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カテゴリ:亡くなった奈良の遊廓( 38 )

奈良 木辻遊郭ぞめき 四

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                        静観荘

『奈良県統計書』によると木辻遊廓は

明治12年 貸座敷19 娼妓89

明治16年 貸座敷16 娼妓152

明治19年 貸座敷14 娼妓129 の推移で移行していきました。

『奈良町風土記 正編』山田熊夫著によると、

明治二十二、三年のころ元林院の同業者が瓦堂町に移り木辻遊廓の一部になりました。

昭和五十七年の『奈良町いまむかし』をみると大正三年十一月二十一日東木辻で奈良市あって以来空前の大火があり木辻の青楼を焼きつくしました。

しかしそのあと好景気になり貸座敷も瓦堂町とあわせ四十二軒になり娼妓も二、三百人になり木辻遊廓は最盛期を迎えたのです。

瓦堂町には江戸期より芝居小屋があり、売防法成立後に一時トルコ風呂も出現しました。

そのころの町の一日は大政官(だいじょうかん)といわれた老夫婦が拍子木を打つところから始まりました。これは“お迎え”と言われ、七時か八時までぐずぐずしていた客を起こすもので、客の中には“花を継ぐ”事により、お昼まで延長しました。

娼妓が店に並ぶのは午後五時ごろから、江戸時代の太夫のような内掛けを着て並びました。これは良く売れる妓から順に玄関口から格子に並んだとの事・・・つまりこの時代に有って珍しい顔見世制度をとっていたようです。

しかしその後、大正の中頃には大和郡山の洞泉寺遊廓がそうであったように県令で写真制に移ったと思います。

昭和五年の『全国遊廓案内』によると、貸座敷三十八軒に娼妓は三百十八人、店は写真制で、居稼ぎ制、廓内に芸者はいないものの料理店に他所から呼ぶことは出来ました。

夜の十二時になると太政官がジャラーと鉄の杖を引きながら町をねり歩き、二時になると太鼓をドンドン叩いて遊女屋が店を閉めました。

さて、今も旅館業を続けておられる静観荘が出来たのは大火の後で当時は岩谷楼という名で木辻では豪奢な庭と玄関口を誇る最大規模で創立当時娼妓二十人に芸者も二、三人居ました。

木辻は戦中も、一寸先は闇、あくる日はどうなるか分からんと言ってくる客が多く流行っていました。

戦後、静観荘には夜中の三時ごろ、ピストルをもったアメリカ兵が慰安場所の下見にきたり、県庁からビールの特別配給がくるようになると、数に限りがあるにもかかわらず「もっとだせ」とアメリカ兵が騒ぎだしたりと、色んな経験が外国人受け入れに役立ったと当時の経営者は語っています。

現在も静観荘には海外の方が多く、同じように京都の七条新地の転業旅館の平岩さんもずっと以前からバックパッカーを中心に現在のブームまでインバウンドを支えてきました。

京都、奈良は修学旅行が多く旅館は、京都の旅館は俵屋、角屋、柊屋、御三家と呼ばれる高級旅館、一般旅館、修学旅行旅館に大別され、基本2食つき、半泊、素泊まり客はシーズン中には歓迎されない状況が長く続きました。

静観荘さんにしろ平岩さんにしろ半泊、素泊まりで気軽に和を体験できる、日本のインバウンド旅館としての魁であったのは事実で、その面に於いても、もっともっと評価されてもいいと思います。

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                      静観荘

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                      瓦堂町


by gionchoubu | 2019-07-08 11:26 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良木辻遊郭ぞめき 三

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                    木、鹿、辻のネオンサイン

『大和タイムス』昭和33年2月22日「七百年の歴史をもつ木辻 全盛の大正時代には四百人も」を読むと、日本の遊廓制度は秀吉が北条氏を討って国内統一する前年の天正十七年(1589)二条柳町の廓としているものの、木辻街ができたのを建長年間(1249~55)としています。(木辻遊廓誕生は寛永六年は新聞上も認めています)

この当りが奈良木辻日本遊廓最古説の出どころかもしれません。

さらに元和九年(1623)年には大和郡山城主松平下総守の家臣がよく出入りしたそうです。

又、当時は売春婦のことを巫娼(フショウ)と言った所から神社に仕えた巫女の衰えたものが集まって始めたのではないか、という推察も紹介しています。

木辻は木辻鳴川と呼ばれ、遊客には平城京の東西両市に通う商人たちが多く利用しました。

当時は表構えが一寸七分の丸柱と二寸五分の桧柱を組んだ格子が遊女の出入りを拒みました。

『大和タイムス』昭和33年3月10「紅い灯もあと六日」の記事に木辻の様子が映し出されていました。木辻の部分を見て見ると

「シカの模様とともに親しまれた入り口のネオンをはじめ、軒先の赤、黄、緑三色の灯が消え、あかりといえば道路中央につるした薄暗い街路灯と門灯だけ。

表通りをとおるだけでは接客婦のはでやかな着物姿もみかけないというさびしさ。八十八人の接客婦のうち就職が決まったのはわずか四、五人程度だという。

婦人相談所を訪れる女性も目立って増えてきているが、ケ・セラ・セラが彼女らの大半をしめているようだ。

しかし接客婦の場合は年が若く、職業が決まらなければ一時収容所にでも入ることができるが、一番あわれなのは六十人近くいる引子だ。

殆どが五十歳以上、子供が病身のものや夫が戦死した未亡人、酒グセの悪い主人をもって家へも帰れないものなど悪環境のものが多いだけに“廃業”は生活に直結した切実な問題になっている。

業者の転業や接客婦の更生とは別に、引子たちは福祉事務所が中心になって生活保護を検討することにしているが、いまのままでは“十六日からの生活に困る”と訴えている。

しかし郡山の岡町、洞泉寺のさびしさに比べると、木辻にはまだ“赤線”の雰囲気が多少ながら味わえる。“ここで赤い灯を知っとかないと永久に知ることができない”と興味本位にやってくる客や、なかでも他府県からの観光宿泊客が多くなっていて、それだけ活気を保っているようだ。〜略」



by gionchoubu | 2019-07-03 11:15 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良木辻遊郭ぞめき 二

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木辻をもって日本最古の遊廓とされる文章に出会うことがあります。これを検証するには遊廓の定義から考えていかねばなりません。

明田鉄男氏さんは『日本花街史』で花街(遊廓)の定義を「遊女屋、芸者屋などが集合した機能的に統制のとれた地域」とし狭義の花街は天正十七年(1589)の秀吉が認可した京の二条柳町の遊廓としています。

私の調べた限り、木辻にそれ以前に遊廓の存在は確認できず、最古と言われるのは、ただ京の都より奈良の都の方が古いから・・・ぐらいの気分で口にのぼるのだと思います。

『黙魯庵漫録』新藤正雄、印刷及び発行所によると、町の両口に吉原の様な大門があり、遊女は玄関取次ぎの男袴を着て出客を迎え、主座の女をバンヤと呼んだとの事で甲子夜話の巻五十六の第十五項に書かれているとしております。

元禄頃には木辻の遊廓はもっとも盛んで柳里恭の随筆には木辻の名がたびたびでているそうです。(文芸倶楽部第八巻第六号定期増刊より)

『諸国遊所競』で木辻は前頭の最上段で京の先斗町や北野七軒(上七軒)の上位にあります。江戸時代に於いて木辻がかなり全国的に知られており、それなりの格を備えた遊所だったはずです。

昭和五年九月十四日の大阪朝日新聞奈良版によると、

「木辻遊廓に絡る証文。古来全国に知られた奈良木辻遊廓の遊廓史というやうなものが編纂されるなら、そのうちの興味ある一ページを占めるだろうところの資料が最近北城郡王子町の考証家保井芳太郎氏によって掘り出された、明治七年の右証文がそれである・・・文面によると、

明治五年十一月(実際は十月二日)御解放の御布令があった翌年一月御改正に相成り、木辻の元傾城屋十一戸のうち碎郷社(森井直七ほか四名)と花郷社(中川亀吉ほか五名)の二つの会社だけは営業を許された。だが両会社とも一戸につき芸妓三人、娼妓七人、合計十人以上は決して抱え申さず・・・

というのである。

右のほか文政ごろの多少古いところで十三歳位の娘を向こう十何ヶ年という長い年期で苦界へ沈めたという芝居がゝりの証文も一束になって現れた」

新政府の「芸娼妓解放令」の三ヶ月後には、再び遊廓が息を吹き返した様子が受け取れます。


by gionchoubu | 2019-06-24 10:49 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良 木辻遊郭ぞめき 一

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                        静観荘

『大和名所図会』に「南都の傾城町は木辻鳴川(きつじなるかわ)といいて、縦横にあり。此所の初は豊臣太閤に仕えし虎蔵・竹蔵という二人の奴あり。秀吉公薨去の後蟄居し、両人兄弟のむつびをぞなしける。

竹蔵は其頃南都に住し、堀氏の養子となり、堀市兵衛と号し、虎蔵は洛六状三筋町に住居をかまえ、其時の全盛たる太夫萬戸という者をかたらい、寛永六年に南都において傾城町を訴訟し、遊里を創建す。」

これは明らかに藤本箕山の『色道大鏡』の日本遊廓総目の第九大和国奈良からの抜粋ですが、大変分かりやすく纏められています。

色道大鏡によれば、「是より先、浄土辺に遊女少々ありつれども、家を隔て住ければ、今のごとく、一郭とさだまらざりき。」とあり。この浄土は木辻村北方の城土村のことだと思います。

直ぐ近くに南風呂町(いにしえ元興寺さかへし時風呂屋の跡なり)北風呂町(慶長年間1596~1615銭湯があったとも)があるので湯女のたぐいであったかもしれません。

他の傾城町がそうだったように町中に散らばっていた遊女屋を集め遊廓をなすことにより、風俗の管理とともに、冥加金(税金)の徴収が叶うという大きなメリットが取り締まる側に生まれました。

『奈良坊目拙解』では慶長年間に茶店二、三軒ができて遊女を置いたのが始まりとしています。

さて木辻遊廓が誕生した寛永六年(1629)は京は六条三筋時代で大阪の新町遊郭が営業を開始した年でもあり、女歌舞伎が禁止された年でもあります。

京の島原、江戸の吉原、大阪の新町は幕府直轄の遊里でありましたが、奈良の木辻は奈良町奉行の支配下にあったと思われます。

色道大鏡によると、この遊廓の特徴は、地元の傾城三分の一で多くは他廓からの預かり女や仕切り女だったと言うことで、さらに他廓にはいい遊女を送ることはないので、木辻にすぐれた女は少なかったようです。

また禿や遣手もいないので、遊女は履物も自分で取り出す様は下女の様だとも評されていました。

揚げ代は一番位の高いのが小天神で二十一匁、圍職(鹿恋)が十五匁、半夜九匁、端女郎八匁でした。太夫、天神がおらず、小天神が最高位で揚屋十一軒でした。

同時期の京の島原では太夫が五十八匁、天職(天神)が三十匁、圍職十八匁、半夜十一匁となるので同じ位の遊女は木辻がやや安いという事になります。

井原西鶴の『好色一大男』にも「あない知人。所自慢。爰(ここ)こそ名にふれし。木辻町。北は鳴川と申て。おそらく。よねの風俗。」とあります。

又、「禿もなく、女郎の手つから。間鍋の取まわし。見付ぬうちは笑しく。」

当時、禿のいない傾城町はよほど珍しかったと見えます。

参照:上記以外、『奈良の地名』平凡社

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by gionchoubu | 2019-06-19 11:36 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良RRセンター その五

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裏口から逃げてはみたけれどここまで警戒済みではもう観念

大和タイムス、昭和28年1月22日『国際的歓楽地R・Rセンター前を急襲』『米貨百ドルなど押収 夢心地の女給ら取調べ』

奈良市西郊尼ヶ辻にR・Rセンターが設置されて以来その周辺部に駐留軍相手のキャバレー、カフェーなどが続々開店しているが、いまでは異国たっぷりの町が現出、ここを舞台にパンパン、女給、ダンサーあるいはカフェーのマダムなどによってさかんにドル、外国タバコなどの売買がおこなわれ、さらに多数の覚せい剤常用者などがあって悪の温床となりつつある確証をにぎった奈良市署では、これが摘発と、とかく非難の的となっているセンター街の粛清をめざして、二十一日午前十時、石川捜査、上野防犯両課長が指揮し、吉川刑事係長以下正、私服警察官約五十名が七班に分れて急襲した。

現場についた各捜査官はカフェーモロチャことN・Tさん、同ラッキーことO・Mさん、同ボレロことS・O氏、同日米ことM・Hなどキャバレー、カフェーをいっせいに家宅捜査し、米貨約百ドル、外国タバコ約百個、ヒロポンアンプル約六百本を押収、同十一時すぎ捜査を打切り専売法違反、外国為替外国貿易管理法違反、覚せい剤取締法違反などの容疑で、カフェーボレロ経営者S・O氏(46)ら女給、ダンサー、マダムなど女を主とした二十名を連行取調べ中である。

この朝奈良市署では午前八時ごろから準備態勢に入り、午前十時を期して一挙に出勤したが、夜遅くまで営業をおこなうこれらの業者では、午前十時といってもなかば夢心地で、突然の取締りに着替えもできず、すそをはだけた寝乱れ姿のままで『どうぞお調べ下さい』と観念するマダム、便所に行くとみせかけ便所の中へタバコを捨て、見つかって拾い上げようというダンサー、下着にオーバーだけを着て裏口からこっそり抜け出してはみたが待ち受けた警官につかまってベソをかく女給などもあって朝のカフェー街は一時大騒ぎを演じた。

この記事の後、同年5月18日の大和タイムスに載る『すでに20名逮捕 大規模なポン引団 G組』を見ると、奈良R・Rセンターに送り込まれたアメリカ兵を網の目のように捉え、パンパンの巣に投げ込む組織が機能していたことが分かります。

百数十名に及ぶポン引きを抱え、西成、ミナミ、梅田付近のスラム街を拠点としたG組は、まず帰休兵が朝鮮からR・Rセンターにつく日を極めて正確にキャッチしました。

警察は、おそらくセンター内の駐在軍要員に一味が潜り込んで情報をつかみ的確に伝達するのだろうと考えていました。

組織は本隊、出勤、会計係、護衛隊に分かれており、本隊は護衛隊に守られR・Rセンターの前で客を獲得すると自家用車で大阪に急送する。護衛隊は他の客引きを脅しつつ本拠地に連絡する。連絡を受けた出勤係と会計係は配下の女を集めて備えました。

さらに本隊は兵と女がはいったバー、旅館からマージンをとり、護衛隊も他の客引きに「客をゆずるか、そうでなければ金を出せ」と脅し、暴行、傷害を働きました。




by gionchoubu | 2019-05-14 14:24 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良RRセンター その四

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或る農家でのパンパンとアメリカ兵がバーで遊んでパンパンハウスに入るまでの動き

奈良R・Rセンター周辺のパンパンの宿舎は尼ヶ辻一丁目に多かった(三十四戸中三十十戸)のはセンターにアメリカ兵が何時に帰ってくるか分からず、帰った時すぐボーイが彼女らを集められる位置にあったからに他なりません。

そしてパンパンの三分の一が自分の住処にアメリカ兵を連れ込んだといいます。

画像はパンパンに土地を貸していたある貧農家の見取り図で、パンパンとアメリカ兵は敷地内にあるバーで遊んでから台所を通り、家の土間を通り四畳ほどのパンパンハウスに行きました。

家の中を通り抜けるのは、入り口通りを使うとMPにつかまるからでした。バーからハウスまでパンパンとアメリカ兵が抱きついて土間を通るので、持ち主の母親は子供達を部屋の隅に押しやったといいます。

取締りにはセンターにMPの詰め所があってMPと奈良市警で当たっていたものの“義務的に廻っている”にすぎませんでした。

R・Rセンターが国家的な存在なのに、取締が地方警察に押し付けられている感がつよく、実際、タバコ、酒、ヒロポンなどの取締りも見て知らぬ振りという非難の声も上がりました。

売春婦登録簿による出身地調査票をみると、閉鎖前388人いたとされるパンパンの30%が大阪方面出身です。同調査では大阪Nの住友ビルからRRセンターが奈良に移転してきたからだろうと分析しています。又出身地は日本全国1都2府34県におよんでおりました。

パンパンハウスが集中していた尼ヶ辻一丁目の全人口が190名であることを考えると、この町内のパンパン密度は以上というしかありません。

ある家では両親が若夫婦を納屋にいれ、七つの部屋を15人のパンパンに貸しており、町内でも呆きられていたようです。

パンパンの衛生意識は低く、センターが開かれた当初は入浴させる家は一軒もなく、彼女らは井戸端や炊事場で行水をして凌いでいました。

又、女たちは強制的に週一回の検診を受けなければならず、これをクリアーすればN・E・Sと画いたバッジを胸につけており、アメリカ兵はこれをもとに交渉しました。

ただこの実効性ははなはだ疑問で、それが証拠にパンパン自身が性病を恐れサラの兵隊を求めたことでも伺い知れるのです。

参照:古都の弔期 奈良R・R・センター調査報告書 奈良R・R・センター調査団


N・E・Sバッチ受領の為の『女子従業員名簿綴事務所専用帳』

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by gionchoubu | 2019-05-05 10:58 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良RRセンター その三

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            旧尼ヶ辻の一丁〜四丁にその面影はありません。
            現在の尼ヶ辻西町、北町、中町は全く別の場所なので注意が必要。


現在の町並みから奈良R・Rセンター及び当時の周辺の様子を想像することはできません。三条通りが拡張され、当時急造された建物も、私の見た限りありません。パンパンの入ったとされる農家自体も殆どなく静かな住宅地となっています。

また町名も変わっています。昭和四十一年の住宅地図によると、当時奈良R・Rセンター及び周辺にあった尼ヶ辻一丁目〜四丁目、横領竹花町は現在、三条大路三、四丁目、西大路三、四丁目等に町名変更されています。

大阪市しかり、大津市しかり、奈良市でも惨い町名変更が滞りなくされておりました。

さて、R・Rセンターの東に側に隣接した尼ヶ辻一丁目においては三十四戸中三十戸とほぼ90%がパンパンに部屋貸しをしており、四畳半、六畳一間を一人四千円から五千円が相場でした。

何丁目か分かりませんが、Yさんはバーユニオンに土地三坪ほどを貸しました。その三坪の土地にはトタンでバラックが建てられ、連れ込み宿になりました。

その利潤の分配はパンパン所有者二割、小屋経営者三割、パンパン五割であり、一泊使用はまれで法をくぐった一時間〜二時間の時間貸しで一時間二千円が相場でした。

一丁目で儲け頭とされた別のバーの経営者は自動車二台を所有し、夫人の奈良へのお使い等は高いハイヒールをつっかけてハイヤーを飛ばす豪華さでした。

センターが開設された当時部屋を貸すにしても人目をはばかっていた村民も、閉鎖前では「もうけへんのは、かいしょなしや」という意識の変化があったといいます。

R・Rセンターの西側の尼ヶ辻三丁目には如月ホテル(二十八年二月建設、経営者は橿原の人、桜ホテル(二十七年十月建設、経営者は大阪の人)があり、大阪や京都に行くことができない兵隊が利用しました。

京都まで足を伸ばす兵隊が特に宿泊に利用したと言われるのが洛陽ホテルでR・Rセンター責任者R・エリクソンとの連絡でタクシーのリレー制がとられ、これに利用されたのが京都駅前の弥栄タクシーだったという事です。

噂によると、「京都はうまいことしはりました、奈良にもあれば・・・」と奈良側の春日ホテルに交渉した者もいたが、春日ホテルは「後ほどの事もあって」と断わったという事です。

参照:古都の弔期 奈良R・R・センター調査報告書 奈良R・R・センター調査団

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   当時 都跡小学校の児童でパンパンごっこがはやりました。
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                旧三条からRRセンターのあった拡張後の三条大路をのぞむ。


by gionchoubu | 2019-05-03 11:11 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良 洞川の游所

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                      2010年の画像

『奈良県の地名』平凡社で洞川(どろかわ)村は天(てん)の川の支流山上川流域に立地、女人禁制の修験道の根本道場山上ヶ岳への登山口として古くから知られている、とあります。

洞川と書いてドロカワと読ませるのは瀞川の義か?と書いているので語源もよく分からないようです。

天保九年安田相郎の『大和巡日記』によると、彼が聞しに替難所、危事の至極也と述べる大峰山登山の後「夫より洞川に来る。町有。甚以宜町柄、山中に存掛も無之町也。百余軒有。茶屋皆大也。小宿の本陣位の茶屋也。此辺紅花盛多し」と相当な賑いがあった事が伺えます。

ちなみにこの旅で彼は大和郡山も寄り「郡山よりは家宜也。支度いたし相尋るに、飯盛なとのころぶ処と見へて、客舎の坐取彼是遊里の如し」

遊廓の類型でいうと郡山の遊所の起源が飯盛女が春を売る街道型ならば、洞川(どろかわ)にあった遊所は精進落とし型の典型になります。

広辞苑によると精進落とし=精進明けで意味は、精進の期間が終わって肉食をすること、であり精進落としの後に女性に接するのは一つの慣わしといったわけなのでしょう。

精進落としだから・・・と言って周りに女郎買いが正当化される風土があったと言うことでしょう。

精進落型の遊所というと何と言っても伊勢参りで大発展を遂げた伊勢古市の遊所を挙げれます。非合法ながら、官許の江戸の吉原、京の島原、大阪の新町の三大遊廓と肩を並べ、日本四大遊廓の一角を占めたことでもその繁栄を知ることができます。

金比羅さんの琴平の遊廓も明らかにこのタイプに属するはずです。その他三重の高田専修寺で栄えた一身田遊廓、京都の壬生寺の境内に遊女屋があった壬生遊廓などもたぶんにその要素を感じられます。

いつから洞川に、大峰山の修験者の精進落としの遊所があったかは分かりません。江戸期は幕府領でもあったのでその頃はどうだったのか、経緯は色々調べたものの全く分かりません。江戸期の遊所番付にも載りません。

非合法であったのは間違いなく、奈良県の免許地ではありません。旅館がそういう役目を担ったというネット情報もありますが私が聞き取りしたところ、画像の建物がその遺構で一階は料理屋、二階にびっしりと布団が並べられており、それはそれは賑やかで、今からでは想像も付かないほど繁盛していました。

今の観光案内所の辺りにもそういう建物があったという情報もありました。

売春防止法成立後も営業を続けており、以前は九州、四国の女性が多かったが、昭和四十年代になると外国人にとって代わったとのこと。

たぶんフィリピンからのじゃぱゆきさんと言われた人たちなのでしょう。

芸者遊びは下市、上市で遊廓の役目を追ったのが洞川と教えてくれた人もいました。

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                     同じ建物、最後はスナックだったようです。

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                       内部の様子
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                        町の様子
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                        旅館
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                      街並み


by gionchoubu | 2019-04-18 12:58 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良 下市の花街

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                      下市、本町あたり

わが国手形流通の嚆矢とされる“下市札”で知られる下市村は天明八年(1788)の下市明細帳写によると家数1、088(内寺14、庵4)内260軒が明家、高取410、水呑400、人数3186と、ほぼ同時期の上市の倍の規模があり、「大峰山、天川、十津川への往還に而旅籠屋凡拾軒斗り御座候」と飯盛り女郎が旅人の袖を引く土壌があった事を伺わせています。

『奈良県警察史 明治・大正編』によれば

明治も年を重ねるにつれ、奈良県下で料理屋・飲食店が増加するにつれ風俗上目に余る行為も多くなり明治二十一年六月二十六日「料理屋飲料店取締規則」を県令で定めました。

この規則の主な内容は、料理屋または飲食店営業をしようとする者は

? 所轄警察署または分署に届出をすること

? 客が求めても午後十二時以降日の出までは歌舞音曲を禁止すること

? 客または芸妓を宿泊させないこと

? 芸妓でない者に芸妓類似行為をさせない

またこれまでの営業所も警察署、分署に届出が必要になりました。

明治二十七年三月、下市警察署長として赴任した松園警部は、着任以来料理屋、飲食店営業の取締りを積極的に行い、業者四軒を処罰したところ、料理屋、飲食店主らが警察署非難の投書をしたり、警察署攻撃演説会を開いたりの行動にでました。

その後色々あり、結局警察側が折れる形で下市警察署は廃止され、上市警察署下市分署(松園下市署長は下市分署長)となり騒ぎは収まりました。

そして明治二十九年四月に県令三十四号で、酌婦を雇い入れ使用するときは所轄警察署または分署に認可を受けること、等の条項が発令されたところをみると、芸妓でない者に芸妓類似行為をさせないという二年前の規則は後退したようです。

そして同時に酌婦に風俗を乱すような行為があった場合、酌婦雇い入れの許可を取り消す事がある、と釘をさしています。

つまり、芸妓まがいの者が酌婦という名で私娼として風儀を乱す・・・後年大阪、京都、奈良で一大勢力をもった半私娼の擬似芸妓、すなわちヤトナ(雇い仲居)の萌芽をここにも見ることができると思います。

さて、聞き取りによれば戦後下市にあったのは花街ではなく、特殊飲料店の鑑札を掲げる赤線でもなく(地元の方は赤線と呼んでいた様でいたようです)飲料店の名目で私娼をとりもつ青線でもありませんでした。

すくなくとも千石橋の本町側に三軒、渡った側に一軒女を置いた店があり、そこに客は通うスタイルをとっていました。

女は個人名で呼ばれており、立派な庭をもつ家もありました。

当時は下市にも映画館が二軒あり、夜は斬った張ったの刃傷沙汰が絶えなかったといいます。

女は妾になる事もあり、足抜きするものもあり、地元のある人は“兎に角肝が据わった”という表現でその女性たちを言い表しました。

お客の中にはお隣の五条のお百姓の倅もおり、米を持ち込んでお代とし、遊んで帰ったという逸話もお聞きしました。

これも時代というものでしょう。

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by gionchoubu | 2019-04-12 12:20 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良 上市の花街

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                        桜亭

宮武外骨『猥褻風俗辞典』の団子の項に

出雲および因幡にて公娼私娼を言う。徳川時代の中期頃より始まりし語にていまなお行わる。団子のごとくよく転ぶとの義なり。桂園子の『出雲なまり』にも「ダンゴ―娼妓、酌婦、転ぶの意」とあり。服部仰天子の報告には「大和の上市下市、三備の山奥などにて団子という」とあり。

昭和三十年十二月十日発行『阪口佑三郎伝』(非売品)に収録されている全国の花街所在地の奈良県に元林院、郡山、生駒、高田、初瀬と並んで上市、下市が
載ります。

私が知るかぎり上市、下市の花街、遊所に関する情報は以上が全てで、江戸期の遊所番付けにも、町史、村史、県史にも全く見当たらないのがこの両遊所なのです。

上市は吉野川北岸の町で、伊勢街道が通る川と背後の段丘に挟まれた街道集落で江戸期以前に対岸の本善寺の門前にあたる吉野川の中州に寺内町化した市場が発生し吉野地方の重要交易地となりました。

文化二年(1805)の上市村明細書によれば、家数441(内寺4)高持202軒、水呑235軒、人数1742との事、上記の団子という遊女は街道沿いの出女、おじゃれ、留め女の類の飯盛り女だったのでしょう。

さて、いろいろお聞きした所、近年の上市の芸妓置屋は現在の吉野町役場と郵便局の間ぐらいあったようで、現在そのあたりに京都の祇園や宮川町のお茶屋、置屋でよく見られる笑門を掲げるお宅がありました。

奈良県では笑門を見た記憶がないので偶然とは思えません。

地元の方に聞き取ると往時にはここの芸妓が“上市小唄”がをレコードに吹き込んだ事もあるほど賑わい、ダンスホールもあったようです。

このあたりも壊滅的な打撃を受けた伊勢湾台風(昭和三十四年)を皮切りに花街は消滅したようです。

芸妓は現在ゲストハウスの三奇楼や近鉄大和上市から街道に入る所にある桜亭などに入りました。この桜亭の玄関には“貸席桜亭旅館”と記されていました。

芸者が入るというと思われる意味で貸席と記されたものを私は初めてみました。その他カフェー調の建物もあり、これだけ昭和三十年代を感じさせていただける所は滅多にないと思います。

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                       近鉄大和駅前
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  伊勢街道
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                        カフェー調の建物
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                         同
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                          三奇楼
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                     粋な黒塀、見越しの松
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                 呉服店、宮川町の舞妓さんと思います。
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                    大師山寺から対岸を望む
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                      笑門のあるお宅


by gionchoubu | 2019-04-09 11:56 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)