佇んでいたのを聞いたことがある、という話と、置屋街が田中という所にあったとの情報を複数頂き訪れてみました。

ただ、五条市の花街がいつ誕生し、いつ無くなったか全く分かりません。


奈良 五条市の花街_f0347663_12024827.jpg
                        大和名所図会
奈良 五条市の花街_f0347663_12034436.jpg
                     置屋街のあった田中
奈良 五条市の花街_f0347663_12194816.jpg
                       近鉄駅付近の旅館
奈良 五条市の花街_f0347663_12211475.jpg
                      カフェー調の純喫茶
奈良 五条市の花街_f0347663_12205239.jpg
                       エデン
奈良 五条市の花街_f0347663_12223949.jpg
              現役だったとしてもエデンさんの扉を開く勇気はありません。


by gionchoubu | 2019-03-25 12:23 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良市 南市の花街  三

奈良市 南市の花街  三_f0347663_10500393.jpg

大正15年7月27日大阪毎日新聞に『芸妓さんも試験制度になった 落第したら稼業出来ぬ 南市町新検番の敢行』の記事がのりました。

「奈良南市町新検番では最近芸妓の技能が著しく低くなり暫時堕落するといふ声に鑑みて、これが挽回策として愈々試験制度を採用することに決定し、その第一回の試験を二十六、七両日同町中央倶楽部で執行した。

受験する姐さんは同検番六十八名の紅裙連で科目は舞三味線の二つ、題目は五日前に検番から姐さん連に通知ずみだが、この試験は二ヶ月に一回づ々行なわれるので、万一これに落第すると芸妓稼ぎができないといふ厳重な掟である試験が情実に流れるといけないから、試験官には村山、中岡の二氏、それに玉之家の女将と大阪から若柳師匠を招いて公正を期した。

第一日の試験日である二十六日は午前九時から受験者が一名づゝ中央倶楽部の舞台に呼び出され、両側には試験官が座り、観覧席には数十人の置屋が居流され、抱芸妓の出来ばえ如何を固唾をのんで聞いてゐた。

舞台に呼び出された受験生の姐さんは生きるか死ぬかの境といふので根締めの冴えた馬力を見せ、さす手ひく手に異常の緊張感を見せたが、残りの妓共は二十七日試験を行い終ると同時に成績を発表する。

他所から仕替をとった芸妓連も試験を受けねば芸妓に出られないことになった。

しかし新検番のこの新しい試みは確に芸妓の技を上達せしめるのに相当効果を奏すものと見られてゐる。」

しかしながら、この後も南市町の花街は名妓の声も聞かず、色街の町として定着しました。

元林院と南市町は隣接しており二つ合わせてもその敷地は随分狭いものです。

これにそれぞれの検番があり、元林院が芸の道をすすめば、芸の町が両立するのは至難の業で、どうしても南市町は色街の道をすすむしか生き延びる道はなかったのでしょう。

後年南市町は乙部と呼ばれていたようですが、組織として甲乙制をとったという記録は見当たりません。

すこし遊廓の甲乙制について考えますと、祇園甲部と祇園乙部(現祇園東)は明治十四年に分離したとき名前を甲、乙にしただけで甲乙制と私は考えていません。(冗談みたいな話ですが、この分離したときの祇園乙部の取締が中村乙吉でした)

つまりそれぞれが取締りを持つ全く別の組織で同じ遊廓の中で甲乙をもった甲乙制とは似て非なるものです。

ただ、良く知られた祇園の甲乙がイメージとして他所のプロトタイプになった可能性はあります。

遊廓(花街)の甲乙制はまた別の機会に提示したいと思っています。




by gionchoubu | 2019-03-16 10:52 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良市 南市の花街 二

奈良市 南市の花街 二_f0347663_15553062.jpg
昭和四年発行、松川二郎著『全国花街めぐり』によれば当時元林院の元検に属する芸妓置屋十九軒、芸妓百三十五名に対して、南市の新検に属する芸妓五十七名、幇間一名、やとな七十三名となっています。

ちなみに元検は同書でガンケンと振り仮名がつけてありますが実際はモトケンと呼ばれていました。又新検も通称で正式には奈良検番株式会社でした。

この両検番を中心として多数の呼屋(料理屋)が元林院、南市に跨って散在していました。中には置屋と呼屋を兼業していたところもありました。文面からみると、所謂お茶屋はこの両花街になく、芸妓は基本料理屋や旅館に入ったものと思われます。

新検はもともと元検に対抗して開業し、軽便主義を標榜して芸妓の粗製濫造をしたため、元林寅の芸妓に対して南市の芸妓は品格も芸も甚だ劣りました。

そこで南市は上記にある当時流行の擬似芸妓といえる“やとな”を置き“やとな検番”を立ち上げ成績をあげていきました。

ヤトナは雇仲居という酌人、あるいは廓芸者に対する町芸者と言える一筋縄で説明できない女たちでその発祥説には、私は京都がその地と考えているものの、大阪、奈良とする人がおり、もし奈良発祥ならこの南市がその地と考えられます。

このやとなの芸名も一龍、春千代、音丸、君千代と芸妓名と変わらず、元検の芸妓か南市の芸妓か南市のやとなか・・・お客も、料理屋も、随分頭をひねったのではないでしょうか?

元検と新検はその成立当時から随分反目しておりましたが、この頃は元検が南市を圧倒する形で其の間も融和されるに至りました。

ただ、松川二朗によれば、この二つの芸妓が一つ座敷の落ち合ったような場合はなんとなく油に水を交ぜたような感じで座の白けるのは免れない。奈良で遊ぶ者は心得て置かねばならないとの事でした。

昭和五十一年発行『奈良町風土記』によると、南市の花街は俗に「乙種」と呼ばれ、観光奈良への客への客に対して大いにサービスに努めたが、最近は置屋の三軒に減り、かわりにスナックバー、喫茶店、キャバレー、映画館、旅館、料理屋などが軒を並べて繁華街としてその名をなしている、とありましたので、この時点で、まだ南市の花街は存在していた事がわかります。

奈良の元林院に所縁のある方にお聞きしたところ、元林院の芸妓は芸で身を立てていましたが、南市は不特定の男性と娼妓と変わらぬ仕事をしていました。



by gionchoubu | 2019-03-12 16:00 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良市 南市の花街 一

奈良市 南市の花街 一_f0347663_12025441.jpg
南市は高天市、北市とともに南都の三市とよばれ正月五日に初市が行なわれました。

貞享四年(1687)発行の『奈良曝』(ならざらし)によると「南市町、町役二十七軒、いにしへ此所に市の立しゆえなり」とあるので市は相当前になくなりました。

町内の恵比寿神社は市の守護神で、近世には六方衆が管理していました。祭礼がこの正月五日に催されるので俗に五日えびすといい、大和の数ある恵比寿神社のなかで最も賑わいました。

この五日恵比寿祭はまことに賑やかで、恵比寿神社に周辺から猿沢池の周辺に百数十軒の露天がならび、昭和四十五年までは南市の芸妓をのせた宝恵篭十数台が市内を練この祭りに華を添えました。

奈良市の元林院を北境にする南市の花街が誕生したのが大正十二年、元林院の元

検(もとけん)に対し株式会社の新検という検番を持ちました。

大阪毎日新聞奈良版、大正十五年三月二十四日をみると、元林院に対して南市は敵国との表現を用いておりこの二つの花街は敵対していました。

南市の約百人の芸妓は、元林院が常に温習会や御所車の奉納など行い南都の人気を浚うのに対して、これに対抗する術がない南市の芸妓は大変肩身の狭い思いをもっていました。

そこで南市の姐さん達が芸妓芝居の計画をすると、巴席、中房席、井角席、登美屋、千鳥席、福の家、稲田席、浪花席の芸妓計十三人が同調し本読みや振り付けの稽古を始めたといいます。

これに「風儀を乱す」として中止の厳命をだしたのが他ならぬ南市の楼主達でした。

“もともと温習会の一度もせぬ癖に芸妓が勝手にする芝居にまで干渉するとは、そりゃあんまりじゃわい”と怒り心頭、無関係の美形連まで同調する及び、とうとう楼主側が折れ、廓が一致して応援することに変わり、大阪から降り付け師二人を呼び猛練習中との事でした。

元林院は遊廓を母体とする花街の中で、西日本で最初に娼妓を廃止した花街で、娼妓を求める男性には同じく市内にある木辻遊廓があるものの、元林院よりそこそこ離れているので、元林院と隣接する南市は転び芸者が多く、元林院が役所の上客や旦那衆を客としていたのなら、観光客やそれなりの客をターゲットにしており、楼主は営業的な見地から南市の芸妓に、金も時間もかかる芸は必要ないと考えていたのでしょう。



by gionchoubu | 2019-03-10 12:10 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

あやめ池新地

あやめ池新地_f0347663_12200024.jpg

当時を伝える建物、現在病院として使用されています。元は紀の国屋という旅館でした。こういった形で保存されているのは大変素敵な事です。(2月10日付記、ブログでこの建物を紀の庄とされている方がいらっしゃいまして、そちらの方が正しいかもしれません。)

大正15年にあやめ池遊園地開園(花菖蒲園、演舞場、小運動場等の施設)

昭和4年「あやめ池温泉」開園しました。

大阪朝日新聞大和版、昭和4年7月21日によると

「きのふ開館したあやめ池温泉 四十万円もかけた頗るモダンな建物」

昨二十日から開館した大軌直営(現近鉄)あやめ池温泉は工費約四十万円、延坪九百坪のドイツ近世式といふすこぶるモダンな大建築で、円天井の明るい男女大浴場をはじめ特別浴場、撞球(ビリヤード)室、新聞雑誌閲覧室、遊戯場、階上には余興室、囲碁室、カフェーがあり、屋上には展望台、地下室は大衆食堂で新しい試みは浴場に絶えず、冬は暖かく夏は涼しい空気を送る装置や周囲の間接照明、さては入湯生理応用の便所などである。

家族室はうつくしい日本座敷で時間貸しをするなど全く都会式で居心地よくつくられてゐる。

二十日から三日間は歌舞伎を加えた余興が行われ、付近には「あやめ新地」と称する芸妓置屋の一画を新設すべく目下工事中である。

ネットで見ることが出来る『明治後期から昭和初期の大阪近郊における遊園地と花柳街:都市娯楽施設の史的研究』安野彰著によるとこの昭和四年に駅の南側であやめ池温泉に検番と料理旅館10戸前後が建設されました、とあります。

さらに同研究から、大阪朝日新聞奈良版 昭和5年11月20日より

貸間を遊園地に建築。午後三時から夜九時まで使用料一円五十戦、朝から終日使用の場合は二円五十銭で新地の芸妓も呼べる。

同6年1月21日より

新地の芸妓は目下四十三名、花代八十銭、遊園地経営の借間を加えて料亭二十余軒もあるだけに弦歌さんざめき芸妓は八十%の売れ行き。

同6年4月7日より

遊園地の貸間は姐さんも呼べるので日曜祭日は満員箱切れの有様だが温泉貸間も同様だが家族風呂は開いている。

との記述を引用させて頂きましたが、これらは同紙面の“各地たより”の“あやめ池”の欄に記されていたもので、私ならたぶん見逃していたと思います。

『伏見町史』のあやめ池温泉場(2)によると

温泉場の盛況はそう長くは続かなかった。初代・二代の場長が若くして急死、終戦まえには燃料不足もあって、昭和十八年には閉鎖された。戦後は進駐軍の宿舎やダンスホールで賑わったが、数年で閉鎖。いまは、その建物も、とりこわされてしまった。

地元の現在九十歳の方から間接にお聞きしたところ戦後も芸者はいたとの事でした。

あやめ池新地_f0347663_12254235.jpg
                   あやめ池新地跡
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                ビジネス旅館、山翠さんも新地の歴史の一つです。
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                    落ち着いた一画
あやめ池新地_f0347663_12300676.jpg
                   あやめ池温泉跡


by gionchoubu | 2019-01-31 12:22 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

花街 元林院ぞめき 六

花街 元林院ぞめき 六_f0347663_15475130.jpg
                      たまきさんの店内から
花街 元林院ぞめき 六_f0347663_15585389.jpg
   外から

現在カフェーを営む“たまき”さんはもと元林院の玉喜席という芸妓置屋でした、昭和31年に今のママのおじいさんがショットバーに改業し店のなまえもタマキに改名しました。

ところが心無い人がマに線を付けタヌキと店の看板に悪戯をしたので平仮名のたまきにしたとの事です。

店の門構えは狭いものの、京の町屋同じで奥に長く中庭をはさんだ向こうは中二階建ての構造で、置屋時代には十人ほどの芸妓さんがおり、菊水や奈良ホテル等にお座敷かよいをしました。

色々、いろいろお話を伺いましたが、置屋時代、お馴染みの商店街の玩具屋の旦那が遊びに来て子供におもちゃをくれたそうです。

本来置屋に客が入るのは好ましくなく、祇園ではアブラムシなどと言われていました。

元林院では別に咎められた行為ではありません。ただ芸妓は絶対芸妓姿を置屋では見せなく、玩具屋さんも、玉喜席で一服したあとは、座敷でその芸妓を揚げたそうです。

ショットバーになってからは元芸妓が洋装でショットバーの接客係りとして働き、全員が結婚などで片付くまで店は面倒をみたそうです。

現たまきさんでは美味しいコーヒーを頂くことが出来ます。なんとなく入りにくい店構と私には思えましたが、お話好きのママとケーキ目当ての若い女性のお客さんが入れ替わりこられておりおすすめです。

さて、『写真アルバム奈良市の昭和』樹林社、には奈良ホテルが米軍にレクリエーション施設として接収されている期間中の昭和26年頃、奈良ホテルの進駐軍のパーティで接待する元院林の芸妓の写真が載ります。

さらに昭和29年ごろの写真では、元林院の芸妓置屋・京豊の芸妓たちと主人が全員胸のB.Socksの名が入ったおそろいの野球ユニホーム姿で収まっています。これは京富の主人の父親の野球好きが高じ仮装した時の記念のようです。

また、昭和30年代には元院林の中学適齢時のため、三笠中学校に特殊学級が設けられ、毎日正午から4時まで勉学に励み中学卒業資格を得ることが出来たと書かれていました。

昭和三十三年二月二十四日の大和タイムスによると三月五日に奈良市丁別館にて元林院芸妓組合主催『邦楽会』の番組決定の記事が載り、出演者として小紀美、里菊、豆らく、若太郎、お染、玉喜久、ひで丸の名が見えます。

昭和30年代には芸妓数は50人を切り、昭和43年のオイルショックを機に高度成長期も終わりを告げ、同52年の奈良市庁舎移転による人の流れの変化は、元林院の置屋経営に大きな打撃を与えることになりました。

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                    奥はトイレのドア
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                 玉喜席の玄関前、お抱え芸妓、一若と宝恵籠
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玉喜席、人丸と男衆


by gionchoubu | 2019-01-27 15:48 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

大和郡山 洞泉寺遊廓ぞめき 五

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                       淨慶寺

洞泉寺遊郭の元になった洞泉寺は天正十三年(1585)平城群長安寺からここにに移っており、境内に源九郎稲荷神社を祀ります。かつて洞泉寺町に存在した正願寺、現在も川本楼のハートの白壁が墓越しに覗ける大信寺、遊郭の中に寺があったのか、寺の中に遊郭があったのか、この地の僧侶はや神職にあった人は遊女に囲まれていたわけで、さぞかし仏や神に仕えるのは生半可な修行では覚束なかったのではないかと想像してしまいます。

寺の中に遊郭があったと書きましたが・・・これは本当の話でした。

昭和五年七月二十日の大阪朝日新聞に洞泉寺のもう一つのお寺、川本楼を大信寺と挟んでいる淨慶寺の話が載っていました。

『妓楼が逃げるかお寺が逃げるか 県でも処分に悩む 郡山町淨慶寺境内の遊廓』の見出しの記事を紹介します。

「国宝阿弥陀如来修理費捻出のことから、はからずも問題となった郡山町洞泉寺遊廓内淨慶寺境内の儀楼建築善後策については十日県社寺課安田?が実地調査を行った調査の結果はいよいよ複雑で処分すべき立場にある県当局もますます頭を悩まして来た。

問題の淨慶寺はもともと古く知られた歓楽境にあり、その後明治三十四年ごろ境内に地上権を設定し、以来こゝに山中、豊田、植甚、木島、乾、五楼が建設され、この敷地約三百坪、おかげで実際の寺境内は墓地を合して法廷面積たる三百坪以内に挟まってしまった。

しかも右地上権設定には監督官庁たる県知事の同意がないから設定登記は無効だというのである。

安田?調査の結果によると、かつては寺院の尊厳と風致を害すること夥しく、法廷面積に不足を生ずる地所を隣接地で求めようとしても余裕なく、トドの詰まりは猶予期間を与えて娼楼の立退きを命ずるか寺の方が他に移転するか、いづれにしても巨費を要するだけに県の裁量如何が甚だ注目されてゐる。」

さて現在洞泉寺遊廓跡に残るのは、豊田楼、武井楼、富士屋、木島屋、川本楼・・・そして上記の山中楼と植甚だと思いますが違っていたらごめんなさい。

*現在源九楼稲荷に一番近い建物が豊田楼のはずですが、新聞上に淨慶寺の中にあった豊田楼との関連は分かりません。



by gionchoubu | 2019-01-23 12:01 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

大和高田の花街

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                   大和高田 二鶴旅館

奈良県で奈良市について市制を施行したのが大和高田市で大和がつくのは新潟の高田市が誕生していたからです。明治二十四年に現JRの高田−王子間、同二十六年、高田−桜井間、昭和二年に現近鉄の上六−高田間が開通しました。

大和高田市に花街が存在した事は現在同地でも殆ど全くと言っていいほど知られていなく、何とか公共施設で調べて頂いたところ、高田小学校のあたりに芸妓が住んでいたところがあったらしい位の情報が全てで、高田市立図書館で尋ねても、改訂高田市史他を開いても何も痕跡を見出せませんでした。

大阪新聞奈良版、大正十五年四月十五日に『増え行くカフェーと女給税を狙ふ高田町当局』の記事に

「高田町では近頃めっきりカフェーが殖え三流どころの料理屋は次第にお株を奪われ、あで姿の女給の群は在来の仲居の領分をちくちくととっちめてゆく、いま町内で開業しているカフェーは十数軒を数へこゝで働く女給の数は六十余名に及んでゐるがその結果昨春百名を数えた仲居が今年は半減の惨めさである。

勿論これは高田検番ができてから芸妓が酌婦代用を勤めるのと不況の結果によるであろうがカフェーの勃興が大きな脅威となったのは言うまでもない。

なお同町には近く開業するカフェーが三軒あり町当局が女給税を課することに熱中するのも無理からぬこととうなづかれる。」

文面では高田の仲居と女給と芸妓と酌婦の役割がよく分からないものの、花街事務所である検番が大正時代の後期に誕生したものと思われます。

たぶん京都のようなお茶屋があったわけではなく、芸妓は検番を通して旅館や料理屋に入ったものだと思います。

もう一つの高田花街の痕跡は全国花街連盟活動記録の全国の花街所在地の奈良県の所に高田の文字がしっかり刻まれている事です。

これは昭和三十年少し前の記録になります。

『改訂再版 高田郷土史話』堀江彦三郎著に野口雨情作“高田小唄”が載っていました。

1、大和平野のまんまん中で 高田住よい暮らしよい
 大和高田の町中で 娘がヒソヒソ話

2、秋が来たかや二上山に 峯の木の葉も色がつく
 大和高田の町中で大和高田の町中で 娘がヒソヒソ話

3、高田御坊のやぐらの太鼓 たゝきゃポンと鳴るポンと響く
   大和高田の町中で 娘がヒソヒソ話

4、鳥はねぐらに蛍は草に 月はかつらぎ山の端に
   大和高田の町中で 娘がヒソヒソ話

5、高田城跡名ばかり残る 思やいく年たったやら
   大和高田の町中で 娘がヒソヒソ話

6、名さへなつかし高田の町の 大和西瓜と白絣
   大和高田の町中で 娘がヒソヒソ話

7、お伊勢まゐりは大和にかけて 夜は高田の町泊り
   大和高田の町中で 娘がヒソヒソ話

8、夜明け烏が龍王様の 森の辺を鳴いてゆく
   大和高田の町中で 娘がヒソヒソ話

高田芸妓が弾き、唄い、踊っていたのでしょうか?それにしてはあまり色っぽい歌詞ではありませんね。

画像の旅館の二鶴さんに聞いたら何かしら情報が得られそうなのですが・・・




by gionchoubu | 2019-01-17 12:12 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)