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カテゴリ:京都の花街・遊廓( 112 )

中書島遊郭の歴史 その八

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昭和31年6月4日の京都新聞

『廓の作者 西口氏の場合』

『春の宿が下宿屋に転業』

『父祖の商売を捨て』

『接客婦も管理人に更生』

売春防止法が成立、貸席業者の行方が注目されている際、ベストセラー“廓”の作者、西口克己氏(43)がこのほど中書島で経営していた貨席を下宿屋に転業したが、これは法案の成立後転廃業を迫られている業者に一つの行き方として注目されている。

西口氏の生家は著書“廓”に書かれているように明治三十九年から貨席“末広”を営んでいたが、西口氏“郭の子”としての劣等感に悩まされ、結婚、就職など日常のあらゆる出来事に苦い経験を味わい、また西口氏の思想的立場と相容れないところから早くから転業したいと思っていたが、資金に困り、家を売るにも引越料すら出ない安値をつけられるので行悩んでいたところ、著書“廓”がベストセラーになり、印税収入が入ったのを期に四月一日付で廃業、昨月二十五日から開業したもの。

改築には三十万円をかけ、屋根、カベなどを修理、部屋は八畳(元散財部屋)一間、四畳半十三間、三畳三間をそのまま使い、月千五百~二千五百円ですでに独身の会社員二人が入っており、学生数人の申込みもある。

また最盛時八人いた接客婦たちも廃業時には三人になっていたが、二人は生業資金をもらって故郷に帰り、残ったK子さん(25)は管理人として新しい人生へ再出発。生きがいを見出している。

西口氏は「下宿をやってもうけようとは思わない。実情に応じて部屋代は安くすることも考えており八畳は入居者が集まって読書会などをやるために残している。

この部屋で入居者たちと話し合ったり、時には巡回映画をやりたい。」と将来のプランをたてているがこの西口氏の転業に中書島遊郭内六十軒の業者たちは

「転業は考えていても資金繰りでいき悩んでいる。赤字でも店を閉めれば倒れるので政府の援助がきまるまでは石にかじりついてもやって行かねばならぬ」と冷たい眼で見ているものの「二年後に転業する時の一つのケース」として注目している。




by gionchoubu | 2019-06-16 11:17 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

祇園のお化け、ひょっとこ踊り

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明治三十八年、島原角屋の十二代中川徳右衛門が出した『娜婀娵女』(はなあやめ)に節分の夜の見出しが有り

“節分の夜、土龍(もぐら)のもたぬ呪なりとて、太夫より端女郎、禿、仲居に至るまで思い思いの異装をこらして五人、十人団体を組み手に手に鉦太鼓を打ち鳴らし「土龍殿は家にか、海鼠(なまこ)どののお見舞いじゃ」と囃したてヽ家々に入り、裏まで通り抜けて踊り狂ひ、賑かに其夜を徹したり。今の節分の夜に芸娼妓や少女が丸髷に結ひ代へ、年増や老婆が島田に結ひて壬生の地蔵に詣でづるは此習慣の遺りしものなり。”

私が節分の花街おばけを島原発祥と信ずる所以となります。土竜は農作物の大敵、土竜の天敵とされる海鼠で土竜を退治する・・・と言った意味を持つのでしょう。

さて、昨晩夜8:30に辰巳神社をお囃子たてながら、奇妙な踊りに狂じながら祇園町を練り歩く、おかめ、ひょっとこ、稲荷の集団がありました。

これならモグラも悪霊も恐れおののき悪さは控えるはず、私はここに本物のお化けの精神が宿ると感じ、この異形の一行を追いました。

実は私も一人おばけの姿で祇園町を歩きました。

昭和初期、娼妓が週一健康診断(性病検査)で訪れる今は無き八坂病院の横の電信柱に身をひそめ、これといった娼妓に声をかけ、橋本遊廓への鞍替え、引き抜きを目論む小悪党の姿で・・・

誰にもわかって頂けないだろうと虚しいうすら笑いを浮かべながら・・・
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by gionchoubu | 2019-02-03 12:24 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

橋本遊廓ぞめき その九




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赤線業者は儲かるのか?この素朴な疑問に対しての答えはやはり儲かる・・・というのが昭和29年の4月6日京都新聞山城版を見ると如実に分かります。


「横綱は席貸業者 洛南の高額所得者決る」の記事よると

山城田辺税務署が昭和
28年度分営業所得者1,366人のうち百万円以上の高額所得者13人を発表したところこのうち10人までが八幡町橋本の席貸業者でした。

  1. 席貸、八幡町 1,718 (単位千円)

  2. 席貸、八幡町 1,569

  3. 肥料、精華村 1,501

  4. 席貸、八幡町 1,491

  5. 席貸、八幡町 1,423

  6. 席貸、八幡町 1,338

  7. 席貸、八幡町 1,258

  8. 席貸、八幡町 1,136

  9. 席貸、八幡町 1,130

  10. 酒造業、田辺町 1,107

  11. 席貸、八幡町 1,080

  12. 織物、上狛町 1,033

  13. 席貸、八幡町 1,018

    『八幡市誌』によると八幡市の橋本遊郭の廃止で三百万、年間町民税の三分の一が減少したと言います。

    正確にいうと橋本も含め昭和二十一年をもって遊郭制度は廃止し所謂赤線として営業していました。

    つまり遊郭業者は特殊飲料店で公娼であった娼妓も従業婦となり、表向きは

    * 外出や遊びは自由で休日も拘束されることがない

    * 借金と売春は全く別で売春を強要する制度はない

    * 互い(業者と従業婦)に決めた歩合制度があり接収はされない。

    しかし地方の業者は都会の業者ほど時代に敏感でない者が多く、旧態依然のままで大っぴらに前借で女を抱え一人月に数千円の稼ぎの内女性たちには一パーセント位しか与えなかったといいます。(『日本売春史・考』吉田秀弘著)


by gionchoubu | 2019-01-14 12:19 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

京都の花街の舞踊

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                 四条河原町、六条三筋の遊女の舞い

大正十二年二月一日号の『技芸倶楽部』に日本の舞踊と京都の舞踊の歴史が詳しく出ていましたので紹介させていただきます。

日本の舞踊の根源は天照大神が天岩戸にお篭りになった際、その注意を惹きたもうため天細命(あめのいずめのもこと)が舞い歌われたことで始った事から神楽舞、田舞(たのまい)来目舞(みめまい)倭舞、東舞(あずままい)吉志舞(きしまい)小懇田舞(をはりだのまい)隼人歌舞、五節舞、鳥子名舞、筑紫舞、殊舞(たつのまい)

等でこれが祇王、祇女、佛御前、静御前などの白拍子の舞巧者に繋がりました。

その後慶長年間に出雲の阿国が神楽舞を崩した“やや子踊”を五条河原で興行し人気を博し、その後名護屋山十郎と馴染みになり二人共稼で三条川東に舞台を移しました。

この阿国歌舞伎が江戸に渡り江戸歌舞伎の根源になり、猿若の舞、志賀山の踊りとなり水木、藤間の諸流と別れました。

その頃京の舞は舞芝居の名の元に大頭舞(おおがしらまい)の余流を酌むものが幽かに命脈を保ち、男舞としては寛文中に御免の名代として仕形舞太夫(しかたまいだゆう)が正徳、享保中の頃四条河原で興行しました。

寛文七(1667)年に大頭柏木(おおがしらかしわぎ)が女舞御赦免となり代々名代となり、これらの余流が弟子をとり盛んに稽古をしたのが元禄時代なので京都の舞踊は元々曲舞から出たものでありました。

此処まで読むと、篠塚流や井上流が現われる1800年頃以前、島原も祗園も大頭舞だったのでしょう。

それでは篠塚が現われて大正十二年までの花街の舞は/で区切っています。

上七軒 篠塚流→篠塚流と花柳流/→花柳流

先斗町 篠塚流+井上流→篠塚流+若柳流/→尾上流

宮川町 篠塚→楳茂都流/→若柳流

島原 篠塚流(一時井上流入る)→西川流/→花柳流

北新地(五番町)篠塚流

七条新地 篠塚流

祗園乙部(祗園東) 井上流→藤間流

祗園甲部 篠塚流+井上流→井上流

伏見中書島 篠塚流





by gionchoubu | 2018-09-04 12:18 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

橋本遊郭ぞめき その八

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昭和33年3月15日 京都新聞より

赤線きょう千秋楽 あすから消える“橋本の灯”千二百年の歴史に幕 貸席組合は大衆温泉へ衣がえ

全国の赤線はきょう十五日で姿を消すが、八幡町の橋本遊郭も一斉に店じまい、十六日午前十一時からは組合講堂で業者と授業婦が集り「橋本遊郭解散式」を行うことになった。同遊郭の生れたのは神亀元年、これで千二百年三十余年の歴史に終止符をうつ。

同遊郭には現在七十八業者があるが、うち十七軒は従業婦が一人もおらず、このところ開店休業の有様―。しかし営業しているというものの、引手を出せないためか最近のお客は顔なじみもお得意ばかりなので、楼主の方も最後とあって花代を割引したりしてサービスに努めている。

また中には、料理屋への転業準備にかかり、店先には部屋つくりの砂や大工道具が置かれ、職人が昼夜の別なく出入りしているなかで客をとる風景もみられるがさすがに転業を控えてあちこちの電柱には従業婦の職業に一役かってか「求女中」や「仲居募集」の広告がはってある。

一方橋本貸席組合(増田末吉組合長)では、いまある組合講堂を利用して大衆的なラジウム温泉にすることを決め、組合員らの共同出資で経営することになった。

ラジウム温泉の計画は、橋本の地を大衆的なものにしていこうというところから考えられたもので、岐阜県多治見市の某鉱山会社の協力を得てラジウムを含んだ砂を買い、いまある役三百坪の講堂を改築して砂フロや温泉を造ろうというもので転業後の橋本に活を入れるものとして期待されている。

そして二日後の十七日の京都新聞では

『立派に更正して 八幡 橋本遊郭の解散式』

綴喜郡八幡町橋本遊郭従業婦互助会(高熊夏江会長、会員二百二人)の解散式は十六日午前十一時半から貸席組合講堂で行われ、千余年の紅灯の灯を消した。

この朝、従業婦たちは朝ブロで身を清めたのち、二百人のほとんどがフリ袖姿の和服会場に集った。

まず来賓として田辺警察署長、府婦人相談員らから「立派に更正して下さい」とお祝いの言葉が述べられ、また高熊会長は涙を浮かべながら「善悪は別として永年住みなれたこの地もきょう限りと思うともう胸がいっぱいになって・・・・。これからはどんな惑いにも負けず強く生きて行きましょう」とあいさつ、別れを惜しむ従業婦たちで一時は沈黙が続いた。

最後に立派に更正をするため万歳を三唱した。なお同貸席組合(増田末吉組合長)から従業婦らに帰郷費として一人二千円、同互助会から九百円の二千九百円が贈られた」。





by gionchoubu | 2018-05-25 15:09 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

亀岡の花街 芸者スト 円満解決

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                      亀岡の花街のあった辺り

全国に大きな話題をなげ、さる七月九日に一応解決をみた亀岡芸者ストは、その後も感情のもつれたまま百五十日近くも一部芸者がボイコットされるなど未解決のまま尾を引いていたが「市の発展のためにも」と自らあっせんを買って出た大槻市長らの努力で十八日夜ようやく解決、近隣から注目されていた“赤い気焔の争議”に終止符をうった。

同、11月30日より抜粋

本月十八日午後六時から市助役式で

* 料理業者は各人に置屋の開業を認める
* 開業の権利を受ける為には規定の入会金、出資金(計四万)を払い検番に加入するとの条件で円満解決をみた。

同、11月22日

『和気あいあい 亀岡の検番発表会』

亀岡の芸者スト問題も大槻市長らの調停斡旋によりさる十八日円満解決をみたが、二十二日朝十一時から同市北町楽々荘で晴れの検番発表式が大槻市長、人見府亀岡事務所長らを招き行なわれた。

この日百四十余日の暗雲もカラリと晴れたねえさんたちもあでやかな姿をみせ、市長らと和気あいあいの空気をみなぎらして、“これからおたがいに手と手をとって街発展の為に努力しましょう”と誓いあった。

なお役員は次のように選出。

理事長=中田正平、専務理事=中沢治一、理事=内田庄太郎、川島宗次、奥村喜一郎、中西完治、竹岡まき、監事=奥田民夫、上原やえ

11月30日の京都新聞に『亀岡芸者ストを顧みて』『封建制打破できず 幹部の座敷止めで暗礁に』の表題で、この五ヶ月に渡る全国的にも異例の芸者ストライキの顛末が載っており、結論として最後に亀岡芸者による“花街に残る封建制の打破”の意気込みに対して“大した効果はなかった”としています。

そして調印の席に列席の法務局の一係員の「大切なのはどちらが勝ったということではなく、円満に握手したいということだ」という見方を紹介しており、今回の長い争いを今後の民主的な業界発展の貴重な試金石としてほしいところであろう、と記者は無難に結んでおります。





by gionchoubu | 2018-04-21 11:51 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

亀岡の花街 芸者スト 余波再燃

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          当時の検番理事長は楽々荘のご主人

昭和三十年九月十二日京都新聞夕刊

『亀岡芸者ストの余波再燃 雇仲居をボイコット 人権擁護委も乗り出す』

全国でも珍しい争議として注目された亀岡芸者二十数人の一斉ストは去る七月円満解決をみたが、その後スト当時のリーダー格五人が就業をボイコットされ、このため「何とか自活の道を」と考えた当の芸者が雇仲居を始めたところ、再び料理業者から“就業締出し”をくらい“ダブル・ボイコット事件”として注目を集め、遂に人権擁護に乗り出した。

この芸者争議は去る七月一日から花代の分率引上げ、待遇改善などを要求して一斉ストに突入、九日目に木村亀岡市会議会議長のあっせんで解決したが、同月中旬に開かれた置屋六軒、料理屋十二軒による新検番発足の経営者会の席上、同月十五日から平常通り就業させるが、スト当時のリーダー格の山本たに、白石はな、森田ちよ、山本福子、松本久子の五人はカ業させない旨の申し合わせを行った。

このため五人は事実上芸者廃業で自活の道をふさがれたため、八月二十五日五人が中心となって花代もチップ制に切りかえて芸者の半額程度とし、雇仲居を開業した。しかしこれに対しても料理業者の態度は相変らず冷淡でとくに市内五料理業者は絶対カ業を許さぬという強硬態度でたとえ客と同伴で来た場合でも客と同じ料理を出して仲居として認めないなどのいやがらせをするなど、完全なダブル・ボイコットを行っており、雇仲居に同情してカ業させた某料理屋業主は「規則を破った。それでも男か」とツルシ上げられた例もある。

このため五人の仲居さんは「このままでは干上がってしまう」とふんがい、一方事態を重視した京都地方法務局支部の人権擁護調査員も“労働権に対する侵害”“差別待遇”の両面から本格的な調査に乗り出し、すでに二、三の料理業種、三人の仲居さんから事情を聴取しており、近日中に結論を出すもようである。

しかし業者、仲居双方が感情的に対立を続けているので、このままでは早期解決は望み薄とみられている。

検番理事長中田正平氏(楽々荘経営者)の話

われわれ業者の考えは間違っていない。こちらが人権擁護をしてもらいたい位だ。スト当時の責任上、非は雇仲居の方にある。人権擁護調査員の方でもわれわれ全業種の意見を聴いてほしい。

雇仲居奥田ちよさんの話

私たちの最後の生計の道まで封じてしまうのはひどすぎます。業主や芸者さんに道であっても口一つ聞いてもらえず、まるで罪人扱いです。

京都法務局村田園部支局長の話

今の段階は調査半ばで何ともいえない。早急に各方面の調査をして結論を出したいが、何とか円満解決に持って行きたい。場合によっては行政勧告もありうる。






by gionchoubu | 2018-02-07 11:37 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

亀岡の花街 芸者スト 後半

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                  昭和三十年七月六日の京都新聞の夕刊

前回の新聞の見出しで“さりとは辛い”とあったのは、以前遊郭で起きた事件(諸説あり)で流行った歌の文句から来ています。これを東雲節といい

自由廃業で廓は出たが
 ソレカラ、ナントショ
行き場がないので屑拾い
 ウカレメのストライキ
サリトハ、ツライネ
テナコトオッシャイマシタカネ

が由来となっています。

昭和三十年七月六日の京都新聞の夕刊に『悩ましきスト』の記事が載ります。

「“お座敷スト”といってもなやましいアレではない。(注・お座敷ストリップの事)“待遇改善”“花代据置反対”の赤い気えんをあげている亀岡芸者組合のスト。“東雲のストライキ”を地で行く素顔のストだ。昨年綾部の芸者ストで取引停止となり“労働者”側が惨敗した実例もあるので彼女達は真剣。商売道具のお座敷着を売るぐらいは初めから覚悟の上とか、悲壮なものだ。」

そして前回載せた新聞記事となります。その後のなりゆきは

七月八日の夕刊で

『転籍認めよ 亀岡芸者ストさらに複雑化』

「花代引上げなどを要求して一斉休業を続けている亀岡芸者組合問題は木村同市会議長が調停あっせんを行っているが、六日行われた置屋組合側の
*芸者組合長を各種会議に出席させ発言を認める。ただ新組織の検番への加入などは認めない
*花代手取り二十二円は二十三円に引上げるが、現在行っている温習会天引き積立(一本につき一円)は中止するなどの回答に対し、芸者組合側は誠意が認められぬとして、

さらに七日

* 花代手取り二十三円は認めるが温習会積立は続けて欲しい
* 新組合の置屋組合の店借料月五百円は承服できぬ
* 置屋間の転籍を認めて欲しい

と要求、事態はますます複雑悪化してきた。なお組合では一斉休業に行動をともにしなかった四人の芸者を同日除名処分に付した。」

そしてとうとう七月十日の新聞で

『芸者スト解決 認められた花代値上げ』

「さる一日以来人権擁護、花代分率の引上げなどを置屋組合に要求して一斉休業を続けていた亀岡芸者組合全員二十三人(うち四人不参加)は亀岡市会議長に調停方を依頼、五日以来同氏は両者の間に立って調停をすすめていたが、九日午後一時から検番で木村氏、置屋、芸者に大槻市長も顔を出して

芸者側要求の花代普通一本六十円の手取り二十二円を二十四円に引上げてほしいに対し二十三円とするほか、転籍は自由に認めて欲しい、十六ヶ月以上、他に移っていたものは認めるなどの最後的回答を、近く発行する新検番設立準備委員長中田正平氏が行った。

これに対し芸者組合側では要求の大半が通ったのでこれを了承し円満解決した。」

今回の一連の事件経過報道でで、図らずも亀岡花街における検番の確認、芸者はお茶屋でなく主に料亭に入っていた事、さらに芸者組合の存在確認、温習会まで催していたことが分かりました。



by gionchoubu | 2018-02-04 12:40 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

亀岡の花街 芸者スト 前半

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                 写真はロウ城をつづける芸者たち

昭和三十年七月七日の京都新聞

『紅いスト・亀岡版』『晴着売っても』『さりとは辛いロウ城戦』

「みなさん。さきほど料理組合の方から“余り我をはらずこの辺で・・・”と言ってきましたが、私達はあくまで初志貫徹のため闘うべきだと思いますが」

「異議なし」「当り前ですワ」盛んな拍手と黄色い声援が飛ぶ。去る一日から三味を捨て、お座敷着を脱いで無期限ストに突入した亀岡芸者組合(山本たに組合長、組合員二十三人)の組合大会風景だ。

スト大流行の世の中だが、芸者ストは福岡、金沢、綾部について全国四番目という。

これは「待遇改善、花代据置反対」などの要求項目のかげにひそんでいる“人権無視への闘い”と置屋女主人との“感情的対立”をはらんだ「東雲(しののめ)のストライキ亀岡版」―。

ことの起こりは亀岡市置屋組合(加盟店六軒、内田庄太郎組合長)が一日から検番を料理業組合(加盟十二軒、中田正平組合長)との共同経営とし、花代を一時間三本(百八十円)から四本(二百四十円)にしたが、芸者の手取りは手数料等差引かれて一時間十七円十銭と据置かれた事から日頃の不満が爆発した。

ネエさん達は一日朝置屋組合に

1、芸者の手取りを花代の値上げと同率の約二割五分引上げよ
2、組合員を検番に参加させよ
3、検番行事はあらかじめ組合員と話合え
4、組合員の慰安行事をせよ、

等の要求書をつきつけ山本組合長宅にロウ城

1、 料理業者と置屋業者が共同経営する検番に業者でない芸者は加わることは考えられぬが協議してみる
2、 検番会議に芸者の列席と発言権は認めるが議決権はない
3、 花代は有利になるよう考慮する
4、 慰安会は用意しているとの回答を受けた。

しかし置屋を飛び出しわずかな見回り品と毛布などを持ち込んでロウ城までした強硬態度のうちにはもっと深刻な生活がひそみ、女の感情問題も顔をのぞかせているようだ。

置屋では六畳一間で月千五百円の間代それに食費三千円、雑費などを含めて月五千円を支払っている。しかも大ていお座敷で食事をするので食費の負担は痛い。

一方手取り平均一万円前後という。いくら田舎芸者でも衣装は商売柄だけにチャチなものは着られず、パーマ代、履物、化粧品と数えれば月五千円では切り回せるハズがない。

しかも組合員の大半が子供や老いた両親をかかえた一家の大黒柱。「お座敷着を売ってでも要求が通るまでがん張らなくては」という悲壮な決意もうなずける。

更に内田置屋組合長を除いて五軒の置屋は女主人、ちょっと不平をいおうものなら「文句があるなら出てお行きっ」といったあんばいでこんどのストもこの大家と店子的な潜在感情が無意識のうちにつもった結果の現れだと見る向きもある。

交渉は二日正午物別れとなったまま具体的な話合いは行われておらず五日夜木村亀岡市会議長があっ旋に入ったが芸者側は初志貫徹まではと依然強腰だ。

置屋組合側の回答書で「これに不満なら亀岡芸者を入れ替えることも考えている」とのクギが一本さされているのに対し「イザとなれば引き払って京都市内にでもいきますわ」の覚悟の程を示してはいるが、ひいき客や料亭に迷惑をかけているのが気がかりだとさすが人気商売だけに悩みもちょっぴり。

このストが果して置屋側に猛省をうながす機縁になるかわどうかは別にして、ハデで陽気な芸者家業もストをやらねば食えぬ時世―“さりとは辛いネ”の名文句がしみじみ胸をつく。



by gionchoubu | 2018-02-01 11:35 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

橋本遊廓ぞめき その七

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                 橋本程貸座敷と駅の距離が近い遊廓は無いと思います。

昭和三十年十二月二日、橋本遊廓の貸席、初菊の花子という接客婦が、自室で死亡、医師は衰弱死の診断を下しました。花子は同年一月二十日、ブローカーの紹介で前借一万円で初菊に雇われ、十一月二十八日廃業届けを出した後すぐ死亡したことになります。

死亡した時は、衰弱しているにも楼主から客を取ることを強要され、充分な食事を与えられず酷使され、医者にも診せられず、楼主からスリッパで殴られ、暴行されるのを近所の人が仲裁に入り止められた事もありました。

この事件が新聞に報道されたのがきっかけとなり、府婦人相談所の相談件数が増加の一途を辿ったといいます。

以上は錦織剛男著『遊女と街娼』に載る、売防法完全施行の少し前の橋本遊廓の話です。

もう一つ、昭和62年5月号の雑誌太陽で、作家の村松友視さんが『幻の橋本遊廓を行く 蘆刈夢幻』で、橋本の旧貸座敷で旅館業を営む女将からお話を伺っています。

「京阪が開通しましたんが明治三十九年やったかと思いますが、それから大阪のお客さんがおいでんなって。それまでは、ま、土着の人たちだけがお客さんやったんですわ、芸者もいましたしね。当時、大阪あたりでは写真で女の人を選んだそうですが、ここでは“照らし”ゆうて実物を見て相談できる。それでよう流行りまして、一時は八十何軒ありましたんです。もう川の流れみたいに男の人の流れができまして、私ら娘の自分は夕方になったら門へ出んような状態でした・・・」

大阪から京阪沿線で訪れるには、途中、枚方駅下車(現枚方公園駅)の桜新地もありますが、橋本の娼妓数は昭和の初めに500人弱と枚方の百人にくらべ約五倍、桜新地が枚方の町の一部に対し、橋本は下車後、10秒で妓楼という環境が整っています。

大阪は松島も飛田も新町も基本写真で娼妓を選ぶのに対し、桜新地も橋本も陰店というシステムで、直接、顔をみて敵方を選べるのが評判だった事が分かります。写真で娼妓を選ぶのは人権を配慮しての国の基本方針とされていますが、遊廓を公許にしておいて、そんな所に配慮しても主客転倒では無いのでしょうか?

“照らし”は普通、居稼の字を充て、客が娼妓の住む遊女屋に赴くことで、もう一つが“送り込み”、文字道理、娼妓が客の待つ貸座敷に送り込まれる事をいいました。

さらに、当時の娼妓や接客婦の話しになり、

「やっぱり九州が多かったですな、女の人はねえ。北陸の人も見えましたけど、やっぱり九州の女の方が情熱的でよかったのかしら、天草とかの人が多かったですね。でまあ、いまは旅館をやっているんですが、だいぶん有名なとこやったんで、やめて三十年にもなるのにね、男の人がひとりで入っておいでやすと、小指だしてねえ・・・・」

こういった男は、遊び人なのか、ちょっとお抜けになっておられるのか、何にも無い橋本で、ずいぶん淋しい一夜を過ごされた事でしょう。


by gionchoubu | 2016-12-01 12:22 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)