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カテゴリ:遊廓、花街の類形( 17 )

遊廓、花街の類形 その十七(白梅図子)

f0347663_14161924.jpg
               白梅図子(通り)から白梅図子(遊廓跡)を望む
小判鮫型 江戸期の現大阪市内の遊所をみると、単独で存在した小さい遊所もありましたが、遊廓が幾つか集まり、群を形成したところがあります。これらを仮に馬場先群、曽根崎新地群、堀江群、宗右衛門町群、新堀群とすると、曽根崎新地、堀江、宗右衛門町は超一流、馬場先、新堀は二流といったところなのですが、その核となる花街の近くにとてつもなく下等な遊廓が、おこぼれを頂戴する小判鮫の様にぶら下がっていました。

曽根崎新地には、骨堀(こっぽり)というおどろおどろしい名前の遊所が今のアメリカ総領事館あたりにありました。堀江にも長六茶屋という品格最も劣悪なる遊所があり、娼婦の顔は銅版の如く、腰は石臼に似て、路上に立ちて通行の人を捉えたといいます。宗右衛門町には南坂町に髭剃と呼ばれた遊所、そしてもう一つ灘波入堀沿いに幽霊新地という下等遊里があり、妓家より半身を出してもしもしと招いたといいます。

新堀のちかくにあったのは羅生門とどぐろ、通行人がいるとむりやり妓楼に引っ張り込み、銭の持ち合わせがないと着物を剥いだから羅生門。さらに、どぐろは川の石垣の間に潜む魚で、釣り糸が垂れると餌に食いつき、石垣に入り込む始末に負えない魚がその名が由来なのでどんな所か推察できます。馬場先は生玉神社界隈の遊里で、近くには尼寺前とか六万体に下等な遊女がおり、近くの坊主共を餌食にしていました。

実は、別のブログでかつて存在した大阪の遊所を“亡くなった大阪の遊所”として、数十箇所追い求めた事があるのですが、ある日突然、原因が分からぬまま、他の内容含めて300回以上分、六年かけたブログが消えてしまいました。
バックアップをとっていなかったのが残念。いつか再挑戦したいと思います。

これまで私なりに遊廓、花街の成立過程を主にして類型を試みましたが、類型にはいらない遊所もでてきます。たとえば京都で盧山寺の北にあった白梅図子といわれた下等遊里はどのグループにも属しません。

すぐ西が御所にもかかわらずこの遊所が明冶まで存続し得たかは、その成立過程に秘密があるようです。

ここの住民はもともと、元禄に新松屋町、そして安永に夷町に住んでいた二町から成るのですが、元の住居を幕府所司代邸拡張の為召し上げられ、代替地としてこの地を与えられたものの、住民が移転費用に困り、煮売茶屋を申し出てこれが認められ、いつしか遊女をおく茶屋になったという過程があります。現在の新夷町がそのまま嘗ての白梅厨子になります。

幕府としては、何の落ち度もない住民を無理やり先祖代々の地から追い出したという負い目があり、いわば黙認の形をとったものだと思うのですが、どうでしょうか?

この白梅図子、名前はきれいなのですが、ここに行くと虱がうつされるので、しらみのずしとも呼ばれ、天保前の諸国遊所競でも、前述の大阪のどぐろ、尼寺(前)羅生門、こっぽりらと最下列の最後のほうでひしめきあっています。

田中緑江さんが『亡くなった京の廓』で白梅図子の様子を老人に聞き取り「白粉をベタベタつけた醜い女が寺町辺やお車道へ出て客を引いているのを見た、首に膏薬を張り首の曲がらない女がいて恐くてよく行かなかった」という話を紹介しています。

『京都坊目志』では、この白梅図子のすぐ南に藪之下という下級遊所がありましたが、今は九軒町、盧山寺の東の駐車場辺りだと思います。この藪之下の由緒は、藪の下にあっただろう以外何も分かりません。


by gionchoubu | 2014-12-06 14:18 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その十六


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心斎橋筋より戎橋を渡り東が西櫓町(画像)相生橋より日本橋筋までが東櫓町。この西櫓町に一軒のみ営業はされておりませんが芝居茶屋の建物が残っています。
芝居茶屋型 浅草花街の前身の一つに猿若町の花街を挙げることができます。これは天保の改革で、堺町、茸屋町、木挽町辺に点在していた三座の歌舞伎、二座の芝居茶屋が猿若町に移されると、芝居の幕間の休憩場として芝居茶屋が利用され、ここで座敷に呼ばれたのが猿若芸者で、別名(芝居の)櫓下芸者とも言われました。

ちなみに現在の浅草花街は、この猿若芸者と、吉原の外にあった五十軒、田町、山谷堀辺の引手茶屋や舟宿に通った、山谷堀の芸者(堀の芸者)、もう一つは浅草観音の雷門附近で、酒や料理を提供する必要から生まれた、神社仏閣型の広小路芸者(田楽芸者)、この三つの芸者集団が一箇所に集まった複合型花街と言えるでしょう。

大阪に目を向けると、道頓堀に近年まで存在した南地五花街の一画、櫓町はその名の通り、寛永三年(1626)ここに芝居興業を許されてから大いに榮えた町で、大歌舞伎、操芝居、からくり芝居、浄瑠璃、舞、説教などあらゆる娯楽が道頓堀に集中すると、元禄十二年に、これらの観劇客の面倒をみる「以呂波茶屋」がこの地に立ち並びました。

これはいろは四十七文字にいくつかを足した数の芝居茶屋がその「い」なら「い」、「は」の字なら「は」の字を染めた紺の暖簾を掛け、五十軒ほど櫓町より九郎衛門町まで延びていました。

陰間茶屋型 こちらは衆道、即ち男色を売る遊所で大都会に発生しました。東京では湯島天神が有名で、東叡山の僧侶達の隠れ遊びの場として発展しました。
この型は基本、「舞台子」とか「色子」という歌舞伎の女形を目指す若衆で構成され、宝暦には芳町にも多数存在していました。客は男性に限らず、後家や大奥の女中などもおり、さらに、いわゆる男性客をとる娼妓も併せた色町になりました。

大阪は道頓堀五座の傍、坂町がこれに当り「陰間」といわず「若衆」と呼ばれていました。ただし大阪では若衆茶屋というものは無く、遊女の茶屋に呼ぶと、若衆は島田に大振袖、黒塗りの下駄であらわれたそうです。ただし僧侶に連れられて芝居見物などをするときは袴を着け、大小を差した小姓すがたで従うこともあったそうです。

京都では宮川町がこの型に属し、南座の裏にあたる宮川筋には若衆宿がつらなり、軒並みに屋号の入った軒行燈をかかげ、こうした御茶屋を子供茶屋、若衆茶屋、陰間茶屋とよび、叡山の僧侶も繁くかよい、元禄十四年、大石内蔵助にも、馴染の色子ができたという話も残ります。

紀州藩士本居内遠という人が弘化四年(1847)脱稿した庶民風俗史料に「(男色は)僧の女犯を禁ずるより出しは、おのずからの勢いなり。俗伝に空海よりといい伝う。中世以後、軍陣に婦女を誘う事を禁ずるより起こりて、応仁以来の乱世より武家にも執する輩多く、そのころよりやや盛になりたり、今治世となりて、その俗習残りて元禄享保などの頃までは盛なりしが〜略〜京は宮川町、浪華は道頓堀、江戸は禰宜町なりしが、後は葭町、芝明神社辺など、その群の売楼たり」と、世間周知の事だった様です。

参照:南区志・日本遊里史、上村行彰著・日本花街志、加藤藤吉著・京の花街、度会恵介著


by gionchoubu | 2014-12-03 14:39 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓、花街の類型 その十五

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 円山応挙が描いた丸山遊廓の象徴花月亭

外国貿易港型
 安政六年(1859)横浜の開港するに際し、外国人相手を目的に、横浜公園に一万五千坪を充てた港崎町遊廓を決定したのですが、これに志望する女郎が居ない為、官命で神奈川宿から五十名の飯盛女を移して開業にこぎつけた、という例が一つ、もう一つは江戸時代の初期より、外国人相手の遊女がいた長崎丸山遊廓も、他のどの類型にも当てはまらず、この二例を特異例としてここに挙げます。

丸山遊廓は、文禄二年(1593)ごろ、博多も恵美須屋が南蛮人を相手にひともうけしようと長崎に古町遊里を開いたのが起源で、その後古町から丸山にうつり、寛永十九年(1642)市中に散在する私娼を丸山の隣寄合町の名で公許を得て、元禄五年(1692)の最盛期に遊女千四百四十三人を数えた。『丸山遊女と唐紅毛人』

別説として、丸山の地に慶長(1596~1614)の頃より三軒屋と呼ばれた三軒の遊女屋があったが、自家で焼失したので、官命により博多の遊女屋が移転させられ、寛永十六年か十九年に丸山遊廓できた。寄合町は新紙屋町・大井町などの遊女屋が移った。『遊女』西山松之助編、という記述があります。

いずれにせよ、丸山遊廓は丸山町そして寄合町からなり、当時日本唯一の外国貿易港長崎の花街として、来航の外国人を遊客にした特色をもち、江戸の吉原、大阪の新町、京都の島原と併せ、日本四大遊廓の一つに数えられました。(始めの三大遊廓は同じで、伊勢の古市、あるいは大津の馬場町を四大遊廓に入れる事もあります。)

鎖国以来、この廓の遊女は、日本行き、唐人行き、阿蘭陀行きの三種あり、〜行きから分かるように所謂送り込みで、日本行きが一番上等、次に唐人行きで、唐人屋敷が十善寺村にあったので、十善寺行きなどとも呼ばれていました。

阿蘭陀行きは、一名出島行きと言われ、位の高い遊女に敬遠されたので、一般的に下級の遊女が赴いたものの、揚代は日本行きの何倍もしました。
オランダ商館付の医者として出島に着任したシーボルトに付き添った其扇(そのぎ)は、寄合町引田屋卯太郎抱えの遊女でした。

先ほどの四大遊廓の特色をよく言い表した俚言「京の女郎に長崎の衣裳を着せ、江戸の張を持たせ、大坂の揚屋に遊びたし」を紐解くと、女は京、意気張を専らとするのは江戸、青楼がいいのは大坂、そして衣裳の素晴らしいのは長崎と言う事になります。何故長崎が衣裳かというと、唐人に対し、日本側の我劣らじの見得がそうさせたと言うような事が『長崎土産』という本に書いてあるそうです。

しかし、加藤藤吉著の『日本花街志』に、隔離された唐人達は遊女を選択する自由がないため、自分に与えられた遊女の歓心を買う為、衣服、器物を与えたとあり、こちらの方が私には、それを記した文献も有るので、説得力を持つように思えます。

港型貿易港型とすこし趣きを変えますが、明冶元年に東京の築地に、新島原遊廓が、近くの外国人居住区近くに「蓋シ、居留地繁栄策ノ一タル意図」をもって設けられたことがありました。

ところが、これはあまりに非文明と反対の声が上がり、僅か二年半で廃止されました。



by gionchoubu | 2014-12-01 13:34 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その十四

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                 呉の朝日町にその形跡を見ることはありません。
軍港型 横須賀は海軍の町で鎮守府、海軍工廠、水雷団、水雷学校、海軍飛行場もあり、この鎮守府の開設と共にできた海軍御用達の遊廓が横須賀市遊廓で、昭和の始め、貸座敷が二十六軒ありました。

佐世保も一漁村であったのが、軍港になると一気に発展して明冶二十六年に勝富遊廓が設立されました。さらにこれだけでは需要の追いつけなかったのか、明冶四十三年に、花園遊廓が誕生し、妓楼が五十軒も立ち並びました。

呉市にも鎮守府が置かれ、江田島には海軍兵学校があり、それまでの一小村が軍港になると、昭和の始めには岡山市を超え、二十万人近い人口を抱える都市になり、明治二十年に吉浦遊廓、続いて明冶二十八年に朝日町遊廓が許可され、後発の朝日町の規模が先発の吉浦遊廓を大きく凌いだのは佐世保と同じ経緯を辿ったようです。

新舞鶴町竜宮遊廓も明冶三十四年鎮守府が出来ると設立され、軍縮以前は貸座敷が四十六軒あったのですが、軍縮後の昭和の初めには貸座敷が二十九軒に減少したのは、まさに軍港型の遊廓だったからに外なりません。もう一つ中舞鶴遊廓も軍港が咲かせた花で、加津良遊廓とも呼ばれ、開業は明冶三十八年でしたが、昭和十八年には海軍命令で、遊廓全家屋を明け渡したといいます。

陸軍型 師団のある都市には遊廓がありましたが、たいがい他の類型との併用型で、一時期大いに遊廓、花街を潤しました。ただ、軍都型として独立したと言える遊廓は案外少ないようです。其の中で、香川県善通寺町の遊廓は日清戦争後、乃木将軍が師団長時代できたもので、軍人の為の遊廓でした。

新潟県の小千谷町遊廓も明冶四十三年、附近に工兵大隊が出来たので必要に迫られ開設したもので、陸軍型の遊廓と言えます。さらに、その他城址が兵営として使用された千葉県佐倉町遊廓もこの類型に入るはずです。

戦前の花街に目を向けると、最盛期には芸者が千人を超えた浅草の花街に於いても、陸軍の将校たちは花柳会の上得意客で、お金はうなるほど持っており、軍人だけに遊びも派手で、一晩で、多くの半玉(舞妓)を引き連れて待合(お茶屋)を何軒も渡り歩いたといいます。

しかし日中戦争が始まると、出征兵士を送る会が重になり、日の丸を背に掛けた若者を料理屋の大広間で送り出す壮行会に芸者が呼ばれ、死んで帰るつもりの当人と、ドンチャン騒ぎをする事が多かったようです。

そして戦時下の昭和十九年には企業整備令が発令され、料亭も置屋も閉鎖、多くの芸者は花街を離れ、疎開地に赴きました。

参照:全国遊廓案内、日本遊覧社・お座敷遊び 浅草花街 芸者の粋をどう愉しむか、浅原須美著
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               呉市吉浦も面影は無いのですが、面白い意匠がありました。

by gionchoubu | 2014-11-29 12:35 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その十三

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開拓型
 江戸時代の北海道の遊里は港型がすこしあったぐらいでしたが、明冶になって開拓型、そして漁港型と言える遊所が現れました。

北海道の開拓事業を至上命令に官員、屯田兵、土工夫、囚人が国家事業として送られたのですが、基本これらの人は男達で、この厳しい環境の中、囚人は別として彼らに居づいて仕事をしてもらう為には遊廓は必要かつ絶対条件でした。

「此の地開びゃくのはじめ、花の都の東男の職人ども多く来ませしかど、まだその頃は人家もなく、まして女もあらざれば殊更に冬の肌寒く、独り寝の夢冷やかかく、もぼろしに都の親戚(みより)思い出て、目にちらつき仕事も手につかず、一人逃ぐればまた一人、一夜一夜にカマド減ず」開拓当初の札幌の様子を新聞記者が書いており、これが当時の職人の現実でした。

そして明冶四年、札幌の野原の真ん中、一面薄野の原に誕生したのが薄野遊廓だったのです。「女郎屋、また開拓の一端といわざるべきや」といったところで、松本十郎判官も根室に赴任するやいなや、遊廓を認めました。

室蘭は安政頃より、数件の旅館が遊女をおき、港型の遊里を形成していた様ですが、明冶五年開拓出張所が設置されると、新開地である新室蘭の沢町、常磐町に移転、さらに明冶二十年に屯田兵の輪西移住、炭?鉄道会社の工事が始まると幕西に移転、開拓型の遊廓として生まれ変わりました。

苫小牧浜町遊廓もこの流れで、女で居住民を?ぎとめる目的で開設したようです。

漁港型 江差も松前藩の頃は港型遊里にて、私娼といわれる女達が渡世していましたが、安政年間頃から繁昌し、輪通い小路に一時的に貸座敷が許可されたり、影の町に遊里が出来たりしたのですが、明治二十五年に新地が出来ると、影の町、切石町、上野町の業者が移り、芸妓、娼妓をおく遊廓が形成されました。

鰊漁期には魚夫、船頭、役人、商人、鰊仕込親方、廻船問屋が江差遊廓を陰に、表に支えました。

余市に沢町遊廓が誕生したのは、安政年間といわれ、魚場の繁栄はそのまま遊廓の繁昌につながり、その後全盛期には辻村楼一軒で、芸娼妓併せて四十名を数えたと言います。その他新今楼、梅川楼、柳田楼、さらに芝居小屋の亀遊座などが建ち、芸妓は江差、娼妓は東北地方から集まり、大正には料理店も並び、三、四、五月の漁業中は漁夫が二千人近くに膨れ上がり、海が時化れば、貸し座敷はこれらの漁夫で占められました。

其の他の北海道には、名を馳せた遊里に函館、小樽、旭川、根室などがあり、その他中小の遊里もいくつもあり、樺太にも豊原町遊廓、真岡町遊廓があり、樺太を含む北海道の遊廓総てが廻し制で、娼妓は居稼でした。

参照:北海道遊里史考、小寺平吉著


by gionchoubu | 2014-11-27 12:09 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊郭、花街の類型 その十二

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植民地型 昭和五年に発行された日本遊覧社『全国遊郭案内』は当時の国内の遊廓のみならず、台湾、朝鮮、満州の花街、遊廓にまで言及していますので、これを一つの類型とします。

外地に遊廓ができたのは、ほぼ明治三十八年、日露戦争講和後のようです。

本土から植民地に住む人は男性の方が多く、暫らく海外に滞在していると直ぐ内地の女性が恋しくなり、必然として娼妓、芸妓とも日本の女性が需要が多くなり、料金も嵩張りました。

植民地の遊廓で、娼妓は総て廻しをとらない(一夜で客のかけもちをしない)のは業者が関西から来たことを暗示しています。廻しついてはいずれ一項を儲け私なりの解釈を述べたいと思います。また芸妓、娼妓も居稼ぎで送り込みがなかったのもこの類型の大きな特徴です。

今回の植民地型は当然昭和初期までの外地の花街・遊廓の傾向であることを念頭に以下地域ごとに纏めてみました。

台湾 一番規模が大きかったのは台北市萬華遊廓で、貸座敷約六十、娼妓は約五百六十人です。芸者、娼妓そしてこの両方を兼ねた所謂二枚鑑札の芸娼妓で構成されていました。彰化遊廓は日本人中心で少数の朝鮮人が居ました。花連港遊廓は日本人と朝鮮人がほぼ同数で貸座敷約十軒。台中初音町遊廓は貸座敷十八軒。嘉義遊廓は貸座敷十軒。台南市新町遊廓は貸座敷十四軒に芸妓七十人、娼妓百十人で広島県次に長崎、熊本の女が多く、日本人のみで構成されていました。この新町遊廓と小川一筋を隔てた所に総て台湾人の芸妓百九人、娼妓九十四人の台南市台湾人遊廓があり、この台湾人芸妓は唄、舞踊、鳴物総て中国式でした。高雄市栄町遊廓は明治三十八年に旗后に設置されたものが大正八年に栄町に移ったもの。馬公街遊廓は明治三十九年に許可されました。

朝鮮 釜山牧島遊廓 明治四十二年頃設置。貸座敷十五軒、福岡、長崎の芸娼妓が多い。釜山緑町遊廓、娼妓は九州方面が多い。鎮海面遊廓は日本人中心。馬山壽町遊廓の娼妓は総て朝鮮人で、経営者も朝鮮の人が中心。その他馬山には萬町、元町、幸町に遊廓あり。吉野町遊廓は日本人娼妓中心。晋州面大河洞遊廓は朝鮮人娼妓中心。方魚里遊廓は娼妓二十人。大邸八重垣町遊廓は娼妓約五十人。大田面遊廓は九州の女三十人、朝鮮人の女二十人。金州相生町遊廓は娼妓五十人の半分は内地人で半分は朝鮮人。郡山府には新興洞遊廓と山手町遊廓が有り、共に娼妓六十人程。仁川郡敷島町遊廓の娼妓は二百人位で大多数は日本人。木浦遊廓は大正三年に許可。京城府弥生遊廓は殆ど日本人、二枚鑑札が多い。京城府新地遊廓は九百人もの娼妓がいるが日本人、長崎、熊本、福岡の女が多い。兼二浦面遊廓、土地に三菱製作所があって、大正七年頃は好況で貸座敷が十九軒程あった。鎮南浦碑石里遊廓は貸座敷九軒。平城府賑町遊廓は貸座敷五十五軒に百三十人の朝鮮人娼妓に内地人(主に長崎人)娼妓百五十人。元山陽地洞遊廓に妓楼八軒。咸興花咲町遊廓に貸座敷約十軒。羅南面美吉町美輪之里遊廓には内地人娼妓六十人に朝鮮人娼妓六十人。清津星ケ丘遊廓には朝鮮人娼妓三十人、日本人娼妓はおもに長崎県人で百十人。会寧面北新地、沿革は明治三十九年の日露戦争直後に日本料理店四件が開業して芸妓を置いたこと始まる。会寧面山同遊廓の娼妓は三十人。

関東州地方 大連小崗子、明治四十一年に表面的には料理店として開業し、酌婦の名目で娼妓を置き、料理店二十九軒に娼妓然の女二百七十人居る、日本人以外中国人の妓もいる。大連市逢坂町遊廓、明冶四十年に料理店の名目で始まる。店は七十軒もあり芸娼妓九百人の内二枚鑑札が四百人、娼妓は五百人、娼妓内朝鮮人は百五十人で日本人娼妓は九州、四国の女が多い。旅順支那町、明治三十九年に開設、乙種料理店の名の下、芸妓三十人に酌婦(娼妓)百十人。

京都の豊国廟の入り口に大阪の六遊廓、新町、松島、北新地、堀江、南甲部、南乙部が奉納した一対の献灯があります。明冶三十年、日清戦争直後に寄進されたものなのですが、その理由がネットの情報によると、二度の朝鮮出兵した秀吉を顕彰することで、国策の載って遊廓の海外進出を目論んだという趣旨がありました。

その後、明治三十八年、日露戦争による権益でその願いは叶ったのですが、台湾、朝鮮、満州の遊廓のシステムが、廻しを取らぬ、居稼形式の大阪乙部遊廓のそれと一致するのと、内地、即ち日本人の妓が西日本、九州の女性で構成された事を考え合わせば、ほぼ灘波新地(南乙部)新町、松島の業者で植民地の遊廓が運営されていたと見て良いと思います。

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by gionchoubu | 2014-11-24 14:29 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その十一

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                京都府 綾部 月見町は花街の風情をよく残します
城下町の花街・遊郭の成立過程はさまざまで、江戸の吉原や大阪の新町は前も述べたようにC 人目につくところから隔離を目的としたもので、幕府の意向に添い出来上がりました。

ただし大阪でも、新町以前に幕府でなく大阪城代が許可した今の道頓堀、ちょうど松竹座の裏あたりにあったとされる下灘波領の遊里は、その後非合法遊里としての起源を持つ島之内や北之新地と同じくBの人を集めようとした処に入るはずです。

もう一つの大都市、名古屋の築城の際できた飛田町の遊郭はA の人が集まる所に設置されたものの、その役目が終わると廃止の憂き目を見たのですが、異端の殿様宗春が七代目尾張藩主として赴任すると、西小路さらには富士見原、町に遊郭を新設しました。これは経済活性の目的でBにはいります。尤もこの試みは宗春失脚のため十年持たず、以後名古屋市中心には明治まで遊所というものが有りませんでした。

宗春が異端だった事で浮かび上がるように、江戸幕府は、特に元禄の奢移時代の反動で、以後極端な倹約令を引き、遊郭や芝居などは目の敵といった具合であり、城下に城代公認の遊里は中々持てなかった筈です。

ですから東海道を通る、浜松、吉田(豊橋)、岡崎などの城下町にあった遊里は非合法であり、宿場型として飯炊き女の名目で遊女を置いたものです。

江戸から離れた金沢の東廓は外様の加賀藩が散らばっていた茶屋を集めて公認したものですが、文政三年(1820)設置となれば江戸時代の終盤ですし、彦根の袋も藩政時代には無く、明治になって幕府の箍が外れて開業したものです。

ただ私としては、龍野、赤穂などの小城下町型花街といった類型は可能だと思いますので今後の課題としたいと思っています。

企業城下町型として、一つの企業が独占に近い形で遊郭、花街を支えていた類型が成立するかもしれません。

綾部の月見町の花街と、この町に大きな影響をもつ婦人衣料メーカー、半田市の花街と上客であった大手醤油メーカー、小松市にかつて存在した、特定の企業と従業員御用達の様な遊郭といった具合ですが、こちらも現在資料集めの段階です。




by gionchoubu | 2014-11-21 11:52 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その十

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鉱山型 佐渡の金山を頭に描くと、暗い坑道で命がけで金を掘る罪人達ぐらいの刷り込まれたイメージしか湧かないのが普通だと思うのですが、坑道を出て暫らく歩けば、我々が想像していなかった世界が展開されていたのです。

『慶長年録』(1603)に「佐渡の国に金山繁昌して京・江戸にも御座なき程の遊山見物、遊女等充満す。国々より来る金穿、町人等かようの遊興にふり、元手を失ひ候て悉く疲れ、国元へ帰る事なき者数をしらず」

集まったのは金穿、町人だけでなく、遊女化した熊野比丘尼、六条三筋時代の遊女歌舞伎、さらに世阿弥が流された所以もあって能演も盛んに行なわれました。

『慶長見聞録安紙』によれば、慶長八年の春から女歌舞伎が諸国へ下り、出雲阿国も最初佐渡に渡ってから京都で歴史的な上演をしたことになっています。

もう一つ『慶長見聞集』に、京都の六条三筋の廓を拠点として、遊女歌舞伎の有力な主催者であった佐渡島某、さらに同時期遊女歌舞伎の男舞歌舞伎の大スター佐渡島正吉という遊女、さらに大阪の新町開廓に手を貸した佐渡島与平、新町には吾妻太夫を出した佐渡島屋や新町の一角を占めた佐渡島町、さらに京舞の源流に佐渡島流という流派も見え隠れし、これらは佐渡と京・大阪を結んだ糸が存在した事を如実に物語っています。

佐渡の鉱山は当初、鶴子銀山が主で、遊里も山先町と柄杓町に開かれました。藤本箕山の『色道大鑑』に、諸国二十五箇所の公許の遊里として、江戸の三谷、京都の島原、大阪の新町とならんで、佐渡国鮎川山崎町と紹介されているのはこの為です。

山先町の遊女町は、享保二年(1717)に町の北端、海岸近くの水金町に移転し、昭和の時代まで存続しました。佐渡には江戸時代に、廻船商人によって栄えた、港型の小木町遊里もありました。

銀山に栄えた遊里に、秋田県雄勝町の院内があります。遊廓設置が認められたのは元和三年(1617)で吉原より早いのですが、なぜか『色道大鏡』から外れています。万治三年(1660)『院内銀山記後編』にその成り立ちを「当山繁栄のあまりにや、遊女白拍子の下り始ては慶長十三年の秋の頃、始て京都より五人下りしが、是を始として聞及聞伝へ、毎年ここ三ケの津より美目すぐれたる遊女歌伎の輩下り集りける程に、当山あら町といふ処に傾城白拍子夜発の輩二百余人ぞ徘徊す」

さらに「其内に過半は太夫と号し、諸芸世の常の白拍子にすぐれ、琴、三味線、浄瑠璃にうたはいふに及ばず、連歌、俳諧、謡、鼓に至るまで達したるもの共なり」とここでも高級遊女ぶりと、色濃い京都のつながりを感ずる事ができます。

鉱山型としてもうひとつ、銅山の発掘以後出来た栃木県足尾遊廓も好景気時代は豪遊を極めた町として挙げなければいけません。

鉱山型に金山、銀山、銅山ばかりでなく、明治に出来たものに筑豊炭田と共に発展した、炭鉱型として福岡県直方二字町の遊郭があり、当初私娼中心の溝堀花街として炭鉱労働者を相手にしていましたが、明治四十一年、二字町遊郭として公許になりました。

参照:佐渡金山、磯部欣三・江戸遊里盛衰記、渡辺憲司


by gionchoubu | 2014-11-19 15:43 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その九

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      串茶屋民俗資料館に掲げられた有りし日の花魁には、遊芸に長じていた様子が見て取れます。

観光地型 城下町や神社仏閣型や宿場型などとの複合の名勝、観光地の花街はいくつかありますが、純然たる観光地に出来た花街はほんの少数派です。

ここでは身近な所で、宇治にあった花街について『全国花街めぐり』松川次郎著をもとに紹介します。

平等院はもとより、宇治は昔より京都から遠出の格好の景勝地として好まれた土地で、春は桜、夏は蛍や鵜飼、秋には紅葉と一年通して遊興の地でしたが、長らく花街といったものはこれ無く、芸妓が現れたのは大正初年頃で、それまで好事家といった者は伏見や京都の馴染みの茶屋から、仲居同伴で芸妓、舞妓、地方を呼んでいたので、花代は大変高くつきました。

そこで目ざとい人が免許をとって旭検を立ち上げ、その後昭和三年に分離して都検が出来、その頃で旭検に置屋十一軒、芸妓三十四名、都検にも置屋五軒、芸妓八名いましたが、花街の成立の性質上、これといった名妓など生まれませんでした。

芸妓が入るのはお茶屋でなく旅館で、花屋敷、亀石楼、菊屋、月の屋、鮎屋、入船など、芸妓は宇治名物「茶の木」と「狸」をかけ「ちゃぬき」などと呼ばれる事がありましたが、今は旅館がいくつか残るだけで、置屋もチャヌキも過去のものとなりました。

これと似た経路をとったのが、河口湖の花街で、初めは富士吉田から芸者を呼んでいたのを夏期は甲府から芸者の長期出張を仰いでいた不便を解消する為、小さな花街が一時期ありました。

大造営型 江戸時代、大きな普請がある時、公許の遊廓が出来る事がありました。代表的なものに、慶長十五年(1610)名古屋城創築のため、家康が許可した飛田屋町廓があり、現在の本町・長者筋、北は蒲焼町から南は広小路の間に娼家が集められましたが、万治二年(1859)火事で消失した際、本来の目的を終えたとして廃止されます。

もう一つ例を挙げると、『?憩記聞』に「女郎屋の開祖、木の下、府中屋、櫛林村、当村の茶屋女、那谷寺御普請の砌、微妙院様より御免にて茶屋女出来たり」とあり、加賀で那谷寺復興の際、前田利常公(微妙院)が、造営工事促進の為、小松から通う建築に従事していた職人の慰安所として郭の営業を許可しました。

この串茶屋は明治時代まで約三百年に渡り北陸街道唯一の遊廓として榮えました。

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                    現在の串茶屋あたり
『串茶屋物語』串茶屋民俗史料館、『日本花街史』明田鉄男


by gionchoubu | 2014-11-16 12:36 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その八

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                     片山津温泉、大戦前でしょうか?
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                      同、大正時代に建てられた検番
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                 検番に温泉マークをを模った意匠がありました。
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             こちらも検番内、芸妓がお座敷にいるかどうか一目でわかります。

温泉型 『色温論』に「湯女はもと諸国の温泉にありがもとなるべし」との下りが有り、信仰的な湯治が時とともに、享楽的なものに移り、この風がやがて、大都市の湯屋、風呂屋に受け継がれていったのでしょう。

『有馬温泉記』に「昔の湯女は白衣紅袴の装束を着け、歯を染め黛を描きて、恰も上臈の如き姿を為し、専ら高位公卿の澡浴せらるる前後、休憩の折に当り、座に侍りて或は碁を囲み、或は琴を弾き、又は和歌を詠じ、今様を謡いなどして、徒然を慰むるを以てわざとせり。」とあるのですが、その昔の湯女こそ、建久二年に(1191)僧仁西が有馬温泉を再興して十二坊舎を置いた後、その坊毎の大湯女、小湯女の姿だったのかもしれません。

√鉄砲かついで来た山中で、しゝも撃たずに帰るのか

山中節にあるこの獅子は二枚鑑札の芸妓のことで、その意味は山中温泉にきて、芸妓を一夜妻に迎えないのは何とも無粋な・・・といった意味合いになり、この獅子の語源が、さらなる昔、この里に隠れ住んだ落ち武者の妻や娘が、生活苦の為、浅黄地の一反風呂敷をカツギのように頭からかむって、獅子のような姿で湯女に身をやつしたのが所似だと言われています。

とすると、有馬の昔の湯女も、地女でなく、こういったルーツを持つ人達であったなら、今様を歌い、和歌に興じ、碁を嗜む姿も理解できます。

さらに北陸温泉郷の芸妓は、

√鉄砲かたねて来た片山津、鴨も撃たずに空もどり

粟津温泉節にも

√鳥は鳥でも粟津の鳥は、男よろこぶ機嫌とり、

芸妓が片山津では鴨、粟津では小鳥、さらに山代温泉では太鼓の堂、芦原温泉でも夜叉と呼ばれ、それぞれ異名を持つのは面白く感ぜられます。

戦後の温泉芸者というと、決していい意味では用いられないのは周知の通りですが、温泉芸者も玉石混合、湯河原温泉の芸妓・おかめさんの生涯を追った『温泉芸者一代記』井田真木子著を参考に、温泉花街の一例を辿って行きます。

大正十三年、おかめさん(船岡なか)は十七歳で湯河原に売られました。芸者は財産も、庇護者もない女性にとって、生きる為、数少ない仕事の一つであった。

当時芸妓の鑑札は実父母の印が必要だったので、一段下の遊芸の鑑札で榮屋(通称赤ペン)の経営者に対して、四年年季八百円の条件で証文に判を押す。店には酌婦さんの名で、客を取る四十代のお姐さんが多かったが、芸妓も客をとらされた。

当時湯河原には見番がなく、若い芸者は、稽古をつけてくれる姐さん芸妓の身の回りの世話をして教えを請うしかなく、おかめは、寸暇を惜しんで先輩の世話をして、その見返りで練習を付けて貰った。

昭和五年に湯河原にも見番が出来、おかめも遊芸から芸妓の鑑札に書き換えた。
見番が出来ると、ちゃんとした師匠に芸をつけてもらえたが、この費用は芸妓持ちだった。

東京の一流芸者は長唄なら長唄、常磐津なら常磐津一本の芸を磨きその道のスペシャリストを目指すが、温泉芸者はお客の要望に沿って何でも覚えなければならない苦労があった。

昭和七年頃から奥湯河原にも大型旅館が建ち始め、おかめも湯河原で独立する。

昭和十年から湯河原は急速に発展、全国の遊里も好景気で活況、昭和十三年にピークに達し、この傾向は昭和十六年の開戦まで続く。

湯河原の芸者数がピークに達したのは昭和四十五年頃、目に見えて下り坂になってきたのが、昭和五十六年頃で、おかめさんにとって、お座敷遊びがカラオケにとって替わられたという印象が強い。

名妓と呼ばれ、三味線の名手であったおかめさんが見てきた大正、昭和の湯河原の推移は、そのまま日本の多くの温泉花街が歩んだ道と重ね合わせる事ができます。


by gionchoubu | 2014-11-14 16:14 | 遊廓、花街の類形 | Comments(5)