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カテゴリ:京都の花街・遊廓( 117 )

幕末の勤皇の志士と京都の花街 後編


幕末の勤皇の志士と京都の花街 後編_f0347663_14394650.jpg

それでは、当時の京都の遊廓の仕組みを書くと、まず頂点に嶋原があります。江戸の𠮷原、大阪の新町と並びその中で頂点に立つもので、幕府直轄で根本とされ、京都の他の遊廓は、例えば二条新地は島原の出稼ぎ(支店)いうステータスです。さらに二条新地の出稼ぎが先斗町です。同じように上七軒、祇園、七条新地などが嶋原の出稼ぎで、後の五番町は内野と呼ばれ、上七軒の出稼ぎ、宮川町は七条新地の出稼ぎというわけです。


嶋原遊女の最上級が嶋原太夫で、大名、豪商などが相手で、単に美しいだけでなく、踊り、演奏は勿論の事、茶、花、詩歌、俳諧、書道、文学、中には絵画まで達する者もいました。太夫を揚げるのに当時の庶民の給料一年分かかり、なにより揚げる方にも、教養、素養がいるので、一般人の手の届くとこには居りませんでした。

この太夫が、嶋原に移る前の六条三筋時代、出雲阿国の歌舞伎を受け継いだのがここの遊女で、これがあまりにセンセーショナルで、人身を大いに狂わせたので、幕府は体制維持の為、女性の演劇を一切禁止以後歌舞伎も男だけの世界になりました。

太夫を頂点として、嶋原には天神、鹿恋(かこい)、半夜、端女郎(はしじょろう)などの序列があり、鹿恋以下はいわゆる女郎さんでした。

この太夫は当初、高尾太夫の様に、江戸の吉原にもおりましたが、悠長な公家文化が馴染まなかったので、後に芸は見せない妓女、見せかけは同じだが、体だけを売る花魁になったのです。装束などが似ていて、太夫と花魁がそっくりなのはその為です。

さて幕末に時を進めると、長州の久坂玄瑞と嶋原の芸妓辰路の恋が有名で、角屋の敷地には、「長州藩志士久坂玄瑞の密議の角屋」の碑がたちます。

幕末の勤皇の志士と京都の花街 後編_f0347663_14400986.jpg

西郷隆盛などの勤皇の志士たちも、軍用資金調達の為、鴻池、加島屋などの豪商を角屋に招き、しばしば饗宴を催しました。

 輪違屋に桂小五郎の書がありますが、当時輪違屋は角屋の様な揚屋でなく置屋、現十代目御当主に伺ったところ、輪違屋の太夫が、揚屋で桂小五郎に書いてもらったとの事です。

幕末の勤皇の志士と京都の花街 後編_f0347663_14405456.jpg

その他にも角屋を密議の場などで利用した勤皇方には坂本龍馬、山縣有朋、伊藤博文、品川弥次郎、井上聞多、大隈重信、僧 月照などの名を上げられます。

一方、壬生の屯所近くの壬生寺の所に下等な壬生遊廓が明治初めまでありました。新選組が通ったという話は聞きませんものの、行ってないと考えるのも不自然です。上層部は行かなかったとしても、一部は通ったんじゃ無いでしょうか。

近藤勇や芹沢鴨は島原一等の揚屋である角屋に出入りしており、芹沢鴨は酒乱で、水口藩との宴会で、角屋の自分に対する扱いが悪いと暴れだし、鉄扇で手当たり次第什器などをたたき壊し、二階の手摺を酒樽に浸けるなど悪鬼のような所業で暴れまわった挙句、角屋の主人に一週間の営業停止を命じました。

この日、芹沢鴨は帰った後、女郎と同衾している所を近藤勇一派に粛清されました。

このまえ大阪の新町遊廓の、歌舞伎でも有名な名家吉田屋でも、自分の思い通りに成らなかった芸妓を、さすがに殺すことは出来ず、髪を切り落とす暴挙があり、角屋は吉田屋と親戚なので、急遽は早駕籠で芹沢惨殺を知らせました。

さて、幕府は、盤石の体制を揺るがすものあれば、西国大名と想定し監視を怠りませんでした。又内から体制を蝕むものとして、我々のイメージとは違い遊廓には大変厳しい態度で臨んできました。

これは実に的を得た慧眼と思います。しかし流石の幕府も西国大名の勤皇の志士たちが、まさか遊廓から昇華した都の芸妓と手をむすび、最後には江戸幕府に終止符をもたらすとは夢にも思わなかったのでは無いでしょうか。


by gionchoubu | 2021-02-06 14:43 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

幕末の勤皇の志士と京都の花街 中編



幕末の勤皇の志士と京都の花街 中編_f0347663_14193922.jpg
一力の玄関は画像のようにもともと四条通にありましたが、明治になり四条通でのお茶屋営業が禁止になった際、一力は幕末での勤王方への功績大ということで玄関を花見小路に移すことで移転を免れました。



とにかく江戸時代、京都は游所の多い所で、八犬伝の滝沢馬琴が京都に来た時、紀行文で「洛中半ば妓院」洛中は遊廓だらけだ、と嘆じていました。

先斗町の対岸の縄手は元々蛍茶屋という遊廓で、夜になると何処か人が来て、灯がともされたので、蛍茶屋というわけです。

三条大橋東詰めの壇王寺の裏も壇王うらという游所、その北の今の二条ジャスコあたりが二条新地、京都四大遊廓の一つで、ここ妾に茶屋をさせていたのが、勤皇方に蛇蝎のように嫌われていた目明し文吉で土佐藩の人に絞殺され、三条大橋で死体を下半身むき出しのまま晒されました。

悪賢い文吉は巧みに姿を現さないので、勤王方も知恵を絞り、新しい妓の披露のお祝いなら茶屋に姿を現すだろうと読んだのが的中、二条で捉えられました。

幕末になると、各藩の壮士は「酔うては枕す美人の膝、覚めては握る天下の権」といった気炎を上げ、京都の遊廓・花街で遊びました。藩の運動資金を使える上部の藩士は祇園・嶋原の芸妓と遊び、軽輩は五番町や七条新地で娼妓を相手にしました。

当時、一力のご主人、杉浦治郎右衛門が国士という事もあり、祇園は勤皇側でした。勤皇芸妓、君尾は長州系の見世(今でいう置屋)島村屋の芸妓で井上聞多と逢瀬を楽しみ、幕末史の一章を飾りましたし、高杉晋作は井筒の小梨花(こりか)、山県狂助は小菊、小蘭、小美勇、大久保一蔵(利通)は一力の養女と将来を誓い、のち第二夫人になりました。

西郷吉之助(隆盛)は奈良富の虎という巨漢の仲居をたいそう気に入り、歌舞伎の演目にもなっています。

伊藤博文は当時まだ俊輔と言われた若輩で、晋作や聞多が祇園の魚品で遊んでいる間、土間か何かで従者として控えていました。

明治になって、伊藤博文は全国の名だたる花街で遊び倒すわけですが、この魚品での忸怩たる思いが過ったのでしょうか、後に祇園で「祇園の芸妓は山家育ちばかりか」と言って君尾を当惑させたりしました。

一方佐幕側はどうでしょうか、池田屋事件の前、新選組隊士が島村屋、井筒など三軒の祇園のお茶屋に寄ってから向かったりとか、チラホラ話もありますが、圧倒的に勤皇方の話が多いのは一つは、疑似武士が中心の新選組とは違い、理想に燃え、教養もあり、所謂育ちがよい武士が、単純にもてたというのもあるでしょうが、明田鉄男さんが著書で、長州藩は京都人の評判をとる為に、思いっきり軍資金を京都に注いだと書いています。

花街の人たちは、理想だけで、男に靡くわけがないという事でしょう。

京都でも祇園周辺は特に遊所が多く、鴨川の東側で言うと北から、上記の二条新地、頂妙寺新地、檀王裏、縄手、東石垣(とうせき)、そして宮川町が一丁目から七丁目まで続きました。西側は丸太町の上の(東)三本木、上木屋町、先斗町、西石垣、五条橋下(五条楽園)、米の集積地であった六条新地だけ飛ばし、七条新地と両ラインとも游所でした。

ご丁寧なことに、五条河原や三条河原は惣嫁(そうか)という最下層の遊女がおり、河原の石を組み場所を整え売春をし、朝になれば

その石を崩しどこかに消え、夜になれば又現れました。惣嫁は関西で使われた言葉で、江戸で言う夜鷹です。


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by gionchoubu | 2021-02-05 14:22 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

幕末の勤皇の志士と京都の花街 前編

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幕末の勤皇方、佐幕側と京都の花街の関わりを見てみると、映画でも、小説でもなんでも、まず思い浮かべるのは三本木の芸妓幾松と桂小五郎のロマンスでしょう。


100冊この関係の本を読むと100冊とも芸妓幾松・・・と書かれていますが、実は芸妓幾松は存在していませんでした。何を馬鹿なことを、という声が聞こえますが、三本木は遊廓でなく、いわば町芸者の集団で、正確にいうと幾松は芸妓でなく、酌婦さんだったのですね。


廓芸妓は何かとしばりが多く、自分勝手な行動はとれません。そこえいくと比較的自由な酌婦だからこそ幾松は機動的な動きができたと考えることも出来るのです。


さらに幾松の母親も幾松の名で三本木に出ていましたので、話の幾松は二代目になります。幾松は小浜藩の娘、藩士の娘でしたので、肝も据わっており、小五郎もそういう所に惚れたのでしょう。


あまり話には出てきませんが、近藤勇は三本木の駒野と親しくなり、後藤像次郎も“いろ”という妓に通い詰めたといわれています。


ちなみに四条通、南座近くに幾岡屋さんという舞妓さんの小物などを扱っている店がありますが、これは明治の初めに創業者が幾松の幾をもらって付けました。


三本木は東三本木とも言い、丸太町、鴨川すぐ西の通りで、今でも頼山陽の山紫水明荘があり、その北側にあった吉田屋のあとが清輝楼になり、そのあと明治三十三年に中川小十郎がその二階で京都法学校を立上げました。


先斗町は江戸期、現在の四条通りが拡張前は縄手通りほどの道幅で、今の斎藤町も先斗町でした。ちもとさん当たりが花街っぽいのはその為で、その南は五条新地までやはり西石垣(さいせき)という遊廓でした。


先斗町は、三条側から一番、二番と数えますが、以前は南から数え、両側の露地の数が五十四あり、これは長州藩が待ち合わせなど、新選組などを晦す目的で、便宜上一番、二番と呼んだと言われています。


先斗町は土佐藩邸も長州藩邸にも近く、船運の高瀬川の舟入、三条は東海道五十三次の終点でもあり、大阪までの五十七次の中継点でもあり、宿屋や材木商で随分人通りが多く、先斗町、中木屋町は幕末には勤皇方の拠点であったはず。池田屋も言わば自分たちの庭みたいな感覚だったのかもしれません。



先斗町ももとは綿帽子という、長逗留の商人の、一種の宿場女郎から花街に転じた所ですが、京都の花街の中では公許になったのが、安政時代と一番遅く、これはその土地の利便性が過ぎたため、風俗取り締まりの為と私は考えています。


明治五年には鴨川踊りを催しているので、幕末には芸妓中心の花街になっていたはずです。

その時代、後藤象二郎は先斗町の小仲と親しみ、後に正妻に迎え、「京の三条のすし屋の娘 今じゃ参議の御台様」とうたわれました。


ちなみに鴨川踊りは明治の途中まで、今の新京極を少し四条から上がった「うすさまの厨子」というところで催されました。


by gionchoubu | 2021-02-04 12:23 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

橋本遊郭、旧三枡楼

橋本遊郭の旧三枡楼が、マッサージの「漢方エステ天寿」と旅館「橋本の香」として生まれ変わりました。現オーナさんの努力で素晴らしい状態で保存されてします。
予約は090-8375-8761です。解体された歌舞練場はその後天寿荘の時代がありましたので、ここに名前を留めました。とにかく何度訪れてもため息がでます。
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最初帳場?とかきましたが、実は陰店で、遊客はここで女を選びました。そして何時でも外から女を選べる張店に変更できる構造です。

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靴箱
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                                 かつての洗面
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庭を見ながら・・・しゃれてますね。
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                                  夜灯りが燈ると
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                                   二階です。
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           夜お願いして電気をつけてもらいました。左端は色ガラスに電燈が無いので別電源を当ててもらいました。

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                                   客室は大変綺麗です。

by gionchoubu | 2020-10-20 17:03 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

裏寺の盆屋

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昭和32年11月26日の京都新聞夕刊の『都大路 裏寺町通 お寺の軒先に酒場 ただよう庶民の哀愁』の欄があり、新京極の盆屋の情報が載ってました。

~略~

「このころ、“ぼんや”とよばれる出会い茶屋があった。いまの連れ込み宿、温泉マークの草分けである。

室町の呉服問屋付近のよろめき婦人と番頭らが、道ならぬ恋のために利用したそうだ。

当時新京極には明治座、中座、朝日座、京都座などの芝居小屋があった。芝居見物に来たよろめき婦人が、付添いの女中をまき、得意先まわりの番頭がデッチに小遣をやって遊ばせて二人だけの逢瀬を楽しむ、絶好の地理的条件をそなえていた。

“ぼんや”の構造は変っている。ノレンをくぐるとすぐ段バシゴがあって二階には寝具を用意した四畳半があった。

この家の主人も女中も決して顔を見せず、ゲタの音を聞きつけてあいさつ、お茶もフスマの外に女中が声をかけて置いて行く。

お客も用事がすめば茶ボンになにがしか金を置いて帰る。だれにも知られず、事がはこんだわけだ。後のこの“ぼんや”に女を置いて客の好みによってアルバイトの女店員らがお相手を努めた。

“よろめき夫人”も“お座敷喫茶”も戦後の産物のようにさわがれているが、明治のころの大人たちも結構楽しんでいたわけだ。

大正の終りごろ、このような商売は姿を消した。建物は今も残っており旅館“相生”が当時の面影を残している。」

(ただし昭和三十一年の住宅地図ではこの相生は確認できませんでした)

ちょうど新京極から盆屋がなくなる頃の記述がを『全国花街めぐり』で松川二郎が述べています。

「京極の裏町にはボン屋といふのがあって、まるで西鶴そのまゝであった。淡い蝋燭の光の中で、牛屋の女中や小料理屋の女中と出会うのである。

例のつかみ取りといふ奴で(六字伏字)である。

そこへは随分変った女が出入りしてゐた。善哉屋の小婢、芝居の中売り、洗濯女、煙草屋の娘、さういふ種類の女が五円くらいな金で。一番をかしかったのは鉦たたきの尼であった。

頭はぐりぐり坊主で、薄よごれのした布子を着て、白木綿の細ぐけをしめている。『町方はんどすか』なぞと云って汚れた歯を出して笑う女をみたら、大がいの人は深刻さに慄へあがるであろう。

家が一円、女は二円だった、無論泊りではない。」



by gionchoubu | 2019-08-29 11:29 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

中書島遊郭の歴史 その八

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昭和31年6月4日の京都新聞

『廓の作者 西口氏の場合』

『春の宿が下宿屋に転業』

『父祖の商売を捨て』

『接客婦も管理人に更生』

売春防止法が成立、貸席業者の行方が注目されている際、ベストセラー“廓”の作者、西口克己氏(43)がこのほど中書島で経営していた貨席を下宿屋に転業したが、これは法案の成立後転廃業を迫られている業者に一つの行き方として注目されている。

西口氏の生家は著書“廓”に書かれているように明治三十九年から貨席“末広”を営んでいたが、西口氏“郭の子”としての劣等感に悩まされ、結婚、就職など日常のあらゆる出来事に苦い経験を味わい、また西口氏の思想的立場と相容れないところから早くから転業したいと思っていたが、資金に困り、家を売るにも引越料すら出ない安値をつけられるので行悩んでいたところ、著書“廓”がベストセラーになり、印税収入が入ったのを期に四月一日付で廃業、昨月二十五日から開業したもの。

改築には三十万円をかけ、屋根、カベなどを修理、部屋は八畳(元散財部屋)一間、四畳半十三間、三畳三間をそのまま使い、月千五百~二千五百円ですでに独身の会社員二人が入っており、学生数人の申込みもある。

また最盛時八人いた接客婦たちも廃業時には三人になっていたが、二人は生業資金をもらって故郷に帰り、残ったK子さん(25)は管理人として新しい人生へ再出発。生きがいを見出している。

西口氏は「下宿をやってもうけようとは思わない。実情に応じて部屋代は安くすることも考えており八畳は入居者が集まって読書会などをやるために残している。

この部屋で入居者たちと話し合ったり、時には巡回映画をやりたい。」と将来のプランをたてているがこの西口氏の転業に中書島遊郭内六十軒の業者たちは

「転業は考えていても資金繰りでいき悩んでいる。赤字でも店を閉めれば倒れるので政府の援助がきまるまでは石にかじりついてもやって行かねばならぬ」と冷たい眼で見ているものの「二年後に転業する時の一つのケース」として注目している。




by gionchoubu | 2019-06-16 11:17 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

祇園のお化け、ひょっとこ踊り

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明治三十八年、島原角屋の十二代中川徳右衛門が出した『娜婀娵女』(はなあやめ)に節分の夜の見出しが有り

“節分の夜、土龍(もぐら)のもたぬ呪なりとて、太夫より端女郎、禿、仲居に至るまで思い思いの異装をこらして五人、十人団体を組み手に手に鉦太鼓を打ち鳴らし「土龍殿は家にか、海鼠(なまこ)どののお見舞いじゃ」と囃したてヽ家々に入り、裏まで通り抜けて踊り狂ひ、賑かに其夜を徹したり。今の節分の夜に芸娼妓や少女が丸髷に結ひ代へ、年増や老婆が島田に結ひて壬生の地蔵に詣でづるは此習慣の遺りしものなり。”

私が節分の花街おばけを島原発祥と信ずる所以となります。土竜は農作物の大敵、土竜の天敵とされる海鼠で土竜を退治する・・・と言った意味を持つのでしょう。

さて、昨晩夜8:30に辰巳神社をお囃子たてながら、奇妙な踊りに狂じながら祇園町を練り歩く、おかめ、ひょっとこ、稲荷の集団がありました。

これならモグラも悪霊も恐れおののき悪さは控えるはず、私はここに本物のお化けの精神が宿ると感じ、この異形の一行を追いました。

実は私も一人おばけの姿で祇園町を歩きました。

昭和初期、娼妓が週一健康診断(性病検査)で訪れる今は無き八坂病院の横の電信柱に身をひそめ、これといった娼妓に声をかけ、橋本遊廓への鞍替え、引き抜きを目論む小悪党の姿で・・・

誰にもわかって頂けないだろうと虚しいうすら笑いを浮かべながら・・・
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by gionchoubu | 2019-02-03 12:24 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

橋本遊廓ぞめき その九




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赤線業者は儲かるのか?この素朴な疑問に対しての答えはやはり儲かる・・・というのが昭和29年の4月6日京都新聞山城版を見ると如実に分かります。


「横綱は席貸業者 洛南の高額所得者決る」の記事よると

山城田辺税務署が昭和
28年度分営業所得者1,366人のうち百万円以上の高額所得者13人を発表したところこのうち10人までが八幡町橋本の席貸業者でした。

  1. 席貸、八幡町 1,718 (単位千円)

  2. 席貸、八幡町 1,569

  3. 肥料、精華村 1,501

  4. 席貸、八幡町 1,491

  5. 席貸、八幡町 1,423

  6. 席貸、八幡町 1,338

  7. 席貸、八幡町 1,258

  8. 席貸、八幡町 1,136

  9. 席貸、八幡町 1,130

  10. 酒造業、田辺町 1,107

  11. 席貸、八幡町 1,080

  12. 織物、上狛町 1,033

  13. 席貸、八幡町 1,018

    『八幡市誌』によると八幡市の橋本遊郭の廃止で三百万、年間町民税の三分の一が減少したと言います。

    正確にいうと橋本も含め昭和二十一年をもって遊郭制度は廃止し所謂赤線として営業していました。

    つまり遊郭業者は特殊飲料店で公娼であった娼妓も従業婦となり、表向きは

    * 外出や遊びは自由で休日も拘束されることがない

    * 借金と売春は全く別で売春を強要する制度はない

    * 互い(業者と従業婦)に決めた歩合制度があり接収はされない。

    しかし地方の業者は都会の業者ほど時代に敏感でない者が多く、旧態依然のままで大っぴらに前借で女を抱え一人月に数千円の稼ぎの内女性たちには一パーセント位しか与えなかったといいます。(『日本売春史・考』吉田秀弘著)


by gionchoubu | 2019-01-14 12:19 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

京都の花街の舞踊

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                 四条河原町、六条三筋の遊女の舞い

大正十二年二月一日号の『技芸倶楽部』に日本の舞踊と京都の舞踊の歴史が詳しく出ていましたので紹介させていただきます。

日本の舞踊の根源は天照大神が天岩戸にお篭りになった際、その注意を惹きたもうため天細命(あめのいずめのもこと)が舞い歌われたことで始った事から神楽舞、田舞(たのまい)来目舞(みめまい)倭舞、東舞(あずままい)吉志舞(きしまい)小懇田舞(をはりだのまい)隼人歌舞、五節舞、鳥子名舞、筑紫舞、殊舞(たつのまい)

等でこれが祇王、祇女、佛御前、静御前などの白拍子の舞巧者に繋がりました。

その後慶長年間に出雲の阿国が神楽舞を崩した“やや子踊”を五条河原で興行し人気を博し、その後名護屋山十郎と馴染みになり二人共稼で三条川東に舞台を移しました。

この阿国歌舞伎が江戸に渡り江戸歌舞伎の根源になり、猿若の舞、志賀山の踊りとなり水木、藤間の諸流と別れました。

その頃京の舞は舞芝居の名の元に大頭舞(おおがしらまい)の余流を酌むものが幽かに命脈を保ち、男舞としては寛文中に御免の名代として仕形舞太夫(しかたまいだゆう)が正徳、享保中の頃四条河原で興行しました。

寛文七(1667)年に大頭柏木(おおがしらかしわぎ)が女舞御赦免となり代々名代となり、これらの余流が弟子をとり盛んに稽古をしたのが元禄時代なので京都の舞踊は元々曲舞から出たものでありました。

此処まで読むと、篠塚流や井上流が現われる1800年頃以前、島原も祗園も大頭舞だったのでしょう。

それでは篠塚が現われて大正十二年までの花街の舞は/で区切っています。

上七軒 篠塚流→篠塚流と花柳流/→花柳流

先斗町 篠塚流+井上流→篠塚流+若柳流/→尾上流

宮川町 篠塚→楳茂都流/→若柳流

島原 篠塚流(一時井上流入る)→西川流/→花柳流

北新地(五番町)篠塚流

七条新地 篠塚流

祗園乙部(祗園東) 井上流→藤間流

祗園甲部 篠塚流+井上流→井上流

伏見中書島 篠塚流





by gionchoubu | 2018-09-04 12:18 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

橋本遊郭ぞめき その八

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昭和33年3月15日 京都新聞より

赤線きょう千秋楽 あすから消える“橋本の灯”千二百年の歴史に幕 貸席組合は大衆温泉へ衣がえ

全国の赤線はきょう十五日で姿を消すが、八幡町の橋本遊郭も一斉に店じまい、十六日午前十一時からは組合講堂で業者と授業婦が集り「橋本遊郭解散式」を行うことになった。同遊郭の生れたのは神亀元年、これで千二百年三十余年の歴史に終止符をうつ。

同遊郭には現在七十八業者があるが、うち十七軒は従業婦が一人もおらず、このところ開店休業の有様―。しかし営業しているというものの、引手を出せないためか最近のお客は顔なじみもお得意ばかりなので、楼主の方も最後とあって花代を割引したりしてサービスに努めている。

また中には、料理屋への転業準備にかかり、店先には部屋つくりの砂や大工道具が置かれ、職人が昼夜の別なく出入りしているなかで客をとる風景もみられるがさすがに転業を控えてあちこちの電柱には従業婦の職業に一役かってか「求女中」や「仲居募集」の広告がはってある。

一方橋本貸席組合(増田末吉組合長)では、いまある組合講堂を利用して大衆的なラジウム温泉にすることを決め、組合員らの共同出資で経営することになった。

ラジウム温泉の計画は、橋本の地を大衆的なものにしていこうというところから考えられたもので、岐阜県多治見市の某鉱山会社の協力を得てラジウムを含んだ砂を買い、いまある役三百坪の講堂を改築して砂フロや温泉を造ろうというもので転業後の橋本に活を入れるものとして期待されている。

そして二日後の十七日の京都新聞では

『立派に更正して 八幡 橋本遊郭の解散式』

綴喜郡八幡町橋本遊郭従業婦互助会(高熊夏江会長、会員二百二人)の解散式は十六日午前十一時半から貸席組合講堂で行われ、千余年の紅灯の灯を消した。

この朝、従業婦たちは朝ブロで身を清めたのち、二百人のほとんどがフリ袖姿の和服会場に集った。

まず来賓として田辺警察署長、府婦人相談員らから「立派に更正して下さい」とお祝いの言葉が述べられ、また高熊会長は涙を浮かべながら「善悪は別として永年住みなれたこの地もきょう限りと思うともう胸がいっぱいになって・・・・。これからはどんな惑いにも負けず強く生きて行きましょう」とあいさつ、別れを惜しむ従業婦たちで一時は沈黙が続いた。

最後に立派に更正をするため万歳を三唱した。なお同貸席組合(増田末吉組合長)から従業婦らに帰郷費として一人二千円、同互助会から九百円の二千九百円が贈られた」。





by gionchoubu | 2018-05-25 15:09 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)