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カテゴリ:亡くなった滋賀の遊郭( 59 )

大津、柴屋町ぞめき 九

大津、柴屋町ぞめき 九_f0347663_12090112.jpg
                   柴屋町芸妓の大津絵踊  壽老人

先日、渡辺豪さんがカストリ出版で復刻させた、松川二郎著『歓楽郷めぐり』に大正時代の「大津の柴屋町」の項がありました。

松川によれば、大津は「活気に乏しい町ではあるが、それだけ何処か落ちついたところがあって、旅の歓楽を逐ふ旅客に取っては、どうしても逸することのできない土地の一つであった。歓楽境といふ文字は少し当ってないかも知れないけど、土地の遊びに飽きた京都や大阪の紳士達の遊びにゆく所」と筋金入りの遊び人としての思い入れを語ります。

そして松川はお気に入りの紅葉館に滞在中、大津絵を聞く為に上馬場から呼んだ芸妓の一人、Kとの淡い、少し距離をおいたお付き合いの話をします。柴屋町の花街の話はそぞろで、寧ろこのKとの想いでを振り返る為、柴屋町を選んだような気すらしてきます。

大津ならではの遊びに、汽船やモーターボートやスワンボートに芸妓を乗せ、琵琶湖上で遊ぶ「ボート芸者」の話もでて来ます。一流の芸妓は決してしない事、かならず掟として仲居も同行するなどについて、新旧交差する時代が生んだ遊びが紹介されます。

そして、大津の芸妓や仲居の紙入れの中には、笑絵とともに、かならず一、二枚大津絵がはいっており、げほう大黒が無病長寿、藤娘は良縁を得られると信じられていたそうです。

松川がKと出合った大正七〜九年頃、古老によれば、柴屋町一千年の歴史の中、近代の遊女きっての美人、大学という名の娼妓の話がS33しが日日新聞に載っていました。

当時、遊女の髪が島田、チョウチョと行った時、大学は女優まげの洋髪のインテリで、女学校卒業後大津のある新聞社に女事務員として勤めていたことも、当時の人の好奇心をそそりました。

事情あって君勝楼に三年、三千円の借金で娼妓になり、その人気は一月で千円稼いだ超のつく売れっ子で、君勝楼を太らせたといいます。一時間一円五十銭の時代です。

娼妓ながら県庁のお役人の上柴の席にも呼ばれ、芸者仲間より群を抜いてもてはやされ、大学を買うには、三日前から申し込みがいる程でした。

昭和三十三年、新聞に記事が出た時、四十年をすぎたにも拘らず、大津の古老の脳裏に面影をのこす大学・・・二十四で年期奉公を終えた大学の消息を知るものはおりませんでした。

松川二郎も愛した大津絵節を一部紹介

√げほう梯子ずり、雷太鼓で釣をする。お若衆は鷹をすえ、塗笠おやまは藤の花、座頭のふんどし犬くはえつけァ仰天(びっくり)し、杖をば振上げる、荒気の鬼も発気して、鐘撞木。瓢箪鯰でおさへませう。奴の行列、つり鐘弁慶、矢の根五郎。

おやま、とは関西で遊女の事です。

大津、柴屋町ぞめき 九_f0347663_12093649.jpg
                  柴屋町芸妓の大津絵踊 鬼念仏と弁慶


by gionchoubu | 2017-01-07 12:10 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(4)

大津、柴屋町ぞめき 八

大津、柴屋町ぞめき 八_f0347663_14071422.jpg

大正四年、中村紅雨著『大津名勝案内』に柴屋町遊廓の項があるので紹介します。

札の辻より五町なり。享禄年中(西暦1528年前後)佐々木氏の青地市右衛門戦功あり、大津近邑を領し、馬場を設け桜を裁へて騎射を為す、当時鍵屋又右衛門と云へるもの請うて此地に茶亭を設け遊女を置きて遊廓と為せり。

慶長以後徳川氏の許可を得て傾城町となし馬場町と名くと、又京極氏大津城主たりし時、轡屋の娘に長柄の朱傘を与へ茶立と称して八町本陣に宿泊せし大名に侍せしめたるにはじまり、元禄年間本曲輪(日本四曲輪の一、四曲輪とは吉原、新町、島原、柴屋)となるとの説あり。

今は上馬場下馬場の二町に分たる、近傍に大黒座あり、市内第一の劇場なり、大黒座前より東数町の間は商家日檐を列ね市内繁華の中心たり。

殊に菱屋町丸屋町の一六市は大津名物の一なり、菱屋町に寄席博秀館あり、階下は歓商場にて各種の物品を即売す、丸屋町には劇場朝日座あり、之と斜に相対して勧商場あり。大黒座より約一町、小川町に青龍寺あり。

この時代の遊廓の案内はどれも当たり障りのない内容で、こちらも柴屋町の由緒を述べただけで、どちらかというと、劇場、寄席の案内のようです。ちなみにグランドメゾン浜大津が大黒座跡です。

大正三年の地図をみると、今回画像に載せた豆信が料理店として下馬場廓の北東角に有り、その南、現在の薬局の所に下馬場の三業組合が載ります。上馬場の三業組合事務所は四ツ辻のすぐ南、東側にあり、大黒座は上馬場廓現在の商店街を東角の梅の家の東に書かれています。

大正十二年の『大阪を中心とせる近県電話帳』には

下馬場町  一、個人名
      九、蛭子屋
十六、島屋
     七一、ナベヤ
     七三、立花屋
     七十、近江咲
     八六 一二三屋    
     六四 下馬場町三業組合遊廓事務所
上馬場町  二、金繁
      三、小島屋
      十、大よし
十一、金繁
十五、金勝
二十、個人名
二三、大房
二九、富久
     三五、小島屋
     三六、中勢
     四一、大辰
     二三、下馬場町三業組合遊廓事務所
同じ貸座敷が複数載るのは、屋号と経営者宅が別々で、二箇所載せた可能性があります。



by gionchoubu | 2017-01-04 14:08 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、柴屋町ぞめき 七

大津、柴屋町ぞめき 七_f0347663_13561511.jpg

私は以前、江戸時代は遊郭に寛容な時代で、明治時代はこれに対し厳格なイメージを漠然ともっていました。ところが実際は逆の様で、藩も幕府も、風紀の乱れから体制がくずれるのを恐れ、どこの藩でも遊郭に対しては厳体制で向かい、幕府も、少なくとも表向きは、遊女渡世に対し、厳しい態度で臨みました。

一方、明治時代になると全国に公の遊郭が続々誕生しました。大津柴屋町も、娼妓開放令から僅か二年後の明治七年に、金屋半兵衛に遊女屋を興すことを認めたのです。

当時大津で、外客誘致に相応しい施設が必要で、その目的を満たす“開化楼”の建設が進められ、経営者である柴屋町の代表は、建設借り入れ金の返済手段としての遊郭経営を願いでた所、当局はあっさりとこれを認めたのです。

その後、明治十四年に柴屋町は上下に別れ、上柴(上馬場)は芸者町となりました。

明治十八年頃の大津署調べとして

上柴18軒、下柴21軒の業者、大津全体に他の遊郭併せ99軒に芸妓124人、舞子3人、娼妓135人がいました。

明治三十九年には

上馬場町 貸座敷16、 芸妓20、 娼妓0

下馬場町 貸座敷54、 芸妓14、 娼妓65

上馬場町が花街なのは明白です。

S33滋賀日日新聞によると、明治時代は日本売春史の最盛期であり、大臣、参議、宰相、大正が、英雄色を好むと、権力、金に不自由なく東京、京都の遊郭で遊び、この風潮が廃藩置県の全国に伝わりました。

この時代、大津でも県知事以下、部長などの高官は皆柴屋町に繰り出し、“遊ばざるものは政治を語るな”と言われるぐらいに豪遊を繰り返しました。

その中でも三代目、桜洲中井弘知事は遊蕩児ナンバーワンとされ、郭の主人から一筆頼まれたとき、遊興で近江八景、吉野懐古の詩を書きなぐった迄は良かったのですが、落款の印に滋賀県の印を押すという無茶をした事がありました。

これの詩は二つ折りで小島屋に秘蔵されていた、との事なので、今でも残っているかもしれません。

S33滋賀日日新聞に、この書が二枚屏風になった写真が載っています。



by gionchoubu | 2017-01-01 13:58 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、柴屋町ぞめき 六

大津、柴屋町ぞめき 六_f0347663_11000950.jpg

一 髪形を奴子さき甲笄向かせすきわけの類一切不成事
一 差もの前後四本宛櫛甲笄急度差候事
一 履もの華美之拵一切致間舗事
一 暮限り門口より外へ一切出申間舗事
一 芸子 衣類 絽 羽二重 縮緬 総じて花美なる模様之類一切不用事
一 髪飾右同断 但し髪奴子に限り候事
   其外すきわけいろいろの結亂一切不相成事
一 差もの前二本櫛甲笄急度差候事 
   但後笄差事一切不成事
一 履ものぬり下駄之類一切不相成事
  右之條々堅相守可申候以上 

天保十三(1842)年寅五月 町役人

後年人が天保の改革という、日本全国に轟いた水野越前守忠邦の政策で、京の洛中、洛外の遊所は島原以外総て禁止、東京でも吉原と品川、新宿、小塚原、千住、板橋以外の二十余ヶ所が禁止、という厳しいもので、大津の柴屋町も、前述の日日新聞によると禁止の憂き目にあいました。

幸い、この緊急政策は長続きせず、暫時緩和され、なしくずしに明治時代に突入しました。

『大津市志』の「風俗志」によると、明治初年、馬場町で夷谷という茶屋を営んでいた杉本五兵衛という男が、経営が思わしくいかず、お抱え遊女に「首ふり」という芸をさせ、衆目に観覧させたところ、これに人気が出て儲けも出ました。

ところが、町内から、遊女にこんな事をさせるのはどんなものか、と抗議があり、結局、五平は京都の新京極に夷谷座という芝居小屋を建て、遊女に芝居をさせたのが初の女芝居になりました。

この「首ふり」がどんな芸なのかは分かりません。

明治五年十月五日、マリー・ルイーズ号事件が引き金となり、国は娼妓開放令を発しました。これは娼妓、芸者ともに、年期明け前の楼主に対する借金は総てゼロにして芸娼妓とも開放するという条項が中心となっていました。

馬場町でも日賀田平六が遊女を解放したので、明治五年十一月二十七日、滋賀県令、松田道之より褒賞を得ております。その文が、

「其方、儀従来揚屋渡世いたし抱女六人有候所、今般、娼芸妓解放可候旨被仰出候御趣意を厚く奉礼し、早速年期証文は勿論、当人所持之品々無落附与し、外衣類別段相添其親類のものへ引渡し候始末、格別行届候趣奇特之事に候、依て爲褒美金三百疋之候事」

参照:『大津市志』(明治四十四年刊)下巻、第十四章「風俗志」


by gionchoubu | 2016-12-30 11:02 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、柴屋町ぞめき 五

大津、柴屋町ぞめき 五_f0347663_15510766.jpg

曽根崎新地のお初徳兵衛(曽根崎心中)、祗園のお染半九郎、(鳥辺山心中)、先斗町のお俊伝兵衛(近頃河原の達引)、高名な花街には心中物が付きまといます。

√小夜ふけて 八っか七っか明六っの 鐘が敵の半兵衛は・・・

柴屋町にも、長唄で唄いつがれた“小稲・半兵衛”の話が残ります。昔柴屋町の富永屋に小稲という美しいお抱え遊女がおり、阪本の呉服屋の手代、半兵衛と良い仲になりました。しかし小稲の元に通いこんだ半兵衛は郭通いで借金が重なり、にっちもさっちも行かなくなった二人は、次の世で添い遂げようと情死したのです。

富永屋は前回の地図にのっており、後に播光という貸席になり、さらに魚熊料理店となったと言います。二人が死を選んだ部屋は三階で、目の前に琵琶湖が広がり、裏にも長等山が見渡せた絶好の部屋でした。

さて、天保の改革前の遊所を相撲番付に見立てた『諸国遊所競』の上位を見ると、

東の大関 京  島原
  関脇 大阪 島の内
  小結 京  祗園新地
  前頭 越後 新潟
     伊勢 古市
     下関 稲荷町
     江戸 深川新地
     堺  乳守
     羽州 酒田今町

西の大関 大阪 新町
  関脇 京  祇園町
  小結 江戸 深川仲町
  前頭 大坂 北之新地
     大坂 堀江
     宮島 大坂町
     江戸 四谷新宿
     京  宮川町
     大津 柴屋町

江戸の吉原は行司格として順列にはのらず、島原を最高位として、柴屋町もかなりの上位に食い込んでいるのが分かります。

ちなみにこの表のあたりの文化、天保時代の柴屋町の揚屋と茶屋の協定値段を統一した定書がだされており、これに依ると「傾城揚代金二朱ずつ、局女郎銭四百六十文」となっています。


by gionchoubu | 2016-12-28 15:55 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、柴屋町ぞめき 四

大津、柴屋町ぞめき 四_f0347663_12011054.jpg

昭和三十三年の二月十日より、十七回に渡って、滋賀の日日新聞が「消えゆく赤線地帯」(以後S33滋賀日日新聞と表記)という特集記事を連載しました。

この連載が終了したすぐ後、四月一日は売防法が完全施行されたのです。

その第一回で、柴屋町の起源は天慶九年(946年、平将門が乱を起した頃)で、婦留屋という美しい遊女がいた、としております。(柴屋町遊郭由緒の覚=小島屋蔵)

この遊女は、醍醐天皇第四皇子の蝉丸が都を追われ、逢坂山の辺に流された時、蝉丸に従って来た官女であり、天慶九年九月に皇子が死んだのち遊女になったもの、と三井の鎮守逆髪の宮関の兵侍書物にあると伝わっているとし、さらに、柴屋町を郭といったのは、この天慶時代よりずっと以前とのこととしています。

蝉丸は百人一首 “これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂(あふさか)の関 ” であまりにも有名。

そして柴屋町の郭が天慶以前にできたものなら、柴屋町は日本最古の郭の一つ(ひょっとすると、日本最古の郭)と言ってよいはずです。

さらに、記事には「郭の揚屋、置屋で正月にひのきのコマ札に“笑門”と墨書してかかげられたのは、島原、古市、柴屋町の三遊郭だけだったといわれる。この“笑門”札は郭の氏神の神主が年が押しせまると、氏子の郭のため直々に墨書きして配ったもの、大津では長等神社の神主が授けられたものと伝えられる。」

この笑門は私が、この十年間各地で追い続けているもので、いずれこのブログにも書いてみます。上の画像は祗園の笑門です。

永禄元(1558)年、茶亭の主人たちが大津奉行佐々木氏の家臣日向守から郭御免のお墨付をもらい、郭のしるしに四方(上下馬場町入口と横道の入り口)に冠木門を建てた事も記事で知りました。

尚、その門は、当時の業者名と共に「明治四年未正月改正、柴屋町全図」として『大津市志』(明治四十四年刊)下巻、第十四章「風俗志」で確認することができます。

図には、今津屋嘉兵衛、俵屋佐七持、今津屋権兵衛持、富永屋米二郎持、舟屋忠兵衛持、阪本屋喜兵衛、俵屋伊右衛門持、橘屋大吉持、橘屋伊助、金屋まつ、富永屋米次郎持、俵屋伊衛門、魚屋平六、魚屋平六持、橘屋大吉持、鍵屋いく、富永屋米二郎持、大黒屋たけ、金屋、半右衛門持、今津屋権兵衛、富永屋米次持、井筒屋泰蔵、魚屋籐八、橘屋大吉持、金屋平右衛門、鳥屋まち持

の名が書かれています。


by gionchoubu | 2016-12-26 12:01 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、柴屋町ぞめき 三

大津、柴屋町ぞめき 三_f0347663_10481758.jpg
                     四ッ辻の立派な鍾馗さん

『近江輿地志略』(『新大津市史』収録)は、柴屋町の由来について、

「抑此町を柴屋町といふ事、古来の称にあらず。本名は馬場所といふ。或云ふ、柴屋町とは古薪を売る者多く此地に住す故に名付くと。或云ふ、さにあらで。彼遊女三味線を弾き酒を勤むる間戯言し、笑を作って遊客を悦ばしむるをさして焼くといひ燃するいふ。夫薪柴は焼き燃やすの謂也と。或は云う、恋慕の心をたきつくる意也と、」

こういった、情緒が感じられる説を見ると、自ずと、柴屋町がただの遊女町でなく、品格をもって受け入れられていた事が分かります。さらに本来の馬場町の起源を、

「享禄の頃、佐々木京極家の侍に青地市右衛門といふ者あり。軍術に妙あり。毎度の戦功比類なし。大津の近郷を拝領して今の柴屋町の地に馬場を設け、桜を植えを支へて己が騎射の楽み所となる。」

「然して後、鍵屋又右衛門といふ百姓、此地に於いて竊(ひそか)に遊女をおき、花の頃は来客を受けて必遊宴す。後には又右衛門、市右衛門へ願を遂げ、軒を並べて繁昌す。」

「然して後、慶長年中あらたに訴訟をとげ、台命を蒙(こうむ)りて傾城町とす。上下二町あり。毎年十二月二十日大帳開とて町中の揚屋、くつわや寄合いて事を談ずとなむ。」

「或云ふ、馬場町といふは京極高次の馬場ありし地にして、鍵屋又右衛門と云ふ者乞ひ請けて傾城廓となしたりといへり」

林美一『艶本紀行 東海道五十三次』によれば、西国の大小名が参勤交代の途次本陣に泊まると、酒席の相手に柴屋町の遊女たちが招かれ、長柄の傘をさし、道中をして本陣に乗り込んだとされます。

柴屋町の客はこのような参勤交代の大小名の侍たちが最も多く、次いで大津が近江米の集散地で諸国の蔵屋敷があったために、毎年九月から翌年二月まで、取り扱い役人や仲仕、蔵米の払い下げを許された大津の商人たちなどが、振舞と称して羽織姿のまま柴屋町へ繰り込み遊んだといいます。

『日本永代蔵』貞享五(1688)で井原西鶴は

「この所は北国の舟着、ことさら東海道の繁盛、馬次、かへ駕籠、車を轟かし、人足の働き、蛇の鮨、鬼の角細工、何をしたとて売れまじき事あらず。
近年、問屋町、長者のごとく屋造り、むかしにかはり、二階に撥音やさしく、柴屋町より白女(遊女)よび寄せ、客の遊興、昼夜の限りもなく、天秤の響きわたり、金銀も在る所には瓦石のごとし。」

これらの記述は、柴屋町遊郭が日本四大遊廓の一つとして、充分過ぎる程の歴史と資質を持っていたことを如実に物語っています。



by gionchoubu | 2016-12-23 10:52 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、柴屋町ぞめき 二

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by gionchoubu | 2016-12-20 12:43 | 亡くなった滋賀の遊郭

大津、柴屋町ぞめき 一

大津、柴屋町ぞめき 一_f0347663_11445292.jpg
  東海道名所図会の柴屋町

大津、柴屋町ぞめき 一_f0347663_16340829.jpg
名所図会はこの場所(四ッ辻)を描いたものと確信しています。

京都の島原、江戸の吉原、大阪の新町を称して日本三大遊廓といいます。これが四大遊廓となると、上記の三箇所に、長崎の丸山、伊勢の古市、もしくは大津の馬場町のどれかを付け加えました。

馬場町の遊里は延宝六(1678)年、藤本箕山が『色道大鏡』の中で「日本遊廓惣目」として挙げた全国二十五か所の有名遊里の一つとして記述がありますので、紹介させて頂きます。

近江国大津遊郭 馬場町

「大津の遊郭は、世に柴屋町といひはし侍れど、馬場町なり。

柴屋町といへるは、遊郭の外下の一町をいふ。柴屋町は、むかし比良・小松わたりの柴を船につみて、爰(ここ)につけてうりたる所なれば、かくいへるなるへし。

抑々(そもそも)江州大津は、帝城を去ること三里、その昔天地帝此所に宮づくりし給ひて、大津宮と申奉りき。

台嶺巍々(たいれいぎぎ)とそびへ、前には湖水洋々たり。所謂大津八町は、都より吾妻におもむく、最初の旅館にして、人馬道路につどひ、往還こゝにしげし。

あやしの出女までも一ふり見えて、恋のしるへなきにしもあらず。」

「大津の傾城、郭中の外へ出ず。天職二十六匁、小天神二十一匁、圍職十六匁、青豆十匁、半夜八匁也。昼隔子(こうし)なし。昼かしなし。夜見世あり。

夜隔子(よごうし)、酉下刻暫時也。夜隔子過て、目利所望の客あれば、其家の内に燈を立、傾城を出す。挙屋の数合十軒、客入に腰物預る。郭の入口四方にこれあり。客の出入昼夜くるしからず。

当郭の傾城、先年は八町の旅館までも出しぬれば、旅人一宿の便ちかく、且洛人おもひよりて、かよう輩も郭中の挙屋をさしをき、八町にのみ宿しければ、其賑ふ事かぎりなし。

されども、いつぞの比よりかは御制禁にて、傾城郭外へ出ず、所に住馴し傾城長も家をさり身を退きなどしてさびわたりたる体。むかしの五分の一もあらず。

凡大津傾城は、物ごとおほやうにて、伏見よりは少まさりたるやうにありつれとも、今かくをとろへたれば、いづれをいづれとわかちがたし。

臥見(ふしみ)は京にちかけれど、其かはりに所の遊客にさせる勇士なし。

大津は京の客たよりに成がたけれど、他の客に折々勇士たえず、傾城も人の口に出る者、二人三人宛ありき。然れども、頃年は他の客も心はたらかず、よき傾城もなく成ゆけば、所の風俗とてしるすべき品もあらず。筆の行衛もさだめがたし。」



by gionchoubu | 2016-12-17 11:50 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)