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高知 玉水新地
明治になって高知市の旭村に玉水新地(上の新地)、下知(下の新地)に稲荷新地(明治元年)、五台山に吸江新地ができ、明治十年の芸娼妓数は併せて三百人で、他県からの出稼ぎが多く、下級士族の後家、孤女(こじょ)などが多かったといいます。
玉水新地は西のはずれで軍人の客が多く、稲荷新地は埋立地で浦戸港に接し、漁業関係の客が多かったといいます。
高知と言えば自由民権運動、玉水新地の玉江座、稲荷新地の広栄座では頻繁に懇親会が行われ、明治十四年には玉水新地の料亭得月楼で六回、稲荷新地の梅花楼、高知楼、此君亭香雲閣で六回、運動家の懇親会や演説が行われています。
こういう事情もあり、高知では芸妓社会と当時の民権家は単なる客以上の深い関係がありました。
この頃の高知県の遊娯場は料理茶屋、貸座敷、引手茶屋、待合茶屋
劇場茶屋、玉突、室内銃射撃場、諸見セ物に分類されたものの、貸座敷、引手茶屋、料理屋の分類は曖昧だったと言います。
『全国遊廓案内』昭和五年によると、制度は居稼ぎ、写真制で廻しは取らないとの事でした。
同年、内務省警保局『公娼と私娼』では玉水新地に業者二十七軒、娼妓二百十九人、下知新地(稲荷新地)に業者十二軒、娼妓百七人となります。
ちなみに、高知県には大正初めに、須崎町琴平新地、中村町岩崎新地、宿毛町宿毛新地が新たに貸座敷地域として追加公認されたものの『公娼と私娼』には宿毛新地に業者四、娼妓十三人がいるのみで、他の二新地は免許のみで、昭和以降、実質営業していなかった様です。
昭和に入ると徐々に不景気になり、得月楼や大貞楼などの料理屋からしだいに遠のき、昭和四年頃にはカフェーが百軒超え、女給は営業時間中でも、客と二人で出かけ、営業も午前二時、三時を超え、これを規制するため、昭和十二年県令十二号によって「料理屋飲食店芸妓置屋妓給仕婦取締規則」が交付され、バーは特種飲料店になりました。
昭和十二年土讃線全線開通頃が戦前の遊廓全盛時代で、同年七月に勃発した日華事変以降、娼妓・遊興客ともに漸減して行きます。
最盛期には澤山楼、扇亭、得月楼などの大店(おおみせ)には娼妓二十四、五人以上、小店で十人くらい、娼妓は一日平均四~五人の客をとったといいます。
昭和十九年三月五日、太平洋戦争も終盤を迎える頃、高知県では料理店二百二十六店、カフェー十二店、芸妓置屋八十五店、芸妓百三十人に休業を命じました。
戦後、赤線時代を迎え、昭和二十六年末に、高知市では中央、松淵、旭、下街の四地区と、弘岡町の一部や玉水町などで営業している者二百四十五人、売春婦二百六十四人を数えました。この数には街娼は含まれていません。
昭和二十九年六月には東部貸席協同組合に属する浦戸町、朝倉町、弘岡町、東唐人町などの表向きは飲食店で、実態は売春宿となっている店が四百軒にも上りました。
昭和三十年『全国女性街ガイド』渡辺寛によると、宿では女中さん、仲居さんが芸もし、宴会を切り盛りしてくれるので、チップと酒代
で、ねてもくれるが、酒は相当飲む、との事でした。
昭和初期の花柳界を描き、映画化もされた宮尾登美子作の陽暉楼は
明治三年、玉水新地鏡川畔に松岡寅八により創業、南海第一楼と唄われました。
明治十一年に現在の得月楼に名前を変え、明治中期に本店を稲荷新地に移し、玉水新地のお店は別館になりました。
得月楼は戦災で壊滅、現在の得月楼は旧得月楼中店のところに復興したものです。
参照(文中以外):『土佐史団233号』『高知市史上巻』『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 高知』『月刊土佐1984第十二号』和田書房
by gionchoubu
| 2021-09-17 14:19
| 亡くなった四国の游所
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