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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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幕末の勤皇の志士と京都の花街 前編

幕末の勤皇の志士と京都の花街 前編_f0347663_18353596.jpg

幕末の勤皇方、佐幕側と京都の花街の関わりを見てみると、映画でも、小説でもなんでも、まず思い浮かべるのは三本木の芸妓幾松と桂小五郎のロマンスでしょう。


100冊この関係の本を読むと100冊とも芸妓幾松・・・と書かれていますが、実は芸妓幾松は存在していませんでした。何を馬鹿なことを、という声が聞こえますが、三本木は遊廓でなく、いわば町芸者の集団で、正確にいうと幾松は芸妓でなく、酌婦さんだったのですね。


廓芸妓は何かとしばりが多く、自分勝手な行動はとれません。そこえいくと比較的自由な酌婦だからこそ幾松は機動的な動きができたと考えることも出来るのです。


さらに幾松の母親も幾松の名で三本木に出ていましたので、話の幾松は二代目になります。幾松は小浜藩の娘、藩士の娘でしたので、肝も据わっており、小五郎もそういう所に惚れたのでしょう。


あまり話には出てきませんが、近藤勇は三本木の駒野と親しくなり、後藤像次郎も“いろ”という妓に通い詰めたといわれています。


ちなみに四条通、南座近くに幾岡屋さんという舞妓さんの小物などを扱っている店がありますが、これは明治の初めに創業者が幾松の幾をもらって付けました。


三本木は東三本木とも言い、丸太町、鴨川すぐ西の通りで、今でも頼山陽の山紫水明荘があり、その北側にあった吉田屋のあとが清輝楼になり、そのあと明治三十三年に中川小十郎がその二階で京都法学校を立上げました。


先斗町は江戸期、現在の四条通りが拡張前は縄手通りほどの道幅で、今の斎藤町も先斗町でした。ちもとさん当たりが花街っぽいのはその為で、その南は五条新地までやはり西石垣(さいせき)という遊廓でした。


先斗町は、三条側から一番、二番と数えますが、以前は南から数え、両側の露地の数が五十四あり、これは長州藩が待ち合わせなど、新選組などを晦す目的で、便宜上一番、二番と呼んだと言われています。


先斗町は土佐藩邸も長州藩邸にも近く、船運の高瀬川の舟入、三条は東海道五十三次の終点でもあり、大阪までの五十七次の中継点でもあり、宿屋や材木商で随分人通りが多く、先斗町、中木屋町は幕末には勤皇方の拠点であったはず。池田屋も言わば自分たちの庭みたいな感覚だったのかもしれません。



先斗町ももとは綿帽子という、長逗留の商人の、一種の宿場女郎から花街に転じた所ですが、京都の花街の中では公許になったのが、安政時代と一番遅く、これはその土地の利便性が過ぎたため、風俗取り締まりの為と私は考えています。


明治五年には鴨川踊りを催しているので、幕末には芸妓中心の花街になっていたはずです。

その時代、後藤象二郎は先斗町の小仲と親しみ、後に正妻に迎え、「京の三条のすし屋の娘 今じゃ参議の御台様」とうたわれました。


ちなみに鴨川踊りは明治の途中まで、今の新京極を少し四条から上がった「うすさまの厨子」というところで催されました。


by gionchoubu | 2021-02-04 12:23 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)