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by gionchoubu
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福原遊郭 ラシャメン

慶応三年頃、開港を目当てに多くの外国人が神戸に上陸し、今の元町四丁目で料理屋を営んでいた専崎弥五平という男に女性の斡旋を申し込んだが応じる女はいませんでした。
専崎の出入りに、佐野常助という顔役が七人おちゃらを抱えており、専崎はこの常助にその報酬として、高額の金額を提示したので、自分のおちゃらに持ち掛けたが誰も応じないので、破格の提案、すなわち年期の三年を半分にすると言うとようやく一人のおちゃらが首を縦に振りました。
その西洋人の敵娼を済ませた女が西洋人は大変親切だ、勤めが楽で先方が機嫌を取ってくれたというので、他の六人も年季が半分で仕事が楽という事でぞくぞくと異人を相手にしたので常助はたちまち成金になりました。
明治元年、当時県令であった伊藤博文の友人で遠藤金蔵という男が佐野常助に相談して、十人の連署を得て福原遊廓開設の出願をしました。福原は、その昔、福原遷都の故事に因んで選んだ名です。
そして明治元年、東川崎町、今のJR神戸駅の構内に、専崎を町年寄りに一廓を構えました。
明治元年に発行された『もしほ草』の第二十三編に
「福原町ととなへ、四方に柵矢来を設け、牢屋敷の如し、大門は北向き、右廓内には長屋ていのあやしき家三四棟普請成就いたし、売色は大阪兵庫より、夜鷹、ひっぱりともおぼしき醜婦のみあつまり、その数凡そ百人ばかり、見る目もおそろしきほどの顔色居並び候、しかし斯る醜婦ばかりよくもよくもあつめしものと、皆あやしみ申候」
客も水夫、火焚、黒奴、支那人、日雇い人足などで、一夜の揚代は日本人は金一分、西洋人なら二分で、西洋人相手の遊女はラシャメンと呼ばれました。
福原遊廓は営業開始より枕切れに次ぐ枕切れの大繁盛、明治二年になると、大店、中店併せて二十軒あまり、遊女の総数も二百七、八十名に増え、大店では大宝楼、中店では兵庫屋が代表格でした。その他支那人の引手茶屋の役目をもった南京茶屋もありました。
以前専崎の家に寄食をしていた藤田泰蔵が吉原の廓内事情に詳しかったので、廓風は全て江戸の吉原に倣い、大門の傍らに会所を設け、廓内は車馬の通行を禁じ、夜警は消防人足が印半纏の勇ましい姿、金棒を引いて徹夜で非常を警しめました。
福原には検番もあり芸妓も三十余名おり、風紀の取締りは厳格で、色を売ることは厳禁、お座敷の遊興を扶け、客を陽気にもてなすことのみに勤めたので、柳原芸妓と研を競いました。
参照:福原遊廓沿革誌
