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by gionchoubu
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幕末の勤皇の志士と京都の花街 中編
一力の玄関は画像のようにもともと四条通にありましたが、明治になり四条通でのお茶屋営業が禁止になった際、一力は幕末での勤王方への功績大ということで玄関を花見小路に移すことで移転を免れました。
先斗町の対岸の縄手は元々蛍茶屋という遊廓で、夜になると何処か人が来て、灯がともされたので、蛍茶屋というわけです。
三条大橋東詰めの壇王寺の裏も壇王うらという游所、その北の今の二条ジャスコあたりが二条新地、京都四大遊廓の一つで、ここ妾に茶屋をさせていたのが、勤皇方に蛇蝎のように嫌われていた目明し文吉で土佐藩の人に絞殺され、三条大橋で死体を下半身むき出しのまま晒されました。
悪賢い文吉は巧みに姿を現さないので、勤王方も知恵を絞り、新しい妓の披露のお祝いなら茶屋に姿を現すだろうと読んだのが的中、二条で捉えられました。
幕末になると、各藩の壮士は「酔うては枕す美人の膝、覚めては握る天下の権」といった気炎を上げ、京都の遊廓・花街で遊びました。藩の運動資金を使える上部の藩士は祇園・嶋原の芸妓と遊び、軽輩は五番町や七条新地で娼妓を相手にしました。
当時、一力のご主人、杉浦治郎右衛門が国士という事もあり、祇園は勤皇側でした。勤皇芸妓、君尾は長州系の見世(今でいう置屋)島村屋の芸妓で井上聞多と逢瀬を楽しみ、幕末史の一章を飾りましたし、高杉晋作は井筒の小梨花(こりか)、山県狂助は小菊、小蘭、小美勇、大久保一蔵(利通)は一力の養女と将来を誓い、のち第二夫人になりました。
西郷吉之助(隆盛)は奈良富の虎という巨漢の仲居をたいそう気に入り、歌舞伎の演目にもなっています。
伊藤博文は当時まだ俊輔と言われた若輩で、晋作や聞多が祇園の魚品で遊んでいる間、土間か何かで従者として控えていました。
明治になって、伊藤博文は全国の名だたる花街で遊び倒すわけですが、この魚品での忸怩たる思いが過ったのでしょうか、後に祇園で「祇園の芸妓は山家育ちばかりか」と言って君尾を当惑させたりしました。
一方佐幕側はどうでしょうか、池田屋事件の前、新選組隊士が島村屋、井筒など三軒の祇園のお茶屋に寄ってから向かったりとか、チラホラ話もありますが、圧倒的に勤皇方の話が多いのは一つは、疑似武士が中心の新選組とは違い、理想に燃え、教養もあり、所謂育ちがよい武士が、単純にもてたというのもあるでしょうが、明田鉄男さんが著書で、長州藩は京都人の評判をとる為に、思いっきり軍資金を京都に注いだと書いています。
花街の人たちは、理想だけで、男に靡くわけがないという事でしょう。
京都でも祇園周辺は特に遊所が多く、鴨川の東側で言うと北から、上記の二条新地、頂妙寺新地、檀王裏、縄手、東石垣(とうせき)、そして宮川町が一丁目から七丁目まで続きました。西側は丸太町の上の(東)三本木、上木屋町、先斗町、西石垣、五条橋下(五条楽園)、米の集積地であった六条新地だけ飛ばし、七条新地と両ラインとも游所でした。
ご丁寧なことに、五条河原や三条河原は惣嫁(そうか)という最下層の遊女がおり、河原の石を組み場所を整え売春をし、朝になれば
その石を崩しどこかに消え、夜になれば又現れました。惣嫁は関西で使われた言葉で、江戸で言う夜鷹です。
by gionchoubu
| 2021-02-05 14:22
| 京都の花街・遊廓
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