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カテゴリ:亡くなった滋賀の遊郭( 59 )

今津 花街

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                        丁子屋

今津の人に聞いた所、今津が位置する湖西は何事も京都式、一方草津、守山、彦根、長浜を有する湖東は東海地方の文化が色濃く入り、ずい分人々の気質が違うそうです。

たしかに湖東は東海道も中山道も東海を通じ江戸に至ったわけで、京都と東の文化が共存できる位置関係にあります。

一方湖西では若狭街道、通称鯖街道が京都大原から朽木、保坂、そして今津で九里半街道に合流し、若狭小浜と京都と若狭を結ぶ最短のルートを形成しておりました。

前回見てきたように、今津の花街の妓が京都の花街から連れてこられたのも、この鯖街道が結んだ絆のようなものだったのでしょう。

次に『今津町史 第四巻』からもう少し時代が下った今津の花街の様子を見ていきます。

今津の歓楽街の項を見ると、琵琶湖に面した中浜から北浜にかけての浜通りは、昭和初期には湖西随一の歓楽街として知られ、旅館や料理屋が軒を並べており、陸軍の演習場が饗庭野にあったため上級将校の訪問も多く、軍人宿指定を受けた福田屋や木綿屋などで逗留することが多かったとあります。

さらに旅館や料理屋が多かった事から、福寿、鶴屋、丁子屋、丸福といった置屋で芸者が生活しており、料理屋や旅館からお呼びがかかるのを待っており、時には置屋のなかった近江舞子から呼ばれる事もありました。

つまり前回見てきた明治の初めの茶屋はもう既に無くなり、京都の宇治や木津がそうであった様に
、芸妓は検番(けんばん)を通し旅館や料理屋に芸妓は入りました。

『今津葦海村』編集者 森田吉則を見ると明治四年の宿屋調べでは「善三」「左兵衛」「伊兵衛」「与助」「与左衛門」の五軒だったので、明治の初めの茶屋は泊り茶屋でなく、純然たるお茶屋であったはずです。

さて、今津ではこの芸妓斡旋場をケンバと呼んでおり、そこには芸妓一人ひとりの名札が掛かっており、それぞれの芸妓が今お座敷に上がっているかどうか一目で分かるような仕組みになっていました。

又芸妓はお座敷に行くとき三味線はもたずケンバに常駐する女性が荷物を持って付き添いました。

ケンバの裏には芸妓の稽古場があり、年に一回温習会まで催したほどの力の入れようでした。

確かに今津に花街は存在したのです。

ケンバに登録されている芸妓は、多いい時は二十人にのぼりましたが、昭和十六年には廃されました。

大阪市立大学大学院文学研究科佐賀朝研究室『遊廓・遊所研究データベース』が『滋賀県統計書』より作成した④滋賀県遊廓免許地の変遷によると、昭和6~14に高島郡今津町に芸妓数が記載されており、昭和5年には娼妓数まで記載されていたとの事でしたので、公認の遊廓機能まで併せ持っていた事が分かります。

1986(昭和61)年の『ゼンリン住宅地図』を見ると丸よし旅館、福寿旅館の名で三軒、福田旅館、旅館丁字屋が確認できました。つまり福寿、丁字屋は置屋の後旅館に転業したことになります。


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                       福寿
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                      福田屋


by gionchoubu | 2018-07-18 14:28 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

今津 女奉公人

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                       今津

平成八年、北野裕子氏の「明治初頭の茶屋と女奉公人たち―近江近津宿の飯盛女・芸者・三味線弾―」明治四年今津の茶屋として魚屋、中村屋、米屋、伊勢屋、舟屋、傘屋、大和家、亀屋、正木屋そして浜屋二軒の十一軒を確認しています。

さらに同研究では今津町史編纂室所蔵「(明治2年―9年)所用書留帳」を調査し、今津町へ奉公に来たと考えられる者十六人を掲げています。奉公先は十一軒の内、魚屋、中村屋、米屋、舟屋、亀屋、浜屋軒でこの六軒が置屋と思われます。

それ以外の伊勢屋、傘屋、大和家、正木屋ともう一軒の浜屋が揚屋になるのでしょう。

この十六人は明治二年から四年にかけて今津に奉公、差遣、年期奉公、養子縁組、商用、出稼の名目で、十三人が京都、二人が大津、一人が平ヶ崎村より、内八人が八坂新地(祗園)と宮川町(一人)から来ています。

年齢は記されているものは十四歳より三十歳です。

北野裕子氏はこの女達の大半が今津に来たのが、明治四年の五月に集中しているのは、その年の二月に飯盛女を抱え商売している者へ、七月までに移転が申し渡されたのを受け、茶屋が不景気を理由に翌年五月までに猶予を申し出た間に相当するので、経営不振に陥った茶屋が巻き返しを図らんがために京都から女を呼んだのであろうか、むしろ、京都の方から維新による打撃のため流失してきたのでは無いだろうか、と鋭い分析をされています。

面白いのは、上記とは別に明治四年五月に男性の三味線引き三人が米屋と亀屋を引受請人として今津に入り、さらに祗園の富永町の芸妓、玉木妹くミが伊勢屋に六月から七月二十日まで出稼ぎを申しこんでいます。

ここからは私の推測です。

まず明治二年から四年にかけて今津に来た十六人の内、八坂新地と宮川町からの八人は酌人として、他の女はあるいは飯盛女として売られてきたのだと思います。

酌人は芸妓より一段下の資格で、座敷で遊芸も芸妓と同じくすることが出来ますが、ゆるやかな資格です。

そして伊勢屋に来た祇園の芸妓はこの酌人に稽古をつける目的できたのだと思います。伊勢屋にいたのは実際六月から七月の頭までで、その間みっちり座敷舞の指導をしたのだと考えます。

舞の師匠が当時の今津村にいたとは考えられず、こういった風に京、大阪の花街の芸妓が期間を決めて地方の花街の指導に当たるというのは他でもあったのかもしれません。

さらに当時の祗園は、少なくとも明治五年までは踊りの流派が井上流と篠塚流の二本立てだったので、厳しい井上流でなく、比較的習い易い篠塚流の芸妓だったと思います。ちなみに、宮川町を含め江戸期の京都の花街はほぼ篠塚流でした、

明治四年に食盛女(飯盛女)と酌人が旅籠屋や料理屋に立ち入る事を今津役所が禁じたあと、食盛女を抱えた店のみ移転を申しつけられたのは、食盛女が不特定多数の男に対する売色が全ての仕事で、酌人は、茶屋が選んだ特定の男に売色もさせたでしょうが、一応芸が表であったためだと思います。

役所はこの二つを明確に区別していたはずです。




by gionchoubu | 2018-07-15 14:29 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

今津 飯盛女

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                       今津の町並

中世以来、湖西有数の湊として栄えた今津湊。近世では若狭からの物資は九里半街道を越えて当地に入り、丸船に積まれて大津や湖東の湊に運ばれました。

また若狭方面から琵琶湖に浮かぶ竹生島へ参詣に行く人々でも繁昌しました。

実際現在でも竹生島のアクセスは琵琶湖東岸の長浜や彦根以外、西岸の今津のルートもあります。

近世初期から中期にかけては貨物・藩米の扱いが年間二十万駄馬あったものの、西廻航路の発達に依よりしだいに衰退、幕末ころには扱いは十分の一ほどに減少したといいます。

今津湊を有する今津村は秀吉時代より芳春院の御粧田として加賀藩領になり、西近江路の宿駅で荷物問屋数軒あり公用の継立の用を果した。安永三年には五百余の家数がありました。

以上が平凡社『滋賀県の地名』による今津宿の江戸期までの略歴になります。

江戸期に今津宿で飯盛女が他の街道宿のように売女として渡世をしていたかを知る手立てはありません。しかし『近江研究35号』、北野裕子氏の「明治初頭の茶屋と女奉公人たち―近江近津宿の飯盛女・芸者・三味線弾―」を読むと、その土壌は、少なくとも江戸期の後期にまで遡れそうだと考えるのが自然と思います。

江戸期に於いて滋賀の彦根藩は自藩に遊廓の設立を認めず、井伊直弼大老にいたっては彦根藩飛び地領の下野国佐野領(栃木県)の売女(遊女)まで廃止するという徹底振りでした。

今津藩の母体である加賀藩も遊廓には厳しい藩で金沢の東の廓が公認されたのは文政三(1822)年のことでした。

ただし加賀藩の支藩の大聖寺藩には公認の遊廓として串茶屋が北陸街道で栄えており、文政以降なら今津で遊女渡世が黙認されていても不思議ではないと私は思います。

さて、「明治初頭の茶屋と女奉公人たち」によれば、明治四年の一月の諸用書留帳に、近年食盛女や酌人が町屋に横行し風儀が乱れるので旅籠屋や料理屋に立ち入ってはいけない、という今津役人のお達しがだされています。

さらに二月、以上の申しつけが全く功を奏しなかったとみえて、食盛女を抱えて商売するものが市中に合い混ざって収支がつかないので河童(子)町裏屋敷地へ移転して、そこで盛大に商売をしてくれ、と趣旨を変えています・・・続く



by gionchoubu | 2018-07-13 11:53 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

朝妻の白拍子

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                          朝妻 

米原の近く、天野川河口にある朝妻湊は、琵琶湖有数の湊として知られ、この湊を含む朝妻村は古代の坂田郡朝妻郷の遺称地であり、陸路、水路の要所として栄えました。

しかし天正年間に(1573―92)に長浜湊開かれると衰微し、江戸期になると、朝妻千軒といわれた面影は薄れてしまいました。

西行法師が『山家集』で「おぼつかな、伊吹おろしの風さきに、朝づま船は逢ひやしぬらんん」と唄われた朝妻船こそ水上売笑婦として朝妻の里で、江戸以前たぶん滋賀県で一番古い色里の遊女の象徴だったのです。

また、也足軒通勝が船中妓女と伝える題で「このねぬる朝づま船の浅からぬ契りを誰に又かはすらん」と具体的に古の遊女船の存在を伝えているのです。

朝妻船といえば、元禄時代の浮世絵絵師、英一蝶の作った端唄「仇し波、寄せては返る浪、朝妻船の恥しや、あヽ又の日は誰に契りをかはして色を、色を、枕恥し、偽りがちなる我が床の山、よしそれとても世の中」と、鳥帽子、水干姿、鼓を置き、手に末広の扇を持った白拍子が船に乗っている姿が知られています。

白拍子は芸妓の祖先ともいわれ、鎌倉時代、源頼朝に鐘愛された千手の前(せんしゅのまえ)は琴、琵琶を弾じ、今様などを舞い、又朗詠などを吟じお酒のお供をしました

時代祭りでお馴染みの静御前も高名な白拍子で、やはり頼朝の前で、白い小袖二かさね、唐綾を上にひき重ね、矢張り白袴、割菱縫った水干を頭に舞いました。

その他、木瀬川の亀鶴、手越の少将、大磯の虎、鎌倉一といわれた微妙など皆貴人に侍った高級遊女でした。

水干に立烏帽子、白鞘巻を指した男性装束で舞う白拍子舞の祖は平安時代の若歌の前、島の千歳とされており、この舞手が遊女化したものとされています。

さて、英一蝶が描いた朝妻船は彼が晩年イメージを膨らませて書いたものらしく、最初は唯小船に烏帽子、鼓などを取り散らしている様が書かれていたに過ぎない、と山東京伝は『近世奇跡考』に書いています。

以上は『滋賀県の地名』以外に昭和四年に発禁になった田中香涯という人の『耽寄猥談』という書物を参考に書いていますが、この作者は英一蝶が水上売笑婦たる朝づま船に烏帽子水干を著せ、鼓をもたせて之を白拍子化したのは芸術的美化であろうとしています。

私に言えるのは、滋賀県の遊里史において、一番新しいのが雄琴の特殊浴場群なら、一番古いのがこの朝妻であろうという事です。

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by gionchoubu | 2018-07-11 12:26 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

雄琴 トルコ風呂

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昭和四十一年十月一日、滋賀県風俗営業等取締法施行条例が県条例第四十五号をもって一部改正され、

個室付浴場業は一団地の官公庁施設、学校、図書館、児童福祉施設等一定施設の敷地二百メートルの区域内においては営業禁止

大津市の一部(雄琴の料理旅館街を含めた雄琴港を囲む約三十ヘクタールの地域)以外の地域で営業することを禁止

又、営業に関し、一定の風俗関係法令に違反したときなどの営業停止の項目などが決められました。

これを受けて昭和四十六年の二月、雄琴にはじめて「花影」という四階建てのトルコ風呂が誕生しました。

花影の経営者は山中温泉でトルコ風呂をやっていた人物で、同業者は「あんな場所に建てて、一ヶ月ももちはしない」と口をそろえ、正気の沙汰では無いと思われていました。

たしかに当時国鉄の湖西線も無く、浜大津から一時間に一本バスが通っていただけで足の便はこれ以上ないほど悪いものでした。

更に、東京の吉原、名古屋の中村、岐阜の金津園、神戸の福原、高松の八重垣にしても、その母体として赤線、さらにその前に遊廓の時代をもっていたのに対し、花影は田んぼの中に突然できた訳で、その生い立ちは大きく異なるものでした。

どうして雄琴が日本有数のトルコ街になりえたか、なによりもまずは花影の経営者の卓越した宣伝・企画能力によるものが大きいといえます。

まず、関東のトルコ嬢二十人を、京都見物のつもりで来てくれと、新幹線のグリーン乗車券と一流ホテルの部屋をヒモと二人分とり開業したところ、トルコ不毛の地といわれた京都、大阪さらに岡山からマイカーを走らせた客で大繁盛。

トルコ嬢たちは、京都見物どころか昼食のラーメンを三回に分けて食べるという始末。一日に十人以上の客がつかされて、三日目には三分の一が「殺される」と、関東に逃げ帰りました。

しかし、雄琴は忙しいと全国のトルコ嬢の間で評判になり、人で不足に悩むことは無かったといいます。

その後すぐ白雪と東京トルコが開業、七十二年に八軒開業、七十七年には四十七軒にまで増えましたが、県の条例でこれ以上は新設できないことになりました。

雄琴が花開いたのは先進トルコ地帯であった川崎、横浜、千葉から合流したトルコ嬢がそれぞれ技を競い合い、テクニックを爛熟させたことにあったと言えたそうです。

だれが名付けたか、「ちろりん村」の別名を持つ雄琴トルコ街、平成の始めの頃の雄琴のパンフレットに38軒の店が載ります。

ようこそ 雄琴へ!

「雄琴」。ここには確かな“夢”があります。
独自のスタイルがあります。きらびやかな
湖畔の都は全身で来訪者をおもてなしします。
“夢”と“女たち”の織りなす悦楽のファンタジー
「雄琴」。 滋賀県特殊浴場協会

参照:トルコロジー トルコ風呂専門記者の報告 広岡敬一著、
滋賀県警察史 発行滋賀県警察本部



by gionchoubu | 2018-07-07 12:19 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

長浜 南片町遊郭

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                      大正時代の南片町

長浜の南片町の遊廓は北にいくと東別院大通寺に通じる為“北向きのご坊さん”と呼ばれていました。

江戸末期より長浜はカヤ、チリメン、ビロウドの生産は急ピッチに上昇し、湖北の繭の集荷、販売、生糸の取引も年々盛んになったが、南片町はその取引の中心地でした。

町制が引かれると、町の政治もここが中心となり、事実上の町議会もここで開会される始末。引山祭の行事の打ち合わせ、総当番寄り、各山組の集会もこの郭で開かれました。

また、元県議会議長田中久平が選挙違反に問われた際、なじみの女と朝鮮に雲がくれしたことがありました。大正時代の名町長で政友会の大物であった横田竜次郎はこの遊廓で大散財し、長浜きっての美人と言われた宮川楼の小奴と結婚、やはり名町長と謳われた中沢安二郎も郭の美人、竹千代を妻にしました。

名門の町長青木吉蔵もこの世界の常客で遊廓から登丁するという始末でした。

昭和のはじめには詩人の野口雨情がこの地に遊び長浜節を残しました。

さて、神戸町の山倉付近に玉徳橋というのがあり、別名“さよなら橋”で通ってました。これは片町で一夜を契ってここで「さよなら」という事から生れたものです。この南片町自体が遊廓時代、赤線時代から「さよなら」したのが昭和33年2月28日でした。翌日の新聞からその様子を見てみると、

『なごやかにお別れ会』

「南片町遊廓は二十八日に百年の歴史を閉じた。昨年末で三十数人の従業婦は五人結婚、一部帰郷更正して、残りわずか二十数人。二十八日正午楼主八人と従業婦が長楽園組合事務所に集り、なごやかなお別れ会を催し、それぞれ楼主から金一封のせんべつが送られ、お別れ会は心づくしの料理と酒で楽しい半日だった。

二十四人のうち大半が帰郷して更正の道を開くが、数人は思い出の長浜に職を求める。結婚する三人のうちT楼のY子さん(25)は三月十三日に長浜市慶雲館の市民結婚場で晴れのゴール・インをする。滋賀婦人少年室協助院岡野キクさんの親身も及ばぬ援助が実ったもの。

二十八日夜は片町最後の日とあって、宵の口からなじみ客が殺到。思い出の長浜にサヨナラだと、お客とともに町に出る姿もった。」

参照:滋賀日日新聞、昭和33年2月24日・同3月1日



by gionchoubu | 2018-07-05 16:09 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

長浜 南片町遊郭 辰巳藤

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長浜町遊廓の起源は、慶応の初年妙法寺先住の世話で、鉄砲町の内、神明神社の前、南北の筋に五、六軒あったのが始りとされ、明治の初年、県下第一号の公認得て「辰巳藤」が南片町で貸座敷営業をはじめました。

明治四年に妙法寺門前町南片に遊女屋渡世が十六軒あり、彦根県知事が大通寺に来たとき芸者が接待したという記録があるそうです。

ところが明治五年十一月九日県庁より遊廓廃止の命が下った二日後の十一日に長浜大火で妙法寺も遊廓も全て焼失しました。

明治六年二月県下の他の遊郭とあわせ納める税金で以下の様に等級分けされました。

上等=大津四ノ宮町、真町 賦金一カ月金二円
中等=八幡池田町、彦根袋町、長浜南片町 同二円五銭
下等=大津甚七町、神崎郡八日市村 同一円

つまり明治元年に許可を得た南片町の遊廓が明治五年に廃止されているものの明治六年には存在していることになり兎に角要領を得ません。

滋賀県統計書によると明治十六年末に十四軒の貸座敷と娼妓五十一人、明治二十六年末には貸座敷十五軒、娼妓七十一人と有ります。

『近江長濱町志 第三巻』の第十一章、遊廓によると、昭和の始めの数字と思われますが芸妓四十六人、娼妓五十一人で

芸妓を抱えていたのが、宮川楼、中藤楼、辰巳藤、川島屋、富田屋、娼妓を抱えていたのが大種楼、都楼、浅野楼、北川屋、大坂屋、島屋、富久美屋、福助楼、芸妓・娼妓とも抱えていたのが高崎楼。敷島楼は休業とのことでした。

休業中の敷島楼以外の貸座敷は芸妓か娼妓かもしくは両方を抱えていた事になります。

『全国遊廓案内』でも長浜の娼妓はやはり居稼ぎになっております。つまり女郎屋に娼妓は住んでおり、客はこの女郎屋に入ることになります。

この反対が送り込み制で娼妓は置屋に住み、客のいる揚屋に送り込まれていくのです。

芸妓も同じで、長浜では置屋とお茶屋が兼業になっていたという事になります。

その他、店は陰店、通し花制で廻しはとらない、一時間遊びが一円五十銭で一泊すると四、五円、この料金に台の物(客席に出す酒、肴、茶菓等の事)は含まれておりませんでした。

参照:長浜百年、近江長濱町志 第三巻、長浜市史四 、



by gionchoubu | 2018-06-30 11:33 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

草津東新地ぞめき その四

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              現存する油屋さんの隣が東楼でした。
              今回訪れた時この吾妻の看板はありませんでした。

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               廓内の水子地蔵尊に東楼が奉納した額があります。         

草津新地遊廓をささえてきた一番お客さんは地元の農村青年で、映画館も劇場も貧弱で農村成年の青春を満足させられなかったが、この郭の灯だけは夜の青年の胸をおどらせ、夕闇せまれば、こっそり白米一升をしのばせショーとタイムを楽しんだ、という時代もありました。

また県庁のお役人たちも宴会は石山で、二次会は草津新地へすべり込むコースが常道とされていていました。京都へは大げさだし、大津柴屋町では顔がさすので、草津新地は絶好の「安上がりのよろめき場所」だったのです。

経済的には娼妓一人でほぼ一家を養える程度の収入はあったとされており、このことが逆に遊客であった草津近郷の人々にとって新地が散財の場でもあったといえました。

昭和三十三年に売春防止法が完全施行されるまで、新地関係者も様々な対策を行いました。各種の寄り合いをしたことは無論のこと、業者や娼妓などが政権政党へ集団入党し、政治的圧力によって売春防止法を阻止する方法を考えたりしましたが徒労に終わりました。

昭和33年2月26日の滋賀日日新聞によると、

『六十年の売春史に幕、草津東新地で解散式』『関西赤線のトップ、接客婦の半数は帰郷』

既報=草津市東新地貸席組合=十一業者、中村一組組合長は、二十五日午前十時から同事務所で解散式を行い、関西赤線街のトップを切って六十年の歴史の幕を閉じた。

「この日、事務所前と各業者の店頭には“休業あいさつ状”が一せいにはりだされ、接客婦三十三人は午前中に最後の検診を受け、各業者ごとにささやかなお別れパーティを開いたうえ、帰郷者十七人は最も遠い鹿児島姶良郡蒲生町字下久徳、農業A子さん(22)が一万円をもらったほか最低三千円までを旅費として楼主から支給され、それぞれ郷里に帰っていった。

残りの十六人は芸妓に転向するもの九人、旅館女中一人、結婚三人、未定三人だが、芸妓見習四人は東新地芸妓置屋事務所を旧貸席組合事務所内に設け、旧楼主らも料理八、旅館三に転業することになり、東新地料理屋組合、旅館組合を結成、いずれも天下晴れての許可を待つ事になった。

東新地の全盛時代は戦前で業者十五軒が百五十人の女性を抱え、芸妓六、接客婦四の比率で二本立て営業をつづけていた。

中村組合長の話

二月末日でいっせい閉店を県連合会で申し合わせいたのを草津新地だけが繰り上げたのは警察の圧力が加えられたのではなく、ここの女性たちに一日でも早く更正してもらうためだ。

すでに三人が結婚生活にはいることになっており、他の人々も県夫人相談員の上杉愛子さんの努力で就職の道が開かれようとしている。十一業者も新商売のスタートに速やかな心構えと固い決意のチャンスを逃がさぬためである。」

『朝日新聞滋賀版』昭和33年2月28日によると、本来従業婦の十数名が芸妓に転進を希望しており、昭和三十三年初頭より大津から師匠を招いて三味線、長唄の練習を行っていたものの、警察から元からの芸者十人以上の新規芸妓は認めないという方針をだされたので結局四名のみの志望になったようです。

さらに風俗営業の料理店。飲食店と芸妓置屋を兼ねることも禁じられたので、この四人はこれまでの貸座敷業者のところに居住することが出来ないため、もとの検番に宿泊せざるをえませんでした。

その後の顛末について、私では追うことができませんでした。

参照:草津市史 第二巻





by gionchoubu | 2018-06-27 15:03 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

草津東新地ぞめき その三

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                          東新地

昭和二十年九月二十三日の『滋賀新聞』

動員されていた「工場からの復帰姐さん二十七名が出揃い、終戦このかた(中略)娯楽境を志し、紅燈絃歌の敢闘を約す女性群が続々と馳せ参じて開業を届出ている現状」と伝えています。

終戦直後は芸妓がさっぱり売れず、もっぱら従業婦の名の、戦前なら娼妓という立場の女性が多く、一時はその数も六十人を越えました。所謂赤線地帯としての営業でした。

戦前と違うのは、客が近郷の農家や商家の主人以外、昭和二十二年から二十四年ごろまで進駐軍の兵士が来るので、カウンターを設けて洋酒バーを設置した貸座敷もあったといいます。

昭和二十九年には当時の町長が観光対策の一案として新地の門前に大ネオン一基を建てることになり町からその補助金四万五千円を出すことになり、これに対し町民から非難の声が上がりました。

なぜなら総工費十二万の大鉄骨ネオン灯にはなまめかしい裸の女性が夜空の星を眺めて寝そべっているもので、通学の学童にとって風紀上好ましく無い物だったからです。

草津新地は創業当時、構えは吉原土堤八町を模したものと言われ、その入り口の大ネオンはさぞかし人の目を引いたことでしょう。

昭和三十年ごろから渋川町地先に綾羽紡績が誘致され、隣の守山町に日窒アセテートが建設工事を進めるようになってから思わぬ糸ヘン景気が訪れました。

そして周辺の八号線工事の活発化と併せ糸ヘンの行員さんや建設工事関係者で新地は毎夜超満員でその相手の従業婦も五十人いたといいます。

さらに、国道一号線の横にあったので、トラックの深夜運転の運転手の運ちゃんの休憩場所となり、東は岐阜、西は大阪まで、多くの運転手が利用したということです。

そして遊びの費用が安いのも東新地の特徴でした。昭和三十三年の閉鎖ぎわの花代は正味一時間四百五十円、泊り千円で、大津柴屋町より時間で五十円、泊りで二百円安く、草津遊廓の安いのは昔から大津、京都でも知られていて汽車で行ってもその方が安上がりとされていました。

当時の大津の古老の話では「カエルの鳴声ききながら、遊興三まいにふけるのも案外田舎臭い情緒もまってオツなもの、生き馬の目をぬくというような都会とちがった気安さがあったもんだ。」

と、むかしの草津新地廓をなつかしむ声もきかれたといいます。

参照:滋賀日日新聞 昭和33年2月26日



by gionchoubu | 2018-06-24 12:08 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

草津東新地ぞめき その二

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                       開盛楼

『宿場春秋 近江の国・草津宿史話』小林保夫 八杉淳著「宿場の飯盛女」の項を見ると、天保九年三月九日に草津宿助郷村方から出された願書(『膳所藩郡方日記』)で、近年草津宿で急増した飯盛女が助郷や商いの為に草津宿へ出る若者を誘うので村の風紀が乱れて困るから禁止して欲しいとの要望を出している様子が分かります。

さらに、「飯盛女所業取締方請書」にも、飯盛女の衣装が派手になり、所用で草津宿を訪れた若者を無理やり泊めてさらに酒食代を貪っているのにも拘わらず役人たちは見て見ぬふりをしているので、今後不届き物は召しとらえるという事が記されています。

結局奉行所は、この件にかんして、五月十九日に飯盛女を三十日間引き払う事を命じました。

同書には飯盛旅籠での遊興費(安政年間)も載っていました。

玉代(上玉)七百文、同(普玉)五百文
酒肴代(酒一本と肴一品)四百文
祝儀代(番頭・仲居へ)二百文

酒肴代と祝儀代をあわせると玉代と変わらないことが分かります。

明治になり、旧東海道五十三次にあった遊所は、自然消滅した所、そのまま残った所、そして東海道線の開業によりお客が寄り付かなくなったり、街道上に女郎屋があっては風紀上よろしく無いとの理由で移転した所に大別されます。

移転組として、神奈川宿は明治十七年、程ケ谷宿が明治三十三年、沼津宿が大正五年、江尻宿が大正末年、浜松宿は大正の末に街道沿いを離れました。

草津に於いて、町の東端の田圃をつぶして東(あづま)新地が誕生したのは明治三十三年とされ、旧草津街道に残っていた女郎屋が移りました。開業当初僅か三軒でのスタートだったと言います。

堀井吉之助にこの年「貸座敷免許鑑札」が下付されているのと、草津の新地が明治三十三年県税賦課規則で、四等地として税地等級の対象となっているのが根拠となります。

東新地の最盛期は、昭和57年の聞き取りによれば、第一次世界大戦の戦需景気による大正八年頃をピークとし、中央の広い道路を挟んだ両側に貸座敷が並び、

北側西より、角屋、煙草・菓子販売業、油屋、東楼、検場、中君楼、池田楼、山貞(やまて)楼、中村楼

南側西より、吉富楼、月の家、常盤楼、開盛楼、大富楼、すし屋、富士楼、松葉楼、寿楼、栄楼が軒を連ねました。

北側中央の検場(検番)には芸妓、娼妓を呼んで遊ぶ揚屋の組合、芸妓、娼妓を抱えている置屋の組合、料理組合が置かれていました。

ただし、草津町の東新地は揚屋(お茶屋)、娼妓や芸妓の置屋、そして仕出しを担当する料理屋の所謂三業が明確に分離しておらず、中村楼と大富楼のみが芸妓置屋であったといいます。

又、芸妓は新地内のみでなく、双葉館魚寅楼など他地区の宴席にも呼ばれるため、大正期に人力車五台をもつ車屋も存在しました。

参照;『草津市史 第三巻』、『艶本紀行 東海道五十三次』林美一著


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                       双葉館魚寅楼


by gionchoubu | 2018-06-20 15:34 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)