花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る

カテゴリ

全体
上七軒
遊郭・花街あれこれ
先斗町
宮川町
ねりもの Gion Nerimono
舞妓・芸妓
祇園東
五番町
雇仲居
遊廓、花街の類形
京都の花街・遊廓
亡くなった滋賀の遊郭
五条楽園
私娼
島原遊郭
祇園
パンパン、赤線
島原、輪違屋太夫 賛姿語録
*リンク
亡くなった奈良の遊廓
未分類

以前の記事

2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月

お気に入りブログ

最新のコメント

花街ぞめき様へ 元..
by narahimuro at 18:15
> narahimuro..
by gionchoubu at 14:16
> あきさん コメ..
by gionchoubu at 14:51
本当に詳しく、有難うござ..
by あき at 21:27
花街ぞめき様へ 元林院..
by narahimuro at 22:47
> やまねさん し..
by gionchoubu at 12:40
河原町四条の蝶類図鑑は常..
by やまね at 11:23
> やまねさん そうで..
by gionchoubu at 12:36
ちなみに プログレががん..
by やまね at 22:56
> kwc_photoさ..
by gionchoubu at 10:35

メモ帳

最新のトラックバック

美は幸福を約束するものに..
from dezire_photo &..

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

花街 元林院ぞめき 三
at 2018-12-09 12:56
花街、元林院ぞめき 二
at 2018-12-06 12:58
上七軒 大文字 勝奈さん その四
at 2018-12-05 12:24
花街 元林院ぞめき 一
at 2018-12-02 17:25
大和郡山 洞泉寺遊廓ぞめき 三
at 2018-11-28 12:34

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
近畿

画像一覧

カテゴリ:私娼( 19 )

花柳病 その三

f0347663_11050495.jpg
                      金沢、石坂

花柳病予防法が発令されると、色々な憶測が飛び交ったようです。『技芸倶楽部』
「花柳病予防法と芸妓 昭和三年一月一日から実施」北野文堂

を読むと、内務省の目論見は、花柳病の撲滅には、芸妓、雇仲居、酌婦、女給、料理屋、宿屋、果ては女髪結にまで検黴の網を拡張すると目論んでいるという噂が世間では飛び交っていたようです。

京都市内の遊廓は勿論、雇仲居組合でもこの件に関し協議はするものの、肝心の施行細則や府の取締方針も分からず、経費支出の点も、その他何等具体的成案もないので、全く手のつけようが無かったようです。

参考となるのは、石川県が数年前から芸妓の検黴を実行している事、但し旦那のあるものは、一々その旦那の住所氏名を所轄警察署に届けて認可を受ければ検黴を免れ得るという事でした。

金沢などで、芸妓が娼妓と同じ働きを強要されていたのは『廓のおんな』井上雪著などを読むと分かりますが、これを祇園などの芸妓と比べるには無理があるのは当然で、四人旦那持ちなら四人の名前・住所を届ければならぬか、その中で選ばれた旦那だけを届けるか、届けられた旦那は幸せ者か、いや不幸せ者か、と色んな方面に心配が行ったようです。

北野文堂は旦那のない芸妓が「マアマア何うしましょう、娼妓さんと同じ様に検査をされるのどすか、私そんな事されてはかないません。」と、柳眉を立てて廃業してしまったり、少々都合が悪いけど落籍してしまう事でした。

さて、その頃、京都府保安課の調査によると、府下の芸妓総数2、545名、内市内が1,845名で郡部が700名でした。

市内の部

祇園甲部 718名
祇園乙部 328名
宮川町  421名
先斗町  260名
上七軒   75名
島原遊廓  59名
七条新地  10名

郡部の部

伏見中書島 67名
伏見北恵比寿(撞木町) 7名
綴喜郡橋本遊郭 42名
福知山猪崎新地 92名
宮津新浜新地 99名
舞鶴朝代新地 76名
中舞鶴加津良新地 43名
新舞鶴龍宮新地 31名

遊廓以外に稼ぐ芸妓

宇治町 30名
木津町 40名
亀山町 44名
園部町 56名
綾部町 54名
峰山町 18名
網野町 35名

以前このブログで園部は花街と呼べたか尋ねあぐんでいましたが、これはもう純然たる花街があったと声を大きくして言えます。さらに大正期に網野に数人の芸妓がいた事は把握しておりましたが、昭和の始め網野にもそこそこ規模の花街があった事が読み取れます。

f0347663_11065528.jpg





by gionchoubu | 2017-06-24 11:07 | 私娼 | Comments(0)

花柳病 その二




f0347663_12000330.jpg
                 カストリ出版さんが発掘した四冊の内の一冊

第一条 本法に於いて花柳病と称するは梅毒、淋病及び軟性下疳を云う。

昭和二年法律第四十八号として発令された花柳病予防法の第一条であります。これは八条から成り、当時文明病と呼ばれ、亡国症と例えられた花柳病の撲滅を計らんとこの法律は帝国議会を通過しました。以下概略です。

第二条、内務大臣は市、又は必要と認めた公共団体に対し診療所を設置を命ずることが出来る。

第三条、上記の設置で国庫より、六分の一、乃至二分の一を補助できる。

第四条、既存の診療所をこれに代用できる。

第五条、花柳病に罹っている事を知って売淫をしたなら、三ヶ月以上の懲役、又、花柳病に罹っている事を知り、又知るべくして売淫の媒合又は容止をしたものは、六ヶ月以下の懲役、又は五百円以下の罰金を課せられる。

第六条、花柳病に罹ったものに、医師は適切な処理をしなくてはならない。

第七条、花柳病の売薬は成分、分量等をはっきり記載しなければならない。(偽薬、誇大広告の防止)

第八条、七条に違反したものは五十円以下の罰金。

ざっとこんな具合でした。

この法律が発令された数年後、昭和六年二月に内務省警保局による『公娼と私娼』を開いてみると、

娼妓の定期健診回数は道府県区々によって、一週二回、毎五一回、毎六一回、一週一回の四種類で、大部分が一週一回か、二回とのことで、概ね警察庁が検診、花柳病と判断されれば娼妓病院(駆黴院)に於いて治療します。

公娼の罹病率は高いのが岐阜県3.70%、千葉県3.61%、鳥取県2.96%、大阪府2.70%、大分県2,68%、北海道2.62%、東京府2.57%、静岡県2.29%、青森県と広島県の2・23%

低いのが富山県0.27%、埼玉県0.69%、山形県0・71%、宮崎県0.74%

全国平均は1.82%

これが私娼となると多いいのが兵庫県25.43%、茨城県20.50%、広島県17.85%、新潟県と愛知県の16.66%、宮城県12.50%、青森県11.62%、山口県10.77%

低いのは島根県0.16%、埼玉県1.47%、神奈川県1.62%、静岡県の2.05%、長崎県2.08%、群馬県の2.54%

全国平均4.77倍

京都府の娼妓の罹病率は1.50%と全国平均を下回っています。また全国の花柳病の罹病者の内、淋病が59%、軟性下疳34%、梅毒7%です。

『公娼と私娼』では、私娼の診断は法令で強制できない、さらに、その診断も民間の医者が多いので、私娼の抱主の意向を受けて、手加減をしている医者もいる、との見解を示しています。

という事は、個人で売春している女性はさらに検診を避けると考えられるので、兵庫県や茨城県の私娼と売淫するなら、神社でおみくじを買い中吉をひくより、花柳病をひき当てる可能性の方が高いのを覚悟しなければならなかった事になります。

f0347663_12001166.jpg




by gionchoubu | 2017-06-23 12:06 | 私娼 | Comments(0)

もう一つの新京極・矢場女から女給まで

f0347663_10254884.jpg
新京極誓願寺前、祇園の舞妓を助け切り込む新撰組・・・の意図で描かれたものと思います。ところが祗園は勤皇で新撰組とは対立関係・・・私には嫌がる舞妓を拉致する新撰組に見えてしまいます。


明治の初期、新京極の出来た頃、大人気を博したのが揚弓場で、東京、大阪京都で大繁盛、新京極だけで、一不二、二鷹、三茄子、都山、玉山、益山、有山、林山、梅山、船山等がありました。

客の目当ては矢場女で、店は美しい女を置いて男客を引きました。明治三十年頃、この益山にお栄という娘がおり、祗園にもいないと云われる程の美人で、千客万来だったといいます。

宮武外骨は『猥褻風俗辞典』で矢場女を私娼の一つに揚げ、自分の思い出話として「明治十四、五年より同二十年頃までの間、東京の芝明神前、両国郡代、浅草公園などには、軒を列ねて数十の楊弓店あり。いずれも妙齢脂粉の妖婦二、三を置き“アラお寄ンなさいよ”の艶声にて客を呼び入るるを見たり。」と書いています。

もう一つ、海女の見世物です、緑江さんによると「新京極では場内に布製で三坪(6畳)程の水槽をこしらえこれに水を張り、これへ二人の裸女が手拭で頭をくくり、片手に花傘を広げたものを持ち赤い腰巻一枚で、この水槽へ入り片手でくるくる唄をうたいながら数回まわり、傘を舞台に置き、水の中の鯉を潜水して捕らえて来ました。」一昔前まで、海女をテーマにしたピンク雑誌、映画のようなものが有り不思議に思いましたが、これは本当の海女さんというより、こういった見世物が引き継がれていった余韻では無いのでしょうか?

蛸薬師堂の南三軒目に富貴という寄席があり、ここでも海女の素もぐりをやっていました。戦後この富貴が京極ミュージックというストリップ劇場になりました。その後大宮頭の大宮劇場や八条大宮の東寺劇場と三箇所、時々問題を起したとの事です。

大阪南地の大茶屋大和家で芸妓による“へらへら踊り”が大変有名です。新京極でもこのへらへらが流行りました。若い娘が五、六人モスリン友仙の浴衣に赤い帯をたらし、腰巻、赤足袋、赤手拭で頬被り、赤の扇子で「赤い手拭、赤地の扇、是を開いてお目出度アー、ヘラヘラヘッタラヘラヘラヘ、ハラハラハッタラハラハラハ」と歌いながら腰を振りながら踊る様子に男共は悦びました。

最後に新京極六角辺りに、今でいう風俗店の前身であるカフェーもありました。京極館という洋画専門の映画館のあと、ダンスホールに変わり、そのあとにローヤル・カフェーが出来て、女給は一番から三十番までナンバーをつけ客の相手をしました。昭和初めと思います。ただし長続きしなかったようです。

いずれにせよ今は昔、話題にも上らぬ新京極史でした。

参照:新京極今昔物語一、二、三、緑江叢書



by gionchoubu | 2016-10-20 10:26 | 私娼 | Comments(0)

盆屋からラブホテルまで 後編

f0347663_12154988.jpg
                        裏寺町

松川二郎著『全国花街めぐり』によれば、京都の盆屋街は新京極の北の裏、即ち惨状よりの裏寺町にありました。相手の女は、善哉屋の小碑、芝居の中売り、洗濯女、煙草屋の娘、鉦叩きの尼などで、文面によると彼女達は売女で、屋に一円、女は二〜五円をとったようです。

時代は昭和初期、京都・奈良間が六十銭という事なので、今の料金で盆屋代が二千円、女の代金が四千円〜一万円といった所でしょうか。

出会茶屋が盆屋、連れ込み宿、ラブホテル、ファッションホテルと名を変え、現在では宿不足からインバウンドの宿として注目されているのは新聞等で見掛る通りです。

さて、所謂ラブホテルは車で乗り付けるタイプと街中で歩いて入るタイプに大別できます。前者はモーテルが原型にあり、現在京都市中心地にあるファションホテルは盆屋、席貸が源流にあると思います。

現在の京都市で複数以上この種類のホテルがあるのは、団橋附近、安井金比羅周辺、岡崎近辺などです。新京極は一軒だと思います。

橋周辺は江戸時代から戦後まで街娼がいた場所で何度かこのブログでもとり上げました。

安井金比羅周辺も明治から準花街化された所で、神社の周辺には多くの貸席があり、この辺りでは対面の下河原とあわせヤトナなどが出入りしました。

よく分からないのが岡崎周辺で過去一度も遊里化もせず、ヤトナも入らず、私が調べた限り過去盆屋街の形跡もありません。
(*終戦後にパンパンの取り締まりが岡崎であったと京都新聞にありましたので、ここで繋がりができました。2017、11日10日追記)

金益見(きむいっきょん)著『ラブホテル進化論』に関西のラブホテルの経営者は石川県出身の人が多いとあります。

よく京都、大阪で銭湯と豆腐屋が石川県の出身者が多かったと聞きます。これは利益の割に長時間の重労働が必須で、人のやりたがらない仕事だからこそ、他県人が入り込む余地があったのです。

豆腐屋さんで資本貯めて、お風呂屋さん。さらに貯まればホテルという図式がなりたつそうです。

ホテル・旅館は年中無休、24時間営業、料理、風呂屋、勿論宿泊を伴う経営は消防法を含め規制で雁字搦め、利益がでれば施設の補修に回さなければならず、他業種に移った人が「よくこんな儲からん仕事をするわ」と話すのを仄聞ですが私も聞いた事があります。

彗星のように現れ、全国を席巻しつつあるアパホテルが石川県、小松から現れたのも、偶然とは思えません。


by gionchoubu | 2016-10-18 12:23 | 私娼 | Comments(0)

盆屋からラブホテルまで 中編


f0347663_10543493.jpg
               好色訓蒙図彙(こうしょくくんもうずい)出会(茶屋)


花田一彦著『ラブホテルの文化誌』に江戸時代中期以前の京都の男女密会所である出会茶屋の様子が紹介されています。これは貞享二(1685)年刊『好色訓蒙図彙』から引用したものです。さっそく京都右京中央図書館で同書をひらいたものの、草書でとても私の手に負えるものでは有りませんので、そのまま『ラブホテルの文化誌』から引用させて頂きます。

「例えば、お互いに手紙で連絡して、横町の下駄屋の二階で密会する時、その時には店先の桶に生花を置いて合図する(なんとも粋じゃありませんか)。茶屋で逢う場合、あちらには裏に別の出口があるから都合がよろしいとか、こちらの茶屋は二階から二階から見渡す景色がようとか、男ほしそうに歩く女に狙いをつけて、誘いの言葉をかける男たちのハントテクニックも点描されている。」

こういうナンパ師は釣者と呼ばれ、ほぼ同時期、延宝九(1681)年に刊行された藤本箕山の『色道大鏡』の雑女篇第二十五、釣者篇、付被釣者に一項が設けられています。

こういう男は物見物参の道で、声を掛ける訳であります。口がうまく、厚顔で、血気盛んな男が向いていたようです。上等な女、下女を連れた女、三連れ人以上は無理で、一人か、二人の女がターゲットになります。

五つのテクニックがあり、すりあひ・見返り・扉とがめ、むかふがヽり・小手まねき、の五つで、道徳心のある女には釣の糸の引塩(ひきしお)有り、との事です。

一方被釣者(つられもの)はナンパされる側の女で、二種類ありました。

まずは、釣られるのを目的として出かける者で、一人で出掛けるる場合と、同じナンパされるのを目的とした女同士で行く事もありました。二重帯、ねり笠・菅笠などを着用、美人は顔をだして歩きました。

こうなると、釣られた女が実は釣者で、釣ったはずの男が被釣者になります
。芝居では立見、茶店では床几に居掛かる、との事、基本的にこういったナンパ待ちの女は素人でした。

もう一つの被釣者はプロの女性が多く、以前遊廓務めをしていた女、男に捨てられた女、妾、風呂屋女などで、装束は煌びやか、風流を尽くし、奇特頭巾につゞら笠、はきものは金剛なるべし、との事。

彼女達の目的はお金持ちに釣られ、あわよくば玉の輿に乗る、といった所でしょう。

三百年前の京都の話ですが、随分今と通じる所があるような気がしてなりません。

ただただ残念な事に、そのナンパする為の五つのテクニックの説明はありませんでした。



by gionchoubu | 2016-10-15 10:50 | 私娼 | Comments(0)

盆屋からラブホテルまで 前編

f0347663_14240099.jpg
『洛中洛外図、町田本』で客を引く女、一種の立君、四条西洞院下がる辺り?

享和二年(1802)、滝沢馬琴の『羇旅漫録』の総嫁の項に「総嫁は二条より七条までのかはらへいづる。河原にむしろかこひしてこゝのて夜合す。」とあります。

総嫁は路傍に立って客を引く女で、室町時代では立君と呼ばれ、古歌に「宵の間はえりあまさるる立君の、五条わたりの月ひとり見る」があります。

又、『見た京物語』に「京の立君、声をたてて呼ぶなし。皆鼠啼なり」、つまり女が客をひくとき「もしもし」と声をかける代わりに、鼠の啼く声を真似て客の注意をひいたものです。

この総嫁は主に京都、大阪で使われ、江戸では一般に夜鷹と呼ばれました。その他これらの女は、辻君、夜発(やほち)と、時代により名を替えたものの、下等私娼に変り有りません。

さて、江戸、大阪では夜鷹、京都、大阪では総嫁と呼ばれたように、男女密会の場所も江戸では出会茶屋、京都、大阪では盆屋といいました。この盆屋の発祥は壬生の盆茶屋にあるという説もあるものの、

この盆屋は、一般の男女の密会の場所以外、プロの女性が、それを買う男と入る場所としての利用がありました。

この盆屋にかんする記述は滅多に見られないものの、昭和二十六年発行『大阪弁』みなみ特集で宇野浩二氏が「暗い町(芝居裏とぼんや町のこと)」に記述があります。これは大正九年発行の『夜の京阪』から抜粋された氏の思い出話なので、明治の後半の話と思われます

大阪には、いわゆる盆屋街というものがあり、どこも同じ格子造りの家が並び、家毎に四角な行燈が入口の脇に掛かり、金釘流の女文字で屋号が記されていました。

さらに入口には浅黄色の暖簾が掛かり、その奥のたたきから階段で、店の人と顔を合わせることなく二階の部屋に上がれるので、人を憚る男女の密会には最適、というより明らかにその目的で造られたものでしょう。

盆屋の由来は、二階の部屋毎に小さな盆が置いてあり、人々は銭をその盆に居れ、全く家人と顔を合わすことなく、利用が出来たのが由来と云われています。

場所は書かれていません。「私の町の方から千日前に行く前の辺を横町におれて、成るべく電燈や瓦斯の灯の少ない所」ということです。

南地五花街のすぐ東、日本橋の向こう側に、ラブホ街があります。繁華街から遠からず、近からず、私はそこが嘗てのその盆屋街に思えて仕方ないのです。


by gionchoubu | 2016-10-12 14:24 | 私娼 | Comments(0)

京都私娼考 その十二 団栗橋

f0347663_11265277.jpg
の辻子

昭和三十年の『京都年鑑』をみると、京都には当時直接売春を禁止する条例がなく、勅令九号、性病防止法、職業安定法、風紀取締条例などの間接的法令で事にあたっていました。この年京都市にポン引き400、場所提供の旅館、飲食営業、素人屋420が売春婦900に寄生していると見られていました。

昭和二十九年の許可営業者はお茶屋貸席1,295、料理屋705、カフェー121、キャバレーダンスホール10に対し芸妓697、やとな288、酌婦1,726、仲居788、女給715、ダンサー314でした。

昭和三十三年の売防法完全施行以降の京都を見ると、松原署管内の旅館四百の内半分が、売春婦とポン引きとつながりをもっていたと言われていました。
ポン引き団の本拠地は団橋と七条内浜界隈の二箇所。毎夜通行人を脅かし、その数ザッと百人、女が二百人、午前二時ごろまでに全部売りつくした様です。

その他安井、南座前、木屋町六角、木屋町仏光寺、四条大宮、五番町まで手をのばしていました。

特に団橋付近は、一人歩きは危険で、府警察機動部隊が巡回しても一向にきき目なく、客を無理やり誘い込む手段は目に余ったそうです。
(『遊女と街娼』錦織剛男著)

この団橋の東、宮川筋一丁目と二丁目の間を東西に走る街路はかつて団の辻子と呼ばれ『月堂見聞集』には享保八年(1723)「祇園新地どんぐり図子、今度御穿議之由。白人三拾人、同かごまはしの者四人被召出、白人は面々の親元へ御預け、まわしの者は町々へお預け被成候」」という記述が有ります。

白人とは当時の私娼のこと、現団橋の東側は筋金入りの私娼地だったのです。

昭和三十六年の『京都年鑑』で「保安課では売防法施行以来旧赤線地域における売春事犯に重点を置き取り締まってきたが、本年にはいってからも郡部の橋本新地などの集団売春事犯のほか、四月には旧五番町のお茶屋、旅館など二十六件を検挙し、これら地域の環境浄化につとめているが、売春旅館などを舞台とする売春事件はいぜんとして跡をたたないのが現状で、厳重に監視している。一方団橋、西木屋町筋を中心にはびこっている暴力を背景としたポン引きは、しだいに悪質化の傾向をみせており、これに対処するため、署、本部ならびに機動隊をふくめた総合的な取締り体勢で、協力な取締りを実施中」と当時の様子を教えてくれます。

昭和五十年の『京都年鑑』に「売春事犯は、減少傾向にあるが、以前として五条楽園、団を中心に街頭売春が跡をたたず、また、管理売春も巧妙に行われている現状にある。」この頃になると大分沈静化したようです。





by gionchoubu | 2016-03-23 11:32 | 私娼 | Comments(0)

京都私娼考 その十一 大久保

f0347663_12223685.jpg
大久保、右が自衛隊

京都のパンパンが急激に増えたのは昭和二十年の暮からで、パンパン狩りも二十一年三月から連日、南座前、四条大橋一帯で行なわれ、MPも出動して取り締まりに当り、タマリ場を包囲、取締り隊が「客待ち女」と認定したらいやおうなしにトラックに載せ平安病院(後、洛東病院)で検査させ、病気がないものは帰しました。

「手入れや」「キャー」濃いルージュ、派手な衣装の女性達が逃げ回りました。

今のような人権の意識が薄い時代、中には通りかかっただけの女性も送り込まれる事があり、

「なんでうちの家内を連れて行った。夕涼みに行ってただけやないか」の抗議がたびたび警察部に舞い込みました。

三月七日〜十七日網にかかったパンパンは十八歳から三十二歳まで五十人、元ダンサーが一番多くて十八人、現役ダンサー十五人、無職九人、会社事務員三人、女給、ホテルの雇い人二人、女工一人で、検査の結果十四人から性病が見つかりました。

警察によるダンス規制がつい最近まで、どうしてここまでダンスホールやダンサーにきつく課せられたという印象を持たした背景いは、ダンスに対する警察の強いアレルギーが残っていたのが大きな要因とみて間違いないと思います。

そして、サンフランシスコ講和会議で締結された日米行政協定によって、大久保の占領軍キャンプは「独立」後も在日アメリカ軍の使用に供されることになりました。

この大久保基地をめぐる風紀の乱れは、当時の新聞で大々的にとりあげられ、たとえば、城南高等女学校に隣接する民家の離れは、多くが娼婦に「占領」されたとさえ報道されていました。

街娼六十五人は「京都方面から毎日通勤しているものとみられている」という報道さえありました。

さらに、占領軍向けのホテルもできそうになり、大久保の婦人会はその対策に全力をあげ、宇治市長、警察署長も、占領軍の夜の外出を午後十時までに規制して欲しいと繰り返し大久保キャンプに申し入れましたが、容易にその効果は上がりませんでした。

大久保の新しい発展は、アメリカ軍の撤退により始めて可能となり、アメリカ軍基地の跡は、自衛隊の基地として生まれ変わりました。

当時の大久保での街娼狩りの写真を『宇治市史4』で見る事ができます。

参照:宇治市史4、戦後京の二十年、夕刊京都新聞社


by gionchoubu | 2016-03-21 12:35 | 私娼 | Comments(0)

京都私娼考 その十 パンパンガール

f0347663_11420726.jpg
   

山本俊一著『日本公娼史』に「内務省調査によると、明治四十年頃までは下京区山和大路通上(ママ)条上る付近は貧家の婦女が生活費を得るために街娼となり、一時は密売淫婦の巣窟の感があったが、大正十年現在ではそれが整理されて市内には集団的な売淫場所はなくなっていた。私娼数は二十五人と報告された。」

肝心の何条かがミスプリントで残念です。昭和四年まで、祇園も下京区でしたので、四条か五条でしょうか・・・

一方内務省の『公娼と私娼』の昭和五年六月末現在「私娼窟所在地別調」に京都府の私娼窟は登録されていません。一方公娼制を廃止した群馬県は日本最大で五十二箇所の私娼窟が登録されています。これは県単位で廃娼制をとっても
取り締まりの形態が変わるだけで、あまり意味のない事を物語っています。

終戦後は街頭に現れた私娼、いわゆるパンパンの全盛期に入ります。パンパンの語源の由来は、見る本により違うほど沢山あります。真実はどれか一つ、いや、ひょっとしたら私の読んだ総てが造り事かもしれません。

終戦後すぐ公娼制度は連合軍の圧力で廃止されます。しかし便宜上、従来の廓制度は、公娼が従業婦や酌婦、妓楼が特殊飲食店などの名目が変わったものの存続を許されました。これがいわゆる赤線です。由来は東京で従来の遊廓地を指定地として警察か地図上赤線で示したから生じたとされます。一方、事実上は飲料店の名目だけで娼家経営を行っていた地域が、青色で囲まれた故青線と呼ばれました。

そして売春自体は禁止されず、しかも性病の蔓延を懸念した米軍は進駐軍兵士の遊廓立ち入り禁止(off limits)。遊廓に属さない米軍相手のパンパンガールはこういった経緯を経て現れた、言わば必然の存在だったのです。

実は米軍としては一気に売春自体も禁止したかったようですが、国会が、売春婦の厚生施設が伴わない、の理由で成立させませんでした。

連合軍の進駐と京都が戦災を免れていたという条件が重なり、全国からパンパン候補生が京都に集まりました。その多くは生活の困窮者、両親を失った為やむなくこの世界に入った婦女子も多かったと言う事です。

ただし、これを取り締まる明確な法律はなく、しかも米軍からは強いパンパン取り締まり要請がだされ、連日連夜の「パンパン狩」と称される取締検挙は、軽犯罪法を駆使してこれに当るしか当局のすべはなく、検挙されてもすぐ復帰という、米軍に対するパフォーマンス的な側面が強かったようです。

昭和二十二年、米軍の進駐と共に街にあらわれた京都のパンパンは、推定1500人とされ、四条大橋、団橋付近から大和大路あたりが本場で、伏見深草の米軍駐屯地にも現れました。

参照:日本売春史・考、吉田秀弘著、京都府警察史、第四巻、京都府警察本部発行【非売品】



by gionchoubu | 2016-03-19 11:43 | 私娼 | Comments(0)

京都私娼考 その九

f0347663_11290235.jpg
                         島原大門

寛文十年(1670)京都西奉行所から、私娼取締りの厳しい通達がだされたのを受け、貞享九年(1685)東石垣で摘発が行われ、茶屋経営者六人死罪、九人牢獄、その他は五畿内追放の大変厳しい刑が施行されました。一方私娼の方は親元に帰されました。

元禄十年(1697)、元禄十三年(1700)、正徳四年(1714)、寛延三年(1750)に京都の白人と呼ばれた私娼や茶立女の名目で商売に励む私娼を排除すべく布令が度々だされます。

当局は茶立女の名目で祇園などに遊女を置くことを黙認しながらも、度々取り締まりが行われた背景には、一つは業者の目に余る行為があったと推察されるのと、もう一つは公許の遊廓である島原から相当の陳情が有ったことです。

その後も明和七年(1770)大掛かりな私娼狩りが行われ、島原に送られ、最下層の遊女として働かされました。人はこれを“島流し”と呼びました。さらに寛政二年(1790)にさらに大きな取締りが行われ、両町奉行所から捕史数百名が動員され、捕らえられた遊女は千三百を超えたといいいます。

この後すぐ、同じ寛政二年に祇園町、祇園新地、二条新地、七条新地、上七軒に正式に遊女屋渡世が認められました。ただし五ヵ年の期限、遊女屋は一廓に二十軒、一軒につき十五人までの遊女を認めるという中途半端なものでした。

『日本花街史』で明田鉄男氏はこの理由を私娼側の猛烈な裏金攻勢があったか、もしくは役人が売女摘発の繰り返しは無意味と気がつきはじめたのではないか、と推察されています。

私は、明治以降がそうであったように、公許の遊廓を認めることにより自治体には苦労なく多額の税金(江戸期は冥加金)を期待できるのと、期限を切ることで、遊廓側に自制を求められること、さらに再開の折にも更新料が期待できる事、などを考えています。

ところが天保十三年(1842)、所謂天保の改革により、京都では島原と伏見の撞木町、中書島の遊所以外総て営業停止を命ぜられ、祇園であろうが、上七軒であろうとも業者は他の商売に鞍替えするか、もしくは島原に移れと厳命されました。これは遊女、芸妓ともども禁止にされます。

翌天保十四年には、遊女をおいて商売させている者を訴え出た者には、たとえ同類の者でも罪を許し、銀二十枚を賞金とするという触れまででました。

但し、天保の改革を進めた水野忠邦が退陣すると、嘉永元年(1848)から緩和策がとられ祇園、二条新地、上七軒、七条新地に再び制限付で遊女が認められました。




by gionchoubu | 2016-03-04 11:29 | 私娼 | Comments(0)