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とし桃、とし愛、とし真菜、とし夏菜、君とよ、小よし


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2014、宮川町、とし桃
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ももちゃんすぐ目を瞑っちゃうのね・・・・
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2014、宮川町、とし愛
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2014、宮川町、とし真菜
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2014、宮川町、とし夏菜
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2014、甲部のまめ藤
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2014、宮川町、小よし

by gionchoubu | 2018-10-27 12:30 | Comments(2)

米子灘町遊廓ぞめき 四

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                  これと同じ大黒さんを福知山の猪崎新地で見ました。

鳥取県は、昭和二年、明治三十三年以来の娼妓取締規則施行細目を改正し、娼妓は昼間行き先を明示すれば外出自由になりました。

昭和五年刊『全国遊廓案内』の米子市灘町遊郭の欄には貸座敷三十三軒、娼妓は五十三人、陰店制で娼妓は送り込み制、そして三十三軒の貸座敷の名を記しています。

この中には『改訂米子の伝承と歴史』で料亭として書かれていた、田村、梅田、沖半が含まれておりますので、貸座敷の数から考えて娼妓と同じ位の芸妓がいたと考えられるので、この三軒は所謂お茶屋さんだったのかもしれません。

『公娼と私娼』昭和五年六月末の「貸座敷指定地調」でも貸座敷三十三軒、娼妓数五十六人とほぼ『全国遊廓案内』とほぼ同数を示しています。

昭和九年、鳥取県では明治三十八年の境、大正末年に倉吉の越殿町に続き米子も昭和十三年娼妓制から酌婦制に移行しました。

本来鳥取県の酌婦は「宴席に侍し、杯盤の斡旋をなすことを業とし、かつ歌舞音曲等、芸妓にまぎらわし所業をなすことを得ず」、というもの、文字通り考えると、世間話でもしながら只々お酌だけする職業という事になります。

しかし遊郭の中で芸妓と酌婦しか居ないなら酌婦に与えられた仕事は歴然としています。鳥取県は酌婦の名にかくれて、事実上は売春営業することを警察が黙認していました。

明治二十六年に公娼を廃止した群馬県でも、昭和五年六月現在、同県下に五十二箇所の乙種料理店(通称だるま屋)を指定地域として、乙種料理店三百四十八軒の中で私娼八百五十五人が酌婦の名目で客をとるのを県も警察も黙認していたのです。(『公娼と私娼』)

戦前、隠れ娼妓として酌婦が売春をしていたのは、遊郭指定地でない温泉地でも盛んに行われていた様で『湯河原温泉芸者一代記』井田真木子著にその様子が書いています。

『鳥取県史』では恐慌の影響とカフェーの発達に押されたことを、娼妓から酌婦に変えた理由に数えています。確かに昭和十一年に米子にカフェーが五十六軒、女給は百四十七人の記録がありますが、これには所謂喫茶店も含まれただろうし、恐慌とカフェーの蔓延は米子に限ったことではありません。

さらに酌婦への以降の理由は裏日本ならではの事情でした。それは表日本の遊郭が高い前貸金で裏日本の娼妓を取り込むことに対する対抗手段で地元保護政策だったというのです。

娼妓の年齢は十八歳以上と規定されたが、酌婦は十六歳からなれるので、年の若さで誘客を引き寄せることが出来る。さらに前借金が少なくすもので経営がやりやすかったから、と言われていました。

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by gionchoubu | 2018-10-26 16:18 | Comments(0)

とし愛、とし真菜、とし夏菜、とし純、とし智

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                     2014 とし愛
この頃ようやく外付のフラッシュライトを購入してバウンス撮影(フラッシュを天井に当て光が上から被写体に降りるので自然な被写体の撮影ができるようになりました。
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                    2014 とし愛
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                    2014 とし真菜
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                   2014 とし真菜
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                   2014 とし真菜

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                  2014 とし夏菜 襟替の日でした。
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                   2014 とし純
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                 2014 とし純、とし智

by gionchoubu | 2018-10-24 12:30 | Comments(0)

米子灘町遊郭ぞめき 三

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                      花薗町

ざっくりした言い方になりますが、京都の祗園も上七軒も先斗町も宮川町も大阪の北新地も南地も堀江も新町も遊郭と花街が混在して成立していました。このスタイルはほぼ日本の遊郭の普通の在り方でありました。尤も明治の終わりに北新地が芸妓一本の花街でやっていこうと娼妓部門を切り捨てたのが関西では遊郭から脱した尤も早い純然たる花街です。

それとは別に大都市としての需要を埋めるため、大阪では松島や飛田、京都では七条新地というほぼ娼妓だけの町が存在しました。

一方東京を見ると、赤坂、新橋、柳橋、駒込、根岸、神田、渋谷、白山、神楽坂・・・今ある花街ももうなくなった花街も誕生から芸者一本で娼妓がいなかったのが多数派で、新宿、品川、吉原、洲崎のように芸者、娼妓ともにお花をつけていたのは少数でした。

そしてこの吉原と洲崎の巨大遊郭に男性の欲望は吸い込まれていったのです。

名古屋も東京と似ていて、戦前十七あった花街、熱田連、和合連、盛栄連、中券、浪越連など多くが芸者町でその中で旭連(中村遊郭の一部)、南連などが少数の芸妓と多くの娼妓を抱えていました。

関西には大阪の南地五花街、京都の祗園、五番町のように甲乙制をとったところもあります。甲部は芸妓、乙部は一現茶屋や娼妓中心の町でした。

さらに中都市、小都市では浜松市、徳島市のように繁華街近くに花街、郊外に遊郭といった所がいくつも有り、これは風俗取締りの意味合いが強い都市政策の一環と考えられます。

前置きが長くなりました。

この米子の花園町と灘町の二つの名前を訝った人に、かつて、のぶログという遊郭関連のブログを独特の語り口と視点とハードワークで書き続けていたDJのぶさんがいます。

2011年4月15日、のぶさんは『米子界隈』という本に灘町とは別に「新地遊郭」が新しく出来たという記述に対し、当時経済的に米子に二つも遊郭を作る必要はないので、米子市民の回想などで記憶違いかもしれない、として灘町には芸妓が残り花街となり、娼妓のみ花園町に移り遊郭を形成した、と推測されました。

この推測過程には上記の知識がないと出てきませんので、与えられた情報の中で導かされた見事な推理だったと思います。

そして実際の答えは昭和十八年にだされた『米子市制十五周年史』にありました。

昭和十年一月一日に米子で大規模な町名変更と新町設定が行われ、その時旧灘町二丁目が灘町三丁目と花園町になったという実に、まさか・・・な出来事があったのです。

花園町=灘町二丁目だったのです。

花園町ネーミングの由来は「一帯の大半は遊廓地なる為花柳街を連想せしめる為命名したものである。」・・・大事な町名を変えるなら、もう少し気の聞いた名前があったのではないのでしょうか?

この昭和10年の町名変更に関してはやはり旧遊郭に強く足を踏みいれた,
~レトロな風景を訪れて~Nostalgic Landscapeさんが2017年5月20日に書いておられます。

ブログ諸氏のほうが『新修米子史』よりよっぽど頼りになりました。




by gionchoubu | 2018-10-22 12:40 | Comments(0)

米子灘町遊郭ぞめき 二

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『改訂米子の伝承と歴史』によると、明治十五年 灘町の吉祥院の検診所を置き、戸長が管理し、貸座敷取締人が事務をした、とあるので明治九年に不許可だった米子の遊郭も明治十五年には誕生していた事になります。

明治十七年に貸座敷業者が病舎をたてて県に寄付し米子検黴所ができ、明治三十三年に娼妓病院と改称、そして大正五年保健病院と再改称しました。

これとは別か同じか文面では判断できないのですが、大正十二年に灘町二丁目に貸座敷業者によって病院が建設され県に寄付、県が監督することになりました。

灘町には名月、松下、改良亭、田村、梅田、松屋、金水、おきはん等十数軒もの料亭があり、この中でも名月楼は一流どころで、芸者などもお高くとまっていたと言います。

『鳥取県史』によると大正二年に灘町から町はずれに移転してここが新地とよばれる様になったと記されております。

大正十三年刊『米子案内』でもともと市内にあった遊郭で娼妓が昼間に街中を闊歩するので、風紀上好ましくないとして大正元年に遊郭移転地を決めたとあります。

これが現在遺構が残る花園町の遊廓跡です。

昭和二年には梅田楼の主人が、廓内で客の奪い合いや芸者の引き抜きなどの問題が生じた為、問題の種をとり省こうと共立検番と置屋組合を統合しました。

さて、昭和五年六月末の内務省警保局が出した『公娼と私娼』によると米子の遊郭は米子市灘町二丁目で営業者三十三、娼妓五十八人になっています。

さらに昭和四年刊、上村行彰著『日本遊里史』でも西伯の遊郭所在地は米子町灘町になっています。

大正時代に灘町から移転した花園町遊廓の所在地が昭和になっても灘町二丁目なのは解せません。

こういった疑問に明快に説明してくれるのが~市史、~町史のはずです。ところが全十五巻もある『新修米子市史』は説明どころか、米子の遊郭に触れている個所を見出せませんでした。

明治、大正、昭和で米子の人なら皆知っていたはずの灘町遊郭に触れないのに編者の意図があるのは間違いありません。

『新修米子市史』に米子に花街、遊郭が無かったことに成っている事情は私には推察しかできませんが、灘町二丁目に花園町遊郭があった理由は実にトリッキーなある出来事が原因でした。

その落とし穴のような答えは次回に持ち越します。





by gionchoubu | 2018-10-19 15:48 | Comments(0)

米子灘町遊郭ぞめき 一

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『鳥取県史』によると、安政五(1858)年八月米子灘町の廻船問屋のものたちが、他国の入港のとき、飯盛女を置いて接待させることを願い出たところ、灘町の廻船問屋のみに、制限数を設けて他国生れの婦人を雇うことを許しました(「御国日記」)と有ります。

『米子市史』(『新修米子市史』ではありません)によれば、米子には江戸期より灘町には飯盛女置き、港繁栄の一策として公許されていました。しかし次第に東西南倉吉町の宿屋町へ進出し淫を鬻いだので県は国の方針に基づき明治五年、指定地以外の娼婦を原籍復帰する様示達するよう申し伝えたと言います。

ただし極貧の子女で親が許せば例外としました。

当時米子にかなりの遊女がいたようで『西洋だんご夜相撲見立鏡』が発行され、相撲の番付仕立てで、遊女の出身地、町名、名前を記したものがありました。

鳥取は売女といったものに特に厳しい眼を向けた地域であったようで、明治九年に出された「娼舎設置願不許可のこと」を見ると、

「或は娼妓に類似するも東西の割烹店等に散居し、方言之を団子という。東京の地獄の如し。陰に客を引き、淫をひさぐ事数多之有る。風俗の乱るる実に論ずるに堪ず。娼妓の憎むべきも之に比すれば其の害の少なるを覚う。」

地獄とは私娼の事、つまり私娼が蔓延るよりは、まだ公許の娼妓の方が害毒が少ないと訴えているのです。

私娼の異名は沢山あるなかであえて地獄を用いた事でもこの県の売女に対する気持ちが汲み取れます。

さて、団子の由来には諸説あるようですが、『猥褻風俗辞典』で宮武外骨は

団子 出雲および因幡にて公娼私娼を言う。徳川時代の中期頃より始まりし語にて今(明治末期)なお行わる。団子のようによく転ぶ(売春に走る)との義なり。桂園子の『出雲なまりに』にも「ダンゴ―娼妓、酌婦、転ぶの意」あり。

『改訂 米子の伝承と歴史』生田彌範著によると、生田氏自身も上の説を由来と思っていたものの、江戸時代に境港で住み込み女中に「だんご」を持たせ船頭や船夫の機嫌をとった。船頭たちは思いがけない接待に歓び話がはずみ、そのうちに約束が出来上がって上陸がはじまる・・・という説を新説として紹介しておりますがどうでしょう、海の荒くれ男達が団子に喜び話が弾むとは私にはとても不自然に感じます。

「娼舎設置願不許可のこと」に戻ると鳥取県の鳥取町、米子町、境港、西郷港の様な場所に娼舎(遊郭)を設置し、梅毒の検査をし、厳しい規則を設け、相当の税金を徴収し、野合密売淫は排除し、県の風俗を正したいとの主張は受け入れられず持ち越しとなりました。

平たく言うと遊郭の設置が認められなかったということです。

実は明治五年の布令の際、原籍に戻った子女も多かったものの、反面又は弾圧の裏を潜り、宿出会と称する男女の密会野合が流行していたという背景があったのです。


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             印象的なこうもりの意匠のある建物、2010年撮影


by gionchoubu | 2018-10-16 11:09 | Comments(0)

八ッ橋裁判 真相

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昭和32年3月7日の京都新聞夕刊に『都大路』(56)春日通その一 唄に残る権兵衛さん「八ッ橋」起源に諸説という見出しがありますので後半を紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(聖護院の)畑が市街に変わって、名産聖護院大根はもうありませんが、変って京菓子八ッ橋」があります。

明治末期ヒッチョステンショ(七条ステーション)で夷川五色豆と一緒に旅行客へ売ったのが、八ッ橋が京土産となった最初ですが、1900年パリの万国博で京都市代表としてグランプリをとったり、1909年アラスカの太平洋博で日本最初の金パイをもとったりして日本的存在となり、今では年間五億円をかせぐ京土産中の横綱格で、とにかく大したものです。

一体に名物になるといろいろ有難やのもったいをつけたがるものですが八ッ橋の場合は、これがまた諸説入り乱れて互いに「こっちが本家だ」とメクソ・ハナクソでややこしいのです。

別にハクなどつけなくても「うまいモンはうまい」でよさそうに思うんですがね。がまァとにかくそのメクソやハナクソを一応紹介だけしておきましょう。

聖護院八ッ橋総本店鈴鹿社長の話

「ソウ(箏)曲の開祖として全国的名声のあった八橋検校の死後、黒谷金戒光明寺にある墓へ参る人が絶えないので元禄ごろから参道の聖護院で琴になぞらえたセンベイを売ったのが始め」

郷土史家田中緑江氏の話

「明治の中ごろ伊勢物語で有名な三河国池鯉鮒(知立)の八ッ橋から菓子職人が入洛してブラブラしていたのをコライケルと製法をきいて大々的に売出したものですわ。京に三河の八ッ橋じゃ面白くないのでインネンをこじつけた。

とにかく明治以前に八ッ橋という名物は京都にはおへん」

土地の古老、当年六十九才の岡田光太郎さん

「祖母から聞かされたが三河から来たジイサン、バアサンがこの辺で隠居仕事に八ッ橋と称する菓子を売っとりまして」

井筒八ッ橋本舗の話

「八ッ橋検校はなかなかの倹約家で流しにザルを受けて集った流れ米で接待用のセンベイを焼いた。これから来てますのや」

聖護院八ッ橋西村源太郎氏の話

「業平が東下りのとき三河池鯉鮒でかきつばたの歌をよんで以来“八ッ橋”は鎌倉路唯一の名勝として中世の日本人のあこがれのマトだったのです。

昔はだから“八橋太夫”とか“八橋?”とか“八橋検校”とか、最高のものには何でも“八ッ橋”の名をつけている。日本一の菓子というので“八ッ橋”と名付けたこれが本説ですわ。

琴と結びつけるのは文学を知らない俗中の俗説だ」

どうも茶店が繁盛するほど墓参へ陸続とつめかけたというのは神武以来きいたためしがないし、かといって・・・いや、よしましょう。ミイラとりがミイラになりそうです。(河合健記者)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

江戸期の名物は名所図絵などで紹介される事が多いいのですが、私自身八ッ橋は見たことがありません。明治著名諸案内にも八橋屋さんは菓子、饅頭の欄に載りません。その他の信頼置ける著述でも聖護院と八ッ橋を結びつけたものは見たことがありません。

文中の田中緑江氏は京都の風俗に関しては何でも知っていた人で、多くの著書を出し、俗説や憶測では決して惑わされなかった人で、私がブログを書く上で、最も信頼している人の一人です。


by gionchoubu | 2018-09-07 14:11 | Comments(0)

娯楽の殿堂 美松 その五

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                     美松の場所

昭和28年12月18日の京都新聞に、

美松新温泉愈々18日開場の広告が載りました。

浴場文化に栄えたギリシャ・ローマの名湯を彷彿せしめる日本一の総合大温泉境!

京洛百万人の待望久しい、保健休養の陶酔的快味溢れる温泉のデパートでございます。モダン京名所としての観光誘致に、働く市民の皆様へご家族団楽の一端をも奉仕出来ますよう何卒絶大の御支援お願い申し上げます。
美松社長 三大寺一能

大衆的な料金 五色噴泉大浴場 御一名 100円
       ロマン温泉場  御一名 300円
       トルコ温泉場  御一名 300円
      家族温泉ルーム 三名様迄 300円

この広告を見ると昭和28年の暮には美松のトルコは営業していた事になります。

昭和30年8月5日の京都新聞に『塗り替えられた京の地図 歓楽街は東へ行く 木屋町筋バー乱立、夜毎狂騒 新京極界わい 映画館へクラ替え』という記事が載り、キャバレー、アルサロなどの京の風俗店が新京極から木屋町に移り、新京極が映画館中心の街に変っていく様子が克明に描かれています。

その契機になったのは記事の前年の昭和29年に華々しく発足したばかりの“アイスパレス”が30年の七月に映画館に早変り、続いて“ダンスホール美松”“キャバレー田園”などが相次いで映画館へ転向しました。

記事の分析よると、これら映画館への転向は「映画館はもうかる」というより、深刻なデフレの影響で行き詰る経営の打開策として、年中客足に変動の少ない映画館意外に適当な企業がないこと、さらに新京極が戦後十年、歓楽街から興行街オンリーに移り始め、歓楽街は河原町以東、木屋町筋に移り変わるという立地条件の変化が主な原因としています。

“ダンスホール”美松の場合は、かつては百三十人ものダンサーを抱え、一夜に二、三十枚のチケットを切るお客がザラでしたが、二十六、七年を境に下り坂となり、デフレの進行につれホールでボラれるよりも小奇麗なカフェーか喫茶店、アルサロで女給と踊った方が安上がりで、トルコ風呂もあまり芳しくないとの事でした。

昭和三十年美松大劇、美松名劇がオープンした後の美松を職業別の電話帳で追うと、昭和五十一年の広告では、スチーム&サウナの美松で男性専用グランドバス、女性専用ビュウティバス、家族風呂。

昭和61年の住宅地図を見ると、美松会館 美松新温泉 一、ゲームコーナー ジョイランド美松 スチームサウナ美松 二、美松映劇 美松劇場

南の別館は一、美松ゲームセンター 二、コインランドリー美松となっていました。

戦後から一貫として京都の娯楽の殿堂として京都市民と共にあった美松。私の記憶では美松といえば映画館、そしてゲームセンターの美松でした。




by gionchoubu | 2018-08-31 11:36 | Comments(0)

娯楽の殿堂 美松 その四

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以前も紹介しましたが昭和29年の祗園をどりのパンフレット(下の画像)に

涼秋一浴千金 トルコ娘の美松新温泉 お色気で近代味豊かな御清遊は
名物トルコ風呂

アミューズメントセンター美松
二階 ダンス娘の・ダンス美松
一階 ビール娘の・ビーア美松
地階 地下温泉街・家族風呂

の広告が載ります。

さらに昭和32年4月12日の京都新聞に

お一人 390円 ビール突き出しサービス料税共
アルサロ制ナイトクラブ美松

五つの温泉に入ってお一人100円
トルコ風呂400円 家族風呂300円 美松新温泉

美松では有りませんが翌日の十三日の京都新聞にも、

木屋町トルコ風呂 花見帰りに・・・ご入浴六百円

サービス料入浴雑費一切含み 階上―大小宴会用お座敷有り、ご予算次第で相談下さい 中華料理・すき焼・和食 五周年記念場内総改装完成!
トルコ温泉 西木屋町、河原町通 松原上ル

の広告が載ります。

当時のトルコ風呂は新聞に広告が堂々と載るほど後ろめたさの無い存在だったのでしょうか?

それもそのはず。昭和三十三年四月に売春防止法が完全施行されるまで、赤線での売春は違法でなく、トルコ風呂を隠れ蓑にする理由はなかったのです。

トルコ風呂の第一号とされるのが昭和二十六年、東銀座に誕生した東京温泉で、経営者は密室での女性によるマッサージなので、風紀の問題には極端なほど神経質で、従業員の女性が客と外でお茶を飲んだだけで解雇された例もあったといいます。

昭和二十八年頃からトルコ風呂が増える兆しがみえました。一部の業者による、手でのサービスが流行り始まっても、ある経営者は、「儲かると聞いてトルコ風呂をはじめたわけだが、女の子たちに売春だけはやって欲しくないと心から思っていた。万一、そんなことをされて警察の手入れでも喰らったら、一族に顔むけできなくなる。」と話したぐらいです。

売防法が施行されたのは昭和三十三年四月一日。全国のトルコ風呂は約百軒を越え、いわゆる本番サービスが評判になり始めました。

そして昭和三十六年の全国のトルコ風呂軒数は七百六軒と僅か三年で七倍に増えました。

昭和三十八年、東京の一部を除いた全国のトルコ地帯の殆どの店は本番を主にしたサービスを行っていたなか、例外として京都と大阪だけはスペシャルサービスさえない、完全に健全な店が殆どだったといいます。

今回参照させて頂いた『トルコロジー トルコ風呂専門記者の報告』の著者の広岡敬一氏によるとその理由を、旧赤線の施設が残存して座布団売春と呼ばれた営業が続けられた事、またラブホテルなどでのパンマ売春が盛んで、あたらしく投資して売春を目的とするトルコ風呂を開業しても業者にはメリットが無かったからと分析しました。

こういった状況の中で、京都新聞による木屋町トルコ風呂と美松新温泉のトルコ風呂の広告だったわけです。


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by gionchoubu | 2018-08-28 14:15 | Comments(0)

娯楽の殿堂 美松 その三

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                          まる八跡

昭和29年6月30日の京都新聞によると、新京極の“一パイ横丁”の誕生は終戦直後、闇市がはやり、いかがわしいカストリが横行した二十一年の春、露天の希望者とキャバレー美松の客寄せ策が一致して、美松の軒際を一時的に貸したことから始まりました。

そして日が経つと、衛生法や建築法が次第に厳重になり、美松の手で美松の南北両側に軒店二十五軒を建設して一パイ横丁が出来ました。

ところが、美松では周辺の美観や防火の観点から、軒店を立ち退かせるため、昭和25年調停裁判に持ちこみ、調停委員によって四年間の猶予期間付明け渡しの調停成立、其の猶予が昭和29年6月30日で満期となりました。

一方借家側はこの調達成立で“四年間の寿命”と見定めるや十数万から数十万の権利金(家賃は千五百円)で他に譲って逃げ出し、元からの店はたった四軒、二十一軒は調停の事も知らずに権利金を払って入った可能性があったようです。


この問題を調停当時からとり上げた宗教家、阿刀土彦氏らは、花月劇場横の空地(市の管理地)の提供を市に陳情、市ではここに都市計画を計画に基づく緑地公園をを計画しており、かつ密集地の避難地として提供を拒否しました。

現在の新京極公園です。

美松側は調停通りおだやかな明け渡しを希望しているが、借家側が居座るなら強制執行も辞さないとハラを決めました。

美松吉村支配人談

「終戦間もないころはまあよかったが、現在は事情が許されなくなった。温泉ができてその採光のこともあり、従業員の厚生施設も十分にやれない始末だ。

また、消防局や府建設課からも警告を受けている次第で、今更とやかくいわれるフシはない。

こっちは法に従って穏かに事を運びたいと思っているので速やかに明け渡しを完了して欲しい。」

との事でした。

昭和31年の住宅地図を見ると北側に十一軒の店が確認できます。

北側の一番東に現在も営業されている喜の屋があり、中央辺りに最近までの営業がたべログなどで確認できた京極食堂の名も見えます。一番西にはその二階の意匠がお寺風で私自身が以前から気になっていた、現在古着屋の場所がまる八というお店だったのも確認できます。

兎に角31年版は、北側も南側も字が小さく判別が難しいので南側は昭和34年版で西から確認すると、美松ナイトクラブ・新温泉・食堂と美松関係並び、平井遊技場、スタンド万平、松すし、バーフローラー、バー双園、スタンドふりそで、バープラージ、多摩川・ちどり、となりました。

現在これらの店は存在しません。

ですから、立ち退きが成立したのは南側だったと思います。

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喜の屋、手前の味乃家も昭和31年の地図に載ります。


by gionchoubu | 2018-08-27 13:30 | Comments(0)