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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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豊田と足助の花街 後編

豊田と足助の花街 後編_f0347663_11345982.jpg

豊田の花街は、名古屋市の花街の踊りが西川流であったように、豊田の花街も西川流で、検番は神明町にあり、壁に赤と黒で芸子の名前を記した札が釘に下げられていて、お座敷に出た場合は赤にしておきました。

豊田の検番は二階建てで板付きの稽古場があり、踊り、三味線、鳴り物など、月に一週間、朝十時から昼までが稽古の時間でした。二列に並んで習い、上達すれば前の列になりました。

芸が出来ても、出来なくても花代は同じであるものの、昔の旦那衆は歌を習っており、芸が出来なければいいお座敷に呼ばれませんでした。

一人前の芸子に成るまでの期間を京都式に舞妓や東京式に半玉(はんぎょく)と呼びました。中京の花街の舞妓は「ふたついち」というシステムがあり、二人同時に店だしをすると、一人でお座敷に出ず、二人決まったペアで出ました。帯は文庫で長くたらしました。

ふたついちは中京花街の特色と思われていますが、幕末の祇園の名簿をみると、二つ一や二つ市が書かれていますので、元は京都のシステムが中京で残ったと私は見ています。

足助の場合、お客は県の事務所関係や市町村の連絡協議会、医師会や校長会、山の仕事をする人などで、お座敷が忙しかったのはお祭りの四月、十月、香嵐渓が色づく十一月は日曜日ごとには、演舞場で踊りました。

豊田でも戦後は十八歳からしか、お座敷に出られなくなり、舞妓、半玉の制度はなくなり、最初から芸子としてお座敷にでました。これは京都以外の、東京を含め、たぶん全ての花街も同じと思います。

京都はなぜOKかというと、これは法律の解釈の違い、としか言いようがありません。その理由はかつて私もブログで載せました。

昭和三十年代から四十年代にかけて、トヨタ自動車の景気の良い時期の豊田の料理屋は毎晩が宴会で、料理を運ぶのは、上女中・仲居で。間に合わなければ芸子もビールなどを取りにきて手伝いました。

この頃は豊田には芸子の数も100人を数えました。お座敷遊びは「トウハチ拳」「相場拳」「トラトラ」「金毘羅船船」など、「野球拳」はジャンケンで負けると一枚ずつ着物を脱ぐお遊び、ただ、芸子は小物を多く身に着けているので、絶対に負けませんでした。

昭和四十年代の豊田では、まだスナックの無い時代で、二次会に芸子を連れて行くのはバー、居酒屋、小料理屋で、豊田香桜連という組織の中に、料理屋組合と芸妓組合があり、料理屋組合に入っていなければ、芸子を連れていけませんでした。

又、部屋貸で、料理はよそからとる待合も別にあり、元は内密な会合などで利用された施設ですが、「連れ込み旅館のような所」と考えてよさそうです。

昭和五十年になると、芸子の数もだんだん少なくなり、平成になると芸妓組合も解散。置屋株も紙屑になりました。最後には芸子八人で和風コンパニオン派遣の「香桜連」を立ち上げたものの、いつしか無くなりました。」

芸子は「スナックに女の人が出るようになって廃れた」とされます。スナックの女性は芸をしないので、修行もいらないし、兄弟分に気を遣う事も必要ないという事でした。

新修豊田市史書にかれてないものの、もう一つの要因はカラオケの普及で、客に歌わす地方の三味線も必要なくなりました。

ライフスタイルの変化、娯楽の多用性など花街衰退の原因は幾つも挙げられます。しかし全国の花街が解散の憂き目をみた直接の原因は上記の二つに尽きると思います。

豊田の芸子さんに対して偏見も多かったらしく、確かに客と簡単に寝る枕芸者もいたが、そうでない多くの芸子は悔しい思いをしたといいます。町を歩いていても奥さんから声をかけられない、身内が結婚するときに困るの芸子をやめた、という人もいました。

所謂温泉芸者のように、限られたコミュニティとは違い、都市型花街で、一流ではない花街が被ったこういった風潮も、花街全般を見ていく上では必要かもしれません。

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by gionchoubu | 2021-02-08 11:37 | 亡くなった東海の花街 | Comments(0)