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カテゴリ:五条楽園( 24 )

五条楽園ぞめき、女だけの街

f0347663_15561739.jpg
                       映画の一場面

昭和三十二年二月封切りの松竹映画に『女だけの街』が有ります。同月の京都新聞では“くるわにメス”と銘打たれているように、売春防止法施行直前の京都七条新地の話になります。

監督は内川清一郎、脚本は内川清一郎と関沢新一、キャストは大木実、田崎潤、高千穂ひづる、小山明子、山田五十鈴、浪花千栄子。伝説の芸達者の名前が並びます。

物語は・・・

八年間の服役を終え、ふるさとの七条新地に帰ってきた牧組のヤクザ宮鉄太郎(大木実)は新興勢力、陣場大吉(田崎潤)が牧組のナワ張りを見て憤懣やる方ない思いだった。

鉄太郎の帰りを待っていたのは利美楼の女将お波(浪花千栄子)だった。彼女は鉄の死んだ母の朋輩で幼い時から彼を引き取って今日まで親同様育ててくれた義侠肌の女だ。

鉄はこの家の娼婦みどり(高千穂ひづる)に惹かれ、みどりも「ヤクザって愚劣よ、人間のカスよ」と鋭い言葉を浴びせながらも鉄を恋してゆく。

そのころ廓一帯は陣場の計画的な玉抜きで大騒ぎ。同僚の栄子(山田五十鈴)の入院費、葬式代の一切を自分の貯金をハタいてお波に渡し、遺児の健一の面倒を見るという健気なみどりの言葉に、鉄は賭場で荒稼ぎをしてみどりとの新生活を夢見て帰ると、みどりは置手紙をして姿を消していた。

玉抜きのバックが陣場で、みどりもそこにいると聞いた鉄は包丁を手に飛び出すのだった―

この映画の封切り後の座談会で、映画評論家の滝沢一は「この映画は消えゆく赤線地帯の七条新地を背景に矛盾の中に組み立てられた現在のやくざを描き、実景七条新地のロケも生きており、セミ・ドキュメントリー映画として真実感があった。」と述べています。

内川監督は「いろいろの実話を寄せ集め、売春防止法、暴力団といういま身近かに起っている問題をウソがなく真実にドラマの構成に持ち込もうとした。」と此れを受け答えました。

家庭調停委員の渡辺愛子氏は「売春防止法の施行を前にして、それまでに少しでも多く稼いでおかねば・・・という楼主や売春婦、崩壊寸前の花街の女性を抜させたり、これらの業者の家を買って旅館屋ホテルにして甘い汁を吸おうという悪辣なボスなどを見せられ、私たちの知らない世界のあることを知った。」

最後にこの作品の重要なパートを担った浪花千栄子は「仕事の都合で皆さんより一番早く七条新地の知合の家へ見学に行きました。朝と夜いきましたが、朝の起きぬけのきたない人―私らもそうですが―夜の化粧であまりきれいになっていられるので、男の人がボーとなるもの無理ないと思いましたわ。」

私自身この七条新地が等身大で映し出されているかもしれない松竹映画が存在したのを全く知らず、当時の京都新聞を図書館のマイクロフィルムで追って行くうちに偶然出合いました。

生きている七条新地の姿。

何方かこの映画を見た方は居られますでしょうか?

何とか見る機会を得られないでしょうか?





by gionchoubu | 2018-08-16 15:58 | 五条楽園 | Comments(0)

五条楽園ぞめき 赤線地帯

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宮川町を通り抜けて五条に出る。五条の大橋を渡って南へかけて橋下(五条新地)が有る。牛若丸は京の五条の橋の下でベンケイにひっぱられる。橋下といっても自由学校ではない。五条南にあるから『下』という(京都では北を上ル南を下ルと謂ふ)

橋下になると、乙部や宮川町と違ってグット近世風な遊廓になる。まず入口に赤いネオンで五条新地としてある。

建物も和洋ゴタゴタ型で、ネオンがあかあかとついている。だがやはり特飲店
ではなく遊廓だ。各家に女が居る。こゝは人通り十二時を過ぎるまで絶えない。

大部分がひやかし客だ。ひやかし客の種類も色々だ。サラリーマンから百姓のアンチャン連に到る。それだけに柄も悪い。

それだけに場所も一番広く、家も一番多く、全体からみればC級だが、中でも一級、二級、三級位ひにわかれ、一級などは乙部の近代化といふ感じだ。

廓の真中を有名な高瀬川が流れている。加茂川にそった所が三級、高瀬川にそった東側が一級、西側から河原町にかけてが二級といふ所だろう。

女も色々だ。一級には美人型で味、サービス、テクニック共に、乙部などはるかにおよばないのが居る。値段もまちまちで一級だと乙部並、二級で宮川町並、三級だと値切れば時間だと二百五十円、泊りだと十二時からでも四百円で泊まる。

一級でも乙部と違ふところは、十二時過ぎれば、時によっては五百円で泊る時もある。ひやかして端から端までへまんべんなくぶらつくと、二時間は優に掛かる。

高瀬川にそった所は、さすがに路へ進出せる突撃型は少ない。交番が目を光らせてるからだ。それでも、入口に立つと、中から黄色い声の一斉射撃を受ける。

婆さんにつかまって中に入れられるともう逃げられない。声の射撃が肉体の射撃に変わる。まともにだきつくのや、後ろからだきつくの、そして腰をぐいぐいくっつけてくる。

ひどいのになると男の急所をつかまれる。オトナが逃げようとしてもセガレが逃げない。そうなれば色男も台なしだ。

今しも客を送り出した女が長ジュバンだけで表へ出て、もう次の男にだきついてる。軒下でも結構暗いので何をしているかわからん。

女は着物で、男と何か話している。体をしっかりくっつけてる。よく見ると、男の一方の手は、女のそで口から中に入り、片方の手は、女がにぎってごそごそしてる。

まさにギョギョだ。心臓が弱い者なら眼を廻してしまうだろう。


この文は、青春タイムス社『新日本艶笑地図』(じゃぱん・えろちっく・びゅーろー)昭和二十六年五月号『新日本艶笑案内京都の巻』からのものです。(カストリ出版の復刻版)

七条新地から五条楽園に移る過程、この区域の赤線時代の様子を映しだしたもので・・・この臨場感と言ったら、実際その場所でルポタージュしなければ得られないであろうもの・・・その生々しさは半端ではありません。

公許の遊廓と言うタガが外れたた赤線地帯・・・写真で娼妓を選ぶわけでもなく、女が直接出て来たり、やり手婆さんに捕まったらもう逃げられないという・・・規則がある様な無いような、戦前の遊廓時代ならとても考えられない・・・まるで江戸時代の初期の遊里の絵図に描かれたある種のおおらかさ、したたかさが赤線の一つの特徴ではないでしょうか?

文士、映画製作関係者を含む、この時代を通り過ごした男達が赤線に大した思い入れを持っていたような気がするのは、赤線に囲まれた区域が・・・一種の大らかさと強かさから生み出された人間が本来備えている感情にまみれていたからでは無いでしょうか?




by gionchoubu | 2017-07-22 12:02 | 五条楽園 | Comments(0)

五条楽園ぞめき その二十二

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赤枠が江戸期の七条新地で下枠が、上二之宮町、下二之宮町、上三之宮町、十禅師町、上枠が岩滝町、早尾町、波止土濃町、八ツ柳町、聖奥子町の十町です。
この二つの赤枠の間が六条新地です。つまり七条新地の中に遊里化していない六条新地が挟まれるように存在した事になります。

黄色く塗られた所が明治の初めの七条新地で、七条側は東の一部(上二之宮町と下二之宮町の一部)を残して米会所及び外商売りになっています。
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赤枠が江戸期の五条橋下で七条新地より出稼ぎ地として、都市町、平居町、南京極町の三町です。明治の初めには黄色い部分が五条橋下で、東側の都市町が遊廓から外れ平居町と南京極町の二町のみになりました。

以上七条新地、五条橋下とも『京都府下遊廓由緒』に依ります。

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赤枠が明治十九年七月布令第三号五業取締規則による七条新地区域です。旧五条橋下の平居町、南京極町に、七条新地の聖真子、岩瀧町、早尾町、波止土濃町、八ツ柳町の七町で、七条側は外れました。それでも江戸期は七条新地が五条橋下を従えた形なので七条新地の名称は変わりませんでした。


大正元年八月二十三日の区域として始めて旧六条新地の一部で菊浜町と高宮町、そして高松町と平岡町の一部が加えられました。赤枠に黄色部分を加えた区域です。

この区域がほぼ五条楽園に引き継がれました。


by gionchoubu | 2016-11-01 13:29 | 五条楽園 | Comments(2)

五条楽園ぞめき その二十一

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もう一度灯りをともして見たい・・・

つい先日(平成28年10月19日)の京都新聞の朝刊の地域プラスに『旧花街(京都市下京区・菊浜学区)“お茶屋情緒で活気再び”の記事が載りました。

菊浜学区はおよそ「北は五条通り、南は旧柳原村の各町、東は鴨川、西は北方が河原町通、南方が土手町通にわたる旧学区」『京都市の地名』とあり、ほぼかつての五条新地・六条新地・七条新地を併せた領域になります。

記事によれば、10月1日の推計人口は1278世帯1883人、大正から昭和初期に建てられた、お茶屋の意匠を凝らした木造の建物が今も多数残るとあります。
2011年にお茶屋組合が解散して、街の明かりが一度は消えかけたが、景観に引かれて観光客が訪れるようになりました、ともあります。

私の印象では、解散以前は、昼でも地元の方以外、そうそう気軽に立ち寄れる感じでは無く、徐にカメラを構える雰囲気も有りませんでした。

現在は、景観に引かれて人が集まるというより、新しい若い方が住みはじめたり、通勤路として使ったり、特にこの一年は民泊の外国人が大変増えたと思います。

記事には1958年に戦前から続いた遊廓が廃止された、と書かれていますが、実際には1946年に日本国内の総ての遊廓は廃止されました。ただし旧遊廓地帯での売春に罰則は無いという、所謂赤線地帯の通称で、旧七条新地地域として1958年まで営業を続けたのです。

売防法が実施された後、七条新地は新たに五条楽園の名で2011年まで営業を続けました。

この売防法直前の七条新地の様子を、錦織綱男著『遊女と街娼』で

“居かせぎ制の七条新地は時間で四百円、泊りは千円平均。組合費、衛生保険費などで三万円程度の収入となるわけである。「転業しろといったって、これぐらいのサラリーを出す会社ある?」と彼女達は業者の意を含んで白い歯を見せる。その上、府警本部の調査だと、前借金は彼女達の八割が持っており、最高十一年万円から最低二万円、平均して五万二千円といったところ。前借金を持っていない女も四00名ほどいるが、足を洗うところまで決心つかないのは、この収入が魅力なのである。”

「なーに、売春防止法で売春がなくなりますかいな。いままでの廓とは形の変ったモグリの赤線地帯が出来まっせ。」

と、七条新地の業者はにやりと笑ったといいます。

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                 残って頂きたい風景、ウサギは左の建物です。

by gionchoubu | 2016-10-27 12:42 | 五条楽園 | Comments(10)

五条楽園ぞめき その二十

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                    花道があります。(五条会館)

京都府警察部遊廓統計(日本花街史集録)による七条新地の芸妓数と娼妓数は

明治44年 芸妓30  娼妓915
大正元年  芸妓26  娼妓906
2年 芸妓24  娼妓945
3年 芸妓16  娼妓906
4年 芸妓13  娼妓874
5年 芸妓14  娼妓814
6年 芸妓19  娼妓792
10年芸妓27  娼妓1083

芸妓の花舞台、歌舞練場は花街の象徴であります。現在の五条会館(五条楽園歌舞練場)は大正四年に誕生しました。ところがこの年、芸妓は僅か13人、この状況で、どうして娼妓中心の七条新地で歌舞練場を建てようと思ったのでしょうか?

これは大正元年、五条橋下が京都府令第六号で七条新地と合併しており、新体制のもとで新基軸を打ち出したものと思われます。

遊廓の中で娼妓は稼ぎ頭である一方、芸妓は行儀作法、お茶、芸事など育てるのに大変お金がかかり、着物から髪結、小物まで揃えるのにも資本が要ります。

当時の七条新地で花街熱のような物が広がり、芸妓を育てようという機運が広がったなら、遊廓で財を成した業者の中から、道楽とまでは云わないものの、遊女渡世以外の、いわば違う次元の道を目指したいという気持が芽生えたのかもしれません。

もともと、祗園でも、上七軒でも、芸妓が生まれたのは十八世紀も終わりに近づいた明和〜天明の頃だと私は思っているのですが、案外、遊廓から花街への道のりはこんな経緯を辿ったという考え方は有ってもいいと思います。

ただし、明治・大正以降、遊廓が花街に育つには、やはり娼妓に対しての芸妓のそこそこの分母が必要なのも確かで、大正五年、歌舞練場を竣工した宮川町が現在五花街の一画を担うのに対し、芸妓町としての七条新地は消滅しました。

七条新地はあまりにも芸妓の分母が小さすぎたのです。
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              畳はざっと60畳、頑張れば180人程の席はとれます。
              現在は耐振の関係もあり、定員100にされているとの事
              貸出歓迎なので、イベント等で是非ご利用下さい。
              (ただし冷房等ありません)

by gionchoubu | 2016-10-25 15:22 | 五条楽園 | Comments(6)

五条楽園ぞめき その十九

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五条会館、すなわち旧五条楽園歌舞練場の屋根の一番上の瓦に巽の文字が浮かびます。この巽の由来は多分これまで誰も触れておらず、実際五条楽園の元御茶屋のご主人もその由来をご存知ありません。

明治二十四年の七条新地組合規約謄本を見ると、明治十九年の七条新地五業組合規約が載り、第一章、第二条に「組合事務所は七条新地区域巽女紅場構内ニ設置ス」と書かれており、私が調べた限りこれが五条楽園の前身、七条新地で最初に巽の文字が使われた記録になります。

しかし、何ゆえ巽なのか?

祗園の例でみますと、巽橋や辰巳神社は御所から見て巽の方向にあるので、巽(辰巳)が充てられました。同じく明治初めに無くなった辰巳新地も御所からみて辰巳にあるのが由来と考えられます。

宝暦八年、今の北野上七軒の真盛町から南京極町、文化十年に平居町に茶屋株借受の形で後年五条楽園(七条新地)に遊所が誕生しました。

つまり、五条楽園(七条新地)は、その母体にあたる上七軒の巽方面に当たるので、巽をシンボルにしたのであると私は考えます。

京を語る会発行の『京都遊廓見聞録』に、昭和二十二年一月、会員の自治経済、衛生、教養、互助親睦を目的として七条新地巽会が結成され、さらに『都の華』なる月刊新聞も発行され、会員も三千人を数えたそうです。

巽は戦後もこの地で行き続けていたのです。

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もう一つのシンボルといえる五条楽園の紋章は七条新地時代にはなかったものです。五条楽園歌舞練場が建てられた大正四年から昭和三十三年までもなく、売春防止法の後、五条楽園が歩みを始めて作られた紋章です。

この紋章は五を意匠としたものと五条楽園では伝えられています。ただしどうしてこのデザインが五と読めるのか、わたしが尋ねた関係者も首を傾げるばかりです。

どなたかご存知ありませんか?

五条楽園贔屓様より以下の御教示頂きました。有難うございます。

五の字の3画目の始点を垂直に上に1画目に接するまで延ばし、全てをまあるく収めると、写真の座布団を90ど回転させた紋章に出会えます。



by gionchoubu | 2016-10-23 11:01 | 五条楽園 | Comments(2)

五条楽園ぞめき その十八

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          五条楽園歌舞練場(五条会館)

昭和三十七年(1962)年の『京都名鑑』花街の覧には、必死に花街としてやっていこうとしている五条楽園の姿がみえますので紹介させていただきます。

五条楽園・・・会長以下、新しい花街つくりに賢明で、10月18日に舞台も落成、5・7月に研究発表会を行い、高瀬川筋に美しい街頭をつけた。芸妓86、お茶屋98、置屋16で、36年10月に温習会を持つ。

この芸妓は本芸妓でなく新研芸妓でしょう。それにしても芸の発表会の温習会をもつのは本腰をいれて芸者町に取り組んでいた様子が伺えます。

さらに翌年の昭和三十八年版には是を裏づけるように

五条楽園・・・芸事への感心がいよいよ高まり、37年1月の始業式などでも、花柳芳恵舞の指導で見事な舞ぶりをみせた。若い妓が多く若い層への人気も高まっている。芸妓90人、置き屋16、お茶屋93で、37年秋にも温習会を持つ。

とあります。

実際京都府で、東京が本拠地の花柳流の浸透は大したもので、今までこのブログで取り上げた中では、上七軒、峰山、綾部、宮津の花街が花柳で、舞鶴の朝代は若柳流でしたが、町の娘さんの習いは花柳が中心だったと聞いております。

この頃の京都の花柳流を調べてみると(京都名鑑の1959舞踊参照)家元寿輔はブラッセル行きなどで忙しく、関西のことは永扇会を率いる分家、芳次郎に任せた形で、京都では桜美会をもつ花柳芳恵舞が中心だったようです。五条楽園小唄も振付を担当したのは花柳芳恵舞でした。

その他、芳曳、芳桜、芳左衛門、芳寛輔、芳麿、双、芳菊次らで、それぞれが自分の会を持ち活躍していました。

当時の京都の邦舞は井上流、花柳流、若柳流、藤間流以外にも、坂東流、楳茂都流、山村流、西川流、吉村流などが競いあっていた様です。

売防止が完全施行された昭和三十三年以降はかつて関西に多かった芸・娼妓(酌婦)二本立ての花街は整備問題と、労働基準法による週休制の実施などが課題として挙っていました。

労基局は

十八歳未満の芸・舞妓その他の使用人に月二回の休暇
十八歳未満の舞妓・女中に午後十一時以後の深夜就業禁止
年季奉公的な契約の禁止
賃金支払い法の明確か

を勧告しました。 


by gionchoubu | 2016-02-28 10:49 | 五条楽園 | Comments(0)

五条楽園ぞめき その十七

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昭和三十一年五月十二日に所謂、売防法が可決されました。

社会民生委員会では、十月十一日午後、灘井五郎委員長ほか九名が、府下最大の廓といわれいた七条新地を視察、業者や従業員とヒザを交えて懇談。

水府委員「売春防止法によって二年後にはどうしても廃業しなければならないが、どんな転業を考えていますか。」

A子「第一に家族の生活が保証されるような仕事があれば転業しますが、そんなものはいまの仕事以外に絶対にありません。ですから廃業したら青線に流れこむか街頭に立つかするより方法がないと思っています。わたしは月一万五千円を家に仕送りしていますが、それだけの仕事がどこにありますか。いまの仕事で手取り月三万円ありますから。」

笹谷委員「むかしはあがりの大半を親方にとられ、晩めしなど客にたかるより仕方ないことがありましたか。」

B子「いまはそんなことはありません。業者との分配は五分五分で、食事もよいものです。」

五十川議員「女中組合に仕事がつらいと訴えてくることがありますか。」

C子「投書制度がありそんなことがあれば業者と話合いますが、ほとんど例がありません」

笹谷委員「いまの制度はあった方がよいと思いますか。」

D子「よいと思います。第一に青線区域なら衛生、風紀上の取締りにこまるし、赤線なら大丈夫です。それにこの制度のある方が都合のよい人もあるんじゃないですか。」

笹屋委員「だまされてこの道に入る人はありますか。」

B子「ほとんどが友達を頼ってくる人で、だまされて来る人はありません。」

五十川議員「とにかく、いまの制度はあったほうがいいということですネ。」

C子「そうです。もしなくなればわたしなどは完全に青線にはいります。女中や仲居ではとてもやっていけません。大学生の卒業生も就職難の時代ではありませんか。」

灘井委員「婦人相談所ができたことは知っていますか。」

A子「知っています。しかし相談に行っても恐らくハラがたつだけで、はなしにならないでしょう。」

このあと委員は七条新地の業者側の意見を聞きました。

「売春防止法が出来た以上は法を守らないといけないと思う。しかし売防法審議会が政府に答申したところでは、売春のおそれのある場所に転業することを禁じている。わたしたちが転業するとしても、料理屋とか旅館、カフェーといった水商売しかできないのでこの答申は絶対にこまる。それに水商売に転業するとしても家屋の改造などにカネがかかるし、自力で更正できるものはほとんどあるまい。政府は一片の法律でかたづけるのでなく、救済方法も考えてもらいたい。とにかく、いまのままでは法律の骨抜きなどを政治的にやるよりしかたがない。人身売買とか女のかせいだものを摂取することはたしかにいけないが、これさえやらならなければ自分がこの道で生活することは少しもかまわないと思う」と述べました。

浮沈はあったにせよ、昭和三十三年四月一日を期して、全国の赤線の灯が消えました。明冶政府が公娼廃止を天下に布告してから八十五年目のことでした。

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昭和三十九年ごろ、五条楽園の名前を改めた七条新地は、お茶屋では法にふれることは絶対やらせないから、芸妓などはお客と他の地域の旅館に連れ出すという方法をとっている。ここは新研芸妓とヤトナで八十一名

参照:『遊女と街娼―京都を中心とした売春史』錦織剛男




by gionchoubu | 2015-09-05 13:59 | 五条楽園 | Comments(0)

五条楽園ぞめき その十六

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もう一つ明冶二十七年発行『花柳』十号より、七条新地の娼妓さんの紹介です。

評者「少々お年は召てござり升れど、山岸三子さんをお目にかけ升。」

ヒイキ「年の行ってあるのも又た宜かろ、早くやるべし。」

評者「此のお妓は三条通白川橋西入西村音吉様の同居山岸音吉さんの長女さんで、本名やすと申し升て、今年三十一才でござり升。」

サシデ口「何んと宜い年だなァ。」

評者「只今は七条新地の星野弥次兵衛さん方の寄寓でありますが、中々篤実なお方で、手元の不如意の所から昨年の七月に開業されました。」

サシデ口「随分色が黒い方ぢゃないか。」

ヒイキ「左して美人とは云れねど、客に充分の満足を与るは此妓に限る。」

評者「三味線も一寸持ます故、引手夥多のお客の数、当事の流行妓でござり升。」

ここで、花柳の広告に、ちょっと面白いのがあったので、紹介させて頂きます。
山岸三子さんも読んでいたかもしれません。

娼妓に必要なる床屋なかせ剃刀いらず
有名なる赤白拍子の保証附、京都名産理化学応用有効確実

京都岩上蛸薬師南入都屋こと、北村保壽堂の製造に係る京都名産の化粧妙剤二十種の中の専売“都の雫”は、世界に見たり、聞いた事のなき理化学応用新発明の、毛を薄くする水にて、此を用うれば、御婦人の生際を美しく、生ぶ毛の茫々を去り、男子の釣髭の濃き胸毛のむくつけなるを綺麗に去り、之を用うるも、痛み又は班痕杯の憂ひなく、其上色白く肌を細くする絶世の奇品にして、娼妓達の焼灰を摺込み毛を脱く如き、又は線香の火にて、毛を焼取如き、暑い痛い、憂ひ、の聊さかもなき、妙品にて論より証拠一度足の毛にても、御試みの上、其の効に感心して驚りし給へ、価は試みが十五銭と五十銭一円どす。

北村保壽堂が扱う商品は他に、人造粉麝香の都麝香、粉白粉の都の花、水白粉の都千鳥、練白粉の“都の粧”、白粉布巾の“都の錦”、ふけとり粉の“都の緑”、口の臭さを去る“都の桜”等々多数ありました。

むだ毛の処理に関しては、娼妓さんにとって切実な問題だった事が分かります。当時は焼き灰を擦りこみ毛を抜く、線香の火で焼く、暑い、痛い、憂い、という処方が普通だったのでしょう。都の雫、効能が但し書き通りなら、今でもベストセラーになるでしょう。

さて、七条新地を鴨川に沿って北へ行けば、六条新地、五条橋下、さらに西石垣(さいせき)先斗町、木屋町筋、三本木と、花街、遊廓、準花街といった街が切れ目無く連なっています。

かつて、今の河原町通り、つまり遊所ラインのすぐ西に御土居が聳えており、東の御土居の大きな目的は暴れ川、鴨川の氾濫を食い止めるという役目でした。

鴨川沿いの御土居は江戸時代の中頃までに、ほぼ取り除かれましたのですが、鴨川、御土居間がこういった遊所に育ったのは色んな思惑や条件が重なったからでしょう。

そして、大阪と京都を水路で結ぶ高瀬川が鴨川、御土居の間にあり物流の拠点となっておりましたので、一般住宅より、遊所が発達したのだと思います。河川の氾濫も、被害を受けるのは、まず遊所から、という事になります。

先斗町から三本木までは東山を眺める風光明媚の地で、花街には好都合、五条橋下〜七条新地は片側が鴨川なら、遊女の逃亡阻止の効果も有ったでしょう。

ちなみに、鴨川の東側も、宮川町、東石垣(とうせき)、縄手(祇園)とこれまた見事な遊所ラインが出来ていました。







by gionchoubu | 2015-07-11 16:36 | 五条楽園 | Comments(2)

五条楽園ぞめき その十五

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明冶二十六、七年の七条新地の様子を、雑誌『花柳』よりちょっと覗いてみましょう。

先ずは安全剃刀とあだ名を付けられた吉備君葉という娼妓に関して・・・

「君葉は明冶六年十月生る。実名をそのと称し、鳥取県鳥取市瓦新地吉備宗七の次女なり。明冶二十二年三月を以て開業す。開業当時は七条新地秋篠某方に稼ぎ居れり。客に接する中々面白く、殊に僧侶、書生の受能く、毎夜此等の客の招かざる事なき位。容貌はさして美人とは云れねど、愛嬌の能為め君葉、君葉と喧し。左れば安全剃刀と云も僧侶の好む点に於ては皆一つ。」

鳥取瓦町といえば、衆楽園遊廓と呼ばれた大きな花街があった所です。どういう事情で彼女が七条新地に来たのかは知る由がありません。

安全剃刀は僧侶が髪を剃るのに愛用するので、お坊さん御用達の娼妓さん、即ち安全剃刀なのでしょう。

顧客が僧侶と学生さん、困ったものです。・・・五番町も宮川町、下河原もお坊さんが多かったらしく、又祇園乙部(現在の祇園東)では、つい最近まで、三高のマントを羽織った学生と娼妓の幽霊がでる、と噂されていました。まさにお坊さんと学生の街です。

同じ君葉でも青木君葉は芸妓で、つけられたあだ名は千本座。

「君葉は七条新地部内に住む青木宗吉の姉にて、母親は存命なるも、父は疾に死分れり。本名八重、本年三十歳なり。以前は伏見中書島に稼ぎ居りしも、去る明冶二十三年の七月より、此土地に開業したり。歌は兎も角として、三味中々達者なり。容貌も可なりにて、座敷面白く、随分流行し居れり。今女を千本座に比す謂なきにあらず。古き情歌にも、其吉野にきの多い事を歌へり。名詮自称亦無理なし。」

千本座は千本通りにあった人気のあった芝居小屋です。最後のきに○印がついているので、千本→木→気をしゃれたものらしいのですが、筆者の意図はいま一つ掴みきれません。

一方、有本駒路という娼妓には、新京極に有った幾代席のあだ名が付けられました。

「駒路は本名こまと云ひ、明冶六年十月生まれ。実家は紀州和歌山に在りて、暫時大坂灘波新地に娼妓たりしも、後ち七条新地の木村源太郎方の娼妓となれり。容貌可なりにて中背。性着実能く、客の意を汲取り能く満足さす故に、老若に拘はらず幾代席と同様、人気あり。左りとて腮(あご)の短き面は見ざれども鼻の下の長き客人多く見受けり。」

最後は建仁寺内の楠という判じ物みたいなあだ名をつけられた七条新地の芸妓

「いまは七条新地の長女にて、明冶元年六月三日に生る女は四、五年前に暫時此土地にて玉子と称し芸妓に出て居りしが、後ち伏見中書島に転じ、昨年十二月一日より再び此地より自前にて稼ぐ事となりたり。肉は少く太く、容貌は十人並にて至て上品に構へ居れるが、此妓の癖として酒を呑めば場所を嫌はず寝入って仕舞と云う一癖あり。芸は舞二調共に能く、土地に似ざる芸妓なりと、是をして建仁寺内藪中の楠といふべし。」

四人の寸評を読めば、なんとなく日清戦争開戦前の七条新地の様子が分かります。京都の他廓の芸娼妓も紹介されていますが、ほぼ出身は関西、西日本です。

しかし七条新地の娼妓さん。甘い言葉に釣られると、京都を離れてからトンでもない目に会うかもしれませんよ。同誌にはこんな記事も載って居ました。特に梅毒検査の日には隙を見せてはいけません。

「近頃京都の娼妓を扇動して、東京、名古屋を始め其他の地方へ仕代を勧むる悪漢あり。検黴日には、検楳所の近傍に徘徊して、娼妓の善悪を見て、而して改めて、其の娼妓を茶屋より招き、頻りと勧むるなりと、既に此罠にかヽりし者数名ありとか、注意すべし、娼妓諸君よ、小方業の人々よ。」

くわばら、くわばら・・・




by gionchoubu | 2015-07-08 13:01 | 五条楽園 | Comments(0)