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カテゴリ:遊郭・花街あれこれ( 55 )

花魁道中


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2018年1月2日、太秦映画村の花魁道中(オイランドウチュウ)で数々の映画・テレビにご出演されている周防ゆう(スオウユウ)さんが中村座から吉原三浦屋まで、禿二人を先導に、背後から長柄の傘が差しかけられ、見事な外八文字の足さばきで道中されました。張りが有る見事な花魁道中でした。

花魁道中(おいらんどうちゅう)について、小菅宏著『図解 吉原遊郭 花魁の秘密』が分かりやすく説明してくれています。

“吉原の行事のなかで格別に華やかなのは、花魁が妓楼から指名した客が待つ揚屋(飲食する貸座敷)へ迎えに行く「花魁道中」である。

男衆(おとこし)の捧げ持つ箱提灯が先導し、花魁付きの禿(かむろ、将来の花魁を期待される幼い女子)や振袖新造(花魁の妹女郎)らを引き連れ、しんがりに遊女を監視取り締まる遣り手(老練な遊女上がりの大年増)が従う行為だ。

妓楼から揚屋まではわずかな距離なのだが、指名してくれた大事な客を必死の思いで迎えるとの花魁の心境を、旅に出るほどの覚悟(江戸時代の旅はいろいろな手続きがあり、特に女性の出国は厳しかった。「入り鉄砲に出女」の言葉は、江戸に入る鉄砲と出る女の二つを特に警戒したことに由来する)で向かうといった意味合いから「道中」と名付けられた。

補足させていただくと嶋原や太夫道中、大津馬場町の天神道中、吉原の花魁道中とも、高級遊女は背後から長柄の傘が差しかけられるのが常でした。

次に小野武雄著『吉原と島原』の説明を見ると、

“遊女の衣装のみごとさはいうまでもないが、異色なのは髪飾りと下駄と歩き方であった。髪には十二本の簪がさされ、足には大きな駒下駄がはかれ、不思議な歩き方をする。その歩き方を八文字の踏み方といい〜略〜道中の行列が賑々しくなりはじめた元禄の頃には、新造、禿、遣手、夜具入りの籠(つづら)・三味線・太鼓を運ぶ男たち、晴天でも長柄の傘をさしかける男、幇間などが加わった。そして遊女の格式に従って禿の数も二人とか三人とかにきめられてあり、はこばれる夜具・枕箱・小箪笥にも、それぞれ規定があった。

さらに完成期の文化、文政の頃の行列には、金棒引き、箱提灯持ち、番頭新造、振袖新造、禿、遣手などが加わった。

遊女の衣装も華麗を極め、紗綾・縮緬・羽二重・羅紗・ビロード・金襴緞子・綸子など贅を尽した。

この八文字の歩きかたについて、島原の太夫はまっすぐ前を見据え内八文字を踏み、脇見をすることはありません。

一方、外八文字の花魁さんは、道中お馴染みさんを見ると、挨拶なども交わした様です。

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by gionchoubu | 2018-01-03 15:35 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

大阪四花街展

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                    南地五花街跡はカオスの様相


平成二十九年四月三日(月)〜二十八(金)
大阪府立中之島図書館本館三階展示場にて『大阪四花街展』上方文化としての大阪花街〜北新地・南地五花街・新町・堀江〜が催されています。

https://www.nakanoshima-library.jp/wp/wp-content/uploads/32a47402e1184c05e566d934d905103d.jpg

私も以前、「舞妓さんMY COM」というブログの「亡くなった大阪の遊所」という題で一年程、古今大阪の遊郭・花街を追い続けました。

突然原因不明のままブログ全体が消えてしまいましたものの、大阪の花街は繁く通った中之島図書館とともに格別の想い入れを持ち続けています。

会場に入ると、北陽(北新地)演舞場の見事な姿が写真で蘇っています。大林工務店が手がけたものです。京都では先斗町の歌舞練場が大林組の手によるものです。ちなみに祇園東による“祇園ねりもの”の二台の屋台は竹中組が制作しました。これはある所に保管されております。(場所は公表できかねる事情があります)

さて、今回の展示は、テーマにより、大阪天満宮、今宮戎神社、芸術名品コレクション、住吉大社、四花街連合大阪おどり、大阪の花街について、現在の大阪花街などで、週替り展示として、天神祭り、上方文化がありました。

大阪南地で大阪芸妓の代表の一人、富田屋八千代の直筆よる日本画に掛け軸も展示されています。明治36年刊『夜の大阪』もショーケースに有り、往年の八千代の姿を偲べます。

堀江、新町両花街のジオラマの展示も見ものです。新町のジオラマは以前、中央図書館の新町展でも見た事があります。

ビデオで、南地大和屋から東京の新橋に移った、日本舞踊の代表者の一人“武原はん”の踊りも見る事ができました。

今回の『大阪四花街展』の協力・資料提供を見ると、

阪口純久(南地大和家)
上方唄、長尾多栄(大和屋芸妓部福笑)
谷川恵(お茶屋、たに川の若旦那)
西川流、西川梅十三(北新地芸妓組合)
鶴太良(西天満のお茶屋)
四代目、旭堂南陵
長山公一(大阪春秋編集長)
野杁育郎(なにわ名物研究会会長)
水知悠之介(NPOなにわ堀江1500代表)
古川武志(大阪市史編集所大阪市史料調査会)

錚々たるメンバーです。


by gionchoubu | 2017-04-15 11:47 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

花名刺と千社札(宮川町編)

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 私が座敷で司会させて頂いた宮川町の舞妓、芸妓、地方さんの花名刺、現役の人、廃業された人、色々です。

“芸妓さん、舞妓さんがお客さんに渡す、小さな和紙の名刺。「花名刺」は幾岡屋さんのオリジナル製品の名称です。現在は、シール・タイプもあります。大正から昭和にかけて活躍した染織図案化・松村翠鳳がお茶屋遊びの折に考案したものです。もとは家紋と名前を和紙に捺したシンプルなものでしたが、次々と季節にちなんだお花や風物などの多様な図案が生み出されていきました。その後、娘の松村幸子さんが花名刺づくりを受けつぎ、現在は幸子さんの姪にあたる林久子さんがお一人で作成されています。

花名刺は木版で、デザインは二百種類ほど、色ごとにわけられた版木は千個はあるそうです。複数の版をくみあわせて絵柄をつくっていきます。ぼかしは、ひわ色、水色、桃色、橙、紫の五色あり、濃淡も使い分けて表現しています。文字入れは文字専門の職人さんが版木を作成しています。名刺の上部に赤い線をいれたり、周囲をすべて赤い枠でかこったりと、注文主の好みでアレンジをくわえていきます。

本来のお客さんである芸舞妓さん以外にも、女優さんや踊りのお師匠さん、男性のお客さんでも作られることがあるそうです”

以上は『舞妓の美―花街を彩る匠の技―』で、山本真紗さんが執筆されたものです。

ちなみに、一般的に、この花名刺は千社札と呼ばれることの方が多いようです。


by gionchoubu | 2016-11-06 11:29 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(2)

都をどりと伊勢音頭

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   亀の子踊り

古市の伊勢音頭が亀の子踊りの別名を持つのは、踊りといっても両の手先を胸先三寸のところで、上下に振り動かすことからです。これなら踊りの素養がない娼妓でも簡単に振りを覚えられるということになります。

代表的な備前屋の地方は芸妓六人で左右に胡弓一人づつ、三味線二人、歌二人で、備前屋音頭歌は出だしが、√さくら花、たかゑかくにもさかりとは、いいあわせねど人こころ、うつりやすさよ世の中の、恋のつぼみのひらくまで〜、というもので、妓楼によって演奏法も娼妓の出方、引き方も夫々の工夫がありました。

この備前屋は「桜襖」油屋が「重ね扇」杉本屋「菊の寿」で何れも七五調で、歌詞は永く、優雅にできていました。

この亀の子踊りが祇園甲部の都をどりのベースにあるというのは知られた話です。もともと関西の座敷舞は(畳)半畳舞とか一帖舞といわれるように限られたスペースで限られた御客を楽しませる様発達したもので、多くの客に舞台で見せるという発想は必要有りません。

『京の舞踊』で田中緑江さんは「槙村(後の京都府知事)は祇園新地の取締役をしていました杉浦次郎右衛門と相談し、その頃この花街の踊は篠塚流の舞でしたのを三代目井上流の片山春子にここの踊を担当する話になりました。引き受けたものの何をしたらよいのか師匠たちが集り相談の末、下河原のまくづ踊が華でよいが、あれは伊勢音頭を真似たものやから、皆よって伊勢音頭を見に行こうやないかということになり役員から師匠達共々伊勢宇治山田の古市へこれを見学にいきました」と都をどりと亀の子踊りの間に前回述べた東山名所踊り(まくず踊り)が介在していたことを紹介しています。

そして「一行はこの踊子の出るのは華やかでよいのですが、囃方が前に列んでは多くの客がはいれませんので、地方を正面の後列に囃方をその前に並べました。」と都をどりと伊勢音頭の配列の違いを、理由とともに説明してくれました。

明治五年、第一回のみやこ踊りが新橋西入南側の路地(現在旅館ギオン福住辺りか祇園東の置屋岡とめ辺りの内どちらか)の松之家という寄席で催されたのですが、その出演者であった名妓、三宅美代鶴は「アノ時は新橋の松の家という小さな寄席で、踊子は矢張り左右の花道から出ましたけれど、お囃子と地方は正面の雛段に並んでいやはんたんどす。」と回顧しております。

ちなみに松乃家で開催されたのは第一回のみで、二回目からは花見小路西側に新しい会場を求めました。現在は花見小路東側の祇園甲部歌舞練場です。

昨年(2015)年発行『ステージショウの時代』中野正昭編の著者の一人、濱口久仁子氏が第三章「宝塚歌劇の日本舞踊とその周辺」で都をどりと宝塚歌劇の共通項を解き明かす過程で、この亀の子踊りにも触れられています。


by gionchoubu | 2016-04-15 12:42 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

古市伊勢音頭

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                                 備前屋の伊勢音頭

三重県にあった古市遊廓は非公許ながら公許であった江戸の吉原、京の島原、そして大阪の新町の三大遊廓とあわせて四大遊廓の一つに数えられ、寛政六年(1749)古市の大火で焼けた後、これが新築のきっかけを生み、三都の遊廓をしのぐ大廈高楼が軒を並べ、古市は全盛期をむかえます。

「伊勢参り 大神宮にも ちょっと寄り」という川柳がその気分をよく伝えています。

江戸時代、伊勢参りする人は順序としてまず外宮へ参り、古市を通って内宮を参ったもので、実は古市が本来の目的の伊勢参り客も多かったのです。

伊勢音頭は古市の遊廓が名古屋の西小路、富士見ケ原、原の三箇所に支店をだし、郷土色をだそうと地元の河崎音頭で遊客をもてなして評判を出しました。これが伊勢の音頭ということで伊勢音頭という名で呼ばれました。

元分三年(1737)に名古屋遊廓が廃止になったとき、古市が出した支店も戻って来る事になり、そのとき持ち帰ったのが伊勢音頭だったのです。

この古市伊勢音頭の発生は野村可通「伊勢古市考」によるものです。

古市では遊女の顔見世としての要素が多分で、たとえば代表的な備前屋ですと、舞台は正面と左右におおきくせり出したもので、踊り手は左右より十名ずつ「よいよいようやな」と掛け声をかけて踊りながら、中央で行き違いになり、反対側の通路に消えていくものです。

遊客はたとえば右から出た前から三番目の妓というような選び方をしたのでしょう。

「京の舞踊」で田中緑江さんは寛延(1748~1750)の頃、備前屋の思いつきで、沢山のお茶屋のうち、大楼の広間に三方に舞台を作り、これに遊女に揃えの衣装を着せ。左右の花道から十人づつ踊りながら出てきて正面で入れ替わって左右に別れは入る、と書いています。

明治時代になると三方がせり上がりの板廊下、拍子木の音と共に朱塗りの欄干が下からせり上がり、上から提灯や造花などが下がってきました。


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by gionchoubu | 2016-04-11 13:16 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

傀儡女(くぐつめ)

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                       大江匡房(百人一首)

もともと、中国では中華思想により、人間と呼べるのは漢民族のみで、傀儡子記の文中にある北狄の俗と表現されているように、漢民族以外は獣扁がついていたりして人と見なせられていませんでした。

我々日本人も漢民族から頂いたのは倭・・・人偏がついているだけ、すこしはましな扱いとも受け取れますものの、漢民族にとっては、所詮人見たいな人でした。

傀儡(クグツ)は、本文に見える沙石、即ち幻術を使い、魚竜曼蜒、即ち魚を竜や獣にさせる不気味な能力に長けた人形使いでした。

傀儡には両方とも人偏がついており、両方人形の意味をもちます。しかし鬼という字を組みあわせているのは、当時彼ら、彼女らがどのように思われていたか如実に物語っているようです。

滝川政次郎は『遊女の歴史』や『遊行女婦・遊女・傀儡女』で傀儡は朝鮮から渡来した白丁族で、朝鮮で戸籍を持つのを拒んだ為母国を追われ、日本に移り住んでも、納税の義務を負わされる戸籍を持つことから逃れつづけた流浪の民、律令制の罪人という強い言葉で断じています。

前回の「彼等は一畝の田も耕さず、一枝の桑も採らない者で、県官の支配を受けないから、土民ではなく流浪の民だ。上に王公のあるを知らず、少しも地方の役人を怖れない。課役もないので、一生を安楽に暮らしてゐる。」がその部分で、匡房も多少突き放した表現なのは彼が政治を司る立場だったのと無関係ではないでしょう。

もう一つ藤原茂明の傀儡子の詩を掲げます。(趣味史談遊女の時代色収録)

名を傀儡と称す何方に有らん、逆旅身を寄するに思ひ遑(イトマ)あらず。
郊外居を移して空処なく。羇中色を衒い専ら房を慕う。
春雨まさに艶を貪らんとし、蘭薫秋風と粧を比べんと欲す。
緑野、草深うして邑里をなし、鏡山一月冷うして家郷を卜(ボク)す。
倡歌数曲、生計を充し、微嬖一宵、客膓を蕩かす。
其れ奈んぞ穹盧年暮るゝの後、容華変じ去って心傷ましむ。

遊女が舟で人が集まる川岸に群れたのに対し、傀儡女が選んだのは陸の街道の宿駅で旅人を捕らえました。今ではあまり聞くことがない、青墓、野上、墨俣、赤坂、鏡山、草津、今で言う愛知、岐阜、滋賀の傀儡女が当時の歌に織り込まれています。

さて、京都とクグツの関係は直接見えてこないのですが『嬉遊笑覧』にこの一節があります。

くゞつは夫ありて、おほやけならぬもの也。都にてもそのかみ『建武元年二条河原落書』に「たそかれ時になりぬれば、うかれてありく色このみ、いくそばくぞや数しらず。内裏おがみと名付けたる、人の妻鞆のうかれめは、よそのみる目も心地あし」とあるは、是又傀儡の類、今いふ地ごくなどにあたれり。

地ごくは江戸にあった最下等の遊里のことです。建仁元年は1201年鎌倉時代初期になります。


by gionchoubu | 2016-01-23 11:41 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

傀儡子記、大江匡房

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傀儡子記(かいらいしき)

傀儡子は、定まれる居なく、当(マモ)る家なし。穹盧氈帳、水草を逐ひてもて移徙す。頗る北狄の俗(ナライ)に類(ニ)たり。男は皆弓馬を使へ、狩猟をもて事と為す。或は双剣を跳らせて七丸を弄び、或は木人を舞はせて梗を闘はす。生ける人の態を能くすること、殆に魚竜曼蜒の戯に近し。沙石(幻術)を変じて金銭となし、草木を化して鳥獣と為し、能く人の目を□す。女は愁眉・啼粧・折腰歩・齲歯咲を成し、朱を施し粉を傳け、倡歌淫楽して、もて妖媚を求む。父母夫聟は誡□せず。亟行人旅客に逢ふといへども、一宵の佳会を嫌はず。徴嬖の余に、自ら千金の?の服・錦の衣、金の釵(カンザシ)・鈿の匣の具を献ずれば、これを異(ウヤマ)ひ有(ヲサ)めざるはなし。一畝の田も耕さず、一枝の桑も採まず。故に県官に属かず、皆土民に非ずして、自ら浪人に限(ヒト)し。上は王公を知らず。傍牧宰を怕れず。課役なきをもて、一生の楽と為せり。夜は百神を祭りて、鼓舞喧嘩して、もて福の助を祈れり。

東国は美濃・参川(三河)・遠江等の党を、豪貴と為す。山陽は播州、山陰は馬州等の党、これに次ぐ。西海の党は下と為せり。その名のある儡(クグツ)は、小三、日百、三千載・万歳。小君・孫君等なり。韓娥の塵を動かして、余音は梁を繞る。聞く物は纓を霑して、自ら休むこと能はず。今様・古川様・足柄・片下・催馬楽・黒鳥子・田歌・神歌・棹歌。辻歌・満固・風俗・咒師・別法等の類は、勝げて計ふべからず。即ちこれ天下の一物なり。誰か哀憐せざらむや。

以上『日本思想大系8、古代政治思想』岩波書店で、<大曽根章介 校注>を元に漢文の原文を現代訳にしたものにアレンジを加えたものです。これでも難しいので、今回は『趣味史談 遊女の時代色』武田完二著で意訳してもらうと、

くゞつには定まった家がない。テント住居をしながら水草を逐って流れ歩いて行く。その様子は頗る北狄(蒙古人)の風俗に似ている。男は皆弓馬を習ひ、狩猟を事とする。或は双剣を跳ね上げ、匕(アイクチ)を弄び、また木人(人形)を舞はし、梗(これも人形)を闘はせて、まるで生きた人間のやふにあつかふ。或は沙石を変じて金銭となし、草木を化して鳥獣となし、人目をおどろかす。女は様々のメーキャップよろしくあって、みだらな歌を歌ひ、淫楽の友として媚びを売る。親も亭主もそれを一向苦にしない。行人旅客と逢って一夜の佳会をなすことも敢て辞さない。客は可愛さの余り、千金でも与える。そこで錦?の衣装から、金のかんざし装身具の類まで、何でもかでも持たぬものはない。彼等は一畝の田も耕さず、一枝の桑も採らない者で、県官の支配を受けないから、土民ではなく流浪の民だ。上に王公のあるを知らず、少しも地方の役人を怖れない。課役もないので、一生を安楽に暮らしてゐる。夜は百神を祭り、太鼓をたゝき踊り騒いで神の助けを祈る。東国の美濃、三河、遠江などのやからが最も豪気なもので、山陽の播磨、山陰の但馬などのやからがその次、西海(九州)のやからは最下等とされてゐる。名高いくゞつ(あそびめ)には、小三、百三、千歳、萬歳、小君、孫君などがある。何れも歌舞に妙を得て音声いとも美しく、聞く者感に堪えざるものがある。今様、古川様、足柄、竹下、催馬楽、里鳥子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、満週、風俗、咒師、別法士の類、何でもやる。これも天下の一物だ。誰か哀れをもやうさぬものがあろう。

大江匡房の遊女記が河川に屯した遊女群を描いているのに対し、同じ筆者が同時期に記したとされるこの『傀儡子記』は平安期より、陸を拠点とした、売笑を生業の一つとした人形使いの集団を述べています。

遊女記で匡房は遊女を随分好意的に見つめているのに対し、傀儡子記では客観的に、この得体の知れぬ一族を眺めているようです。傀儡子(くぐつ)と京都の関わり次回紹介させていただきます。


by gionchoubu | 2016-01-18 12:54 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

遊女記、大江匡房

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『遊女記』

山城国与渡津(ヨドノツ)より、巨川(宇治川)に浮びて西に行くこと一日、これを河陽(カヤ)と謂ふ。山陽、西海・南海の三道を往返する者は、この路に遵らざるはなし。江河南し北し、邑々処々に流れを分ちて、河内国に向ふ。これを江口と謂ふ。蓋し典薬寮の味原の牧、掃部寮の大庭の庄なり。

摂津国に至りて、神崎、蟹島等の地あり。門を比べ戸を連ねて、人家絶ゆることなし、倡女群を成して、扁舟に棹さして旅舶に着き、もて枕席を薦む。声は渓雲を遏(トド)め、韻は水風に飃へり。経廻の人、家を忘れずといふことなし。洲蘆浪花、釣翁商客、舳蘆相連なりて、殆(ホトホト)に水なきがごとし、蓋し天下第一の楽しき地なり。

江口は観音が祖を為せり。中君・□□・小馬・白女・主殿あり。蟹島は宮城を宗と為せり。如意・香炉・孔雀・立牧あり。神崎は河菰姫を長者と為せり。孤蘇・宮子・力命・小児の属あり。皆これ倶戸羅(クシラ)の再誕にして、衣通姫(ソトホリヒメ)の後身なり。上は卿相より、下は黎庶に及るまで、牀?(ユカムシロ)に接(ミチビ)き慈愛を施さずといふことなし。また妻妾と為して、身を歿(ぼつ)するまで寵せらる。賢人君子といへども、この行を免れず。南は住吉、西は広田、これをもて徴嬖(ちょうへい)を祈る処と為す。殊に事(ツカマツル)百大夫(遊女の守り神)は道祖神の一名なり。人別にこれを?(エ)れば、数は百千に及べり。能く人心を蕩す。また古風ならくのみ。

長保年中(999~1003)、東三条院は住吉の社・天王寺に参詣したまひき。この時に禅定大相国は小観音を寵せられき。長元年中(1028~36)、上東門また御行ましましき。この時に宇治大相国は中君を賞(モテアソ)ばれき。延久年中(1069~73)、後三条院は同じくこの寺社に幸したまひき、狛犬・犢(共に遊女の名前)等の類、舟を並べて来れり。人神仙を謂へり。近代の勝事なり。

相伝えて曰く、雲客風人、遊女を賞ばむとして、京洛より河陽に向ふの時は、江口の人を愛す。刺史より以下、西国より河に入る輩は、神崎の人を愛すといへり。皆始めに身ゆるえをもて事とするが故になり。得るところの物は、団手(花代)と謂ふ。均分の時に及びては、廉恥の心去りて、忿?の色興り、大小の諍論は、闘乱に異らず。或は麁絹尺寸を切り、或は粳米斗升を分つ。蓋しまた陳平が肉を分つの(公平に分配する)法あり。その豪家の侍女の上り下す船に宿る者、湍繕と謂ひ、また出遊(素人の遊女)と称ふ。小分の贈を得て、一日の資と為せり。ここに?俵・?絹の名あり。舳に登指を取りて、皆九分の物出すは習俗の法なり。
江翰林(ガウノカンリン)が序に見えたりといへども、今またその余を記せるのみなり。

以上は大江匡房(1041~1111)が晩年に出筆にかかったとされる『遊女記』の全文の現代訳で、原文の漢文共にネットで拝見することができます。私が載せたのは『日本思想大系8、古代政治思想』岩波書店で、<大曽根章介 校注>を元にアレンジを加えたものです。

大江匡房(おおえまさふさ)は平安時代の公家であり、政治家であり、学者、歌人と多才多能、百人一首にもその名を留め、正二位権中納言まで昇りました。京都では五条西洞院南あたり(毘沙門町全域を中心とした一帯)、藤原師実が売却した千種殿に1077年から住んでいました。(京都市の地名)

この『遊女記』は平安時代、川尻の江口、神崎、蟹島の舟着場で繁栄した遊女群について述べたもので、この三箇所は現在の大阪の東淀川区の南江口、神崎橋を挟んで大阪側の加島、尼崎側の神崎町に当ります。

遊女記は現代訳でも難しいので、『日本遊里史』の上村行彰に意訳してもらうと、

「山城国與渡津から大川に浮び、西に一日行程の所を河陽といって、山陽、南海、西海の三道を往き返りするものは此の路を通らないものはない。此の両岸には所々に村落がある。川が岐れて河内の国に向ふ所を江口といって、典薬寮や掃部寮の大庭荘があるところである。而して摂津国に入れば神崎や蟹島といふ所があって人家櫛の歯のやうに比び、娼婦群集し小舟に棹して碇舶の舟を訪ひ、頻りに一夜の情を進むるの声、雲を起し風を呼ぶので、此の地を経廻る人は皆故郷の家を忘れて終ふほどである。そしてそれを附けこんで浪を切って行商の舟が往来する間を、蘆を分けて釣舟が横ぎるといふやうに、川の上は舟で埋まって水も見えない程である、誠に天下第一の楽地といってよからう云々」

江口・神崎・蟹島についてはいずれ先の課題として、今回長々川尻の遊所について書いたのは、『雲萍雑誌』(柳沢淇園著として天保十四年刊とされるも書かれた年代、著者ともに不明)の三の巻に

「宇治、木幡、淀、竹田あたりは、昔遊女多くありたるところなり。古き洛陽の地図に、小椋姫町といふところありて遊女町なり。そのかみは多く水辺に居たること、古書に見えたり。あさ妻舟の図などもおもひあはすべし。」

与渡津は賀茂・桂・宇治三川の合流点でありますので、江口、神崎、蟹島の遊女群が期を見て、雲萍雑誌にはありませんが橋本そして宇治、木幡、淀、竹田辺りに勢力を伸ばした物と私は考えます。

そしてさらに桂まで到達した遊女が九条の里を形成に与したと考えるなら、京都の水辺の遊女の源流も又、江口、神崎、蟹島に求め得ることになりませんでしょうか?




by gionchoubu | 2016-01-14 12:55 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

温泉芸者一代記

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1979年、井田真木子著『温泉芸者一代記』は、深川に生まれ、十七歳で湯河原温泉に八百円で売られ、客をとらされながら、三味線一筋の名妓となった、当時八十二歳のおかめさんの生涯録です。

小学校の時、家庭の事情があり、子供心に「だから、自分の口を食わせられるだけの仕事をぜひ持ちたいと思いました。あたくしね、髪結さんか、お産婆さんになるつもりでしたの。当時は、そのくらいしか女のできる仕事てものがなかったんでございます。」

義父は最初、彼女を磯子の花柳界に売る手筈でいたそうです。

ところが当時芸妓の鑑札申請には、未成年者が勝手に売らされぬ様、法廷代理人(実親など)の連署など細かい規定があり、これを満たせぬ彼女は遊芸の鑑札(寄席芸人、太鼓持ち、新内流し、小唄師匠等)で湯河原の芸妓になりました。

著者の井田真紀子さんは、人材が集まりにくい地方の温泉場などで、こういった名目で多くの年季奉公の未成年者を集める例はままあったのではないか、と書いておられます。

おかめさんが売られた赤ペン(ペン店は湯河原の芸妓置屋を兼ねた特殊飲食店)
には酌婦と芸妓がそれぞれ七、八人住み込んでいた。客を常時とるのは酌婦だが、おかめさんの様に年季で売られた芸妓も年季中は随時客をとらされました。

全国の温泉街に於いて、道後や別府などの公許の遊廓が併設されていたのは例外中の例外で、多くの温泉地では、客をとらされるのは酌婦という名目の私娼、もしくは温泉芸者だったのです。

その中で、「湯河原のペン街に、若いけれども芸熱心なおかめという芸者がいる」と評判になり、のちに東京にも稽古に出かけ、日本橋や新富町の一流の芸者衆
に混じっておかめは自分の三味線芸を高めて行きました。

「いい芸者てのは、まず容姿端麗でございましょ。その次に頭のよさ。座敷で話をさせても面白い。機転が利く。そういった頭のよさ。座敷で話をさせても面白い。機転が利く。そういった頭のよさ。そして、最後に芸でございますね。これが三拍子揃えば、立派な芸者です。どこい出しても恥ずかしくない。

でもさ、なかなか、そうは揃わない。だから、あたくしなんざ、こうやって芸だけを頼りに、山猿で、へへ、、一生おわりますのよ

だけどさ、芸てのはこんなふうに奥が深いから。いくらやっても、これで終わりってことになんないから、あたくし、山猿芸者でございますけど、あといくらかでも生きて、いくらかでも生きてるうちに、三味線をもっと弾きたい。そういう気になるんです。

ね、あんた。だから、あたくしは死ねないんですよ。三味線があるから、あたしは、死ねないんですよ」

難しい言葉はひとつも出てきませんが、男の人が頭で考えた芸者論と違い、人の心にぐいぐい食い込んできます。



by gionchoubu | 2016-01-12 12:44 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

温泉芸者


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『温泉こんやく芸者』昭和45年8月公開 東映京都作品、監督、中島貞夫

絶倫か、名器か!? これはスゴイ!イカせたモン勝ち セックス三番勝負!!

「舞台は、北陸の片山津温泉、こんにゃく屋の徳助に育てられた養女・珠枝は、 
勤めていたコンドーム工場が倒産したことをきっかけに、カバンひとつで家をでた。退職金代わりに貰ったコンドームを売って、一時しのぎの金を作ろうと温泉街を訪れた珠枝。だが、そこで天職に出会う。男好きのする顔に目をつけた置屋のお女将が、珠枝をインスタント芸者に仕立て上げたのだ。最初の客にミミズ千匹を指摘された彼女は、あれよあれよと話題の芸者に。関東一と関西一の芸者スカウトマンが争奪戦を繰り広げる中、珠枝の前に積まれた札束はナント五百万!珠枝はこれまでくれた養父への恩を返すべく、五百万を賭けてセックス三番勝負に挑むことを決意する。先に二度燃え尽きたほうが負けのこの勝負、迎える相手は抜かずに六発撃てる通称ヌカ六と呼ばれるゼツリン男!果たして勝負の行方は!?

瑞々しさも武器のひとつ、新人、女屋実和子がミミズ千匹といわれるほどの名器を持つ芸者に扮して鮮烈デビューを飾るほか、ヌードに自身のある女優陣が組んずほぐれつのお色気合戦を披露。才人・中島貞夫監督が、温泉芸者のお色気サービスの実態を艶笑喜劇タッチで描いた温泉芸者シリーズ第三弾」

こんにゃく屋の徳助が殿山泰司、主演の女優、珠枝が女屋美和子、これを支える女優陣に松井康子、榊原浩子、TVプレイガールでお馴染みの片山由美子、男優陣に上田吉二郎、常田富士男、小池朝雄、そしてヌカ六に小松朝雄、なぜか“いとしのマックス”荒木一郎、チョイ役で作家の田中小実昌・・・中島貞夫監督の元、全編テンポのよい展開はまさにスタッフ、役者の職人芸と云わせる出来栄えです。

「ヌードに自身のある女優陣が組んずほぐれずのお色気合戦」からはほど遠いソフトピンク映画といった内容で、あくまで物語重視、ピンク映画を期待すると少し裏切られた気持がするでしょう。

芸妓400人、置屋30余り、花街片山津温泉の絶頂期に撮られたもので、なにより温泉街を我が物顔で闊歩する、又お座敷で乱痴気騒ぎの温泉芸者のバイタリティーは当時の温泉地そのままといっていいでしょう。

映画の芸妓は女優さんですが、座敷の後ろで囃すのは片山津の本物の地方さんのはずです。

『温泉おさな芸者』『温泉スッポン芸者』『温泉みみず芸者』等々この時期沢山の温泉芸者映画が世に出ましたので近々紹介させていただきます。


by gionchoubu | 2016-01-07 11:02 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)