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by gionchoubu

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声色遣い_f0347663_10153628.jpg
       祇園 白川

博望子の『洛陽勝覧』(1737)に役者物真似の部に大津屋平五郎や、大津屋平助などの名が見えますので、座敷の座興に物真似の芸で客を沸かせていたのだと思います。

祗園には大津屋とか鳥羽屋と言う幇間の見世があり、馬琴によれば、幇間は無芸大食、無用の長物と手厳しく扱っていました。

大正三年刊『東京の表裏八百八卦』杉韻居士によると、何時から声色遣いがいたか分からないとしながらも、風来山人(平賀源内、1728~1780)が「我が飯を食って人の声色を遣り」という詞を残しているので、その時代には流行していたのではないか、と推察しています。

昔劇場には木戸芸人と言うのがおり、大名題、小名題の役割で役者の声色をやり、客を呼んだのが声色使いの濫觴としています。

明治十七、八年頃には東京だけで声色遣いが七、八十人おりましたが、大正になると不景気もあり下火になり、東京と横浜併せても僅か二十四、五人になったと書かれています。

声色使いは専業とするのでは無く、昼は別の職業についていました。実際の稽古は先輩に便宜を図ってもらい、裏木戸から入れてもらい、適当な場所で見物し俳優の癖をとりました。

平素は矢場、銘酒屋、待合、料理屋、株式、米商、魚市場などで、正月や残暑の頃が収入の多い時でした。

声色するのにも縄張りがあり、他の縄張りでの仕事はご法度でした。

彼らは、自分の縄張りの得意を『穴』料理屋を『ヤチャ』祭礼を『ツリメ』銭遣い良きを『ハクイ』銭遣いの悪いのを『スッパイ』先方から断わられるのを『電話』などの通り言葉を遣いました。

『電話』は話中で駄目という意味でした。

声色を落語でやる事も昔からあり、或る説では江戸中期の立川焉馬が創意とし、三代目のしん生も声色で真打になったと云われており、昔は軒先に立って声色を遣っていたので『ボラ岩と』というあだ名が有りました。



by gionchoubu | 2020-03-13 10:16 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)