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カテゴリ:亡くなった滋賀の遊郭( 59 )

上品寺と法界坊の鐘

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                   花扇と法海の名前が刻まれています。

法界坊といえば歌舞伎『隅田川続俤』(すみだがわごにちのおもかげ)で、吉原で浄財を使い果たす破戒僧として堕落した姿で描かれています。

実はこの法界坊のモデルは滋賀県、中山道の上品寺(じょうぼんじ)の七代目の了海がモデルで実際は堕落僧どころか、志の高い僧侶でした。

この上品寺で配られていた『法界坊釣鐘縁起書』をみると、法界坊は十九歳の時師匠の譲りを受けて上品寺に住することとなったものの寺が非常に荒れ果てていたため、これを復興する為江戸に行き町中を托鉢して周りました。

そして吉原の花魁、扇屋の花里は仏法に志が厚く、それがため法界坊に帰依して熱心にその法話を聞き入りました。

法界坊は花里の許に行き女人の罪業のひとしを深重なることを諭し、弥陀の本願はかかる罪業深き衆生を救わんとして起し下さったという有り難い趣を諄々と説き聞かしました。

花里は法界坊が寺の釣鐘を建立する為江戸で托鉢をしているのを知ると

「自らは浮川竹の遊女の身であけくれ綾錦を身にまとうといえども露ばかりも善根をなした覚えもなく父母菩提のため又我身後生のため聊かにでも報謝の布施をさせていただきたいものです。」・・・自分は罪深い遊女で美しい着物を着ているものの、善行を全く成したことがありません。是非お布施をさせてください・・・

花里は喜んで廓内の寄付に日夜奔走したがその途中で惜しくも胸を患い病死してしまいまいた。

姉の花扇は花里の薄命を深く憐れみその志を受け継いで自ら先頭に募財して廻り遂に釣鐘建立の資金が調い、鋳物師の西村和泉守藤原政時の手で鐘は完成しました。

法界坊は完成した釣鐘を地車に載せ自ら曳きもって遠路二百余里東海道を引き下り故郷上品寺に帰着しました。

明和六年(1769)年の事でした。

鐘の供養をいとなんだ夜、法界坊の夢の中に花里が現われ、「自分ははかない無常にて相果ててしまったが、鐘を為した功徳により即身観世音菩薩になりました。」

法界坊が目を覚ますと不思議にも枕元に一体の観音像が置かれていたといいます。

破れ衣に伸び放題の頭髪、念仏を唱え喜捨を求めて大江戸八百八町を歩着回った男はさぞかし江戸の町では評判になったのでしょう。歌舞伎では好色でコミカルな破戒僧として本人は決して望まなかっただろう姿で描かれた法界坊。

しかし世の中とは数奇なものです。この鐘は歌舞伎の題材となって有名になったお陰で戦時中の供出を免れ現在もその姿を見る事が出来るのです。

法界坊の執念たるや恐るべし。



鐘の周囲には花扇を始め寄進者の名前が刻まれています。

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                       花里の名
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                    法界坊が鐘を運んだ台車
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by gionchoubu | 2018-08-14 14:00 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

遊所、近江そね村、そね付

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                        曽根沼

喜田川守貞の『近世風俗志』(守貞謾稿)の「諸国遊所競」に載る滋賀県の遊所は大津柴屋町、(近江)八幡、草津、そね付、水口、そしてこれに遊女の揚台を記した「諸国遊所見立角力並直段附」に載るのが大津柴屋町、八幡、そね村、草津、水口、石部。

この二つの番付の違いは後者に石部が加わっただけでしょうか、いやもう一つありまして、前者がそね付、で後者がそね村・・・付と村・・・当初は文庫版の誤植と考えていましたが、版画の坂も村、付の字が充てられています。

私の意見としてその元々の版画の板が誤植でそね付でなくそね村が正しく正式には曽根村の字を充てると思います。

そして更に大きな謎・・・そもそも遊所曽根村は存在したのか、さらに、有ったとしたら、その場所は何処だったのでしょうか?

『滋賀県の地名』を繰ると滋賀県には曾根のついた場所が三箇所あります。

先ずは曾根沼・・・その場所は現彦根市の宇曾川が琵琶湖に注ぐ辺りで、藩政時代は彦根藩領でした。元禄時代は人数七百十、彦根藩は遊郭に対し非常に厳格で、飛び地の栃木の佐野の遊郭まで廃止したぐらいなので、自藩領地に遊所がある筈は無いといえます。

二つ目は愛東川右岸、青山村の北西、八日市の東の曽根村で、ここも彦根藩領だったらしく、南に八風街道が走るものの、中山道の愛知宿からも離れ、江戸期に遊所が出来る要素一つもありません。

最後が長浜市の西、姉川左岸でここは少し脈がありそうです。集落の北よりに「左竹生島道」の文久時代の道標が立ち、さらにほぼ南北を北国街道も通ります。

遊所番付は天保時代前の設定ですが、この天保八年の郷帳では曾根金津村五百石余が旗本滝川領、曾根市場村・曾根綾野村九百三十四石余りが幕府領になっています。

しかしながら、ここに遊所が有れば何かの記録が有るはずですが、全く有りません。

この三箇所の共通点はすぐ側に川の流れがあることです。それもそのはず、そもそも曾根の語原は河川の氾濫があった場所、またはその結果自然堤防が形成された場所に有りました。

はたして近江にそね村かそね付と言う遊所は存在したのでしょうか?

情報あれば是非御願いします。

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                     この三画像が長浜の西の曽根村
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                       北国街道
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                        左竹生島道


by gionchoubu | 2018-08-12 14:55 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

滋賀県 日野町清雲新地 全滅ス

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昭和四年刊、上村行彰著『日本遊里史』の「日本全国遊廓一覧」では滋賀蒲生日野町大字日野青雲新地で貸座敷数四、娼妓数七と大変小規模な遊廓だった様です。

昭和五年刊『全国遊廓案内』を見ても「日野町遊廓に滋賀県日野町にあって、右記の水口町の隣接町である。此処も妓楼や制度が判明して居ない。」が既述の全てです。

実はこの二書が出版された時点でもう日野の遊廓は存在していませんでした。

内務省警保局『公娼と私娼』昭和五年六月時点調べによると、日野町の欄に貸座敷数も娼妓数、他の数字も全て―の印がつき代わりに大正十??十十一月全滅ス、と書かれていました。??は読めないものの大正時代の終盤に無くなっております。それにしても一遊廓が廃業するのに全滅という表現は初めて出合いました。

それでは青雲遊廓の誕生は何時だったのでしょう。

これも良く分からないものの、明治十八年六月の滋賀県甲第六十七号布達貸座敷及娼妓営業取締規則に大津の上馬場、下馬場、甚七町、長浜南片町、八幡池田町、八日市、彦根袋町が載るのに日野清雲新地が見えないので、明治十八年以降に誕生した模様ので、実に短命の遊廓だったと思います。

とにかく、『近江日野町志』や『近江日野の歴史』を開いても、図書館に相談しても、地元でお聞きしても、中々実態が分からないのが清雲新地です。

『滋賀県の地名』では清雲(せおん)町の見出しで現日野町大窪、上清雲町、下清雲町と書かれていますので、青雲新地ではなく清雲新地が正しい表記になります。

さて、『公娼と私娼』を今一度開いて当時の滋賀県の娼妓事情を見ていくと、娼妓稼業年数制限というのがあり、滋賀県では「規則に於ては制限して居ないが、其の取扱内規で、五年以上の稼業期間は絶対に許さない。而して、此の期間の計算については、県内に関するものとみなし、他府県に於けるものは計算に入れない。尤も五年以上稼業したいが為に、一旦県内より他府県に鞍替えし、更に県内に帰って来た場合は、其の登録を拒否する」

これは県によってまちまちで、北海道、岩手県、秋田県、埼玉県、新潟県、富山県、静岡県、三重県、佐賀県、鹿児島県、沖縄県のように全く制限のない所もあれば、だいたい娼妓稼業の年数として五年が制限の所が多い様です。

お隣の京都府は「規則及び内規に於て制限は附してゐない。しかし楼主及び周旋業者が談合の上五年を超ゆる契約は之を為さないことを通例として居る」とありました。

ただし、この五年以内がにどれ程の実効性があったかは不明です。


by gionchoubu | 2018-08-09 16:18 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、八町、四の宮、真町遊郭 その三

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真町は昭和25年西町と合併して真西町になりました。現在は長等一丁目

大津真町の温習会 大津市繁栄の一端

十月二十七、二十八の両日午後五時から大津市大黒座で真町(しんちょう)遊廓の温習会が左記の番組通り催され、二日目に往って見たが文字通りの満員、長唄「秋の色種」が今や終らんとする時であったがいづれも充分の声量を発揮し、舞「越後獅子」は富龍が病気休演で富鶴の一人舞であったが至って軽く達者に演って退け、吉次の「来るか」も千代香の「好た水仙」も中々好い聴物だった。

常磐津「紅葉狩」は能く練習が積まれて全体の意気カッチリ、舞「京人形」は小龍の人形は美くしい人形、人形らしい人形、富勇の甚五郎は動き過ぎる程能く舞い、両妓共格好の配役大当り、素囃子「多摩川」は小蝶と富鶴が段調、一同の意気能く会い、堂々たる多摩川を聞かし、哥澤振「綱上」は富蝶の振、哥澤としては少々硬はなかったか、併し其処に得もいはれぬ味のある好い振りを見せ殊に地が渋味の中にハンナリ好い咽喉を利かし舞「奴道成寺」は小蝶の振り確かに舞の人、而もアレ丈の坊主、アレ丈の地方、大切として中々の大舞台、正に当日の圧冠であった。

実は余久しく真町の温習会を観なかったが、今年久々見聞する事を得た四十名に足らぬ同廓の芸者が、誰も彼も共に平素技芸の練習に熱中し、況して温習会前となっては数日間殆ど不眠不休の猛練習で、舞踊が花柳輔好、長唄が杵屋君雄、常磐津文字春、鳴物が田中徳次郎、哥澤が哥澤芝弥三の各師匠で、弟子が熱すれば,師匠も熱し、そして真町芸妓の技量を斯様に発揮し得られたは真町其もの、大なる成功であり、大にしては大津市繁栄の一端であらねばならぬ、殊に舞台装置といい、衣装、かつら其他有らゆる設備に就いては多額の費用の惜しまれていない事を想像す、不況時にもかかわらず同廓としてこの奮発は芸術向進の上からも亦土地繁栄の上より見るも大に歓ぶべき現象であると感じた。

舞 子寶三叟

舞 月の巻

秋の色種

舞 越後獅子

紅葉狩


舞 京人形

素囃子 多摩川

振 綱上位

舞 奴道成寺

以上『技芸倶楽部』昭和六年十一月号に現在まったくと言ってか語られる事のない真町芸妓の心意気を見る事が出来ました。

尚、大黒座はもと稲荷新地にあったものが小川町に明治二十一年に移ったもので、二十八年にはさらに石橋町に移り千名収容になりました。



by gionchoubu | 2018-08-07 11:40 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、八丁、四の宮、真町遊郭  その二

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                  かつての真町、お茶屋風の建物

『艶本紀行 東海道五十三次』で林美一氏は四の宮は明治維新後公許の遊廓となり、二十一年に滋賀県庁の移転のため、近くに遊廓のあるのは面白くないと十八年に端っこの真町に移転した、そして昭和四十七、八年ころに大津駅前に三十メートル道路が完成するまでは、四の宮町のほうに清水屋・木村屋などの大きな茶屋造りの建物が残っていた、と書かれています。「


四の宮遊廓が新設の真町に移ったのでしょうか?


ところが、明治六年二月県下の他の遊郭とあわせ納める税金で上等=大津四ノ宮町、真町 賦金一カ月金二円という資料があります。

さらに、明治十二年の滋賀県租税便覧に、真町は上等免許地として柴屋町(馬場町)と四宮町と名を連ねており、両遊廓は同時に存在しております。

真相は大正四年、中村紅雨著『大津名勝案内』にありました。

真町遊廓は「明治の初年に設置し、滋賀県丁の新設に際し四宮遊廓所へ移転合併せり」と記されているので、この二遊廓は暫らく共存しており、明治初年より十八年に大津には柴屋町、甚七町、真町、四宮の四箇所、明治の五年くらいまでは八丁も残っていた可能性大なので、最大大津には五遊廓がぞんざいした可能性もあります。

明治、大正、昭和の三代に渡って柴屋町で“英吉ねえさん”として名妓の誉れ高い芸妓さんは日日新聞で「四ノ宮の郭にもよい妓がいましたァ。県庁ができて、柴屋町に移ってきやはりました」と回顧していました。


明治三十九年真町に貸座敷十六軒、芸妓三十三人、娼妓七人とあり芸妓本位の花街だったことが分かります。

昭和五年『全国遊廓案内』では妓楼は十五、六軒、娼妓は約四十名で娼妓は送り込み制。御定りは時間制又は仕切制(何時から何時までと仕切る)、一時間遊びが一円二十銭位、一泊が四、五円位で台の物は付かない、廻しは全くとらないので比較的のんびりできるとの事です。

『公娼と私娼』内務省警保局によると昭和五年六月に真町に貸座敷は十五ありました。

ちなみに同書で当時の滋賀県の娼妓事情を見てみると、

当時の滋賀県の娼妓数212人のうち一番出身の多いのが京都府の80人で38%を占めます。次が大阪出身の32人で15%、滋賀県出身の29人で14%つづいて三重県の十二人で6%、この4府県で72%を占めました。

また年齢は20歳から25歳までがもっとも多く66%がこの年代です。

滋賀県の娼妓の公休日は月一回とほとんどの府県と同じです。

公休日の設定は県単位が多く、月一回が殆どで、ごくまれに月二回の所があり、一番多いのが山形県で年三十日以内を自由に休業さす・・・とありますが多分実際はそんなに休んでなかったでしょう。

中には、青森県の十七箇所の内十箇所や長崎県、長野県や福井県の一部のように娼妓の休日年間ゼロというところもありました。

その理由として宮城県のところに「娼妓一般の意識としては、休日により収入の減少することを嫌い、其の実施を歓迎しないようである。」と有りました。




by gionchoubu | 2018-08-01 14:57 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、八丁、四の宮、真町遊郭 その一

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                        大津宿

江戸の日本橋を出て、東海道と中山道の最後の宿駅が大津宿です。終着の京都三条は目の前です。

『旅枕五十三次』に

「此地は〜略〜大に繁昌の所にして、はたご町を大津八丁という。町数すべて九十六丁あり、遊女五百文、又三百文なり。外に百文おちゃづけとて付事、外になき事なり。げいこは京・大坂の風にかわらず。たいこつゞみをうつ故、ざしき大ににぎわし。名物大津絵、名産源五郎鮒。逢坂 逢うさかは男女しのびあうの義なり、此辺山かげ森かげにて出合多くあるところ也」

『艶本紀行 東海道五十三次』で著者、林美一は、百文おちゃづけはチップの様なものでないか、と推測しています。

いままで見てきたように、江戸期の大津には柴屋町(馬場町)、甚七町以外に、飯盛女がいた大津宿の八丁と四の宮の遊所がありました。

参勤交代の大小名の侍や、羽織袴の大津の商人の振舞が上客だった柴屋町は別格として、八丁も四の宮もぐっとくだけた遊所だったと思われます。

大津八丁は北国街道との分岐点である札の辻から南へ向かう清水町までで、本陣二軒と脇本陣一軒あ置かれ、旅籠屋は元禄十二(1699)に八丁を中心に百三十五軒、江戸後期には七十一軒になっています・

八丁の飯盛旅籠は明治になって街道筋の凋落とともに消滅しました。

四の宮の遊所も何時頃出来たかわかりません。寛保二(1749)年町絵図では通りの北に町名の由来となった四宮社(天孫神社)、南に芝居小屋が記され、宝暦十(1760)年『大津珍重記』によると当町に料理茶屋街がある、と有るので江戸の中期には歓楽街であったのが分かります。

茶屋冥加銀を納めて料理屋渡世をしておりましたものの、これは表面上のことで、多くの売り女を抱えて客に侍らせていました。

八丁の旅籠屋に泊り客が多い時など四の宮の茶屋に客を泊めさせていたので天保十四年、甚七町遊廓とともに、幕府より茶屋途世を宿屋渡世に改めるように命ぜられています。

この時の御請證を見ると

四宮町として

巴屋、旧五人組に伊賀屋、大阪屋、筆屋、木屋、広島屋、米屋、大和屋、大黒屋などの名が並びます。

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大津宿本陣跡


by gionchoubu | 2018-07-31 13:56 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津 甚七町 花街

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甚七町遊廓は花街の様相の強い町でした。

昭和四年の『技芸倶楽部』の花街小品というあまり大きくない京都周辺の花待を順次紹介するシリーズの九に大津稲荷新地がとりあげられています。

大津の他の花街「柴屋町の喧騒もなく真町とはまた落ちついた感じのあるところである」と紹介されています。

馬野町人という筆者は、俵家で大たつのたま、たわらやの春次、滋賀千代の一若を呼んで飲めや唄へと大陽気にやりだし、大津の里のおもしろさを堪能したようで、

「流連(いつゞけ)によし散財によしおもしろい所である。土地の狭く、通りも細く軒と軒との触れ合いそうなのも面白い町の姿である。」

さらに、『季刊 湖国と文化 第112号』の甚七町の稲荷新地で著者の高橋勉氏は戦前の甚七町の思いでを語っています。

まず稲荷新地の象徴であるお稲荷さんの祠がお茶屋街のはずれあり、側に大人の腕で四抱え程もある太い幹に注連縄の巻かれた銀杏の木があった事。

表の浜通りから浜に向かう三本の路地(いちばん東の路地は恒世(つねよ)川沿い)が先でつながり、その一帯に京格子のはまったお茶屋が軒を連ねていた事。

数え年五、六歳の筆者は杵屋という置屋の二人の芸者に可愛がられ、決まって三時になると銭湯へ一緒に行った事。

陽が落ちると、お茶屋の軒先に灯がともり、寿乃屋(ひさのや)、俵屋、吉野屋、枡屋、大玉といった店の名が門灯の白いガラス被に浮かび上がり、二階から三味線の音が聞こえると、新地の夜の情緒はいやがうえにも高まった事。

そして新地に一軒カフェーがあり、「青い灯、赤い灯、道頓堀の・・・」などのメロディーが流れ、客引きの女給が外にでていた事・・・

甚七町の花街情緒が目に浮かんできます。

この甚七町の花街は太平洋戦争中に無くなり、戦後復活することはありませんでした。

『近江今昔』中神天弓著によると、

江戸時代、公儀の目付は浜通りが大井川であると狐に騙され、手拭を頭にのせ、裾をからげ、狂言の出方のように“浅いぞ浅いぞ”と川を渡る。向うの方では肩まで着物をまくりあげて“深いぞ深いぞ”と答えて渡る。

近所の人はまた狐に騙されとると大笑い。これではというのでお稲荷さんを建てて、やがて遊廓ができた。

狐はいなくなったが、それから客をだます芸姑が出来た。




by gionchoubu | 2018-07-28 11:04 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津 甚七町遊郭

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          甚七町自治会のブログにはその歴史が語られ、強い誇りと愛着を感じる事が出来ます。

弘化年中(1844~46)になると幕府の禁令も緩み、広島より来た業者が広島屋開業、その後瓦松という者も遊女屋を始め続々開業。

稲荷新地遊廓も明治維新の際は遊女屋軒を並べるほど繁昌する。

明治五年、芸娼妓開放令で一時廃業

同年十二月、新規営業を許可される。

明治六年二月県下の他の遊郭とあわせ納める税金で以下の様に等級分けされる。

上等=大津四ノ宮町、真町 賦金一カ月金二円
中等=八幡池田町、彦根袋町、長浜南片町 同二円五銭
下等=大津甚七町、神崎郡八日市村 同一円

明治十二年、滋賀県租税便覧によると甚七町は中等免許地になり、【貸座敷営業】免許料金四円、一ヶ月賦金二円五十銭 【芸娼妓舞子営業】 免許料金二円五十銭、芸妓税一ヶ月一円五十銭 舞子 七十五銭 娼妓賦金 壱円、芸娼兼 税金七十五銭 賦金七十五銭

となる。

明治十四年ごろは全町殆ど貸座敷となる。

明治十八年 該業を営むもの四十六軒(貸座敷はその半分以下のはずです。)

明治二十九年の大洪水で大打撃を被り多くが他に移転する。

明治三十九年 貸座敷十二軒、芸妓十七人、娼妓四人

昭和五年刊『全国遊廓案内』では大津甚七町遊廓「は同市甚七町にあって、貸座敷数は約二十四軒、娼妓四十名位居る。柴地遊廓と略同様であると思えば間違いはない。」と実にそっけない扱いです。

柴屋町遊廓と同じとすると、遊興制度として店は陰店、娼妓も芸妓も送りこみ、廻しはとらない、という事になります。

ただし内務省警保局『公娼と私娼によると』同年に当郭の貸座敷は二十一軒に対し娼妓数十四人の信用できる数字があり、貸座敷数>娼妓数はその遊廓が芸妓本位の花街の要素を強くもっていた事を暗示しています。

さて、現在この由緒ある甚七町はお隣の肥前町と合わせて昭和40年に松本町2丁目と町名変更しました。

もともとこの辺りが松本村であった為の町名でしょうとも、せっかく甚七、肥前という素敵な名前を捨て、どこにでもある松本2丁目とした先人に私は強い怒りを覚えます。

これには当然国の大きな力が働いております。

世の中効率だけを求めるなら、文化は育まれません。

町名をおもちゃにしたつけは必ず払わねばなりません。



by gionchoubu | 2018-07-26 11:10 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津 甚七町 稲荷新地

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                         甚七町

大津百町の一つ甚七町の由来は、年代は未定なものの、ここに多くの土地を所有していた川屋甚七に有ると言われ、既に元禄年間(1695~1703)にその子孫が遊女屋を始めたと言う事です。

十五年の年月をかけて享保十九(1734)に完成した『近江輿地志略』の「稲荷社」に、

甚七町に在り〜略〜一年妖狐あって甚害をなす事あり。

狐は稲荷の使者なるを以って稲荷神を勧請す。

祭神は山城国稲荷神と同体也。今境内に茶屋をかまへ略遊女の類を隠しおく事もありとなむ。

享保十二末年の秋の頃より始めしとかや。

神社の境内不礼不敬不義の罪恐るべし。

この厳しい言い回しは、編纂者の寒川辰清が膳所藩の儒学者であったのと、この地志が十一代膳所藩主本多康命の命で編纂された為でしょう。

同じく柴屋町遊廓を述べる際も、広邑には必傾城町あるべき事なれども心得違ひにて身を亡し家を乱るに至る。若き時は血気未定らず慎むこと色にありとの戒め忘るべからざるの第一也・・・と地誌には必要ない小言じみた事も書いています。

さらに、宝暦十(1730)年の『大津珍重記』にも、当町稲荷新地に料理茶屋あり、と記されています。

明和元(1764)年京都町奉行の許可を得て新規遊女屋株三十軒となり年々冥加金を納めて営業しました。(享和七年に大津代官支配から京都奉行支配となりました。)

ところが天保の改革で全国の遊所のほとんどが禁止された時、甚七町の二十四あった茶屋も禁止となりました。

この時甚七町にあった店は丸屋、玉川屋、広島屋、井上屋、近江屋、鶴屋、大阪屋、中島屋、河内屋、柏屋、松本屋、鯉屋、山田屋、八百屋、青地屋、松屋、但馬屋、玉屋、己待屋、魚屋などで、遊女屋は宿屋又は他の業に転ずることとなりました。

甚七町近辺は別に相撲や他の興行もよく行われ、又賭博なども盛んで、遊女屋廃止後はしろいもじという若い女を抱えて他人に媒合(男の間をとりもつ)者がありました。

白首、白鬼、白女などは皆遊女の異名で、白湯文字は天保の頃より京都、大阪、筑前、伊勢、能登にて私娼を言い表していたので、しろいもじも白湯文字の事だと思います。

参照:『大津市志市下巻』大津市私立教育会編纂




by gionchoubu | 2018-07-22 17:28 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

守山宿の飯盛女

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                       守山宿

江戸期において、京と江戸を結ぶ東海道五十三次にはすべて飯盛女という娼婦がおりました。滋賀においてもその宿場として、大津、草津、石部、水口、そして土山にも当然宿場女郎はおりました。

同じく京と江戸を結んだ中山道はどうだったのでしょう?東海道は矢張りメジャーで宿場の規模も大きく、道中に主要都市もあり、おびただしい道中ものの艶本が存在します。

脇役の感が否めない中山道にも宿場女郎がおりました。ただし『飯盛女 宿場の娼婦たち』五十嵐富夫著で見ていくと、飯盛女の話は東京側に多く、東より倉賀野宿、板鼻宿、安中宿、坂本宿、追分宿、小田井宿、長窪宿、和田宿等での記録を見る事が出来ます。

上記以外、和田宿の次の下諏訪宿は温泉場でもあり、旅籠から出女が往来の男客に呼びかけ袖をつかみ客引きをしました。ここでは女郎を置かない平旅籠はほんの数軒だったとの事です。

さらに深谷宿も、たいへん盛んだったようで、渓斎英泉の浮世絵には意気揚々と宿場内を褄を取りながら闊歩する飯盛の姿を見る事ができます。

ただし、『諸国遊所競』によると東海道では遊所として品川、浜松、小田原、吉田、府中、四日市、桑名、白須賀、岡崎、大磯、平塚、三島、川崎、掛川、草津、沼津、戸塚、蒲原と多くの宿場が載ります。

一方中山道の方は、東海道の五十三に対し六十九あるのに対し、東京の板橋と熊谷、本庄とずい分見劣りします。

尚、滋賀県の草津も載りますが、これは東海道と中山道をかねていますので、東海道が十九箇所数えるのに、数の多い中山道は、草津をいれて僅か四箇所と、江戸時代の後期の認知度はずい分低かったと言わざるを得ません。

さて、滋賀県の中山道の草津の次の守山宿の事情はどうだったのでしょうか。

『守山市誌』によると守山宿は宿高が近江八宿の内、高宮、柏原について三番目、本陣(大名が宿泊)が普通一つのところ二つ、脇本陣(家老などが宿泊)一、旅籠が三十軒ありました。

宝永四(1707)年の史料に「守山宿の旅籠屋に飯盛女を置くことは先年許されたことであるが、腰掛茶屋や料理茶屋などに五人、三人と召抱えて遊客の好みのままに酒席にはべらせ三味線や太鼓まで持ち出すなど、風俗、所行など全く売女同様で似ての外不埒である。厳しく申し渡して差し止めよ。」のお達しがだされておりますので、間違いなくいた事になります。

これは他の宿場でも同じようなものだったらしく、幕府は享保三(1717)年に旅籠屋一軒に付き飯盛女二人までの布令をだしました。




by gionchoubu | 2018-07-20 16:18 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)