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カテゴリ:上七軒( 15 )

上七軒ぞめき その十五

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                         梅花祭

明冶五年に始まった祇園の都踊りや、先斗町の鴨川踊りは、天皇が東京に行かれた後、淋しい都にしてはならぬと、当時の槙村参事が景気づけに博覧会を開いた際、祇園や先斗町に働きかけたことで催された経緯があり、その背景には、普段花街に親しみの無い人にも楽しめるように・・・という思いがあるはずで、その伝統は今でも続いております。

これが後ほど日本中に広がり、大きな都市を中心に、〜踊りが盛んに行なわれ、その花街の宣伝効果としても多大な効果を生みました。

お隣の大阪で先陣を切ったのが北の新地の浪花踊りで明冶十五年に始まりました。続いて南地五花街の芦辺踊りが明冶二十一年、新町の浪花踊りが明冶四十一年、堀江の木花踊りは大正三年に始まっています。

芸妓の技芸の練磨に重きを置き、寿の名を冠した温習会をどの花街より熱心に行なっていた上七軒が北野をどりを始めたのが昭和二十七年、その第一回のパンフレットの第一声が、

“「北野おどり」は、天満宮千五十年万燈会に、上七軒が捧げる貧者の一燈で御座います。京の片隅にひっそりと息吹きをつヾけていますこの小さな廓=上七軒、それがどんな町やら、どの方角に当るやら京に生まれ京に住みついていらっしゃる人達のうちにすらご存知無い方も屹度多かろうと思ひます。況して、地方からお出のかたがたには尚更のことにちがい御座いません、古きを良しとする意味で申し上げる訳では決して御座いませんが、此の小さな上七軒こそ、京では一番古いお茶屋の集落なので御座います。”

あくまで控えめ、どこまでも謙虚で打ち通す上七軒の雰囲気がこの「前白」にもくっきりと現れているようです。

この時のお茶屋は森留、望月、万春、藤いく、西らく、住里、出雲、亀政、吉田屋、乃ざき、長谷川、近江家、壇野、千歳、大秀、高たつ、久富、万丈、大市、奥松、ますや、中里、広たか、村井、大まさ、大たか、たつみ、長谷光、大文字、花びし、野村、高光、杉浦、大みの、つるやの三十五軒でした。

第一回の北野天神記は林悌三策で演出が石田民三、三月二十五日より十五日間、毎日三回繰り返し、連日満員で二日間延期した程の人気でした。その後は長きに渡って石田民三作で春の年中行事になりました。しかし何分人数が少なく、踊り方も囃子方も唄方も手のあいている人が衣装のまま陰で演奏し、病人が一人でも出るともう大変でした。

昭和三十年より少し以前の上七軒の様子が『全国女性街ガイド』渡辺寛著に乗ります。それによると、お茶屋は三十五軒で中里、亀政、吉田屋、出雲、はせ川、塩野、万春の名が挙げられ、売れっ妓に三四菊、小菊、〆奴、勝喜代、玉鶴、富野、蘭蝶、玉福、光三、勝三、小米、梅乃で殆ど京女と紹介されています。

昔の上七軒の公休は年に一日のみで、それは二月の丑の日が三度あれば三度目、二度のときは二度目が天神講で、其の日は廓の人全員が早朝北野天神へお詣りして組合からのお土産を貰い、たった一日のお休みを、それぞれ思い思いに過ごしました。

上記の勝喜代姐さん、最近刊行された『京の花街 ひと・わざ・まち』太田達・平竹耕三、編でもよほど思いで深かったのでしょう、この年一回の休みとお稽古の厳しさに触れています。

さて、北野をどりのフィナーレを飾るのは芸舞妓総踊り、お馴染みの「上七軒夜曲」

√北野松原一夜松

天神さんにかこつけて

ちょっと寄らんせ 入りゃんせ

七軒茶屋の 軒行燈

女心が灯をともす・・・

その生い立ちから謎に満ちて、妖しくも、はんなりと、艶やかに・・・甘い言葉に載せられて、ちょっとのつもりでこの北野の廓(さと)に足を踏み入れたなら、二度と抜け出すことは出来ないかもしれません。

参照:京の舞踊、緑江叢書


by gionchoubu | 2015-09-03 11:32 | 上七軒 | Comments(3)

上七軒ぞめき その十四

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                          梅花祭

“戦争が苛烈さを加えて行った頃、此処も他の廓と同じように廃業されられて、女の子は皆今の北野会館の仮工場へ挺身隊として徴用された。

北野会館では落下傘の紐を作るのが仕事だった。ところが廃業させられた筈のこのお茶屋へ軍のオエラガタと軍需省のオエラガタが夜な夜な現れて「挺身隊を呼べ!」などと威張っていたものである。

今でこそ蚊などは一匹もいないが、その頃は少々の線香などではとても手に負えぬ蚊軍が襲来したもので、そのオエラガタも悲鳴をあげて「これや上七軒で無うて蚊の七軒じゃ」などと蚊帳を吊らせて、その中で散在したものである”

戦後、上七軒に深く関わった石田民三(たみぞう)は戦時中の廓と横暴な軍部の様子を教えてくれています。

さらに、石田民三は明冶末〜大正にかけての上七軒の一月、二月の風習を、大きいお姐さん達から聞き取っておられ『京洛風流抄』に載せていますので、簡単にまとめますと・・・

十二月十三日は「事始」、すなわち芸妓らがお世話になったお茶屋にあいさつ回りにいく日です。そして芸妓には「新帖」(さらちょう)が検番より配られます。この日からの一年間の花代を記入し、満了すれば二番帖、さらには三番帖に進むのです。誰が最初に二番帖を貰うかの激しい戦いの火蓋が切られる日でもあります。

同二十八日はお茶屋さんの台所に「恵方棚」が吊り下げられます。年々変わる恵方のほうにいつでも向けられるように中心が回転する仕掛けになっていました。

大晦日は「おことうさんです」のあいさつ回り、お茶屋では男性自身を模した餅を積み上げ、挨拶に来た芸妓にこれを持たせてそうです。「よい旦那がみつかるよう」「今の旦那さんと幸せに」という想いが込められていました。

元日、「睨み」を睨みながら初膳、置屋では女将が芸妓に「明日おおきな声で言うのえ」などと言います。

二日、芸妓は「******」と叫びながら床を蹴って起き上がります。「ええ旦那を持て」という意味が含まれるのですが、若い芸妓はこれを口にするのを恥ずかしがりました。そして恵方棚の下で弾き始めをしました。

七日、七草粥、恵方棚だけとって年越しまで置き、年越し豆を供えて翌日解体するならわしでした。

松の内に箸紙を取りに来る旦那にはお茶屋さんが無料で酒とお食事を振る舞います・・・が、ひっきりなしに訪れる芸妓に花代、お年玉、仲居への心附け・・・旦那は「只ほど高いものは無い」をしみじみ実感する日でもあります。

二月の節分には、他の花街でもお馴染みの芸妓の仮装によるお化けがあり、旦那のない芸妓は、早く旦那を持てるようにと丸髷を結います。

節分の夜の呪いも三つ紹介されておりますが、その内の一つだけ紹介します。

“その夜泊って眠っている旦那の胸を、夜具の上から、白布で巻いた便所場の駒下駄で「さアお云いやす、お云いやす」と撫でると、翌日旦那は自分から浮気を白状したり、他に隠していたいろいろのことを打ち明けるという次第・・・余り綺麗な小道具では無いが、これが本気で行なわれていた”

“新興キネマ”で名を馳せた映画監督、石田民三は上七軒にも新風と改革をもたらしました。しかい昭和四十三年に亡くなるすこし前「他所からみれば悪習みたいなものが、京のよさなんだね。伝統というけど、京に永い間住みついて、京の人たちとつきあっていかなければ、ほんとうの京の伝統はわからんよ。まして花街のことなんぞ・・・」と述懐したそうです。

*伏せ字はなるべく使いたくないのですが、今回は止む無く使用しました。
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                         梅花祭

by gionchoubu | 2015-09-01 12:16 | 上七軒 | Comments(0)

上七軒ぞめき その十三

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                       梅花祭

昭和の始め、松川二郎は『全国花街めぐり』の本編では上七軒を取り上げませんでしたが、京都の花街を総記で、当時の京都の八花街に触れ

祇園新地甲部遊廓 芸妓本位
祇園新地乙部遊廓 芸・娼妓両本位
先斗町遊廓    芸妓本位
宮川町遊廓    芸・娼妓両本位
島原遊廓     娼妓本位
上七軒遊廓    芸妓本位
北新地甲部    芸妓本位
北新地乙部    娼妓本位    

そして「芸妓本位の花街にも少数の娼妓あると同時に、娼妓本位の花街にも若干の芸妓が居る。例へば妓甲にも“太夫”が居るし、島原にも芸妓が居るの類である」と具体的な例を挙げ、京都の花街の仕組みを提示してくれました。

京都、大阪で最初に娼妓ゼロを実現したのは大坂の北の新地(曽根崎新地)で、明治四十二年、キタの大火のあと、芸妓一本で行くことを決めました。上記京都の北新地は、五番町遊廓を改称したもので、甲部、乙部(東部、西部)と分けて再出発したものの、この新しい呼び名は定着せず、人はその後も五番町と呼びました。

上七軒の歴史を語る上で、たとえごく僅かの存在だったとしても、芸妓本位花街の一角を担った、明冶以後の娼妓さんについて触れずに済ますことは私には出来ません。上七軒の芸妓さんが芸事に集中できたのには、一つには娼妓を廓内に抱えていたという側面もあるからです。

明冶二十七年の雑誌『花柳』にその年上七軒に在籍した三人の娼妓の紹介文が載ります。その内の一人大津出身、当時十八歳のつねの紹介文を抜粋します。

「上七軒に於て十数人の娼妓中一と云ふて二とくだらぬ人気者=流行妓=と云へば先づ指をおつねに屈するなり〜略〜女(じょ)は至て温順の如く見えて、其中に活発なる所あり、其言語の静かなる、客に対し丁寧を極め、大切を旨とし容貌も大いに良し、就中遊客の足を引くは実に此妓の得意とする所なり。此妓某客に招かれて或楼に行く座敷に掲げある額に、田夫採藻の画けるを見て大に郷里湖水の懐かしくなりホロリとこぼす一滴の涙に某客一層彼れが愛に恋着したりと。涙・・・涙・・・涙こそ実に男子の精神を狂わすの狂はすの狂水にぞあるなり。」

その後も二、三人の娼妓さんは常にいたようです。ところが大正十五年の『技芸倶楽部』で竹廼家柳枝の寄せた「遊廓唯一の公娼」という記事をみると、当時京都に千人以上娼妓がおり、祇園甲部に六十人、先斗町にも二十四人娼妓を数えたが、上七軒にはたった一人の娼妓しかいないと書いています。

そのたった一人の娼妓が奈良県出身の小太郎という芸名の妓で、元は酌婦で生計を立てておりました。ところがお兄さんが電車の車掌を勤めていた処、不幸にもこの兄が負傷し、家政を助ける為やむなく娼妓になったそうです。ただ、いたって内気の性格だったので、同業者の少ない上七軒を希望したとの事です。

小太郎は愛嬌のある、柔和な性格で、余暇に茶、花、裁縫を勉強していたと紹介されています、そして「一遊廓にタッタ一人の娼妓は他所には一寸類が無かろう。」と結んでいます。

昭和四年発行の『日本遊里史』には上七軒の娼妓は二人、しかし『京都府警察史第一巻』によれば、昭和七年、八年、九年とも上七軒の娼妓はゼロですので、昭和初年〜七年の間に娼妓は上七軒の娼妓は居なくなったようです。

思えば、小太郎が上七軒最後の娼妓さんだったのかもしれません。そして関西では珍しい、大坂の北の新地に続いて、全く娼妓のいない遊廓が誕生しました。






by gionchoubu | 2015-08-30 10:40 | 上七軒 | Comments(0)

上七軒ぞめき その十二

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                     勝奈さん
昭和九年、日中戦争間近、国民皆兵の精神の元、各遊郭も廓内の女性を網羅する大日本国防婦人会の分会を設立、上七軒でも発会式を七月二十三日午前十時北野倶楽部で挙行、貸座敷女将、芸妓仲居、白エプロン、白襷を掛け整列、京都連隊区司令部佐藤司令官より長谷川かつ子に分会長、高谷はる、三原とめ子を副分会長、取締りの河合安二郎らには顧問の辞令を公布しました。

京都府警察部遊廓統計によりますと、

昭和三年の上七軒の遊客数は13,875人で芸妓揚代が161,621円、酒肴代が33,099円、これが昭和九年には遊客数14,414と増加しているのにも拘らず、芸妓揚代が104,571円、酒肴代も16,652円と減少、遊客の一人平均額は14,034円から8,41円と大幅に減少しています。

昭和十二年の年は丁度演舞場(歌舞練場)である北野倶楽部の改築中で、芸妓数は七十四人、その内五、六人のダンス芸妓がいました。島田ならぬ洋装でダンスを専門にするダンス芸妓は京都では宮川町が本場で、続いて先斗町も盛んにこのダンス芸妓の養成に熱心でした。

ただし上七軒の場合は、そこまで新機軸の芸妓養成に本腰をいれていなかったようで、当時歌舞練場にダンスの教師をおいて稽古をするのでは無く、各置屋に教師を招いて練習していました。

北野会館の前身である北野倶楽部が建てられたのは北野天満宮一千年祭の明冶三十五年四月で、それまで温習会の会場にはかつて上立売浄福寺入ルに有った岩上座を会場としました。

昭和十二年度の役員は取締に宮階廣吉、福取締が岸本伊之助で技芸委員は大藪千代、出雲喜乃、吉田はつで、女役員で名をつらねる長谷川かつは技芸委員の監督も努めています。舞踊教師は未だ二十五歳の田村元が毎月一週間ずつ東京から出張して指導に当たりました。顧問は花柳輔三郎で、温習会その他主なる催しに際して教授しました。尚、花柳輔三郎の師匠である、花柳輔次郎の子息です。

長唄は杵屋寒玉が顧問、常任教師は杵屋六滋で、常磐津は常磐津文字八顧問、通常教師は常磐津文字葉留、清元には清元延太津、鳴り物は田中徳次郎、浄瑠璃には鶴澤友若が教鞭をとりました。

現在復活した上七軒盆踊りは昭和十一年から始まったようで、豊国神社に上七軒の芸妓が古代の扮装で芸妓が参拝するのもこの年から年中業事になり、この昭和十一年には豊公北野大茶湯三百五十年記念献茶会に際し“みたらし団子献納行列”の名で、山時代上臈風俗七名、侍女風俗十名、其の他総勢四十三名のねりものを出しています。
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by gionchoubu | 2015-08-28 17:38 | 上七軒 | Comments(0)

上七軒ぞめき その十一

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                     昭和四年の番付

大正十五年時の上七軒の取締は河合安二郎で、出雲キクも長谷川カツも議員兼歌舞協議員に名前を並べます。専属教師は長唄―杵屋新右衛門、杵屋新三、舞踊―花柳輔三郎、花柳輔好、鳴物―田中徳次郎、清元―清元延太津、浄瑠璃―鶴澤友若、茶礼―藤屋光善(西方寺住職)

貸座敷に清水駒、有岡、長谷川、山幸、近菊、大房、吉田家、浅徳、亀政、上みね、藤幾、伊藤、住里、丸美代、大梅、万春、和田末、大秀、高辰、石菊、山下、奥松、河八重、中里、文代、二見屋、大みの、西富三、西とみ、北友、杉浦、高光、西初、村井、岸本、西龍、山愛の三十七軒。

芸妓は六十人、舞妓は鶴千代の一人のみ、義太夫芸妓は十二人、娼妓は一人でした。

当時、技芸練磨の団体としては舞踊に楓錦会、少女舞踊に若葉会、浄瑠璃にみたらし会、もう一つ少女舞踊の若芽会の四団体で、それ以前には長唄の団子会、美成会等もありました。楓錦会は春に研究会、秋に温習会を催す主要団体でみたらし会は義太夫の練習機関です。会場は北野倶楽部でした。

記録の残るものの一部を書き出してみます。

美成会は大正五年に一年毎の会費制(一円)となり、四月一日催された記録があります。出し物は、月の文、蓬莱、囃子越後獅子、四季山姥、綱館、囃子梅の栄、多摩川、囃子娘道成寺、外記猿

温習会・・・大正十五年、十一月九日から『花競俄曲突』として四日間催されました。この時の評を万十生が寄せていますので全文紹介しますと、「独り舞踊ばかりではない声曲にあっては上七軒の芸妓は熱心練磨に努めている、此は今に始まった事ではない、ズッと昔からの慣習となってゐるそして夫を少しも鼻に見せない、俗にいふ、えらそうにせない、其処に上七軒芸妓の美的が具わってゐるのである、鼻にかけず=えらそうにせず=何処までも謙遜で打通すのが上七軒全体の特徴である。」

楓錦会・・・昭和二年四月二十六日、番組は舞―山姥、長唄―外記猿、舞―菖蒲浴衣、舞―蓬莱、長唄―竹生島、舞―軒端の松、長唄―吉原雀、舞―北州、舞―恵方万歳、恵方万歳(乗合船)以外は衣装の無い着流し舞でした。


みたらし会・・・昭和二年五月十七日、玉藻前三段目、先代萩御殿の段、攝州合邦辻の段、千本桜壽しやの段、忠臣蔵茶屋場の段

若葉会・・・昭和四年、三月十四日、卯の花、雛舞三番叟、かむろ、末広狩、晒し女、鳶奴、手習子、餅、船揃、娘道成寺

そして昭和六年「北野小唄」が発表されました。作詞、岩井藍永、作曲、杵屋新右衛門、振付、花柳輔三郎

√北野の東風の吹き寄せ送る 梅の薫りを書くたまづさに 
染めてひと筆つぼみの封じ 開く手に見る嬉しいへんじ
どうぞ忘れず上七軒へ

√紙屋川辺のすゞしさうけて 花のちまたによい門納涼(かどすずみ)
待てばこがるゝ胸の火移り 蛍三つ四つ来る恋の謎
どうぞ忘れず上七軒へ

√すだく千草の虫の音よりも 三味や太鼓のしらべに合し
芸も実の入る此の秋の夜に 月迄うかれて閨をばてらす
どうぞ忘れず上七軒へ

√五つ揃ふたみたらしだん子 ゆきの降る日も霙のあさも
紙にそなへて茶の湯の相手 昔ありしをいま紋どころ
どうぞ忘れず上七軒へ

参照:技芸倶楽部

by gionchoubu | 2015-08-26 12:38 | 上七軒 | Comments(2)

上七軒ぞめき その十

上七軒舞踊(花柳流)七福神、大正十三年、舞、山下〆奴、出雲菊子
長唄、角山梅吉、川端?る子、廣瀬一栄、前田千代
三絃、堀江勝子、大西八重路、桝井鶴太郎、山本美代鶴
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現在の京都五花街の舞の流派といえば、上七軒は花柳流、先斗町が尾上流、祇園東が藤間流、祇園甲部には井上流、そして宮川町に藤間流に落ち着いていますが、江戸時代京都の花街は、町娘が習う流派も含め篠塚流が殆どで、僅か祇園に井上流が篠塚流と共存していました。

大正十二年の『技芸倶楽部』を見ると京の踊りの流派は流動的で、当時

上七軒は篠塚流と花柳流が共存

先斗町は篠塚流と井上流だったのが大正時代に井上流が無くなり、若柳流と篠塚流が共存

祇園東(当時乙部)は篠塚流から井上流、そして丁度このころ藤間流に変わりました。

祇園甲部は篠塚流と井上流が共存でしたが明冶五年ぐらいから井上流一色になりました。

宮川町は篠塚流から楳茂登流

その他、七条新地、五番町は篠塚流一色、島原も元は篠塚流でしたが、一時井上流がはいったものの、大正末は名古屋から来た西川流の独占舞台でした。

篠塚流の初代は篠塚文三郎で、良く分からない部分もあるのですが、歌舞伎の影響を受けた京舞で、「手を伸ばさばあらん限り、足を伸ばすのなら伸びる限り」という流儀が伝えられています。

二代目文三郎は天保時代に襲名し、島原の松本楼の娘と結婚しました。そして幕末に亡くなっています。三代目が文三でその弟子の玉うのが明冶の中頃より上七軒で師匠を努めていました。玉うのは篠塚四代目を取ってもおかしくない人で、上七軒出雲の女将(出雲菊子)に大正十年に免許状を出し、玉うのが亡くなった後に出雲菊子は歌舞七段の免許状を受けています。

玉うのが亡くなったのが大正十一年で、これを機にに上七軒は花柳流になったようです。もう一つ上七軒の技芸で大きな変化は、それまで舞の地は専ら地唄ばかりだったのですが、大正の末あたりからの長唄熱です。

これは大正の初め頃から二十余年間上七軒長唄師匠を努めた杵屋新右衛門こと中川道之助の指導による賜物で、昭和師匠が七年他界すると、当時の河合取締役は故新右衛門の名取である菊子、一栄、鶴太郎、千代、〆奴を門下代表として同伴して東上、芝公園妙定院の告別式に参列しております。


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十九歳の出雲菊子、将門滝夜叉姫


by gionchoubu | 2015-08-24 16:31 | 上七軒 | Comments(3)

上七軒ぞめき その九

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大正末〜昭和初期の上七軒の芸妓

この頃の上七軒の業者を見て見ますと、貸座敷(お茶屋)二十八軒、芸妓六十七人、娼妓八人、屋形(置屋)十二軒(『京都土産』、明冶二十八年)で名妓にうめ、繁八、歌子、菊勇、こう、愛吉、小歌、しな、照香、ひで、が挙げられています。

そして明冶四十五年、業者三十五軒、芸妓六十四人、娼妓三人(京都市統計)、その後もこの数字に大きな変更がないのが他の花街との大きな違いです。

『京都土産』に「時々舞踊の催ありて芸能精妙の評高し」とあるように、昔から上七軒は芸の質の高さでつとに名を馳せてきましたが、その背景を『日本花街志』(昭和三十一年発行)で花街研究家の加藤藤吉は西陣の糸ヘン客の社交場として立派に独立出来たことを第一に揚げ、芸妓数は極めて少人数ながらも上七軒で生まれ、上七軒で死んでいく、郷土色に富んだ気風があり、東京辺の花街には絶対味わえない楽しい温かさがあると書いています。

『京の花街』で渡会恵介さんも終戦直後、阪神あたりの旧廓から上七軒の名を慕って鞍替えをする芸妓があっても、客には「あれは、よその妓や、呼ばんとうきやす。」と生え抜きの芸妓からは受け入れられず、定着しなかったと書いておられます。

大正十五年の『技芸倶楽部』で野上金太郎が「上七軒の芸妓」という文を寄せて、当時の様子を詳しく伝えていますので紹介させて頂きます。

明冶三十年代後半に筆者が温習会を見たとき、確かな記憶ではないが歌舞練場はもっと北にあったとの事、また閉会したのが午前三、四時ということでその技芸熱も知れようというものです。

この思い出話の中でも、前回の多楼の話が出ており、やはり裏の離座敷に傘の様な天井があり、主人は中々の皮肉屋、始終何かに憤慨しており、筆者もしばしばこれを聞かされたそうです。

このお茶屋の娘はお瀧という芸妓がいて、美人の上舞巧者で一流株、さらにお瀧の妹芸妓に大藪てるという舞に秀でた若い芸妓や、お瀧の妹分で三味線巧者で瀧栄という芸妓も印象に強かったとの事です。ただし大正十五年にはこの名物御茶屋も無くなっていました。

野上金太郎は続けます、「私は上七軒芸妓の芸熱に強い事を今におき忘るヽ事は出来ない、また忘れようにも忘れられない、夫れは其後幾星霜を経るとも上七軒芸妓の芸熱の決して低下して居らないのみか、ますます昇騰しているからであろう。此は私が言うまでもなく広く諸君ご承知の事であろう。

上七軒遊廓は京都市内の北西部に偏しているから以前は市の東南部から見て、何だか遠隔の地に行く様に思われたが、現在は電車もあり自動車もあるから往復には易々たるものである。左ればこそ以前上七軒の遊客は多く西陣方面の人に限られていた様であったが当今は其方面ばかりの人でない、随って上七軒芸妓に馴染む人が非常に多くなった、そして上七軒に遊ぶ人は概して技芸界の好事者である、近頃上七軒芸妓ますます向上の一原因も亦其処に存するかと思ふ。」と長年上七軒を見てきた人の声で妓風を語っております。


by gionchoubu | 2015-08-22 13:19 | 上七軒 | Comments(0)

上七軒ぞめき その八

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                    上七軒の芸妓さん、梅花祭にて              

上七軒の青楼に告ぐ 乾玉山人

“上七軒は日に日に盛況を呈せり、吾輩も亦た上七軒の遊客の一人なり。如何に上七軒とは云いながら、青楼の不注意なる向多し。吾輩の常に感服せざる事多し其は他にあらず。芸妓に貰ひの多い之なり。

貰ひとは纒頭(ぽち)の貰ひを云ふにあらず。例へば、甲客が一人の芸妓を招く時、其芸妓其客の座へ来り座して一言二言咄すかと思ふ間もなく一寸誰々さんをお貰ひ申ますとて其芸妓を連れ行く、次に又一人の芸妓を招く是亦た同様の事あり。

之を貰ひと称すとか、此貰ひの都度、花は踊って十本が十五本となる事あり、甚だしきは態(わざ)と花を踊らす為めに此貰ひをして、又暫時して出て来たり再び貰ひをなす。一人にして幾度も此の如き事と為す時は、貰ひの為め踊る花は実に多しと、之れ上七軒第一の弊害ななり。

之れを改良せざれば上七軒の盛況の実を見る甚だ難し。併し芸妓不足なればと弁ずれば夫れ迄なりとも。能く其内情を知るものは此口実を以て瞞着されては居らぬなり。

次に貸座敷にて、座敷に野風呂を置く向の少なさ。之が娼妓処ろならば、其様な事を言ふに及ばざれども、常に芸妓の客を以て重とす、即ち散財客の多き上七軒の貸座敷に、其等の備へ不完全なるを以て何時も酒の燗はぬるく、又た間の抜ける事多し。宜しく注意して少し座敷の体裁―客に不快を与えぬ様ありたき事なり。聊か感ずる処ろあり花柳誌に投じて上七軒の青楼に注意を促す事然り。”

貰いはとは、その芸妓の旦那の特権で、旦那になると総て検番に登録され、この登録された旦那から、他の座敷へ出ている芸妓へ貰いがかかると、どんな事があってもお茶屋はその芸妓をその旦那の元へ芸妓を帰さねばなりませんでした。

芸妓を呼べばしょっちゅう貰いがかかり、いつもぬる燗を出され、自分の意に沿わねばペンネームで雑誌に苦情を寄せる乾玉山人は、上七軒にとって歓迎されざる、扱いにくい遊客だったのかもしれません。


上七軒の多楼(おおのろう)

“上七軒の貸座敷中、多楼と云うは彼の多(おおの)たきの実家なり。構造左して大ならざれども、此土地では先ず屈指の青楼なり。座敷の清潔なるが上、離れ座敷あり、殊に庭園には四季の草木繁茂し、誘客をして時々運動せしむに足る。此楼に一の名ある座敷あり。

其は傘の間と唱へ天井の傘形となり居るが故なるべし。就中遊客をして座興を増さしむるは仲居お愛にあるなり。お愛年未だ二十才の上を一ッ二ッ・・・・・実に其名に背かざる愛嬌物なり。

尚ほ、此お愛女の外にお榮女と云へる年齢十五歳の娘の時々宴席に酌す。其美其愛後世多望の女子と云うべし。まだ此外にお絹といふ別嬪あり、客の足繁亦無理なし。”

抜粋:明冶二十七年、雑誌花柳より


by gionchoubu | 2015-08-20 16:14 | 上七軒 | Comments(0)

上七軒ぞめき その七

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               映画、舞妓はレディーで脚光を浴びた勝奈さん

明冶十六年、『乾廓三十六花撰』という、上七軒の芸・娼妓をそれぞれ花に見立てたものが『京都絵入新聞』に載りました。ちなみに乾廓と書いてかみしちけんのルビがあります。

前回の『都の花競』が出版された五年後で、当然花競の芸妓も出ており、斉藤小勝が牡丹、舞妓だった佐々木小三も芸妓になって花王(さくら)、やはり舞妓であった中村三四も芸妓となり芍薬(しゃくやく)に例えられています。

筆者は“有っても無くてもよい男、乾廓のデモ客”一々庵百一と小葉散人の両者で、全編他愛のないものですが、当時の上七軒の雰囲気というものが出ていますので、朝顔に例えられた舞妓、山本小福、十三歳の紹介を記しておきます。

「本名は房、小三の妹分と云を以って声価(ひょうばん)可なりによし、姿点(きりょう)充分よからざれども未だ振袖ならば窈窕たる淑女とも謂うべし。評者曰く、芸は天晴れなれども未だ舞妓なれば老練とは云いがたく、天資活発にて、後年粉隊中一方の妓将と成り、天晴よき痴客をとりこにせんとする気性あり。併ながら撰者が朝顔にせしは、チト当られざれども行末を祝する心有ての事ならん」十三歳といえば、今でいうと中学一年、当時の人間の捉え方は現在の尺度では推し量れないようです。

さらに十年後、明冶二十六年、当時上七軒には貸座敷(お茶屋、妓楼)二十六戸、小方(置屋)十戸、芸妓三十三名、娼妓も五名おりました。ちなみにこの小福も二十三歳となり「紳言違はず、今は芸妓盛りの年恰好と成り、上七軒廓の藩屏として信用せられ、管弦当の旗頭にして、貴族議員の鏘々たり、賀すべし、祝す可し」と評されました。

上記は明冶二十六年の雑誌『花柳』七号、八号から得た情報です。八号ではさらに、当時上京区にあった岩上座に例えられた上七軒の芸妓,宮本鶴尾を紹介します。花に例えたり、芝居小屋に例えたり、当時の流行でしょうか?

鶴尾は明冶元年八月生にして真盛町の自家より舞子に出しは、明冶十七年三月廿日、本名らくと云ひ、父は故人となりしも母存命し、至て孝心深く、容貌十人並にて、技芸能就中舞を以て長とす。先年衿替をせし後と雖も、矢張り客に招かれ、重に舞を見す座敷至て面白く、而して酒を飲む事多量。酒飲めば益々舞ふ、恰も亀の酔ひ舞が如し。評者が岩上座に比するは、恐れ多くも本年御題“厳上の亀”と云ふの謂なり。(看客評。評者も随苦しいと見へる)

もう一人、今度は十号から上七軒芸妓、高谷うめが“四季のながめ”で評されています。

評者「次は上七軒の総理、高谷おうめさんでござりまする。」

サシデ口「お梅は花柳第八号の三十六花撰に出てあったぞ。」

評者「此お妓は文久三年五月生にて、舞子より此上七軒へ出やはりましたが、年の行に連れて、益々能く花を売らはります。今ではバリバリ者にて、姉はん、姉はんと立てられでござりますが、芸にっけても夫れは夫れは驚いた程達してござる。」

サシデ口「第一アレはお世辞で行くのだ。」

ヒイキ「兎に角、此妓の上七軒にあるは、実に上七軒全体の名誉だ。」

評者「西陣の旦那衆に沢山御ヒイキがござりまして箱の明間が無位です。」

翌年の上七軒温習会の番組を見てみますと、三番そう、かしま、宇治川、二人神楽、汐汲、浦島、八重衣、神田祭、雪(引抜雷り)、出の玉川(引抜北洲)、園の梅(引抜喜撰)、八島、落人、新岩橋でした。

例えば、今回紹介した山本小福は新石橋で舞を担当しており、前回紹介したお茶屋長谷川の初代女将、長谷川かつが汐汲で三線、園の梅では歌、新石橋でも三線を担当していました。

お茶屋長谷川と長谷川かつは上七軒のホームページにて詳しく紹介されています。
http://www.kamishichiken.jp/history_j.htm

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by gionchoubu | 2015-08-18 14:31 | 上七軒 | Comments(0)

上七軒ぞめき その六

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  2008年都ライトアップで元お茶屋の長谷川さんの玄関が公開され、昔の芸舞妓さんの写真も拝見できました。             

明冶十一年七月に出版された大西亀太郎著『都の花競』に収録された、当時の上七軒の芸妓の芸名、本名、年齢を見てみます。

真盛町

小勝  斉藤かつ  斉藤まさ養女  二十九年九月
三四  中村さと  中村まん養女  二十五年八月
松吉  高橋ちう  高橋宗兵衛長女 二十七年十一月
歌栄  高橋むめ      同次女 二十五年十一月
歌松  高橋ふみ      同三女 十七年十一月
小八重 佐々木米松 二見忠兵衛出稼 十九年二月
小友  高山とも       戸主 二十四年
小浅  斉東あさ  斉藤藤三郎長女 二十年十月
     松田小政  松田くま三女  二十三年三月
     松田小浪     同四女  十九年九月
小房  内田うた     同出稼  二十二年十一月
小梶  古川かじ  古川岩吉長女  十九年四月
     古川きく     同次女  十四年八月 (舞妓)
小三  佐々木ちか      戸主 十四年十月 (舞妓)
八重松 鵜飼たか  鵜飼利兵衛養女 十七年八月 (義太夫芸妓)
歌龍  山本ひさ       戸主 二十五年三月
歌葉  山本こま       同妹 十五年
     高谷むめ       戸主 十五年   (舞妓)
小菊  大藪むめ  大藪うた妹   二十三年十月
君菊  大藪はる          十七年七月
     山口きみ       戸主 二十八年四月
君勇  菊地むめ  菊池仙次長女  二十九年五月     

社家長屋町

     平田うた  平田たけ次女   十八年八月
     平田てる      同三女  十四年七月 (舞妓)
愛之助 木村いと       戸主  二十七年月
小万  堀口せい  堀口うた養女   十四年十一月(舞妓)
千香菊 池田きく  池田ふさ養女   十七年九月 (舞妓)
民の  山田やす  山田こと妹    十五年十月

鳥居前町

     小辻やゑ  小辻源助養女   二十一年六月
     小松ちう     同出稼   二十二年
秀助  神田すて      戸主   二十七年六月
千賀鶴 神田ちか  神田とく養女   二十三年四月

この名簿に載るのは、年配の芸妓も載らず、どういう基準で選ばれたのか私には分かりませんが、当時十四歳から十七歳が舞妓の年齢で、一方十五歳の芸妓もいた事が分かります。これは収録された他の花街も似たようなものです。

所謂芸妓は芸の熟練もそうですが、当時、舞妓との大きな違いは旦那がもてる程成熟していた女性という意味合いをもっていました。

ちなみに島原の部をみると、十四歳の太夫もおりました。又、祇園甲部、
先斗町に娼妓の登録がありますが、この上七軒には一人の娼妓の登録もありませんでした。




by gionchoubu | 2015-08-16 12:46 | 上七軒 | Comments(0)