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by gionchoubu

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甲府、穴切遊廓

甲府、穴切遊廓_f0347663_14170129.jpg
                        当時の面影はありません。

『中近世 甲斐の社会と文化』の金子誠司「甲州柳町の飯盛女」によると、甲府の遊廓は甲州道中の宿場が宿の助成を理由として、新柳町に飯盛女が近世中期以後度々願いだされ、そのたび期限付きで許されましたが、明治三年に新柳(新柳町遊廓)に公認され、柳町の幾つかの旅籠屋も移りました。

『全国遊廓案内』昭和五年刊によるとその後明治四十年の大火で全焼、明治四十一年に代官山の仮営業所から穴切町に移転、穴切遊廓として誕生しました。

店は陰店で、娼妓は居稼ぎ、遊興は時間制で廻しは取りませんでした。費用は一等から四等まで区別があり、芸妓も呼べました。

一等店は一時間一円四十銭、二等店は一円三十銭、三等店が一円二十銭、四等店九十銭で共に台の物は含みません。

一等店は甲子楼一軒、二等店は大黒楼と八幡楼の二軒、三等店十六軒、四等店芸井楼と遊月楼二軒の合計二十一軒でした。

『公娼と私娼』昭和六年、内務省警保局によれば業者二十一軒に百五十九人の娼妓がいたので、これは一軒一軒の妓楼はかなり大きなものだったはずです。

『甲府市史通史編第三巻近代』によれば、貸座敷組合は業界不振を理由に昭和七年値下げを断行、上記一等店一円四十銭が一円二十銭に四等店九十銭が七十五銭になりました。

ちなみに、全国遊廓案内、公娼と私娼、甲府市の貸座敷数、制度、料金が整合性がとれており、この県において全国遊廓案内は正確であると言えます。

穴切新地にも芸妓がいたので、昭和四年『全国花街めぐり』松川二郎にも記述が有りました。

同誌によれば、東西七十五間、南北八十間に限られた方形の一区画で、大門を入ると緑樹の植込を中央に和風二階建て二十一軒の妓楼が軒を連ね相接し、緑樹の間に五十余個の電灯が燈り雅趣を沿え、大門の外に付属の小料理屋と芸妓屋が櫛灯していたとの事です。

ただ、全国遊廓案内と違い一等店は甲子(きのえ)と大国、二等店が八幡と京巴になっていました。

昭和二年、遊興制度は時代の趨勢に鑑み、それまでの酒食本位から、娼妓本位に移行、仕切制(昼・夜、午前・午後各六時をもって仕切る)、半仕切(仕切をさらに二分)

と時間制の併用で、時間制で三円、半仕切で五、六円といった所でした。

『甲府市史通算編第四巻現代』によれば、戦災で焼失した穴切遊廓は占領軍の公娼制度の廃止令に従って十三軒の業者は解散したものの、公娼地域から特殊飲食店、つまり赤線として存続しました。

昭和三十年、甲府警察署で穴切特飲街の二十五人の接客婦(平均年齢二十三才、未婚者二十名、既婚者五名)を招いた実施調査では、接客婦になった理由は貧困の為と答えたものが二十四人、ほぼ全員でした。

売り上げの取り分は業者六分、女性四分が二十一人、五分五分が四人という事でした。

『全国女性街ガイド』昭和三十年渡辺寛著では、戦前の穴切遊廓が焼けてから分散し、通人はこれを紫水晶と呼び、穴切町から仲町、錦町にかけ百軒、その数四百三十名。

さて、今回訪問した際、年配のタクシーの運転手の方の聞き取りによれば、穴切遊廓の跡のアパートには赤線時代からの侠客が住み、赤線終了後も大きな喧嘩とかあったそうです。又画像の辺りには昭和50年頃まで大門が遺っていたそうです。


by gionchoubu | 2022-04-10 14:17 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)