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米子灘町遊郭 一

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『鳥取県史』によると、安政五(1858)年八月米子灘町の廻船問屋のものたちが、他国の入港のとき、飯盛女を置いて接待させることを願い出たところ、灘町の廻船問屋のみに、制限数を設けて他国生れの婦人を雇うことを許しました(「御国日記」)と有ります。

『米子市史』(『新修米子市史』ではありません)によれば、米子には江戸期より灘町には飯盛女置き、港繁栄の一策として公許されていました。しかし次第に東西南倉吉町の宿屋町へ進出し淫を鬻いだので県は国の方針に基づき明治五年、指定地以外の娼婦を原籍復帰する様示達するよう申し伝えたと言います。

ただし極貧の子女で親が許せば例外としました。

当時米子にかなりの遊女がいたようで『西洋だんご夜相撲見立鏡』が発行され、相撲の番付仕立てで、遊女の出身地、町名、名前を記したものがありました。

鳥取は売女といったものに特に厳しい眼を向けた地域であったようで、明治九年に出された「娼舎設置願不許可のこと」を見ると、

「或は娼妓に類似するも東西の割烹店等に散居し、方言之を団子という。東京の地獄の如し。陰に客を引き、淫をひさぐ事数多之有る。風俗の乱るる実に論ずるに堪ず。娼妓の憎むべきも之に比すれば其の害の少なるを覚う。」

地獄とは私娼の事、つまり私娼が蔓延るよりは、まだ公許の娼妓の方が害毒が少ないと訴えているのです。

私娼の異名は沢山あるなかであえて地獄を用いた事でもこの県の売女に対する気持ちが汲み取れます。

さて、団子の由来には諸説あるようですが、『猥褻風俗辞典』で宮武外骨は

団子 出雲および因幡にて公娼私娼を言う。徳川時代の中期頃より始まりし語にて今(明治末期)なお行わる。団子のようによく転ぶ(売春に走る)との義なり。桂園子の『出雲なまりに』にも「ダンゴ―娼妓、酌婦、転ぶの意」あり。

『改訂 米子の伝承と歴史』生田彌範著によると、生田氏自身も上の説を由来と思っていたものの、江戸時代に境港で住み込み女中に「だんご」を持たせ船頭や船夫の機嫌をとった。船頭たちは思いがけない接待に歓び話がはずみ、そのうちに約束が出来上がって上陸がはじまる・・・という説を新説として紹介しておりますがどうでしょう、海の荒くれ男達が団子に喜び話が弾むとは私にはとても不自然に感じます。

「娼舎設置願不許可のこと」に戻ると鳥取県の鳥取町、米子町、境港、西郷港の様な場所に娼舎(遊郭)を設置し、梅毒の検査をし、厳しい規則を設け、相当の税金を徴収し、野合密売淫は排除し、県の風俗を正したいとの主張は受け入れられず持ち越しとなりました。

平たく言うと遊郭の設置が認められなかったということです。

実は明治五年の布令の際、原籍に戻った子女も多かったものの、反面又は弾圧の裏を潜り、宿出会と称する男女の密会野合が流行していたという背景があったのです。


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             印象的なこうもりの意匠のある建物、2010年撮影


by gionchoubu | 2018-10-16 11:09 | Comments(0)

八ッ橋裁判 真相

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昭和32年3月7日の京都新聞夕刊に『都大路』(56)春日通その一 唄に残る権兵衛さん「八ッ橋」起源に諸説という見出しがありますので後半を紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(聖護院の)畑が市街に変わって、名産聖護院大根はもうありませんが、変って京菓子八ッ橋」があります。

明治末期ヒッチョステンショ(七条ステーション)で夷川五色豆と一緒に旅行客へ売ったのが、八ッ橋が京土産となった最初ですが、1900年パリの万国博で京都市代表としてグランプリをとったり、1909年アラスカの太平洋博で日本最初の金パイをもとったりして日本的存在となり、今では年間五億円をかせぐ京土産中の横綱格で、とにかく大したものです。

一体に名物になるといろいろ有難やのもったいをつけたがるものですが八ッ橋の場合は、これがまた諸説入り乱れて互いに「こっちが本家だ」とメクソ・ハナクソでややこしいのです。

別にハクなどつけなくても「うまいモンはうまい」でよさそうに思うんですがね。がまァとにかくそのメクソやハナクソを一応紹介だけしておきましょう。

聖護院八ッ橋総本店鈴鹿社長の話

「ソウ(箏)曲の開祖として全国的名声のあった八橋検校の死後、黒谷金戒光明寺にある墓へ参る人が絶えないので元禄ごろから参道の聖護院で琴になぞらえたセンベイを売ったのが始め」

郷土史家田中緑江氏の話

「明治の中ごろ伊勢物語で有名な三河国池鯉鮒(知立)の八ッ橋から菓子職人が入洛してブラブラしていたのをコライケルと製法をきいて大々的に売出したものですわ。京に三河の八ッ橋じゃ面白くないのでインネンをこじつけた。

とにかく明治以前に八ッ橋という名物は京都にはおへん」

土地の古老、当年六十九才の岡田光太郎さん

「祖母から聞かされたが三河から来たジイサン、バアサンがこの辺で隠居仕事に八ッ橋と称する菓子を売っとりまして」

井筒八ッ橋本舗の話

「八ッ橋検校はなかなかの倹約家で流しにザルを受けて集った流れ米で接待用のセンベイを焼いた。これから来てますのや」

聖護院八ッ橋西村源太郎氏の話

「業平が東下りのとき三河池鯉鮒でかきつばたの歌をよんで以来“八ッ橋”は鎌倉路唯一の名勝として中世の日本人のあこがれのマトだったのです。

昔はだから“八橋太夫”とか“八橋?”とか“八橋検校”とか、最高のものには何でも“八ッ橋”の名をつけている。日本一の菓子というので“八ッ橋”と名付けたこれが本説ですわ。

琴と結びつけるのは文学を知らない俗中の俗説だ」

どうも茶店が繁盛するほど墓参へ陸続とつめかけたというのは神武以来きいたためしがないし、かといって・・・いや、よしましょう。ミイラとりがミイラになりそうです。(河合健記者)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

江戸期の名物は名所図絵などで紹介される事が多いいのですが、私自身八ッ橋は見たことがありません。明治著名諸案内にも八橋屋さんは菓子、饅頭の欄に載りません。その他の信頼置ける著述でも聖護院と八ッ橋を結びつけたものは見たことがありません。

文中の田中緑江氏は京都の風俗に関しては何でも知っていた人で、多くの著書を出し、俗説や憶測では決して惑わされなかった人で、私がブログを書く上で、最も信頼している人の一人です。


by gionchoubu | 2018-09-07 14:11 | Comments(0)

娯楽の殿堂 美松 その五

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                     美松の場所

昭和28年12月18日の京都新聞に、

美松新温泉愈々18日開場の広告が載りました。

浴場文化に栄えたギリシャ・ローマの名湯を彷彿せしめる日本一の総合大温泉境!

京洛百万人の待望久しい、保健休養の陶酔的快味溢れる温泉のデパートでございます。モダン京名所としての観光誘致に、働く市民の皆様へご家族団楽の一端をも奉仕出来ますよう何卒絶大の御支援お願い申し上げます。
美松社長 三大寺一能

大衆的な料金 五色噴泉大浴場 御一名 100円
       ロマン温泉場  御一名 300円
       トルコ温泉場  御一名 300円
      家族温泉ルーム 三名様迄 300円

この広告を見ると昭和28年の暮には美松のトルコは営業していた事になります。

昭和30年8月5日の京都新聞に『塗り替えられた京の地図 歓楽街は東へ行く 木屋町筋バー乱立、夜毎狂騒 新京極界わい 映画館へクラ替え』という記事が載り、キャバレー、アルサロなどの京の風俗店が新京極から木屋町に移り、新京極が映画館中心の街に変っていく様子が克明に描かれています。

その契機になったのは記事の前年の昭和29年に華々しく発足したばかりの“アイスパレス”が30年の七月に映画館に早変り、続いて“ダンスホール美松”“キャバレー田園”などが相次いで映画館へ転向しました。

記事の分析よると、これら映画館への転向は「映画館はもうかる」というより、深刻なデフレの影響で行き詰る経営の打開策として、年中客足に変動の少ない映画館意外に適当な企業がないこと、さらに新京極が戦後十年、歓楽街から興行街オンリーに移り始め、歓楽街は河原町以東、木屋町筋に移り変わるという立地条件の変化が主な原因としています。

“ダンスホール”美松の場合は、かつては百三十人ものダンサーを抱え、一夜に二、三十枚のチケットを切るお客がザラでしたが、二十六、七年を境に下り坂となり、デフレの進行につれホールでボラれるよりも小奇麗なカフェーか喫茶店、アルサロで女給と踊った方が安上がりで、トルコ風呂もあまり芳しくないとの事でした。

昭和三十年美松大劇、美松名劇がオープンした後の美松を職業別の電話帳で追うと、昭和五十一年の広告では、スチーム&サウナの美松で男性専用グランドバス、女性専用ビュウティバス、家族風呂。

昭和61年の住宅地図を見ると、美松会館 美松新温泉 一、ゲームコーナー ジョイランド美松 スチームサウナ美松 二、美松映劇 美松劇場

南の別館は一、美松ゲームセンター 二、コインランドリー美松となっていました。

戦後から一貫として京都の娯楽の殿堂として京都市民と共にあった美松。私の記憶では美松といえば映画館、そしてゲームセンターの美松でした。




by gionchoubu | 2018-08-31 11:36 | Comments(0)

娯楽の殿堂 美松 その四

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以前も紹介しましたが昭和29年の祗園をどりのパンフレット(下の画像)に

涼秋一浴千金 トルコ娘の美松新温泉 お色気で近代味豊かな御清遊は
名物トルコ風呂

アミューズメントセンター美松
二階 ダンス娘の・ダンス美松
一階 ビール娘の・ビーア美松
地階 地下温泉街・家族風呂

の広告が載ります。

さらに昭和32年4月12日の京都新聞に

お一人 390円 ビール突き出しサービス料税共
アルサロ制ナイトクラブ美松

五つの温泉に入ってお一人100円
トルコ風呂400円 家族風呂300円 美松新温泉

美松では有りませんが翌日の十三日の京都新聞にも、

木屋町トルコ風呂 花見帰りに・・・ご入浴六百円

サービス料入浴雑費一切含み 階上―大小宴会用お座敷有り、ご予算次第で相談下さい 中華料理・すき焼・和食 五周年記念場内総改装完成!
トルコ温泉 西木屋町、河原町通 松原上ル

の広告が載ります。

当時のトルコ風呂は新聞に広告が堂々と載るほど後ろめたさの無い存在だったのでしょうか?

それもそのはず。昭和三十三年四月に売春防止法が完全施行されるまで、赤線での売春は違法でなく、トルコ風呂を隠れ蓑にする理由はなかったのです。

トルコ風呂の第一号とされるのが昭和二十六年、東銀座に誕生した東京温泉で、経営者は密室での女性によるマッサージなので、風紀の問題には極端なほど神経質で、従業員の女性が客と外でお茶を飲んだだけで解雇された例もあったといいます。

昭和二十八年頃からトルコ風呂が増える兆しがみえました。一部の業者による、手でのサービスが流行り始まっても、ある経営者は、「儲かると聞いてトルコ風呂をはじめたわけだが、女の子たちに売春だけはやって欲しくないと心から思っていた。万一、そんなことをされて警察の手入れでも喰らったら、一族に顔むけできなくなる。」と話したぐらいです。

売防法が施行されたのは昭和三十三年四月一日。全国のトルコ風呂は約百軒を越え、いわゆる本番サービスが評判になり始めました。

そして昭和三十六年の全国のトルコ風呂軒数は七百六軒と僅か三年で七倍に増えました。

昭和三十八年、東京の一部を除いた全国のトルコ地帯の殆どの店は本番を主にしたサービスを行っていたなか、例外として京都と大阪だけはスペシャルサービスさえない、完全に健全な店が殆どだったといいます。

今回参照させて頂いた『トルコロジー トルコ風呂専門記者の報告』の著者の広岡敬一氏によるとその理由を、旧赤線の施設が残存して座布団売春と呼ばれた営業が続けられた事、またラブホテルなどでのパンマ売春が盛んで、あたらしく投資して売春を目的とするトルコ風呂を開業しても業者にはメリットが無かったからと分析しました。

こういった状況の中で、京都新聞による木屋町トルコ風呂と美松新温泉のトルコ風呂の広告だったわけです。


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by gionchoubu | 2018-08-28 14:15 | Comments(0)

娯楽の殿堂 美松 その三

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                          まる八跡

昭和29年6月30日の京都新聞によると、新京極の“一パイ横丁”の誕生は終戦直後、闇市がはやり、いかがわしいカストリが横行した二十一年の春、露天の希望者とキャバレー美松の客寄せ策が一致して、美松の軒際を一時的に貸したことから始まりました。

そして日が経つと、衛生法や建築法が次第に厳重になり、美松の手で美松の南北両側に軒店二十五軒を建設して一パイ横丁が出来ました。

ところが、美松では周辺の美観や防火の観点から、軒店を立ち退かせるため、昭和25年調停裁判に持ちこみ、調停委員によって四年間の猶予期間付明け渡しの調停成立、其の猶予が昭和29年6月30日で満期となりました。

一方借家側はこの調達成立で“四年間の寿命”と見定めるや十数万から数十万の権利金(家賃は千五百円)で他に譲って逃げ出し、元からの店はたった四軒、二十一軒は調停の事も知らずに権利金を払って入った可能性があったようです。


この問題を調停当時からとり上げた宗教家、阿刀土彦氏らは、花月劇場横の空地(市の管理地)の提供を市に陳情、市ではここに都市計画を計画に基づく緑地公園をを計画しており、かつ密集地の避難地として提供を拒否しました。

現在の新京極公園です。

美松側は調停通りおだやかな明け渡しを希望しているが、借家側が居座るなら強制執行も辞さないとハラを決めました。

美松吉村支配人談

「終戦間もないころはまあよかったが、現在は事情が許されなくなった。温泉ができてその採光のこともあり、従業員の厚生施設も十分にやれない始末だ。

また、消防局や府建設課からも警告を受けている次第で、今更とやかくいわれるフシはない。

こっちは法に従って穏かに事を運びたいと思っているので速やかに明け渡しを完了して欲しい。」

との事でした。

昭和31年の住宅地図を見ると北側に十一軒の店が確認できます。

北側の一番東に現在も営業されている喜の屋があり、中央辺りに最近までの営業がたべログなどで確認できた京極食堂の名も見えます。一番西にはその二階の意匠がお寺風で私自身が以前から気になっていた、現在古着屋の場所がまる八というお店だったのも確認できます。

兎に角31年版は、北側も南側も字が小さく判別が難しいので南側は昭和34年版で西から確認すると、美松ナイトクラブ・新温泉・食堂と美松関係並び、平井遊技場、スタンド万平、松すし、バーフローラー、バー双園、スタンドふりそで、バープラージ、多摩川・ちどり、となりました。

現在これらの店は存在しません。

ですから、立ち退きが成立したのは南側だったと思います。

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喜の屋、手前の味乃家も昭和31年の地図に載ります。


by gionchoubu | 2018-08-27 13:30 | Comments(0)

娯楽の殿堂 美松 その二

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昭和24年の九月の京都新聞

おしきせお気軽にぱい一 新時代のゐ酒屋
昔おなじみの美松スタンド とんかつの大衆グリル
宝焼酎35円、酒ビール80円、とんかつ70円
新装開店 新京極美松

の広告が載ります。ぱい一は当時の流行でしょうか、パイオツは聞いた事があるので、当時の流行言葉なのでしょう。スタンドというので、多分美松の一角に誕生したものと思います。

さらに同月、キャバレー美松は新設勤労者ホール部大々的な募集が載ります。

これはホールパートナー大募集の為で、待遇は固定給1分間80銭とキャッチーな物です。分給は珍しいので、逆に今使うとインパクトがありそうです。

募集されたのは職業ダンサーでなく、社交ダンスのお相手の社交パートナーで、服装はワンピース、スーツ、アフタヌーンとお好み次第で、イブニングドレスの着用は求められていませんでした。

「年令満19年以上迄の独身女学校卒又は同等以上の教養のある方、社交ダンスのできる方で新時代女性として正しいエチケットを持てる方、職業ダンサー又は職業接客係の経験者は採りません。」とあくまで素人路線を狙ったものした。

つづいて昭和26年7月の京都新聞で美松は、ひまわり娘を100名募集しています。

「ひまわり娘とはテーブルフレンドとして文化的に話のお相手をする美松エスプリーのシンボルです」・・・と良く分かりません。

ひまわり娘のいる美松エスプリーとは純アメリカンシステムらしく、智的勤労者の社交的安息所で、サラリーマン勤労者のユメノクニとの説明ありました・・・さらに分らなくなりました。

兎に角美松は機を見るに敏で、昭和26年9月8日にサンフランシスコで対日講和条約の調印式が行われると同月22日の京都新聞では

世界人と手をつなぐダンスの交和 キャバレー美松階上国際ホール

講和の秋は晴れやかにご同伴で御家族づれで国際気分に浸りましょう。

低料金 お一人様 150円 アベック 250円

きっとひまわり娘が満面の笑みで貴方を迎え入れてくれたでしょう。




by gionchoubu | 2018-08-19 15:42 | Comments(0)

娯楽の殿堂 美松 その一

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昭和四十七年、新京極連合会と新教極ジュニアクラブが発行者の『新京極』のよると、

美松・・・長らく金蓮寺本堂であったが、昭和二年取壊し、同三年、移転したのち、広場でローラースケート、ベビーゴルフリンク等があったが、昭和七年ごろ三京食堂となり、戦後はビヤホール、美松キャバレー、美松新温泉等を経営、同三十年、階上に美松大劇、美松名劇を開場した。

同社東南端には昔から小さい弁天堂があって、ホトトギスの松や千鳥ケ池の名もとどめていたが、同社の拡張にともない、無くなってしまった。

昭和二十一年の十一月の京都新聞の宣伝欄に

従業員大募集 業界の惑星 キャバレー美松遂に起つ! 

一、ダンサー四00人 階下 ソシヤルサロン
一、接客社交嬢 一00人
一、少女給仕 二十歳迄 五0名
一、ホールボーイ、バーテンダー、男女職務、女子事務員、企画宣伝美術部員
  ホール??主任、其他 各数十名
面接―毎日朝一0時―夕四時 京新京極四条上ル 美松クラブ
全??西一の豪華理想ホール完成近し 十一月オープン
ソシアルサロン同時開店

同じ紙面に京都府より『南方諸島方面引き上げ希望者二告ぐ』の告知が出ている時代の美松の大募集は京都市民に高揚感と希望を与えたのでは無いのでしょうか?

それから一年後の同新聞に

新京極 ダンスホール 美松

ダンサー募集、来たれ絶好の職場へ
2日、日曜ひる1時開始 全日本ダンス選手権大会 第三部ワルツオープン
花と咲くワルツの妙技 京都日日新聞主催 
正午十五時迄の御入場に限り90円―(半額入場)

この変わり身の早さが美松の身上で、大衆の求めるものを常に先取りし身軽に具現化ました。

僅か一年後にキャバレー美松、ソシアルサロンからダンスホール美松に名称が変わりました。

続いて昭和二十四年五月の紙面では大衆路線を強調しました。

ダンスの美松 何よりも安い ご家族連れのお楽しみは夜のキャバレー

果然大衆の共鳴を博し満員御礼 新緑の薫りゆかし キャバレー美松
新京極の歓楽センター 豪華三百坪のポールルーム
アベックでもお一人でもご入場250円均一 
豪華タンゴバンド 
簡単―明朗―経済 ダンスの〔テケツ制〕新発足 サービス習慣

皆様のアベックプラン 子供でもわかる比較
お二人で喫茶店へ コーヒー2―140 ケーキ2―160 御会計300円
お二人で美松へ アベック御一組 入場税共一切250円
ラストまで・・・踊るも良し語るも良し





by gionchoubu | 2018-08-18 15:46 | Comments(0)

中村遊郭ぞめき 稲本楼

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             松岡ディサービスセンターの二階からの稲本楼(稲本別館)

昭和八年発行『郷土風景』の“中京中村 中村遊廓 高原栓市”筆によると

「中村情緒を味わうには小店でプロ階級が速成モダンで安価な近代生活を享楽するよりか、矢張一流店で名古屋独特の気分を吟味するに越したことはない。

先に云った日吉町の稲本楼、本家長壽楼、四海波と云った大店で時間を超越して、しとやかな相手と三味線で歌って夜を明かし果ては結ぶ桃色の夢と、旅の労れをさっぱりと朝湯でなかしていそいそと帰ったほうがいゝです。

この中村で群を抜いている店がある。稲本別館といって、東海道は静岡の蓬来楼。岐阜の浅野屋と並称されている中村の大御所で、店も一流なら客も一流、廓が名古屋の名所とさへ云はれている。

二、三年前に火災に会ったと云ふが気の香りの抜けきらぬ広間で、金箔の格天井や襖の扇面は主人が知己の読書家の作と聞くが、よく蒐集したのをうち見つゝ一献かたむけるのも格別、各室の造作、調度の快よい事、主人が趣味の程知れて奥ゆかしい。

娼妓は全部東京の一流芸妓落ちばかりとて、日頃は茶花、その他芸事に余念がないというのはうれしいかぎり。」

1990(平成2)年発行『黄金伝説』荒俣宏著

著者が執筆当時料亭になっていた旧稲本楼(稲本別館)で、八十歳を過ぎた大旦那に話を聞くと、大旦那のお父さんが客の目を惹かせるため、趣向をこらせて建築したものだという事が書いてあります。

一部屋、一部屋にテーマがあり、竜宮城を思わせる中国風の部屋は上海の売り物の物件を買い込み、舟で運ばせたもの。

養老の間はガラス戸が古風な、大正時代の民芸好きが建てそうな素朴な書斎づくり。

伊吹の間は八角天井で全体が丸い、大きな傘をさしかけたような部屋で、絵天井にはアイヌの文様がついた服地が貼り付けてある。

雨月の間は息子である大旦那の趣味で誂えた部屋で、本格的な網代天井をもつ。

その他、桃山時代のお城の大広間を思わせる大宴会場、田舎の民家をそっくり運んできた様な民芸風の居間、兎に角息を呑むすばらしさだったといいます。

さて、ある時代、ある場所、ある人にでしか生むことができなかったこの稲本さんが取り壊されようとしているとお聞きしました。

これといった観光名所はなく、訪れる魅力は低いと言われ続ける名古屋・・・

東洋一の遊郭といわれ贅を尽くした中村遊郭でもナンバーワンの建物と言われた別館稲本があるじゃないですか!

名古屋の人達へ・・・レプリカの名古屋城をいくつ建てても人は寄ってきませんよ。

今、稲本さんの中にどれほどの部屋があるか私は知りません。しかしこの文化財的なな建物が壊されるのに何の手立てもとらぬなら、名古屋市は自ら観光客を呼ぶ事を拒否しているとしか私には思えません。





by gionchoubu | 2018-03-24 12:37 | Comments(0)

中村遊郭ぞめき 名楽園

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戦災を免れた旧色里のうち、主だったもので残ったのは京都、奈良、金沢、新潟、米子、釧路、室蘭、札幌、仙台、そして名古屋ぐらいでしょうか。

その名古屋では昭和二十年八月旭郭貸座敷組合を名楽園組合と改称、特殊飲料店となり娼妓を芸妓と改めました。さらに同二十一年特殊カフェーと改め、女は給仕婦になりました。所謂赤線です。

名古屋市には名楽園以外に旧八幡連の中川区八幡町の八幡園、北区長田区の城東園、港区港陽町一帯の港陽園がありました。

東海の歓楽街の組合に、一ノ宮の花岡園、犬山の櫻楽園、豊橋の遊楽荘など~園、~荘と名付けたのは当時の慣わしで、今でも岐阜市の金津園に当時の名残を留めています。

昭和二十五年発行の『東海北陸社交歓楽街 有名舗 電話早見表』の特殊カフェー名楽園をみると名楽園事務所は日吉町にありカフェーはアイウエオ順に

あさひ、あさ乃、赤ペン、アズマ、一富士、稲本、一萬、入船、泉千寿、牛若、加茂川、開運、金鳩、金牡丹、銀波、金波、金龍、金華、クラブ、橘、久米長壽、鳳、幸楽、佐竹、栄千壽、新井筒、四海波、新壽、新壽別館、新金波、シスター、新宿、柴本、新星、鈴本、千波、千壽、青々、雪月、大一、宝千壽、太陽、第一桃園、第二桃園、第二トヨタ、第二松岡、ダイヤ、天龍閣、天龍閣別館、豊稲、豊田、豊岡、成駒、梅月本館、ハート、春福、白馬、パラダイス、羽衣、ハッピー、久松、日の出、福扇、福岡本館、福岡別館、福住、福船、弁天、紅屋、本家一徳、松島、万波、松岡、美園、美濃長、名月園、本松島、和合、岩波

さて、戦前十七連あった名古屋の花街も売防法発令直前の時には名妓連、浪越連、中券番、美遊喜連、吾妻連の六つに縮小され、名楽園も青楼八十八軒、給仕婦八百四十三名に縮小されました。

神崎宣武『聞書き 遊廓成駒屋』によると昭和三十三年売春防止法施行のあと三ヶ月過ぎたとき、名楽園の八十二軒の中で費用も少なく転業できる旅館業の許可をとって看板を上げた四十軒の旅館には、一ヶ月に十人から十五人の客しかつかず、八軒のトルコ風呂も正月の内だけ、バーもだめとあって、せっかくとった旅館許可を返上したり、許可はそもままでも営業を控えたり、早くも転業の声をあげたりする始末でした。

解散した組合にかわり六十二軒をまとめて誕生した新名楽園組合(野田東二組合長)も、ダンスホール、温泉プール、コマ劇場設置等いろんな案はでるものの費用や方法で足ふみ状態でした。

そして中村遊郭を象徴した大門もとりはらわれ、もとの遊郭四軒分の駐車場にこれまた四軒分のスーパーが建ち、かつては足を踏み入れることが無かった主婦や子供が行きかう場所になりました。




by gionchoubu | 2018-03-20 12:50 | Comments(0)

中村遊郭ぞめき 旭連

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  貸座敷の中に坪庭がある中村遊郭独特の構造

中村遊郭に“廻し制度”がなかった事に関する逸話を『聞書き 遊廓成駒屋』より紹介させて頂きます。

関東大震災のとき、吉原を焼け出された女郎が中村に流れてきて遊郭に吸収されました。

吉原の太鼓もちも四人ばかりやってきたものの、名古屋には廻しであぶれた客が出ないのでそもそも太鼓もちの需要がないという事になり帰した、とあります。

同じく廻し制度のない関西では太鼓もち(幇間)は芸妓の補佐としての役割がつよいのですが、東京の太鼓持ちには宴席に出るだけでなく、遊郭で部屋に上がったものの女が来ないので時間をもてあました客のため太鼓もちが送り込まれたという事になります。

さて、昭和八年四月号の『郷土風景』によると、中村遊郭は全国一の代遊郭で規模の広大な点では他の追従を許さない。移転当時各戸が争って普請に金をかけたので東京や大阪に見るこせこせしたインチキ建築とは比べ物にならない。

内部の間取りもゆったり出来ていて落ち着いて遊ぶ事が出来る。中村は遊興費が高い事も日本一だと云われるが娼妓の前借金に金をかけ、美人を揃えてゆっくり遊べる点で文句が云えない。

娼妓の現在数が千五、六百人いて妓楼が百四十軒余り、娼妓は主に関東者で約六割、関西者の二割他は全国から集まった程の美人揃い。長唄や清元が盛んで土地の西川流の舞踊も心得て居り、下手な市中の芸者も近づけない気品をもっていたとのこと。

これは即ち他の一流芸妓が何らかの理由で芸妓を辞め、中村遊郭に来て娼妓をやっている事を示唆しています。

昭和四年刊『全国花街めぐり』によれば、名古屋市には当時「五連妓」と称す盛栄連、浪越(なっこし)連、中券、廓連、睦連の五花街があり東京で言えば新橋、柳橋といった一流所、広小路を挟んで市街の中央部を占めていました。

これに続いたのが浅遊連、善遊喜(みゆき)連、美波連、熱田連、和合連、吾妻連、八幡連そして中村遊郭の芸妓で構成された旭連でこれら八連妓を加え、先の五連とあわせ十三連妓と呼ばれていました。

さらに場末の蝶遊連、枇杷島連、築地連、南連を合せると十七連妓になり、名古屋市には十七花街があったことになります。ちなみに廓連が中村と思い込みそうですが、中村遊郭移転前の地区にあったことから起こった名で、新地連とも呼ばれました。






by gionchoubu | 2018-03-14 12:02 | Comments(0)