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今津 女奉公人

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                       今津

平成八年、北野裕子氏の「明治初頭の茶屋と女奉公人たち―近江近津宿の飯盛女・芸者・三味線弾―」明治四年今津の茶屋として魚屋、中村屋、米屋、伊勢屋、舟屋、傘屋、大和家、亀屋、正木屋そして浜屋二軒の十一軒を確認しています。

さらに同研究では今津町史編纂室所蔵「(明治2年―9年)所用書留帳」を調査し、今津町へ奉公に来たと考えられる者十六人を掲げています。奉公先は十一軒の内、魚屋、中村屋、米屋、舟屋、亀屋、浜屋軒でこの六軒が置屋と思われます。

それ以外の伊勢屋、傘屋、大和家、正木屋ともう一軒の浜屋が揚屋になるのでしょう。

この十六人は明治二年から四年にかけて今津に奉公、差遣、年期奉公、養子縁組、商用、出稼の名目で、十三人が京都、二人が大津、一人が平ヶ崎村より、内八人が八坂新地(祗園)と宮川町(一人)から来ています。

年齢は記されているものは十四歳より三十歳です。

北野裕子氏はこの女達の大半が今津に来たのが、明治四年の五月に集中しているのは、その年の二月に飯盛女を抱え商売している者へ、七月までに移転が申し渡されたのを受け、茶屋が不景気を理由に翌年五月までに猶予を申し出た間に相当するので、経営不振に陥った茶屋が巻き返しを図らんがために京都から女を呼んだのであろうか、むしろ、京都の方から維新による打撃のため流失してきたのでは無いだろうか、と鋭い分析をされています。

面白いのは、上記とは別に明治四年五月に男性の三味線引き三人が米屋と亀屋を引受請人として今津に入り、さらに祗園の富永町の芸妓、玉木妹くミが伊勢屋に六月から七月二十日まで出稼ぎを申しこんでいます。

ここからは私の推測です。

まず明治二年から四年にかけて今津に来た十六人の内、八坂新地と宮川町からの八人は酌人として、他の女はあるいは飯盛女として売られてきたのだと思います。

酌人は芸妓より一段下の資格で、座敷で遊芸も芸妓と同じくすることが出来ますが、ゆるやかな資格です。

そして伊勢屋に来た祇園の芸妓はこの酌人に稽古をつける目的できたのだと思います。伊勢屋にいたのは実際六月から七月の頭までで、その間みっちり座敷舞の指導をしたのだと考えます。

舞の師匠が当時の今津村にいたとは考えられず、こういった風に京、大阪の花街の芸妓が期間を決めて地方の花街の指導に当たるというのは他でもあったのかもしれません。

さらに当時の祗園は、少なくとも明治五年までは踊りの流派が井上流と篠塚流の二本立てだったので、厳しい井上流でなく、比較的習い易い篠塚流の芸妓だったと思います。

明治四年に食盛女(飯盛女)と酌人が旅籠屋や料理屋に立ち入る事を今津役所が禁じたあと、食盛女を抱えた店のみ移転を申しつけられたのは、食盛女が不特定多数の男に対する売色が全ての仕事で、酌人は、茶屋が選んだ特定の男に売色もさせたでしょうが、一応芸が表であったためだと思います。

役所はこの二つを明確に区別していたはずです。




# by gionchoubu | 2018-07-15 14:29 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

今津 飯盛女

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                       今津の町並

中世以来、湖西有数の湊として栄えた今津湊。近世では若狭からの物資は九里半街道を越えて当地に入り、丸船に積まれて大津や湖東の湊に運ばれました。

また若狭方面から琵琶湖に浮かぶ竹生島へ参詣に行く人々でも繁昌しました。

実際現在でも竹生島のアクセスは琵琶湖東岸の長浜や彦根以外、西岸の今津のルートもあります。

近世初期から中期にかけては貨物・藩米の扱いが年間二十万駄馬あったものの、西廻航路の発達に依よりしだいに衰退、幕末ころには扱いは十分の一ほどに減少したといいます。

今津湊を有する今津村は秀吉時代より芳春院の御粧田として加賀藩領になり、西近江路の宿駅で荷物問屋数軒あり公用の継立の用を果した。安永三年には五百余の家数がありました。

以上が平凡社『滋賀県の地名』による今津宿の江戸期までの略歴になります。

江戸期に今津宿で飯盛女が他の街道宿のように売女として渡世をしていたかを知る手立てはありません。しかし『近江研究35号』、北野裕子氏の「明治初頭の茶屋と女奉公人たち―近江近津宿の飯盛女・芸者・三味線弾―」を読むと、その土壌は、少なくとも江戸期の後期にまで遡れそうだと考えるのが自然と思います。

江戸期に於いて滋賀の彦根藩は自藩に遊廓の設立を認めず、井伊直弼大老にいたっては彦根藩飛び地領の下野国佐野領(栃木県)の売女(遊女)まで廃止するという徹底振りでした。

今津藩の母体である加賀藩も遊廓には厳しい藩で金沢の東の廓が公認されたのは文政三(1822)年のことでした。

ただし加賀藩の支藩の大聖寺藩には公認の遊廓として串茶屋が北陸街道で栄えており、文政以降なら今津で遊女渡世が黙認されていても不思議ではないと私は思います。

さて、「明治初頭の茶屋と女奉公人たち」によれば、明治四年の一月の諸用書留帳に、近年食盛女や酌人が町屋に横行し風儀が乱れるので旅籠屋や料理屋に立ち入ってはいけない、という今津役人のお達しがだされています。

さらに二月、以上の申しつけが全く功を奏しなかったとみえて、食盛女を抱えて商売するものが市中に合い混ざって収支がつかないので河童(子)町裏屋敷地へ移転して、そこで盛大に商売をしてくれ、と趣旨を変えています・・・続く



# by gionchoubu | 2018-07-13 11:53 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

朝妻の白拍子

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                          朝妻 

米原の近く、天野川河口にある朝妻湊は、琵琶湖有数の湊として知られ、この湊を含む朝妻村は古代の坂田郡朝妻郷の遺称地であり、陸路、水路の要所として栄えました。

しかし天正年間に(1573―92)に長浜湊開かれると衰微し、江戸期になると、朝妻千軒といわれた面影は薄れてしまいました。

西行法師が『山家集』で「おぼつかな、伊吹おろしの風さきに、朝づま船は逢ひやしぬらんん」と唄われた朝妻船こそ水上売笑婦として朝妻の里で、江戸以前たぶん滋賀県で一番古い色里の遊女の象徴だったのです。

また、也足軒通勝が船中妓女と伝える題で「このねぬる朝づま船の浅からぬ契りを誰に又かはすらん」と具体的に古の遊女船の存在を伝えているのです。

朝妻船といえば、元禄時代の浮世絵絵師、英一蝶の作った端唄「仇し波、寄せては返る浪、朝妻船の恥しや、あヽ又の日は誰に契りをかはして色を、色を、枕恥し、偽りがちなる我が床の山、よしそれとても世の中」と、鳥帽子、水干姿、鼓を置き、手に末広の扇を持った白拍子が船に乗っている姿が知られています。

白拍子は芸妓の祖先ともいわれ、鎌倉時代、源頼朝に鐘愛された千手の前(せんしゅのまえ)は琴、琵琶を弾じ、今様などを舞い、又朗詠などを吟じお酒のお供をしました

時代祭りでお馴染みの静御前も高名な白拍子で、やはり頼朝の前で、白い小袖二かさね、唐綾を上にひき重ね、矢張り白袴、割菱縫った水干を頭に舞いました。

その他、木瀬川の亀鶴、手越の少将、大磯の虎、鎌倉一といわれた微妙など皆貴人に侍った高級遊女でした。

水干に立烏帽子、白鞘巻を指した男性装束で舞う白拍子舞の祖は平安時代の若歌の前、島の千歳とされており、この舞手が遊女化したものとされています。

さて、英一蝶が描いた朝妻船は彼が晩年イメージを膨らませて書いたものらしく、最初は唯小船に烏帽子、鼓などを取り散らしている様が書かれていたに過ぎない、と山東京伝は『近世奇跡考』に書いています。

以上は『滋賀県の地名』以外に昭和四年に発禁になった田中香涯という人の『耽寄猥談』という書物を参考に書いていますが、この作者は英一蝶が水上売笑婦たる朝づま船に烏帽子水干を著せ、鼓をもたせて之を白拍子化したのは芸術的美化であろうとしています。

私に言えるのは、滋賀県の遊里史において、一番新しいのが雄琴の特殊浴場群なら、一番古いのがこの朝妻であろうという事です。

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# by gionchoubu | 2018-07-11 12:26 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

雄琴 トルコ風呂

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昭和四十一年十月一日、滋賀県風俗営業等取締法施行条例が県条例第四十五号をもって一部改正され、

個室付浴場業は一団地の官公庁施設、学校、図書館、児童福祉施設等一定施設の敷地二百メートルの区域内においては営業禁止

大津市の一部(雄琴の料理旅館街を含めた雄琴港を囲む約三十ヘクタールの地域)以外の地域で営業することを禁止

又、営業に関し、一定の風俗関係法令に違反したときなどの営業停止の項目などが決められました。

これを受けて昭和四十六年の二月、雄琴にはじめて「花影」という四階建てのトルコ風呂が誕生しました。

花影の経営者は山中温泉でトルコ風呂をやっていた人物で、同業者は「あんな場所に建てて、一ヶ月ももちはしない」と口をそろえ、正気の沙汰では無いと思われていました。

たしかに当時国鉄の湖西線も無く、浜大津から一時間に一本バスが通っていただけで足の便はこれ以上ないほど悪いものでした。

更に、東京の吉原、名古屋の中村、岐阜の金津園、神戸の福原、高松の八重垣にしても、その母体として赤線、さらにその前に遊廓の時代をもっていたのに対し、花影は田んぼの中に突然できた訳で、その生い立ちは大きく異なるものでした。

どうして雄琴が日本有数のトルコ街になりえたか、なによりもまずは花影の経営者の卓越した宣伝・企画能力によるものが大きいといえます。

まず、関東のトルコ嬢二十人を、京都見物のつもりで来てくれと、新幹線のグリーン乗車券と一流ホテルの部屋をヒモと二人分とり開業したところ、トルコ不毛の地といわれた京都、大阪さらに岡山からマイカーを走らせた客で大繁盛。

トルコ嬢たちは、京都見物どころか昼食のラーメンを三回に分けて食べるという始末。一日に十人以上の客がつかされて、三日目には三分の一が「殺される」と、関東に逃げ帰りました。

しかし、雄琴は忙しいと全国のトルコ嬢の間で評判になり、人で不足に悩むことは無かったといいます。

その後すぐ白雪と東京トルコが開業、七十二年に八軒開業、七十七年には四十七軒にまで増えましたが、県の条例でこれ以上は新設できないことになりました。

雄琴が花開いたのは先進トルコ地帯であった川崎、横浜、千葉から合流したトルコ嬢がそれぞれ技を競い合い、テクニックを爛熟させたことにあったと言えたそうです。

だれが名付けたか、「ちろりん村」の別名を持つ雄琴トルコ街、平成の始めの頃の雄琴のパンフレットに38軒の店が載ります。

ようこそ 雄琴へ!

「雄琴」。ここには確かな“夢”があります。
独自のスタイルがあります。きらびやかな
湖畔の都は全身で来訪者をおもてなしします。
“夢”と“女たち”の織りなす悦楽のファンタジー
「雄琴」。 滋賀県特殊浴場協会

参照:トルコロジー トルコ風呂専門記者の報告 広岡敬一著、
滋賀県警察史 発行滋賀県警察本部



# by gionchoubu | 2018-07-07 12:19 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

長浜 南片町遊郭

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                      大正時代の南片町

長浜の南片町の遊廓は北にいくと東別院大通寺に通じる為“北向きのご坊さん”と呼ばれていました。

江戸末期より長浜はカヤ、チリメン、ビロウドの生産は急ピッチに上昇し、湖北の繭の集荷、販売、生糸の取引も年々盛んになったが、南片町はその取引の中心地でした。

町制が引かれると、町の政治もここが中心となり、事実上の町議会もここで開会される始末。引山祭の行事の打ち合わせ、総当番寄り、各山組の集会もこの郭で開かれました。

また、元県議会議長田中久平が選挙違反に問われた際、なじみの女と朝鮮に雲がくれしたことがありました。大正時代の名町長で政友会の大物であった横田竜次郎はこの遊廓で大散財し、長浜きっての美人と言われた宮川楼の小奴と結婚、やはり名町長と謳われた中沢安二郎も郭の美人、竹千代を妻にしました。

名門の町長青木吉蔵もこの世界の常客で遊廓から登丁するという始末でした。

昭和のはじめには詩人の野口雨情がこの地に遊び長浜節を残しました。

さて、神戸町の山倉付近に玉徳橋というのがあり、別名“さよなら橋”で通ってました。これは片町で一夜を契ってここで「さよなら」という事から生れたものです。この南片町自体が遊廓時代、赤線時代から「さよなら」したのが昭和33年2月28日でした。翌日の新聞からその様子を見てみると、

『なごやかにお別れ会』

「南片町遊廓は二十八日に百年の歴史を閉じた。昨年末で三十数人の従業婦は五人結婚、一部帰郷更正して、残りわずか二十数人。二十八日正午楼主八人と従業婦が長楽園組合事務所に集り、なごやかなお別れ会を催し、それぞれ楼主から金一封のせんべつが送られ、お別れ会は心づくしの料理と酒で楽しい半日だった。

二十四人のうち大半が帰郷して更正の道を開くが、数人は思い出の長浜に職を求める。結婚する三人のうちT楼のY子さん(25)は三月十三日に長浜市慶雲館の市民結婚場で晴れのゴール・インをする。滋賀婦人少年室協助院岡野キクさんの親身も及ばぬ援助が実ったもの。

二十八日夜は片町最後の日とあって、宵の口からなじみ客が殺到。思い出の長浜にサヨナラだと、お客とともに町に出る姿もった。」

参照:滋賀日日新聞、昭和33年2月24日・同3月1日



# by gionchoubu | 2018-07-05 16:09 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)