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笑門と蘇民将来



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                        祇園の蘇民将来

祇園や伊勢地方を歩くと、「笑門」もしくは「蘇民将来子孫家」という注連縄が軒先にあるのを良く見かけます。

その由来と分布について今回と次回で私なりに書いてみます。

田中緑江は『祇園さん 祇園町界隈』の疫神社の項で、一つは蘇民将来と八坂神社の祭神、素盞鳴尊(スサノオノミコト)ともう一つは、仏教側で習合する牛頭天皇(ごずてんのう)との関係を二つの文献より紹介しています。

まずは「八坂誌」で、

祭神は蘇民将来(そみんしょうらい)と云います。素盞鳴尊が南海へ行かれ日暮れになりました。

兄弟の県守(あがたもり)が住み、兄の佐味県守(さみのあがたもり)は大変貧棒で、弟の小田(こだ)県守は富豪で家も百棱も在りました。

素神はここで泊めてほしいと頼みましたが、どうしても泊めてくれません。

仕方がないので、貧しい家であるが佐味県守に頼みますと心よく宿をかしてくれました。そして粟穀をむしろにし粟飯を御馳走しました。

素神は翌朝分かれて出て、後再びここを訪ねられた時、お礼をしたいが家族はと問われ、自分等夫婦と娘の三人と答えますと茅をとって輪を作り腰の上(ほとり)につけよと云われ、吾は素神である。

疫気在らば、汝が子孫と云い茅輪を為りて腰の上につけ、疫病のまじないにせよと、蘇民将来は佐見県守を錯(あやまって)なりと

もう一方は「京童」では、

牛頭天皇とも武塔天神とも申すなり、このみこと南海の女子にかよいたまいし時、日くれぬれば宿をかりたまわんとおぼしめすに、蘇民将来といひ、巨且(こたん)将来のいう兄弟あり、このかみの蘇民はまづしく弟の巨且将来はとめり、

巨且に宿を借りたまわんと仰せられるるに、巨且かしてたてまつらず、尊いこんに思し召し、その後巨且を殺させ給へるなり、 ~略~ 蘇民将来は家まづしけれ共、尊に宿をかし奉り粟の供御をそなへけるとなり。

さらばその故をもて、六月十四日のまつりに四条京極にて、粟の神共をそなえ奉る也。

蘇民御宿をかしたてまつる、その御報恩に天下疫癘のことあれども、蘇民将来はのぞかせたまいぬるその印に、ちがやの輪と小さき札を衣の肩にかけさせよと仰せられるる故、即ち蘇民将来子孫とある小札幼少のもののえりにかけ、大人のまもりにいるる也、今神社にて杉の葉とちいさき札をうけ、みどり子の守にかくるこれ也。

いずれにせよ蘇民将来信仰が祇園で厚いのは、疫神社を囲む玉垣が殆ど祇園花街関係なので分ります。
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三重県、三河三和の旅館に巨大(5~6倍)な蘇民将来がありました。

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                   祇園祭りで授られる粽の蘇民将来
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                       疫神社

by gionchoubu | 2017-07-05 11:50 | 祇園 | Comments(0)

祇園ぞめき その十八

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    三桝屋跡

祇園の君尾にしろ、小梨花にしろ、三本木の幾松にしろ、皆勤皇側でしたが、祇園新地三桝屋の君香は佐幕派の贔屓をうけた芸妓で、特に九条家諸太夫島田左近親章(ちかあき)に愛され、ついに君香は彼によって落籍されました。

左近は木屋町三条上がる路地(他の資料は木屋町二条下がる)の一軒を君香の住まいとし、この美しい流行妓を妾として囲いました。

ただし勤皇党の久坂玄瑞や寺島忠三郎、入江九一らに必用に命を狙われていた島田の足は、君香の家から次第に遠のいていき、彼自身は九条家の奥殿に潜んで何人の面会をも禁じていました。

ある日、君香が三条小橋を歩いていると、芸妓時代に時々座敷に呼ばれた桑名脱藩の本間精一郎に出会いました。本間は表面勤皇と見せかけ実は佐幕党の一員として勤皇の様子を探っていたのです。

本間は後日君香の住いを訪ね、鴨井の提灯箱に五三の桐の紋と角に島田の文字を見つけると、自分は佐幕党と教え、連判状を君香に見せ信用させ、是非島田と面会したいと言ったので、君香はその事を文に認め島田の元に遣わせました。

ほかならぬ愛妾の文に心を動かされた島田は、文久二年七月二日夜も更けると、白の薩摩上布、小紋絽の羽織、深編笠に雪駄の町人風に装い君香の元を訪れたのです。

久々の旦那のお越しに、持遇の平素に増し、積もる想いの情けに、盃の数も増した頃、本間精一郎が現れ、同志の事とて盃を交わし、密談に時を移し、本間は帰路につきました。

島田が君香の酌に更に数杯を傾け、川風涼しい縁側に横になった時、表戸が荒々しく鳴り、人が押し寄せてくる気配、数名の勤皇浪士が現れると、刀を抜く暇もなく煙草盆を目潰しに投げつけるものの、「漢賊待ツ」と一人が肩先に切り込みました。

切られながらも左近は磧伝いに川端戎側の目明し文吉の家を目指したのですが、勤皇方が待ち伏せしているのを見るや否や、今度は二条通り西へ九条亭に逃れんと駆け出した時、別の勤皇党が現れ、とうとう島田は取り押さえられました。

この手引きをしたのが、島田を売って勤皇方の信用を得んと目論んだ本間精一郎で、勤皇浪士と一緒に左近の拷問に加わり、ついに島田は秘密の奸策、連類者の名を白状しました。

君香も、こんな騒ぎが起ころうとは夢にも知らず、殆ど狂気の態、さらに勤皇浪士の手に取り囲まれ、種々取調べを受けました。

左近は「天誅を加えて呉れんず」と久坂玄瑞の刃で首を刎ね落とされ、死体は高瀬川に捨て置き、首は四条磧に晒されました。

島田の首は君香の願いで西大谷鳥辺山に埋められました。

其の後、目明し文吉も、本間精一郎も、久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一もここに名が出た男は皆、自害、戦死、あるいは非業の死を遂げました。

維新後祇園新地に戻った君香は再び芸妓になりました。

ところが、座敷が淋しく廃業して小方屋を営み、明治の終わりごろに亡くなりました。

無常と言う言葉しか私には思い浮かびません・・・

参照:技芸倶楽部、維新と京美人(二) 東山西人




by gionchoubu | 2017-06-30 14:23 | 祇園 | Comments(0)

祇園ぞめき その十七

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元々魚品が有ったのは縄手新橋下ル、後に冨春軒という陶器、漆器の家具屋になりました。昭和三十一年の住宅地図では切通し、鯖寿司いづうさんの向かい辺に描かれています。松本佐多のお茶屋杏花も有ります。

中西君尾・・・幕末の佐幕、勤皇方の凄惨な戦い、もし、勤皇芸者と呼ばれた彼女達が座敷に上がらなければ、単なる殺伐とした血のやりとりの物語に終始したでしょう。

長州藩士、井上聞多が佐久間象山の開国論に心を動かされ、海軍研究の為に国禁を犯して洋行する前、祇園の愛妓、君尾に別れを告げる為会ったのは一力の東の茶屋、竹の家でした。

「今日まで色々世話になったお其方に別れるのは、わしとしては実に堪らぬ程辛いけども、今更何とも仕方が無い。実はわしは遠からず異国に旅をする事になったから暫らく逢う事が出来ない。そちには種ゝ厄介にもなったので、今日は礼も言いたく、又別れも告げたく参ったのである。」

君尾は両眼に涙をため、潤んだ声で

「御国の御為めとありますれば何とも申上げも致しません。ただ御身を御大切に御成就なされて一日も早うお帰りあそばす事をお祈り致しております。」

悲しみの中、君尾は自分の帯の間からその頃さかんに流行った縫取の紙袋を出すと、

「真にお粗末な品では有りますが、何分急の事とて好い考えもありませず、鏡は女の魂とも言いますゆえ、どうぞこの品を記念(かたみ)と思ふてお納め下さいませ。」

洋行を終えた聞多は郷里山口で、俗論党に切り付けられ、身に数十ヶ所の傷をつけたものの、致命傷となるべく受けた右腹の傷は、君尾の鏡袋のお陰で命を落とす事から免れたのです。

何かと首を傾げる幕末の逸話が多い中、後に聞多が君尾に打ち明けた話を、口述として纏めたものが元になります。私は聞多が君尾を愛する余り、懐にあった鏡袋のお陰にして、語ったのかもしれません。

明治四十五年、君尾の還暦に際し、井上候は其れを祝すため、金一百円を添え

六十ひとつ年のはしこをふみこえて 君を思えはかきりあらめや

の一首を贈りました。

明治45年に還暦なら、慶応三年、『四方の花』の嶋村屋に君尾が載ったのは15歳です。当時14、5歳の芸妓は珍しい事でありません。芸妓は旦那さんが持てる、一人前の女である、と言う意味でもあるのです。

『佐多女聞書』で踊りの名手、松本佐多は

「それから中西君尾はん・・・これは、まァ、もう一つ偉い人で、ボャンとしているように見えて、寺内つァんでも、山縣はんでも、井上馨さんでも、お連れみたいに言うていやはったさうどす。」と述べていました。

明治三十年頃、伊藤博文が祇園中村楼に中西君尾を呼びました。君尾は博文の意を受け、祇園の舞妓十五、六人を並べました。居並ぶ舞妓をずらっと見渡すと、

「おい君尾」

「お気に入ったのが見つかりました?」

「いや気に入ったのはない、どれもこれも山家育ちで」

「あほらしい、この妓どもはどれも祇園のよりぬきばかり、それに山家育ちとは、あんまりやありませんか」

「なに、これが祇園のより抜きばかり、ふん、昔に較べて祇園美人も実に凋落したのう」

君尾は、伊藤公は昔と違って、行かれる先々でいい女に出会えるので、目が肥えてしまい、大抵の女でもいい女よも、美人とも思わないのだろう、と話ました。

私の見解は違います。

その昔、高杉や井上が魚品の二階で祇園の芸妓を侍らしていた時、上がり口で赤合羽にくるまって五合徳利を抱きながら、水洟を垂らして高杉や井上の帰りをじっと待っていた男がありました。同じ長州出身でも家格の違った俊介・・・彼こそ後の伊藤博文となるのです。

二階の嬌声を胸に、やるせない時代の鬱屈とした思い出が、突然希代の成功者の脳裏をよぎり、大勲位をして、こういった大人気ない行動を取らせた様な気がします。

参照:技芸倶楽部、昭和二年三月一日号、季刊ぎをん53号、昭和四十八年


by gionchoubu | 2017-06-19 11:38 | 祇園 | Comments(2)

祇園ぞめき その十七

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幕末にその名を残した京都の名妓といえば、三本木の幾松と、祇園嶋村屋の君尾でしょう。君尾の名は、慶応二年版、祇園新地歌奴名鑑『全盛糸音色』の嶋村屋の部でその名を確認することができます。

昭和二年三月一日号『技芸倶楽部』「維新徒と京美人(一)」東山西人によれば、近藤勇が下河原の料理屋鳥居本の奥の座敷で密会したとき、ふと気がつくと、障子の外の庭で怪しげな気配、カラリト障子を開けると男が佇んでいました。

近藤は走りこんでその男の襟髪をつかんで問い詰めると、男は「イエ滅相もな、如うして立聞き抔致しましょうか、私は箱廻しの万助と申すものでござります。」

この様子を離れ座敷で聞き取った君尾は「コレ万助どん・・・お前さん何う為たのやえな、また粗忽な、よそさんのお座敷に邪魔をしたのか、ホンに仕様のない人や」と言うとピシャリと万助の頬を打ち叩きました。

そして、君尾を初めとして、仲居や他の芸者も駆け寄って謝るので、近藤は万助を離して元の座敷に戻りました。万助は事無きを得たのです。

万助の正体は桂小五郎で、偵察の為庭に入りこんだもの見破られそうになり、君尾の機転で助かったのです。その後、君尾は、頬を叩いて申しわけ無かったと、ひれ伏して桂に詫びたそうです。

桂は君尾の機転を喜び、大いに感謝したといいます。

三本木の幾松も、新撰組の捜索隊が踏み込んだ時、幾松の機転により、床下の穴蔵から桂を逃がした話の方が有名ですが、まるで講談、私は大分脚色されたものと思っています。

現在の鳥居本は八坂神社の鳥居のもと、下河原にあった料理屋を現在地に移したものです。箱廻しの箱は三味線を入れ箱で、芸者の事を箱という事もありました。箱廻しは芸妓の元で働く男衆の事で箱丁とも呼ばれましいた。この丁は甲、乙、丙、丁の序列の丁で、この呼び名で皆からどう思われたか分かります。

さて君尾といえば井上聞多、後の井上馨との逸話が有名です。この井上聞多と君尾を結びつけたのが高杉晋作で、馴染みの魚品に聞多を連れ、馴染みの芸妓をつけてやろうとするが、物堅い聞多は一向無関心の体でぐいぐい酒を飲むばかり。

困った男だと、並み居る芸妓の中で気に入った妓はいないか仲居に意を探らせせると、果たしてお目当ては君尾であったといいます。

君尾も聞多に意が有り二人は結ばれました。井上聞多二十七歳、君尾は十七歳の事だったと言います・・・続く




by gionchoubu | 2017-06-16 12:30 | 祇園 | Comments(0)

祇園ぞめき その十六

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立て看板には小梨花とあります・・・当時は芸妓にこういった漢字を普通充てないのですが・・・

高杉晋作に祇園の芸妓いづつの小りか有り・・・は田中緑江さんの著述などで存じ上げていましたものの、それ以上の話はなかなか出てきません。

慶応三年版『四方の花』をみると、確かに祇園のいづゝ屋の芸子に小りかの名があるので、史実を裏付ける資料となるでしょう。この年、いづゝ屋には芸子、まい子が三十五人、義太夫芸妓が六人、新内が一人所属していました。

ただし、前年の慶応二年版『全盛糸の音色』では小りかの名を確認出来ない事も付け加えておきます。

この時、祇園で芸妓の見世は井筒、嶋村屋、若松屋、京屋、鶴屋、万屋、玉屋、井上屋、三浦屋、近江屋、三桝屋、ときわ屋、鶴井筒、柳屋、東いつゝ、八尾屋そしていづゝとなります。

一力茶屋以上とも言われ、祇園一と称された井筒茶屋といづゝはともにイヅツと読むので混同されますが全く別の屋形です。

見世とは見番機能を備えた置屋のようなもので、この見世には基本客ははいりません。客がはいるのは一力、富美代などのお茶屋で、この見世から芸妓や舞妓を呼ぶわけです。

ですから、晋作はいづゝから呼んだ小りかとお茶屋魚品などで遊んだのです。

ただし、井筒の用にお茶屋でありながら、見世でもあるという家もありました。祇園は明治になり、この見世は解体、検番制になりました。大阪では、戦後まで扱い席という名で、このシステムは残りました。

東京ではこのような制度を聞いた事がありません。この~席は大阪以外、奈良、和歌山でも私自身確認しておりますので、関西独特のものでした。

さて、小りかですが、短い乍らこれを載せたのが『技芸倶楽部』昭和二年五月一日号の「維新と京美人(三)」東山西人で、その部分を抜粋します。

「魚品(うおしな)は元々長州藩のお出入りであったので、維新前後には長州藩のお出入であったので維新前後には長州出身の人が沢山この家で遊んだ。

だから一時魚品を称して長州茶屋と呼んだ位、殊に長州の高杉晋作の如きは連日魚品に尻を据え、気に入りの芸妓数名に囲はれ、昼となく夜となく、乙な爪弾を肴に盃を重ね、放談諧謔の裡密かに天下の形成を視察した。

今日も亦早朝から二階座敷に陣取った高杉、敵妓(あいかた)は井筒の芸妓小りか、此は井筒の店でも屈指の美人、高杉は小りかの愛嬌のみが気に入ったのではない。

常に高杉の意を能く汲み、高杉の為め佐幕党の内情を探知する才の持主であったからである。

そして高杉の意に叶ふた主要の点は其処にあった。小りかは高杉の意を迎ふる為めには密かに身命を賭して、佐幕党の内情探査に努めた。

高が芸妓ではではないか、何程の役に立つものかと頭からケナス事は出来ない
。假令家業は芸妓であっても時と場合には生じか男子の及ばぬ働きを為た。

況して高杉から種々国事を説き聞かされては、一生懸命の四字を真面目に生かしてゐた。高杉は日を経るに従い小りかを愛するの度が自然強くなった。」

なんとなく小柄で、負けん気の強そうな、そして利発が走った細面の若い女性の顔が浮かびます。

それに愛嬌まで加われば、晋作にとって小りかと過ごす時間は、狂おしいほど国事を憂える身にとってこの上ない癒しと、日本を動かすバイタリティの源となったでしょう。


by gionchoubu | 2017-06-15 13:51 | 祇園 | Comments(3)

祇園ぞめき その十五

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碓井小三郎が明治二十九年奈良に遊んだとき、丸屋勘兵衛著の『平城坊目考』六冊(寛政年間成、明治二十三年刊)と無名園古道編輯の『奈良坊目拙解』十四冊(享保二十年成写本)を得て感ずる所あり、単身独力、京都各町の古今沿革、並びに各所古跡の所在由来を記録する事を思い立ちました。

以来、群書を読み歩き、苦節二十年、大正四年に脱稿、六十八編を成稿し、次いでこれを『京都叢書』の一部として、大正五年十月に刊行しました。索引をいれるとオリジナルは十五冊より成る大作です。

現在でも、京都の歴史のいわばバイブルの様な存在として色んな所で引用されているので、ご存知の方も多いでしょう。

首卷では京都の沿革、大内裏の概略について述べ、上京・下京の巻では、学区別に各町の歴史、町名の起源、旧跡、社寺について書いています。ちなみに当時現在の東山区などはまだなく、祇園も下京区の第十五区で分類されています。

略歴は、絹糸商の家に生まれ、すこぶる多芸多才、絵は望月玉渓に学び、山水、水墨、美人画等を能くし、初め玉輪、後に碓孤石・郁五堂・郁五・椿嵐屈と号しました。

また、真清水蔵六に師事し自ら轆轤(ろくろ)をひき、自ら絵付けをする外、書画骨董の収集も好みました。

家業は母親に任せ、長く京都市会、又府会議員を務め、古社寺特別建造物などの調査にも関係し、『京都古社寺誌料』一冊が当時京都大学付属図書館に所蔵されました。著作は他に『京都特産史』『京呉服の歴史』があります。

生まれたのが慶応三年なので、奈良に遊んだのが三十二歳、ですから坊目誌を完成させたのが五十二歳の事になります。

実を言うと、この碓井小三郎の未発表の作品の可能性がある手書の『京都町名考 祗園町之部』上下二冊を私は所有しています。

三、四年前、京都の古書市で(4万円ぐらいだったと記憶しています)購入しました。なぜ購入したかというと、私が追い続けている「祇園ねりもの」についての明時代催行分の詳しい記述があり、これは只物ではないと直感して迷わず買いました。(本当は少し迷いました)

購入当時はこの本の著者に関して全く手掛かりが無く、京都府立総合史料館他、考えられるだけの所に連絡しましたが、ご相談すらいただけず、唯一京都市歴史資料館に籍を置かれている先生に、全く思いもよらなかった碓井小三郎が著者の可能性をご示唆いただき、さらにCDにまで収めて頂いた次第です。

都をどりの明治三十二年までの表目が書かれているので、この年以降に書かれたのは間違いありません。

そして後日昭和五十二年刊『京の花街』渡会恵介著の上七軒の章に「明治の末年に、移りかわわる京の町々を記録にとそめようとして書かれた『京都町名考』(碓井郁五堂著)』の既述を得、碓井郁五堂(つまり小三郎)の北野版?もあることが分かり、その可能性は大きく開きました。

一切の無駄を省き、研ぎ澄まされた感のある、人間で言えば骨子のような『京都坊目誌』を現すに当たり、小三郎はその原型である、大変豊かな身を纏ったいくつかの『京都~考』を残したのでは無いかと私は想像してしまうのです。

もし、どなたか書肆の方がこれをご覧なら、この『京都町名考 祇園町之部』世に出して頂けませんか? 

明治32年以前の祇園研究に大きく寄与すると思います。

参照:新修京都叢書

本書は上下合わせて約180ページ、今回載せたのは上之部の表表紙と上之部の最初の18ページ、下の裏表紙と下の部の最後の23ページ。

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by gionchoubu | 2017-06-09 11:35 | 祇園 | Comments(0)

祇園ぞめき その十四

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                    初代歌舞練場跡

安政の島原焼けから十年後の元治元(1864)年、蛤御門の戦火による「元治のどんどん焼け」では火災を免れたものの、慶応元(1865)年、三月二十六日の火災は「慶応の新地焼け」と呼ばれたように、祇園から出た火事で、祇園は一部を除いてほぼ焼失、ですから現在祇園にはそれ以前の建物はありません。

明治三年、この時まで京都遊郭は島原の支配を受け、出店、出稼の形をとって取り締まりを行ってきたもののその効果は現れず、却って束縛の弊害の方が強かったとして、其れまでの組織は総て廃止、遊女屋は会社形式を取るように通達がだされ、祇園もそれに倣いました。

この時、以前説明を試みた見世制度は終わりを告げ、検番制度に移行したのだと思います。

それとは別に、明治五年、外圧により新政府による遊女解放令(芸娼妓開放令)が出されたものの、実情は甚だ心本無いものでした。実家が困窮して娼妓の道しか生きるすべをもたない女が解放され、親もとに帰ったとて、親共々共倒れする以外道はありません。

後の京都知事、時の大参事、槙村正直は、「本人が希望するなら、芸・娼妓を続けてよい」とし、貸座敷、芸娼妓に月税を納めさせる事であっさりこれを認めたのです。

それと平行し、芸娼妓を解放して正業に就かせるとして、所謂職業訓練学校として「婦人職工引立会社」の設立の機運がたかまり、祇園では早や明治六年に出来て、女たちに料理、裁縫、活花、養蚕、琴、三味線、舞踊を教えました。翌七年に「女紅場」(にょこうば)と名称を変えました。

現在祇園として観光客を集める四条~建仁寺間の祇園町南側は江戸期には建仁寺が明治五年に社地領上知令にもとづき、京都府に上地したもので、そして同年京都府から女紅場に払い下げられたものです。

この時、京都府側で尽力したのが参事の槙村正直(後の京都府知事)花見小路の名付け親です。そして祇園側で推進したのが一力茶屋の杉浦治郎右衛門でした。

この時建仁寺の塔頭で廃寺になったのが、清住院・霊源院・定彗院・光沢庵・普光庵・正伝院で残ったのが大中院・普光庵・正伝永源院。常光院です。

『京都新聞』西京新聞社、明治五年五月の地図をみると、

現一力茶屋は女工(紅)の文字が見え、一力さんは神幸道(八坂神社西楼門の南の道)の南東角に移っています。

そして花見小路の東側、現在の一力さんの南、旧正伝院跡が下京十五区女工場分局製茶所、その南、青柳小路の南が.下京十五区女工場分局養蚕所で、養蚕所の東、旧福寿院跡が療病舘です。

さらに花見小路西側の一筋目(初音小路)の南が初代の歌舞練場でこちらは清住院跡で、第二回目以降の都をどりがここで催されました。

尚、明治五年の第一回のみが、現東大路新橋西入る南の路地にあった寄席「松の家」でした。その附近で一番の老舗、「いづ万」さんにお尋ねしたところ、松の家のことはご存知ですが、場所までは後存知ありませんでした。

私も随分しらべましたが、未だ場所の特定には至っておりません。

参照:論文「花街らしさ」の基盤としての土地所有―下京第十五区婦人職工引立会社の設立から―松田有紀子




by gionchoubu | 2017-05-01 11:55 | 祇園 | Comments(0)

祇園ぞめき その十三

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                  以前島原ぞめきでも載せました名寄一覧

仮宅は、江戸が本場で、公許の吉原が火事で営業できなくなった場合、業者は他の地の一般町人・百姓などの家を借りて遊女屋渡世をすることになり、吉原が全焼した十九回に対し二十回、この特別営業が許されたそうです。

京都の仮宅事情を書いてみます。

祇園の幇間、富本繁太夫の日記『筆満可勢』の天保七年(1834)二月十六日に「島原御免(公許)の廓なれとも、祇園新地当時殊の外流行にて被押、夫に付普請根つぎを願ひ、祇園下河原辺不残仮宅、然に此日背揃へ迚、長柄傘にて太夫道中、見物群集故四五人怪我人、老人一人即死」

家々は赤飯を炊いてまるで祇園ねり物の様だ、と書いています。尚この日、見物人あまりにも多く太夫道中は中止になったとの事でした。老人も家で枯れておればいいものを、色気を出し太夫道中に繰り出すから、取り返しの付かない状況になったものと思われます。

この天保の仮宅は天保元年、七月二日、京阪地震を受けたもので、島原の大半が倒壊、島原が祇園下河原六か町で臨時営業を認められました。

天保七年申三月改『島原仮宅名寄一覧』を見ると桔梗屋、輪違屋、亀屋、えび屋の太夫、天神、端女郎、芸子の名がずらりと並びます。所どころ名前に線が引かれている者がおり、これは落籍されたりして、この時点で居ない者でしょう。三月改はその前の版があった事を物語ります。(名前の線は、消されているのではなく、刷りの状態が悪く、そう見えるのだと、改めて見ると思いました。訂正させて頂きます。5月3日)

其の後、安政元年(1854)年四月に大宮御所より出火し御所を始め五千七十八戸を焼失させた火事がありました。同年八月島原遊郭でも火事があり角屋の辺りと下之町の一部を遺して全焼、輪違屋も焼失しております。

『日本花街史』で明田鉄男さんが安政元年の島原の火事に触れ、「この火事で島原を出、宮川町の仮宅へ移り住む業者もあったという。」と書いています。

思えばこの時代、天保の遊所整理もあり、京都の花街史は激動の時代でした。

今一度江戸の仮宅事情を『日本史小百科、遊女』西山松之助編で見ると、仮宅のは、遊女の装い、化粧なども控えめにするのが条件で許可されたので、一種日常の気分で遊べるのが珍しく、仮宅営業のお陰で、経営難の遊女屋が持ち直すほど賑ったといいます。

遊女屋の主人達の中には心の中で仮宅を望み、ぼやですむ火事でも、満足に消化活動をせず家財運搬に力を入れ、新天地の営業に想いを馳せた者も多かったようです。

さて、江戸で仮宅の期間は天保六年、三百日・同八年、三百日・安政二年、五百日・文久二年、七百日とだんだん長くなっているのは「仮宅が賑ったので、幕末になると、長期間許可してもらうのが通例になったのではないだろうか。」と本書は分析しています。

それに引き換え島原は祇園では六年を過ぎても仮宅が続けられています。よほど人の集まる祇園での営業収益がよく、業者は島原は戻りたくなかった様子が読み取れ、色んな理由をつけ、祇園から離れなかったのだと思います。


by gionchoubu | 2017-04-25 13:09 | 祇園 | Comments(0)

祇園ぞめき その十二

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    みやび会、お千度

明治以降、神仏分離で八坂神社となりましたが、それまでは親しみをもって“祇園さん”と呼ばれていました。創祀は諸説あります。『八坂社旧記集録』では斉明天皇二年(656)とあり、八坂神社側もこの年を創祀と見ています。

色々難しい事は別のブログや図書館に行って頂くことにして、ここでは遊郭・花街祇園との関連を少しばかり見ていきます。

元徳3(1333)年の『祇園社古図』をみると南大門にお寺の様に仁王様が二体置かれています。これは神家としてスサノオノミコト、クシイナダヒメ、ヤハシラノミコガミがご祭神ですが、仏家として牛頭天王を祭っていましたからに外なりません。

そして、その先の南に百太夫社が描かれています。以前日本の遊女の一つの原型である渡来系の傀儡女(クグツメ)が信仰していたのがまさにこの百太夫でした。

八坂さんとクグツメは結びつかないものの、新羅国牛頭山を含め、百太夫との関連には大きな謎を秘めている様な気がします。又、百太夫社の先を百度大路と言っていましたので、これも気にかかります。

八坂神社の中に美御前(ウツクシゴゼン)社があり、ここに参れば身も心も美しくしてくれるので、一般女子に混じって舞妓さんも訪れるなどと書かれている事がありますものの、私は舞妓さんが詣でるのを見た事はありません。

花街の人が参ったのはもっと北の円山弁天堂で、音曲の神である弁財天女が祀られており、とりわけ祇園花街の妓娼の信仰が厚く、堂の裏の白壁には「三味線が早く上手になりますように」などの祈願が書かれていた、との事です。

また、以前は三絃(三味線)の名手、塩崎くらの奉納した献灯が弁財天堂表門の前南側に、歌人香川景樹の銘があり、最後に「心をも空になしてやかえるらん天つ少女のあまの羽衣」の歌が読まれていたそうです。

八坂神社と祇園の芸舞妓を結ぶ行事に“みやび会”があります。七月初旬に催される井上流の行事で、三世の片山春子から始りました。当世の井上八千代さんと門下である祗園甲部の芸舞妓が拝殿に集い、舞の上達や健康を祈願します。

舞妓さんが毎年新調の浴衣で“お千度参り”として、本殿を一周するのが健気にも涼やかで、艶やかで、多くのカメラマンも、舞妓さんの前に構え、横を追い、結果本殿をぐるり、お千度をしています。

ほんらい“都をどり”は“みやび踊り”で始められる予定でした。ところが踊りの振り付けを担当した片山春子は、みやびの響きが相応しくないとお歴々の人たちを説き伏せ都をどりにした経緯があります。

そしてミヤビオドリを提唱した重鎮らの顔をつぶさないように、請うてみやびの名を自分の会に頂いたそうです。

祇園会の神輿洗いで催された祇園の妓女による祇園ねり物については弊ブログで詳しく書きました。

祇園会の後祭りでは、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町の舞妓が輪番で、山車にのり町に繰り出した後、舞殿で舞を奉納します。祗園甲部は“雀踊り”を舞います。

その他にも二月の節分、最近では三月の花灯路にも上七軒を省いた四花街による舞の奉納があります。



by gionchoubu | 2017-04-19 15:45 | 祇園 | Comments(0)

祇園ぞめき その十一

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            八坂神社の疫神社に祇園の幇間丈八と妻の玉垣がありました。


元文二年(1737)年、博望子の『洛陽勝覧』に此辺に太鼓持とて御客を慰る者あり
と書いてあり、以下に続きます。

名寄

桝之屋四郎八 人形出遣ひ思ひ付 人形さわき、上品のそこなり
すぬ庄平衛 上芸万能茶も少し立申候、御好みなれは 国太夫ふしも□よく候
臍本茶平 そろま物真似かほおかしき男にて候
昆布吉 三味線引、旦那をそゝり上る事也奇妙也。其後物まね、
         酒によへは役者物まねもうつり申候

役者物真似の分

大津屋平五郎、同平助、同鳥羽七、同右吉、同十九、同右七、同四ノ二、
       同藤七、同米七

『筆満可勢』(ふでまかせ)は天保六年正月から、翌七年十二月に及ぶ、江戸深川仲町から祇園の太鼓持ちに流れついた富本繁太夫の日記で、当時の祇園の様子が江戸人の目線で語られています。

江戸豊後節を看板に、東北や越後では江戸下がりの芸人として過ごしてきたものの、祇園では「芸者、甚吉弟子、富本繁太夫」として大鶴屋という幇間の見世より太鼓持ちとして座敷に出向きました。

本来、役者、忍者、武芸者のように、者の付く職業は基本男性職で、女性ならわざわざ前に女をつけ、女役者、女忍者のように云いました。ですから、京都では芸者といえば太鼓持ちのことで、江戸で言う芸者を芸妓と言いました。

筆満可勢ほんの一部だけの紹介です。

天保六年一月二十日

此日野様にて祇園井筒へ初て行。花車お里と、娣お里と、娣お咲、娘分藝子お政、手ごとの三味線殊の外能弾、義太夫藝子お市、譽三八、染八、おとせ抔同座にて、浄る里語りし殊の外評判よろし~略

前々回紹介した、井筒の花車(お茶屋の女主人)お里さんが出てきました。


二月二十五日

当所に烏丸通といへる有り。これをカラスマといふ ~略~ 烏丸にルの字入用なれともカラスマといふ。

江戸時代から、烏丸をカラスマと読ませるのは昔も今も、京都人以外は不思議に感じていたようです。

八月吉祥日朔日

此日風にて臥居たるに縄手富美代より返事ある。押て行し所、江戸登の客人なり。見し所高村甚左衛門殿なり。誠に久々、互ひに落涙し暫く挨拶なし。

今の富美代さんで江戸の旧知の人と久々の出会いがありました。

二十八日

此日岸本や亭主利八同道して白水といへる茶やへ五条松様と言客人にて行。芸子大勢、太鼓持三軒見せ不残出て居る。この節券(拳)流行也。此客人太鼓持隙成時分といへば、出て来りて金を五拾両七拾両位持来り、居続して三軒見せの者不残呼集る。座敷繁多の頃は不来。江戸にも余り多からぬ客人也。○○岸本や、五条松様。

忙しい時期には現れず、座敷の暇な時をねらって大散財、太鼓持ちを総揚げしてくれる客の鏡のようなお方です。

十二月十六日

此日三軒みせの太鼓持、祇園地頭所へ不残被呼る。皆々身持悪敷とて、掟書の帳面印行を被取る。

身持ちの良い太鼓持ちは居なかったようです。



by gionchoubu | 2017-04-12 12:40 | 祇園 | Comments(0)