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アルサロの歴史
昭和二十五年八月十五日、大阪千日前に開店したのがアルサロ第一号「ユメノクニ」です。アルサロはアルバイトサロンの略、接客女性の素人っぽさを営業のウリにした業種で、女子学生、OL、主婦などを固定給で雇ったのが画角的でした。
当時、カフェーやキャバレーの世界で、従業婦に固定費を出すのはあり得ぬことで、オープンする時「女にゼニ(固定給)出す?お前アホか」と言われたそうです。
毎日新聞のみで「ビール娘募集」の広告を出すと、三十人の採用に対して、九百人の応募があったといいます。
この年十二月、池田蔵相の「貧乏人は麦を食え」発言でわかる様に終戦直後の貧困を引きずっているなか、女性の社会進出のハードルは高く、かといって素人女性が自分の意志で赤線・青線を選ぶ道もあったでしょうが、踏み込む勇気の無かった女性も多かったでしょう。ソフトのイメージに固定給のビール娘は随分魅力的に映ったのだと思います。
当時のアルサロの募集広告に「上品な純喫茶スタイル。お迷うならずデパートにお勤めになる気持ちで安心しておいでください。」というのがあり、この辺りの事情をよく著していると思います。
さて、お客である男性の気持ちをアルサロは如何につかんだのか?当時赤線、青線、街娼全盛の中、小泉信一氏は赤線を「疑似恋愛」のルーツと位置付けています。
江戸期の出会い茶屋、明治以前からいた、楊弓店の矢場女、大正以降のカフェーの女給、そしてアルサロ、今のキャバクラに至るまで、日本にあいてプロでない女性と遊ぶ伝統の一環と私は思います。
昭和二十八年には東京でアルサロ第一号「赤い靴」がオープン以後続々と開業しました。
昭和三十年『全国女性街ガイド』で渡辺寛はアルサロを大阪見物の一つでキャバレーの大衆化されたアルバイトサロン、御堂筋横の令女プールに三百名もおり、主に学生、店員、未亡人の内職で三十パセントは素人的、指名して夜食に誘い、交渉すれば三人に一人は確実との事でした。
このアルサロの最盛期が昭和三十三年頃、売春防止法で行き場を失った女性の一部が流れ込みました。しかしこの働き手のアルサロ人気は結果従業員のプロ化を推し進め、素人と疑似恋愛を楽しむという本来の魅力を失い衰退していったのだと思います。
昭和四十七年の大阪万博のあと、寮や託児所をそろえ、その日の給料はその日に渡すミニサロンの進出で、アルサロもヒルサロなどの
新機軸を打ち出しましたものの、昭和四十七年、千日前のビル火災で営業中のアルサロ「プレイタウン」で多くの犠牲者を出したことも、衰退を促した一因とされます。
現在十三に一軒残る「アルサロふうりゅう」是非応援したいものです。
参照:『裏昭和史探検』小泉信一:『アルサロ盛衰記』磯田敏夫
by gionchoubu
| 2021-10-02 15:02
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